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Emersonの"Self-Reliance"と中国思想の類似点について


Similarities between Emerson's "Self-Reliance" and Chinese Philosophical Books


by Akira Imakura

Abstract

Ralph Waldo Emerson was born in Boston, Massachusetts in1803. He attended Harvard College in 1817 and while there he liked reading Shakespeare, Swift, Addison, and Stern. Although he was an ordained pastor of the Second Church for some years, he resigned the position and lived his life in his own way. ''Essays'' which contains 'Self-Reliance' was published in 1840. He is thought to be the first American thinker to exert a wide and deep influence both at home and abroad. When we read his books, we are charmed with the beauty which passes before our eyes as a twinkling star. But below this beautiful stream lies the deep truth that shows us how to live.

Emerson was a philosopher and poet with the knowledge of Western classics. He was born, brought up, and educated in American society. In spite of these, we smell some scent that comes from Oriental World. We can have a vague impression that Emerson is like an Oriental philosopher and that his thought has a lot of similarities with Oriental philosophy.

This paper points out the similarities between 'Self-Reliance' and Chinese philosophical books. 'Depend on yourself,' is what Emerson wants to emphasize in 'Self-Reliance'. He tells us to throw away everything that does not exist within 'ourselves'. ''Men give me money or fame, which means money or fame comes from the world, not from the inside world that exists in myself. That's why money or fame is worthless for me. Whim has a lot of value because it comes from me, from my mind or my body.'' This is the way Emerson thinks, and this is also the way Confucius, Mencius, Lao-tze or Chuang-tze thinks.


前書き

エマソンという思想家兼詩人は、もとよりアメリカという土地に育ち、西洋の古典に育てられた人間である。ところがその文章を読んでいると、不思議と東洋の香りがする。まずその思想の表現の仕方からして東洋的である。

西洋の哲学というと、カント哲学のように厳密な論理の構築である場合が多い。ところがエマソンの文章はあまり理屈を言わない。詩的な文章の中に、ハット人をつくようなものがある。言葉自体は決してやさしくないが、理屈よりも何か感情で人を説得しようとする感じがする。こういう表現のしかたは論語や老子と似ている。非常に簡潔な言葉が並んでいる論語、わずか五千語で自分の哲学を語り尽くした老子。簡潔だから中国の哲学が劣ると言っているのではもちろんない。簡潔だが、深くて広い、入りやすくて達しがたいと言うべきだろうか。証明、立証とうるさく言わず、簡潔に自分の思想を表現する、こういうエマソンのやり方は非常に東洋的である。

次に、エマソンの思想そのものが東洋の考え方に似た所がある。単に似ていると言うだけでは、どこがどんなふうに似ているのか、具体的にわからない。それでエマソンの文章と類似のことを述べている文章を中国の文献から引き出し、その類似を立証しようとしたのがこの論文である。エマソンのself-relianceを使い、それと類似の思想を論語、孟子、大学、老子、荘子の中から抜き出した。 エマソンの'self-reliance'は、論語、孟子、大学、老子、荘子と極めて似ている。これが筆者の結論である。以下の引用と比較がその根拠である。

To believe your own thought, to believe that what is true for you in your private heart is true for all men, -that is genius. Speak your latent conviction, and it shall be the universal sense, for the inmost in due time becomes the outmost.

(自分自身の考えを信じること、自分自身の心の中で真であることは、すべての人にとっても真であると信じること、これが天才だ。けばけばしくはなく潜んでいるような自分の確信を話せ。それは世界の意見となるだろう。というのは最も奥深いものがやがて最も遠く広がるものとなるから。)

故凡同類者擧相似也、何獨至於人而疑之、聖人興我同類者、故龍子曰不知足而爲?、我知其不爲?也、?之相似天下之足同也、口之於味有同耆也、易牙先得我口之所耆者也、如使口之於味也、其性興人殊若犬馬之與我不同類也、則天下何耆皆從易牙之於味也、至於味天下期於易牙、是天下口相似也、惟耳亦然、至於聲焉天下期於師曠、是天下之耳相似也、惟目亦然、至於子都、天下莫不知其?也、不知子都之?者、無目者也、故曰口之於味也有同耆焉、耳之於聲也有同聽焉、目之於色也有同美焉、至於心獨無所同然乎、心之所同然者何也、謂理也義也、聖人先得我之所同然耳、故理義之悦我心、猶芻拳之悦我口
(孟子  告子上)

(故に凡そ類を同じくする者はみな相似なり。何ぞ独り人に至りて之を疑わん。聖人我と類を同じくする者なり。故に龍子曰く足を知らずして?を爲るも我其のをを爲らざるを知る。?の相似たるは天下の足同じければなり。口の味に於ける同耆なる有り。易牙は先ず我が口の耆む所を得る者なり。如し口の味に於けるや其の性人と殊なること犬馬の我と類を同じくせざるが若くならしめば則ち天下何ぞ耆み皆易牙の味に於けるに従わんや。味に至りては天下易牙に期す。是天下の口相似なればなり。惟目も亦然り。子都に至りては天下其の?を知らざるなし。子都の?を知らざる者は目無き者なり。故に曰く口の味に於けるや同じく耆なむ有り。耳の声に於けるや同じく聴く有り。目の色に於けるや同じく美とする有り。心に至りては同じく然りとする所無からんや。心の同じく然りとする所の者は何ぞや。謂う、理なり、義なり。聖人先ず我が心の同じく然りとする所を得るのみ。故に理義の我が心を悦ばすこと猶芻拳の我が口を悦ばすことがし。)

(だから類を同じくしているものは、みな似ているんだ。どうして人間の場合だけこれを疑うのか。聖人は自分と類を同じくするものだ。龍子が言っている。足を知らずに靴を作っても、もっこは作らない。靴が似ているのは、天下の人々の足が似ているからだ。口のことについて言えば、おいしいと思うものは同じだ。易牙は人よりさきに自分の口がおいしいと思うものを得ているんだ。もし犬馬と人間が違うように味が人によって違うとしたら、どうして天下の人は易牙がおいしいと思うことに従ったりしようか。味のことで易牙をあてにするのは、天下の人の口が似ているからだ。耳もまた同じだ。音楽では師曠をあてにする。天下の耳が似ているからだ。目もまた同じことだ。子都の美しさを認めない者は天下にいない。子都の美を見分けない者は目がない者だ。口は味において同じくおいしいとするものがある。耳は音楽において同じように聞こえるものがある。目も美人において同じように美とするものがある。心だけがどうして同じくもっともだとすることがなかろうか。心が同じくもっともとすることは理と義だ。聖人は自分の心がもっともだとするところを人よりさきに得た人だ。理義が自分の心を喜ばすことは、牛肉や豚肉が口においしいようなものだ。)

エマソンはここで自分自身の考えが世界の意見となると言っている。自分自身が正しいと思い、美しいと思うこと、それは人も正しいと思うものだと言っているわけだ。これは孟子の説く所と酷似している。孟子は人間が味わっておいしいと感じるもの、見てあるいは聞いて美しいと感じるものは似ている、それと同じように心が然りとするものも似ていると説く。社会制度や環境によって人間は大きく変わってくるんだという説がある。けれど孟子やエマソンは、人間は本質的に同じものだということを主張する。

何爲乎、何不爲乎、夫固将自化 (荘子 秋水)            

(何をか爲さや、何をか爲さざらんや、夫れ固より将に自化せんとす。)

(何をすると言うのだ、何をしないと言うのだ。もともと自化しようとするものだ。)

最も奥深いものが、やがて最も遠く広がるものとなるというエマソンの主張から、外のものよりも自分の内にあるものを重んじているものと思われる。ただ自然の自化に任せという荘子に一脈通じるものがある。

Familiar as the voice of the mind to each, the highest merit we ascribe to Moses, Plato and Milton is that they set at naught books and traditions, and spoke not what men, but what they thought. A man should learn to detect and watch that gleam of light which flashes across his mind from within, more than the luster of firmament of bards and sages. (p.45)

(自分達の心の声は自分達によくわかっていることだが、モーゼやプラトンやミルトンの一番の美徳は、本や伝統に立たず、人が考えることでなく、自分が考えることを話したことなのだ。自分の内から心に生じてくる光の輝きを見い出し、見守るべきなのだ。詩人や賢人の空の輝きよりもこういう輝きをもっと大切にすべきなのだ。)

世之所貴道者書也、書不過語、語有貴也、語之所貴者意地、意有所隨、意之所隨者不可以言傳也、而世因貴言傳書、世雖貴之哉、猶不足貴也、爲其貴非其貴也 (荘子 天道)

(世の道に貴ぶは書なり。書語に過ぎず。語貴ぶ有るなり。語の貴ぶ所は意なり。意随う所有り。意の随う所は言以て伝うべからず。而るに世言を貴ぶに因りて書を伝う。世之を貴ぶと雖も猶貴ぶに足るざるなり。其の貴ぶは其の貴きに非ざる爲なり。)

(世に貴ぶものは書物だ。けれど書物は言葉にすぎない。言葉は貴ぶものがある。それは心だ。心はよる所がある。心のよる所は言葉で伝えることができない。けれど世間は言葉を貴ぶから書物を伝える。世間が書物を貴んでも私は貴ぶに足らないと思う。真に貴いものでないのだから。)

君之所讀者、古人之糟魄己夫 (荘子 天道)

(君の読む所は古人の糟魄のみなるかな。)

(あなたの読む所は古人のカスですよ。)

子路使子羔爲費宰、子曰賊夫人之子、子路曰有民人焉有社稷焉、何必讀書然後爲學、子曰是故悪夫佞者 (論語 先進)

(子路使子羔をして費の宰たらしむ。子曰く夫の人の子を賦わん。子路曰く民人有り。社稷有り。何ぞ必ずしも書を読みて然る後学びたると爲さん。子曰く是の故に夫の佞なる者を悪む。)

(子路が子羔を費の宰にした。孔子が言った。「あの若者を害するよ。」、子路が言った。「人民がいるし社稷もあります。どうして必ず本を読んで後はじめて学んだとするんですか。」孔子が言った。「これがために口のうまい者は嫌いなんだ。」)

蓋道之本、在於脩身而後及於治人、其説具於方册、讀而知之、然後能行、何可以不讀書也

(蓋し道の本身を脩めるに在り。而して後人を治めるに及ばす。其の説方冊に具わる。読みて之を知る。然して後能く行う。何ぞ以て書を読まざるべけんや。)

(思うに道の本は身を修めることにある。身を修めてから人を治めることに及ぼすのだ。その教えは書物にそなわっている。書物を読んでそれを知る。そうしてはじめて行うことができる。どうして書物を読まないでよかろうか。)

モーゼやプラトルやミルトンがなぜ偉かったからというと、書物や伝統に立たなかったからだとエマソンは言う。書物の完全な軽視である。書物の軽視は荘子に見られる。ただ儒学は書物を重んじる。十分に書物を読んでいない子羔を宰にしたら孔子がたしなめたという話が論語にのっている。朱子の注を見るとまず本を読んで治め方を学んでから、実際に実行したらしい。エマソンは人間の心の偉大さを信じるあまり書物を否定してしまう。荘子は真に大事なものは書物で伝えられない所があるとして書物を否定する。書物の否定は行きすぎてはないかと筆者には思われる。エマソンの言うように自分の心が素晴らしいものとしても、他人の心も同様に素晴らしいものである。それなら人の意見を書いた書物も傾聴しなければならないのでなかろうか。

Great men have always done so, and confided themselves childlike to the genius of their age, betraying their perception that the absolutely trustworthy was seated at their heart, working through their hands, predominating in all their being. (p.47)

(偉大な人はいつもそうした。自ら子供のようにその時代の守護神に任し、絶対的に信頼できるものは自分の心の中にあり、自分の手を通して仕事をし、自分がどんな状態にいても一番大きな力を持っていると言う悟りを明らかにした。)

介者?畫、外非譽也、胥靡登高而不懼、遺死生也。夫復習不餽而忘人、因以爲天人矣、故敬之而不喜、侮之而不怒者、唯同乎天和者爲然 (荘子 庚桑楚)

(介者のち?画するは非誉を外るればなり。しょび胥靡の高きに登りて懼れざるは死生を遺るばなり。夫れ復習し餽じずして人を忘る、困りて以て天人と爲る。故に之を敬して喜ばす。之を侮りて怒らざるは唯だ天和に同ずる者然りと爲す。)

(足を切った者が容貌を飾らないのは、そしられたりほめられたりすることを忘れているからだ。囚人が高い所に登って恐れないのは、死生を忘れているからだ。繰り返し習っても恥ずかしがらず、人がどう思うかということを忘れている。人がどう思うかということを忘れているから天人となる。だからその人を敬して喜ばないし、侮っても怒らない。こういうことができる者は、ただ天の和に同じているものだけだ。)

