九月に観た映画
1999/9


絶唱 Hole ヴァーチャル・シャドー 無法松の一生 結婚のすべて 螢火 マトリックス 朱雀門 鳳城の花嫁 シンプル・プラン 暗黒街の美女 グロリア 汚れた血 愛の集会
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9/3 絶唱

1958年日活映画 9/3NFC
監督:滝沢英輔 脚本:八住利雄
撮影:横山実 美術:松山崇
出演:浅丘ルリ子/小林旭/山根寿子

 二大スター共演の毒にも薬にもならない純愛映画、と評価を下されてそのまま忘れ去られてしまいそうな映画だが、浅丘ルリ子の清冽で可憐な魅力がこの映画に輝きを与え心に残る映画にしている。

 『鳴門秘帖』1957がスター映画にも拘らず、スターの持つ魅力を生かし切っていなかったのに対し、この映画はスターの持つ魅力を十全に生かし切っている。それは滝沢英輔監督が浅丘ルリ子に焦点をシャープに合わせている故だろう。

 山道を駈ける浅丘ルリ子の俯瞰のロング・ショットで映画が始まるとき、この映画は浅丘ルリ子の映画であることが明確に提示されている。僕たちがこの映画を観て心を動かされたとしたら、それはこの映画の純愛ストーリーにでなく、浅丘ルリ子の魅力によってなのだ。浅丘ルリ子がスクリーンに映し出される時、この世界の苛酷さ、やれきれなさは背後に引き、世界は光を放ち始める。浅丘ルリ子演じる主人公に看護される厭世的になった病気の女性があなたに出会って石に齧り付いてでも生きたくなったという時、その言葉はこの映画における浅丘ルリ子がどんな存在なのかを明確に言い表している。

 ストーリーは単純でもあれば図式的でもある。大地主の一人息子と山番の娘の恋という単純なストーリーと、その恋を裏付ける一人息子が夢中になる労働者階級こそが尊いという思想。そんな単純な構造があるからこそ、浅丘ルリ子の魅力が明確に際立つ。

 さらに主旋律を引き立てるために、滝沢英輔監督は従旋律も用意している。窓口の銀行員をやっていて、来る日も来る日も札を数えている30近くになっても独身の女性。その女性は世界の持つ重圧の下に半ば押し潰されて生きているのだが、そのうちひさがれた生が浅丘ルリ子の持つ魅力を引き立てる。

 『絶唱』はスターが映画にプラスに働いた好例だろう。映画は偶像的魅力を己の魅力にすることができる。

 ただこの映画は最後ジョン・ウォーターズ的世界に歪んでいく。  死人に花嫁衣装を着せ結婚式を挙げるというのはかなりファニーで悪趣味な感覚だと感じ、吹き出しそうにもなったのだが、NFCで観ていた人たちは感動して泣いていた。僕の感性の方がおかしいのかな?

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9/6 Hole

1998年台湾映画 9/6シネマライズ
監督/脚本:ツァイ・ミンリャン
撮影:リャオ・ペンロン 録音:ヤン・チンアン
出演:ヤン・クイメイ/リー・カンション/ミャオ・ティエン

 世紀末を迎えた都市。そこではウイルスによる疫病が蔓延している。世紀末ウイルスと名付けられたそのウイルスに感染すると人々はゴキブリのように這い回り、光を極度に嫌うようになる。
 そのような世界の中での純愛を描いたミュージカル映画がこの映画なのだと言えば、冗談だと思われるだろうが、まさにこの映画はそのような映画なのだ。

 どこかリドリー・スコットの『ブレード・ランナー』を思わせる世界で激しい雨が降り続いている。冒頭は映像よりもその雨の音が印象的だ。その雨の音は心の中に刻み付けられる。雨の音は最初から最後まで続く。

 水のイメージはこの映画で極めて重要だが、そのイメージは通常のものから大きく懸け離れている。通常水のイメージは「癒し」といういまではすっかり手垢に塗れてしまった言葉に収斂されるが、例えばこの映画では水のイメージは吐瀉物や小便に姿を変える。水のイメージは一言で言えば、負のものとしてある。全てを腐らせ、閉じ込めるものとしての水のイメージ。しかし同時に水は登場人物たちを生かす。登場人物たちは大きなヤカンに水を入れ、湯を沸かし、インスタント・ラーメンを食べる。そして最後に水はまさに救いを象徴するものとして現れる。天から差し出された透明なコップに入った水。その水は世紀末ウイルスに感染した女性を回復させる。

 ツァイ・ミンリャン監督はこの映画で変わったと言われるが、彼は終始都会の孤独を見つめてきた監督だ。その線上にこの風変わりな映画は在る。
 孤独という言葉は誤解を招くかもしれない。都会とは何か?都会とは農村と違って隣人で構成される社会ではなく、他人で構成される社会なのだ。いまだ僕たちは他人との通路を発見することができないでいる。だからオウム的なものも生まれるのだ。ツァイ・ミンリャンは他人との通路を必死に見出そうとしている都会人を終始一貫して描いてきた。その探求の一つの到達点としてこの映画は在る。

