あんまりにも無神経で腹が立った。
切っ掛けはそんなもの。





++ Freezing Rain ++






「え?約束、駄目になっちゃったの?」
目に見えて青子がしゅんと項垂れた。
ずきんっと目に見えない体の一部が痛みを訴えたが、敢えて無視する。
俺は怒ってるんだ。
目には目を、歯には歯を、のハンムラビ法典の教え通りに俺は青子に仕返しを考えている。
ソレがたとえ子供っぽいと謗られるような行動だとしても、俺は自分にそれを許してしまっているのだから止める人間なんて誰一人として居ない。
「オメー、一人で行くか?」
ドライバーを片手に手元から目も離さず聞く。
暫しの逡巡の後、小さく「行かない」と青子が答えた。
予想通りの展開に、俺は特に感慨もなく頷く。
素直で良い子の青子ちゃんが一人で行くなんて事は有り得ないのだ。
それは当たり前の筈なのに、心にささくれが出来たかのようにイライラが止まらない。
小さなピンねじを締めようとして手元が狂い、ソレは床に転がった。
「バイト、忙しいんだね。」
「別に。」
「じゃ、どーして、約束・・・?」
「考えろよ、自分で。」
ぷらりぷらりと床から浮いた足を揺らしながら、俺のベッドの上に腰掛けた青子は退屈そうだった。
この部屋に青子が入ってきてから俺はまともに青子の顔を見て居ない。
ずっと背を向けて、マジックの大掛かりな仕掛けを作成し続け、青子は俺の振り返らない背中に向かって一方的に話し掛けていた。
こんな事は日常茶飯事だったが、今日ばかりは俺がぴりぴりしている所為で何処かギクシャクとしたやり取りになっていた。
青子もこの空気に気が付かない訳がない。
俺の出方を慎重に窺っている気配が感じられる。
そういう事はちゃんと気が付いて間違いの無い対処が出来るくせに、なんでああいった事には目端が利かずに鈍感丸出しのアホなんだろう?
ちりっと心が焦げるような怒り。
自分自身では消化出来ずに、それは内臓で暴れ回っている。
その不快感に眉を顰めて手元を止めた。
駄目だ、思い出すとムカツク。

