優しく殺して









泣きたいな、と本人を目の前にして思う。

この人の同情を引きたいとか、計算高く考えてはないつもりだ。

蛭魔君に限らず誰にも干渉されないで、独りで勝手に泣きたいと強く思うのだ。

ぼろぼろとみっともない顔で大粒の涙を零したい。

周りが「あの女凄い顔で無いてるぜ」と指差し嘲笑うくらい、全力で周りを省みずに泣きたい。

泣いた後は頭も痛いだろうし、喉は枯れているだろうし、酸欠で水分不足で、本当に辛いだろうけど。

気持ちだけはすっきりすると思うから。

感情のタンクには何も残らず、空っぽの身体はとてもとても軽いと思うから。

だから。

泣きたいな、と思ったの。



優しくなんかないくせに、こんな時にちらりと垣間見せるのは、優しさに良く似たモノだと思う。

蛭魔君はさっきから黙ってココに居る。

いつも通りに愛用の小さくて薄いパソコンを開いて、タタタタタンッと細くて長くて強靭な十指でキーボードを叩いている。

不自然に視界から私の姿を外す事はないけれど、注目するように私にだけ視線を固定する事も無い。

私はと言えば不自然な硬さで背凭れ部分のビニルが破れたパイプ椅子に座り、まるで親の敵でも見るように部誌を睨み付けている。

眉間には深い皺が刻み込まれ、安っぽいビー玉みたいな青い瞳は稲光でも閉じ込めてるみたいに怒りでチカチカしている筈。

そう、私は怒り狂っているのだ。

・・・自分に対して。

気を抜くと滂沱の涙が瞳から流れ落ちる事が簡単に予測出来て、さっきから1mmも動けない。

これはもう自分との闘いとしか言いようがない。

ああ、馬鹿らしい。

全部馬鹿らしい。

見も知らぬ女の人に殴られた右頬が痛い。

ぴりぴりと熱を持って、一刻も早く抹消してしまいたい記憶を刺激し続ける。

水に濡らしたタオルで冷やした方が良いと分かってるけど、そんな風に応急措置をした時点で負けるんじゃないかという気持ちがあって、どうしてもソレをさせない。

蛭魔君の金髪と並んだらきっと映えるだろう、赤っぽい金髪。

抜けるように白い肌。

ぽってりと紅く艶やかな唇。

大きく開いた胸元から零れそうな豊満な胸。

私の被害妄想なんかじゃなく、私を見て挑発的に笑って、蛭魔君の名前を呼んだハスキーな声。

練習中に一言も無く堂々と抜け出した背番号1に、誰もなにも言わなかった。

ううん、言えなかった。

私も追い縋ろうとする視線を無理矢理剥がして、休憩時間に配るドリンクの用意をする為に部室へと足を向けた。

でも頭の中はぐるぐるぐるぐると今見た二人の姿が回って、正直吐き気さえしてた。

浅ましい好奇心を悟られるのは嫌だった。

必死でその場を取り繕って、何でも無い顔をして、部室に入った途端、腹癒せに手に持っていたホイッスルを投げ捨てそうになって、我に返った。

何がそんなに私を不愉快にさせるの?

