月が綺麗。


「ジュリアスさまっ!」
私室の扉から現れたアンジェリークはうれしそうに夫の名を呼ぶ。
ジュリアスは手にした雑誌を置くとゆっくりと声のする方に振り向いた。
「アンジェリーク…。」
ジュリアスは目を瞠った。アンジェリークはやわらかな金の巻き毛を緩く結い上げ、白い柔らかい布地でできたキトンを纏い、少し開いた胸元を細いベルトで軽く締めている。その胸元からまっすぐにくるぶしまでさらりと長い裾が落ちかかり、そこから見える細い足首にはかかとの低い小さなサンダルの金のベルトが巻かれている。そう、ちょうどいつものジュリアスの衣装ととても良く調和のとれたドレスである。
「うふふ、似合いますか?」
「似合うなどと…」
ジュリアスはその端正な顔に驚きと喜びの色をいっぱいに湛えながら言った。
「そんな言葉では足りない。なんと言ったら…ああ、まったく、私の語彙には女性を称える言葉がほとんどないようだ。まったくもどかしい。オスカーならこういうときに言うべき言葉を簡単に見つけるのだろうが…。」
アンジェリークは精一杯考えてこの衣装を頼んだ。いろいろな奇を衒ったマニアックな衣装はジュリアスの理解の範囲を超えていたらしく…アンジェリークはまたいつか試して見ようとは思っているが…不評だったので、ジュリアスと生まれ育ちの一番似かよっているロザリアにも相談しながら決めたのだ。でもまさかここまでジュリアスの賞賛を得ることができるとは思っていなかった。
「ジュリアスさま…。お気に召していただいて嬉しいです、本当に。あ、あの、いいんですよ、言葉なんか。ジュリアスさまを見ていたら、どんなに喜んでいただけたかわかりますもの。それに、ジュリアスさまがオスカーさまみたいな誉め言葉を使われたら、私…かえってイヤかも…ふふっ。」
ジュリアスは少し下を向いた。アンジェリークはジュリアスが照れているような気がした。いずれにせよこんな表情のジュリアスを見たことはあまりないような気がする。
「ジュリアスさまっ。行かないんですか?」
「あ…ああ。そうであったな。行こう、アンジェリーク。」
ジュリアスはアンジェリークの手を取って部屋を出た。ジュリアスの服装はアンジェリークが女王候補だったころの執務服に似た白を基調としたローブにいつもの神鳥のついたものより、ずっと軽く柔らかい紺碧の布地で拵えたケープ。サークレットを外した白皙の額に黄金の前髪が柔らかく掛かってとても艶っぽい。
(こ〜んな、とんでもなく綺麗な方が私の旦那さまだなんて、やっぱり夢じゃないかしら。…なんだか時々信じられなくなっちゃう。)
アンジェリークは大きな丸い目をますます丸くして、ジュリアスを見つめた。その視線に気付いたジュリアスは、にっこりと微笑を返しながら言う。
「そなたのような素晴らしい女性をエスコートできるなど、私はまことに果報者だ。」
(わ、私のほうがよっぽど果報者です、ジュリアスさま〜っ!)
アンジェリークは真っ赤になってそう心の中で叫ぶ。女王になったとはいえ、全然女王らしくなれない、と悩む彼女にとって、ジュリアスはまだまだ雲の上の存在に感じられるときが多い。アンジェリークは落ち着こうと思って深呼吸をする。ジュリアスはまだ微笑みながら彼女を見ている。彼はいつもアンジェリークのことを『天使』と呼ぶが、アンジェリークにとってはジュリアスの方がよっぽど天使のように見える。一生懸命呼吸を整えても、アンジェリークのドキドキは止まない。


