ソコは譲れない
「ねぇ、ママ。私不思議なんだけど」
「なぁに?」
「ママとパパ、喧嘩中だよね?」
「……そうよ」
優しげだったママの顔にポトンと怒りの雫が垂れて、ちょっと怖い顔になる。
でも、すぐに怒りは薄まって、何処にも見当たらなくなった。
もうあんまり怒ってないみたい。
頭を撫でるママの手は気持ち良くて、全身でしがみ付くみたいにママに寄り添う。
このソファーは二人で座るのには丁度良いの。
「あのね、喧嘩中なのに、どうしてママとパパは一緒のお部屋で眠るの?」
ママは驚いた顔をして私を見て、撫でる手も止まってしまった。
あぁん、もうちょっと撫でて欲しいのに。
「だって、ちーちゃんのママはパパと喧嘩すると、『実家』っていう所に行っちゃって、次の日まで帰って来ないんだって」
「あらあら」
「それにかず君のママはパパと喧嘩すると、パパをおうちから追い出して、かず君とかず君のおねーちゃんと一緒に眠るんだって」
「……良く知ってるのね」
「うん。皆教えてくれるもん」
「ええっと、桜ちゃんも、パパとママの事、皆に教えてるのかな?」
「うん」
「……」
お返事は元気良く、と幼稚園の先生も言うからちゃんと声を出してお返事してるのに、ママは難しい顔。
何か間違えたのかなぁ?
頭が痛いというように、額を指先で押さえてるからちょっと心配になってママの袖を引いた。
へにゃっとした笑いが返って来る。
「あんまりママとパパの変な事、お友達に言わないでね」
「そう?ママとパパの事、皆に良く聞かれるんだけどな〜」
きっとママとパパが素敵だから皆聞きたがるんだよ。
そう思ったけど、何となく黙ってた。
ママは照れ屋さんだから、うんって頷いてくれない気がしたから。
「それでママ?どうして喧嘩中なのに一緒のお部屋なの?」
「うーん。どうしてって言われても、昔からそうだったからって答えても、桜ちゃん納得しないよね?」
「昔から?」
「そう、昔から」
そう言ってままはふわって笑った。
焼きたてのママお手製のスフレみたいな柔らかそうで美味しそうで、幸せな気分になっちゃう笑顔だった。
+++
「あんた達、喧嘩してたんじゃなかったっけ?園子さんの勘違いかしら?」
「喧嘩してるわよ。あの推理馬鹿には付き合ってられないもの!」
蘭の怒りの原因は、新一のある一連の行動だった。
推理馬鹿こと工藤新一は、つい先日後輩から一通の手紙を受け取った。
今時古風な、と蘭と園子は思ったが、そういうモノなのだと言われれば妙に納得してしまう、所謂ラブレターというモノだ。
宛名書きの字からは、小さくて可愛らしい女生徒が想像出来た。
蘭は少しだけ痛みを堪えるような顔をしたが、そこは慣れているのか、すぐに上手にその感情を隠してしまう。
興味無さそうに裏と面を交互に返して、暫く考え事をした新一は、無造作にその手紙を鞄に突っ込んだ。
きっと『幼馴染』である蘭に遠慮したのだろう。
当然二人はこの後、新一が何らかのリアクションを起こすと思っていた。
特に園子は、新一がこの手紙の送り主に対して、断るなり、断るなりの対応をすると思って、一片も疑っていなかった。
そう。
園子の頭の中には工藤新一は毛利蘭以外の女性からの付き合ってという申し出には、2択ではなく1択(つまり唯一絶対の返事だ)で臨むと思っていた。
だから、それから数日後、つまり今日、送り主である彼女が新一達の居るクラスに放課後泣きながら飛び込んできて、「何で待ち合わせ場所に来てくれなかったんですか!」と涙ながらに訴えるなんて思っても見なかったのだ。
まさしく晴天の霹靂。
「付き合えないのはしょうがないにしても、ちゃんと返事しないなんて酷過ぎるよ!」
「不誠実よね〜、確かに」
「新一がそんな礼儀知らずだなんて思わなかった」
怒りに任せて机の中から教科書を引っ張り出して鞄に仕舞うものだから、大きな音が響き渡る。
チャックを締めて全ての帰り支度を終えても、蘭は席を立とうとはしなかった。
園子の帰り支度はとっくに終わっているので園子を待っている訳ではないし、そもそも園子は蘭と一緒に帰れない。
