映画日記
1998-07 <2-1>
7/1 7/3 7/4 7/5 7/6 7/8 7/9 7/10 7/11 7/12 7/14 7/15
7/1 イリュージョン
プラトンは芸術を一段低いものに置いていた。それはプラトンの哲学の根幹に関ってくる。
プラトンによれば僕たちが見ている世界は真理の影なのだ。その影を僕たちは真理だと思い違いして生きている。プラトンは哲学の使命を、僕たちを真理が投げかけている影から真理という光へと目を向き換えさせることだと比喩的に説明している。これは容易いことではない。なぜならば僕たちは真理が投げ掛ける影を真理だと頑固に信じ込んでいるので、それは影に過ぎなく、真理から遠いものだと言われると強く反撥し虚偽を教える者としてソクラテスがそうされたように排除しようとさせする。
そのようにプラトンによれば僕たちは影の世界に生きる。それなのに芸術はその影の世界を模倣して、影の影を作りだす。ホメーロスたち優れた芸術家を心から敬愛していたプラトンはそこまで言っていないが、芸術は僕たちを更なる影の世界に引っ張り込み、真理から遠ざける。
だからプラトンは芸術に二義的な価値しか与えないのだ。
映画をプラトンに対して弁論するとすればどのように議論を展開したらいいだろうか?そのことを時々考える。
いまのところ僕は生の一回性を中心において議論を展開しようと思っている。
僕たちは一回しか生きることできない。映画はその一回性から僕たちを救う。僕たちは映画を通して生を多回的に生きることができる。その多回性の中で僕たちは世界を何度も生きる。世界の中で何度も生きることを通して僕たちは世界の本質と繋がることができるのだ。
僕の議論はまだまだ弱い。プラトンは納得してくれないだろう。もっともっと考えよう。
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7/3 引用
ダニー・ボイルの『普通じゃない』は様々な引用に満ちていた。その引用は直接的なものではなかったが、映画がある程度の歴史を持った今日、引用による映画作りの可能性を改めて示してくれた。
『普通じゃない』は全体としてフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』を下敷きにしている。
『或る夜の出来事』は大金持ちの娘と新聞記者が主人公だった。『普通じゃない』では同じく大金持ちの娘と小説家になることを夢見る清掃人が主人公になっている。(別の話になるが主人公の一人が夢見がちなナイーブな人間に設定されているのは『虹をつかむ男』を思わせる。)ラストが結婚式のシーンで終わるのもいっしょだ。とりわけ音楽シーンがハイライトの一つになっていることが僕にはこれら二つの映画の共通点として強く感じられる。『或る夜の出来事』でバスの乗客が一体となって「空中ブランコ乗り」の歌を歌うシーンは『普通じゃない』でのカラオケ・シーンに劣らず感動的なシーンだった。もちろんヒッチ・ハイクのシーンも両者の類似を感じさせる。
そんなことをいちいちあげつらうよりは、『普通じゃない』はフランク・キャプラらによって1930年代に作られたロマンチック・コメディーの香りが強くすると指摘すればいいのかもしれない。
引用は多岐に渡っている。人間の身体に空いた銃弾の穴から向こう側の景色を見せるところでは、サム・ライミの『クイック&デッド』を、銀行の警備員が肝心な時トイレに入っているところでは、クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』を、路上の公衆電話ボックスに二人の主人公たちが入るシーンでは、『トゥルー・ロマンス』でのクリスチャン・スレーターとパトリシア・アークエットを、ターミネーターのような執拗さで主人公たちを追うホリー・ハンターには、『蜘蛛女』でのレネ・オリンを、僕は感じた。他にも僕が気付かない引用がたくさんあるに違いない。
それらの引用は『普通じゃない』という映画に知的軽やかさをもたらしていた。それはとても好ましかった。
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7/4 マドレーヌ
ジュリア・クリステヴァのプルースト的マドレーヌの分析は執拗で鋭い。
クリステヴァはマドレーヌがプルーストの若書きの小説の登場人物の名前であることを突き止めるのだ。クリステヴァは話者とその母親の中に介在するジョルジュ・サンドという男名を持った女性作家の書物の登場人物がマドレーヌであることも指摘する。
