映画日記
1998-02 <2-1>


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2/1 煙草

 学校を舞台に物騒な事件が続いている。
 三島由紀夫は日本の社会の将来の姿を予測するのは簡単だ「現在」のアメリカの姿を見ればいいと大昔言ったが、それらの事件はその言葉が今でも妥当するということを改めて明らかにした。

 嫌煙運動もアメリカで始まり、やがて日本でも定着した。
 僕は煙草を吸わないが、嫌煙運動家のヒステリックさにはいささか閉口する。本当に煙草と肺ガンとは相関関係があるのか?煙草はどの程度環境を汚染しているか?そのあたりの冷静な認識なしにむやみに煙草を敵視しているように僕には思える。
 世の中には煙草を吸う人と吸わない人がいる。煙草を吸うかどうかはあくまでも個人の自由だ。問題は吸う人と吸わない人がどう折り合っていくかなのだ。吸う人は吸わない人にいかに不快感を与えないか、そして吸わない人は吸う人をどれだけ受け入れるか、それが大切なのだと思うし、それこそが社会生活の根本だ思う。
 不快だと排除してしまえば、たしかに清々するだろうが、排除論理は必然的に個人の自由を圧殺してしまう。最大限相手の自由を認めながら、いかに社会で生きていくか、そんな困難なテーマを見失ってしまえば、そこに出現するのは全体主義の国家だ。

 かなり脱線してしまった。
 煙草は映画において大切な小道具であることを書きたかったのだが・・・。
 また別の機会に書くとしよう。

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2/2 煙草(続き)

 『グリッドロック』での煙草がかっこ良かった。

 ヴォーカル、キー・ボード、ベースの三人組でのライブ。
 ヴォーカルの黒人の女性はスタンド・マイクを抱くようにして歌う。手には煙草。ここでは煙草は退廃というか気怠さを演出するために使われていた。
 もしかしたら僕の記憶違いかもしれないが、ヴォーカルの女性は煙草を手の外に向けてでなく、手の内側に向けて持っていた。手の内側に向けて持つ持ち方で僕が思いだすのはフランク・シナトラだ。彼の出演している映画を観るならば、フランク・シナトラがそのような煙草の持ち方をしているのに気付くはずだ。
 僕はこの煙草の持ち方が好きだ。火の付いた先端が他人にあたり、害を及ぼすことを防げる。手の内側に向けて持つ持ち方には他人に対する思いやりがある。

 『グリンドロック』に話を戻すとライブが行われているクラブの天井に靄っている煙草の煙もなかなか雰囲気があって良かった。
 いつものようにエンド・クレジットをじっと観ていたら、「スモーク効果」とクレジットされた。僕の勘違いかもしれないが、そのような係もあり、あの雰囲気のある煙草の煙を作りだしていたのだ。

 『HANA-BI』でも煙草が効果的に使われていた。

 男と男の妻。二人は座卓に座っている。妻が煙草を吸おうとする。男はけっして邪険ではなく妻から煙草を取り上げる。妻は一瞬抗議しようとするが、大人しく従う。

 このシーンは男と男の妻の関係を雄弁に語っている。
 男がもし妻に対して愛情を持っていないならば、煙草を取り上げるようなことはしないだろう。
 妻が抗議しないのはそれが男の愛情故だということを知っているからだ。

 煙草は現実の世界では悪者扱いされているが、依然映画にとっては大切な演出道具だ。

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2/6 子供

 子供という題では何回か書いている。
 僕自身が子供という存在に興味を持っているということもあるが、映画においても子供は重要なテーマの一つになっている。それで子供という題で書くことが多くなる。

 『ミミック』でも子供が主題の一つとして浮かび上がっていた。
 『ミミック』では遺伝子操作によって誕生した魔物が登場するが、もともとその魔物は突然子供たちを襲い命を奪い始めたウィルスを撲滅するために生み出されたものだった。
 その魔物を生み出した科学者の夫婦にはなかなか子供ができない。
 そして魔物退治の過程で科学者夫婦は魔物によって孤児となった少年と出会うのだ。

