一生の不覚

その朝、ジュリアスが寝台から起き上がったとき、既に太陽は森の木々の遥か上に昇っていた。
「しまった…。」
ジュリアスは愕然とした。確かに昨夜は眠れなかった。何度寝返りを打ったかわからない。そのまま小鳥の声を聴いたような気がする。なのになぜ、いままで眠っていたのか。いや、いったいいつ眠ってしまったのか。
いや、そんなことはどうでもいい。今はいったい何時なのか。ジュリアスは枕もとの時計を見る。
「なんということだ…。」
物心ついた頃から、遅刻などしたことがない。約束の時間を守るということはジュリアスにとって当然であって、息をする事と同じくらい当たり前のことである。…それなのに…。
「寝坊だと…?この私が…?」
夢を見ているのだと思いたかった。しかし夢ではないことはジュリアスにははっきりわかっていた。夢と現実を混同するほど不確かな自我ではない。…いや、何を考えているのだ。混乱して来た。自分で考えた言葉の意味がわからないではないか。不確かな自我とはなんだ。…間違ってはいないようだが…こんなことを考えている場合か。いや、違う。今自分のするべきことは…。
「アンジェリーク!」
そうだ。自分は今朝彼女と約束をしている。今日は確かに日の曜日のはずだ。そしてこの間ついに自分の気持ちを伝えてしまって…女王陛下であるアンジェリークと日の曜日にどこかに行く約束を…。
女王陛下とどこかに行く約束…。そうだ、昨夜寝られなかったのはそのせいだ。
この私が…。女王陛下と…。個人的にどこかに行く約束…。だが約束は約束…。
「二時間も過ぎている…。」
そして勢いよく上掛けを跳ね除けて寝台から飛び出たジュリアスは、傍にあった椅子に向う脛を打ちつけ、夢ではないという事をいやというほど確認する羽目になった。



アンジェリークは爆睡していた。何しろ昨夜は全然、全く、これっぽっちも眠れなかった。待ちに待った日の曜日である。確かに、女王候補時代もそう言う類の約束をしたことはある。だが『守護聖さまと親睦を深めるため』の約束と、お互い愛の告白をし合った(つもりの)二人の約束とはだいぶ心構えが違う。
「今日はどこに連れて行ってくださるかしら?」
「もしかしたらジュリアスさま、あんなことやこんなことを…」
「ああ、でもジュリアスさまのことだからチェスを教えてくださるとか、そんなことかも…。(だったらちょっとつまんないなあ)」
「ああ、でも、わかりません、とか言って手取り足とり…足は関係ないか…教えていただこうかなあ…あ、そうだ、ダンスを教えてください、とか言っちゃおうかなあ…そうだ、それがいいかも…!」
…などと女王らしからぬ妄想に走っているうちに朝になってしまったのだ。仕方がないので眠いのを我慢して起きてしまった。何しろあの時間に厳しいジュリアスさまのことだ、いくら女王相手だといっても寝過ごして遅刻でもしてしまったら…。
「いかに女王陛下といえども、いえ、女王陛下であればこそ、お時間には厳しくして頂かないと…こんなことでは私と約束などしないほうがよろしいですね…。」
…とかいって、デートが中止になっちゃうかも…。
「いやっ!そんなの!」
とか心の中で叫びつつ、アンジェリークはとっておきのフリルのいっぱいついたスカートの長いワンピース(『桃色の家』とかいうブランドもの!)を着込み…ミニでもよかったのだが、ジュリアスさまには受けが悪そうなので…朝食もそこそこに約束の場所に向かった。そしてそこに誰も来ていないのを見届けると、
「勝った!」
…と小声で叫んで、思わず小さくガッツポーズまでした。
「まだいらっしゃらないのなら少しここで休みましょうか…。」
遠くに子供とかが遊んでるみたいだけど、構わないわよね。と、アンジェリークは草の上に足を投げ出して座った。日差しが暖かく、とても気持ちがいい。ああ、なんてステキな日の曜日かしら…。
当然の如く、アンジェリークは眠りの中に引きこまれて行ったのだった。



ジュリアスはその朝初めて食事を抜いた。さすがのジュリアスも今度ばかりはルーティン通りの行動をとる余裕はなかった。
服装もいつものようなものではだめだ。あれでは走れない。そこで大慌てで乗馬用のスーツを着込むと、ブーツを履き、邪魔になりそうな髪の毛をとっさにポケットチーフで縛ると、大股に屋敷を出て行った。そういう恰好なのだからいっそ馬にでも乗っていけばいいものを、どうもどこか思考がショートしているらしく、思いつきもしなかった。
だからジュリアスは走った。ただひたすら、約束の場所を目指して。

慣れないことはするものではない。ジュリアスは5分もしないうちに後悔した。走れない。いつもほとんど走るなどしたことがない。たまに走ったといってもあのサンダル履きで宮殿の中を少し速いペースで移動するだけだ。全然問題にはならない。
「…運動不足…ということか…。」
気分が悪くなって来た。心臓は早鐘を打って、息もすっかり上がっている。ジュリアスは思わずひざに手を当てて立ち止まった。
「…いつのまに…こんなに…体が…なまって…しまったのだ…私は…」
頭の中がぐるぐる回っている。必ず摂ることにしている朝食も摂っていない。ただでさえ信じられない事態に混乱を極めている思考回路が、酸素と栄養素の供給不足によってますます混乱を深めた。目が眩む。もう、立ってはいられない。
「ああ、もうだめだ…。私は…おしまいだ…。」
何がどうおしまいなのかもわからず、ジュリアスはその場にしゃがみこんだ。