宵闇迫る宮殿の前庭に到着した二人はそこでいきなり静寂を破られた。
「あっ、陛下、それにジュリアスさま!こんばんは!」
「うわあ、陛下のドレス、素敵だなあ。それにとってもジュリアスさまとお似合いですよ。あ、いつもだってお似合いですけど、今夜はもっと…。」
「な〜におべっか使ってんだよ、マルセル!……と…ま、まあ、あながち嘘じゃあねえけどよ…。」
年少組がいつものように束になって現れる。アンジェリークは息もしづらいほどドキドキしていたので、かえって彼らの登場で緊張がほぐれたことがありがたかった。
「ランディ、マルセル、ゼフェル。今晩は。いい風が吹いてきたわね。」
草むらで涼やかな虫の音がする。聖地とはいえ夏は暑い。外界のように耐えられぬほどの暑さにはならないようになっているが、先週までは夜になっても蝉の声が止むことがなかった。だが流石に八月も終わりになって初秋の夜風が吹いてきたようだ。
「ええ、陛下。俺が特別に陛下のために吹かせました…なんちゃってね、嘘ですよ。」
「当たり前だろ、ば〜か。」
「じゃあ、陛下、ジュリアスさま、ごゆっくり。」
一番気の回るマルセルが、ランディとゼフェルを牽制するように会話をさえぎった。
「ああ、そなたたちもあまり夜遊びはせぬようにな。」
いつものジュリアスの小言のようにも聞こえるが、その表情と声音の穏やかさで、その言葉はあまり抵抗もなく彼らの耳に届いた。
「ジュリアスさま、なんだかとても優しい感じだったね。」
「ふう、俺ドキドキしちゃった。アンジェ、すっごく綺麗だったよな。」
「ちぇっ、ジュリアスのやつ、余裕出てきやがった。」
二人が去った後少年たちは、すっかり『カップルらしく』なったカップルを、それぞれの言葉で認めていた。


「これはジュリアスさま、陛下。今宵はお揃いでどちらへ?」
「うわあ、陛下。そのドレスどおしたのよっ、すっ………ごくイカしてるじゃないのっ!もう、いいセンスしてるんだからぁっ!」
「あっ、こらオリヴィエ、俺より早く女性を褒めるんじゃないっ!」
「あら、オスカーったらだめだめ。二人まとめていい顔しとこうったってそうはいかないよん。ジュリアスは後回しにして陛下を見てあげなくっちゃあ。ね、陛下。」
「今晩は、オスカー、オリヴィエ。月が綺麗ね。」
アンジェは二人の相変わらずの掛け合いにくすくす笑いながらそう答えた。
「いいえ、陛下。今宵の陛下にはあの月もかすむほどです。」
「……なるほど、そういう言葉を使えば良いのか。」
いきなりそう返したのはジュリアスである。オスカーは焦った。またジュリアスに自分の悪癖…とは自分では思っていないが人はそう思っているらしい…を揶揄されたと思ったからである。だがジュリアスはまじめな顔をして更に言った。
「そなたの頭の中の『辞書』を一度見せてもらいたいものだな。」
「…はっ、申し訳ありません…っ。」
「何を謝るのだ、オスカー。何かやましいことでもあるのか?」
「いえ、あまり陛下がお美しいので、ついジュリアスさまの御前もわきまえず…」
「構わぬ。自分の妻を褒められて、決して悪い気はせぬものだ。」
穏やかでさり気ないジュリアスの言葉にオリヴィエもオスカーもギョッとした。むろん、ジュリアスがここまで言うようになったか、と言う理由で、である。
アンジェリークは少し頬を赤らめながらオスカーの最初の質問に答えた。
「あのね、とても月が綺麗な場所につれていっていただくの。」
「はあ、それは…どちらですか?」
「ヒミツなの。」
オスカーは思わず赤面した。その質問が野暮の骨頂だったからである。オリヴィエはすでにもう何も言う気はないらしい。二人の守護聖はは胃の中いっぱいに砂糖でも飲み込んだような気分で、この金の髪のカップルを見送った。


