唇の記憶


「アンジェリーク……」
 ジュリアスは眠るアンジェリークの頬にそっと指を触れさせた。
 柔らかな感触……指先に熱がこもる。
 大きく開けた窓から、心地よい風がカーテンを揺らして部屋に吹き込んだ。ジュリアスははっと指を離した。
 閉じたまぶたがぴくりと動いて、アンジェリークが目覚めた。
 ぼんやりと焦点の定まらない目で天井を見上げ、頬を優しく撫でる風を感じて窓へ視線を向ける。それからゆっくりと彼女は見回すように顔を反対側へ向けた。
「……ジュリアスさま……?」
 視線が合って、彼女の唇から自分の名が聞こえた瞬間、ジュリアスは自分の胸が大きく震えるのを感じた。
「……おはよう。アンジェリーク」
 ジュリアスは少女に微笑んだ。少女はその微笑みに応えるようにふわりと微笑んだ。
 愛しい一瞬。
「……?」
 アンジェリークは少し目を開き、小首を傾げた。その翠緑の瞳が次第に焦点を合わせていくのをジュリアスは黙って見つめた。
「っ!?」
 アンジェリークは完全に覚醒すると、がばっと文字通り飛び起きた。
「まだ横になっていた方がよい」
 ジュリアスは優しく声をかけた。
「ジュリアスさまっ、あの、私は……っ」
 ジュリアスのことを思わず様付けで呼んでしまい、はっと口を押さえた女王にジュリアスは微笑した。
「誰もおらぬ」
「え?あ……よかった〜……って、違います!……はあ。私ったら……倒れちゃったんですね」
 状況を理解したアンジェリークは大きくため息をついた。
「ずっと気を張っていたのだ。仕方あるまい」
「ジュリアスさま……」
「……来るのが遅れてすまなかった」
 僅かに目を伏せたジュリアスに、アンジェリークは首を振った。
「よかった……みんな無事で。ジュリアスさまも……」
 アンジェリークの瞳が潤んだ。
 抱きしめたいという衝動を、ジュリアスは無理矢理押さえ込んだ。
「ああ。私もそなたが無事で安心した」
 皇帝に聖地を襲われてから今まで、ジュリアスの心は安まることがなかった。女王を支える守護聖の長としてのジュリアスの身にのしかかる重責。愛する者の身を危険にさらしているという痛み。眠れぬ日々がどれほど続いたことか。
「聖地も皇帝の手から解放された。まだ、油断するわけにはいかぬがな」
「……ジュリアスさま」
「どうした?」
「……ううん。何でもないです」
 首を振ったアンジェリークにジュリアスは瞬間、ほんの少しだけ苦しげに眉根を寄せた。アンジェリークが何を言いたいのか、ジュリアスには痛いほどわかる。だが今は……。
「アンジェリーク。そなたにはロザリアと共に辺境の惑星へと一時避難してもらうことになった。聖地は解放されたが、またいつ皇帝が襲ってくるかわからぬ。我々守護聖がそなたの側にいられれば良いのだが、そうもいかぬ。女王が聖地を離れるなど本来あってはならぬことだが、今は緊急事態だ。理解してもらえるとうれしいのだが」
 溢れそうになる感情を押し隠して、ジュリアスは努めて事務的に話した。
「……わかりました」
 アンジェリークはしばしの沈黙の後、ジュリアスをまっすぐ見上げて頷いた。その表情はすでに女王のものとなっている。自分も一緒に戦いたいと言い出すかと思っていたジュリアスは、意外な反応に少し目を見開いた。女王はそんなジュリアスを見て、くすりと笑みを零した。
「女王としての自分の立場はわきまえていますから。誰かさんにみっちり仕込まれましたもの」
「アンジェリーク……」
「……待ってますから。無事にみんなで戻ってきて下さいね。絶対に……絶対によ」
「ああ」
 ジュリアスは頷いた。そして、彼女の目覚めを皆に知らせるために扉に向かう。その背中に、アンジェリークの視線を痛いほどに感じた。突き刺さるのではなく、締め付けられるような痛み。
 ドアノブに手をかけた所で、ジュリアスの動きが止まった。
 急に彼はくるりと振り返り、大またにベッドのアンジェリークの所まで戻ってきた。そして身を屈めると、驚いたアンジェリークの唇に己のそれを押し付けるように重ねた。
「すぐに戻る」
 それだけ告げると、ジュリアスはもう振り返ることなく部屋を立ち去ったのだった。







 アンジェリークはバルコニーに出ると、満天に光り輝く星々を見上げた。

 ……あなたは、どこにいるの?