プルーストの若書きの小説に登場するマドレーヌは娼婦にだけ惹かれる若者を愛してしまう貴婦人であり、ジョルジュ・サンドの書物に登場するマドレーヌは自分が子供のときから育てた青年と結婚する女性だ。コンブレーで過ごした時、話者に紅茶に浸したマドレーヌを供したのは話者の伯母だった。それらの事柄を分析し組み合わせて、クリステヴァは紅茶に浸され柔らかくなったマドレーヌに話者の母親に対する隠微な近親相姦的感情を見出す。
クリステヴァはそのように一つの言葉に執拗に拘ることに対する批判も充分に予想して、プルーストがものの名前に徹底的に拘った作家だったことを指摘する。実際『失われた時を求めて』にはものの名前そのものが持っている豊かさを徹底的に解明してみせる章がある。そこではものの名前は単なる記号ではなく、一つの実体として立現れ、それが隠し持っている豊かさを見せてくれるのだ。
クリステヴァはもう一歩踏み込んで、紅茶は尿と結び付き、尿は同性愛者同士の儀式に使われるものであることにも言及するが、これはクリステヴァ自身も言うように、「あまりも遠くにきすぎて」いる。
確かにこれはクリステヴァの勇み足とでも言うべきものだが、僕にとってはこの勇み足は『失われた時を求めて』の世界を広め深めてくれた。
僕はクリステヴァ的分析は映画にも必要だと思う。当然映画的分析は文学的分析とは異なるが、クリステヴァの真剣な執拗さは映画的分析にも必要だ。そのような分析を通して映画は広さと深さを獲得するだろう。
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7/5 映画的化粧
映画を観ていて時々思うのだが、音楽は危険性を持っている。
音楽はそれだけで独立できるもので、けっして映像の付属物として映像に従属するものではないので、逆に平板で凡庸な映像をドラマティックなものに錯覚させてしまう。これを僕が危険性と呼ぶのは、その錯覚作用を多用すれば、肝心の映像が貧しいものになってしまうからだ。映画は総合芸術という範疇に入るのだろうが、そうであってもあくまでも映像が中心になるべき芸術だと僕は考える。音楽が持っている芸術的力に頼れば頼るほど、映画は芸術的力を失っていくだろう。
映画的化粧のもう一つはカメラ・ワークだ。
クレーン・ショットやドリー・ショットは映画の強力な表現手段の一つだが、これらが化粧として使われることがある。クレーン・ショットやドリー・ショットは画面に上下・左右の動きを与え、その結果映像にダイナミック感を与える。映像そのものが平板で凡庸なもので、どんな現実の発見を持っていないくても、そのダイナミック感がその平板さ凡庸さを覆い隠してしまう。その意味でカメラ・ワークも危険性を持っている。
前にも書いたが、最近観た映画で音楽の使い方に感心したのはアレックス・コックスの『ザ・ウィナー』だった。そこでは音楽は化粧から最も遠いものとしてあった。音楽はスクリーンで繰り広げられる映像をからかい皮肉っていた。大げさな言葉を使えばそこでは音楽は批評として存在していた。
話は逸れるが、その優れた使い方をされていた音楽を全面的に差し替えてしまったプロデューサーたちはアレックス・コックスが激怒していたように、最悪だ。プロデューサーたちは音楽を映画に一定の雰囲気を与えるものとして機能させ、観客受けするものしたかったのだろうが、それでは映画は単なる商品となってしまう。売れるか売れないかは確かに重要な問題だが、そのことだけに目を奪われれば、映画の持っている命を殺してしまう。
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7/6 空間
サッカーのワールド・カップはいよいよ最終戦に入っていく。
サッカーは空間に対する想像力だと思う。
長方形に区切られた空間はボールがどこに在り、選手がどこにいるかによって、刻々とその表情を変えていく。その空間の在り方の変化に対する感受性がサッカー選手に最も要求されるものだろう。攻撃を例に取るならば、その都度その都度ゴールとボールを繋ぐ最適の空間の場所は変わっていく。攻撃の時、サッカー選手はその変化を先取りして察知しなければならない。つまり空間に対する想像力が必要とされる。想像力の中で見えた空間にまっしぐらに走り込み、ボールを受けるとき、ボールはゴールに突き刺さる。
では映画カメラマンに要求されるものはなんだろうか?
