映画日記
1997-04 <3-2>


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4/12 ランディ・ニューマン

 ランディ・ニューマンが好きな人は結構いるんじゃないかと思う。僕も好きだ。

 ランディ・ニューマンは1944年にニュー・オーリーンズで生まれ、南カリフォルニアで育っている。ライオネルとアルフレッドという二人の映画音楽作曲家を叔父に持っている。特にアルフレッド・ニューマンは有名でオスカーも獲得している。ランディ・ニューマン自身も映画音楽を手掛けている。彼の音楽を映画で耳にした人も多いだろう。

 ランディ・ニューマンの音楽に関してはグリール・マーカスが最高の文章を書いている。
 「ニューマンの音楽は、そういった映画で聞かれるどの音楽よりも力強い。彼の音楽は、誰も作りはしなかった映画の、けっして書かれはしなかった譜面の音楽なのだ。それは映画音楽があこがれたすべてである」(「ロック音楽に見るアメリカのイメージ」グリール・マーカス NMM社(p147))

 僕もランディ・ニューマンの曲の中では「セイル・アウェイ」が一番好きだ。

 「セイル・アウェイ」ではランディ・ニューマンのヴォーカルとりわけ魅力的だ。ゆったりとしたヴォーカルだ。大らかというよりはのんびりとしている。それが信頼感を与える。聴き手は深い安心感に浸る。春ののどかな陽光のようなヴォーカルだ。音楽も春の気怠さを持っている。耳を澄ませば音楽の持つメロディーはとても美しい。
 そんな平穏さの中から"Sail away"(出航するぞ)という声が立ち上がる。聴く人は心を誘う爽やかな海風を感じるだろう。

 しかし歌詞に耳を傾けるとこれほど皮肉な歌はない。
 この歌は奴隷船の歌なのだ。想像上の歌い手は船長である奴隷商人だ。
 奴隷商人はアフリカ人たちに向かって語りかける。
 「アメリカじゃみんな自由なんだ。アメリカじゃみんな最高に幸福さ。アメリカ人であることは素晴らしい。さあ出航するぞ。アメリカ人になるんだ」

 アメリカン・ドリームに関する歌でこれほど皮肉な歌はないだろう。この歌はアメリカン・ドリームの正体を暴きだす。

 でもこの歌に耳を傾け続けると地に堕ちたアメリカン・ドリームがもう一度耀き始める。水平線の向こうで光を放つ。
 奴隷商人はアフリカ人たちに向かって語っていることを自分でも信じている。いや信じようとしている。
 僕はそれこそがアメリカという国を動かしている原動力なのだと感じる。

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4/13 夜を賭けて

 幻冬舎文庫が創刊された。
 本屋に並べられているのを見て、タイトルや著者名に本好きの人たちは目を輝かしているだろう。
 映画関係のものもいくつかあって、それぞれなかなか面白そうだ。

 その中で見落とされそうな映画関係の本を紹介したい。
 ヤン・ソギルの「夜を賭けて」だ。ヤン・ソギルって誰?という人も崔洋一監督の「月はどっちに出ている」の原作「タクシー狂躁曲」の著者だと言えばああ、あの人かとなりかつこの「夜を賭けて」に興味を持つだろうと思う。

 「夜を賭けて」の冒頭に掲げてある詩の中から言葉を拾うと、「腐爛した眼球、国籍不明者たち、胎児の脳、鉄の形骸、大飢饉、存在の刑罰」となる。これからも「夜を賭けて」がどんな小説かが分かるだろう。
 「夜を賭けて」はずっしりした手応えのある小説だ。

 崔洋一監督の「マークスの山」のラスト・シーン。
 山頂で蹲っている殺人者の青年に朝の陽光が当たる。青年はすでに凍死している。陽光の温もりが青年の目の氷を融かす。氷は水となって青年の頬を流れる。青年を追い詰めながらも深いところで青年に共感している刑事はその「涙」を静かに見つめる。
 崔洋一ってロマンチストだなあと思ったが、ヤン・ソギルもロマンチストだ。
 ずーんと身体に響く重量感を持ちながら、「夜を賭けて」からは詩情が立ち上る。

 凄惨な程の即物的描写をしながら、みずみずしい詩情も感じさせる。ヤン・ソギルと崔洋一とは同じような資質を持った人たちなのかもしれないと思った。

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4/14 撒水夫

 いま公開中のアニエス・ヴァルダの「百一夜」にこんなシーンがある。

 庭師がホースで水を撒いている。青年が庭師の背後に立ちホースを踏み付ける。水が突然出なくなったので庭師はホースの穴を覗く。その時青年はホースから足を離す。迸る水に庭師の顔は水浸しになる。こ奴めと庭師は青年に戯れかかる。