「……新一君は新一君で、あんな態度だったしね」
「『読んで無い』だなんて!デリカシーが無さ過ぎるよね?!皆居たのにあんな事言っちゃうなんて!」
頬を染めているのは、恥ずかしいからではなく怒りのあまり血の気が上っているだけだ。
何かに猛烈に怒りを感じている顔というのは怖かったり醜かったりするものだが、蘭は不思議と綺麗に見えた。
良いなぁと園子が思っているのを、蘭は知らない。
「でもあやつの場合、あのまま部活行ってサッカーに夢中になってスカーンと忘れてただけでしょ。多分他意は無いんじゃない?」
「でも!やっぱり酷いよ」
「ま、一般的にはそうよね」
例えばこれが普通の男子生徒だったら。
滅多にラブレターなんて貰うものではないから、絶対に忘れるなんて事はない。
帰宅部だったり、部活に所属してても適当にしかやっていなければ、放課後忙しいなんて事もないから、送り主がどんな女性なのか思いを馳せて悶々としたりする時間だってあるだろう。
しかし、工藤新一なのだ。
ラブレターなんて貰い慣れてるし、サッカー部の期待の星として放課後も忙しい。
そして何より、絶対不動の意中の彼女が居るのだ。
誰から見ても新一にお似合いの『幼馴染』の存在が、彼からラブレターへの興味をごっそりと奪い去っている。
忘れても、多分それは仕方無い。
「しっかし、勇気有るよね〜。新一君に付き合って下さいだって」
教室でそう叫んだ彼女はすげなく新一に断られ、撃沈している。
意外ではない。
むしろ当たり前過ぎて、既視感さえ有った。
蘭は居た堪れなくてその後すぐに教室から出て行ってしまったが、園子は何となく気になってその場に残って事の顛末を見届けてしまった。
あぁ、新一君らしいわぁ、というのが園子の感想であり、教室に残っていた野次馬諸君の大筋での感想だった。
言葉や態度の端々に表れているのは、『オレには蘭が居るし』という、つまりそういう素直になれない彼の揺らぎ無い気持ちだったからだ。
鈍い蘭には通じなくても、友人連中は皆知っている。
「本当、ああいうのって勇気要るよね」
園子の言った意味とは違う意味で、蘭が彼女の勇気を称えている。
『好きな人に自分の気持ちを告げる』という一般的な恋する乙女の勇気を、彼女は言っているのだ。
なんだかな〜と、園子は溜め息をついた。
壁時計が示す時間を確認して、もうすぐ奴がこの場所に戻って来る事を思い出す。
そろそろ退散する時間だ。
「あー、蘭、そろそろだけど」
「そうね」
「やっぱり、一緒に帰るの?」
「うん。帰るけど」
「……喧嘩してるのに?」
「だって帰る方向一緒だし、今日新一うちでご飯食べるし」
「……はい〜?」
聞き間違えかしらと、園子は頭を抱える。
勿論聞き間違える事など無理というくらいはっきり聞こえたし、有り得ない話じゃないと園子自身も経験から分かった。
「もう一度確認するけど、喧嘩中よね?」
「そんなに変?」
「一般常識と照らし合わせて、変よ」
「一緒に帰るけど、口きかないし、夕飯は新一のご両親に頼まれてるんだもん。カップラーメンじゃ、部活の後だと足りないし栄養も偏るし」
「……蘭、ちょっと聞きたいんだけど、新一君から一緒に帰ろうって言われてる訳じゃないのよね?」
「言われて無いよ」
「新一君が蘭を置いて先に帰っちゃうってのは無いの?」
「無いよ。そういう時は新一必ず私に言うもの」
「喧嘩中なのに?」
「ソレとコレとは関係ないよ」
「……なんか、凄い絆を見たわ」
「無いわよ、そんなの」
憤慨して蘭は鞄をパシンっと叩いたが、園子はやれやれと両肩を竦めただけだった。
喧嘩と本人達は主張するが、それは厳密に言ってしまえば『喧嘩』じゃない。
園子が窓の外に視線を転じて、体の中に知らぬ間に溜まっていた熱を逃がしていると、蘭が顔を上げてドアを注視した。
何かと思って園子もそちらを見ると、そのタイミングで数人の男子生徒が教室内に雪崩れ込んでくる。
ハードな運動の後でへろへろになっているサッカー部の連中だった。