カメラが向けられるとき世界はフレームという枠組の中に現れる。カメラは世界を丸ごとそのレンズの中に捉えるのではない。カメラは世界を切り取るのだ。どう世界を切り取るか。そこにカメラマンの世界観が現れ、映画表現にも深く関わってくる。フレーミングの中でカメラマンは必要ないものを捨て去り、必要なものを主題として中心に持ってくる。それならばカメラマンに要求されるのは取捨選択の能力だ。そして取捨選択の前提となるのは世界を瞬時の内に把握する能力だ。瞬時の内に把握しなければ世界は動いてしまい、別のものになってしまう。
サッカー選手に要求されものが、空間に対する想像力ならば、映画カメラマンに要求されるのは空間把握能力だと言ってもいいだろう。
映画監督に要求されるのものはなんだろうかという問いを次に発するならば、その問いにはすぐに答えることができる。それは時間に対する感覚だ。
これは説明する必要はないだろう。
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7/8 ラスト・リゾート
ロマン・ポランスキーの『水の中のナイフ』には、週末、高級自動車、成功した実業家、美しい妻、行きずりの青年、湖、ヨットとリゾート映画の要素がしっかりと詰まっていた。でもそれらの要素は決して上滑りすることなく実にセンスのいい映画になっていた。
それは成功した実業家である中年の男性の在り方と深く関っている。この中年の男性は高級自動車を所有しながら、ショーファー(運転手)を雇わない。自ら運転する。この中年の男性はヨットの所有者でもあるが、ヨットに関する実践的な知識を持ち、ヨットを自ら操船する。つまりこの中年の男性は道具を通してまるで労働者のように直接的に世界と繋がっているのだ。
そこでは世界はたんなる環境としては現れずに、実体を持ったものとして現れる。湖は観光客に対するように絵葉書的に現れるのではなく、様々な表情を持って現れる。湖の上で風が死に絶えたかと思ったら、突然風が起りヨットを翻弄する。湖には深いところもあれば、浅瀬もあり、その浅瀬はヨットを転覆させそうになる。湖は強い陽光を降り注がせたかと思うと、次には雨を激しく降らす。
『水の中のナイフ』の主な舞台となる湖はそれ自身『水の中のナイフ』の主人公の一人だと言ってもいい。その湖と中年の男性はヨットを通してアクションを生み出す。そのアクションこそが『水の中のナイフ』の命なのだ、と言っておこう。
僕はこれほど湖が魅力的な映画を他に知らない。
夜明けの光を受けた湖の美しさをなんと表現したらいいだろうか?
