五月に観た映画
1999/5


奇跡の丘 本日休診 ソドムの市 太平洋の鷲 ワンダフルライフ 細雪 スパニッシュ・プリズナー とんかつ大将 ディナーの後に
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5/2 奇跡の丘

1964年イタリア映画 5/2ユーロスペース2
監督/脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:トリーノ・デッリ・コッリ 美術:ルイジ・スカッチャノーチェ
出演:エンリケ・イラソキ/マルゲリータ・カルーゾ/スザンナ・パゾリーニ

 黒と白の対照を最大限に生かした美しい画面。黒の美しさ、白の美しさが心を動かす。
 画面は動でなく、静を目指して構成されている。その静は石で作られ直線で象られた建物によってしっかりと支えられている。
 そのような静かな美しさに充ち満ちた映像でイエス・キリストの生涯が語られる。

 『奇跡の丘』でイエスの起す奇蹟は、ほとんど大道芸のように表現される。パゾリーニは奇蹟の中に聖なるものを示さない。パゾリーニの視線を追うとき、パゾリーニの視線が熱を帯び、炎をあげるのは、イエスが怒りを言葉に表す時だということに気付く。
 パゾリーニは言葉の中にイエスを見ているのだ。

 イエスの言葉は激しい。イエスの言葉はこう叫んでいる。全てを破壊せよ。私だけを見ろ。私だけを愛せ。
 イエスの言葉は静かな美しさに充ち満ちた映像によって支えられている。映像の静かさの背後には激しさがある。その激しさが抑制されているところに生まれているのが『奇跡の丘』の映像の静かさなのだ。だからイエスの激しい言葉を支えることができる。

 イエスは手に太い釘を打ち付けられるとき、苦痛の叫び声を上げる。それはキリストに対するパゾリーニの冒涜ではない。そうではなく超人でないイエスに対するパゾリーニの愛なのだ。パゾリーニはイエスの中に一人の反逆者を見ていると言ったら、たぶん間違っているだろうが、パゾリーニのイエスに対する共感は怒れる反逆者という点にあるのだと僕は感じたことも確かなのだ。

 『奇跡の丘』では常に鳥たちの鳴声が聞える。鳥たちの鳴声は、イエスという一人の人間の物語を、人間社会という閉ざされた所ではなく、世界という開かれたところに投げ入れる。イエスは世界と繋がり、人間を超える。いや人間たち全てが世界に投げ入れられているのだ。そこにおいてこそ神がその顔を見せる。

 パゾリーニは神を信じていないとしても、絶対的なものを求めている。だからイエスに共感しこのように力の籠った映画を作るのだ。
 これは本当に僕の勝手な感想なのだが、パゾリーニは絶対的なものを求めているが、最後の最後のところで絶対的なものを信じていない。パゾリーニは信じていないものに必死に手を伸ばしている。そう僕は映画が終わったとき感じたのだった。

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5/6 本日休診

1952年松竹映画 5/6NFC
監督:澁谷実 脚本:斎藤良輔
撮影:長岡博之 音楽:吉沢博
出演:柳永二郎/淡島千景/佐田啓二

 1952年作の映画。戦争が終わって7年の年月が経っているが、その7年は戦争という苛酷な体験の記憶を消すには余りにも短く、『本日休診』の登場人物たちも戦争体験をそれぞれに抱えながら生きている。

 『本日休診』はユーモアに満ちているが、それぞれの登場人物たちはかなり残酷な生を生きている。
 父親が亡くなっても、弔いの金がなく、そのお金を工面するために身を売る娘。娘の恋人は娘を激しく責めるが、受け入れるしかない。娘は身を売ったとき、死子を身籠もり、倒れてしまう。娘の兄は遊び人で、娘の入院費を払う甲斐性が無い。
 不幸を絵に描いたような娘。娘は戦争直後の日本社会を象徴する存在と言ってもいいが、娘はけっして無残な印象を与えない。それは凛とした雰囲気を持つ淡島千景が娘を演じているせいもあるが、むしろそこに澁谷実の人間賛歌があるからなのだと僕は感じた。