 ツァイ・ミンリャンは真摯に都会人の孤独を見つめ続ける中で、ハロルド・ピンター的不条理に達したように僕には感じれれる。ピンターは不条理にどんな解釈も与えない。不条理を不条理として投げ出し、日常世界にひびを入れる。ツァイ・ミンリャンもこの映画でどんな解釈も試みていない。ピンターとツァイ・ミンリャンが違うところは、ツァイ・ミンリャンが投げ出す不条理は、つまり「Hole」はある程度合理的なものであり、説明が付くものだとうことだ。でもツァイ・ミンリャンはその「Hole」にどんな解釈も与えない。「Hole」は即物的な物としてある。

 その即物的な物としての「Hole」が日常世界にひびを入れ、登場人物たちは「他人へと通じる通路」の探求を始める。登場人物たちは卑近に描かれているが、その戦いにおいて英雄的だ。
 ツァイ・ミンリャンは彼らに勝利を与えるが、その勝利は一時的なものであることを誰よりもよく知っているのはツァイ・ミンリャンだろう。僕はさらに戦い続けるだろう彼に声援を送りたい。

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9/6 ヴァーチャル・シャドー

1998年香港映画 9/7銀座テアトル西友
監督:ジングル・マ 脚本:ロー・チョリン
撮影:ジングル・マ 美術:ハイ・チュンマン
出演:イーキン・チェン/チャン・シウチョン/ケリー・チャン

 世界に対する態度はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』におけるイワン・カラマーゾフのそれによって代表される。

 世界は苛酷で残酷なところだ。これは幸運にも幸福である時の中にいる人々を除いて誰もが持っている根本的思想だ。そしてその幸福な時の中にいる人々もすぐにその時から追い出され、その根本思想に立ち返る。

 イワン・カラマーゾフは弱く無防備な者たち、すなわち子供たちが世界の苛酷さ、残酷さの犠牲になった事件を集めることによって、世界の非情さを証明しようとする。いや、イワンが見ているのはその先だ。そのような世界ではどんな救いも無効なのだ。なぜならば救済が訪れたとしても、小さな無力で無防備な者が味わった恐怖は誰も癒すことはできないのだから。イワンは神無き世界を見ている。

 この映画はイワンの思想の変奏曲なのだ。
 孤児である三人の人間たち。彼らが主人公に選ばれた時から、この映画はイワンの思想を秦で始める。
 一人は銃殺され、後の二人は目の前で愛する人を銃殺される。苛酷な世界は無力で無防備な三人の孤児を戦いの場に引摺り出し、三人の友情すらも、そして幸福な記憶すらも奪う。
 孤児の一人は生きるのに疲れたと言う。そう彼が言うとき、彼は世界の残酷さについて語っているのだ。俺はもうこの世界の残酷さに耐えることができない。彼の言葉はそう聞くべきなのだ。だから彼が地上へと落ちていくとき、彼は幸福に見えるのだ。僕たちには彼が地面に向かって落ちて行くのでなく、天に向かって背中に生えた翼で昇って行くように見える。

 幸福な記憶は辛うじてビデオの中に残されるが、それを観る唯一人生き残った孤児は完全にその記憶を無くしている。国家によって殺人マシーンとされた孤児は、そのビデオに見入るが、けっして記憶は蘇ることはない。ここでは世界の残酷さは極限まで高まっている。

 しかしジングル・マ監督は世界の苛酷さを提示してこの映画を終わらせてはない。記憶を失い殺人マシーンと化した孤児が見入るビデオには世界の持つ優しさが溢れている。孤児は見入るというその行為の中で、その優しさと繋がろうとしている。それは人が希望と名付けるものだろう。

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9/7 無法松の一生

1958年東宝映画 9/7NFC
監督/脚本:稲垣浩
撮影:山田一夫 音楽:団伊玖磨
出演:三船敏郎/高峰秀子/飯田蝶子

 稲垣浩監督の演出力が光る映画。

 冒頭のファースト・ショットが印象的だ。
 軒先の提灯に灯を入れている初老の男をカメラは屋根の高さから真上から見下ろしている。カメラはティルト・アップするとそのまま屋根の高さを保ちながら道路沿いに引いていく。屋根が途切れるとそのままカメラは室内側に下に降りながら回り込み、道路側から反対の側に高床の高さで止まる。開いた玄関戸から子供を叱る母親が見える。そんな悪さをすると巡査さんにやるぞ!母親の真後ろに白の制服に身をかためた巡査が立つ。慌てて立ち去る母親と子供のコミカルなアクション。
 そこまでがワン・ショットだ。クレーンを使った技巧的なショットだが、技巧のための技巧になってない。そのショットは映画を平板性から救い、映画に深みを与えている。