「いろいろ邪魔が入ったが…ここ……?!」
宮殿の敷地のはずれにあるその場所に到着したとき、ジュリアスは絶句した。そこに先客の姿を見つけたからである。しかももっとも会いたくないはずの人物が…。
「クラヴィス…」
「これは…面白い客人だな。」
「あ、クラヴィス。今晩は。」
クラヴィスは軽く会釈するとその場所から立ち去ろうとした。
「クラヴィス…?」
「ひとつ貸し…と言うことで良いぞ。」
「…そなたに借りなど…」
「ではここから出てゆくか?」
いつものような調子になってきた二人を、アンジェリークは慌てて止めた。
「ジュリアスっ…あ、あの、クラヴィスもご一緒に…」
「ふふ…ならご一緒させていただくとするか…?」
「断るっ!」
「おまえには聞いてはおらぬ…。」
「ああもう、二人ともやめてくださいっ!」
「アンジェリーク、ゆくぞ。」
「ジュリアスさま、でも…っ!」
ジュリアスは乱暴にアンジェリークの腕を引っ張って、その場を辞した。
「ふっ…相変わらずおかしな男だ…。」
一人残されたクラヴィスはそう言って笑いながら美しい月を見上げた。


先ほどまでの穏やかな気分が吹き飛んだジュリアスはアンジェリークの肩を抱きかかえるようにずんずん大股で歩き始めた。アンジェリークは引きずられながらついていく。
「あの…ジュリアスさま?」
「どこに言っても守護聖ばかりだ。これでは残る二人が出てくるのも時間の問題だろう。予定変更だ、馬車に乗るぞ。」
「は、はい…。」
ジュリアスが宮殿の車寄せまで戻ると、果たしてルヴァとリュミエールがのんびりと立ち話をしていた。ジュリアスは一言も発さず二人の前を通りすぎると、困ったような顔で二人に会釈をするアンジェリークを引きずって、控えていた馬車に乗り込んだ。
「なん…だったのでしょうね〜、あれは。」
「はあ。でも相変わらず仲がよろしいようで…いいではありませんか。」
「ええ、そうですね〜。」
残された二人はのんびりと会話を続けた。


馬車はジュリアスの私邸に着いた。
「お降りください。」
久々の主人の帰宅に集まってきた使用人の前ということもあり、ジュリアスはアンジェリークに敬語で話し掛けた。そして留守を任せている執事に何事か話し掛けると勢いよく屋敷の中に入り、正面の階段を昇った。もちろんアンジェリークの腕をがっしりとつかんだままで…。
「ここなら誰も来ない。」
辿りついたのはジュリアスの寝室のバルコニーであった。アンジェリークには久々の訪問になる。
「月が綺麗…。」
アンジェリークはゆっくり月を見るつもりでそう呟いたが、すでにジュリアスの目は据わっていた。
「あの…っ」
ジュリアスは無言のままアンジェリークを抱きしめて強引にくちづけた。
(ああ、やっぱり…スイッチ入っちゃってるっ…ι)
久々にゆっくりした時を過ごせるはずだったのに…。バルコニーに置かれた硬い寝椅子に押し倒されながら、アンジェリークはそんなことを思った。


「そなたは…まるで月の女神のようだ…」
アンジェリークを腕の中に置いたまま、ジュリアスはそう呟く。
「だったら、ジュリアスさまは太陽の神様です…」
乱れた髪をなでつけ、裾を直しながらアンジェリークも呟く。。
「太陽と月では永遠に会えぬではないか。」
「いいえ、月は太陽の光で輝くんです。」
真剣な口調でこんなことを言った後、二人は思わず顔を見合わせて笑った。
「本当に今夜の月は綺麗ですね。」
「そなたほどでは…ない。」
先ほどのオスカーの二番煎じのような気がしてジュリアスは少し赤面した。
「ジュリアスさまほどではありません…」
アンジェリークも負けずにそう切り返した。
「…少し、ここは硬いようだな。」
苦笑いしたジュリアスは、寝椅子を撫でながらそう言って立ち上がり、バルコニーと部屋を隔てる扉を開けた。
「来るがいい…部屋の中でも月のあかりは届く。」
「はい、ジュリアスさま。」
アンジェリークはくすくす笑いながらジュリアスの勧めに従った。


月はそんな二人をいつまでも見守っていた。



おしまい



なんか裏更新ばかり続いちゃったんで、憑き物落としに書いた意味不明のお話。
あまり深く追求しないでください。憑き物だけに月もの(爆)