 娘が入院するシーンが心に残る。
 夜、娘はリヤカーで病院に運び込まれる。娘が入院した日から三日雨が降り続く。ベッドに寝ている娘のミドル・ショット。白い壁に窓ガラスを滑り落ちる雨の影が映る。そして日が射す。白い壁一面が明るくなる。娘の顔が驚くほど美しく輝く。

 不幸=悲しみという公式に澁谷実は従わない。娘が入院するシーンには人間は不幸の中でこそその真価を発揮するのだという澁谷実のメッセージが在る。そのメッセージが『本日休診』という映画をとても気持のいいものにしている。

 『本日休診』は不幸な人たちについて語った映画だが、陰惨さからは最も遠い映画になっている。それは澁谷実がこの映画で取っている映画技法にも依るだろう。
 オープニングは走る列車をロングのパンで捉えたショットから始まるが、そのショットに代表されるようにこの映画ではかなりダイナミックなショットが多用されている。それらのダイナミックなショットが作りだすリズムが陰惨さを追い払っている。主人公の老年の医者が走る列車の間に蹲るショットなんてアクション映画にこそ相応しいショットだ。

 『本日休診』は月夜の美しいシーンで終わるが、その月夜を見上げるのは、戦争に狂気を与えられた青年だ。ここでは戦争の苛酷な体験が詩情に昇華されている。娘の入院シーンとこのシーンは共鳴しながら、人間たちを賛歌する。

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5/10 ソドムの市

1975年イタリア映画 5/10NFC
監督/脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:トリーノ・デッリ・コッリ 美術:ダンテ・フェルレッティ
出演:パオロ・ボナチェッリ/ジョルジョ・カタルディ/ウベルト・パオロ・クィンタヴァッレ

 極限は美しいという言葉が掲げられるが、この映画にある極限は美しいどころか生理的嫌悪感を起こさせる。

 性は20世紀の芸術を考えるとき最大のテーマだが、パゾリーニはそのテーマに向かうとき、決して観念的なアプローチをしない。
 性が20世紀の芸術を考えるとき最大のテーマになっているのは、ジークムント・フロイトによって創始された精神分析学の影響が大きい。問題はフロイトが性を無意識も含めた意識の関数として捉えていることだ。精神分析学が最も普及したのはアメリカだが、そこでは精神分析学は通俗化され、異常な性の在り方は意識の歪みのせいだとされ、意識が健全になるとき、性も正常化されると理解されている。

 このような考えは性をとても窮屈なものにしていることはすぐに理解してもらえるだろう。性が窮屈で貧弱なものになってしまっていて、それが現代人の生から輝きを奪っている。
 そこで性を無意識も含めた意識に従属するものから開放することが、20世紀の芸術の最大のテーマになるのだ。

 話を戻すとこのテーマの追及においてパゾリーニはけっして観念的に立ち向かわない。言い方を変えるならば、性を解釈しようとしていない。性を生理的レヴェルで観察している。そしてその視線はかなりタフだ。どんなにおぞましく性が見えてもけっして目を逸らさない。英雄的だと言ってもいいほどだ。

 パゾリーニは性を追及するのにかなり厳格に映画を構成している。それはパゾリーニがこのテーマがかなり手強いテーマだということを理解していたからだろう。
 導入部はかなり端正が画面が中心になる。端正な画面を中心としながら、画面を斜めに横切る線で中盤からの無秩序を予感させている。映画が進み始めると、時折ロール・ショットが差し挟まれ、秩序の中から無秩序が確実に顔を見せ始める。
 中盤から後半にかけては、カメラは画面を構成しようとする意志は捨て去り、見ることに徹している。思わず目を背けそうになるのをじっと耐えながら、ひたすらに見つめている。
 終盤はカメラの構成しようとする意志を感じる。ロング・ショットが多用される。快楽殺人のリアリティーを高めるために、ロング・ショットを採用している面ももちろんあるだろうが、ここではカメラは見ることにもはや耐えられなくなっているのだ。だからカメラは遠くから見、見ることにかろうじて耐えるために画面を構成しようとする。形から見れば、構成的画面から始まり、構成的画面で終わる。
 パゾリーニは全体を見渡しながら、導入部、前半、中盤、後半、終盤の配分を考えている。配分を考えながら、ひたすら性を見つめているのだ。