 そのような技巧的なショットはところどころ効果的に使われている。例えば無法松が軍人未亡人の息子と節分の豆まきをするシーン。戸を開けて豆をまくところがロング・ショットで撮られるが、並の監督だったらミドルからクロースで撮るところだろう。ミドルからクロースで楽しそうな無法松と息子の表情を捉え、二人の繋がりを強調するだろう。稲垣浩監督はそうしない。未亡人の住む屋敷の門の屋根を手前になめながら、二人をロングのクレーン・ショットで撮る。二人はシネスコープの中で小さく映るが、その結果二人は屋敷に溶け込む。二人は清楚な未亡人をそのまま現したような屋敷に包まれている。映画の主題が控えめにそして心に触れる形でここでは提示されているのだ。

 美術も素晴らしい。特に夕焼を描いたホリゾントが素晴らしい。あの夕焼空の赤はまだ子供の無法松の悲しさ、寂しさを効果的に伝えてくれた。いまはロケーションというか実写がほとんどになってしまっているが、ホリゾントの効果はいまでも有効だろう。それは映画をより雄弁にしてくれる。

 この映画のクライマックスは無法松が博多太鼓を敲くシーンだろう。無法松を演じる三船敏郎のアクションが印象に残る。力強く、実に粋だ。三船敏郎のアクションは無法松の悲しさ、寂しさを青空の煌めきの中に溶かし込む。
 このシーンがあるからこそこの「悲恋」を描いた映画は爽やかさを獲得しているのだ。

 終とスクリーンに出たとき、僕は拍手したくなった。そんな映画を観たのは久しぶりだ。

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9/8 結婚のすべて

1958年東宝映画 9/8NFC
監督:岡本喜八 脚本:白坂依志夫
撮影:中井朝一 美術:阿久根巌
出演:雪村いづみ/新珠三千代/上原謙

 岡本喜八監督のデビュー作。

 中平康がスピード感溢れるダイナミックな映画でショックを与え、光の国イタリア留学から帰国した増村保造が太陽のように激しい人間の在り方を描き、人々の心を捉えていた頃に岡本喜八はデビューした訳だが、そのように新人監督たちが世間を驚かせていただけに、岡本喜八も野心満々でこのデビュー映画を作っている。

 冒頭の夏の真昼の砂浜での激しいキス・シーンは、岡本喜八監督の気取りであると同時に、自分もまた中原康や増村保造と同じ仲間なのだという宣戦布告でもあるだろう。

 岡本喜八監督の他の二人と比較しての独自性は、その都会性だろう。この場合の都会性は諧謔と言い換えてもいいものなのだが、この映画には終始一貫して皮肉な目がある。
 その皮肉な目は時には批判精神となり、登場人物たちに議論を戦わせる。この映画の会話には機知や洗練はない。そこにあるのは野卑な位の率直さと幼稚な知性だけなのだが、それでもなお僕たちを引き付けるものがあるとしたら、そこには同時に溌溂としたエネルギーがあるからだ。
 そのエネルギーはまさに自分たちの若さを全面的に信じることから生まれるエネルギーなのであって、そのエネルギーが日本経済の高度成長の原動力となったのだ、と言えるだろう。

 少し話が逸れた。この映画は結婚というものを性という視点から眺めたかなり皮肉なというかひねくれた映画なのだが、そのひねくれ加減がこの映画の魅力になっているのではない。繰り返しになるが、この映画の魅力は若さの全面的肯定にあるのだ。

 ラスト・シーンに如実にそれは現れている。この映画の主人公でもあれば狂言回しでもある若い女性は表面的にはけっきょく伝統的見合結婚を選択するように見えるが、見合相手に対するアプローチは大胆であり、その女性と見合相手である青年は機関銃のように会話を交わす。そして二人は車で溢れれ騒音に満ちた大通りを堂々と渡って行くのだ。これは若さの賛歌以外のものではないだろう。

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9/8 螢火

1958年歌舞伎座映画 9/8NFC
監督:五所平之助 脚本:八住利雄
撮影:宮島義勇 美術:平川透徹
出演:淡島千景/若尾文子/森美樹

 『無法松の一生』での稲垣浩監督の演出の素晴らしさに強く心を動かされたばかりだというのに、また今度は五所平之助監督の優れた演出に心を打たれた。

 五所平之助監督もまた画面の奥行きを生かした映像作りをする。
 例えば主人公の寺田屋の女将が身分違いで嫁入りをするシーン。船宿、寺田屋の格式の高さが、寺田屋を平面的でなく、立体的に奥への広がりも見せながら映像として提示することよって、観客に明確になり、貧農の娘である若い女性の不安を如実に伝えていた。

 寺田屋は「寺田屋の変」の寺田屋であり、歴史的な場であり、また坂本竜馬という極めて歴史的な人物も登場するが、五所平之助監督の登場人物たちの心の動きを丹念に拾う演出は、観客の目をしっかりと寺田屋の女将という一人の庶民に注がせる。その結果この映画は一つの美しい魂の軌跡を描くことに成功している。

