2003年6月21日
黒羽快斗お誕生日企画



 









初恋












しとしとと無音である事が音を立てているような、そんな霧雨の昼。

青子はぼぅっと黒羽家のリビングで、暖かなカップを両手で包みもの思いに沈んでいた。

人の気配が暖かく青子の胸を癒し、思考の海に沈む余裕を与えてくれる。

窓にぶつかる小さな水飛沫達は流れ落ちるだけの質量を持ってはおらず、悪戯にガラス戸を濡らして消えて行く。

白く霞む視界の向こう側には濃い緑の木々達。

黒羽の家の庭は、広くなくとも四季が楽しめるだけの庭木が計画的に植わっている。

それはきっと、今は亡き盗一の心遣いなのだろう。





「青子ちゃん、どう?その紅茶。頂きモノなんだけど、とても良い匂いでしょ?」

キッチンから焼き立てのパウンドケーキを持って、快斗の母が顔を出す。

青子の向かいのソファに座った快斗は、食べ盛りの男子高校生らしくそのパウンドケーキに目を奪われている。

青子はこくりとそのフレーバーティを飲み、にこりと笑った。

「良い匂いだし、それに美味しいですよね。」

「そうでしょう?快斗なんかに言っても気のない返事で本当つまらないのよ。この子は食い気なんだもの。」

切り分けてもいないのに手を伸ばしてきた快斗の手の項をぴしゃりと叩き、緩やかに言葉を紡ぐ。

「その点、青子ちゃんとは、おばさん話が合うし好みもばっちりだし、お茶するの楽しいわ。」

「嬉しいです。こうやってたまに呼んでもらえるの、いつも待ってるんですよ?」

「本当は毎日でも誘いたいんだけど、快斗が良い顔しないのよ。」

母に軽く睨み付けられ、快斗は小さく鼻を鳴らした。

「俺は別に良い顔も悪い顔もした覚えねーけど。」

「まぁ。青子ちゃんの前だからって嘘ばっかり言って。この前だって青子ちゃんに美味しいクッキーをご馳走しようと思ったのに、快斗ったら『家に帰って来てまで青子の顔見るのかよ』なんて減らず口叩くのよ。」

