「はくしょんっ!」
アンジェリークは耳を疑った。
くしゃみである。そんなことはわかっている。問題は誰のくしゃみかと言うことだ。
ここはアンジェリークとジュリアスの『愛の巣』(笑)である。
二人の他に人はいない。ここには原則的に、二人に招かれない以上何人たりとも入ることは出来ない。
そして今、アンジェリークはくしゃみをした覚えはない。
いや、何より自分があんなハスキーと言うか、渋いくしゃみはしないだろう。
ジュリアスである。くしゃみをしたのは彼しか有り得ない。
ソファに掛けたアンジェリークは恐る恐る後方に立つジュリアスのほうに振り向いた。
「はっくしょん!」
今度は見た。確かにこの目で見た、とアンジェリークは思った。
あの光の守護聖ジュリアスがくしゃみをするところを。
「くしゅっ!」
あらあら、今度は随分可愛いのね、ともう一つおまけのくしゃみをしたジュリアスになんだか嬉しくなって来たアンジェリークは言った。
「ジュリアスでもくしゃみをするのね。」
アンジェリークは近ごろ夫の名を、二人だけの時にもジュリアスと呼び捨てで呼ぶ。
今でもちょっと抵抗はあるが、ジュリアス本人からの申し出なのでそう呼ぶことにしたのだ。
(でも公務の時にはいつも呼び捨てだから、二人だけの時にはジュリアスさま、と呼びたいんだけど…)
と、アンジェリークは思うが、まあ、仕方がない。
そんなわけでジュリアスである。
「なんだか、鼻がむずむずとしたのだ。」
鼻がむずむず。なんか、ジュリアスさまらしくないなあ…。と、彼女は心底思う。
では、誰なら“らしい”のか?
(ランディ、ゼフェル、マルセル。あと、ルヴァ。…オスカーとオリヴィエくらいならまだ想像はつくわね。)
と言うことは、ジュリアスのほかにクラヴィスとリュミエールは“らしくない”ということだ。……なんてことを考えていたらジュリアスがこう言った。
「誰かが噂をしている…、という言い方もするな。」
ジュリアスがそんなことを知っているとは意外であった。アンジェリークは目を丸くした。
「ジュリアスが素敵だって、噂かしら。」
アンジェリークは真顔でそういった。
「宮殿の賄いさんとか、メイドさんとか…それともオスカーだったりして。うふ。」
ジュリアスはヘンな顔をしてアンジェリークのほうを見た。
「何故そこでオスカーの名が出るのだ。」
「あら、だってオスカーってジュリアスのこと、と〜ってもソンケーしているもの。」
悪戯っぽくアンジェリークが答える。だがジュリアスにはアンジェリークの少女らしい冗談はまったく通じないようだ。さかんに変な顔をしたまま首を傾げている。
「それともクラヴィスかなあ。」
ジュリアスはまた違う意味でヘンな顔をした。
「そうかも知れぬ。」
「えっ?」
「あれがまた、私の悪口を言っているのかも知れぬ。」
ジュリアスは憎々しげにそういうと、アンジェリークの隣りにどかっと腰を下ろして目を閉じた。
「疲れた。」
そういうとジュリアスはアンジェリークの肩にことん、という感じで頭を乗せた。
「しばらく、このままにさせてはもらえまいか?」
「ええ、もちろん構いませんけど……」
アンジェリークは寄り掛かるジュリアスの頭にそっと腕を回した。
「熱、あるんじゃないですか?」
「大事ない…。少し疲れただけだ…」
ジュリアスは大儀そうに目を閉じたままそう言う。
「横になってください、ね?」
アンジェリークはジュリアスの頭を自分の膝の上に下ろして、肩に掛けていたショールをそっとジュリアスの体に掛けた。
「すまぬ……少しだけ…」
ジュリアスはそう言うと深い息をついた。
アンジェリークはジュリアスの髪を撫でる。膝枕に横たわる夫は、いつの間にか少し眉間に皺を寄せながら静かに寝息を立てている。
「ふふ、寝てるときまでこんな難しい顔なさらなくてもいいのに。」
アンジェリークはそう言って、ジュリアスの眉間の皺を指で伸ばす。
「お疲れさま。せめて私から、安らぎのサクリアを、ね。」
アンジェリークは女王の力をちょっと私用して、クラヴィスのサクリアを自分を通してジュリアスに送りこむ。
「くしゅん!」
ジュリアスがまた小さなくしゃみをする。
「……クラヴィスの力はまずかったかしら…?」
アンジェリークはちょっと苦笑いした。ジュリアスが膝の上でぶるっと震える。
「……困ったわ。このままじゃ毛布も取りに行けない……。」
アンジェリークはちょっと考えて、そのままジュリアスに覆い被さった。
「あったかい…」
ジュリアスの微熱気味の体温が心地よかった。
「うふふ。」
アンジェリークは昔ジュリアスの膝枕で寝てしまったことを思い出した。
いや、寝たときは確かジュリアスはいなかったのに、起きたらジュリアスの膝の上だったのだ…あのときは、女王候補。ジュリアスがまだ少し…最初の頃に較べれば随分なれて来た頃とは言え…恐ろしかった。
いつも、厳格で、気高く、美しかった。それが何故か恐ろしく感じられたのに……今は、そんなジュリアスの性格が可愛い、とさえ思える。
美しく波打つ黄金の髪。磁器のようにきめの細かい輝くような白い肌。今は閉じられているけれど、金の、長くたっぷりとした睫毛に覆われたサファイアブルーの切れ長の瞳。
「きれいだな〜。私って……なんだかものすごくラッキー?」
でも時々ちょっと哀しくなる。いつまで私、こうしていられるんだろう。もしジュリアスが守護聖じゃなくなったら?ううん、それより先にもし私の女王のサクリアが尽きたら?
