貴方と私の約束事 -1-
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「……」
非常に気まずい沈黙が二人の間に流れ、誤魔化すみたいに新一が後ろ頭を掻けば、蘭はちろりと睨みを利かせる。
一緒に見に行く筈だった映画の前売り券の一枚を、誰に渡したのか気になるけれど、さすがに能天気には聞けはしない。
もしも男の名前が挙がったならば、新一の心は瞬く間に曇天となるだろうが、嫉妬するのは許されてもソレを表に出して蘭に不愉快な思いをさせる権利は新一にはない。
ぐっと自重しなければならない。
玄関のドアの鍵を開けた所で蘭に出迎えられたモノだから、コートも着たままだし、手袋マフラーだって外してない。
何となく勝手な行動がし難くて上目遣いに蘭を見やった。
「はい」
そうすると、差し出されたのは彼女の上を向いた手の平で、新一は嬉しくなって笑顔を溢した。
照れ臭そうにマフラーを外して蘭の手に渡したのは、自らの姿を新婚ほやほやの旦那の姿に重ねたからに他ならない。
そんな事を知る由もない蘭はマフラーを慣れた手付きで畳み、コートにも手を伸ばした。
新一が軽く畳んで手渡したコートを、空気に泳がせるようにパンッと広げ、玄関脇に置いてあったブラシで、手早くブラッシングした。
上質なカシミヤコートの正しい手入れ方法で、知ってはいても面倒だからという誰しもが一度は思う理由で実践した事はない新一は、ほぅと感心したように見入っていた。
「寒いんだから、早く入ったら」
何気無い言葉に潜んだ罠に新一はちゃんと気付いた。
何時だったか、頭の使い過ぎでぼんやりしていた時に引っ掛かってしまった時は、痛い目に遭った。
勿論忘れられない悲しくも切ない思い出だ。
蘭には溜まっていた疲労が、言い訳として通用しないのだと、思い知った一件。
だから、新一はまず、猫背気味だった背筋をしゃんと伸ばした。
真っ直ぐに蘭の顔を見る。
英理に似た可愛いと言うより綺麗な花のかんばせ。
たまには見上げる角度も悪くないとこっそり考えた。
「入らないの?」
「入る前にオメーに言う事がある」
「なぁに?」
「ただいま」
柔らかく低い声を響かせれば、蘭が良く出来ましたと微笑んだ。
包み込むように伸ばされた両腕に肩を抱かれる。
室内の暖かな空気と、彼女自身の甘い香り。
「お帰り」
背を抱き返そうとしたら、猫が閉まり掛けのドアから出て行くみたいなテクニックで逃げられた。
『「ただいま」と「お帰り」を必ず言う』
2009/01/26 UP
End
貴方と私の約束事 -2-
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新一の笑顔には、大きく分けて二つある。
営業用とプライベート用。
今私に向けられている笑顔は、乱暴に分類すれば営業用だった。
知らずチュニックの裾を手の平の中でクシャリと握り潰してしまったのは、何と無く面白くなかったから。
「らーん?オレの機嫌を直してくんねーの?」
甘えた声はきっとおじ様とおば様だって久しく聞いてないと思う。
新一ははっきりと口に出した事は無いけど、絶対私向けの最終兵器の一つとして有効活用してると思う。
そこまで分かってるのに抵抗し切れない自分が不甲斐ないのは、この際置いておく。
今一番問題なのは、『私の機嫌』を直すのではなく、『新一の機嫌』を直すんだと言う事。
「私の方が機嫌悪いのに」
唇を尖らせて、ついでに尖った声で抗議すれば、わざとらしく小首を傾げる新一。
本人は少しばかり可愛いイメージを狙ったのかもしれないけど、コナン君から戻った後順調過ぎる位育った身体ではミスマッチもいい所だ。
「ふーん。蘭、機嫌悪くなったのか。さっきのアレを見て」
「……何よ、悪い?」
「可愛いなぁ、って思っただけ」
日本語間違ってるし!
こういうのは普通可愛くないって表現するのよ馬鹿!
喉元迄出掛かった言葉をぐっと飲み込んだら、噎せてしまいそうになった。
一時よりも大分マシになったけど、私は酷い焼き餅やきな上、いまいち素直じゃない。
だからソコでそういう態度は不味いって分かってるのにツンケンしてしまう。
失敗談だけなら、売る程あるのだ。
新一が呼び出された事件現場に、有無を言わさず連れていかれたのはしょうがないと納得した。
でも、自分が犯人じゃないと主張する容疑者の若い女性が、有利な立場を得ようと新一にしなだれ掛かって媚を売るのを見て、平然となんかして居られない!