 淡島千景は背筋のすっと伸びた俳優だが、後半様々な試練が登場人物に襲いかかっても、背筋は曲げられることはない。夫の愛人に寺田屋を奪われそうになり、自分の恋も破れという状況でも、淡島千景は背筋を曲げるという類型的な演技はしない。背筋を伸ばしたまま耐え、どこからか新たな力を見つけ出す。そんな淡島千景の演技が主人公をとても魅力的にしていた。

 五所平之助監督は江戸時代という封建社会から、明治時代という近代国家へと日本が大きく変わる激動の時代に、一人の庶民を置き、その魂が時代と呼応しながら美しく輝くのを描こうとしたのだと言えるし、それに成功しているとも言える。

 この人間は坂本竜馬を通して遠く輝く光があることを知るのだと書いてもいい。この人間もまた寺田屋という形をとった世界の中で生きながら、その世界を辛いものだと感じているが、世界の彼方には光があることを坂本竜馬を通じて知るのだ。その光を恋だと言うならば、その人は完全に誤っているのであって、敢えてその光を名付けるとするならば理想という言葉を使うべきだろう。

 でもこの人間は理想に殉じ彼方へとは赴かない。この人間は最終的には日常的世界を選び、その中で生きていこうとする。そこには如実に五所平之助監督の思想があり、僕はその思想に心を動かされた。

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9/13 マトリックス

1999年アメリカ映画 9/13丸の内ピカデリー2
監督/脚本:ラリー&アンディ・ウォシャウスキー
撮影:ビル・ポープ 美術:オーウィン・パタソン
出演:キアヌ・リーブス/キャリー=アン・モス/ヒューゴ・ウィービング

 フランツ・カフカの小説の主人公が、ある朝目覚めたら巨大な虫になっていたように、この映画の主人公は目覚めたら巨大な虫なっている。この映画の主人公とフランツ・カフカの主人公が決定的に異なるのは、この映画の主人公の場合、「巨大な虫」に変身したのは世界の方だということだ。

 この映画はメタファーとしても観ることができるが、フランツ・カフカがけっしてメタファーを書こうと意図していなかったのと同様に、ウォシャウスキー兄弟もメタファーを提示しようとしているのではない。
 だからこの映画を極めて高度に管理された現代社会、それも管理されていることを当人に感じさせないほど巧妙に管理された現代社会を描いた映画なのだと言うならば、それは完全に誤っている。
 フランツ・カフカが時代の抱え込んでいる不安をひたすら見つめたように、ウォシャウスキー兄弟もまた時代の抱え込んでいる不安をひたすら見つめている。その眼差しの中から『マトリックス』という映画は立ち上がってくるのだ。

 ここまで読んできて、でもフランツ・カフカにはウォシャウスキー兄弟の娯楽精神が無いと指摘する人がいたならば、その人はフランツ・カフカを誤読しているのだ。フランツ・カフカが僕たちに届けてくれているのは、ウォシャウスキー兄弟、同様、娯楽精神に明るく照らし出された作品群なのだ。

 以上記してきた来たように、この映画はフランツ・カフカの小説群との親近性を示すが、もしウォウシャウスキー兄弟がこの映画に関してフランツ・カフカの小説群との類似性を指摘されたならば、彼らはこの映画はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を読んで作ったのだと言うだろう。実際彼らはそれを映画の中で赤と青のカプセルやらクッキーやらで明示している。

 『不思議の国のアリス』に『新約聖書』を加え、現代社会の抱えている不安という調味料を加えれば『マトリックス』は出来上がる。その『マトリックス』がフランツ・カフカの小説群に似てしまうのは、『マトリックス』の背後に高度管理社会が見え隠れするからだろう。この映画の主人公はその社会の中に完全に取り込まれて生きている、ハッキングによって辛うじて生きる喜びを見出している、冴えないサラリーマンなのだ。

 この映画の主人公である男女はコンピュータおたく、ハッカーなのだが、そのことはこの男女が美男美女によって演じられることに依って観客には忘れられる。しかしそれはこの映画の持ついくつかの重要な面の一つなのだ。運動神経に恵まれず、友人を作ることも下手な人間が憧れる夢物語。僕はその夢物語を否定しない。その夢物語の中では彼らの夢そのものである男女が溌溂と走る。その彼らの走る姿こそがこの映画の魅力の核心なのだ、そう僕は感じるから。

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9/14 朱雀門

1957年大映京都映画 9/14NFC
監督:森一生 脚本:八尋不二
撮影:宮川一夫 美術:西岡善信
出演:若尾文子/山本富士子/市川雷蔵

 日本が明治という時代を生み出そうとしていた激動の時代を背景にしたメロドラマ。

 しかしその激動はけっして前面に出て来ることはない。野心家が浪人たちに襲われるところもロング・ショットで撮られる。時代の激動は遠く小さい。
 画面構成も斜めから撮られたショットもあるが、真正面から直線を生かして撮ったショットが中心になり、動よりは静の印象が強い。
 それらの要因があってこの映画は全体的に言って端正だ。その端正さと京好みの色彩の派手さが相俟ってこの映画をいわば落ち着いた豪華さを持った映画にしている。