「快斗・・・?」
「んだよ。」
「・・・さっきから、何怒ってるの?」
やっぱり分かってなかったのか。
降参というように白旗を掲げて、青子は俺のベッドから降りると四つん這いになってそろそろと近付いてきた。
まるで主人にこっぴどく叱られて項垂れた犬のようだ。
力無い足取りで、ゆっくりと距離を詰めながら近付いてくる。
ぴりぴりと張り詰めた緊張感が濃度を濃くして息苦しい気がした。
「分かんねーんだ。」
吐き捨てるような一言に、青子がびくんっと背を伸ばした。
歩みの止まったその場所から動けず、泣き出しそうに瞳が潤み実を振るわせる。
ぞくりと被虐的な気持ちが揺れた。
このまま苛め倒してずたずたに切り裂いてしまおうか?
その場所から立ち上がれないほど傷付ければ、青子は俺の傍から離れる事は決して無いだろう。
籠の鳥、という美味しいシチュエーションに俺の裏側の顔が哂った。
「青子、分かんないよ。言ってくれれば次から気を付けるから・・・」
藁にも縋る気持ち、というものは人間にこういう声を出させるんだな。
冷静な部分がそんな感慨を抱いて、俺は床に転がったままのねじを指先で拾いステンレスの骨組みの四隅を止める作業を再開する。
今度はきちんと嵌った。
次のねじを探って使い古された深緑色の作業箱に手を伸ばすと、青子が息を詰める音が聞こえる。
堪えようとしても堪え切れなかった涙が床の上に一粒落ちた音がリアルに聞こえた。
「・・・泣いても何も解決しないぜ。」
振り向かないまま硬い声で告げる。
ひくっと青子が喉を鳴らして、必死に涙を止めようとしているのが分かった。
空気を読む事に高い能力を持つ俺には、今の青子の状態が手に取るように分かってしまうから。
胸が締め付けられるこの気持ちの源はやっぱり青子が好きだという純粋で無垢な本当の俺の心なんだろう。
それでも装う事に慣れてしまった秘密を抱え持つもう一人の俺が、その本当の感情を縛り付け、青子に酷い言葉を投げ付けさせられる。
仕返ししてやらなければ気が済まない。
愚かな感情は留まる所を知らない。
「快斗ぉ・・・何怒ってるの?」
助けを求めるように、遠慮がちに俺のシャツが引っ張られた。
弱弱しい如何にも青子らしいその仕草に、振り向きたい衝動が稲妻のように体を走り抜ける。
その強制力たるや、俺の意地を掻き集めて集中させなければ抗えないような大きなものだった。
「快、斗・・・」
泣くのを堪えると、腹筋が不規則なリズムで震える。
呼吸を乱し青子の唇からは、浅く、深く、小さな吐息が零れ落ち続ける。
「昨日の放課後、オメー、何処行ってた?」
知らない間に、喋り始めていた。
何も言う気などなかったのに。
話が違うっ!と怒り始めた偽りの自分と格闘し始めた本当の自分が前に出ようと躍起になって叫び始める。
体の中で何かが分裂を始めそうだ。
「き、のう・・・?青子、用事があって体育館に・・・」
不自然に途切れる応えに俺はイライラして髪を掻き毟った。
投げ捨てられたドライバーが立てた甲高い音に青子が敏感に反応した。
「『用事』ねぇ。何の用事だか言ってみろよ。」
「あ・・・せ、先生に頼まれて、あ・・・」
「どいつだよ?」
「え?あの・・・」
「言える訳ねーよな。嘘なんだから。」
断定した俺に沈黙を返す青子。
ばれるような嘘を吐くんだな、オメー。
・・・その『誰か』の為に。
どす黒い感情が理性の薄幕を突き破って溢れ出した。
振り向きざま腕を伸ばし青子の体を叩きつけるように床に引き倒した。
ガタンっと大きな音と青子の悲鳴が上がる。
構わずに細い手首を頭の上で纏め上げて一つにすると、顎を押さえて俺の正面に固定した。
「誰だ。言ってみろよ。」
「か・・・いと。こ、怖い。」

幼馴染の青子が怯えるんだ。
相当恐ろしい表情で睨んでいるんだろう。
構うもんか。
白状するまで手加減なんてしてやらねーし、よしんば真実を語ったとしても内容によっては許してなんかやらねー。

冷えた空気が体を包むが、全身から発する熱で逆に空気を暖めているように寒さを感じなかった。
ヒーターも付けられて居ない真冬の自室。
青子の肌が透き通るような白を通り越して青白く見えるのは血の気を失っているからだ。
くつくつと笑いが零れた。
でも、愉快な気持ちじゃない。
「言ってみろよ。こそこそ誰と会ってたんだ?」
「え・・・」
吐息が掛かるほど近くで睨み付けると、青子は目を見開いて動きを止めた。
白く凹凸の少ない皇かな首が目の下にある。
噛み付いたら真っ赤な血が出るのだろうか?
浮かんだ疑問が酷く面白い物に思えて、俺は確かめるべく口を開け、その喉に噛み付いた。
「ぅ・・」
悲鳴を噛み殺して青子が体を震わせる。
どうせなら吸血鬼映画のヒロインばりの大絶叫を上げれば気分も出るのに、と残念に思う。
結構力を入れたつもりだったが、血の独特な鉄の味はしなかった。
下でちろりと肌を嬲って口を離して観察すると、噛み跡はしっかりと残っていたが皮膚が食い破られている箇所は見当たらなかった。
・・・無意識に手加減したのか、俺?