自分の考えや感じ方を貴ぶべしというエマソンの主張である。荘子は人を忘れ天人となると説き、人の毀誉褒貶に平然とすることを教えている。ただ自分の内側にあるものに頼るというのは、エマソンと荘子の一致する所である。

What pretty oracles nature yields us on this text in the face and behavior of children, babes, and even brutes! (P.48)

(こういうことに関しては、何と素晴らしい神託者を自然は子供や赤ん坊の顔や動作、動物の顔や動作の上にさえつくることか。)

專氣致柔、能嬰兒乎 (老子 10章)

(気を専らにし、柔を致して、能く嬰兒たるや。)

(気に任じ柔を極めて嬰児になることだ。)

常德不離、復歸於嬰兒 (老子 28章)

(常徳離れず、嬰兒に復帰す。)

(常の徳離れず、嬰児にもどる。)

含德之厚、比於赤子 (老子 55章)

(徳を含むの厚きは赤子に比す。)

(徳を含むことが厚いのは赤子のようなものだ。)

?願聞衞生之經而已矣、老子曰衞生之經、能抱一乎、能勿失乎、能無卜筮而知吉凶乎、能止乎、能已乎、能舍諸人而求諸己乎、能?然乎、能?然乎、能兒子乎、兒子終日?而?不嗄、和之至也、終日握而手不?、共其德也、終日視而目不?、偏不在外也、行不知所之、居不知所爲、與物委蛇而同其波、是衞生之經己 (荘子 庚桑楚)

(しゅ願わくば衛星の経を聞かんのみ。老子曰く衛星の経能く一を抱く。能く失うこと勿し。能く卜筮無くして吉凶を知る。能く止まる。能く己む。能く諸を人に舎てて諸を己に求む。能くしゅう然。能くとう然。能く兒子。兒子終日な?いてのどしわが嗄れず。和の至りなり。終日握り手かが?まず。其の徳を共にするなり。終日視て目まじろ?がず。偏えに外に在らざるなり。行きて之く所を知らず。物と委蛇して其の波を同じくす。是衛星の経のみ。)

(しゅが言った。「生命を全する道を聞きたいものです。」老子が言った。「生命を全する道は一を抱くことだ。失わないことだ。占いの助けを借らずに吉凶を知ることだ。止まることだ。やめることだ。人に求めずに自分に求めることだ。ものごとにとらわれないことだ。ぼんやりしていることだ。赤ん坊になることだ。赤ん坊は終日泣いても、のどがしわがれることがない。和の至りだ。終日握っても手がかがむこともない。徳を体しているからだ。終日見ても目まいがすることがない。外ばかり見ないからだ。行って行く所を知らない。居ってなすことを知らない。物に素直に従って波を同じくする。これが生命を全する道だ。」)

孟子曰大人者、不失其赤子之心者也 (孟子 離婁下)

(孟子曰く大人なる者は其の赤子の心を失わざる者なり。)

(孟子が言った。「立派な人間というのは赤ん坊の心を失なわない者のことだ。」)

赤ん坊は自然のままで人偽とか偽りがない。それがためか老子はよく赤ん坊のことをもち出し、赤ん坊のようにふるまえと説く。荘子も同じように説く。また孟子にもある。エマソンもまた赤ん坊を持ち出して来る。

Infancy conforms to nobody; all conforms to it. (p.48)

(幼少の時は何にもならわない。すべてが幼少の子供にならう。)

子曰君子和而不同、小人同而不和 (論語 子路)

(子曰く君子和して同せず、小人同じて和せず。)

(先生が言われた。「君子は人と和するけれど人と同じることをしない。小人は人と同じるけれど人と和さない。」)

萬子曰、一鄕皆稱原人焉、無所往而不爲原人、孔子以爲德之賊、何哉、曰非之無擧也、刺之無刺也、同乎流俗、合乎汗世、居之似忠信、行之似廉潔、衆皆悦之、自以爲是、而不可與入堯舜之道、故曰昤之賊也 (孟子 盡心下)                   

(万子曰く一郷皆原人と称す。往く所として原人と爲さざる無し。孔子以て徳の賊と爲す、何ぞ。曰く之を非るに挙げる無し。之を刺るに刺る無し。流俗に同じ汗世に合わす。之に居るに忠信に似たり。之を行うに廉潔に似たり。衆皆之を悦び自ら以って是と爲す。而して与に堯舜の道に入るべからず。故に徳の賊と曰うなり。)

(万章が言った。「一郷がみな謹厚の人だとほめる。どこへ行っても謹厚な人だとしない人がいない。孔子はこういう人を徳を害するものとします。なぜですか。」孟子が言われた。「そしろうと思ってもそしりようがない。責めようと思っても責めようがない。俗に同じて汚世に合わしている。居るところを見ると忠信に似ているし、行うところを見ると廉潔に似ている。人がみなその人を好く。その人は自らを是として堯舜の道に入ることができない。だから孔子が徳の害と言ったのだ。」

自分を重んじることから、当然人にならわない、人に同じないということが導かれてくる。これは論語の君子は和して同ぜずと一致する。ただ儒学はエマソンよりも、もっと人に同じる人間に手きびしいようだ。引用した孟子の一節が示すように徳の賊なりとさえ言っているのである。

As soon as he once acted or spoken with eclat he is a committed person , watched by the sympathy or the hatred of hundreds, whose affections must now enter into his account. (p.49)

(他人からの称讃を求めて行動し話しをするようになると、その人はたちまち縛られた人となる。何百人という人の賞讃と嫌悪の目に監視され、他人の気持ちがその人の判断に影響力を持つに違いない。)

今之所謂得志者、軒晩之謂也、軒晩在身非性命也、物之儻來寄也、寄之、其來不可圉、其去不可止、故不爲軒晩肆志、不爲窮約趨俗、其樂彼與之同、故無憂而己矣、今寄去則不樂、由是觀之、雖樂未嘗不荒也、故曰喪己於物、失性於物、謂之倒置之民 (荘子 繕生)

(今の謂う所の志を得る者は軒晩の謂なり。軒晩身に在るは性命に非ざるなり。物の儻(たまたま)来たり寄るなり。之に寄する、其の来る圉ぐべからず。其の去る止むべからず。故に軒晩の爲に志を肆(ほしいまま)にせず。窮約の爲に俗に趨かず。其の彼を楽しむ之と同じ。故に憂い無きのみ。今寄するも去れば則ち楽しまず。是に由りて之を観れば楽しむと雖も未だ嘗て荒(すさま)ずんばあらざるなり。故に曰く己を物に喪ない性を俗に失う者之を倒置の民と謂う。)

(今の謂う所の志を得る者は軒晩の謂なり。軒晩身に在るは性命に非ざるなり。物のたまたま儻来たり寄るなり。之に寄する、其の来る圉ぐべからず。其の去る止むべからず。故に軒晩の爲に志をほしいまま肆にせず。窮約の爲に俗に趨かず。其の彼を楽しむ之と同じ。故に憂い無きのみ。今寄するも去れば則ち楽しまず。是に由りて之を観れば楽しむと雖も未だ嘗てすさま荒ずんばあらざるなり。故に曰く己を物に喪ない性を俗に失う者之を倒置の民と謂う。)

(今言う志を得るとは高位高官のことだ。高位高官は本質的なものではない。物がたまたま来て仮ずまいをしているだけだ。その来るのを防ぐことはできないし、去るのをとどめることもできない。だから高位高官を得たといってもほしい放題をすることをしない。困窮したといっても俗におもむくことをしない。どちらの場合も楽しむ。だから憂いがない。仮ずまいをしているものが去ると楽しまない。これでは楽しんでいてもすさまないことがない。自分を物の中に失い本性を俗の中に失う。こういう人を倒置の民と言うのだ。)

行動する場合、人の称讃に動かされてはいけない。もし動かされるなら縛られた人間であるというエマソンの主張である。荘子は、己は軒晩、つまり高位高官に失なってしまうと、真の楽しみを得られないと説く。外物に縛られず自分の心の自由に任すということで両者は一致する。

Who can thus avoid all pledges and, having observed, observe again from the same unaffected, unbiased, unbriable, unaffrighted innocence,─must always be formidable. (p.49)

(このようにしてすべての拘束を避け、今までと同様に同じ気取りのない、偏見のない、金で動かされるのではない、恐れのない無邪気さでものを見ることができる人はいつもたいした人に違いない。)

故素也者、謂其無所與襍也、純也者、謂其不虧其神也、能體純素、謂之眞人 (荘子 刻意)

(故に素は其の与に雑わること無きを謂うなり。純は其の神を虧かざるを謂うなり。能く純素を体す。之を真人と謂う。)

(だから素は雑わることのないことを言うのだ。純は神をかくことがないことを言うのだ。純素を体することのできる人を真人と言う。)

荘子は純素を体するのを真人と謂うと言い、純は神がかけないと言い、素は雑がないと言う。エマソンは「気取りのない」「偏見のない」「金で動かされない」「恐れがない」と説明する。このあたりは、荘子の言う純素をエマソンが注釈しているような気がする。

These are the voices which we hear in solitude, but they grow faint and inaudible as we enter into the world. (p.49)

(これらは孤独の中で聞こえる声である。それは世の中に同調するにつれて弱くなり聞こえなくなる。)

天在内、人在外、昤在乎天、知天人之行、本乎天、位乎得、?躅而屈伸、反要而語極 (荘子 秋水)

(天は内に在り。人は外に在り。徳は天に在り。天人の行を知り天に本づく。得に位し?躅(てきちょく)して屈伸する。要に反りて極を語る。)

(天というのは内にある。人というのは外にある。徳というものは天にある。天と人の行を知って天にもとずく。ものを得ること、つまり徳におって進退を定めず、身をかがめたりのばしたりして、もとに帰り極を語る。)

荘子は天と人に分け、天は内にあり、人は外にありとする。そして天にもとづくことを説いている。エマソンは孤独と世間に分け、孤独の中に聞こえる素晴らしい声は世間の騒々しさの中では聞こえなくなってしまうと説く。つまり孤独の中で聞こえることに従えと言っているわけだ。solitudeとworldを一般に「孤独」「世間」と訳したけど、この場合solitudeを「天」と訳しworldを「人」と訳しても何らおかしくない。エマソンがsolitudeとworldで意味させようとしたことは、荘子が天と人で意味させようとしたこととほとんど同じでなかったかと思う。

Society is a joint-stock company, in which the members agree, for the better securing of his bread to each shareholder, to surrender the liberty and culture of the eater. (p.49)

(社会は株式会社のようなものである。その株式会社では各株主は自分達自身に安全にパンを確保するために、自分達の自由と教養を放棄することに同意するのだ。)

子曰君子喩於義、小人喩於利       (論語 里仁)

(子曰く君子は義に喩り、小人は利に喩る。)

(孔子が言われた。「君子は義のことをよく知っている。小人は利のことをよく知っている。」)

エマソンの社会の見方である。エマソンによると、社会とは自分達自身により安全にパンを確保するために自分達の自由と教養を放棄することに同意している所であるわけだ。社会のたいていの人は真や美よりも利で動いている、と言いたいのだろう。論語に君子は義に喩り小人は利に喩る、とある。これと一致する。

The virtue in most request is conformity. Self-reliance is its aversion. It loves not realities and creators, but names and customs. (p.50)

(最も求められる徳は人と同じになることである。社会は自らに頼ることを嫌う。社会は真実と創造者を愛さずよい評判と慣習を愛する。)

世俗之人皆、喜人之同乎己、而悪人之異於己也 (荘子 在宥)

(世俗の人皆、人の己に同じきを喜びて、人の己に異なるを悪む。)

(世俗の人はみんな自分と同じ人間を喜んで自分と違う人間を嫌う。)

エマソンは、社会で最も求められることは人と同じになることである、自らに頼ることつまり人と異なることを社会は嫌うと説く。これは荘子にそっくりの言葉がある。世俗の人皆人の己に同じきを喜びて、人の己に異なるを悪む。荘子とエマソンと時代を隔てること二千年、地を隔てること一万五千キロ、それでいてこんなそっくりの人間観察が飛び出す。人間というのは、地球上のどこでも、今も昔もまた将来も、よく似たものなのだろう。

Whoso would be a man, must be a nonconformist. He who would gather immortal palms must not be hindered by the name of goodness, but must explore if it be goodness. (p.50)

(大丈夫になりたい人は誰でも世間に迎合するようであってはならない。不滅の勝利を得たい人は善という美名で邪魔されてはならない。それが善であるかどうかよく吟味しなければならない。)

爲擧曰益、爲道曰損 (老子 48章)

(学を爲す日に益す。道を爲す日に損す。)

(学問をする人は日々知識を増して行く。道に志す人は日々知識をなくしてゆく。)