 この映画の語り口は画面構成から想像されるように、けっして面白可笑しいものではなく、極めて抑制されたものだ。この映画はその抑制された語り口の中でしっかりと主人公たちの悲しみを見つめている。その眼差しこそが、観る者の心を動かす。

 悲劇であるこの映画はとても幸福感に充ちた映像で始まる。笑い声を上げて戯れながら習字をする、豪華な着物に身を包んだ二人の若く美しい女性たち。彼女たちは一人の美青年について話している。このシーンはこの映画で最も幸福なシーンであり、このシーンがあるからこそ、次第に進んでいく悲劇が観る者の心を動かす。

 そしてその悲劇はその中に投げ込まれる人々の立ち居振る舞いによって輝きを得る。人々はけっして見苦しく暴れたりしない。端然と振る舞う。端正な身体の動きが悲劇に明確なフォルムを与え、そのフォルムの中で悲劇は光を放つのだ。
 ふすま越しに漏れ聞こえた話声から、自分の想いが片思いだったと知った若い女性の振舞。彼女は静かに湯呑を畳の上に置き、立ち上がると優雅に身体を回転させ、けっして急ぐことなく、静かに去っていく。ここでは悲しみは身体の中に染み込んだ雅の文化によって昇華されている。たぶんこのようなシーンこそがこの映画の見所なのだ。

 前半から中盤にかけては新しい時代を体現したかのように激しい愛を相手にぶつける山本富士子演じる女性が強い印象を与えるが、後半は断然若尾文子演じる雅そのもののような女性が輝く。弱い人間のように見えた彼女は敵意に充ちた江戸城の中で孤独ではあるがあくまでも毅然と振る舞う。彼女は皇女であり、彼女こそが雅の核心なのだ。彼女は江戸城の中で美しく輝く。雅を傷つけることは誰もにできない。

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9/18 鳳城の花嫁

1957年東映京都映画 9/18NFC
監督:松田定次 脚本:中山文夫
撮影:川崎新太郎 音楽:深井史郎
出演:大友柳太朗/長谷川裕見子/中原ひとみ

 大友柳太朗演じる主人公が素手で戦うとき、ジャッキー・チェンの姿が見えると記したら笑われるだろうか?
 時代劇、いやチャンバラ映画を観るとき、香港アクション映画が浮かんでくる。そう感じて改めてこの映画を眺めてみると香港映画的なものに充ち満ちている。めっぽう強いが、底抜けのお人好しというキャラクターは香港映画が愛してやまないものだ。時間的にはもちろん逆だ。チャンバラ映画-香港アクション映画というラインが本当に成立するのかどうか僕は事実によって裏付けることはできないが、日本の映画監督たちが香港でもかなりの本数の映画を撮っていたことを考えあわすと、このラインは僕の思い付きだけではなさそうだ。
 そんなことを言うとチャンバラ映画は西部劇の影響の下に作られたのだと直ちに反論されそうだが、もうこの頃にはチャンバラ映画は西部劇の影響から脱し、独自のアクションを作り上げていた。それは日本には剣道と柔道という格闘技があったこととけっして無関係ではないだろう。僕は香港アクション映画において登場人物たちが棒を持って戦うとき、チャンバラ映画のスターたちの輝くような動きが見えてくる。

 このユーモア時代劇においてアクションはウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』においてと同様重要だ。『マトリックス』が設定する世界においては、少し考えてみたら分かるように、アクションは意味を持たないが、そのアクションこそが観る者たちの夢そのものなのだ。乞食同然の町人たちにも軽んじられるような浪人が、目の覚めるような身体の動きを見せる。それこそがこの映画の夢の核心なのだ。その夢はどこか破壊的で反社会的だ。だからその夢の毒を弱めるためにこの浪人は実は若殿様だということになっている。図式的に説明すれば、反社会的な存在と権力者を一つに結びつけることによって、夢の毒は体制の中に溶かし込まれる。
 うーん、これはあまり説得性を持たないかもしれない。実際言葉不足だ。アクションについてもっと考えてから上記のことは改めて展開しよう。

 香港映画に話を戻すと最も香港映画的キャラクターは田崎潤が演じる浪人だろう。狡猾でありながらお人好しで、善と悪との中間にいる存在、義に感じれば命も懸ける人物。僕はこの浪人が一番気に入った。

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9/20 シンプル・プラン

1998年アメリカ映画 9/20みゆき座
監督:サム・ライミ 脚本:スコット・B・スミス
撮影アラー・キビロ 音楽ダニー・エルフマン
出演:ビル・パクストン/ビリー・ボブ・ソーントン/ブリジット・フォンダ