勿論その中には蘭と園子の会話の中心人物、工藤新一も居た。
「毛利〜。工藤と一緒に帰んの?」
「うん、帰るよ」
「俺、毛利は待ってないで家に帰ってると思ってたよ」
「俺も俺も!だって喧嘩中だしな〜」
新一の頭をバシバシと好き放題叩き捲くって気が済んだのか、サッカー部の仲間は新一を解放して、それぞれ散っていった。
残された新一は盛大な膨れっ面で突っ立っている。
無言のまま自分の席まで行き、既に帰り支度は済んでいたのか鞄だけを手に取る。
蘭を見て、顎をしゃくる。
そして蘭達に背を向けて勝手に一人で扉に向かった。
「ちょっと蘭、何あの態……」
偉そうな新一の態度にかちんと来た導火線の短い園子が唸る様に文句を言いながら蘭を振り返ると、蘭は鞄を手に取って椅子を引いて立ち上がった所だった。
新一に着いて行こうとしている事は誰の目にも明白で、園子は言葉を続ける事が出来ない。
「園子、今まで付き合ってくれてありがと!私行くね」
「え?ちょっと蘭!新一君一言も喋ってなかったじゃない!アレで良いの?」
「だって喧嘩中だもの」
軽く肩を竦めて、今の遣り取りの間にとっくに教室から出て行ってしまった新一を追い掛けて、蘭はぱたぱと軽い足音を立てて教室から出て行った。
残された園子は、なんだか茶番劇に付き合わされた道化師の様に複雑な中でも取り分け間抜けな色の強い表情を浮かべて脱力する。
「ちょっとぉ……喧嘩中なんでしょー。どうなってるのよ、あの二人は」
答えられる者は、勿論教室内には居ない。
+++
前もこんな事があったなぁ、と蘭は不意に思い出した。
川沿いの土手は夕焼け色に染まり、蘭達と同じように家路を急ぐ学生の姿や、犬の散歩コースだというように慣れた足取りで歩く老夫婦の姿がある。
新一は蘭よりも半歩先を歩いているが、その足取りは一人の時よりもゆっくりだ。
そう。
蘭がちゃんと付いてこれる速度だ。
「ねぇ。新一。昔もこんな事あったよね?」
「……そうだな」
返事は無い確立が多分フィフティと思っていた蘭は、新一からの返事を耳にして、少し歩く速度を速めた。
横に並ぶと、新一は誰も立っていない川辺りを眺めている。
「あれだろ。アメージンググレイス」
「うん。そう。あの時」
「何で喧嘩してたんだっけ?あん時?」
「……忘れちゃった」
本当は覚えていた。
蘭はそらっ惚けて返事をし、新一の横顔を眺めた。
下らない事にカチンと来て喧嘩になってしまうのはいつもの事で、振り返ると本当に下らない事ばかりだ。
自分達らしいが、成長してないなぁとがっかりする気持ちもある。
変わらない事が良い事なのか悪い事なのか、蘭には未だ判断が付かない。
「今回は、オメー、なんで怒ってんの?」
平坦な声でも、根底で新一の気持ちが揺れているのが蘭には分かってしまった。
あまり見せてもらえない新一の弱気だ。
蘭が怒っている理由を、新一は正しく理解していないのだと、蘭もまた初めて理解して、なんだか世話の焼ける弟の様に思えてしまう。
思い立って歩く速度で揺れる指先を捕まえると、弾かれた様に蘭に視線を向けた新一。
目を丸く見開いて、本当に驚いていた。
「新一。気持ちを貰ったら、気持ちを返してあげてよ。そうじゃないと、切ないよ」
「……だって、結果は一緒だぜ?」
つまり、新一は、どんな女の子からラブレターを貰っても、結局断ってしまう。
そう言いたいのかと、蘭は新一を見詰めながら首を傾げる。
ふいっと新一が視線を逸らせた。
手も、蘭から逃げようとしたけれど、蘭はしっかりとその手を握って逃しはしなかった。
だから、未だ二人の手は繋がれたままだった。
「結果が一緒でも、あんな風にすっぽかすのは、駄目だよ」
「……言いたかねーけど、あんなのしょっちゅう付き合ってらんねーよ」
拗ねた声に、蘭は少なからず驚く。
「しょっちゅうって……そんなにラブレター貰ってたの?」
「……」
答えないのは肯定なのか。
改めてモテル幼馴染の一面を示されて、蘭は胸がちくんとするのを感じる。