エマソンがここで説くことは、俗から見るとかなり変わった見方である。けれどその変わった考え方と同じようなことを老子が言っているのだからおもしろい。普通の人間は、その社会に支配的な価値観を疑わない。軍国主義的な価値観が支配するとすぐにそれに染まるし、金権主義的な価値観が支配するとすぐにそれに染まる。世の中の人がもてはやすことを簡単に正しいと信じこむ。それが真に正しいものであるかどうか疑わない。ところがエマソンは、世の中の人が善ともてはやすことを疑え、それが真に善であるかどうか疑ってみろと言っているのである。これは有名な老子の言葉、学を爲す日に益す、道を爲す日に損すを思い出す。知識を増すのでなくすでに持っている知識を疑い誤ちをなくしていくのが老子の道なのである。両者とも世に支配的な善の尺度そのものを疑うということで一致している。

On my saying, "What have I to do with the sacredness of traditions, if I live wholly from within?" my friend suggested,−"But these impulses may be from below, not from above." I repulses, "They do not seem to me to be such ; but if I am the Devil's child, I will live then from the Devil." No law can be sacred to me but that of my nature. (p.50)

(「もしまったく自分の内から生きるなら、伝統の神聖さなど何の役に立とうか。」と私が言うと、私の友人は言った。「けれどこのような衝動は下から来るもので上からのものでないかもしれない。」私は答えた。「そのようには思えない。けれどもし私が悪魔の子なら悪魔に従って生きる。」自然の法則以外は私にとって何も神聖なものになり得ない。)

告子曰性猶湍水也、決諸東方則東流、決諸西方則西流、性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也、孟子曰水信無分於東西、無分於上下乎、人性之善也猶水之就下也、人無有不善、水無有不下、今夫水摶而躍之可使過?、激而行之可使在山、是豈水之性哉、其勢則然也、人之可使爲不善、其性亦猶是也 (孟子 告子上)

(告子曰性は猶湍水のごときなり。諸を東方に決すれば則ち東流し諸を西方に決すれば則ち西流す。人性の善不善に分つ無きは猶水の東西に分つ無きがごとし。孟子曰く水は信に東西に分つ無し。上下に分つ無きか。人性の善なるは猶水の下に就くがごとし。人善ならざる有る無し。水下らざる有る無し。今夫れ水はう摶ちて之を躍らせば?を過ごさしむべし。激して之を行かせば山に在らしむべし。是れ豈水の性ならや。其の勢則ち然るなり。人の不善を爲さしむべきは其の性は亦是のごときなり。)

告子が言った。「人の性は早い水の流れのようなものだ。東を切れば東に流れる。西を切れば西に流れる。人間の性を善不善に分けられないのは、水を東に流れる西に流れると分けられないようなものだ。」孟子は言った。「水が東に流れる西に流れると分けることができないのは本当だ。けれど水は上に流れず下に流れる。人間の性が善であるのは、水が下に流れるようなものだ。人間は善でないものではなく、水は下に流れないことはない。今水を打ってはねさせると額の上まで上げることができる。水をさえぎって水流を激しくすると山まで上げることができる。けれどこれは水の性であろうか。水の勢いでそうなるのだ。人に不善をさせることができるのもこのようなものだ。」)

エマソンは明らかに性善説思われる。けれどその根拠を聞かれると、単に「私はそう思われる。」と答えている。そして「もし私が悪魔の子なら、悪魔として生きる。」と答えている。けれどこれはあまりに自分の内面の素晴らしさを信じるあまり妥当を欠く言葉である。人間が悪魔として生きるなら、人と人が食むような暗黒の世界になるだろう。エマソンの説くself-relianceが成立するためには、性善をもっときちんと立証しなければならない。その点では、孟子は、告子との論争で、性善を見事に立証している。エマソンも孟子も同じく人間の性が善であると言いたいのだが、この点では孟子のほうがはるかに説得力があると言える。

Good and bad are but names very readily transferable to that or this; the only right is what is after my constitution; the only wrong what is against it. (p.50)

(善と悪は容易に変えることができる単なる名前である。唯一正しいことは自分の本性に従うことであり、唯一間違っていることは自分の本性に逆らうことである。)

天下皆知美之爲美、斯悪已、皆知善之爲善斯不善已 (老子  2章)

(天下皆美の美と爲すを知る。斯悪のみ。皆善の善と爲すを知る。斯不善のみ。)

(天下の人は皆美を美となすことを知っている。そこからみにくいことが出て来る。皆善を善となすことを知っている。そこから不善が出て来る。)

唯之與阿相去幾何、善之與悪相去若何 (老子 20章)

(唯の何と相去る幾何ぞ。善の悪と相去る若何)

(唯と早く応ずるのと阿とゆっくり応ずるのとどれだけ違うのか。善と悪とどれだけ違うのか。)

価値を否定するのは、老子、荘子に著しい。天下皆美の美と爲すを知る、斯悪のみ。皆善の善と爲すを知る。斯不善のみ。エマソンにも、これと同じような価値の否定が見られる。「唯一正しいことは自分の本性に従うことで、唯一間違っていること自分の本性に逆らうことである。」と言っている。これは天や自然に従うという老荘の思想と同一のもである。

I am ashamed to think how easily we capitulate to badges and names, to large societies and dead institutions. Every decent and well-spoken individual affects and sways me more than is right. I ought to go upright and vital, and speak the rude truth in all ways. (p.51)

(勲章、美名、大きな会や 死んだ組織に私たちはたやすく降参してしまう。これを考えると私は恥ずかしい。立派で洗練てれている人は、必要以上に私に影響を与え、私を揺さぶる。私は理に従い生命を持つべきなんだ。いつも生の真理を語るべきなんだ。)

人卒未有不興名就利者、彼富則人歸之、歸則下之、下則貴之 (荘子 盗跖)

(人卒未だ名を興し利に就かざる者有らず。彼富めば則ち人之に帰す。帰すれば則ち之に下る。下れば則ち之を貴ぶ。)

(人は名をおこし、利につこうとしないものはない。富むと人がたくさんやってくる。そしてその人にへり下り、その人を貴ぶ。)

エマソンは、人間というのは、勲章、美名、大きな会や死んだ組織に簡単に降参してしまうものだと言う。荘子も世の中の人々で名声を世に馳せ利益におもむこうとしない者はないと言う。両者の分析はまたも一致したわけである。

If angry bigot assumes this bountiful cause of Abolition, and comes to me with his last news from Barbadoes, why should I not say to him, 'Go love thy infant; love thy wood-chopper; be good-natured and modest; have that grace; and never varnish your hard, uncharitable ambition with this incredible tenderness for black folk a thousand miles off. Thy love afar is spite at home. (p.51)

(もし怒っている心の狭い男が、この慈悲深い奴隷廃止運動を取りあげるバーベイドウズの最新のニュースを手にして私のところへ来るなら、私は言うだろう。「行って君の子供やきこりを愛してやりなさい。気がよく謙譲になりなさい。そういう徳を持ちなさい。自らの好意的でなく無慈悲な野心を100マイルも離れている黒人に対する信じがたいやさしさでおおいかくすことのないように。遠くでの君の愛は家では憎しみとなっている。」)

古之欲明明德於天下者、先治其國、欲治其國者、先齋其家、欲齋其家者、先脩其身、欲脩其身者、先正其心、欲正其心者、先誠其意、欲誠其意者、先致其知、致知在格物、物格而后知至、知至而后意誠、意誠而后心正、心正而后身脩、身脩而后家齋、家齋而后國治、國治而后天下平、自天子以至於庶人、壹是皆以脩身爲本、其本亂而未治者否矣、其所厚者薄而其所薄者厚未之有也 (大擧)

 古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は先ず其の家を斉う。其の家を斉えんと欲する者は先ず其の身を脩む。其の身を脩めんと欲する者は先ず其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は先ず其の意を誠にする。其の意を誠にせんと欲する者は先ず其の知を致す。其の知を致すは物に格るに在り。物格て后知至る。知至りて后意誠。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩る。身脩りて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。天子より以て庶人に至るまで壹に是皆身を脩むるを以って本と爲す。其の本乱れて未治まる者否ず。其の厚き所の者薄くして其の薄き所の者厚きは未だ之有らざるなり。)

(昔、天下の人の明徳を明らかにしようとする人は、まず自分の国を治めた。自分の国を治めようとする人は、まず自分の家をととのえた。自分の家をととのえようとする人は、まず自分の身を修めた。自分の身を修めようとする人は、まず自分の心を正した。自分の心を正そうとする人は、まず自分の意とするところを誠にしようとした。自分の意とするところを誠にしようとする人は、まず自分の知を窮めようとした。知を窮めるのは,事物の理を知ることにある。事物の理を知りてのち知を窮めることができる。知を窮めてのちに意を誠にすることができる。意を誠にしてのち心が正しくなる。心が正しくなりてのち身が修まる。身が修まりてのち家がととのう。家がととのいてのち国が治まる。国が治まりてのち天下が治まる。天下から庶民にいたるまで、みな身を修めることをもととなす。もとが乱れて未を治めることができる人はいない。家をととのえることができないのに国や天下を治めることができる者は、いまだかつていない。)

東洋の学は修身を基としている。知識を増し、天下国家を論じるよりも吾が身を修めることを重んじた。明治維新を経て、太平洋戦争に敗北して戦後となると、修身の教科書もなくなり、修身の学はすたれてしまった。今の学問というと理工学系医学系の物質の学問か、法学や経済学のような社会の秩序と天下の統治法を教える学問となってしまった。自らを修めて自らの徳を高め聖人君子に近づこうとする学問はもう学問と見なされなくなった。西洋の影響は大きく受けてこのように変わったのだから、西洋は物質の知識を重んじ、天下を治める技術に奔走して自らの徳を高めることを軽視するのだろうと思っていた。それでエマソンのこの言葉は意外である。エマソンは奴隷解放などという自分を離れた問題よりも、自分の近くにいる子供やきこりを愛することを重んじている。天下国家を論ずる場合、いきなり天下を治めようとせず、自分を修めることから始めて周囲に及ぼし天下に及ぼすというのは、東洋の伝統的な考え方である。大学の冒頭を飾る名文を引いた。

Then again, do not tell me, as a good man did to-day, of my obligation to put all poor men in good situations. Are they my poor? I tell thee, thou foolish philanthropist, that I grudge the dollar, the dime, the cent I give to such men as do not belong to me and to whom I do not belong. (p.52)

(私がすべての貧しい人々をよい状態にする義務があるということを、ある善人が今日したように、再び私に言うこと勿れ。その人達は私の貧しい人々なのか。私は愚かな博愛主義者である君に言う。私は私に関係のない人に1ドル、10セント、1セントを与えることさえおしむ。) 今有同室之人?者、救之雖被髪纓冠而救之可也、皛臍有?者、被髪纓冠而往救之則惑也、雖閉戸可也 (孟子 離婁下)

(今同室の人闘う者有り、之を救うに被髪纓冠して之を救うと雖も可なり。皛臍闘う者有り、被髪纓冠して之を救えば則ち惑うなり。戸を閉じて可なり。) (今自分の家の者がけんかをするなら、乱れた髪のままでかんむりのひもを結ばず、ひもをかんむりとともに頭に上げるほど急いでけんかをとめてもよい。同郷の者がけんかをするなら、乱れた髪のままでかんむりのひもを結ばず、ひもをかんむりとともに頭に上げるほど急いでけんかをとめにいくなら、心がまどっているのだ。戸を閉じていてもよい。)

孟子のこの言は少し不人情のように思われるかもしれない。けれど理を考えれば当然こういうことになる。自らを修めることを重んじるのに、同郷の者がけんかをするたびに仲裁に走り回っていたのでは身を修める暇などないことになる。自分の家の者がけんかをすればこれは自分がとめなければならない。自分に関係することなのだから。これと同じことをエマソンが言っているからおもしろい。エマソンは博愛家にfoolishという形容詞をつけているから、見も知らぬ人のために寄附することはかなりお嫌いであったらしい。けれどこれから見ても、エマソンは本当に何の衒いもなく、心から流れ出るままに文章を綴っていると思う。普通の人間ならこんな利己主義だと思われそうなことは筆を曲げて書かないものである。

I know that for myself it makes no difference whether I do or forbear those actions which are reckoned excellent. I cannot consent to pay for a privilege where I have intrinsic right. Few and mean as my gifts may be, I actually am, and do not need for my own assurance or the assurance of my fellows any secondary testimony. (p.53)

(素晴らしいと見なされている行為を私がしようとやめようと、私に何の違いももたらさないことを知っている。私がもともと権利を持っていることにお金を支払うことには、私は同意できない。私の才能はわずかで乏しいものかもしれないけれど、実際に私は存在する。自分自身の力を信じ、私の友人にも信じてもらうのに、他の証言は必要でない。)

夫隨其成心而師之、誰獨且無師乎 (荘子 斉物)

(夫れ其の成心に隨いて之を師とすれば誰か独り且た師無からんや。)

(自分の心に従ってそれを師とするなら、師のいない人がいるであろうか。)

人がほめること、そしることに超然として、ただ自分の内心に従うことは、エマソンが、self-relianceの中で最も言いたかったことである。これは荘子が言いたかったことでもある。