アンジェリークはそれを思うたび、身震いする。
「ジュリアスさま……」
思わずさま付けで呼んで、アンジェリークはジュリアスの手にキスをする。頬擦りをする。
「アンジェリーク……。」
アンジェリークはドキッとして弾かれるように体を起こした。ジュリアスはいつ目が覚めたのだろう。見ると、ジュリアスは膝枕をしたままその青い瞳でアンジェリークをまっすぐ見つめている。
「いつまで我々はこうしていられるのであろうな…。」
ジュリアスも同じことを考えていたのか?アンジェリークは胸が詰って思わず涙をこぼす。
「泣くな……。」
すっと伸びたジュリアスの長い指がアンジェリークの涙を拭う。
「このようなところで眠ったら、本当に風邪を引いてしまう。」
ジュリアスは立ち上がって、体に掛かっていた肩掛けでアンジェリークの肩を包むと、そのままアンジェリークの肩を抱き、寝室まで伴った。
「はっくしょん!」
次の朝、目覚めたアンジェリークが大きなくしゃみをした。
「そなたにうつしてしまったのであろうか…ι」
ジュリアスが心配顔でアンジェリークを覗き込む。
「は……たいじょぶ…はぁ…です…っくしょん!!」
アンジェリークはわけのわからない返事をする。
「くちゅっ!」
「熱はないであろうな。」
ジュリアスの大きな手がアンジェリークの額を探る。
「女王が…風邪なんてひいたら…くしゅっ!…大恥じだわ。」
「風邪は他人にうつすと治る……とか聞いたことがあるが…まことかも知れぬな。」
「よ…よく御存知ね、ジュリ……っくしょんっ!」
止まらないくしゃみに、アンジェリークは勢い良く鼻を啜り上げた。と、その時、急に視界が遮られ、ジュリアスの唇が彼女の唇に重なる。
アンジェリークはいきなりのキスに、戸惑いながらも条件反射と言うべきか、強くジュリアスの唇を吸った。ジュリアスも負けじと強く口付ける。
お互い苦しくなるほどのキスを交わしたあと、深呼吸してからジュリアスがこう言った。
「他の者に移せば良くなるのであろう?」
ジュリアスはくすっと笑うと、着替えを持ってバスルームに消えた。
アンジェリークは慌てて後を追う。
「そしたらジュリアスがまた風邪をひいてしまうわ!」
バスルームの扉越しにジュリアスの声が聞こえた。
「構わぬ。また誰かにうつせば良いのだ。」
アンジェリークは驚いて言葉を継いだ。
「やだ、ジュリアス。ほかの人とキスなんかしないで!」
扉が開いて、ジュリアスが顔を出す。
「何を言っている。私がそなた以外に接吻などするわけがあるまい。うつす方法などいくらでもあるだろう?それとも……」
ジュリアスはそう言うと、再びアンジェリークに口付けた。
「また返してしまうのはどうだ?」
そう悪戯っぽく言って扉の向こうに消えたジュリアスをアンジェリークは真っ赤になって見送った。
新しい宇宙の新しい女王陛下は、風邪もひくほど庶民的、という評判が聖地に飛び交ったのは、そのあとすぐのことだった。
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