片思いの女の子の気持ちが痛い程分かるから、切ない。
「それで?オメーはどうしてるの?」
「……え?」
考えに沈み込んでいたから、2呼吸分くらい返事が遅れた。
思いの他真剣な眼差しを向けられていて、新一の目的がからかう事では無いとはっきりと分かったから、蘭は返答に困った。
視線は強くて、その分拘束力を発揮している。
逃してもらえそうに無いと、溜息を一つ零してから口を開いた。
「……一応、ちゃんとお断り、してます」
「前に忠告してあるよな?呼び出しに素直に応じて人気の無い所で知らねー男と二人っきりっていうシチュエーションはヤバイ事になるかもしれないからヤメろって」
怒ったような声は、以前にも聞いている。
よもや俺の忠告を無視してこっそりやってねーだろーな?という無言の圧力に、蘭は少し焦った様に早口で答えた。
「覚えてるわよ。そういうのはこっちから連絡して場所変えてもらったり時間を変えてもらったり、恥を忍んで園子に同行してもらってるし」
「園子じゃいざという時戦力にならねーだろ。俺に頼めよ」
「嫌よ、そんなの」
「……意地っ張り女め」
「なんとでも言って。ともかく!新一の忠告はちゃんと覚えてて、なるべく善処してるわよ。第一私の事じゃなくて新一の事でしょ?!今話をしてるのは!」
勝気に言い返すと、新一は蘭の手をきゅっと握り返した。
自分から繋いだくせに、蘭はドキっとして身体を硬直させる。
それが分かったのか新一が柔らかく苦笑を零した。
淡い朱色が落す影のコントラストが、目に焼き付いて、蘭は目を細めた。
「分かったよ。善処すりゃ良いんだろ。……バーロー」
「分かれば良いのよ、分かれば」
「オメーって他人の事で怒ってばっか」
「煩いわよ!怒らせる新一が悪いんでしょー?!」
「俺の所為かよ。第一、オメーが鈍いのがそもそもの原因だっつーの!」
「はぁ?!人の所為にしないでしょ!ちょっと!」
喧嘩中の看板を下げた途端に、言い合いが妙に楽しくなって、蘭と新一は川沿いの一本道を殊更ゆっくりと歩いた。
+++
「桜、もう寝ちまった?」
深夜、午前零時を回った時間に帰って来た名探偵は喧嘩中の妻にそう声を掛けた。
返事が有る事を疑っていないその口調。
蘭もごく自然に口を開いた。
「とっくに寝てる。でも一応、パパのお帰りを待つんだって頑張ってたよ」
「そっか、悪い事しちまったな。今日はあいつと出掛ける約束してたのに」
「そこら辺弁えてるみたいよ。『だってパパは名探偵だもん』ですって。あーあ、我が娘ながら出来過ぎてて、可哀想だわ」
「……反省してます」
一人掛けのソファーに座っていた蘭の正面に回り込み、床の上に座り込んだ新一の意図ははっきりしている。
蘭が逃げ道を塞いだのだ。
「未だ怒ってるって分かってるけど、そろそろ許してくれねーかな?ほら、俺今日誕生日だし」
腕時計を掲げて見せれば、確かに本日5月4日。
蘭は渋い顔をして時計の針と新一の悪戯っ子のような顔を交互に眺めた。
「反省したの?」
「反省しました。だから許して?」
「調子良いんだから!もう!」
屈み込んで、唇にバードキス。
ちゅ、と可愛らしい音の後には満面の笑顔の名探偵が居た。
立ち上がって蘭を抱き締めて、新一は長い息を吐き出す。
満腹の獣の、満ち足りた呼気のようだ。
「今日、桜に言われたわ。『喧嘩中なのに、どうして一緒の部屋で眠るの』って」
「へー」
「それで園子の言葉も一緒に思い出しちゃった。『喧嘩中なのに、なんで一緒に帰るの』って、呆れた調子で言われたじゃない」
「あー、言われた言われた」
園子の表情まできっと一緒に思い出しているのだろう。
新一は蘭の見えない所で機嫌良く笑っているようだ。
腹筋が動いてなんだかくすぐったい。
「……何で?」
何となく、蘭は新一に尋ねた。
どんな答えが返って来るのか、興味が沸いたからだ。
新一は暫し考え、そして口を開いた。
――― 少しだけ、我侭そうに。
「そりゃアレだ。ソコは譲れない、だろ?」
・・・END・・・
2008/05/08 UP
back