『愛についての試論』

-----「序章」-----

 出会いとは不思議なものだと思う。女と男、女と女、男と男、それぞれの生の軌跡を描いて来たものたちがある日出会う。そして愛し合う。二人はそれぞれの生の軌跡を語り合う。その時、この出会いがどんなに偶然的なものだったかを知って驚くのだ。もしこの大学でなくあの大学に進学していたら、二人は出会わなかった。その選択も偶然の要素が強く働いてなされた選択なのだ。そしてそれぞれの母親と父親が出会わなかったなら、そもそも出会いはなかった。彼等の出会いもまた偶然の要素が強く働いた出会いなのだ。そう考えていく時、恋人たちは自分たちの出会いが奇跡のようなものであることを知り、互いに顔を見合わす。この時空に遥か広がっている宇宙の中で二人が出会ったのはまさに奇跡なのだ。

 僕もまた出会った。僕はそれまでに何人かの女性とつき合ってきたが、最終的には孤独を選んだ。孤独は僕にとって心地よかったし、孤独の中でこそ、自分でいられるそう信じていた。しかしある日彼女が現われた。彼女は突然現われた訳ではなかった。彼女とは同じ事務所で四年以上働いていた。彼女とは仕事以外で話すことはほとんどなかった。
 その事務所に僕が転勤してきた時、僕は辛い恋を忘れようとしていた。互いに好きでもどうしようもない恋もある。いや今となってみれば、どうしようもなくしていたのは、僕だった。僕はたんに彼女を愛した。子供ならそれも許されるだろう。でも僕たちは大人だった。僕は本気で愛したが、結婚という言葉はけっして浮かんでこなかった。その言葉は別世界にあった。周りの人たちがその言葉を持ち出した時、僕は驚いた。僕には愛で充分だったのだ。要するに僕は子供だった。その結果彼女がどんなに辛い思いをしているのか考えることはなかった。彼女にとっては出口のない愛だったといまでは分かる。僕たちは以前のように笑い声を上げならがら、話すことはなくなっていた。僕は彼女を忘れようとした。本気で好きな人だったから、それはとても辛かった。ある日夢を見た。以前と同じ笑い顔を僕に向ける彼女。幸福な気持で目覚めた僕は、ベットの中でしばらく横たわっていた。
 僕がその事務所に転勤してきたのは、そんな時だったのだ。そしてちょうどその時彼女は結婚した。幸福な結婚だった。彼女と彼女の彼女はとても仲のいい夫婦だった。僕の視界に彼女が入って来ることもなかったし、彼女の視界に僕が入ることもなかった。彼女の生の軌跡と僕の生の軌跡は、全く別の軌跡を描いていた。その方が幸せだったのかもしれない。いやそんなことはない。出会いとは奇跡であり、尊いものだから。

 新しい事務所に慣れるにつれ、僕は少しずつ彼女のことを忘れていった。彼女とはっきりと別れようと話し合った訳ではなかったが、彼女もそれが一番いいと考えているのは伝わって来た。彼女と例えば街の通りで会うことがあった。そんな時、彼女は友人のような笑顔を向けて、元気?と聞いてきた。僕は笑って頷き、そのまま別れた。僕は朝走り、夜はバーベルを挙げた。要するに以前の生活を取り戻していった。僕は僕は孤独に生きるべき人間だし、孤独に生きるのが一番いい人間なのだと考え出るしていた。
 実際それは素敵な生き方だった。もう一日中彼女のことばかり考えなくなった僕は自由だった。僕は厚い雲が去り、ようやく現われた大空に手足を大きく広げた。僕は飛ぶことを覚えた鳥のような解放感を味わっていた。時々は彼女を思い出し心が痛んだが、その間隔も長くなり、やがて僕は彼女のことを忘れた。

 僕は孤独の中で活き活きと生きた。孤独は素晴らしかった。僕の心は空高く吹く風のように軽やかだった。でもそれは反動に過ぎなかったのかもしれない。病気から回復した時、人はその健康を賞賛する。僕は恋という病気から回復し、健康を賞賛していた。そういうことだったのかもしれない。人は健康であるだけでは、幸福になれない。要するに僕は健康=幸福であると錯覚し、その錯覚の中で孤独を誉め称えていたのだ。それは彼女との恋が苦しいものであり、それだけ病が深かったからなのだろう。
 いまの僕はそう考えるが、当時の僕はそうではなかった。まさに軽やかに毎日を生きていた。幸福と信じることが幸福ならば、当時の僕は幸福だった。

 ここで僕の両親について語ろうと思う。両親について知ることは、たぶん僕について知ることになるだろうから。僕の両親は恋愛結婚だった。父はちっぽけな漁村の出身だったが、それでもその村では有力者の家の出だった。父は就職し、山奥に配属された。そこで父は母と出会った。父は大人しい人間なのだが、地元の青年たちから他所者のお前が俺たちの女に手を出すのは許せないと喧嘩を売られた時、たった一人で立ち向かっていった。父は情熱家だったのだ。父と母の結婚は、両方の家から猛反対された。父は有力者の相手が決められていて、母の家は母が遠く離れていってしまうことを心配していた。それでも父と母は結婚した。それは父が情熱家だったからだ。そう僕は思う。そして僕には父の血が流れている。僕もまた愛する人のために戦う人間なのだろうか?孤独の中で自足する人間ではなく。