What I must do is all that concerns me, not what the people think. This rule, equally arduous in actual and in intellectual life, may serve for the whole distinction between greatness and meanness. (p.53) 

(私がしなげればならないっことは、すべて自分に関することであり、人が考えることでない。これは行動面でも知的面でも同様に実行しがたいのだけど、偉大さと卑小さをきれいに分けるものだろう。)

子曰古之學者爲己、今之學擧者爲人 (論語 憲門)

(子曰く古の学者己の爲にす。今の学者人の爲にす。)

(孔子が言われた。「昔の道を学ぶ人は自分のために学んだが、今の道を学ぶ人は人のために学んでいる。」)

子曰君子求諸己、小人求諸人 (論語 衛霊公)

(子曰く君子諸を己に求む。小人諸を人に求む。)

(孔子が言われた。「君子は己に得ようとするが、小人は人に得ようとする。」)

謝氏曰君子無不反求諸己、小人反是、此君子小人所以分也 (上の論語の引用文の朱子の注)

(謝氏曰く君子諸を己に反求せざる無し。小人是に反す。此君子小人分かる所以なり。)

(謝氏が言った。「君子は我が身をかえりみ、我が身に求めないことはない。小人はその反対だ。ここで君子と小人が分かれる。」)

エマソンは、人間が偉いか偉くないかを、自分に関することをするか、人が考えることをするかで分ける。これと同じことが論語に見られる。君子諸を己に求む、小人諸を人に求む。自分が考えることに従い、自分の心が得ようとする、これが君子を生みgreatnessを生む。人が善と思うことに従い、人によく思われようとする、これは小人を生み、meannessを生む。これが東西両哲人の一致した見解である。

The objection to conforming to usages that have become dead to you is that it scatters your force. It loses your time and blurs the impression of your character. If you maintain a dead church, contribute to a dead Bible-society, vote with a great party either for the government or against it, spread your table like base housekeepers, -under all these screens I have difficulty to detect the precise man you are: and of course so much force is withdrawn from your proper life. (p.54)

(君にとって死んだ習慣に従うことに反対するのは、それが君の力を浪費するからである。それは君の時間を奪うし、君の人格の力を弱くする。もし死んだ教会を支え、死んだ聖書教会に寄与し、政府に賛成するのであれ反対するのであれ、大きな党に投票し、下手な家政婦のようにテーブルをおおってしまうなら、このようにさえぎるものがあって、君が正確にどのような人か知ることがむつかしい。そして勿論多くの力が君の適切な生活から抜きさられる。)

河伯曰、然則何貴於道邪、北海若曰、知道者必達於理、達於理者必明於權、明於權者不以物害己、至德者火弗能熱、水弗能溺、寒暑弗能害、禽獸弗能賊、非謂其薄之也、言察乎安危、寧於禍福、謹於去就、莫之能害也  (荘子 秋水)

(河伯曰く然らば則ち何ぞ道を貴ぶや。北海若曰く道を知る者必ず理に達す。理に達する者必ず権に明らかなり。権に明らかなる者物以って己を害さず。至徳なる者火熱く能わず。水溺らす能わず。寒暑害する能わず。禽獣賊う能わず。其の之を薄(かろ)んじるを謂うに非ざるなり。安危を察し禍福に寧んじ去就を謹み之を能く害するなきを言うなり。)

(河伯が言った。「それではなぜ道を貴ぶんですか。」北海若が言った。「道を知っている者は必ず理に達す。理に達す者は臨機応変に応ずることができる。臨機応変に応じることができれば、物が己を害することがない。至徳の者は火で焼くことができない。水で溺らせることができない。寒暑で害することができない。鳥獣が害することもできない。そうは言っても、こういうものを軽んじるというではない。安危を察し、禍福に安んじ、去就を謹みて害することができないのだ。」)

なぜ世の習慣に従うことに反対するかというと、エマソンは人間の力を弱めるということをあげる。個性も何もない、うすっぺらなひょうひょうした人間ができると言いたいのだろう。荘子は物以って己を害さず、火熱く能わず、水溺らす能わず、寒暑害する能わず、禽獣賊う能わずと言う。エマソンは慣習に従えば人間を弱くし、meannessにするけれど、身が大きく害されるということは言っていないように思う。荘子は身が害されないことを道の素晴らしさ、道を貴ぶ所以としている。Self-relianceを読んでいて感じるのは、エマソンは人間を強くし、大きくすることばかりを考えていると言うことだ。身を害しないようにするにはいかにするかということを考えていないようだ。荘子は弱者の哲学というのか、身が害されないためにはどうすればいいかということを懸命に考えた跡が見られる。それがためだろうか、道の効用を説くのにやや違いが見られる。けれど基本はほぼ同じことを言っていると言えるだろう。

Most men have bound their eyes with one or another handkerchief, and attached themselves to some one of these communities of opinion. This conformity makes them not false in a few particulars, authors of a few lies, but false in all particulars. Their every truth is not quite true. (p.55)

(たいていの人は、自分の目をひとつかふたつの布でしばりつけている。そして多くの人が一致している意見のどれかに自らをくくりつける。このように人に同じると、二、三のことで誤まる、二、三の嘘を言う作家になるのではなくて、すべてのことで誤まる。そういう人たちの言う真理は完全な真理でない。)

曲士不可以語於道者、束於教也  (荘子 秋水)

(曲士以って道を語るべからざるは、教えにしば束られればなり。)

(部分しか見ない人が道を語ることができないのは、教えにしばられているからだ。)

自分の内心に皆素晴らしいものを持っているなら、世の人は皆聖人君子になっていいようなものだが、実際はそうでもない。これはなぜかというと、エマソンは自分の目を布でくくりつけ、多くの人の意見に従っているからだと説く。自分の目で見ていない、自分の内に備わっている内心を活用しようとしない。それで凡人になり愚人になり悪人になると言う。これと同じことを荘子も言っている。人間の愚の原因を常識や教えにもってくる。これは非常に逆説的なことである。けれどここでもまた東西の両哲人は一致したわけだ。

For nonconformity the world whips you with its displeasure. And therefore a man must know how to estimate a sour face. The by-standers look askance on him in the public street or in the friend's parlor. If this aversion had its origin in contempt and resistance like his own he might well go home with a sad countenance; but the sour faces of the multitude, like their sweet faces, have no deep cause, but are put on and off as the wind blows and a newspaper directs. (p.55)

(人に迎合しない人を世の中は不快さを見せて鞭打つ。それで人は不機嫌な顔をどのように評価するか知らなければならない。人が通りや友人の客間で目をそむける。もしこの嫌悪が人に迎合しない人のように根拠を持っているものなら、当然悲しい顔をして家に帰るべきだ。けれど多くの人の不機嫌な顔は、その機嫌がいい顔と同様深い根拠がない。風の吹くことや、新聞の論評のように、始めたりやめたりするものである。)

貉稽曰、稽大理於口、孟子曰無傷也、士憎茲多口、詩云憂心悄悄慍于羣小、孔子也、肆不殄厥慍、亦不殞厥問、文王也 (孟子 盡心下)

(貉稽曰く稽大いに口に理(たよ)らず。孟子曰く傷むなかれ。士憎(増(ますます))茲に多口せられる。詩に云えらく憂心悄悄群小に慍(うら)まる、孔子なり。肆(つい)にその慍(いかり)を殄(た)たざるもまたその間を殞(おと)さず、文王なり。)

(貉稽が言った。「私は人にそしられ、人の口を頼るということができません。」孟子が言った。「気にするなことはないよ。士はますます人にそしられるものだ。詩にも言っている、心の憂いがやまない、多くの小人に怨まれる、孔子のことだ。ついに人の怒りをたつことができない、またその名を落とすこともない、文王のことだ。」)

有人於此、其待我以橫逆、則君子必自反也、我必不仁也、必無禮也、此物奚宜至哉、其自反而仁矣、自反而有禮矣、其橫逆由是也、君子必自反也、我必不忠、自反而忠矣、其橫逆由是也、君子曰此亦妄人也已矣、如此則與禽獸奚擇哉、於禽獸又何難焉 (孟子 離婁下)

(此に人有り。其の我を待つに橫逆を以ってすれば則ち君子必ず自ら反するなり。我必ず不仁なり、必ず無礼なり。此の物奚ぞ宜に至るべけんやと。其の自ら反して仁、自ら反して礼有り。其の橫逆由是のごとければ君子必ず自ら反するなり。我必ず不忠なりと。自ら反して忠なり。其の橫逆由是のごとし。君子曰く此れ亦妄人なるのみ。此の如きは則ち禽獣と奚ぞ択ばん。禽獣に於て又何ぞ難ぜんや。)

(自分に対して暴虐な人があれば、君子は必ず自らを反省する。きっと自分が不仁なんだ、無礼なんだ、どうしてこういうことをするのかと。自ら反省してみて仁である。また無礼でもない。それでいてやはり暴虐である。君子は必ず自らを反省する。まだ自分の心を十分に尽くしていないのだと。自らを反省してみて自分の心を尽くしている。それでいてやはり暴虐である。それなら君子は言う。この人は知もなくでたらめを言っているにすぎないのだ。これでは動物とどうして区別できようか。動物ならまともに考える値打ちもない。)

人に批難されるのは誰でも嫌なことである。けれど社会は自分達と違うものを嫌うということになると、nonconformistはしばしば批難されることになる。これはどう処するのだろうか。エマソンは、あっさり、無視しろと言っている。人の批難はたいてい根拠がなく、そんな根拠のない批難など気にする必要はないと言うわけである。孟子も同じことを言っている。貉稽が人に悪口を言われて困るんですがと言うと、気にすることはない、士は批難されるものだ、孔子や文王だってずいぶん批難されたぜと言っている。筆者はこれを読んで、エマソンといい、孟子といいずいぶん強い人間だと思う。日本人は恥辱文化と言われるように人の悪口に弱い。人に悪口を言われると、真に自分が間違っているかどうか確かめようともせず、自分のほうを簡単に改めてしまう。貉稽のように、人に悪口を言われて困るのですがと言うと、それは君が悪い、もっと人の心をよく考えて、人と仲よくするように行動しなければならないと、たいていの日本人は答える。けれどnonconformistであるだけで人に憎まれるのだから、いくら人の心を考えて行動しても悪口を言われるのは同じことだろう。ただ悪口を言われるのは、自分のほうが真に悪い場合もあるのだから、孟子の言うように、自分が仁でなかったか、礼がなかったか、忠でなかったかと反省して、落度がなければ人の悪口は無視するのが一番正道であろう。この強さは日本人の学ぶべきことだと思われる。

Speak what you think now in hard words and to-morrow speak what to-morrow thinks in hard words again, thought it contradict every thing you said to-day. (p.57)

(今考えていることをしっかりした言葉で言いたまえ。明日は明日に考えていることをまたしっかりした言葉で言いたまえ。たとえ明日言うことが今日言ったことのすべてに矛盾するとしても。) 莊子謂惠子曰、孔子行年六十而六十化、始時所是卒而非之、未知今之所謂是之非五十九非也    (荘子 寓言)

(荘子恵子に謂いて曰く、孔子行年六十にして六十化す。始めに是とする所卒りに之を非とす。未だ今の謂う所の是の五十九非に非ざるを知らざるなり。)

(荘子が恵子に言った。「孔子は六十歳までに六十回変化した。最初是としたものを終わりに非とした。今是とするものも、五十九回変わったように変わるかもしれない。」)

エマソンはself-relianceの中で変化ということを貴んでいる。過去の自分に縛られることを嫌うのである。荘子のこの言も孔子を批難したのではなく。孔子のこだわりのない偉さを称讃しているのである。

To be great is to be misunderstood. (p.58)

(偉大であることは誤解されることである。)

上士聞道勤而行之、中士聞道若存若亡、下士聞道大笑之、不笑不足以爲道 (老子 41章)

(上士道を聞きて勤めて之を行う。中士道を聞きて在るが若く亡きが若し。下士道を聞きて大いに之を笑う。笑わざれば以って道と爲すに足らず。)

(上の者は道を聞いて、道を努めて行う。中の者は道を持とうとするようでもあるし、持とうとしないようでもある。下なる者は道を聞いて大いに笑う。下なる者が笑わなければ道とするのに足らない。)

大聲不入於里耳、折楊皇?則?然而笑是、故高言不止於衆人之心、至言不出、俗言勝也  (荘子 天地)

(大声里耳に入らず。折楊(せつよう)皇?(こうか)則ち?(こう)然として是を笑う。故に高言衆人の心に止まらず。至言出でざるは俗言勝てばなり。)

(偉大な音楽は俗人の耳に入らない。けれど俗人は折楊皇?のように俗曲には喜んで笑う。このうように高尚な言葉は衆人の心に残らない。至言が出てこないのは俗言が勝つからだ。)