 『ソドムの市』をスキャンダラスな映画だと評する人は性に関してまだ一度も真剣に考えたことがない人だろう。『ソドムの市』におけるパゾリーニの真摯さは尊敬に値する。

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5/12 太平洋の鷲

1953年東宝映画 5/12NFC
監督:本多猪四郎 脚本:橋本忍
撮影:山田一夫 美術:北猛夫
出演:大河内傳次郎/二本柳寛/清水将夫

 南太平洋の夕焼が映し出されて映画は始まる。それは固定で撮影された映像でパセティックな雰囲気を持っている。
 次のショットは抜身の日本刀のクロース・アップになる。カメラが引くとそこは警察の取調室で、暗殺者である青年がスクリーンに登場する。青年は日独伊三国同盟を強硬に反対する山本五十六こそ最大の敵だと弁舌する。
 次のショットの舞台は電話会社のオペレータ室になる。緊迫した様子で交換手が電話を取次ぐ。海軍大臣から山本五十六次官への緊急の用件が伝えられる。
 そのショットに続くのは、戦闘機のテスト飛行のショットだ。錐揉みしながら落下する戦闘機。錐揉落下した戦闘機は再び天空を目指す。そのテスト飛行を視察しているのが山本五十六だ。

 以上導入部からのシーンの繋ぎを説明したが、これだけでも本多猪四郎監督のダイナミックで優れた娯楽センスを感じてもらえるだろうと思う。

 演出面で面白いなと思ったのは、時間の流れを応接室から見える庭の四季の移り変わりで表現していたことだ。方法自体はありきたりなのだが、映画が人間世界という限定された世界から、自然界全体へとその演出で開放される面があっていいなあと思ったのだ。ただこれは僕のごく個人的な感じ方かもしれない。

 本多猪四郎監督はここで単なる娯楽映画でなく、戦争を真摯に追及した映画も目指している。その意図は主役に大河内傳次郎を配役することによって、ほぼ成功している。僕がこれまでスクリーンで観た限りで判断するならば、大河内傳次郎は剽軽で親しみ易い面を持っていてそれが魅力になっている。この映画で大河内傳次郎は重厚な演技を基調にしてこの映画の真摯に戦争を考えるという面を支えながら、同時にその剽軽な魅力でこの映画を真摯故の退屈さから救い、娯楽映画として楽しめるものとしている。

 最後のシーンは再び南太平洋の夕焼のシーンとなる。
 そのシーンは平和を最後の最後まで願いながら、空中で銃殺された山本五十六へのレクイエムなのだろう。

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5/17 ワンダフルライフ

1998年日本映画 5/17シネマライズ
監督/脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕 録音:滝澤修
出演:ARATA/小田エリカ/寺島進

 この映画は五十年の時の流れを貫いた純愛映画なのだと観ることもできるが、僕は映画についての映画なのだとなによりも感じた。だからこう始めよう。『ワンダフルライフ』は映画について語った映画なのだ。

 この映画はおとぎ話的設定の中で成り立っているが、そこでは映画で表現することの意味がアクチュアルに追及されている。

 表現することを疑わない人は幸せだ。この映画でも表現することを疑わない人たちは幸福な思い出を抱いたまま「天国」へと行く。
 問題は表現することを信じられない人たちだ。いま僕が「表現することを疑わない人たち」と表現した人たちにしろ、何を表現するのかという問題には立ち向かわざるを得ない。本当に表現すべきことはあるのか?
 むしろこの問題の方が重要かもしれない。人々はいきなり何を表現すべきかという問を突きつけられ、戸惑う。その戸惑いの中で表現すること自体に対する疑問も生まれるのだ。