その疑問に対する答えを自分の中に見付けて、私は愕然とした。

今まで生きてきた中で、こんなにも驚いてこんなにも情け無い気持ちになったのは初めてだと自信を持っている。

そう。

これは『嫉妬』という感情に違いないのだ。

蛭魔君不在のデビルバッツの練習は、なんだか炭酸が抜けたコーラみたいに味気なかった。

ちゃんと事前に蛭魔君と私と栗田君で考え抜いて詰めておいたタイムスケジュールにそって練習は進んだのに、今一つピリっとしなくて。

部員全員がその事に気が付いて、何だか互いの顔を見合わせて曖昧に頷き合うという、微妙な空気の中時間だけは正確に過ぎ去っていく。

蛭魔君がなかなか帰って来ない事をなるべく考えてしまわないように必死に努力したのに、それは返って逆効果だったみたい。

一人で勝手に機嫌が悪くなっているのにげんなりとした。

私の『機嫌』は、まるで穴の開いたビニール袋に詰まっているようなもので、時間に比例してきっちりと目方を減らしていった。

練習が終る頃に、ようやく帰って来た蛭魔君。

咄嗟に彼の唇に目が行ってしまって、驚きも呆れも通り越して、大声で笑いたくなってしまった。

蛭魔君の薄い唇には、彼女の痕跡は残ってなかった。

















逃げ帰るつもりだった。

蛭魔君本人には勿論、セナにも栗田君にも雪村君にも、誰にも気付かれてはいけない感情だから。

部活が終ったら言い付けられていた仕事を放り出して、一目散に暖かくて優しくて泣ける場所である家に飛び込むつもりだったのに。

抜け目の無い蛭魔君は、私の腕を容赦の無い力で掴んで、「仕事増えたから帰んな、糞マネ。」と無情にも告げたのだ。

無駄と知りつつ、今日は往生際悪く抵抗もしてみたけど。

ぐいぐい引っ張られて部室に連れ込まれ、私を入り口から遠い所に突き飛ばして、自分は入り口を塞ぐ門番の如くどっかと腰を下ろしたのだ。

その時漸く、仕事を終えるまで蛭魔君が私を解放するつもりがないのだと、諦めたのだ。

蛭魔君は厳しい。

自分に厳しい分、他人にも高いハードルを要求する。

ともすれば、限界を超えろと、何でも無い事のように命令し、当然のように結果を求める人なのだ。

私は、蛭魔君にまるで引き摺り上げられる様に、自分でも吃驚するくらいの成長を遂げたと思う。

彼の理不尽な要求に応えずには居られなかったのは、私が彼を見返してやろうと何処かで思っていたから。

上手く乗せられているだけ、と気付いた時には、私は既にアメフトに魅せられ抜け出せない状態に陥っていたから。

必死に色々やってきた。

馬鹿にされてもせせら笑われても、次第に気にならなくなったのは、蛭魔君という人間が少しずつ理解出来ていったから。

彼に抱いていたイメージはどんどん修正された。

もう、怖くない。

言い合いも一種のスキンシップだと、セナに対して冗談混じりに言えるくらい、私は蛭魔君に慣れてしまった。

大切な仲間だって、そう思えていたのに。

私、何処で間違えちゃったんだろう。

栗田君と蛭魔君の何処が違うの?

十文字君と蛭魔君の何処が違うの?

雪村君と蛭魔君の何処が違うの?

何で蛭魔君だけ。

蛭魔君だけ、特別になってしまったの・・・?

誰と付き合おうと、知った事じゃない。

強がっても、涙が零れ落ちそうなのは事実で、私は『蛭魔君を特別に思っている』という事実を受け入れざるを得ない。

なんて事だろう。

クリスマスボウルという共通の目的以外には、交わる事も無さそうな人に、こんな感情を持つなんて。

・・・ああ、なんて愚かな。



最終下校時刻にあと数分、と迫った頃だった。

「ファッキン!」

蛭魔君が突然吐き捨てた。

ノートパソコンをぱたりと閉じ、しなやかな人差指が私に向けられる。

まるでスイッチをオンにしたように、苛立ちが浮かび上がりその表情が険しいモノになった。

「おい、テメー、辛気臭い顔止めろ。気が散る。」

「・・・見なきゃ良いじゃない。私は今日見たいテレビがあったのに、鬼キャプテンにそのささやかな幸せをもぎ取られて不機嫌なんです。」

「そんなんが糞マネの幸せか。随分と薄っぺらい人生だよな、おい。」

「アメフトと脅迫の事しか頭の中にないような、単純な人に言われたくないです。」

構わないで、放っておいて。

泣き出すのを堪えてるのが、どうして分かってくれないの!