「ごめ・・・なさい。」
「謝る前に言えよ。誰だ?」
「言えない・・・」
ひっくと喉を震わせてぽろぽろ泣く青子の上で、俺は舌打ちして唇を噛み締めた。
簡単に血の味が舌に登る。
唾液に滲んだ血に、青子が気が付き表情を歪めた。
「快斗、血が出てる・・・」
手を伸ばそうとして、俺の手の拘束に改めて気が付いたのだろう。
懇願するように首を傾げて俺を見詰める。
「自分で自分を傷付ける様な事しないで。」
「・・・青子には関係ないだろ。」
「快斗が自分を傷付けるくらいだったら、青子の事傷付けて良いから。・・・ね?」

一瞬動きを止める。
何、言ってんだ?こいつ・・・
そして、内容を噛み締めて俺は首を振った。
さっき傷付けようとしたんだよ、昏い欲望のままに。
でも、出来なかった。
唇を噛み切るつもりなんてなかったのに、意識外の所で噛み切ってた。
この2つの事実が示してる。
俺は青子がやっぱり大事で、青子を傷付けるくらいなら自分が傷ついた方がマシだと言う事だ。

「ンな事より、誰だか言えよ。」
綺麗に青子の言葉を無視した俺に、青子がすぅっと表情を変えた。
要らない所は本当に敏感で嫌になる。
涙は相変わらず白い頬を伝っていたが、恐怖の色を払拭して透明感の有る瞳が瞬いた。
「・・・快斗には言わない約束なの。でも、青子疚しい事何もしてないよ。」
「信じられねー。相手も言えないような密会がどうして逢引じゃないと言える?」
「違うもん。ねぇ、快斗。お願い信じて。」
「嫌だ。誰だか言えよ。」
「駄目、言えない。」
俺が幾ら睨み付けても青子はもう恐れを感じないようだった。
面白くない。
でも反面嬉しかった。
馬鹿みたいなアンビバレンス。
「・・・じゃ、質問変えてやる。何時何処でそいつと逢う約束した?」
もう一つ気になっていた事が有る。
青子はあの日以来何を感じ取ったのか知らないが、俺から片時も離れるような事がなかった。
正直それに俺は大分救われていた。
運命のあの日、俺の大願は成就した筈なのに、あの禍々しい紅い宝石に毒されたのか、俺は心を病んでいた。
寺井ちゃんや母さんは時が癒してくれると俺を慰めたが、俺には楽観視は出来なかった。
絶えずその呪いに触れていると、俺もいつかあいつ等と同じく馬鹿な考えに捕われやしないかと、見えない影に怯えた。
抗おうと躍起になって、正常な思考が疲弊して弱っていく。
恐ろしかった。
だが、青子が傍に居る事によってその恐怖が薄らいだ。
何も言わずに、何も聞かずに、ただ寄り添うように傍に居る青子を離したくなかった。
丸ごと全部青子が欲しかった。
それを『独占欲』と言わずして何と言うんだ。
そういうつもりはなかったが、絶えず二人でいる事は、俺が青子をつぶさに観察する事とほぼ同義だった。
青子が誰と何を話したか、全部把握している筈だったのに。
青子は何時、『誰か』と約束をしたんだ?
あの時間に、俺が進路の事で生徒指導担当の教師に呼ばれたのはイレギュラーで、ほんの15分程しか青子と離れてないのに。
俺の目を盗んでどうやって青子と通じる事が出来たのか?
それが疑問だった。
「何処でって・・・?」
「オメー、当日突然約束したんだろ?そいつと。」
「・・・うん。」
ぎりっと歯軋りをして、その苦々しい敗北感を噛み潰した。

つまり。
やはり昨日青子と一緒に居た俺の目を盗んでまんまとそいつは青子と約束を交わしたと言う事だ。
白い影を引き摺る俺の目を盗むなんて並大抵の事じゃない。
俺と同等か、それ以上の能力を持っているという青子の密会の相手が、無性にムカついた。
そうか・・・
だから俺は必要以上に執拗に青子が会っていた相手に拘り、底知れぬ怒りを抱いていたのか。
出し抜かれた、という気持ちを一瞬でも味わってしまったから。

