美しい世界
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――― 空を見ていたら、訳も無く涙が零れた。
そんな素敵なフレーズを、その男は一蹴した。
馬鹿を言え、と。
私の機嫌は、一気に急降下した。
睨み合いっていうのは、私が相手を睨んで、相手も私を睨んでいる時に使う言葉だから、今この状況を説明するのに使うのは適して無い。
私が射殺すぐらいの意思を込めて睨んでいるというのに、こちらをちらとも振り向かず、涼しい顔をしてパソコンのディスプレイを眺めている。
海を越えた国での試合のレポートでも読んでいるのだろう。
英語ではない言語で書かれているという事くらいしか私には分からないのに、金色の悪魔は戸惑う事もせず読み進めている。
時折長い指先がマグカップを掴み、喉仏が上下する。
飲み干したら無言でマグカップを私の方へと押し出す。
言葉も、目線さえも無い。
睨んでいるのにも疲れて、空っぽのマグカップを掴んで立ち上がる。
嫌がらせのつもりで、コーヒーメーカーに出来上がっていたコーヒーではなく、粉のコーヒーを入れようとしたら、私のお気に入りのロケットベアのシャープペンシルが壁に当たって床に落ちた。
無言で、乱暴な講義に、振り返って睨みつけても、視線が絡まる事は決してない。
歯を噛み締めて金切り声で飛び出そうだった罵倒の言葉を飲み込み、腰を屈めて可哀想なシャープペンシルを拾う。
壊れては無かったそれにほっと安堵の溜息。
静かな空気でひたひたと満たされた部室内。
人口密度は数パーセント。
私と、悪魔だけ。
今日仕事として手渡されたのは、生徒会に提出必須の表向きの会計関係の書類。
ボールに始まり、テーピング用テープ、ドリンクの粉、それから練習試合の交通費等、細かい項目が並び、それらに金額を書き込む単調な処理。
そういった作業は嫌いじゃないから、もくもくとこなす。
隣の背番号1と話す事も無く、また、相手から話し掛けられる事も無い。
「終った・・・」
ころんと机の上に握り締めていたシャープペンシルを転がし、思いっきり背伸びをすると、固まっていた体が突然の運動に悲鳴を上げた。
窓の外はどっぷりと暗闇が広がり、急に帰らなければという思いに駆られる。
そう言えば居たっけ、と思い出して、気配が微塵も感じられなかった悪魔を見ると、なんとこちらを見ていた。
細められた瞳に、琥珀の光。
金髪は部室の明かりの下ではくすんで見える。
「・・・何?」
奇妙な沈黙は背筋をおかしな具合に擽るから、発した問い掛けは無様に掠れていた。
ふっと唇の端を吊り上げて笑いを象った悪魔は、言葉も無いまま、人差し指を折り曲げ運動させて私を呼び付けた。
指先一つで人を呼びつけるなんて、何様なのかしら、だなんて今更な文句を相手にぶつけるのは無駄な事。
私が決して愉快な気分ではない事を相手に知らしめるよう、不貞腐れた顔で傍に行けば、悪魔は何故か笑みを深くした。
「何?蛭魔君?」
名を呼べば、答えたのは唇ではなく、腕。
腰を引き寄せられ、つんのめるように近付けば、そこは悪魔の絶対支配領域だった。
――― お前を見てると、訳も無く笑いが零れるな。
「・・・え?」
たっぷりとした沈黙は、その後に発した疑問符を随分と間の抜けた雰囲気へと変える。
アメフトのボールをしっかりと掴む長く強靭な指先が私の脇腹を掴んでいて、離す気配は未だ感じられなかったから近い距離はそのままだった。
「な、んで、私の顔が笑えるのよ。」
ツッカエタ。
やってしまったと頭の何処かで警鐘が鳴り響く。
私の動揺を感じ取って、悪魔が片眉を器用に上げて、嬉しそうに笑った。
「顔が笑えると、誰が言った?日本語は正確に。優等生が聞いて飽きれる。」
「皮肉は結構よ。・・・私を見ると笑えるってどういう事?」
聞き流すべきだったかもしれない。
どこかでぷつりと切れてしまった自制の綱を見失って、私は踏み込むべきでない獣道を歩み始めていた。
掴まれたままの腰が、熱くて、熱くて・・・
「さぁ?どういう事だろうな。」
まるで自分も分からないと、そう言っている様に聞こえて。
訝しく思う間もなかった。
熱くて。
熱くて。
一瞬が酷く長い時間に感じられて。
最後に指先が離れていった後、火傷をしたんじゃないかと確かめるように指先で唇を触った。
水ぶくれは出来ていなかった。
痛くも、無い。
ぱちぱちと無駄に瞬きをして、夢だったのかしらと、現実を目の前に探そうとしてしまう。
面白そうに私の表情を、眺める悪魔が、下唇をぺろりと赤い舌で舐めた。
ぞくりと、悪寒が走る。
・・・悪寒、なのか、それとも違う『何か』なのか。
混乱した頭では、正確な判断など出来はしない。
「テメーの考える事は分かり易くて良いよなぁ。糞マネ。」
――― キスで火傷なんざ、する訳ねーだろ。
かぁっと頬に血色が広がり、私は部室から逃げ出した。
この後の事と蛭魔君の事は、今は、考えたくない。
end
2007/07/13 UP
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