 最後には孤児になる少年が魅力的だった。感受性が異常に鋭く、学校生活はできない特別な子供。雨が降り頻る街の通りに面した窓から外を大きな目でじっと眺めている少年のショットはとても印象的だ。
 もしかしたら、この少年は監督自身なのかもしれない。『ミミック』の世界はこの少年の想像力が作りだしたものなのだ。少年の全てを映してしまう大きな目が、都会がその奥に隠している闇を引き摺り出し、命を与えるのだ。

 『ミミック』には観る人に恐れを抱かさせる力がある。その恐れの根底にはいま子供たちが感じている恐れや不安があるのではないか、そんなふうに感じる。

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2/7 映画的なもの

 『ハムレット』のチラシを見たら、「映画でしか表現できないものを表現したかった」といった内容のケネス・ブラナーの言葉が紹介されていて、考え込んでしまった。

 ブラナーの『ハムレット』は言ってみれば、シェイクスピアの『ハムレット』の豪華な動く絵本版だった。僕はそれはブラナーがシェイクスピアの『ハムレット』の世界に一人でも多くの人が触れて欲しいという思いで撮った結果だと思っていた。
 そうではなく、ブラナーがシェイクスピアの『ハムレット』の映画的表現を目指して『ハムレット』を撮ったのだとしたら、僕のブラナー版『ハムレット』に対する評価は大きく変わる。

 ブラナー版の『ハムレット』の映像は豪華でダイナミックで観るものの目を奪う。しかし映像としての面白さは微塵もない。退屈な映像がだらだら続くだけだ。それは映像が単にせりふの絵解きに終わっているからだ。ブラナー版『ハムレット』においては映像がせりふに完全に従属している。映像は魅力を持ち得ない。
 オフィーリアが最も美しく輝くのが、映像の中ではなく、オフィーリアの死を伝えるガートルードのせりふの中であるのは象徴的だ。ブラナー版『ハムレット』において映像はオフィーリアの美しさも伝えることができない。

 映画において映像は言葉を絵解きするものではない。映像は言葉と対立するものだ。言葉との緊張関係の中でこそはじめて優れた映像が生まれる。

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2/8 私小説

 ブリジッド・バルドーの自伝をいま少しずつ読んでいる。

 中盤にさしかかっているのだが、凄まじい。その辺のいい気な私小説は顔色を無くすだろう。バルドーが映画スターになったとき、まだ50年代で映画は娯楽の王座に座っていた。そのような時代においてスターであることは全世界の人々に注目されることであり、まったく特別な意味を持っていた。
 20代のバルドーが受けたプレッシャーは相当なものだったろう。バルドーの自伝を読むとき、そのプレッシャーが背後に如実に感じられる。だからスターとして頂点にいたバルドーが片田舎で夜闇の中、自分の手首の血管をナイフで切り開くのが理解できる。

 バルドー自身は自伝の中で人は自分を我儘で愚かな小娘と見做すかもしれないが、感受性豊かな人ならば、自分のことを理解してくれるだろうと書いている。
 僕も最初のうちはなんて気紛れな人だろうと読んでいた。こんな人が身近にいたら、1分間も我慢できないだろう、そんなふうに読んでいた。でも読み進める内にバルドーの生きることに対する情熱というか執念、楽しく生きたいという執念に敬意を抱くようになった。
 その執念は強さと言い換えてもいいかもしれない。その強さがあったから普通の人間なら命を無くしていただろう状況の中でもバルドーは生き延びることができたのだ。

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2/9 スキー

 朝いつものようにベランダから外を眺めると、白い富士山がくっきりと見えた。昨日長野オリンピックのダウン・ヒルは雪で延期になったが、今日の長野の天候はどうなんだろうか?アルペン競技に限るならば、晴れて風が無く冷え込んでくれたら最高だろう。

 僕はウインター・スポーツではスキーが一番好きだ。
 スキーがメインになった映画で印象的だったのは、かのジャン=クロード・キリーが主演した映画だ。僕は昔TVで観たのだが、いまでも心に残っている。
 現金強盗がテーマの映画だったのだが、逃走経路としてけっして誰も滑れないと考えられていた山の斜面を使うというところが最大の見せ所となっていた。というかそれがその映画の全てだった。
 断崖等のありとあらゆる障害を軽やかに切り抜けるキリーのスキーには本当に魅了された。