「偉大であるとは誤解されることである。」というエマソンの言葉はなかなか意味深い。老子も人が笑わなければ道となすに足らないと言い、荘子も偉大な音楽は俗人の耳に受け入られないと説く。人に理解されないことを嘆くのでもなく、反対に人に理解されないことが偉大である証拠であると、東西の両哲人は言うのである。

Men imagine that they communicate their virtue or vice only by over actions, and do not see that virtue or vice emit a breath every moment. (p.58)

(人は徳や不徳は明らかな行為によってのみ知られると思っている。徳や不徳はあらゆる瞬間に呼吸しているということを見ない。)

孟子曰、牛山之木嘗美矣、以其郊於大國也、斧斤伐之、可以爲美乎、是其日夜之所息、雨露之所潤、非無萌蘖之生焉、牛羊又從而牧之、是以若彼濯濯也、人見其濯濯也、以爲未嘗有材焉、此豈山之性哉、雖存乎人者、豈無仁義之心哉、其所以放其良心者、亦猶斧斤之於木也、旦旦而伐之、可爲美乎、其日夜之所息、平旦之氣、其好悪興人相近也者幾希、則其旦畫之所爲、有梏亡之矣、梏之反覆則其夜氣不足以存、夜氣不足以存、則其違禽獸不遠矣、人見其禽獸也、而以爲未嘗有才焉者、是豈人之情也哉 (孟子 告子上)

(孟子曰く、牛山の木嘗て美なり。其の大国に郊たるを以って斧斤之を伐る。以って美と爲すべけんや。是其の日夜の息する所、雨露の潤す所、萌蘖(ほうげつ)の生ずる無きに非ず。牛羊又従いて之を牧す。是を以って彼の若く濯濯たるなり。人其の濯濯たるを見て以って未だ嘗て材有らずと爲す。此れ豈山の性ならんや。人に存する者と雖も豈仁義の心無からんや。其の其の良心を放つ所以の者も猶斧斤の木に於るがごときなり。旦旦に之を伐る。美と爲すべけんや。其の日夜の息する所の平旦の気にして其の好悪人と相近き者幾希(ほとんどまれ)なり。則ち其の旦昼の爲す所之を梏亡する有り。之を梏して反覆すれば則ち其の夜気以って存するに足らず。夜気以って存するに足らざれば則ち其の禽獣を違(さ)ること遠からず。人其の禽獣のごときを見て以て未だ嘗て才有らずと爲すも是豈人の情ならんや。)

(孟子が言われた。「牛山の木はかって美しかった。斉という大国の近くにあったから、人々がおのでその木を切り倒してしまった。それではげ山となってしまいもう美しくない。日夜に成長し、雨露がうるおしているのだから、芽が出ないことにはない。けれどまた人が牛羊を放牧するので芽が食べられてしまった。それでこのようにはげ山となったのだ。けれどこれは山の性であろうか。人の性も同じように仁義の心がないであろうか。良心をなくしてしまうのは、おので木を切るようなものだ。日々に木を切るならはげ山となり、美しい山となることができない。日夜に成長する清明な気があるのに、好んだり嫌ったりすることが人間らしい人はほとんどいない。昼間にすることが生長してくるものをみだしなくするのだ。みだすことが繰り返されると夜気がそれを存することもできない。そうすると動物とあまり違わなくなる。人はその人が動物のようなのを見て、もともと善心がなかったのだとする。けれどこれが人の本性であろうか。」)

由是觀之、無惻隱之心非人也、無羞悪之心非人也、無辭讓之心非人也、無是非之心非人也、惻隱之心仁之端也、羞悪之心義之端也、辭讓之心禮之端也、是非之心智之端也、人之有是四端也、猶其有四體也 (孟子 公孫丑上)

(是に由りて之を観れば惻隠の心無きは人に非ざるなり。羞悪の心無きは人に非ざるなり。辞譲の心無きは人に非ざるなり。是非の心無きは人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり。人の是の四端有るや猶其の四体を有することがごときなり。)

(こういうことから考えると、あわれみの心のない人は人でない。己の不善を恥じ人の不善を憎む心のない人は人でない。己がしりぞき人に譲る心のない人は人でない。善を是とし悪を非とする心のない人は人でない。あわれみの心は仁の端緒だ。己の不善を恥じ人の不善を憎む心は義の端緒だ。己がしりぞき人に譲る心は礼の端緒だ。善を是とし悪を非とする心は智の端緒だ。人がこの四つの端緒を持っているのは、人が両手両足を持っているようなものだ。)

道徳というのは、よく外から押さえつけるもののようなイメージがする。道学者というと、日常生活を死物の道徳で律してしまって、新鮮なみずみずしい生気がないような感じがする。人に道徳を説く時、したい放題をすることは確かに楽しく、おもしろいだろうが、それでは国家や社会が成り立っていかない、自分の楽しみを犠牲にして道徳を守らなければならない、そうすることによってのみ国家も社会も発展するのだと説くのが普通だ。私たちのイメージは道徳はいやいや守らなければならないもの、人間の自由な感情や感覚を押える死物に近いものという感が強い。けれど孟子は、道徳は人間の手足のように人間に誰でも備わっているもので、日々生長している生き物であることを強調している。同じような考え方がエマソンにも見られる。

Your genuine action will explain itself and will explain your other genuine action. Your conformity explains nothing. Act singly, and what you have already done singly will justify you now. (p.59)

(純粋な行為は、その行為自体に意味を与えるし、他の純粋な行為にも意味を与える。人に同じることは何にも意味を与えない。一人で行動しろ。すでに一人でやったことが、今君の正しいことを示す。)

道常無爲而無不爲 (老子37章)

(道常に爲す無くして爲さざるなし。)

(道というのはいつも何もしない。それでいてなさないことがない。)

物之生也、若驟若馳、無動而不變、無時而不移、何爲乎何不爲、夫固將自化 (荘子 秋水)

(物の生ずるや驟(は)するが若く馳するが若し。動きて変わざるは無く、時として移らざるは無し。何をか爲さんか。何をか爲さざらんか。夫れ固より将に自化せんとす。)

(物が生じるのはすばやいものだ。動いて変わらないものはなく、時がたつと変わらないものはない。何をするというのか。何をしないというのか。もとより自化するだろう。)

「一人で行動しろ」とは、エマソンがself-relianceの中でよく言うことである。けれど老荘の立場から見れば、act singlyということもひとつの爲でなかろうか。老荘は無爲を唱えるからエマソンの立場よりももっと徹底した立場であると思われる。

Greatness appeals to the future. (p.59)

(偉大なものは、未来に自分の正しいことを認めてもらおうとする。)

子曰君子疾没世而名不稱焉 (論語 衛霊公)

(子曰く君子世を没して名称せられざるをや疾む。)

(孔子が言われた。「君子は死んでから名の称せられないことを憂う。」)

自分の価値を後世の判断に頼るという思想は論語に見られる。エマソンにも類似の考え方がある。

I hope in those days we have heard the last of conformity and consistency. (p.60)

(この時代が人に同じことや一貫性を保つということを耳にする最後となることを希望する。)

景春曰、公孫衍、張儀、豈不誠大丈夫哉、一怒而諸侯懼、安居而天下熄、孟子曰、是焉得爲大丈夫乎、子未學禮乎、丈夫之冠也父命之、女子之嫁也母命之、往送之門、戒之曰、往之女家、必敬必戒無違夫子、以順爲正者妾婦之道也、居天下之廣、居立天下之正位、行天下之大道、得志與民由之、不得志獨行其道、富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈、此之謂大丈夫 (孟子 藤文公下)

(景春曰く公孫衍、張儀は豈誠の大丈夫ならざらんや。一たび怒りて諸侯懼れ、安居して天下や熄む。孟子曰く、是焉んぞ大丈夫たるを得んや。子未だ礼を学ばざるか。丈夫の冠するや父之を命じ女子の嫁するや母之を命ず。往きて之を門に送り之を戒めて曰く往きて女の家に之き、必ず敬し必ず戒め、夫子に違うことに無かれと。順以って正と爲すは妾婦の道なり。天下の広告に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行い、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行う。富貴も淫する能わず。貧賤も移す能わず。威武も屈する能わず。此を之大丈夫と謂う。)

(景春が言った。「公孫衍や張儀は真の大丈夫でないだろうか。一たび怒れば諸侯が恐れるし、じっとしていれば天下の戦争がやむ。」孟子が言われた。「どうして大丈夫と言えようか。君は礼を学んでいないのか。男子が成人する時は父が命を発し、女子が嫁する時は母が命を発す。門に送って女子を戒めて言う。「夫の家に行けば必ず敬し必ず戒めて夫に逆らうことのないように。」従順を正道とするのは婦人や妾の道だ。天下の広居つまり仁に降り、天下の正位つまり礼に立ち、天下の大道つまり義を行う。志を得れば自らの得る所を人におよぼし、志を得なければひとりその道を行う。富貴もまどわすことができない。貧賤も節を変えることができない。威武も志をくじくことができない。こういう人を大丈夫と言うのだ。」)

人と同じることを嫌うのは、self-relianceの中でしばしば見られる。孟子も人に同じることを嫌い、人をして勇ましむ名文が藤文公にのっている。公孫衍、張儀という当時の大政治家を取り上げ、阿諛によって権勢を取った者は、人に何も逆らうことをしない妾婦の道だと説く。世の中の流れに逆らわない、あるいは権力者のしていることと同じようなことをする生き方は無難である。人とけんかすることが少ないし、一生大きな波風がたつことが少ない。けれど孟子は徳は己に生まれつき備わっていると考えるために、世の流れに従い、権力者に従うなら、その徳が現れない、消えてしまうと考える。それで自分の内心に備わっている徳や道に従って行動するように強く主張する。富貴淫する能わず、貧賤移す能わず、威武屈する能わず、此を之大丈夫と謂う、と独立独歩の人間を賞揚する。これはエマソンの言いたかったことでもある。

I do not wish to please him; I wish that he should wish to please me. I will stand here for humanity, and though I would make it kind, I would make it true. (p.60)

(私は彼を喜ばそうと思わない。彼が私を喜ばすことを望む。私は人間としてここにいる。私は親切にするけれど本当のことをする。)

子曰巧言令色鮮矣仁 (論語 学而)

(子曰く巧言令色鮮し仁)

(先生が言われた。「言葉をよくし顔色をよくし、人を喜ばせようとする人は仁が少ない。」)

エマソンがここでheというのは、地位の高く名声のある人のことである。エマソンのここの主張は論語の巧言令色鮮し仁と同じことである。儒学は巧言令色を非常に嫌う。ここの朱子の注に「巧言令色の仁に非ざるを知れば仁を知る」とのっている。

Let us affront and reprimand the smooth mediocrity and squalid contentment of the times, and hurl in the face of custom and trade and office, the fact which is the upshot of all history, that there is a great responsible Thinker and Actor working wherever a man works ; that a true man belongs to no other time or place, but is the center of things. (p.60)

(荒波のあたらないありふれたものやその時代に低い次元で満足することは、軽蔑し、批難したまえ。そして慣習や習慣や儀式の面前にあらゆる歴史が示している事実を投げつけたまえ。つまり功を立てるところにはどこにでも偉大な理性的思想家、活動家がいるということを、真の男は他の時や場所に属するのではなくものごとの中心であるということを。)

曰非之無擧也、刺之無刺也、同乎流俗、合乎汗丗、居之似忠信、行之似廉絜、衆皆悦之、自以爲是、而不可與入堯舜之道、故曰昤之賊也 (孟子 盡心下)

(曰く之を非るに挙げる無きなり。之を刺るに刺る無きなり。流俗に同じ、汗世に合わす。之に居るに忠信に似る。之を行うに廉潔に似る。衆皆之を悦び自ら以って是と爲す。而して与に堯舜の道に入るべからず。故に徳の賊と曰うなり。)

(孟子が言われた。「そしろうと思ってもそしりようがない。けなそうと思ってもけなしようがない。流俗に同じ汚世に合わせている。身をおくところを見ると忠信に似ている。行うところを見ると廉潔に似ている。人はみなその人を好く。そしてその人は自分を正しいとしている。けれど堯舜の道に入ることができない。だから徳を害するものと言うのだ。」)

エマソンの思想は非常に反逆的である。どうしてこんな人が聖人として受けいれられるのかと不思議に思うほどである。ここでまた荒波のあたらないありふれたものや、その時代に低い次元で満足することや、習慣や儀式を否定する。儒学と言えば保守的に見られるが、儒学もこういうものは否定している。流俗の慣習や価値観に従い、誰からも喜ばれるような人間を孟子は手きびしく批難している。ただ儒学は、詩書礼楽という古えから伝わってきたものを大事にする。エマソンはこういう伝統さえも否定する。「知的にすぐれる人が自らの神そのものについて語らないのを見るだろう。ダビデかエレミヤかパウロか知らないが、そういう連中の言葉しか話さない。」とエマソンは言っている。エマソンは行きすぎのように思われる。  