 このシーンはそのままルイ・リュミエールのオマージュになっている。

 1895年12月28日土曜日の午後。パリ、キャピシーヌ大通り十四番地、グラン・カフェの地下室。歴史上初めて有料で映写会が開催された。映画の誕生である。この時のプログラムの最後に上映されたのが「水をかけられた撒水夫」なのだ。「水をかけられた撒水夫」は最初の上映から大成功を収めた。

 「水をかけられた撒水夫」の写真を見ると、アニエス・ヴァルダが上記のシーンを撮るにあたって、ルイ・リュミエールのとった構図をそのまま採用していることが分かる。
 興味のある人たちのために書いておくと、「水をかけられた撒水夫」の撒水夫の役はルイ・リュミエールの父親の庭師をやっていたフランソワ・クレールが演じている。悪戯をしかける少年の役は当時リュミエール工場の見習工だったデュヴァルが演じている。

 「水をかけられた撒水夫」の成功の原因を映画史家のジョルジュ・サドゥールは「劇的筋立てを含んだ最初のものだった」からと簡潔にかつ的確に述べている。

 このコミカルな小品が今日の劇映画の父であり母であるというのは愉快なことだ。

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4/16 イーグル・アイ

 映画が好きである程度深みに嵌まってしまった人は「イーグル・アイ」という言葉を聞いてすぐにカメラマンのビリー・ビッツアーの名前を思い浮かべるだろう。

 ビリーは通称で正式の名前はゴットリープ・ヴィルヘルム・ビッツアー。D・W・グリフィスのスタッフのレギュラー・メンバー、つまりグリフィス組で一番重要な人 物だった。ビリー・ビッツアーは十六年の長きにわたってグリフィスと協同作業を行った。

 ビッツアーとグリフィスとの関係はグリフィスが撮影や照明に関してなにか新しいことを思いつき試みようとすると、ビッツアーが不可能だと反対しながらも、けっきょくはやり遂げるという関係だった。

 「国民の創生」1915でグリフィスは戦闘シーンを太陽光ではなく、夜の闇の中で焚くかがり火の光で撮影しようとした。ビッツアーは反対した。いい結果は絶対に得られない。当時フィルム感度はそれほど良くなく、撮影スケジュールは太陽によって左右されていた。グリフィスは譲らず、ビッツアーは見事に夜の戦闘シーンをフィルムに収めた。

 「国民の創生」には有名なショットがある。疾駆する馬の蹄を真下から捉えたショットだ。この迫力のあるショットは今日いろんな形で様々な映画に応用されているが、オリジナルはグリフィスだ。グリフィスは道の真ん中に穴を掘らせるとビッツアーとカメラをその中に入れたのだった。そしてビッツアーはダイナミックなショットをカメラに収めた。
 グリフィスがアイデアを出し、ビッツアーがカメラ技術的にそれを実現するという関係だった。グリフィスはビッツアーを深く信頼していた。ビッツアーはグリフィスがファースト・ネームで呼んだほとんど唯一の人間だった。

 ビリー・ビッツアーがイーグル・アイと呼ばれた所以は「イントレランス」1916の饗宴シーンでの移動クレーン・ショットを観れば分かる。
 400m以上離れた高い位置からの全景ショットで始まる。カメラはゆっくりと前進し踊り子たちの頭上に降りてくる。さらにカメラは前進する。カメラは一輪の白薔薇の前で止まる。カメラは薔薇の白い花弁を捉える。
 リリアン・ギッシュが感嘆しているようにビッツアーはこの途方もないショットをピントを外すことなく撮り上げたのだった。

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4/19 ラース・フォン・トリアー

 「奇跡の海」の監督、ラース・フォン・トリアーの経歴はまるで小説のようだ。

 母親は死の床でトリアーに告げる。あなたの父親は別にいる。トリアーは母親を憎しみを込めて問い詰める。どうしていまになってそんなことを言うの?・・・あなたに芸術家になって欲しいから。

 母親が夫以外の人間と交わったのも、芸術家の血統を持つ男と交わることによって自分の子供に芸術家の血を持たせたかったからだ。

 最初トリアーの経歴を知った時、冗談だろうと思っていた。しかしそんな母親も実際に存在するのだ。

 母親は少年のトリアーに8ミリカメラをプレゼントした。そしてトリアーの撮った作品はどんなものでも素晴らしいと誉めた。トリアーは優秀な成績でデンマーク国立映画学校に入学し、在学中からコンクールで受賞するなど、その才能をきらめかせた。

 トリアーの母親の一般常識から言えば異常な行為があってはじめて、「奇跡の海」という素晴らしい映画が存在するのだということを考えると、とても不思議な気持ちになると同時に、そのような異常な行為のみが「奇跡の海」を産むことができたのだという気にもなる。

 トリアーは実父に会っている。
 実父はトリアーに唾を吐きかけ、一度だってお前を望まなかったと言い放った。

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参考図書:
「奇跡の海」
ラース・フォン・トリアー
幻冬舎文庫

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