 この星の海のどこかで繰り広げられている、皇帝との最後の戦い。
 自分がその場にいられないのが、みんなと戦えないのがすごくもどかしい。
 けれど……、

「約束したから」

 待っているって。みんなを……あなたを信じて待っているって。
 アンジェリークはそっと自分の唇に指を触れさせた。そこにはまだ、あの時の熱い感触が残っている。全ての想いが込められたキス。思い出すだけで胸が震えるあのキスは、アンジェリークの唇に鮮やかな記憶として刻み込まれている。

 どうか無事に戻ってきて……。

 そして、もう一度あなたの想いを感じさせて。
 祈りを込めて、アンジェリークは夜空を見上げた瞳をそっと閉じた。







 ジュリアスは窓越しに、満天に光り輝く星々を見上げた。

 ……アンジェリーク。そなたは、どこにいるのだろうか?

 この星の海のどこかで自分たちの帰りを待つ、愛しい少女をジュリアスは想う。
 夜が明ければ、最後の戦いが待っている。おそらく、これまでにない激しく辛い戦いになるであろう。
 だが……、

「約束したのだ」

 皆、無事に戻ると。すぐにそなたの元へ帰ると。
 そのためには、負けることは許されない。明日、全てを終わらせて、そして……。
 ジュリアスは、最後に触れたアンジェリークの唇の感触を思い出す。何よりも甘く柔らかなそれは、ジュリアスの堅固な理性をいともたやすく崩してしまう。あの時もそうだった。わかっていながら、口づけた。溢れる想いを伝えるために。
 理性が崩れ去る直前に無理矢理引き離したためだろうか。ジュリアスの唇にはまだあの感覚が鮮やかな記憶として刻み込まれている。

 すぐにそなたを迎えに行く。

 そして、もう一度そなたを感じさせてくれ……。
 願いを込めて、ジュリアスは夜空を見上げた瞳をそっと閉じた。







「陛下、もうそのくらいになさらないと」
「だいじょうぶよ、ロザリア。私まだ酔ってないもの」
 女王はにっこり笑ってグラスに残ったワインを一気に飲んだ。
 うっとりとした表情で女王はホールをぐるりと見渡した。ワルツを踊る人々。それを見ながら酒を片手に会話する人々。皆、その表情は明るく、笑い声が絶えない。この宇宙が救われたことを誰もが喜んでいるのだ。
 そして、この宇宙に再び平和を取り戻してくれた、このパーティーの主役である新宇宙の女王はというと、先程とある人物とこっそりホールを抜け出すのを女王は見逃さなかった。
 だが、もちろんそこは気付かぬ振り。女王は内心こっそりとエールを送ったのだった。
「陛下、本当に飲み過ぎですわよ。もう、こんなに顔を真っ赤にして!」
「だいじょうぶだって。まだまだいけるわよ〜」
 だんだんとまぶたが重くなって、女王はくらっと身体を傾がせた。
「陛下っ!!」
 ロザリアの声が急に遠くなった。眠気が女王の身体を包む。ワルツの音楽も人々の話し声も心地よい子守歌のように聞こえて、女王はそのまま寝入ってしまった。
「もう、陛下!このような所でみっともないですわ!!」
 全く、と女王を抱き起こそうとしたロザリアの前に人影が立った。
「ジュリアス?」
「陛下は私がお運びしよう」
 そう言うと、ジュリアスは女王を抱き上げた。一瞬呆気にとられたロザリアだが、ジュリアスの顔を見て思わずくすりと笑みを零して頷いた。
「ええ、お願いするわ」
 そのままホールを出ていくジュリアスの背中をロザリアは穏やかに微笑んで見送った。
「うーん、ジュリアスもなかなかやるねえ」
「あら、オリヴィエ」
「はーい。先越されちゃったわ」
「それでしたら、わたくしにお付き合いいただけるかしら?ちょうど1人になってしまったの」
「ふふっ、そうだね。取り残された者どうし、仲良く飲もっか」
 オリヴィエはワインのビンを取って軽く振って見せた。ロザリアはそれに不敵に笑って応えたのだった。
「わたくし、強いですわよ」