オスカーは少し荒んだ気分で愛馬の手綱を握っていた。うららかな日の曜日。まさにデート日和としか言いようのない日だ。だが誰とも約束をしていない。いや、約束をして貰えなかったのだ。今日が非番のカフェテラスの彼女にも、宮殿で近ごろ評判のメイド服のとても似合う足首の細い彼女にも、王立研究員の総務担当の黒の皮のタイトスカートの似合うナイスバディの彼女にも、聖地の門から歩いて10分ほどの紅茶のおいしい喫茶店の看板娘の眼鏡っ娘にも、ことごとく振られてしまった。まあ、確かにこういうことも今までになかったわけではない。だが今日は陛下とジュリアスさまが初めて『恋人として』デートをするという日だ。今日はなんだか誰でもいいから女の子と遊びたかった。一人ではいたくなかった。そんなわけでオスカーの心は少し荒んでいたのだった。

オスカーの駆る馬は、お気に入りの草原に向かう林の道に差し掛かった。そうして1分もたった頃、道に何か…いや、誰かうずくまっているのに気がついた。
「危ない!」
オスカーが手綱を引くと馬は棹立ちになってかろうじて止まった。
「そんなところにいたら危ないぞ!俺の腕でなかったら…」
そう言いながらオスカーはその人影を見定めて…思わず息を呑んだ。
「ジュリアスさま…?」
その人影はうずくまった姿勢のまま振り返った。
「オスカーか……。どこに行くのだ?」
「ジュリアスさま…!どうなされました?お顔の色が…」
「…どこに行くのかと訊いているのだが…?」
「は、別にどこと決めたわけではありませんが?」
「……そうか…では、良かったら馬を貸して欲しいのだが…」
「……は?」
「馬を貸してもらえないかと言っているのだ。」
オスカーはもう何がなんだかわからなかったが、ジュリアスの頼みを断ることなどできるはずがない。慌てて馬から下りて、ようやく立ち上がったジュリアスに手綱を託した。
「かたじけない、恩に着るぞオスカー。」
「いえ、お安い御用です。ですがジュリアスさま…」
しかしそう言いかけた時には、既にジュリアスは馬上で馬に何事か話しかけている。こうなるとジュリアスは馬の方に集中しているのでオスカーの言葉など聞いてはいまい。先ほどまで疲労困憊の様子でうずくまっていたジュリアスだが、馬にまたがれば背筋も伸び、すっかりいつもの彼に戻る。オスカーは質問も忘れすっかりそれに見とれていた。
「はッ!」
掛け声とともにジュリアスが馬を駆る。その姿を呆然と見送ったオスカーは、そこでやっと事の異常さに気がついた。
「ジュリアスさまはなぜこんなとこにいらっしゃったんだ。陛下とどこかに行かれたのではなかったのか?!」
だがもちろん誰もそれに答えるものはいない。オスカーは当てもなくとぼとぼと歩き出すより他になかった。



アンジェリークは夢うつつで馬の蹄の音を聞いた。馬に乗って誰かがやって来る…。馬に乗って来るといったら王子さましかないわ…。白馬に乗って、金色の髪の王子さまが…
「あ、いけない。寝ちゃった!」
アンジェリークが慌てて起きあがるとちょうど目の前で馬が歩みを止めた。
「アンジェリーク!」
白い馬ではない…でもそれに乗っているのはやっぱり金色の髪の王子さま…じゃなくって、そうね、この方は私を全身全霊で守ってくださる騎士さま。
「ジュリアスさま…。」
ああ、こんなステキな方が私を守ってくださるなんて、私ってなんて幸運なのかしら。女王になって良かった…。
「すまなかった、アンジェリーク。そなたを一人でこんなに待たせるなど、私はなんという事を…さぞや心細かったであろう。許して欲しい…!」
そう言ってジュリアスさまが私のもとにやってくる。ジュリアスさまは一体何を謝っていらっしゃるのかしら。あ、ジュリアスさま?!
「アンジェリーク!」
ああ、ジュリアスさまが…私を…抱きしめて…あ、ちょっと痛い。うふ。でも嬉しい。何でだかわからないけど、ジュリアスさまに痛いほど抱きしめられるなんて、私ってほんとに幸せ。ああ、いい気持ち。なんだかまた眠くなっちゃった。
「ジュリアスさま…うれしい。」
そういうと、アンジェリークはジュリアスの胸の中で目を閉じた。
「許してくれるのだな、アンジェリーク…」
ジュリアスはやっと今までの心労から開放された。そしてアンジェリークを胸に抱いたまま草の上に座った。暖かい。なんと今日は良い天気なのだろう。傍では馬が草を食んでいる。遠くで子供が遊んでいる声がする。いい日だ。ああ、私はなんと果報者であろうか。
そうしてジュリアスも、眠りの淵に落ちていった。

草の上で抱き合って眠る恋人たち。これが女王と首座の守護聖であるなどとは通りかかった誰もが思いはしなかった。そう、傾きかけた日差しの中、じっと見つめるどこかの子供の視線の気配に、ついにジュリアスが目覚めるまで、誰も。



ジュリアスがこの時のことを『一生の不覚』と、悔やんだのは言うまでもない。



おしまい

最初の一言に数週間悩んだ代物。…つまりネタが浮かばなかったんです。 でもずいぶん前に受けたリクエストだし、これを終わらさずして5000番に取りかかれるか、 とムキになって一気に仕上げました。前のシリアスが糸を引いて、なかなか切り替えが利きませんでした。 私的にはバカップル1歩手前で楽しかったんですが、またジュリアスさまには御心労を、オスカーには情けない役を振ってしまいました。いつもながら、ゴメン!(特にオスカー…)ジュリアスさまにメロメロの君が好きさ!(爆)