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7/9 慈雨
フランシス・フォード・コップラ監督の『レイン・メーカー』は惹かれるものがあるが、たぶん観ないと思う。『レイン・メーカー』には僕をグイと劇場へ連れていく力はない。きちんと言っておかなければならないが、これは『レイン・メーカー』という映画の優劣とはまったく関係のないことだ。僕は『レイン・メーカー』を観ていないのだから、それが優れた映画なのか、そうでないのかは判断できない。
というわけで、原作の文庫本を購入していま読んでいるところだ。
ジョン・グリシャムは『原告弁護人』を書くに当たって、ユーモアのある文体を採用している。このユーモアは好感が持てるユーモアだ。ジョン・グリシャムは『原告弁護人』においてかなり真摯に弁護士のあるべき在り方を模索している。それは倫理的努力と言ってもいいものなのだが、そのような真摯さはともすれば文章を硬直させる。ユーモアのある文体がその硬直から『原告弁護人』を救っている。言ってみれば『原告弁護人』においてユーモアは文章にしなやかさを与えている。だからこのユーモアは好感が持てるのだ。
そのユーモアのある文体は高邁な理想に燃える模範的青年を登場させるかわりに世俗的成功を最高の幸福だと考えるかなり通俗的な青年を登場させる。青年はその通俗性において僕たちを惹き付ける。これが「模範的」青年であれば、僕たちはその「正論」的生き方に恐れをなして途中で読むのを止めるだろう。青年はその通俗性において世俗と倫理の間に引き裂かれている。そのような表現が大袈裟ならば、青年は世俗と倫理の間で揺れ動く。その「アクション」が僕たちを惹き付けるのだ。
青年は通俗的人物だが、同時に愛すべきナイーヴさを持っている。通俗性に渾然一体となり混ざったそのナイーヴさが、世俗と倫理の間の「アクション」を生むと言った方がより正確だろう。
青年は人の不幸を喜ぶような人間であると同時に他人の苦しみを深く感じることの人間でもある。このような人物を気取らない分かりやすい文章で描いてみせるジョン・グリシャムの力量に感心しながら、フランシス・フォード・コップラはどうこの人物を映画で表現したのだろうかと興味が湧いてきた。
『レイン・メーカー』観てみようかな。
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7/10 細部
題名も作者名も忘れてしまったが、こんな短篇を読んだことがある。
その短篇は労働者たちが抑圧的な経営者たちに対して立ち上がり、闘争するという大筋を持っていた。僕が惹かれたのは最後の方にあった描写だ。
彼ら労働者たちは具体的には煉瓦職人なのだが、経営者を弾劾する熱い議論の後、自分たちの仕事場を通りかかる。彼らは自分たちの仕事を素早くチェックし、ほんの少し煉瓦の積み方がずれていることに気付く。彼らは精神を集中して彼らの仕事を修正する。
その描写をわざとらしいと感じる人もいるかもしれないが、僕は惹かれた。その描写があることによって、労働者対資本家というたんなる図式が崩れ、もっと本質的なものが浮かんできていた。
その描写の中には仕事を愛し誇りを持つことのできる人間に対する信頼感があった。そしてその描写はその信頼すべき人間の在り方が、資本主義というシステマチックな生産機構の中で労働というものが変質を受けることを通して、崩壊していくこともくっきりと明らかにしていた。そこまでは読み取れないのではないかと反論する人も、その描写に「古き良き」労働者に対するレクイエムが感じられることには同意するだろう。
その描写は小説全体の中では細部なのだが、労働者対資本家というたんなる図式に命を与えていた。
ここで映画の話に繋がるのだが、優れた映画とはこのような優れた細部を持った映画のことに他ならない。大きく抽象的なテーマをどこまで小さく具体的なものにまで落とし込むことができるか。それこそが映画監督の演出力と呼ばれるものだろう。最も優れた映画の中では目の僅かな動きに映画の全てが込められている。
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7/11 雨降らし