 ブリジット・フォンダと山田五十鈴が重なったとき、この映画は黒澤明監督の『蜘蛛巣城』と繋がり、マクベスの悲劇性を獲得する。

 サム・ライミ監督はこの映画で極めて抑制された語り口を選んでいる。莫大な金を巡って多くの人々が殺されるが、それらのアクションは偶発的でまるで冗談のようだ。それらのアクションは際立たされることなく、まるでサム・ライミはそれらを隠そうとしているように見える。
 老人が撲られるシーンは遠く撮られ、老人を撲るアクションは老人に親愛の情を示しているようだ。ここで問題なのはアクションそのものでなく、アクションを起こさせるものなのだ。なにもかも隠してしまうはずの純白の雪に覆われた世界で、それが浮かび上がるとき、僕たちが感じるのは嫌悪の情でも恐怖でもなく、悲しみなのだ。

 老人を撲るアクションが引金となり、「マクベス」は地獄の道を歩む。マクベスは老人が撲られるのを目撃したとき、自分が魅入られたことを知る。もちろん彼は意識的に知っている訳ではないが、知ることによって我が身を地獄の焔の中に投げ入れる。マクベスは妻の言葉に従うように見えるが、妻が放つ言葉はマクベス自身の言葉なのだ。

 王国であった農場は今は荒れ果てている。王国は王子の弟の野心のために崩壊し、王は自殺する。王子は王国の再建を図るが、莫大な金によって再び寝覚めさせられた弟の野心によって王子自身も、そして弟も崩壊する。

 この映画にあるものを欲望が起こす愚かさと見るならば、それは完全に誤っている。幸福な男として登場した主人公は、最後には茨の日々を送る人間になるが、それは夢がなんであるかをはっきり知ってしまったからなのだ。莫大な金は夢を現実の中へと導き入れるが、その時人々は夢は持ち支えるにはあまりにも重いものであることを初めて知るのだ。夢は夢で留まるならば、人を楽しませるが、現実の中に進入すれば、人を押し潰し、滅ぼす。

 弟が王国の復興を感動的に語るのを兄が聞き入るシーンはとても美しいが、その美しさは王国の復興が夢であることを両者とも知っているからだ。しかし莫大な金はその夢であるべきものを現実へと強制的に連れ込み、人々を押し潰すのだ。


 この映画は裏切りと信頼についての映画でもあり、罪についての映画でもあるが、なによりも誰もが満ち足りていた王国を復興するという夢についての映画なのだ、と言ってしまえばなにを突飛なことをと笑われるだろうが、そのような映画であってこそこの映画は悲劇性を獲得する。そうならばマクベスは兄ではなく弟なのだ。

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9/24 暗黒街の美女

1958年日活映画 9/24NFC
監督:鈴木清順 脚本:佐治乾
撮影:中尾利太郎 美術:坂口武玄
出演:水島道太郎/白木マリ/芦田伸介

 都会の闇の中、壁に帽子を被った男の影が映り動くとき、誰しもドイツ表現主義映画を思い浮かべるだろうが、まさにこの映画はドイツ表現主義に対するオマージュなのだ。

 ドイツ表現主義とは鉄の時代、蒸気力の時代を象徴したもの、或いは体現したものだとするならば、クライマックスにおいて主人公がボイラーマンになるのはまさに正しい。主人公がスコップを持ち石炭を掻い出す時、彼は圧倒的な力を見せつけながら驀進する蒸気機関車のボイラーマンになるのであって、そのことによって鈴木清順監督は正確にドイツ表現主義放つ光の中心となる宝石を探し当てているのだ。そのことを祝福するように宝石は炎を上げる石炭の中で神秘的に光る。

 男が地下水道の中から現れる時、彼は死神なのであって、彼は関わる者たちに死をもたらす宝石を手にしている。厄介なことに男は善意の死神であって、そのことによって親友に死を与えてしまう。男は親友の妹に償いをしようとするが、男が償う者になるためには、男は死神であることから逃れなければならない。
 死神とはドイツ表現主義の生んだ者なのだとすれば、男はドイツ表現主義に命を与えているものを破壊しなければならない。ここに鈴木清順監督一流のユーモアがあるのだが、蒸気力は1958年当時の日本社会でトルコ風呂という姿を取っている。トルコ風呂のサウナの蒸気は石炭の炎が生むものなのだ。男は不可避的にトルコ風呂のボイラー室へと向かう。ここにおいてこの映画の唯一のナレーションが入る。そのナレーションは男の独白なのだが、男は石炭を掻い出して逃げ口を作ろうと言う。その独白は蒸気力の源を破壊しそのことによって俺は死神であることから逃れようと解釈すべきなのだ。

 男は上半身裸になり蒸気時代の労働者となり、遂に出口を作る。その出口を使って逃れるのが男の親友の妹だというのは象徴的だ。男は蒸気力の崩壊の中で倒れるが、そこでドイツ表現主義は最高の美しさを見せる。影と光。蒸気と石炭と炎。