物物而不物於物 (荘子 山木)

(物を物として物に物とせられず。)

(自分が外の物を物として扱い、外の物によって自分がひとつの物とされない。)

これは前のエマソンの引用文の最後「that a true man belongs to no other time or place, but is the centre of things.」 の類似の考え方としてあげたものである。物を物として物に物とせられずという言葉は一言で荘子の思想がどういうものであるのかよくあらわしている。自分に主体性を置き、自分が物を使うことを主張し、自分がひとつの物として使われることを嫌うのである。今にわとりは人間の手によって卵を産む機械となり、豚は人間の手によって肉を生産する機械となった。にわとりや豚は人間によってひとつの物とされたのである。同じようなことは人間社会にも見られる。ある人はボタンを押すだけの機械となり、ある人は金を増すことだけを考える機械となり、ある人は人の人気を取ることだけを考える機械となっている。これは、ボタン、金、人気という物によって人間が使われている、つまり外の物によって人間がひとつの物とされているのである。荘子はこういうことを強く拒否した。自らが主体となり、物を物として使うことを主張した。エマソンの主張もほぼ同じことだと思われる。

The man must be so much that he must make all circumstances indifferent. (p.61)

(人間は非常に大きくなって、すべての環境に無関心でなければならない。)

五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁畋獵令人心發狂、難得之貨令人行妨、是以聖人爲腹、不爲目、故去彼取此 (老子 12章)

(五色人の目をして盲ならしむ。五音人の耳をして聾ならしむ。五味人の口をして爽(たが)わしむ。馳騁(てい)畋(でん)猟人の心をして狂を発せしむ。得難きの貨人の行をして妨げしむ。是を以って聖人腹の爲にし、目の爲にせず。故に彼を去り此を取る。)

(青赤黄白黒という五つの色やそれが組み合わさってできた色は人の目を盲にするものだ。宮商角徴羽という五つの音やそれが組み合わさってできた音は人の耳を聾にするものだ。塩からい、にがい、すっぱい、からい、甘いという五つの味やそれが組み合わさってできた味は人の口を狂わせるものだ。馬を走らせたり、狩をすることは人の心を狂わせるものだ。得がたい貨幣は人のすることを妨げるものだ。だから聖人は、自分の腹のためにし感覚のためにすることがない。外のものを去り中のものを取る。)

券内者行乎無名、券外者志乎期費、行乎無名者、唯庸有光、志乎期費者唯賈人也 (荘子 庚桑楚) 

(券内なる者は無名に行い、券外なる者は期費に志す。無名行う者は唯だつね庸に光有り。期費に志す者は唯だ賈人なり。)

(自分の内に遊ぶ者はすることが名誉のためでない。自分の外に志す者は最後に精力がつきてしまう。自分の内に遊ぶ者は常に光がある。自分の外に志す者は己のものでないものを人に借りて売る商売人のようなものだ。)

自分に中心を置き、自分を囲むものに無関心になれとのエマソンの主張である。これは言うことは簡単だけど、行うのは実に至難の技である。似た表現は老子にも荘子にも見られる。老子にしても荘子にしても、世が乱れたのは、外の環境で内なる自然を乱したからだと考えていたようである。

The inquiry leads us to that source, at once the essence of genius, of virtue, and of life, which we call Spontaneity or Instinct. (p.64)

(探求してゆくと、天才と徳と生命の本質である根源、自然とか本能と呼ぶものにゆきつく。)

道常無爲而無不爲 (老子 37章)

(道常に爲すこと無くして爲さざる無し。)

順自然也 (上の老子の引用の王弼の注)

(自然に順うなり。)

以輔萬物之自然而不敢爲 (老子 64章)

(以って万物の自然を輔けて敢えて爲さず。)

 老荘思想はよく無爲自然だと言われる。自然とは文学通り自ら然るものである。太陽が東から出て西へ動く。水は下へ流れる、あるいは春夏秋冬という四季が巡る。これは自とそうあるものであって人間が細工をしているわけでない。人間の体にもこういう自ら然る力が働いている。心臓が動く。胃が胃液を出す。膵臓が膵液を分泌する、長い間食べ物を取らないという空腹感を感じる。これは自分の体でありながら自分の意志を無視して勝手に動いている。まさに自と然るものとしか言いようがない。人間の心にもこの自と然る力が働いている。人間の心に生じてくる考えは、ほとんど自と出てくるものである。何か天来のような感じがする。例えば数学の難問を考えていて、いくら考えてもわからない。けれどある日歩いていてふと答えが頭に浮かぶことがある。あるいは食事の最中にふと答えが閃くことがある。自分の意志とは違う何かがこれを自分の心に生ぜしめたのである。これも自と然る、つまり自然の産物としか言いようのないものであろう。自然の反対の爲あるいは人爲とはこういう自と然る力に逆らうようなものである。荘子は馬を例にしてこれを説明している。足が4本あるのは自然である。馬に手綱をつけ鞍を置くのは人爲であると言う。自然であるか人爲であるのか区別をつけることができないものも少なくないが、これでだいたいの区別はつく。人爲を去って自然に従うことを老荘は強く主張するのである。人間の爲を超越した自と然る力に任したほうが、不完全な人間の爲よりも人を幸福にするし国を平和にすると説く。エマソンは万物のゆきつく源をSpontaneity Instinctと表現する。これを訳せばやはり「自然」ということになるだろう。

In that deep force, the last fact behind which analysis cannot go, all things find their common origin. (p.64)

(その深い所にある力、それ以上分析することができない事物、すべてのものに共通する源がここにある。)

視之不見名曰夷、聽之不聞名曰希、摶之不得名曰微、此三者不可致詰、故混而爲一 (老子 14章)

(之を視て見えず、名づけて夷と曰う。之を聴いて聞こえず、名づけて希と曰う。之を摶えて得ず、名づけて微と曰う。此三なる者は詰を致すべからず。故に混じて一と爲る。)

(見ようと思っても見えない。夷(無色)と名づける。聞こうと思っても聞けない。希(静)と名づく。とらえようと思ってもとらえれない。微(かすか)と名づく。夷希微という三つは問いつつめることができない。だから混じて一となっている。)

それ以上分析することができない源とエマソンは表現する。老子はこれを「之を視て見えず、之を聴いて聞こえず、之を摶えて得ず、詰を致すべからず」と表現する。エマソンも老子も人間の感覚や知識、知恵に非常に否定的である。分析しようもない所、とらえようもないところに本質があるとする。現代は科学の大きな成功に幻惑され、人間の知力に絶対的信頼をおいている人が多い。ずいぶんと自然に逆らったことでも、人間の知力でその害が立証できないならそれを平気で利用する。はたして人間の知力はそんなに信頼できるものであろうか。エマソンや老子が言うように、すべての本源は人間の知力でわからない所、理解しがたい所にあるように思われる。
 西洋では、神が人間や自然、つまり山や海や植物や動物をつくったことになっていた。だから自然の上にそれ以上の力を持つ神という存在がいたわけである。それで人間が精進を重ね、神に近づくなら、神がつくった自然以上のものになり得る、つまり自然を人間が知りつくし、また自然を人間の手でつくることができるという考えが出て来る。人間は自分の知力に自信を持ち、自然の法則を探り、その法則を利用して自然に近いもの、自然以上のものをつくろうとした。これから科学の発達が生まれ、科学技術の発展が生まれた。ところが東洋では自然の上に君臨する神がいなかった。自然すなわち神であった。自然と神は同一なのである。神である自然の法則など人間の知力で知りえようがないと思い、神である自然と調和した生活、自然に則した生活を営もうとした。自然の法則を知ろうなどという大それた考えを持たなかったのである。それで東洋で自然科学の発達が遅れた。偉大な自然科学者は案外と敬虔なキリスト教徒が多い。ニュートンも熱心なキリスト教徒であった。自分は神の教えを守った生活をしている、いつも祈りをささげている、だから自分はずいぶんと神に近づいている、神がつくったにすぎない自然の法則ぐらい知ることができるんだと思う。志ある者之を得るで、四苦八苦の後それを得ることになる。
 このように西洋の人は人間の知力にずいぶんと信頼を置く人が多い。エマソンのような人は西洋では例外的な存在であると思われる。

For the sense of being which in calm hours rises, we know not how, in the soul, is not diverse from things, from space, from light, from time, from man, but one with them and proceeds obviously from the same source whence their life and being also proceed. (p.64)

(というのはなぜかわからないのだけど、平穏な時心の中に生じてくるものは、物や空間や光や時間や人間と異ならず、それらとともにあるものである。その心の中に生じてくるものは、物や空間や光や時間や人間が存在するようになる源と明らかに同じ源から生まれてくる。)

重爲輕根、靜爲躁君 (老子 26章)

(重きは軽きの根と爲る。静は躁の君と爲る。)

(重いものは、軽いものの根となる。静かなものは、動くものの君となる。)

道常無爲 (老子 37章)

(道常に爲すこと無し。)

エマソンは、「平穏な時に生じてくる」と言っている。ということは騒がしく揺れ動いている時は心に生じてないということだろう。これは老子の「重き軽きの根と爲る、静は躁の君と爲る」と一致する。老子も静かなる時にものが生じ、それが外物を操る君となると言っているのである。

天地與我並生而萬物與我爲一 (荘子 斉物)

(天地我と並び生じ万物我と一爲る。)

(天地は自分とともに生まれ、万物は自分と一となる。)

天地不仁、以萬物爲芻狗、聖人不仁、以百姓爲芻狗 (老子 5章)

(天地仁ならず、万物以って芻狗と爲す。聖人仁ならず、百姓以って芻狗と爲す。)

(天地は仁でない。天地は草を動物に食べさせるために生じさせたのでない。人間が食べるために犬を生じさせたのではない。何かのためにしたのではなく、おのずとそうなったのだ。天地は万物を草や犬のようなものとする。聖人も同じように仁でない。人民を草や犬のようなものとする。)

聖人與天地合其德、以百姓比芻狗也 (上に引用した老子の一句の王弼注)

(聖人天地と其の徳を合わし、百姓以って芻狗になそら比える也。)

(聖人は天地と徳を合わせ、人民を草や犬のようなものとする。)

自分の心の中に生じてくるものと、物、空間、光、時間を一体のものとエマソンは見ている。これから心と万物を一体のものと見る思想が引き出せる。これは荘子に見られる。老子も天地が万物を扱うやり方にならおうとしているのだから、自分と天地を一体にしようとする思想が引き出せる。エマソンに近い。

We lie in the lap of immense intelligence, which makes us receivers of its truth and organs of its activity. When we discern justice, when we discern truth, we do nothing of ourselves, but allow a passage to its beams. (p.64)

(広大な知恵の膝に横たわる。そうすることによって、私たちは、その真理を受け入れ、その活動をなす器官となることができる。正義を識別し、真理を識別する時は、自らを無にしてその輝きを通らせるときだ。)

至人無己 (荘子 逍遙遊)

(至人は己無し。)

子?四、母意母必母固母我 (論語 子罕)

(子四を絶つ。意なく必なく固なく我なし。)

(先生は4つのものがなかった。私意がなく、必ず期することがなく、固執することなく、自分がなかった。)

赤ん坊は自分というものの存在を意識していない。けれど成人すると皆自分というものを意識している。自分と他人をはっきり分け、自分が他人よりすぐれよう、他人より得をしようと争うのが人生である。ところが孔子にしても荘子にしてもこの小賢しい自分というのを持たない。自然の大秩序に自分を同化させてしまって我というものがない。我を意識しないのだから、やれ出世競争で後れた、やれ人よりかせぐ金が少ないと嘆くこともなくなるわけである。自分をなくするだけで人間の悩みの大半はなくなってしまう。エマソンも同じく自分を無にすることを説いている。自分が存在すると思っていたのでは、真理の輝きを通らせることができないと言う。

This is the ultimate fact which we so quickly reach on this, as on every topic, the resolution of all into the ever-blesed One. Self-existence is the attribute of the Supreme Cause, and it constitutes the measure of good by the degree in which it enters into all lower forms. (p.70)

(これが他のことと同じように、私たちが非常にすみやかに到達する究極の事実である。つまりすべてのことは、永遠に聖なるひとつのものに分解される。自ら存在することが至高の因果の特徴である。どれだけ自ら存在することが加わっているかが、すべてのものの善の尺度となる。)

載營魄、抱一、能無離乎 (老子 10章)

(営魄(えいはく)に載(の)りて一を抱き能く離れること無し。)

(常居する所にいて、一を抱いて離れるこどがない。)

昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞、其致之 (老子 39章)

(昔の一を得るは、天は一を得て以て清く、地は一を得て以てやす寧く、神は一を得て以て霊に谷は一を得て以て盈ち、万物は一を得て以て生き、侯王は一を得て以て天下の貞と爲る。其れ之を致す。)

