祈りの行方










あぁ、きっと今、彼女は『彼』の事を考えている。

温度を感じさせない横顔に緩く組まれた指先を、『彼』は何度と無く目にしてきた。

夕食後の何もしないで良い一時だったり。

出掛ける前に窓の外の天気を確認する一時だったり。

もしかしたら自分が目にする事の叶わない布団に入り眠りに落ちる直前の一時や、授業中黙々と課題に取り組む一時にさえも、『彼』は入り込んでいるのかもしれない。

『彼』の何を考えているのか。

心の内を覗き込む術が無い『彼』は想像することしか出来ない。

なかなか帰って来ない事を怒り、心配しているのか。

何をしているのかちっとも知らせない事を訝しがり、疑っているのか。

後ろめたいからだろうか。

マイナス方向にばかり思考が向かう事に、自嘲の笑みが零れ落ち、『彼』は彼女から視線を外した。

浮かぶ表情が、とても小学1年生には見えない事に、『彼』が気付く事は無かった。











「コナン君、今日は何時頃帰って来るの?私部活の後ミーティングがあるから普段より遅くなっちゃうのよ。」

「んー。おじさんも遅いのかなぁ。」

未だ起きてくる気配の無い小五郎の部屋の方を見遣って、コナンは焼き鮭の一切れを箸で摘み口の中に放り込んだ。

蘭はあらかた食べ終わって、英理からの貰い物である静岡産の新茶を湯呑に注いでコナンの前に置いた。

「昨日全然成果が上がらなかったってぼやいてたよね。今日も調査の続きだから遅いんじゃないかなぁ。」

「じゃあ、阿笠博士の所に遊びに行く事にする。」

「そうして貰えると助かるな。やっぱり狭い家でもコナン君一人じゃ寂しいもんね。」

彼女特有の気遣いと優しさがその言葉に溢れていて、コナンは演じてではない微笑を浮かべた。

実際の所、コナンはただいまを伝える人間が居なくても、一人で長い時間過ごす事も、苦痛とは思わない種類の人間だ。

ただ、それを蘭に敢えて伝えようとは思っていないのは、彼女にはただいまと伝えたいし、一緒に長い時間を過ごしたいと願っているからだ。

例えこんな姿だとしても。

「蘭ねーちゃんの帰ってくる時間に合わせて僕も帰ってくる。」

「ご飯はどうしよっか?」

「一緒に食べる。」

「ありがと、コナン君。それじゃ私がコナン君を迎えに行くから待っててくれる?阿笠博士に連絡はしておくから。」

「蘭ねーちゃん、遠回りになるよ。それにあの辺夜道が暗いから危ないし!」

蘭はこくりと熱いお茶を飲み込むと、両肘を机の上に突いて細く女性的な顎をその上に乗せた。

長い黒髪に柔らかな朝の光が綺麗な輪を映す。

「危ないのは私じゃなくてコナン君。だから迎えに行くまで大人しく待っててね。コナン君は賢いししっかりしてるから、変な人に着いて行っちゃうなんて心配してないけど、抱き上げられて連れ去られちゃうのはどうしようもないんだから!」