 何を表現すべきかという問は、つまり選択を迫る。己の生に表現すべきものと表現すべきでないものがあるのか?もしあるとすればそれはどんな理由によってか?その問を何を表現すべきかという問を突きつけられた人々が徹底的に考えなければならない問だ。その徹底的な考察の中でひとりの青年の選択しない選択(責任の取り方)という結論も生じる。

 人々が何を表現するかを決めたにしても、それを表現する人々は表現することに疑問を感じている。表現することに、生の一つの断面をイメージ化することにどんな意味があるというのだろうか?
 是枝裕和監督はここに表現する側の一人の青年を登場させている。青年が映画で表現することを選んだのはまさに映画で表現すること、そのことだった。青年は表現するという体験を通して、表現の持つ力を信じるようになる。だから映画で表現すること、そのことを表現することを選択したのだ。

 もう一人興味深い登場人物がいる。その青年を愛している若い女性だ。青年はけっきょく「天国」へと去っていく。つまり青年は本質的には表現される側の人間だったのだ。青年を愛する若い女性は違う。彼女は青年を通して表現が持つ力を見出し、かつ表現する側に留まることを選ぶ。彼女は一人の芸術家なのだ。

 『ワンダフルライフ』はひとりの芸術家の誕生の物語なのだ。

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5/19 細雪

1950年東宝映画 5/19NFC
監督:阿部豊 脚本:八住利雄
撮影:山中進 美術:進藤誠吾
出演:花井蘭子/轟夕起子/山根壽子/高峰秀子

 冒頭大阪の街が俯瞰のロング・ショットで映し出される。
 原作は言わずと知れた谷崎潤一郎だが、彼は東京の下町で生まれ育ち、関西に移り住んだ人だ。谷崎は言わば関西ではよそ者であり、よそ者であるからこそ、関西の文化の持つ良さの最高の理解者の一人となった。
 『細雪』は豪商の四姉妹を主人公にしているが、その豪商は先代の放縦な経営が祟って没落の道を辿っている。それだからこそ逆にその豪商一家は格式に拘り、関西文化の華を体現している。四姉妹は近代化の中で滅びていく関西の文化そのものなのだ。

 『細雪』は関西文化の最良のエッセンスを描いている。そしてそれはやがて滅びていくものなのだ。
 四女を演じる高峰秀子の演技がこの映画のドラマ面をしっかりと支えている。四姉妹の中で唯一人洋装であり、人形作りで収入のある四女は近代的な人間に見えるが、本質は古風な人間だ。誤解を恐れずに貴族という言葉を使うならば、四女は貴族的文化の継承者であるが故に、「下層」の人間に、下層の人間の持つ貴族的文化にはない生命力に強烈に惹かれるのだ。
 山根壽子の演じる三女は電話を取ることもできない程、おっとりとした人間で、四女と対照的に見えるが、四女と戦い方が違うだけなのだ。四女は「下層」の人間たちが持つ生命力を貴族的文化に吸収しようとするが、三女は貴族的文化を理解できないものたちを全て拒否することによって、貴族的文化を守る。四女が鋭く指摘するように、電話口で子供のような応対しかできない彼女を駄目な人間だとしか判断できない人間は彼女を愛する資格はないのだ。電話もとれないおっとりとしたところにこそ彼女の、つまり貴族的文化のエッセンスが存在する。

 映画のラストは四女の敗北と三女の勝利で終わるように見えるが、三女にしたところでその勝利は一時的なものだろう。やがては三女も家庭の中で貴族的文化を守り切れずに、離婚するだろう。映画は暗く終わるが、滅びて行くものが放つ輝きがこの映画には確実にある。