「蘭、ソッポ向いてないで、こっち見ろよ」
「……」
「見て下さいって頼めば良い?」
声量が下がった。
扱い難さが上がった事を知り、仕方無く視線を新一に戻した。
これ以上焦らすと、大変そうだなぁと考え始めている自分。
折れるまでのカウントダウンは、唐突に聞こえ始める。
「半分以上機嫌直ってるくせに」
「そう見えるだけ。蘭がオレの機嫌直してくれないと、推理に支障をきたすかも」
「嘘ばっかり!第一、美人に抱き付かれて、しかも頬っぺにチュとかって、機嫌悪くなる処か良くなる筈でしょ!」
一般論で攻撃すれば、新一は最強の盾でもってソレを防いだ。
「蘭の所のおっちゃんだったらそうかもしれねーけど。オレは不愉快」
「……うちのお父さん引き合いに出すのは止めて」
「そりゃ失礼。判り易い例かと思って」
新一は扉を気にする素振りを見せた。
ちょっと待っててくれたまえと言って出て行った、目暮警部達がそろそろ戻って来ても良い頃だから。
密室に二人きりの時間も、何時お仕舞いになるとも知れない。
「なぁ。見ず知らずの女に抱き付かれて、あまつさえ頬に口紅付けられたオレを可哀想だと思うだろ?恋人なら、慰めてくれるよな?」
今度は泣き落としなのかしら?
小さな溜め息に気付いた新一がニィと笑って両腕を広げた。
拒む事は出来なくて、ぶつかるように抱き付いて、背中に手を回して胸を押し付けて潰す位の強さで抱き締めて、仕上げとばかりに口紅の付いていない方の頬に濡れた音を落とした。
あぁ、恥ずかしい。
『ハグは出来る限り拒まない』
2009/02/25 UP
End
貴方と私の約束事 -3-
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嫌そうな顔をしてるのが自分でも分かった。
キッチンからは肉の焼ける良い匂いが漂っていて、普通なら無条件降伏してお行儀良くニコニコして食卓の前で待ってるもんなのに。
蘭の鼻歌が聞こえてきて、あぁ御機嫌なんだなと分かる。
音痴なのに絶対音感持ちというオレは、メロディラインを追って、その曲が有名バンドの桜の曲だと答えを見付けた。
少し切ない歌詞に透き通るような女性ボーカル。
オレも好きな曲だ。
未だ春は遠くて、雪さえ降りそうな寒い日が続いているけど、聞いていると柔らかな春風を頬に感じた気がした。
勿論錯覚だと分かってる。
「新一、電話未だ?」
ひょいと蘭の顔だけがドアの影から覗く。
邪魔だからだろう、長い黒髪は右サイドできっちり結わかれている。
オレは机の上に置いておいた携帯を念の為確認した。
通話着信もメールも、どちらも無い。
「来てねーけど」
「そっかぁ。遅れてるのかなぁ」
一言残して蘭が引っ込み、今度は何かを泡立てるカシャカシャという賑やかな音が聞こえ始めた。
きっとケーキでも焼くつもりに違いない。
客人の半分は女性で、女性は甘いモノが大好きで、お喋りとセットになると別腹が発動し易いのは、統計からも証明されている。
オレだってケーキは好きだ。
特に蘭が作る焼き菓子系はオレの中で別格で、ある程度の労力までなら、ソレを腹に納める為に費やすし、恥や外聞も捨て去る事を厭わない。
人はコレをノロケだと表したが、蘭の作るモノを実際食べてみてからジャッジしろってんだ。
「なぁ、何かオレも手伝うか?」
手持ち無沙汰に居心地が悪くなって、声を張り上げて問えば、蘭の笑い声が返ってきた。
「掃除やってくれただけで充分!」
「そうか……」
「それより新一、遠路遥々二人が来てくれるんだから、嫌そうな声出しちゃ駄目よ」
「遠山さんだけなら、大歓げ……」
「またそういう意地悪言う!」
間髪入れずびしっとたしなめられた。
オレとしてはもう条件反射みたいな文句と態度で深い意味はないが、確かに他人に誤解されそうな態度ではある。
まして今回は別の二人も便乗して来訪予定だし。
……よし、今回は奴が気持ち悪がる位のにこやかさで迎え入れてやろうじゃないか。
それもまた嫌がらせの一環だと、指摘する奴が居なかったのは幸いだった。
「大丈夫だ。オレは心を今入れ替えた。服部だって、遠山さんと同じように快く迎え入れて、至れり尽せりのサービスを受けさせてやるよ。勿論、快斗と青子ちゃんにもな」
宣言すると、蘭がまた顔を覗かせた。
安心したような表情で満足げに頷いている。
タイミング良く、携帯が服部からの連絡が来た事を知らせる着信音を鳴り響かせる。