 蒸気力が崩壊した後、男は影の無い明るい世界にいる。男はもはや死神ではない。

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9/24 グロリア

1998年アメリカ映画 9/24ニュー東宝シネマ
監督:シドニー・ルメット
出演:シャロン・ストーン/ジェレミー・ノーザム

 監督のシドニー・ルメットは産業映画を生み出すハリウッド・システムが持ち得る最良の監督の内の一人だ。だから僕はほとんど話題になっていないこの映画を期待して観に行ったのだが、その期待は裏切られなかった。

 いきなりラスト・シーンから書こう。あのラスト・シーンを「リアル」なものだと受け取った人がいたとしたら、その人はかなり不注意な人だ。ラスト・シーンは幻影なのだ。
 グロリアはほとんど不可抗力であるにせよ、組織の人間を二人殺している。そしてその組織は、組織に協力する警察のシーンが挿まれて明確にされているように、かなり大掛かりな組織だ。ではその組織のボスはどんな人間だろうか?一見温和に見えるこの初老の男は、競馬場で君はラッキー・ガールだからと言ってグロリアに馬を選ばせておきながら、それをチェックしグロリアに再び選び直させるような、慎重で冷静な人間だ。
 それならば、組織の崩壊の危険を冒しながらも、グロリアと子供を生き永らえさせるというストーリーはあり得ない。組織を壊滅させかねないグロリアと子供は、あの取引の後殺されるのだ。
 飛行機が空に舞い上がるラスト・シーンは相対的にかなり長く、かつ印象的なシーンになっている。それはそのシーンが幻影だからなのだ。飛行機が空に舞い上がるときグロリアと子供の幻影は完成する。そのシーンはグロリアと子供へのレクイエムなのだと言ってもいい。
 ではグロリアと子供はどんな幻影を見るのだろうか?

 冒頭のショットは心に残りもし、映画に引き込みもする。
 囚人服を着たグロリアは背中を見せながら窓から外を見ている。壁は白く、窓は陽光で明るい。
 ここに提示されているのは理想を、その理想がどんなものであるか分かっていないにせよ、追い求めようとする人間なのだ。このショットがあるからグロリアが命を張ってまでも子供を助けるというストーリーが説得力を持つのだ。

 グロリアはほんどん自分でも訳が分からないまま子供を助ける。組織のボスはそれを母性本能だと分析してみせるが、その分析において組織のボスはグロリアを完全に見誤っている。グロリアを動かすのはアメリカン・ファミリーなのだ。
 グロリアはアメリカン・ドリームと一体になった幸福なアメリカン・ファミリーから最も遠いところにある家庭で育っている。姉とグロリアは憎み合い、両親はたぶん離婚かなにかでグロリアを捨てている。でもそれこそが現実のアメリカン・ファミリーなのだ。それをグロリアは子供を見た瞬間悟るのだ。

 子供は少数民族に属し、アメリカ社会の負の面にもっとも晒されやすい存在だ。そのことを象徴するように競争社会=暴力社会であるアメリカ社会によってその子供は暴力的に家族全員を奪われる。そのことによって子供は現実のアメリカン・ファミリーを体現する存在になり、グロリアにアメリカン・ファミリーが幻影であることを悟らせるのだ。

 グロリアと子供はアメリカン・ファミリーという幻影が崩壊する中で、再びアメリカン・ファミリーを夢見る。いやそう書いてしまえば、間違っている。グロリアと子供はアメリカン・ファミリーが幻影以外のなにものでもないことが暴露されることによって、初めて戦いの場に出ることができるのだ。グロリアと子供は真のアメリカン・ファミリーを築こうと戦う。それはかなり困難な戦いだ。競争社会=暴力社会であるアメリカ社会は暴力によって常にアメリカン・ファミリーを破壊しようとする。

 グロリアと子供とはアメリカ社会の暴力によって押し潰され、殺される。彼らができるのは幻影を見ることだけだ。その幻影があの取引の後に続く部分なのだ。あのラストの部分が美しいのは母親-子供の関係によってではなく、困難な戦いを戦い抜き死んでいった者たちが見る幻影だからなのだ。

 だから飛行機が上昇していく空の向こうにはジョン・カサヴェテスの顔が見えるのだと僕は記しこの感想文を終わりたい。

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9/27 汚れた血

1986年フランス映画 9/27ユーロスペース
監督/脚本:レオス・カラックス
出演:ドニ・ラヴァン/ジュリエット・ビノシュ/ジュリー・デルピー

 バイクに乗って疾走する天使。天使からの逃走。夜バスでの運命的出会い。誤解的偶然の中で青年は走るのを止めたもう若くない女性を恋する。その恋は不可能な恋だ。なぜならば青年は走る人間であり、女性は走るのに疲れ、それを放棄した人間だからだ。

 青年もまた走ることを放棄しようとしている。その企ての中で青年は走るのを止めた女性と出会う。出会の時、女性は半分眠っている。動ではなく、静の中にいる女性。だからこそ青年は女性を愛するのだ。女性は青年に私はずっと年上の男性かずっと年下の男性しか愛さないと言う。そう女性が言うとき彼女は自分は動的な関係を好まない、安定した静的な関係を望むと言っているのだ。