(昔一を得ると、天は一を得てやわらぎ、地は一を得てやすらかに、神は一を得て神妙となり、谷は一を得てみち、万物は一を得て生き、王は一を得て天下の長となる。一がこういうことをもたらすのである。)

道生一、一生二、二生三、三生萬物 (老子 42章)

(道は一を生ず。一は二を生ず。二は三を生ず。三は万物を生ず。)

子曰、賜也女以予爲多學而識之者與、對曰然、非與、曰非也、予一以貫之

(子曰く賜や女(なんじ)予以って多く学びて之を識る者と爲すか。對えて曰く然り、非か。曰く非なり。予一以って之を貫く。)

(先生が言われた。「賜、私をたくさん学んで多くのことを知っている者と思っているのか。」子貢が答えた。「そうです。そうでないのですか。」先生が言われた。「そうでないのだ。私はひとつのことで貫いている。」)

万物が一から始まるというエマソンの考え方がここに見られる。東洋では、ものをごたごたと分析せず、一と見なす考え方が支配的である。西洋では科学が発達したことからもわかるように、ものを分析し、多様に見る見方が多いように思っていた。エマソンは西洋にあっては特異な思想家なのだろうか。

故聖人云、我無爲而民自化、我好靜而民自正、我無事而民自富、我無欲而民自樸  (老子 57章)

(故に聖人云えらく我爲すこと無くして民自ら化す。我静を好みて民自ら正し。我事とする無くして民自ら富む。我欲する無くして民自ら樸たり。)

(だから聖人は言う。私がなすことがないと民はおのずから化してくる。私が静を好むと民はおのずから正しくなる。私が事とすることがないと民はおのずから富む。私が欲することがないと民はおのずから生得のままとなる。)

以輔萬物之自然、而不敢爲 (老子 64章) 

(以て萬物の自然を輔けて敢えて爲さず。)

(以って万物のおのずから然ることを手助けして、あえてなそうとしない。)

エマソンは、self-existenceをSupreme Causeの特徴であるとする。このSupreme Causeを「至高の因果」と訳したけれども、これは当然老荘の言う「道」にあたると思われる。self-existenceは老子の言う、「自化」であり「自然」であり「敢えて爲さず」である。

Thus all concentrates : let us not rove ; let us sit at home with the cause. (p.71)

(このようにすべてのことは中心にむかう。さまよう勿れ。因果を体して家で坐ろうではないか。)

吾聞、至人尸居環堵之室 (荘子 庚桑楚)

(吾聞く、至人は環堵の室に尸居す。)

(至人は小さい部屋にしかばねのように坐っていると私は聞いている。)

不出戸知天下、不??見天道、其出彌遠其知彌少 (老子 47章)

(戸を出でずして天下を知る。?(まど)を?(うかが)わずして天道を見る。其の出ずこと弥(いよいよ)遠ければ、其の知ること弥少なし。)

(戸を出ないで天下を知る。窓を見ないで天の道を見る。遠く出れば出るほど、知ることがますます少なくなる。)

老子にしても荘子にしても、あちこちへ旅したり、忙しく活動したりすることで道を得ようとしない。また多くの人と話したりたくさんの本を読んだりすることで道を得ようともしない。単に得ようとしないだけでなく、そういう手段では道を得ることができないと思っていたようだ。部屋の中にじっと坐って道を得ようとする。禅の坐禅のような方法を取ったのである。エマソンの言う「因果を体して家に坐る」とは、荘子の言う「小さな部屋にしかばねのように坐る」にほかならない。

But now we are a mob. Man does not stand in awe of man, nor is his genius admonished to stay at home, to put iself in communication with the internal ocean, but it goes abroad to beg a cup of water of the urns of other men. We must go alone. (p.71)

(しかし私たちは今や群集だ。人は人を畏怖しない。自らの良能を家にとどめようとしない。内なる大海と語ろうとしない。他の人が持っているかめから一杯の水をもらおうと外へ出て行く。私たちは一人で行かなければならない。)

孟子曰萬物皆備於我矣 (孟子 盡心上)

(孟子曰く万物皆我に備わる。)

(孟子が言われた。「万物が自分に備わっている。」)

エマソンがself-relianceを主張するのは、勿論人間というものの素晴らしさ、人間の心の素晴らしさを確信していたからである。エマソンはここで「内なる大海」と人間を礼賛している。孟子は「万物我に備わる」と言っている。表現こそ違っているが、同じく人間を礼賛している。

Live no longer to the expectation of these deceived and deceiving people with whom we converse. (p.72)

 (このように欺いたり、欺かれたりしている、私たちが話をする人々の期待、それに従って生きることをやめろ。)

且擧世而譽之、而不加勸、擧世而非之、不加沮 (荘子 逍遙遊)

(も且し世を挙(こぞ)りて之を誉むとも勧むを加えず。世を挙(こぞ)りて之を非るとも沮(はば)むを加えず。)

(もし世の人がこぞって、ほめてもその人のすることをさらにすすめることはない。世の人がこぞって謗ってももその人のしていることをはばむことがない。)

これは、エマソンがself-relianceの中で何度も繰り返し言っている、人々の期待にそって生きることをやめよ、自分の内心から生きようと言っていることである。荘子の逍遙遊から類似の表現を取り上げた。

The gods love him because men hated him. (p78)

(神々はその人を愛す。なぜなら人々がその人を憎んだから。)

天之小人、人之君子、人之君子、天之小人也 (荘人 大宗師)

(天の小人は人の君子なり。人の君子は天の小人なり。)

(天の立場から見ると小人である者は、人間の立場から見ると君子である。人間の立場から見ると君子である者は天の立場から見ると小人である。)

「神々はその人を愛す。なぜなら人々がその人を憎んだから。」とは、またはっきり言い切ったものである。エマソンは、人間の心の奥に住む神に愛されることを強く主張し、世の中に役立つような人間となることをあまり主張しない。人間は世俗的に無用な人間のほうがかえっていいのだと主張したのは、東洋では荘子である。天から見るとすぐれた人間は、人間の価値観から見ると劣った人間だという荘子の言が見られる。

Everywhere I am hindered of meeting God in my brother, because he has shut his own temple doors and recites fables merely of his brother's, or his brother's brother's God. (p.79)

(いたるところで私は兄弟の中に神を見ることを妨げられる。なぜならその人が自分自身の神殿の戸を閉じ、単にその人の兄弟の神の話、もしくはその人の兄弟の兄弟の神の話をそのまま口にするから。)

子曰、不曰如之何如之何者、吾未如之何也己矣 (論語 衛霊公)

(子曰く之を如何、之を如何と曰わざる者は、吾之を如何ともするな未きのみ。)

(先生が言われた。「なぜだ、どうしようか、と熟考しない者は、私にはどうしようもない。」)

これも人間がなぜ神を見ることができないのか、なぜ聖人となれないのか、その原因を追求した言葉である。エマソンは、自分の心の中にある神殿を閉じてしまって、人の言うことをそのまま口にするからだと言う。つまり、自分の心を用いて考えることもせずに、人の言ったことをただオームのように繰り返す、それがために神を知ることができないのだと主張する。論語の言葉、之を如何、之を如何と曰わざる者は、吾之を如何ともするなきのみと一致する。両者とも自分の頭でよく考えることを非常に重んじ、それをしない人間は悪人や凡人から抜け出ることができないと言うのである。

今、暗記偏重の現行教育の改革を唱える人は多い。生徒によくものを考えさせて独創的な人間をつくらなければならないと主張する人は多い。けれどこういうことは遠く孔子の昔から言わせていたもので、決して現代に始まった新しいことではない。孔子もエマソンも、自分の理性でそれが正しいかどうかどうかよく吟味もせずに世に支配的な考え方にそのまま染まってしまうことを嫌う。非常に嫌う。権威主義だと思われている儒学や、聖人としてたてまつられているエマソンに見られる反逆性であり急進性である。私は古色蒼然たるものと思われている論語や明治維新よりずっと前に書かれたself-relianceに見えるこの急進さに驚く。

That which each can do best, none but his Maker can teach him. No man yet knows what it is, nor can, till that person has exhibited it. Where is the master who could have taught Shakespeare? Where is the master who could have instructed Franklin, or Washington, or Bacon, or Newton? Every great man is a unique. (p.83)

(人が最もよくできることは、その人の創造主だけがその人に教えることができる。その人が人に見せるまで、その人の最もよくできることを人は知らないし知ることもできない。シェークスピアを教えることができた教師がいるか。フランクリン、ワシントン、べーコン、ニュートンを教えることができた教師がいるか。偉大な人はすべて独特である。)

夫随其成心而師之、誰獨且無師乎  (荘子 斉物)

(夫れ其の成心に随いて之を師とすれば誰か独り且た師無からんや。)

(自分の心に従ってそれを師とするなら、師のいない人がいるであろうか。)

自分の持っている一番素晴らしいものは、人が教えることができないののだ、と言うエマソンの主張である。なかなか心を打つ文章である、自分の内にあるものを師とすることは、荘子の言うことである。

Do that which is assigned you, and you cannot hope too much or dare too much. (p.83)

(君にわりてあてられていることをしろ、そうしたら望みが大きすぎることもないし、大胆すぎることもない。)

孟子曰、萬物皆備於我矣、反身而誠、樂莫大焉、強恕而行、求仁莫近焉 (孟子 盡心上)

(孟子曰く、万物皆我に備わる。身に反して誠なる、楽しみ焉より大なる莫し。強恕して行う。仁を求める焉より近きは莫し。)

(孟子が言われた。「万物は自分に備わっている。自分の身を誠にし実にすればこれほど楽しいことはない。努めて自分からおしはかって人に及ばす。仁を求めるのにこれほど近いことはない。」

子曰不患人之不己知、患不知人也 (論語 学而)

(子曰く人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患うなり。)

尹子曰君子求在我者、故不患人之不己知 (上に引用した論語の一句の朱子の注)

(尹氏曰く君子は我に在る者を求む。故に人の己を知らざるを患えず。)

(尹氏が言った。「君子は自分に在るものを求める。だから人が自分を知らないことを憂えることがない。」)

仁者如射、射者正己而後發、發而不中不怨勝己者、反求諸己 (孟子 公孫丑上)

(仁なる者は射の如し。射なる者は己を正しくして後に発す。発して中らざれば己に勝れる者を怨みず。諸を己に反求するのみ。)

(仁を有している人は弓を射る術のようなものだ。自分を正しくして矢を放つ。あたらないとしても、自分にすぐれる者を怨むことなく、あたらなかったのは自分が悪いんだと自分に帰り自分に求めるだけだ。)

孔孟の説く道が、こんなに長い間多くの人を動かした大きな原因のひとつは、その入りやすさにある。孔孟は己に求めることを非常に強調する。己に求めるのはたやすく得やすい。だから多くの人が実行しやすい。それで多くの信徒ができることになる。私たちの社会の価値観は、自分の外にあるものを求めることに傾きがちだ。金を儲けること、高官になること、名誉を得ること、これはすべて自分の外にある。外にあるから求めても得にくい。それでたいていの人間はこういうものを得ることなく一生を終わる。儒学はひたすら己に求める。常識的な価値観の反対だけど、よく考えてみれば確かに真理である。エマソンもまた「君にわりあてられていることをしろ」と唱える。やはり自分に求めることを説いているのである。

''Thy lot or portion of life,'' said the Caliph Ali, ''is seeking after thee ; therefore be at rest from seeking after it.'' Our dependence on these foreign goods leads us to our slavish respect for numbers. (p.88)

(カリフ・アリは言った。「人生での君の運命、役割は、自分に求めることである。だからそれを求めることをやめよ。」これらの外のものに頼ると数を奴隷的に尊敬するようになる。)

孟子曰、欲貴者人之同心也、人人有貴於己者、弗思耳矣、人之所貴者非良貴也、趙孟之所貴、趙孟能賤之、詩云既醉以酒既飽以德、言飽乎仁義也、所以不願人之膏梁之味也、令聞廣譽施於身、所以不願人之文?也 (孟子 告子上)

(孟子曰く、貴を欲っするのは人の同心なり。人人己に貴き者有り。思わざるのみ。人の貴ぶ所は良貴に非ざるなり。趙孟の貴くする所趙孟能く之を賤しくす。詩に云えらく、既に酔うに酒を以ってし、既に飽くに徳を以ってす。仁義に飽くを言うなり。人の膏梁の味を願わざる所以なり。令聞広誉身に施す。人の文?を願わざる所以なり。)

(孟子が言われた。「地位、名誉という貴をほしがるのは、人皆同じである。人々は自分の中に貴がある。考えないだけだ。他人が与えてくれる地位、名誉は真の貴でない。趙孟のような高位の人が与える貴は、趙孟がまたその人から奪い、卑しくすることができる。詩に言っている。すでに酒に酔い、また徳に満ちたる。仁義に満ち足ることを言っているのだ。人が与える肥肉や美穀をほしがらない。名誉を自身の身に施しているから、人の与える美しい衣服を願わないのだ。」)