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5/24 スパニッシュ・プリズナー

1997年アメリカ映画 5/24シネセゾン渋谷
監督/脚本:デビッド・マメット
撮影:ガブリエル・ベリステイン 音楽:カーター・バーウェル
出演:キャンベル・スコット/レベッカ・ピジョン/ベン・ギャザラ

 古典的な詐欺師の手。スパニッシュ・プリズナー。
 スペインに財産と妹を残して亡命してきた。救出のためのお金を貸して欲しい。救出に成功すれば、財産の一部と妹は素晴らしい君のものだ。

 そのスパニッシュ・プリズナーを核に映画は組み立てられる。
 映画の語り口はとても地味だ。セットもはっきり言って安っぽい。出来合のTVドラマで使われるようなセットだ。主演の男優も女優も華のある人たちではない。地味な物語が地味に語り続けられる。犯罪映画だが、激しいアクション・シーンがあるわけでもない。

 ロケーション撮影もあるが、室内劇を観ているような雰囲気がある。その地味な語り口の中で、次第に知的企みが姿を現していく。その企みは一重二重三重四重に張り巡らされていてスリリングだ。張り巡らされた企みは次第に主人公を追いつめていく。そして最後に主人公は拳銃を突きつけられ、死を迫られる。

 種明かしは衝撃的でもなんでもない。観客が充分に想像が付く結末なのだが、監督の誇りは最後のどんでん返しの衝撃性にはけっして無い。監督の誇りは一つ一つの仕草、言葉たちが主人公の死へと知的に収斂していく、そのプロセス、このプロセスという言葉はこの映画のストーリーを動かす主動力ともなっているのだが、の語りに在る。

 だからこの映画は主人公であるビジネスマンの射殺で終わっても良かった。その方がこの映画の持っている知的遊戯性を明確に浮かび上がらせただろう。この映画の地味な語り口は映画が進むに連れて燻し銀のような魅力を持ってくる。

 この映画は人間の生について追及した映画でもなく、社会的問題を追及した映画でもない。また人生の憂さを忘れさせてくれる娯楽映画でもない。知的遊戯をギミックなしに純粋に語った映画なのだ。ある意味ではこれほど贅沢な映画はない。

 浮世離れした極上の贅沢な映画がここにある。その贅沢な味は万人向きではないから、僕は人にけっして勧めないが、僕はこの映画を観てとても豊かな気持ちになったのだった。

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5/25 とんかつ大将

1952年松竹映画 5/25NFC
監督/脚本:川島雄三
撮影:西川亨 美術:逆井清一
出演:佐野周二/津島惠子/角梨枝子

 川島雄三監督は日活の監督というイメージが強いのだが、これは彼の松竹時代の映画だ。川島雄三監督は日活時代も風俗描写に冴を見せていたが、この映画でもその特徴は充分に発揮されている。

 この映画は評論家には松竹得意の人情ホームドラマという言葉を貼り付け整理されそのまま忘れ去られてしまいそうだが、そんな出来合の言葉を超えた気持ちのいい娯楽性を確実に持っていて、改めて川島雄三監督の才能を確認させてくれる。

 主人公は大臣の息子で、その身分を隠して長屋に住んでいる。これは時代劇によくある設定だ。身分の高い人間がその身分を隠し庶民の中に溶け込んで生活していて、いざとなればその身分を明かし、悪を撃退する。この映画では悪は悪徳商人でなく、現代らしく悪徳弁護士という姿を取っている。その悪徳弁護士が病院の建設という美名を借り、長屋を立ち退かせキャバレーを建てようと画策する。それを敢然と阻止するのが主人公だ。
 その設定を基本にしてメロ・ドラマを絡ませている。主人公は親友に将来を誓った女性を託して戦地に赴くが、その女性は親友と結婚してしまう。その親友は事業に失敗し無頼の徒となっている・・・。
 それら二つの要素が無理なく一体化して、観る者を楽しませる。川島雄三監督は二つの要素が奏でる基調音にさらに様々な音を加えて行く。悪徳弁護士が入り込んでいる資産家の娘である病院の気の強い院長、主人公の好物であるとんかつの料理を出す料亭の気性のさっぱりした女将、その女将に惚れる主人公が戦地で得た気のいい親友、主人公が住む長屋の隣に住む目の不自由な優しい娘。それらの音は時にはぶつかりながら、気持ちのいい音を聞かせる。川島雄三監督の脚本家としての力量を感じると同時にその演出力にも感心する。これだけ水準の高い娯楽映画を作れる人は今の日本にはいないのではないだろうか?