 この映画で最も美しいシーンはパラシュートのシーンだろう。女性は空に飛び出した途端、失神する。そのことによって彼女は自分が静を選んだ存在であることを露にする。彼女が本物であることを知ったとき、青年は本気で女性を愛する。青年の腕の中で女性は静そのものであり、パラシュートの下で失神した女性を抱いた青年のイメージは、青年と女性との関係の本質をこれ以上ないほど美しく描いている。

 青年は動の人間から静の人間になることによって、自分の生をリセットしようとしている。青年の目的は静の人間になることではなく、青年の表現をそのまま借りるならばコンクリート漬けになった自分の腹部から逃れることだ。
 喜劇的なことに、或いは全く同じことだが悲劇的なことに、その逃走において青年はけっして静の人間になることはできない。逃走は不可避的に青年を走る人間にする。それは青年がデビッド・ボウイの音楽に合わせて踊るシーンが語ってることだ。デビッド・ボウイの音楽が流れると青年は腹部を押さえ夜の街の通りに飛び出し、駆け出す。青年は喜びを発散させながら夜の街を走る。パラシュートのシーンが女性が静の人間であることを明らかにしたのと対照的に夜の街でのダンスのシーンは青年が動の人間で在ることを明らかにする。ダンスを終えた青年が戻ると、女性はいない。
 青年は永遠の片思いの中に置かれる。

 だから青年を最終的に救うのはバイクに乗った動の天使なのだ。バイクに乗った天使は青年を破滅に導くが、その破滅の中で青年はコンクリート漬けになった自分の腹部からの逃走に成功するのだ。
 青年は銃弾によって穴を開けられた腹部から血を流しながら、走ることの極限値である飛行機を目指す。もっと速く!もっと速く!

 走るのを放棄した女性は、こう言葉にしてしまえば余りにも薄っぺらに響くのだが、生とは走ることなのだと気付く。女性が文字通り走りだすとき、女性は生から動へと移り、一つの恋が完成するのだ。

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9/28 愛の集会

1963年イタリア映画 9/28ユーロスペース
監督/脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:マリオ・ベルナルド
出演者:アルベルト・モラヴィ/オリアナ・ファッラーチ/チェーザレ・ムザッティ

 この性に関するイタリア国民のインタヴュー集において、パゾリーニはかなり真剣だ。

 パゾリーニの関心はイタリア国民の性意識に在るというよりも、性意識の在り方が明らかにするイタリア国民の本質(正体)に在るように見える。その本質(正体)の前でパゾリーニは絶望する。

 このインタヴュー集には、パゾリーニ自身が言うように、大きな欠落がある。ブルジョアのインタビューが無いのだ。彼らはパゾリーニのインタヴューに応じない。この映画ではそれはブルジョアが性に恐怖を感じているからなのだと分析されている。ともかく大きな欠落を認めた上で、パゾリーニはこう包括する。

 北部(都市部)においては、伝統的な性意識は崩壊してるが、崩壊しながらもその残骸がまだ人々の性意識に影響を与えている。その人々はまだ新しい性意識を確立していなくて、伝統的な性意識の残骸の影響の下で混乱している。
 南部(農村部)においては性意識は明確だ。そこでは伝統的な性意識が毫も傷つかず生き延び支配している。
 そう分析しながらパゾリーニは絶望するのだが、それは明らかになったイタリア国民の性意識によってではなく、インタヴューそのものが成り立たないからだ。パゾリーニは性意識の奥底に到達したいのだが、人々は「隠す者」として立ち塞がる。ある人々はインタヴュアーとしてパゾリーニが発する「性」という言葉に聞こえないふりをする。

 イタリア国民は性において強く抑圧されていて、性から目を逸らそうとして、性的存在としての自分をきちんと把握していない。抑圧を一番広い意味での社会的な規制だとすると、パゾリーニはイタリア国民がいまだ個人的自由に達していないことに気付く。そこにおいてパゾリーニの絶望が生まれるのだ。

 ラストにおいてパゾリーニは玉砕覚悟でストレートにイタリア国民の性意識に突撃する。パゾリーニが発する問は売春宿は無くすべきものなのかという問だ。パゾリーニはその突撃で旧態依然とした動物的レヴェルに留まる性欲望に出会う。ここには自由はない。欲望への盲従があるだけだ。

 パゾリーニはたぶん、たとえ欠片でもいいから、自由に溌溂として生きる人間を見出そうとして、このインタヴューを始めたに違いない。結果は全く正反対の人間をイタリア国民の中に見出した。イタリア国民は性に囚われ、自由な人間と反対の人間になっている。

 性は重要だ。なぜならそれは生の根幹に関るものであり、性をしっかり見つめそれが自分の生に対して持っている意味を見極めなければ、生は輝きを失うからだ。
 『愛の集会』の後パゾリーニの関心が性に強烈に集中されるのは当然だろう。

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