これも外に求めることを戒めた言葉である。これは、self-relianceの中で本当にしつこいぐらい出て来る。孟子もまたこれをうるさく言っている。今度は告子篇から引いた。趙孟の貴ぶ所趙孟能く之を賤しむという孟子の言葉は巧みである。外の価値のいいかげんさを教え、人間を自分の心にもどらせる力を持つことだろう。

In like manner the reformers summon conventions and vote and resolve in multitude. Not so, O friends! will the God deign to enter and inhabit you, but by a method precisely the reverse. (p.88)

(同じように、改革者は会を開き投票し多数のほうに決める。友よ、そうでない。神が君の中に入り住みつくのを適切とみなすのは、まったく反対の方法によってなのだ。)

知我者希、則我者貴 (老子 70章)

(我を知る者希なり、則ち我なる者貴し。)

(私を知っている者はまれだ。だから自分は貴い。)

唯深故知之者希也、知我益希、我亦無匹 (上に引いた老子の一句の王弼注)

(唯だ深し、故に之を知る者は希なり。我を知る、益(ますます)希、我亦た匹無し。)

(深いから知る者がまれになる。自分を知っている者がますますまれになると、ともがらがいなくなる。)

アメリカは民主主義の国である。民主主義は多数決からわかるように、数の力が支配しがちである。この点に関しては、エマソンは非常に非民主主義的だと言わなければならない。エマソンは数の多さでものの価値を決めることを嫌う。真に正しいものは、反対に数の少ないものの中にあると言う。多くの人にもてはやされることを嫌うのだ。これは老子にも見られる。ものごとを深く知ると、多くの人に容易に理解されない、それでともがらが少なくなり少数派になる。けれど老子はその少数派であることえを自分が貴い証拠としている。神は少数の所に住みつくというエマソンの言葉と一致する。

It is only as a man puts off all foreign support and stands alone that I see him to be strong and prevail. He is weaker by every recruit to his banner. Is not a man better than a town? (p.89)

(人が強く、ものをなすのは、外のあらゆる支えを投げ捨て一人で立つ時だけだ。自分の旗のもとに集まる人が多くなるほど弱くなる。一人の人間は町に集まった群衆よりもよいものでなかろうか。)

是以聖人爲腹不爲目、故去彼取此 (老子 12章)

(是を以って聖人は目のためにせず、腹のためにする。目のためにするものを去り腹のためにするものを取る。)

(だから聖人は目のためにせず、腹のためにする。目のためにするものを去り腹のためにするものを取る。)

爲腹以物養己、爲目者以物役己、故聖人不爲目也 (上に引いた老子の一句の王弼注)

(腹の爲にする者は、物以って己を養う。目の爲にする者は、物以って己を役す。故に聖人目の爲にせざるなり。)

(「腹のためにする」とは物で己を養うことだ。「目のためにする」とは物で己を使うことだ。だから聖人は目のためにしないのだ。)

これは、エマソンのself-relianceでの主張をまとめたような所である。「外の支えを投げ捨て一人で立つ。」と言う。老子の「腹のためにし目のためにせず」と同じことを言っている。a man puts off all foreign support and stands aloneを「腹のためにし、目のためにせず」と訳しても何らかおかしくないのではなかろうか。

Ask nothing of men, and, in the endless mutation, thou only firm column must presently appear the upholder of all that surrounds thee. He who knows that power is inborn, that he is weak because he has looked for good out of him and elsewhere, and , so perceiving, throws himself unhesitatingly on his thought, instantly rights himself, stands in the erect position, commands his limbs, works miracles; just as a man who stands on his feet is stronger than a man who stands on his head. (p.89)

(人に何も頼むな。そうしたら終わりのない変化の中で、君の唯一の固い柱が、やがて君を囲むすべてのものの支えであることを明らかにするに違いない。力は生来持つものである、人は、自分以外の所に、他の所に善を求めるから弱くなるということを知って、躊躇なく自分の考えに従えば、たちどころに自らを正しくし、直立し、手足を自由に動かし、奇跡をおこす。ちょうど自分の足で立つ者が頭で立つ者より強いように。)

古之所以貴此道者何、不曰以求得、有罪以免邪、故爲天下貴 (老子 62章)

(古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞ。以って求めれば得、罪有りて以って免ると曰わざるや。故に天下の貴となる。)

(昔、この道を貴んだのはなぜだろうか。求めれば得、災があっても免れるからだと言わないだろうか。だから天下の貴いものとなる。)

今人之治其形、理其心、有似封人之所謂、遁其天、離其性、滅其情、亡其神、以衆爲、故鹵莽其性者、欲悪之?爲性?葦、蒹葭始萌以扶吾形、尋擢吾性、竝潰漏發、不擇所出、漂、疽、疥、?、内熱、溲膏、是也 (荘子 則陽)

(今人の其の形を治め其の心を理(おさ)めるは、多くの封人の謂う所に似たる有り。其の天を遁れ、其の性を離れ、其の情を滅ぼし、其の神を亡ぼす。衆以て爲す。故に其の性を鹵莽(ろもう)する者は欲悪の?(げつ)、性の?葦(かんい)と爲る。蒹葭(けんか)始めて萌すや以て吾が形を扶く。尋(つい)で吾が性を擢(ぬ)く。竝びに潰漏発っして出ずる所択ばず。漂・疽(そ)・疥・?・内熟・溲膏(しゅこう)、是なり。)

(今の人が自分の体を養い、自分の心を修めるのは、その国境を守る官についている人が言ったのと似ているところがある。その人の有している天から逃れ、性を離れ、情を滅ぼし、魂を滅ぼす。多くの人がすることをする。その性をおろそかにすると、欲と憎しみの芽が出て来て、性を傷つけるあし、おぎのような雑草となる。あしやおぎが最初出て来た時は、体の助けとなる。しかしまもなく性を抜き去ってしまう。またただれや液があちこちに発するようになる。つまり、漂、疽、疥、?という各種のできもの、内熱といわれる心臓の病気や尿が白獨することなどがおこる。)

エマソン、荘子とも同じことを主張しているのだが、その説き方の違いがおもしろい。両者とも内なる本性に従って外のものを求めるなと説いている。エマソンがなぜ本性に従えというかというと、そうしない人間が弱くなる、そうすることで自らを正しくし、奇跡をおこすと言う。ところが荘子は、外を求め内に従わないと欲、憎しみというよこしまな気持が本性を害し、やがて本性を根こそぎにしてしまう、そして重い病気になると言う。エマソンは説き方が楽観的である。荘子は悲劇的である。エマソンによるなら、その言うことに従わなくても大きな害は生じてこない。人間が弱くなるぐらいだ。生きることができないわけではない。荘子によると、その言うことを従わないと大変なことになる。非常な不幸に陥るわけだ。

A political victory, a rise of rents, the recovery of your sick or the return of your absent friend, or some other favorable event raises your spirits, and you think good days are preparing for you. Do not believe it. Nothing can bring you peace but yourself. Nothing can bring you peace but the triumph of principles. (p.89)

(政治上の勝利、地代の値上がり、病気の回復、不在の友人が帰ってくること、その他よいできごとは気持ちを高揚させる。そしてよい日々が君を待っていると思う。そんなことを信じてはいけない。君自身以外の何ものも君に平安をもたらすことはできない。)

夫天下之所尊者、富貴壽善也、所樂者、身安、厚味、美服、好色、音聲也、所下者貧賤夭惡也、所苦者、身不得安逸、口不得厚味、形不得美服、目不得好色、耳不得音聲、若不得者則大憂以懼、其爲形也亦愚哉……吾以無爲誠樂矣 (荘子 至楽)

(夫れ天下の尊ぶところの者は、富貴寿善なり。楽しみ所の者は、身の安、厚味、美服、好色、音声なり。下とする所の者は、貧賤夭悪なり。苦しむところの者は、身安逸を得ず、口厚味を得ず、形美服を得ず、目好色を得ず、耳音声を得ざることなり。若し得ざれば則大いに憂えて以ってや懼む。其の形の爲にするや亦愚かなり………吾以えらく無爲、誠の楽しみなり。)

(天下の人々が尊ぶものは、富、貴くなること、長生き、善である。楽しむところは、佚楽、おいしいもの、美服、音楽である。さけずむものは、貧しいこと、卑しい地位にいること、若死、病気である。苦しむところは、身が佚楽を得ることができないこと、口がおいしいものを食べることができないこと、体が美服を着ることができないこと、目が美人を見ることができないこと、耳が音楽を聞くことができないことだ。もしこういうことを得ることができないと非常に憂えて気に病む。自分の体のためにするのは、また愚かなことだ。……私は無爲が本当の楽しみだと思う。)

夫無爲之樂、無憂而己 (上に引用した吾以無爲誠樂矣の郭象の注)

(夫れ無爲の楽しみ憂い無きのみ。)

(無爲の楽しみというのは、憂いがないことだ。)

エマソンがあげた「政治上の勝利」「地代の値上がり」「病気の回復」「不在の友人が帰ってくること」は荘子の言う貴、富、寿、善にそれぞれあてはまるだろう。善と「不在の友人が帰ってくること」はつながらないように思うかもしれないが、荘子は人を益すことを一般的な意味の善と考えていた。次に例文を引く。

列士爲天下見善矣、未足以活身吾、未知善之誠善邪誠不善邪、若以爲善矣不足活身、以爲不善矣足以活人 (荘子 至楽)

(列士天下の爲に善とせらる。未だ以って身を活かすに足らず。吾未だ善の誠に善なるか、誠に不善なるかを知らず。若し以って善と爲せば身を活かすに足らず。以って不善と爲せば以って人を活かすに足る。)

(立派な男は、天下の人々が善とする。けれど自身の身を生かすことができない。私には、一般的に善と言われるものが、本当の善か、そうでないのかわからない。もし善とすれば自分の身を害するものを善とすることになる。もし不善とすれば他人を救うのを不善とすることになる。)

これから荘子は、人を救ったり、人を益したりすることを、善の一般的意味のひとつと考えていたことが読み取れる。友人が帰って来て嬉しいのは,その存在がお互いを益すからである。荘子は人を益すことを善と考えていたのだから、友人が帰ってくることは善と言える。またエマソンは、エマソンの説く道に従って得るものに、心のpeaceをあげている。荘子は無爲を楽しむと言い、郭象は無爲の楽しみを憂い無しと注する。憂いがないということは心の平安ということであり、心のpeaceということだろう。



後書き

筆者がここで指摘した類似点は、同じような思想を二度取り上げ重複したようなものもあるが、47点にのぼる。エマソンの文は一種の詩であり哲学と言っても体系だったものでない。それで同じような思想を別の表現で繰り返すことも少なくない。この論文で引用したような思想を、エマソンは詩的に音楽的に繰り返すことによって、'Self-Relianceというエッセイは成り立っている。だから'Self-Reliance'の全文で中国思想と類似を見せないものがどれだけあろうかと思うほどである。

なぜこうも似ているのだろうか。その基本的な考え方が似ているからである。ここでのエマソンの基本的な考え方とは、表題が示すように自己信頼である。自己信頼は儒学でも老荘でも非常に重んじる。老荘は自己を信頼するあまり先王の残した礼楽まで否定する。儒学は自己信頼を重んじるとともに、先王の残したものも大事にする。ここが儒学と老荘の別れ道であろう。エマソンは、その熱狂的なにさえ見える自己信頼の主張から考えると、儒学より老荘に近いと思われる。けれど老荘と違うのは、その名誉に対する態度である。老荘は自分の名をあげようとしない。いや懸命に身を隠そうとさえする。荘子は宰相になってくれと請われた時断ったという話が「荘子」にのっている。老荘の徒は名を立てることを嫌い、世から隠れ、隠者としての一生を送る者が多い。だから老子にしても、どういう一生を送ったのかほとんどわからない。彼の残した五千語からその人となりを想像するだけである。ところが儒学は、天下を益することをするなら、当然人が感謝し、その人をたたえ、その人の名を高らしむと考える。今の時代にその人の価値がわからなくても、必ずや後世その人の功を知り、その人をたたえるに違いないと考える。だから名が上がらないとは、人を益することをしなかった、社会に何の役にも立たなかったと取られ、まったくの小人であったということになる。エマソンは、名誉に無関心なその思想にもかかわらず、人生の後半には大いに名が上がり、天下の賢人として赫々たる存在であった。エマソンは決して名を避けてはいないのである。この点から見ると、エマソンは儒学に近い。エマソンは孔孟や老荘の考え方に非常によく似てはいる。けれど老荘の徒でもなく、孔孟の徒でもない。エマソンはやはりエマソンの徒なのである。彼はやはりself-relianceなのである。その思想が中国思想とよく似ているのは、人間というものはアメリカでも中国でもよく似ている、だから人間の道を窮めれば、アメリカでも中国でも、結局はよく似たものになるということだろう。


参考文献
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石田憲次 注Representative Men 研究社 昭和43年
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