キ-115「剣」誕生秘話(3)

方向転換

 太田では、すでに設計部門は解散したという知らせが入ってきている。太田工場は疾風の、隣の小泉工場は零戦の主生産工場である。設計部を解散しても、部員の働く職場はいくらでもある。それに比べて、三鷹研究所はキ-87の試作以外に仕事を持っていない。設計部門を解散すれば部員のみならず、全工場の仕事が事実上ストップすることになる。当時、この工場には勤労学徒のほか動労動員で召集された人々を加えると、二千人以上の人が働いているのである。いまは、だれもが何かをしなければならない非常時である。女性の竹槍訓練を笑って見ているだけでは済まされない。そうかといって、広い敷地を利用していまさら芋作りでもあるまい。われわれは飛行機造りしか能がない。それはまたわれわれにしかできない仕事でもある。いろいろ考え抜いたあげく、行き着いた先はやはり飛行機を造ることであった。

 チームのメンバーは、いずれも戦闘機を専門にしてきた連中である。97戦以来、中島代々の戦闘機製作によって継承されてきた伝統技術は、いやというほど頭にたたきこまれている。その基本だけを生かして、細かい技巧を一切省いたならば、いまからでも戦争に間に合う飛行機を設計できるのではなかろうか。キ-87が間に合わないなら、間に合う飛行機を造ってみようじやないか。「つるぎ」発想の原点はこんなところにあった。

目標の設定

 それにしても、ただ飛ぶだけでは意味をなさない。何か役に立つものでなければならない。B-29の爆撃は相変わらず続いている。連日定期便のように、日本のどこかに現われ多くの都市が焼かれ、人々が殺傷されている。これを阻止できるものであれば最高であるが、それは技術の枠を尽した第一線戦闘機の仕事で、速成の飛行機の手に負える仕事ではない。このままで推移すれば、米軍はこの次に上陸作戦を試みてくることは必定である。すでにあちこちの海辺地域では、上陸に備えて陣地構築を始めているらしい。速成の飛行機が役に立つとすれば、そのときこそ最後の機会となるだろう。

 われわれは、戦闘機の設計を専門にしてきた者の集団である。戦闘機の座標を離れて飛行機を考えることはできない。持ち時間からいっても小型機でなければならない。たとえ、戦闘機や軍艦には歯が立たなくても、仮にも飛行機と名がつく以上、輸送船団や上陸用舟艇を攻撃するくらいのことはできるはずだ。海岸に群がり奇せる上陸用舟艇のどまん中に、瞬発信管付きの大型爆弾を放り込むだけでいい。照準も何も要らない。命中させる必要はない。上陸用舟艇を転覆させたり衝突させる効果をあげて、大混乱を引き起こすことができればよい。あとは野となれ山となれ、トンボ返りに引き返してくるならば、操縦者の生還率も高いだろうし、機体の回収もできて反復して使用可能となる。

 空戦能力を除き、航続距離を短かくすれば、構造も装備も簡単になり、重量は軽く機体は小型で済む。身を守る手段はスピードだけとし、余力はすべてスピードの向上に充てる。それは一口にいって、既述の調布飛行場の防空戦闘隊の青年将校が語ってくれたとおり、戦闘機から剥ぎ取れるものはすべて剥ぎ取り、構造も装備も極限まで簡素化した小型機ということに帰結した。

 そうなると、設計上も製作上にも面倒な問題は一切無くなる。そんな飛行機だったら、いまからでも間に合わせて造ることができるかもしれない。それをやるとすれば、戦闘機の構造を知り尽しているわれわれこそ最適なはずだ。やってみようしやないか。失敗しても元々である。ただし、このような話を皆が集まって論じ合ったわけではなかったが、同じ技術を持った若者たちが、同じ環境に置き去りにされ、何かしなけれぱならないと必死になって考えたとき、以心伝心だれいうとなしに、そこに一つの小型機のイメ‐ジが浮かんできたのである。

▼次へ   △戻る 中島飛行機目次へ戻る