「・・・僕、大人しく連れ去られたりしないよ。」

「でも、コナン君一人じゃどうしようもない事だってあるかもしれないし。」

それは蘭ねーちゃんだって同じだよ、とはコナンは言えなかった。

綺麗な蘭。

目の前で信じられない強さを発揮する蘭をコナンは何度と無く目にしてきたが、それでも不安は全て払拭される訳ではなかった。

心配もさせてくれないの、と子供の強みを発揮して拗ねてみれば、少しはこの胸のわだかまりもなくなるのだろうか。

コナンは心の中で首を振る。

生意気を言って蘭を困らせる権利など、何処にも持っていないのだから。

「うん、待ってるね。蘭ねーちゃん。」

「あんまり遅くならないようにするから!」

「はーい。今日のご飯は僕の好きなものが良いな。」

コナンの言葉に蘭の微笑が深くなり、伸ばされた指先がコナンの頭をゆっくりと撫でた。

心地好さに目を細める自分が、猫のようだと思い至って、ほんの少し恥ずかしくなった。

コナンが箸を置くとタイミングを計らずともご馳走様の声は綺麗に揃う。

二人同時に立ち上がり、食器を片すのにも大分慣れた。

いつもの時間になったのを壁に掛けられた時計で確認して、二人で一緒に扉を滑り出ると、今日は眩しいくらいの晴天だった。

右手で庇を作る蘭が嬉しそうに微笑む。

「夜の内に洗濯しておいて良かった!ちゃんと乾きそう!」

「でも取り込むの夜だよね、蘭ねーちゃん。」

失念しているだろう事実を指摘すると、蘭がしゅんとした表情で「そうだったね」と呟く。

子供みたいな喜怒哀楽表現に思わずコナンは吹き出した。

「コナン君笑ったわね。」

「ごめんね。」

「あー、もう!」

「だからごめんなさいってば!」

怒った振りを続ける蘭の制服のスカートを小さい手で数回引っ張れば、仕返しだとばかりに蘭の指先がコナンの髪の毛をくしゃりと掻き回す。

暫し本物の姉弟みたいだと評されるじゃれあいに、心のどこかがちくりと痛んだ事には目を瞑った。











「随分と勝手な落ち込み方ね。」

小学生には不似合いなブラック珈琲を美味しそうに飲みながら、灰原は冷淡な口調でコメントした。

コナンは渋い顔で、こいつにこんな話をするんじゃなかったとほんの数分前の自分をデリートキーで消したくなった。

ぱたぱたとキーを叩く音が聞こえ始め、会話が終わった事を告げる。

エンターキーだけを強く叩く癖のある灰原のキータッチを耳にしながら、コナンもまた中断していたデータ登録作業を再開した。



お互い足も床に付かない机に座り、好き勝手にパソコンのキーを叩く。

背後の相手に気紛れに話を振り、忘れかけた頃に返答が投げられるというような会話をする。

今日はなかなか気分が乗らなくて、つい灰原に愚痴めいた事を零した。

何の解決にもならないと知っていたのに、だ。

自分はそんなに煮詰まっているのかと冷静に判断し、そして驚く。

今更のような気がしたからだ。

まるでドラムロールのようだったキータッチが、雨垂れのような速度に変わり、そして最後にはぱたりと止まる。

完全に止まった手と思考に、溜息を吐き出す事しか出来なかった。



「・・・工藤君。」

「・・・んだよ。」

「さっきの話。私の見解と貴方の見解が違う所が一箇所あるから、言わせて貰うわ。」

淡々とした口調がほんの少しトーンを変えた。

灰原のキータッチ音は相変わらずバックミュージックとして流れている。

「あの人が貴方の事を考えるとしたら、その大半がきっと『祈り』なんじゃないかと思うわ。」

「は?」

「前向き思考を放棄してるような貴方に何を言っても無駄かもしれないけど。」

語尾はからかうような含み笑いでフェードアウトした。



「『祈り』って、綺麗な言葉だな。」

「詩人を気取るのだけは止めて頂戴。」

「気取ってねーよ。そういう茶々は入れるなよ。」

「はいはい。」

「・・・オメー、あのなー。」

「我等がホームズは本物と違って単純ね。」

「あぁ?」

「あんな一言で浮上するのね。」

「・・・」

言われて気が付く。

コナンは胸の蟠りの影が薄くなっている事に。

これでは単純だと笑われてもしょうがない事だと、ずれた眼鏡を直しながら苦笑する。



怒っているのでも、疑っているのでもなくて。

無事を祈ってくれるのなら。

帰ってくる事を祈ってくれるのなら。

目にする度に、自分はどんなに心強いだろう。

自分はどんなに嬉しいだろう。



「祈られてる内に、何とかしなさいな。」

「分かってるよ。」

珍しく素直に答えると、ピンポーンとのどかなドアチャイムの音が響き渡った。

タイミングが良いそれに、コナンは身軽に椅子から飛び降りると誰よりも早くドアに駆け寄った。



取り敢えず、彼女と手を繋いで帰りたいと思った。













2007/11/03 UP

END



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