オレは、気味悪い程の営業用ボイスで第一声を発し、服部を存分に気味悪がらせた。
『互いの友人は大事にする』
2009/04/08 UP
End
貴方と私の約束事 -4-
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自分の性格は十数年付き合ってきて、そこそこ理解している。
知らないままの方が幸せな触れずにそっとしておいた方が良いモノに、蓋をしたままで居られないのが、玉に傷な所とか。
ちらりと視線を向けたら、まるで最初からスケジュールで決まっていたみたいなジャストタイミングで、新一も此方を向いた。
伸びた前髪が邪魔に思える、深い藍色にも見える綺麗な双眸。
嘘を許さない強さが心地好いのは、磨きが掛かった眉目秀麗さのせいだ。
ほら、難しい専門書を読む振りをして新一に見惚れる人が簡単に見付かるし。
「何か言いたそうだな」
「別に〜?」
語尾をからかうように上げて、ツーンと視線を脇に逸らせば、子供が母親の興味を引きたいが故にやるみたいに、私の長い髪が引っ張られた。
加減してるから痛くはないけど、無視出来ない強さ。
渋々顔を向けると、新一の視線は私の視線を上手に絡め取った。
見えない鎖のよう。
新一はこういうのが、癪に障る程上手くて、困る。
何処で身に付けたんだか……
「コレが気になるんだよなー?蘭ちゃんは」
「これ見よがしに新一が机の上に置くからでしょ」
図書館に不似合いなサーモンピンクの和紙でラッピングされた箱。
午後の授業を警視庁からの呼び出しで欠席した新一が、帰って来た時には既に持っていたモノ。
まさか、佐藤刑事からのプレゼントなんて、言わないよね?
新一の雰囲気から、本能の真ん中に有る赤いランプがピコーン、ピコーンと点滅してる。
つまり、聞いちゃ駄目な類いのエピソードがくっついているに違いない。
「気になるって言っても、新一があの大量の課題を今日中に終わらせられるかって事に比べたら、あんまり気にならないなー」
素っ気無い態度は上手く出来たかな、と伺ったら、ニヤニヤ新一がこっちを見ていて微妙な気持ちになった。
くるりと指の上でシンプルなシルバーのシャーペンを回すと、新一はソレをさっさと筆入れに仕舞った。
「バーロ。こんなのもう終わってるぜ」
「嘘!」
「蘭はオレを見くびってんだよ」
得意気に解き終わったプリントを鞄に仕舞い込み、私と新一の間に問題の箱を置いた。
拳サイズで、軽そう。
「遠慮しないで聞けよ」
「遠慮するわよ。どーせ、とんでもない話でしょ?」
うろんげな目付きで睨むと、悪戯小僧時代の表情を浮かべた新一。
「聞きたいだろ?」
沈黙は私の好奇心を擽って、我慢が利かないようにする。
結局、私は新一の思う壺になるんだ。
「……聞いてあげても良いけど」
「今日なー。容疑者の一人に会社経営してる人が居てさ」
新一は嬉々として話し始めた。
黙って耳を傾けるしかない私は、話のオチを穏やかな気持ちで受け入れられるように準備する。
これが無駄になるなら万々歳。
「社長さんに不利な状況が揃ってて、オレが到着した時には、あからさまに犯人扱いされてたんだけど、ま、オレの手に掛かれば真犯人の卑劣なトリックなんて子供の遊びみたいなモンだろ。あっさり事件が解決したら、社長さんが感動してくれちゃってさ」
「それは良かったわね。つまり、此れは社長さんの新一への感謝の印なのね」
「当たり。帰り掛けに捕まって、何かお礼がしたいなんて言われて、一応断ったンだけど」
「押し切られたのね」
「タダみたいな物だから遠慮しないで良いって言うから」
新一はニヤリとしか形容出来ない笑顔で、その箱を私の手の中に押し込んだ。
嫌がる暇もない、鮮やかで巧みなテクニック!
嫌な予感が、眉間に皺を作った。
「彼女は居るかって聞かれたか、可愛くて強くてゾッコンな彼女が一人って答えたら…」
「何馬鹿な事言ってんのよ!変な形容詞付けないで普通に答えなさい!」
「キミお盛んそうだし、若い時は幾つあっても足りないだろって言うから、そうですねって正直に答えておいた」
「……何の話?」
新一の人差し指が、可愛らしい色をした私の手の中の箱を指した。
「社長さんの経営してる会社、ゴムの製造・輸入会社。だから、箱にぎっしり超薄の高級品のゴム詰めてくれたんだ」
「……は?」
「当分困らないなー。折角のご厚意だし?蘭、早速使ってみよっか」
じりじりと距離が狭められていて、迂闊にも気が付いた時には追い詰められてる!?