ヒステリックに感情が暴れ出して、右手で胸の辺りのジャージの布地を握りしめた。

沈黙を守っていた蛭魔君に感じていた優しさのようなものは、どうやら賞味期限が切れてしまったようで、蛭魔君は守備から攻撃に転じた。

デビルバッツが超攻撃型チームなのは、この司令塔の性格に拠る所も大きいに違いない。

「見て来たように決め付けやがって。何様のつもりですかねー?」

「そういう自分だって人の表情にケチ付けて、何様のつもりなのよ。」

「さっきから能面みたいに顔をがちがちに固めやがって、一言も喋りゃしねー。」

「作業の邪魔しちゃ悪いと思って気を遣ってあげたのに、その言い草ったら何かしら?」

「ああ?!邪魔しちゃ悪いって思ってんなら、その面ヤメロ!」

「・・・要するに蛭魔君は私に帰れと言ってる訳ね。はいはい分かりました。仕事は持ち帰らせて貰うから。」

口実を見付けて、私は椅子を派手に鳴らしながら立ち上がった。

鞄に日誌と筆記具を適当に入れると、日誌の表紙がぐしゃりと曲がる感触が伝わって、反射的に溜息が零れ落ちた。

「誰が帰って良いと言った?糞マネ。仕事放棄たぁ良い度胸だな。」

蛭魔君の横をぎりぎりまで壁に寄って距離を取りながら素早く通り抜けるつもりだったのに、蛭魔君は椅子を蹴飛ばして私の進路に立ちはだかった。

身長差は10数センチ。

勢いを殺して急ブレーキを掛けたけど間に合わなくて、私は蛭魔君の胸に鼻を思いっきりぶつけてしまった。

もげそうな程痛くて、思わず怒鳴り付けた。

「ちょっと!ぶつかったじゃない!」

「テメーがトロいからだ。」

「違うわよ!蛭魔君が私に悪意を持って行動した結果よ!」

鼻がきっと真っ赤になってて、みっともない事になってると思うと、熱湯に突き入れた温度計の赤いラインのように怒りがつま先から頭のてっぺんに上り詰めた。

「あー?俺の所為だと言うのか?ファッキン!んな訳ねーだろが。」

蛭魔君のスタイルは変わらない。

私がどんなに激昂しようと、あくまで冷静に観察、多彩な策略というカードを手の内に隠して相手を小馬鹿する。

怒りが、臨界点を突破したのが、分かった。

「さっきから何なのよ!私は機嫌が悪いの!蛭魔君のグルーピーだか取り巻きだか愛人だか恋人だか知らないけど!!!!勝手に人に突進してきて言いたい事だけさっさと言い放って、置き土産とばかりに私のほっぺた引っ叩いて!私が何したっていうのよ!私は蛭魔君のマネージャーじゃないのよ!デビルバッツのマネージャーなの!蛭魔君の世話ばっかりなんてしてないし!蛭魔君を特別だなんて思ってないわよ!むしろ蛭魔君なんてアメフトやってなかったら絶対お近付きになりたくない人物ナンバーワンなのに!勘違いして私と蛭魔君の仲を疑って、何あの人?!何で私があの人にあんな事言われないといけないのよ!」

一気に言い放つと、私は激しい呼吸を繰り返し、肩を大きく上下させた。

泣きたい気分だった。

蛭魔君は両腕を無造作に制服のポケットに突き入れて、私を黙って見下ろしていた。

珍しいモノでも見るかの如く、瞳を軽く見開いて。

そして。



「・・・さぁ?」

一言、言った。



「・・・!!!!!」

言葉になんてならなかった。

蛭魔君は本当にどうでも良いと思っているのか、軽い調子で首を傾げたのだ。

薄っすらと、笑顔を浮かべて。

「・・・帰ります!」

ヒステリックな金切り声が出た。

自分でも初めて聞くような、耳障りで見苦しい声。

でも、今は何でも良いから蛭魔君に一矢報いて逃げ出したかった。

こんな声なら、ちょっとは蛭魔君に不愉快な思いをさせられると、頭の片隅に僅かに残った理性が笑った。

「あー、待て待て。まぁ待ちなさい、姉崎サン。」

「慣れ慣れしく名前を呼ばないで!」

「糞マネで良いって事かよ。物好きだよなー。」

「冗談は明日にして!」

蛭魔君は私の肩を押さえて、椅子に連れ戻した。

もがく私の身体はまるで子供みたいに扱われた。

「落ち着けよ。」

「落ち着いていられますか!!!」

「機嫌悪いな。」

「この状況でへらへら笑えたら、その人は天使に違いないわね!」

厭味でぶつけた言葉に蛭魔君は大笑いした。

「俺は機嫌が良い。近年稀に見る機嫌の良さだ。待ち望んでいたものが手に入るイベントの火蓋が切って落とされたからな。ま、糞マネには分からねーだろーがな。」

両肩には未だ蛭魔君の両手が置かれていた。

文鎮のように上から私の身体を押さえ付け、私は身動きも取れないし、痛みだってあった。

本人の言葉通り、この目の前の悪魔は機嫌が良さそうだった。

私とは正反対だ。

それを思い知って、どっと疲れが押し寄せて来た。

もろもろの事が、嫌になり、どうでも良いと投げ遣りな気持ちに変わる。

私は四肢に漲っていた怒りと緊張を、一瞬で解いた。

「ようやく諦めたか。」

にやり、と言葉にしたらそんな形容が似合う笑顔を浮かべ、蛭魔君は肩から手を離した。

十本の指の痕がくっきりと私の両肩に残っていたら、慰謝料を請求してやろうと心の内で誓った。

「我がデビルバッツの糞マネは強情で鈍感で捻くれ者と三拍子揃ってるからな。今日は帰れないんじゃねーかと心配だったぜ。」

「・・・」

「お、最終下校の合図だな。」

遠く校舎の方で、牧歌的な音楽が流れた。

泥門高校の最終下校時刻の名物だ。

「宿題だ。」

蛭魔君の顔が不意に近付いた。

近過ぎて、目の前の顔がぼやけるくらいだ。

「テメーの今の感情が、なんていう名前なのか、考えろ。」

蛭魔君の息が、唇に触れる。

微かなミントの匂いは、きっと無糖ガムの名残だろう。

「目を背けて逃げるなよ。テメーの大事な糞チビが、再起不能になったら困るだろう?」

脅迫のつもりなのか蛭魔君が目を細めてそんな事を囁く。

セナが再起不能になったら蛭魔君だって困るじゃない。

そう告げても良かったけれど、私はそうしなかったから。

だって、蛭魔君が近過ぎる。

「明日までの、宿題だ。」

残酷な声が、そう告げた。







この『感情』が何なのか。

私はもう知っているのに。

『宿題』を忘れた事の無い私は、人生で初めて意図的にやった宿題を学校に持っていくのを止めようと、思ったのだ。











end

2009/03/01 UP


text top page back