一番の悩み
|
黒羽快斗の朝はそこそこ早い。
早起きは三文の得などという諺を真摯に受け止めて雀が囀りだすと同時に起きるなんて事は無いが、まるで一昔前の漫画のようにパンを銜えて家を飛び出て学校にマラソンするという事もない。
「・・・・・・ねむ」
あふと欠伸を噛み殺し、寝癖の着いた髪の毛を右手で一撫でする。
自室なので誰に遠慮する事も無くパジャマの裾を捲り脇腹の辺りの筋肉を確認して残念そうな顔をする。
「もうちっと、この辺、筋肉付かねーかなー」
必要以上の筋肉は身体の動きを重くすると思っている快斗の理想とする身体は、例えるならば豹のようなしなやかな筋肉がバランス良く配置されるモノだ。
全然関係ないが、その際に思い浮かべるのは決まって黒豹である。
大分頭も覚醒して来ると、ベッドから抜き出してパジャマを脱ぎ捨てて学生服のズボンとシャツを身に付ける。
胃腸は今日も問題なく元気なようで、ぐぅぐぅと空腹を訴え始めて、快斗の足を台所へと向かわせた。
階段を降りる足音は軽快にテンポ良く。
炊き立てのご飯の匂いと味噌汁の匂いに混じって、玉子焼きと油揚げを焼いた香ばしい匂い。
「はよー、今日のメ・・・・・・」
寛ぎの場所である我が家にまでポーカーフェイスを持ち込むつもりはない快斗は、家の中では表情豊かだ。
今も驚きに目を見開いて、唇は言葉を言い掛けたまま半開きになっている。
そんな快斗を見詰める黒い大きな一対の瞳。
無言なのは口の中に入れたご飯を租借している最中だからだ。
「・・・・・・何故、居る?」
「快斗迎えに来たから。ついでにご飯も頂いているよ。」
青子は何でもない事のように答え、目の前の皿から黄金色にふっくらと焼き上がった玉子焼きを摘み上げてぱくりと口に入れた。
幸せそうに頬を膨らませて食べる。
その一部始終を見詰めて、快斗はくらくらとしだした頭を抱えて席に着いた。
「この場合、オメーが居る理由は問題じゃなかった・・・・・・」
何も言わなくても快斗用に白飯が盛られ、熱い味噌汁が汁椀に注がれて出てきた。
頂きますと言うのは、母親と幼馴染に徹底的に叩き込まれたからだ。
「じゃあ何が問題なの?ちなみに青子が今日居るのは、日直当番の快斗がサボらないように念の為家まで迎えに来たからだよ。しかもお父さんが今日すっごく朝早くて、ご飯要らないって言われちゃったから、おばさんにお願いして久しぶりに黒羽家のお袋の味に御相伴させてもらったの。」
青子は良く喋る。
頼まなくても快斗が知りたいと思う事は大抵自らまるで音楽が流れるみたいにすらすら喋る。
心地良い耳触りの少女特有の高めの声は、快斗が密かに気に入っているモノで、全然邪魔になんて思わない。
余談ながら、快斗の『お気に入り』は青子関係のモノで埋め尽くされている。
快斗は青子の質問に眉根を寄せて、顔の真ん中に日本海溝のように深い皺を作った。
茶碗からご飯の塊を口に運び、玉子焼きを連続で二切れ放り込み、味噌汁の具を掬う。
そこまでやってから快斗は喋る為に口を開いた。
「オメー、何時から居た?」
「ん?今から20分前くらいから居たよ。」
「まさかこっそり勝手口から入って来てねーよな?」
「入る訳ないじゃないの、馬鹿な事朝から言わないで頂戴。快斗お代わりは?」
「要る。」
横から口を挟んだ母親に空の茶碗を差し出して、快斗は唸る。
「静かに飯食ってたとか?」
「快斗の学校での悪行の数々最新版をおばさんに報告しながら食べてたけど。」
「・・・・・・なんでだ?」
呟いた台詞は青子に聞かせる為のものじゃなかった。
「何故、気付けない?」
「何に?」
「話の流れからいって、オメーが居る事に決まってるだろ、バーロー。」
「快斗が鈍いだけじゃないの?」
無邪気な青子の一撃はクリティカルヒットで、黒羽快斗と怪盗キッド二人を一気にヒットポイント零にまで突き落とした。
その痛みに耐えながら、快斗はコップになみなみ注がれていた麦茶を一気に飲み干す。
「鈍いなどと・・・・・・オメーにだけは!言われたくない!」
「ひどーい!」
出された一人前の朝食を全て食べ終え、箸を置いた青子が、頬を膨らませて快斗に抗議したが、当然快斗は取り合わなかった。
未だに快斗の青子に対する幼馴染以上の気持ちを気付かないくせに、人の事を『鈍い』などと評するのは十年早いというものである。
それにしても、と快斗はこめかみのあたりを親指で強く揉みながら考える。
青子が家に居た気配を露程も感じ取れないというのは、どういう事だ?