 僕が一番好きなスキーヤーはマックス・ユーレンだ。サラエボ・オリンピックのジャイアント・スラロームで金メダルを取った人と紹介しても、知っている人は少ないだろう。他の選手が直線的なライン取りで迫力満点の滑りをしたのに対し、マックス・ユーレンは曲線的な滑らかなライン取りで優美に滑ってみせた。その優美な滑りがタイム的にも最高の結果をもたらしたのだった。
 その後マックス・ユーレンは伸び悩んだが、ユーレンの滑りはチーム・メイトのこれは誰もが知っているピルミン・ツルブリッケンが取り入れ完成させた。
 ただユーレンのもっている先鋭的とも呼べるテクニック(例えばそれはポールに入る直前のユーレンの完全に内倒した姿勢に現れている)はユーレンが競技において結果を出せなくなってそのまま埋もれてしまったようだ。

 僕はマックス・ユーレンがスキー映画に出演しないかなあと思っている。

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2/11 メロ・ドラマ

 『ラブソング』ではテレサ・テンの歌が山場になると流れた。
 『ラブソング』は言葉の本来の意味でメロ・ドラマだった。監督のピーター・チャンはかなり意識的にメロ・ドラマを撮ろうとしたのではないか?

 『ラブソング』ではウィリアム・ホールデンが写真で登場する。『ワイルド・バンチ』のホールデンではなく、『慕情』のホールデンだ。『ラブソング』は映画全体が古き良きメロ・ドラマへのオマージュになっている。
 ピーター・チャンの野心は今の時代において古き良きメロ・ドラマをパロディーでなく、成り立たせることにあったのではないだろうか?
 山場のシーンで叙情的なテレサ・テンの歌を流すのはほとんど俗悪なのだが、紙一重で俗悪さから逃れている。そこにこそピーター・チャンのセンスがある。

 ピーター・チャンは古典的なメロ・ドラマの話法に則りながら、そのメロ・ドラマに現代の息吹を吹き込むことに成功している。だから『ラブソンブ』は輝きを持っているのだ。

 その成功の要因は二人の若者を通して香港の現代史をテーマの一つとして浮かび上がらせたことになによりもある。香港という街が主人公の一人として登場しているが故に『ラブソング』というメロ・ドラマはリアリティを持ち、観る者の心を動かすのだ。

 でも僕が一番惹かれたのは乾いた描写とでも言うべきものだった。

 ニューヨークの街角。街ノイズ。マギー・チャンが一人取り残されている。カメラはずっと引いていく。マギー・チャンは街の人波の中に呑み込まれる。

 喪失感、孤独感が強く伝わってきた。

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2/12 マック

 今日も『ラブソング』に関連することを書いてみたい。

 大陸から香港に出てきた、つまり田舎から都会に出てきた青年がはじめて給料をもらいいそいそと出かけていく店はマックだった。
 大陸部の中国においてはマックが若者たちの憧れの店になっているという新聞記事を思いだした。

 青年がマックにはじめて足を踏み入れるシーンは青年の誇らしさと気後れとが同時に感じられ、なかなかいいシーンだった。
 このあたりはレオン・ライの好演が光る。

 僕はレオン・ライをウォン・カーワァイの『天使の涙』の殺し屋役で初めて知ったのだが、レオン・ライはもともとは優しい役を演じてきた人らしい。そのレオン・ライがナイーブな青年を好演していたが、感心するのはそのナイーブさがたんなる性格として提示されているのではなく、そのナイーブさを通じて香港という街の10年に渡る動きが伝わってきたことだ。
 青年はナイーブであるが故に、街が活気を持てば心を浮き立たせる。青年が喜びの表情を浮かべて踊るとき、香港という街が繁栄へと向かって力強く歩んでいることが感じられる。街の繁栄と青年の初々しさが共鳴しあって、爽やかな感動を与える。