「ちっちぇー頃から毎日この顔見てんだぜ?少しは休ませろって感じだし。」

「本当に天邪鬼ね〜快斗は。正直に『母さんがお茶に呼ぶと、青子を独占出来ねーから面白くない』って言えば?」

「けっ。だぁれがンな事思うかってんだ。」

「・・・ごめんね青子ちゃん。この子全然素直じゃなくて。育て方間違ったみたい。」

「毎日見るなら、美人が良いな♪青子じゃちょっとな〜。」

「青子ちゃんがこの世で一番可愛いって思ってる人が、何言ってるのよ。」

「あのな〜母さん。これの何処が可愛いって?ふぐみてーに膨れてばっかだぜ。般若の方が可愛い顔してるって位、怒ってばっかだし。」

「それは快斗がくだらない事で、青子ちゃんを怒らせてばかりだからでしょう?」

止めなければいつまでも続けている親子討論に、青子はくすくすと小さく笑い続けている。

快斗の悪口はもう慣れたもので、滅多に怒る気になれなくなっていた。

挨拶みたいな軽い言葉達。

逆に言われないと不安になるだなんて、快斗が調子に乗るだけだから口にはしないけど。

快斗も母親にからかわれるのは毎度の事なのか、顔色一つ変えずに軽く流している。

快斗の母はその掛け合いが楽しいのか、あの手この手で息子をからかっている。

ふと、言葉を止めて快斗の母が青子に向き直った。

「そういえば、青子ちゃん、今日はちょっと元気ないわね。」

「え?そう見えますか?」

カップをソーサーに戻して、青子が首をちょこっと傾げる。

快斗が気にしない素振りを装いながら、注意深く青子を窺っているのが空気で分かった。

良くも悪くも幼馴染。

互いの調子には敏感なのだ。

「元気がないというよりは、ちょっとセンチメンタルな気分なんです。」

窓の外に視線を向けると、霧雨は絶え間なく弱弱しく降っている。

中と外の気温差で、窓がうっすらと曇り出していた。

やがてぼんやりと見えていた風景も飲み込まれるだろう。

「アホ子がセンチかよ。雨でも降るんじゃねーか。ってもう降ってっか。けけ。」

「快斗。あんたいい加減にしなさい。これは没収!」

鼻面からほかほかと湯気を立てているパウンドケーキの塊が奪い去られ、快斗はガガ〜ンっと顔を歪めた。

ひでぇっ!横暴!!と抗議の声を上げるが、それはちらりと流された圧倒的な上位の視線に打ち砕かれた。

肩を竦めて、形ばかりの御免の合図。

青子は調子の良い快斗の足を軽く蹴って笑った。

「お昼休みに友達と初恋の話になったんです。」

「え?!青子ちゃんの初恋?!やだっ!聞きたいわ。」

瞳を輝かせてずいっと身を乗り出す快斗の母に、全身を耳にして神経を研ぎ澄まし緊張した快斗。

分かり易い反応に、青子は心中苦笑を零した。

「・・・面白い話しじゃないですよ?」

「おばさんにとっては大事な話なのっ!!!」

何が大事なのか、聞いたらまた快斗とおばさんの漫才みたいな討論が始まっちゃうなぁと青子は思い、そのまま口火を切った。

「んと・・・誰かは知らない男の人なんですけど・・・」



















雨が全身を濡らしているのに、その男の人はその場に立ち尽くしていた。

曇天は重く垂れ込め、切れ間さえ見つけられない。

雨は空の中心から降ってくる様で、天を仰いでいるとバランス感覚を崩してしまうような酩酊感に襲われた。

青子より背が少しだけ高い黒いスーツを綺麗に着こなした人。

年も2・3上のように思えた。

黒い髪は形良く整えられていたに違いないが、雨に濡れて少しだけ乱れていた。

もしかしたら、彼本人が指先を挿し入れてセットを崩したのかもしれない。

姿勢の良い背中は何処か寂しそうに見えた。

孤独が彼を包み、何人も近付く事は叶わなかった。

すっと綺麗に通った鼻梁。

血の気を失った頬に流れるのは雨の雫に間違いないのに、何故か泣いている姿が連想された。

青子が見ている事に気が付かず、宙の一点を静かに見詰める彼に、青子は一目惚れしたのだと感じた。



















「・・・年上の、知らない人。かぁ・・・」

残念そうに、快斗の母が止めていた息を吐いた。

快斗はそっぽを向いている。

もぐもぐとパウンドケーキを租借する様には、先ほどまでの快活な様子が見られない。

「それっきりなんです。名前も知らないし。」

「青子ちゃんの好みのタイプ?」

「う〜ん。多分違うと思います。・・・泣いている姿が、綺麗だったから。」

「・・・オメー、そいつが泣いてんの見てたのかよ。趣味悪ぃ。」

低い声で快斗が不機嫌そうに突っ込む。

青子はちらりとその横顔を眺めて、顔を振った。

「泣いてないって言ったでしょ?泣いてなかったけど、張り詰めた横顔が泣き顔を連想させたの。想像した顔が・・・綺麗だったから。」

「妄想かよ。」

けっと吐き捨てて、それっきり快斗は口を噤む。

青子も黙って紅茶で喉を潤した。

「青子ちゃんが幾つの時?」

「・・・もう忘れちゃいました。」

快斗の母親にだけ分かる様に、青子は悪戯っぽい視線を送った。

快斗は見ていない。

「黒いスーツ?それで雨・・・」

ふとある事実に思い当たって、快斗の母親は青子を見詰めた。

そっと唇に人差し指を押し当てる青子。

それで快斗の母はああ、と真実に思い当たった。





















最愛の父が亡くなった日。

雨が降っていた。

お葬式には、沢山の知人が集まってくれた。

快斗は長男として立派な態度で葬式に臨んだ。

幾ら悲しくとも、涙を見せる事はなかった。

全てが終わって、漸く忙しさが去って。

一人外に出た快斗を追って、青子は外に出たのだ。



















今まで一番近くで見てきた幼馴染が、全然知らない人に見えた。

大人びた表情。

雨に濡れた髪は奔放に撥ねる事を止め、それがまた彼を年上に演出していた。

表情が薄れて、まるで彫刻みたいだった。

瞳だけが強い意思を湛えて光り、間違いなく彼だと青子に認識させた。

手が出せない領域に彼が立っている事を、遅まきながら知る。

青子もかつて一人で乗り越えた悲しみの山の前に彼が立っている事を。

何十分もそうやって雨に濡れながら快斗を見詰めて、青子はぼんやりと胸に灯るその想いの正体を思い知った。

多分彼は人前では泣かないだろう。

だから青子は一生彼の泣き顔を知る事はないだろう。

頭に像を結んだ彼の泣き顔は、酷くシンプルだった。

無駄が全て剥ぎ取られているからこそ、神秘的なまでに綺麗だった。

自分の想像力を明らかに越えていたその泣き顔は、きっと人知を超える何かが見せてくれたに違いないと、今でも青子は思っている。

青子の中で、ゆっくりと、だが確実に育まれていた想いを覆っていた虚飾は、その涙によって剥ぎ取られた。

何に代えても傍に居たいと、願う様に思うのは、彼ただ一人だった。





















そんな事素直に本人に言える訳がない。

知らない人だなんて、嘘。

年上だなんて、嘘。























静かになってしまったリビングに、外の微かな音が響く。

一人不機嫌になってしまった快斗を余所に、女性二人が優しく視線を交し合った。















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