一番近しい母親の、起き出す気配や動き回る気配は、寝ている時でさえ意識の奥底では感知しているというのに。
青子だけは、どうして意識のセンサーに引っ掛からない?
横目で幼馴染を窺うと、彼女はのんびりと快斗の母親から差し出された林檎を齧っていた。
しゃりしゃりと音が立つのが面白いのか、小さく齧ってはもぐもぐと咀嚼する。
「まるでウサギだな。」
「ウサギ、可愛いよね。」
にこっと笑うと、黒目がちな瞳がますますうさぎに似ていて、快斗は目を細めて眺めた。
会話が飛んだ事などまったく意に介していない様子で青子はにこにこ笑う。
「オメー、俺に対して、こう何か、後ろ暗い所でもあんじゃねーの?だから無意識に俺に気配を悟られないようにしてるとか。」
「快斗の中で青子は一体どんな人種に設定されてるのよ。青子は忍者じゃないんだし、ましてや後ろ暗い所なんてないもん。あるのは快斗でしょ〜?!」
「俺だってねーよ。・・・・・・あ、でも先週青子のジャージに蛇のおもちゃ入れたのは俺だ。」
「何ですって〜!!」
けたたましく椅子を鳴らして立ち上がると、青子は青子に遅れる事数分で食事を終えた快斗に向かって鞄を振り上げた。
ばしっと小気味良い音を立てて鞄を真剣白刃取りの要領で防いだ快斗が、あっという間に部屋から逃げ出す。
青子は深追いする事なく、どすんっと勢い良く椅子に腰掛けなおした。
「青子ちゃん、ごめんね。うちのバカ息子が迷惑かけて。」
「いつもの事ですから。」
「でもあの子、青子ちゃんが家に居る事に気が付かなかったの、相当ショックみたいね。」
天井の辺りを見上げて快斗の母親は面白そうに微笑む。
裏の顔を持つ快斗にとって、人の気配を読むというのは既に名人級のレベルに達している特技だった筈なのだ。
それがこうもあっさり引っ繰り返されると面白くないのだろうと、母親は考える。
「でも青子だってお父さんが夜中に帰って来た時気付かないでそのまま寝てる事あるし。普通じゃないのかなぁ、それって。」
「そうね、『普通』の事ね。でも快斗はそれじゃ嫌なんでしょ、きっと。」
気付けない気配の主が青子ちゃんなら尚更ね。
そう意味深に言い置くと、快斗の母親は食器を片付ける為に台所へと消えて行った。
残された青子はう〜んと首を捻る。
「快斗が青子に気付かないのって、単に慣れてるからじゃないのかなぁ。青子と快斗、随分長く一緒に居るし。当たり前に傍に居るし。」
青子は試しに想像してみる。
居間で快斗が新聞を読んでいて、青子は台所に居て夕食の用意をしている。
喉が渇いた快斗が、冷蔵庫のコーラを取りに台所に入って来る。
「・・・・・・うん。気付かないかも。」
あんまりにも自然で。
空気みたいに居る事が当たり前だから。
「それできっと、快斗に冷たいコーラの缶、首に押し付けられるんだ。」
そこまできっちりと想像して、青子はなんだか首が冷たいような気がして指先でその部分を擦った。
「別に気にする事ないのにな〜。変な快斗。」
一番知りたいと思う幼馴染の気配が感じ取れなかっただなんて。
それが黒羽快斗の、現在の一番の悩みになった。
2010/02/04 UP
End
back
|
|