ジョン・グリシャムの『原告側弁護人』(『レインメーカー』)を読み終えた。
僕は登場人物の中ではデックに一番惹かれたが、後半は主人公の有能な助手という感じになってしまい残念だった。いわばデックは主人公の世俗的部分を象徴する存在で、デックと主人公の間に生じる「アクション」を楽しみにしていたのだ。デックは弁護士という職業を金もうけの手段と見做していて、顧客を禿げ鷹のように漁る。このデックの存在が『原告側弁護人』をきれいごとになることから救っていた。
デックが主人公のたんなる有能な助手として背景に退くと平行して、『原告側弁護人』は正義感に燃える若き弁護士の巨悪に対する果敢な戦いの物語に堕してしまう。「堕してしまう」という表現をするのは、そこでは「モラル」と「世俗」との間の揺れはなくなってしまっているからだ。主人公の若き弁護士はセンチメンタリズムから、あるいは復讐心から完全に「モラル」の側に振り切れてしまっている。
後半ジョン・グリシャムは読者をますます魅了するが、それは「モラル」と「世俗」との揺れが生む「アクション」によってでなく、非力な者が強大な力を持つ者を知恵を使って鮮やかに打ち負かすという胸のすくファンタジーによってだ。
ジョン・グリシャムはそのファンタジーを最後に打ち砕いてみせるが、そのことによって改めて「モラル」と「世俗」という二つの磁極が生む「アクション」が前面に出てくるわけでは決してない。主人公はあろうことかその「アクション」から逃避してしまうのだ。『原告側弁護人』の結末は世俗を捨てて仙境に入ると読み替えることができるだろう。
こうなるとフランシス・フォード・コッポラがこの辺りのことをどう処理したかに俄然興味が湧く。
ファンタジーを前面に出したのだろうか?それとも「モラル」と「世俗」という二項対立が生む「アクション」にあくまでも拘ったのだろうか?それはデックという登場人物をコッポラがどう演出しているかですぐに分かるだろう。
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7/12 物語
映画を観るという行為は冷静に眺めてみれば滑稽な行為かもしれない。
そこに展開されているのは僕たちの生活を模倣したものだ。僕たちのように仕事を持ち家庭をもった人間たちが僕たちと同じような問題を抱えて生きている。もしここに映画を観ることに全く興味の無い知的存在がいたとしたら、頭を大々的に傾げるだろう。自分たちが知り尽くした自分たち自身の生活を模倣したものを観てなにが面白いのだろうかと?
もちろん映画は僕たちの日常生活から懸け離れた荒唐無稽なストーリーも展開する。しかしそこにある個々の登場人物の反応や感じ方、思考は僕たち自身のそれを模倣したものに他ならない。
問題をこう設定してみよう。
なぜ僕たちは物語を必要とするのか?
その問を発するとき、僕は雪に閉ざされた村を想像する。人々は雪に周りを取り囲まれそれぞれの家にこもっている。家にこもった人々は炎の暖かさに惹かれて、囲炉裏の周りに集まる。いつも生活を共にしている人々には話すことはないだろう。炎の音だけが雪に音を吸収された静かな世界に響く。その時物語を語る言葉が聞えてくるのではないだろうか。囲炉裏に集まった人々は炎に照らされた顔を輝かせながら物語に聴き入る。
物語は必要とされるというよりは自然に生まれてくるものなのだ。人々を閉じ込めてしまう雪は人々に想像力という翼を生えさせ育てる。そして物語が生まれるのだ。
物語は必要とされその需要に従って供給されるものではない。僕たちの魂は翼を持っていて、その翼が物語を生み出すのだ。
こう言ってもいい。僕たちの魂の本性が物語を生み出し、物語に僕たちを引き寄せるのだと。
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7/14 ゲルマント公爵夫人
ジュリア・クリステヴァはこう述べる。
「・・・音楽による興奮は『失われた時を求めて』の美学的信条のなかで一時をしか占めることはできない」(『プルースト』77筑摩書房)
アルベルチーヌが食料を売るもの売りたちの声に食欲を起こされると同時にその声が持っている音楽的官能に惹かれる場面は『失われた時を求めて』において最も愛すべき場面の一つだが、僕には『失われた時を求めて』全体が一つの音楽のように聞こえる。
