欲求ループ
|
人間である以上、食べる・寝るという欲求にはどうしたって逆らう事が出来ない。
目の前で私が用意したコーヒーを飲む悪魔に目を向けて、シャープペンシルの動きを一時止めた。
「おい、手ぇ止まってるぞ。」
視線は右手のレポートに落としたまま、何処に第3の目がついているか分かったものじゃない悪魔は、間髪入れずに私を非難する。
「サボってるみたいに言わないで。私だって考えながら書いてるんだから、手が止まる事だってあるわよ。」
「漢字が分からないとか間の抜けた事言うんじゃねーぞ。一応『優等生』って呼ばれてんだろ、糞マネ。」
容赦の無い言葉を砲弾のように浴びせられても何も感じなくなっている自分がちょっと怖い。
このまま鈍感になっていってしまうのかしら?
反論するのも疲れてしまうので、溜息一つで終わりの合図として、手を動かして罫線の上に文字を埋めていく。
今纏めているのはこの前の試合の個人成績データの分析結果。
結果は今後の個人練習メニューに反映されて、弱点を克服させるべく蛭魔君がばしばししごくに違いない。
悪魔は目を眇めてコーヒーカップを三度口元に運び、長い指先がソーサーにカップを戻した。
かちゃんという微かな音が、カップの中身が空だという事を教えてくれる。
私は新しいコーヒーを炒れる為席を立った。
今度は蛭魔君は何も言わなかった。
何故かこの部室には上質のコーヒー豆がたくさんある。
部費から捻出されているのか、それとも蛭魔君が持ち込んでいる私物なのか、追求しようかとも思ったけれど止めておいた。
最終的に答えが分かるにしても、それに費やさなければならない時間が膨大になる事が目に見えていたからだ。
私にとって、そこまでして突き止めたい答えじゃない。
目を閉じると、何故か蛭魔君の喉仏の映像が浮かんだ。
コーヒーを飲むとゆっくりと上下するその部分。
意識していた訳じゃないけど、どうもじっくりと観察していたみたいで、細部まで思い出せる自分に驚いた。
セナとは違う、男の人だなぁと思う。
そもそもセナはコーヒーを好んで飲まないし(しかもどうしても飲む場合は砂糖を2杯は入れる)、喉仏も目立たない方だし。
考えてみれば蛭魔君が私の前でコーヒーを飲むのを、一体何回見たのかもう覚えていないほど私は蛭魔君との近い距離を手に入れてしまった。
望んだ訳じゃないけど。
デスマーチ中は非常事態だったからカウントしないにしても、蛭魔君と一緒に食事を取った事だって何度かある。
あんまり美味しそうに食べないんだなぁと驚いたっけ。
悪魔だから人間の食べ物は口に合わないのかもしれないと一瞬考えて、考え無しに口に出そうになった時は本当に危なかった。
率直にモノをいう事が時として大惨事を引き起こしかねないというのは既に学習済みだったから。
「おい、いつまで掛かってんだ。」
思いの外近い場所から囁かれて、私は飛び上がらんばかりに驚いた。
ううん、多分数センチは飛び上がったと思う。
「ヤダ、蛭魔君何時の間に?!」
「糞マネが目ぇ閉じて何やら百面相をしだした辺りからだ。」
「悪趣味!黙って見てないで声掛けてよ!」
「気付くだろ、この距離なら普通は。」
全然悪いと思ってない口調で言い放ち、蛭魔君は私をせせら笑った後、背後から覗き込んで自分のカップを手に取った。
肩や首筋に蛭魔君の腕や胸が当たった。
近い。
とても、近い。
不自然に身体が強張ってしまうくらい。
「お、何緊張してんだ、糞マネ。」
「別に!」
強がった言葉が唇からぽろりと零れ落ちていった。
こういう返事ばっかり私は間髪入れる事無く早い。
「コーヒー一つ入れるだけの簡単な仕事に緊張?ハァ、大変優秀なマネージャーだよなぁ?」
「嫌味な言い方しないでよ!もう!」
淹れたてのコーヒーは悪魔にとっても熱いみたいで、蛭魔君は一口飲んだ後カップをゆるく揺らして冷ましている。
ただ、動く気配が無い。
私の背後から。
「ねぇ、蛭魔君。どいてくれないかしら?」
「ァア?聞こえねーな。」
「だからどいてよ!動けないじゃない!」
身体を可能な限り捻って背後の悪魔を見上げると、視界にはきらきら蛍光灯の光を受けて輝く金髪と底を窺わせない瞳があった。
右手には熱いコーヒーが入ったカップを、左手は私の脇の台に突いて、まるで私は囲い込まれた獲物のようだった。
動く事もままならない。
生暖かく湿った空気が一定の間隔で私の耳朶をくすぐる。
そうか、これ、蛭魔君の吐息だ。
人間だったんだなぁと、何度目になるか分からない確認をして、笑っちゃいそうになった自分の唇をぐっと引き締めた。
こんな所で笑ったりなんかしたら、また良いように攻撃されるに違いないんだから。
「余裕だな。姉崎まもり。」
フルネームで私を呼ぶ時の蛭魔君は大抵不機嫌で、今もやっぱり不機嫌そうに柳眉を顰めていた。
そしてこんな時は、何に対して不機嫌なのかちらりとも他者に悟らせないのがいつものスタイルで、やっぱり何が気に入らないのか私には分からなかった。
白旗を揚げるようで面白くないけれど、何時までも二人でこんな所で固まっていてもしょうがないので渋々口火を切る。
蛭魔君の沈黙は得体が知れないので居心地が悪いのだ。
「・・・・・・何が?」
「・・・・・・ハッ。狩り甲斐の無い獲物だな。」
苛立ちを隠そうとしない口調で吐き捨てて、あっさりと蛭魔君は離れていった。
ふぅっと詰めていた息を吐き出すと、心臓に手を当てて疾走しているソレを宥めるように2度ノックする。
私の仕草を見て蛭魔君が思案深げな表情でコーヒーを飲んでいる。
一体何だって言うのかしら?
「・・・・・・てめぇは草食動物だ。」
「は?」
「しかも妙に悟りやがってスカした考えを振り翳してやがる。」
「あの、蛭魔君?」
「肉食動物に牙を向けられた瞬間も、『食物連鎖ってこういう事ね』とか言って大人しく食われるんだろう?」
「私は草食動物じゃないし、そんなに大人しく食べられないわよ。」
「ハッ、どうだか。」
会話に飽きたのか、蛭魔君は私に背を向けて出て行ってしまった。
残された私は自分用にカフェオレを作って、その場で一口味わう。
甘くて暖かくて、心が休まる。
美味しい、と素直に思う。
それから暫くの間、さっきの蛭魔君の行動と言葉の意味を考えてみたけど、やっぱり全然分からなかった。
蛭魔君が人間じゃなくて悪魔だからなのかもしれない。
「糞マネめ。逃げもしねぇ。」
あのまま食っちまえば良かったと、心中物騒な事を吐き出していた蛭魔の事を、まもりは知らない。
end
2007/01/11 UP
text top page back
|
|