 アンジェリークは温かなぬくもりの中で目を覚ました。すぐそばで青い瞳が見つめていて、彼女は自分がその人の胸に抱かれていることを知った。
「お目覚めですか、陛下」
「……ジュリアスっ!?あのっ、わたしっ」
 状況が飲み込めず混乱するアンジェリークに、ジュリアスは苦笑しながら言った。
「そなたが離してくれぬから、私も困っていた」
 ジュリアスに示されて、自分の右手がしっかりとジュリアスの服を握りしめているのにようやく気付いたアンジェリークは、顔を真っ赤にしてぱっとその手を離した。
「ごめんなさいっ」
「いや……」
 ジュリアスは寝台に腰を下ろしている。その膝の上に座るような形でアンジェリークはジュリアスに抱かれていた。アンジェリークは慌ててジュリアスの膝から降りようとしたが、ジュリアスの力強い腕に引き寄せられて元の位置に収まってしまった。
「ジュリアスさまっ!?」
「……戻って、きたのだな」
 噛み締めるように呟いたジュリアスの言葉に、アンジェリークははっと目を開いた。
 そう、戦いが終わってみんなは無事に戻ってきた。だが、それからは慌ただしく時が過ぎて、こうして2人で話す暇など全くなかったのだ。全ては終わったが、アンジェリークの中では何も終わっていなかった。
 自分は待っていたのではなかったのか?この時を……この瞬間を。
 アンジェリークは手を伸ばしてジュリアスの頬に触れると、背伸びをしてそっと唇を触れ合わせた。あの時とは違う、けれど胸の奥が熱くなる感じ……ジュリアスの想いが伝わってくる。アンジェリークは唇を離すと、ジュリアスに微笑んだ。
「おかえりなさい、ジュリアスさま」
「ああ。ただいま、アンジェリーク……」
 ジュリアスは微笑み返すと、アンジェリークの前髪を優しくかきあげてその額に口づけた。アンジェリークは酔いで火照った頬をさらに赤く染めて目を閉じた。熱い唇の感触が額からまぶた、そして頬へと移る。
「アンジェリーク……」
 ジュリアスがその美しく響く低い声で囁きかける。アンジェリークが目を開くと、深い紺碧の瞳が甘く、熱く輝く光を湛えてアンジェリークの心を捕らえた。
「今宵は……もう離さぬ」
 そしてジュリアスは、あの時の記憶が刻み込まれたアンジェリークの唇をその記憶がかき消されるほどの激しさで奪ったのだった。



「ジュリアスさま……あの……」
「どうした?」
「私たち、パーティー抜け出してきちゃってよかったんでしょうか?」
「気になるか?」
「……ちょっとだけ」
「……ふっ」
「ジュリアスさま!?」
「気になるのなら、最初から酒など飲まぬことだ。女王が最初に酔い潰れては、何も言えぬぞ」
「う〜……ごめんなさい」
「謝ることはない。おかげでこうしてそなたを独り占めできたのだからな」
「ジュリアスさま……っ」
「それに……今宵は離さぬと言ったはずだ……私の天使」



 ―――アンジェリークの唇に再び、新たに鮮やかな記憶が刻み込まれた。



 End


うふ、ふふふ。リクエストは「天空の鎮魂歌」のインサイドでジュリアスと女王リモージュが 逢えないながらもラブラブな葛藤…って、リクエスト内容の記録がないよう!
…とにかく、大体狙いは「ウチの設定(ジュリ×女王リモ・聖地黙認カップル)の二人が 天レクのときに何を考えていたのか]を梨奈さんの視点で書いていただきたかったのです。
えへへ。ハードな状況の中においてもバカップルぶりが素敵!やはり二人はこうでなくっちゃ!
あ、正しいリクエスト内容は、「とらわれの陛下ととらわれのジュリアスがお互いを思って悶々とするところから 始まって、救出でしばしの逢瀬を味わって、 最後にはめでたく陛下を迎えにゆくジュリアス」 という流れの一部分をピックアップして。 そして、ラストはハッピーエンドで。 ということでした。自分でリクエストしたのに…(T_T)。
…と、いうことで、梨奈さん、ありがとうございました。壁紙、イケてます?
(はとみ)