 前に書いたことの繰り返しになるが、『ラブソング』は「ラブ」というとても個人的なことを主題としながら、香港という街の現代史を観るものに感性を通じて伝えているという点において優れた映画になっている。

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2/14 香港

 『チャイニーズ・ボックス』の感想でマギー・チャンが演じる女性について触れることができなかった。

 マギー・チャンが演じる女性は香港で生まれ、香港で育っている。その意味ではマギー・チャンが演じる女性こそ香港を表わす存在かもしれない。
 この女性はイギリスの青年というか少年との恋に破れ自殺をはかっている。そしてその自殺をはかった時の傷跡を顔に残している。その過去はそのまま香港と英国との関り合いの歴史を象徴していると言えるかもしれない。

 でもマギー・チャンこそ香港を表わす存在だと感じるのは、ビデオで捉えられたマギー・チャンの目をスクリーンで観る時だ。その目はけっして明るくはない。むしろ暗い。しかし媚や怯懦は微塵もない。絶望しながらも戦うことを放棄していないと言ったらいいのだろうか。負け犬の目からは最も遠い目だ。
 ビデオで捉えられたマギー・チャンの印象的な目は何度も繰り返しスクリーンに現れる。その目は香港そのものだ。
 香港返還の日、外国人旅行者に植民地最後の空気を詰めた缶を売るマギー・チャンに観る者が感じるのは希望ではないが、絶望でもけっしてない。

 マギー・チャン自身は香港で生まれ、イギリスで育っている。その生い立ちはウェイン・ワンの半生と重なる。ウェイン・ワンも香港で生まれ育ちながら、アメリカで生活している。もしかしたら、ウェイン・ワンが一番共感しているのは、ウェイン・ワン自身は意識していないにせよ、マギー・チャンが演じる女性かもしれない、そんなふうに思う。

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2/15 甜蜜蜜

 ピーター・チャンの『ラブソング』の原題は『甜蜜蜜』だ。
 これはテレサ・テンのヒット曲の題名をそのまま映画の題名にしている。

 テレサ・テンの『甜蜜蜜』はインドネシア民謡を基にした曲で、あなたの笑顔はとても素敵だ、まるで春風に揺れる花のようだという内容の曲だ。春の訪れを喜ぶような明るい曲で聴くと心が弾む。
 邦題の『ラブソング』から僕たちが抱くイメージと香港の人たちが『甜蜜蜜』という題から受けるイメージはかなり違うということは容易に想像できる。

 『ラブソング』の二人の主人公はテレサ・テンに対してかなり思い入れがあった。いまの日本の人たちはテレサ・テンという名前からどんなことを思い浮かべるだろうか?東南アジアのどこかの国から来た歌謡曲歌手というイメージだろうか。そのイメージからは二人のテレサ・テンに対する思い入れは理解できない。

 テレサ・テンは台湾で生まれている。70年代の台湾において日本の演歌をベースにして歌う歌手たちが輩出した。男性歌手たちは日本の演歌歌手の亜流に止まったが、女性歌手たちは独特のものを持ち、魅力的な音楽を届けてくれた。その女性歌手たちの一人がテレサ・テンだった。

 一口に中国語といってもいろんな言葉がある。北京語、広東語、台湾語・・・。台湾で70年代政府が使うことを奨励していたのは北京語だった。中国本土でも北京語が使われている。『ラヴソング』でテレサ・テンは大陸で人気があるというせりふがあるが、そのせりふを生む背景はそういうことだ。香港では広東語が使われる。

 テレサ・テンは広東語でも歌っている。香港で人気があるテレサ・テンの歌は日本語に訳すと「私の心は月が知っている」という題の歌だ。この歌は本当に人気があって映画でもよく使われている。香港映画ファンの人はきっと耳にしているだろう。『ラヴソング』ではテレサ・テンの訃報が流れるシーンで使われていた。

 テレサ・テンが中国語で歌っているCDを聴いてみて欲しい。
 中国の人が、大陸の人々も香港の人々も、テレサ・テンに惹かれる訳が理解できるだろう。

/* 以上の文章を書くにあたっては、テレサ・テンのスクリーン・テーマ集のCDに付けられた伊藤卓氏の文章を参考にしました。 */

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