新潟県航空史年表(大正編)
月日 民間 軍事 空以外 出典
大正2年
(1913)
8月27日白戸栄之助、「鳳二世」号(奈良原式5号、ノーム70馬力)にて高田市の中田ケ原練兵場で試験飛行。県下初の飛行。高田市史、日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
9月2日 高田開府三百年祭にて、県下初の飛行機大会開催。白戸栄之助、「鳳二世」号で興行飛行。夕方、高度約100mで場内を3周。 高田市史
9月3日同祭にて、高度250mで場内を8周。高田市史
大正4年
(1915)
2月23〜26日所沢の澤田、坂元両中尉、モ式3年型機で所沢−大阪間の長距離飛行実施。航空五十年史
4月17日野島銀蔵、「早鷹」号(カーチス式、カーチス70馬力)で新潟市の関屋競馬場にて飛行。計4回飛行し、4回目では市中上空も飛行。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
4月19日野島銀蔵、「早鷹」号(カーチス式、カーチス70馬力)にて墜落。車輪、座席等を小破。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
4月24日野島銀蔵、修理なった「早鷹」号にて飛行するも、エンジン停止により不時着木。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
5月10日野島銀蔵、「早鷹」号にて雪辱飛行。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
5月25日野島銀蔵、「早鷹」号で長岡の追廻埋め立て地にて飛行。2回目の離陸時にエンジン不調により離陸を断念、柿川に不時着。見物中の5名が負傷し、一人の老女が夕方死亡。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
6月16日白戸式複葉トラクター式「旭」号、快翔。柏崎飛行大会第1日納屋街浜空前の賑わい。
後に長岡でも飛行。
柏崎日報、黎明期のイカロス群像
8月26〜31日所沢の岡大尉、モ式1913年式機で徳川大尉、佐藤大尉らとともに、高田(中田ケ原練兵場)へ山岳飛行。往航に3000mの高度記録を出す。
 機体はモ式1913年式(チョンマゲ付)で、徳川大尉が13号機、岡大尉が19号機、佐藤大尉が20号機。
(当時の絵葉書2絵葉書3から)
高田新聞、航空五十年史
12月陸軍、気球隊を気球中隊へ、更に飛行一中隊を創設し、両中隊で航空大隊を編成。 日本航空事始,徳川好敏,昭和39年
大正6年
(1916)
5月25日長岡市で三百年祭で、尾崎行輝と佐藤要蔵、長岡市柳島で祝賀飛行。使用機はモ式4型5号。27日、28日にも飛行。伊勢志摩のイカロスたち
5月30日佐藤要蔵、「帝国飛行協会・長岡新潟間連絡大飛行」を実施。使用機はモ式4型5号。長岡市柳島から鉄道伝いに約40分で新潟着。伊勢志摩のイカロスたち
6月2日佐藤要蔵、新潟-村松(32km)、村松-新発田(36km)、新発田-新潟(24km)の三角飛行を実施。但し、村松練兵場で着陸時に機体破損し断念。伊勢志摩のイカロスたち
6月3日尾崎行輝の尾崎式曽我号、新潟で試験飛行のため日没間際に離陸し、不時着。伊勢志摩のイカロスたち
7月14日アートスミス、高田市中田原練兵場にて興行飛行。午後を飛行。飛行中プロペラ覆いが外れて、下翼を傷つけ、張線を切断されたことにより、急遽着陸。着陸後の点検にて、発動機の数箇所に亀裂を発見し、2回目の飛行は断念。高田市史、新潟毎日新聞
7月15日アートスミス、高田市中田原練兵場にて午後に2回飛行。倉石高田市長より、銀メダルを贈呈される。高田市史、新潟毎日新聞
7月28日アートスミス、新潟市関屋競馬場にて興行飛行(午後1回飛行)。新潟毎日新聞、日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
7月29日安息日。アートスミスは、機体整備。新潟毎日新聞、日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
7月30日アートスミス、新潟市関屋競馬場にて、午後午後と2回飛行、アーチくぐり、ローマ字でNIIGATAを描く。新潟毎日新聞、日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
大正10年
(1921)
5月23日中頚城郡新道村(現上越市稲田)出身の藤縄英一(明治28年生)、同年から施行された航空法に基づく航空免状第一号(3等飛飛行機操縦士)を交付される。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
12月15日藤縄英一、藤縄式4人乗り機(イスパノスイザ220馬力)で千葉県津田沼にて墜落死。享年26歳。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇
大正14年
(1925)
10月3日東頚城郡奴奈川村(現松代町)出身の佐藤重次郎(明治22年生、万国飛行免状及び国内2等飛行免状取得)、神奈川県橘郡潮田村(現横浜市)にて、片貝飛行学校の甲式3型練習機(ニューポール24)で練習中に墜落死。享年36歳。日本ヒコーキ物語 北陸信越篇