「誰だよ。」
「言えない・・・」
「言えよっ!」
青子は押し黙って、俺を見ている。
静かな黒曜石の瞳は黙して語らない。
俺はこれ以上の追及が無意味と知って、青子の両腕の拘束を解いて半身を起した。
「信じて・・・」
肘を使って上半身を浮かせた青子の鎖骨がくっきりと浮き出る。
首には紅く俺の付けた噛み痕。
随分と意味深なその痕は、月曜日まで消える事は無いだろうと想像出来た。
それが醸し出す物議も押して知るべし。
学校の奴らは俺が付けたと思うだろうか?
それとも・・・青子が密会していた野郎が付けたと、そう思う奴も居るのだろうか?

・・・馬鹿馬鹿しい。
居る訳無い。
青子がその誰かと会っていた事を知っているのは俺だけなんだから。
思考が滅茶苦茶だ・・・!

「会ってた人の名前、言えないけど・・・その人も快斗の事心配してて、それで青子に会いに来たんだよ?」
「・・・は?」
「快斗の為だって。アドバイス幾つもしてくれて。青子、凄く嬉しかったんだから。」
「アドバイス・・・?」
思ってもみない単語が飛び出してきて、俺は凍ったように固まった。
青子に会いに・・・
それで俺を心配?
極め付けにアドバイス・・・

あ・・・

「・・・んだよ。そーゆー事かよ。」
力が抜けて床に座り込んだ。
胡坐をかいて頭を掻き毟りでかい溜息に後悔を滲ませて、沈没。
あ〜・・・
「快斗?」
「良い、分かった。オメーが会ってた相手。」
「え?!」
「なるほど、あいつね。心配してるだと?お節介め!」
「あの、快斗?何で分かったの?」
おろおろして青子が俺の周りでうろちょろする。
捕まえて抱き締めて、ついでにキスをする。
暴れたのは一瞬で、青子は力を抜いて黙ってされるがままになった。
「冷静に考えりゃ一発だった。畜生。」
「快斗・・・?」
「ごめん。」

少し体を離すと目に飛び込んでくる歯形。
あ〜あ、やっちまった。
痛かったかな。
舌を伸ばして痕を辿るように舐めると、青子が逃げようとしたので腰を引き寄せて丹念に舐め続ける。
上の方で青子が小さく声を漏らしている。
意外に色っぽいんだ。コレが。

「や、駄目っ!快斗ぉ!」
「ん。」
今更舐めた所で痕が消える訳じゃないけど、反応も面白くてついぴちゃぴちゃと舐め続けると、次第に青子が暴れだし俺の髪の毛を力任せに引っ張って引き剥がしに掛かった。
「痛ぇよ。」
「・・・くすぐったいんだもん。」
それだけじゃないくせに、絶対こいつは認めようとしないんだろーなー。
頬を真っ赤に染めて睨み付ける青子は可愛い顔をしていた。
このまま普段の二人に戻れそうだ。
ほっと息を吐いてもう一回抱き締める。
「快斗の唇・・・傷深いよ?さっき血の味がした。」
「血の味がするキスは嫌か?」
「・・・」
考えるように上を向いて、それから恥ずかしそうにぷるぷると顔を振った。
突き出される瑞々しい唇。
ゆっくりと口付けを落として、目を閉じて深く懐に華奢な体を抱き込んだ。





「も〜ちょっと掛かるかな。『俺』に戻るの。」
あの白い怪盗を振り払って、ただの黒羽快斗に戻るのは何時になるのか。
根気良くリハビリしなくちゃ駄目なのか。
「大丈夫だよ、快斗なら。」
深みがあって、甘い声で囁く青子に、俺は微笑み返した。
安心したみたいに青子が笑う。
「明日、やっぱり出掛けようぜ。」
「うん!」
嬉しそうに笑って、青子が俺をぎゅうっと抱き締めた。



 


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