新一相手に油断しちゃ駄目だったっ!私の馬鹿馬鹿!
「馬鹿ー!!何正直に話しちゃってるのよ?!そこはお行儀良く躱しなさいよっっ!」
腹立ち紛れに怒鳴り付けたら、新一がすぅっと真面目な表情を浮かべて、真面目くさった声を出した。
「嘘は良くないだろ、嘘は」
今はそんな建前要らないっ!
捲り上げられそうなスカートでまずは攻防しながら、私は心の中で絶叫した。
『嘘は吐かない』
2009/07/05 UP
End
貴方と私の約束事 -5-
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今日は久々に若者らしいデートでもするかと、蘭にプランを持ち掛けたら、二つ返事で了解を貰った。
季節はちょっと早いけど、新宿御苑で梅を愛でて、それから互いの洋服を見立てて、最後に知る人ぞ知るカジュアルレストランでディナーを。
実は空白に見える部分にオレだけに見える次の予定も書き込まれているんだが、蘭は気付いてはいない模様。
よしよし、それで問題ない。
寒いだろうから温かくして来いと言って、昨日家の前で別れたのに、待ち合わせ場所に現れた蘭の格好と言ったら!
ワンピースは太股半ばまでのミニだし、ダウンコートこそ着てるものの、着膨れ感がないから、中はきっと薄着に違いない。
「らーん。幾ら何でもそりゃ寒いだろ?」
手袋もしてない白過ぎる指先を自然な動作で捕まえて、オレのコートのポケットにご招待する。
人目が有る所でイチャイチャするのが好きではない蘭の抵抗は予想済みだったが、思っていたほど激しくは無かった。
やっぱり寒いからか?
「新一、手袋ちゃんともってるから離して」
「持ってるならしろよ。指先氷みたいになってっぞ」
指一本一本を絡ませて体温を与えるように擦り合わせると、耳を赤くして口をつぐむ。
あー、可愛いなぁ……耳とか食っちまいたい。
不埒な事を考えながらも、表情にはおくびも出さない。
もし蘭が超能力を持っていて、うっかりオレが何を考えてるのかと興味を持って思考を読んだら、多分全力で逃げるだろう。
想像力が逞しいと蘭は自分で思っているようだが、オレに言わせれば大した事はない。
蘭の想像はまるで具体性がなく、綺麗な絵空事だけで完結してるからだ。
もうちょっと大人になろうぜ、蘭。
二人で並んで歩きながら、賑やかな通りをすいすい泳ぐ。
同じ方向に向かう家族連れはきっと、目的地も一緒だろう。
ふと、視線に気付いて斜め後ろを振り向けば慌てて真横に視線をずらした二人組の若い男。
「あー……」
成る程、蘭の後ろ姿と横顔に見とれてた訳ね。
「新一、どうしたの」
「何でもねーし」
身長差が顕著になって見下ろす角度も様になってきた。
盗み見る蘭は、黒髪の手入れもばっちりで、冬はとかく乾燥がちな肌も瑞々しい。
コートからちらりと見え隠れしてるワンピースは鮮やかな小豆色だ。
タイツは大胆なダイヤ柄でカラフルだし、ブーツはピッタリフィットで細い紐が回っていてお洒落だ。
一回天を仰ぐ。
うん、快晴だ。
「オレの為に可愛くしてきたのな、蘭は?」
「べ、別に新一の為じゃないし!」
「見た事ないワンピに、ブーツだけど」
「冬のファイナルセールで安かったんだもん」
「似合ってて可愛い」
近付いた耳に優しく囁いてやると、ビクンっと大きく蘭が体を揺らした。
手が自由にならないから、オレの顔を押し退ける事も出来ないし、せめてもの行動なのか軽く睨んできた。
赤い顔でそんな目をしても、可愛さが増すだけで脅威では無い。
「ウエスト細ぇなぁ。オメー痩せた?」
「……多分ワンピースのせいでそう見えるだけよ」
恥ずかしそうに俯いた蘭の耳に、我慢が利かないオレの口付けが一つ落ちる。
背後で息を飲む気配。
此れはオレの彼女だから、きっちり諦めてくれよな?
『素直に誉める』
2009/09/10 UP
End
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