 冒頭のカットの組み立てはちょっと興醒めだ。バック・ミラーに映る景色のクロース・アップ。急ハンドルを切るところのクロース・アップ。地面の高さで捉えたタイヤのクロース・アップ。転がるダルマたちのクロース・アップ。いかにもあざとく僕は身を引いてしまったが、欠点はそれだけだ。映画が進んでいけば、この映画が優れた映画だということが分かってくる。

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5/31 ディナーの後に

1998年韓国映画 5/31シネ・アミューズ
監督/脚本:イム・サンス
撮影:ホン・ギョンピョ 録音:オ・ウォンチョル
出演:カン・スヨン/ジン・ヒギョン/キム・ヨジン

 一歩間違えば、トレンディー・ドラマかなと感じるほど、この映画の語り口は滑らかで口当りがいい。共同生活をする二人の若い女性の会話を手持ちカメラで撮影したりとイム・サンス監督の技術は高く、あざといほどなのだが、けっして嫌みでなく、爽やかだ。これはイム・サンス監督の資質故だろう。スタイリッシュな映像の背後にはイム・サンス監督の生真面目な視線をはっきりと感じ取ることができる。

 この映画を一言で表すならば、パリのカフェでのセックスに関する自由でフランクな会話と表現できるだろう。
 メイン・ディッシュが終わって、デザートになり、一人の男性を交えた三人の女性友達の間でセックスが話題になる。三人の内の二人はかなり奔放にセックスについて語るが、一人は軽く眉を顰めている。唯一の男性が席を外すと、その眉を顰めていた女性が自分の性的夢想について生き生きと語り始める。ここは演出が上手いなあと感じた。ある意味ではこの女性がこの映画の主人公なのだ。彼女はセックスに関する歪んだ常識に捕らわれているが、この映画を通して在るフランクなセックスに関する会話を通して、セックスは暗く非日常的なものという考えから開放され、セックスが日常的で、限りなく優しいものであることを発見する。だからこの映画は彼女の性的夢想の実現で終わるのだ。

 セックスは人間の行動の一部であり、人間存在を構成するものの一つなのだ。それは当然すぎる真理なのだが、セックスが様々な形で抑圧されている現代では、その真理は深く埋もれて見えなくなってしまっている。イム・サンス監督はその真理を技術に裏付けされた滑らかな語り口で深い地中から取り出し、はっきりと観客に見せる。
 この映画は韓国映画だが、パリやニュー・ヨークの映画監督が撮ったといっても通じるものがある。それを無国籍性と嫌う人もいるだろうが、それぞれの都市が双子のように似通い区別がつかなくなってしまっている現代ではそれは当然のことなのだ。都市で生きる人たちはこの映画に自分たちと同じ人間を見出し共感するだろう。都市という人間関係の希薄な空間ではセックスは重要な役割を果たす。それはウディ・アレンの映画を観ても分かることだ。いま一歩踏み込んで言えば、この映画はセックスを通した一つの都市論なのだと言えるかもしれない。

 セックスを語るのに水のイメージが、とても上手く使われている。それは大きな窓ガラスであったり、雨だったり、山奥の渓流だったりする。そして映画は雨のイメージで終わるのだ。

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