国防献品記念録


 これは、国防献品献納者への慰謝として、陸軍大臣から贈呈されたものです。(陸軍資料(陸普第四九四四号、昭和8年8月)より)
贈呈先は全国各地方長官以下自治体の首長(朝鮮、台湾、樺太、関東州に関してはこれに準ずる行政管区の長)、全国男女中等学校小学校、在郷軍人会の各団体、陸軍諸部隊となっています。
写真帖のような作りですが写真は8ページほどで、あとは献納品一覧や献納美談が(延々と)掲載されています。
 愛国号関連の写真には、昭和8年5月の命名式(代々木)の模様、絵葉書と絵葉書に入っていたであろう緒元表によって、八八軽爆/偵察、九一戦、九二戦、九二偵、フォッカーユニバーサル患者輸送機が解説されています。


 
 
国防献品記念録から(その1)
 記念録の献品一覧(鉄兜、鉄砲から軍用機までの総一覧)を見ていて気付いたのですが、愛国号に次の付記がありました。
  ◆「長岡市民」号 88式偵察機 機体
  ◆「朝鮮」号 88式軽爆撃機(完全装備)
  ◆「大分県民」号 91式戦闘機 機体
  ◆「佐賀県民」号 91式戦闘機 機体
  ◆「新潟県消防」号 92式偵察機 機体
  ◆「新潟学生」号 92式偵察機 機体
 機体という付記があるということは、字面通りに受け取れば、「エンジンは献納していない」ってことでしょうか?
「朝鮮」号の完全装備というのも分かるようで分からないです。爆弾架とか照準器付き ってことでしょうか。
流石に献納金額は記載していなかったので、幾ら違うのかは分かりませんが、同じ献納機でも こういう違いがあるんですね。知りませんでした。
   気づいたことの2点めです。献品一覧での献品順序と愛国号の番号が一致していないです。
愛国6号までは一致していますが、一覧表での記載順に見ていくと、
  E日本毛織株式会社 愛国6 「日毛」号
  F河野 義 愛国9 「河野」号
  G長岡市民 愛国11「長岡市民」号
  H群馬県民 愛国7 「群馬県民」号
  I朝鮮官民 愛国10「朝鮮」号
  J川喜田 久太夫 愛国8 「川喜田」号
  K富山県民 愛国12「富山立山」号
となっており、F〜Jの間がずれています。
この不一致がどういう理由によるものかは不明ですが、案外、陸軍省の内部でも出身地や関係地から先取り争いがあったのかもしれません。
 
国防献品記念録から(その2)
 愛国号献納王の小布施新三郎氏(当時60歳)のことも、 やはり同書に出ていました。
 一月末か二月初めの某日、商人風の老人(小布施氏)が陸軍省徴募課を訪れ「飛行機を献納したいのだが、価格はいくらくらいでしょう」と尋ねたので、「戦闘機でも七万円位です」と答えたところ、突然2月5日の朝になって15万円を陸軍省に持ち込んで来たのである。
これにより、陸軍省は91式戦闘機と88式軽爆撃機の献納を受けることになったのですが、15日氏はまたまた8万円を投じて88式偵察機1機を献納しようと申し出ました。この3機(愛国3号、4号、5号)は昭和7年3月6日に代々木練兵場にて命名式が行われた後、満州方面に送られました。
 
 然るに越えて4月上旬第5号機は北満方正地方で匪賊討伐作戦参加中不幸遭遇したので小布施氏はまたまた4月11日朝陸軍省に来訪、「愛国5号機は献納してからお国の為に働いた期間が短かく焼かれてしまったのは残念です。5号機に代って更に働いて頂きたい為今一機新鋭機を献納したいと思います」と三度価格7万円の戦闘機1機の献納を申し出られたのです。
これが愛国37号(91戦)です。
5号機の方は東京朝日新聞(4/9付)によれば、3月30日の朝にハルピン飛行場を飛び立って消息を絶ち、4月8日に焼却されているのが発見されたもので、 この記事では搭乗者の生死は不明となっています。
 
国防献品記念録から(その3)
 また、愛国9「河野」号の献納者河野 義(よしのり) 氏(当時36歳)のことも載っていました。 氏は「ラジウム温灸器」の発明者で、東京理学療院の院長さんとのでした。
 先日日本橋の小布施氏が飛行機を献納した時に、俺も何かをと思った。
ところが今回私も砲兵伍長として招集を受けることになったので、軍に従う以上生還を期せないことは勿論で万一無事に凱旋するも、その時は又
 
その時で初めからやり直すこととし、兎に角この際財産一切の処分を付けておきたいと考えて飛行機その他に寄付することにしたのです。
 ずいぶんと潔い方も居らしたのですね。
この河野氏は戦争を生き抜かれ、百歳長寿を達成されて、平成10年3月24日に物故されました。


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