クリステヴァはある特定の文脈の中で上に引用したことを書いているのだし、『失われた時を求めて』の音楽性を論じることを僕は欲しているわけではない。ただ「音楽による興奮」こそは『失われた時を求めて』の核を成すものだと僕は感じていて、クリステヴァの文章に反応したのだった。
そうだ、ゲルマント公爵夫人に関して書くつもりだった。
プルーストのゲルマント公爵夫人の登場のさせかたを僕は愛する。
「僕」は幻滅のなかでゲルマント公爵夫人を認める。ゲルマント公爵夫人は「大きな鼻」と「鼻の横の小さな吹出物」を持ったありきたりの女性だった。しかしすぐに「僕」は彼女に恋する。そこで起るゲルマント公爵夫人の失墜と蘇りの鮮やかな対照に惹かれるのだ。その鮮やかな対照が語り手だけでなく僕をもゲルマント公爵夫人へと引き寄せる。そして語り手がゲルマント公爵夫人に貴族の娘だけが持ち売る残酷性を見出すとき、僕もゲルマント公爵夫人に恋する。
「ゲルマント夫人は、・・・、コンブレー近郊の貴族の娘の残酷さを私に感じさせるのであった。その娘は、子供の頃から、馬に乗って猫の腰を砕いたり、ウサギの目をくりぬいたりしていたのであった・・・」
その魅力的なゲルマント公爵夫人もやがて老衰する。『失われた時を求めて』の最後の方でゲルマント公爵夫人は「教養」という言葉をわざと吃って「ラ・ククククルトウール」と発音することがエレガントなことだと考える滑稽な人間に成り下がっている。
このゲルマント公爵夫人の失墜にクリステヴァはプルーストの復讐を見ていない。クリステヴァはこう書くのだ。
「美と死のかなたで、彼(プルースト)はオリヤーヌ(ゲルマント公爵夫人)を笑い、からかい、そして愛しているのだ」(『プルースト』74)
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7/15 映像と言語
素朴に考えたとき、映像は言語から独立して存在しているものだと見做される。しかしこの素朴な確信は少し反省してみるならばすぐに揺り動かされる。もし映像が言語から完全に独立したものならば、およそ視覚神経を持つ生物は僕たち人間と全く同じ視覚世界を持つだろう。言い換えるならば、視覚世界において、視覚神経を持つ全ての生物は全く同等になる。サイレント映画をおよそ視覚神経を持つ生物ならば、全ての生物が観賞できるだろう。これは馬鹿げている。
問題は人間における映像だ。人間というよりも二次反射系(言語系)を持つものにおける映像が問題なのだと言い換えた方がいいかもしれない。
少し話が外れるが、人間を二次反射系を持つものと定義したとき、この宇宙に人間以外の知的生命は存在しないだろう。それらの知的生命がどんな形態をとっていようと、知性は二次反射系の中でしか存在し得ないからだ。
ともかく記号の記号という形で抽象性を獲得している生命は、映像を認識するとき、その背後で常に言語機能を作動させている。こんなふうに言うと、なにか難しそうに聞えるが、それが指している事柄はとても簡単なことだ。いま僕の目の前にテーブルが在る。このテーブルの映像とテーブルという言語は常にペアになって僕に与えられている。映像と言語とはずれを伴って与えられるわけではない。名付けられていない映像がまず与えられて、それからテーブルという言語認識が訪れるわけではけっしてない。また逆にまずテーブルという言葉が与えられ、それからテーブルの映像が現れるという魔法のような事態が生じることもない。
映像と言語は常にペアになっているものなのだ。
映画作家はその認識から出発すべきなのだ、と僕は思う。映像と言語は密着している。僕たちは目の前にある映像がテーブル以外のものであるとは思ってもみない。そこにおいて僕たちと世界との馴れ合いが始まる。映画作家は映像を言語から引き剥がさなければならない。そのことに成功したとき、この目の前に在るテーブルの映像はなにかわけの分からない恐ろしいものとして僕たちに迫ってくる。その恐怖の中で始めて僕たちは世界と直面するのだ。
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