愛国号の消息(1)
 献納された機種は様々で、制式機となったものはほとんどが献納されていると思われます。
さすがに五式戦は不明ですが、四式戦は「献納されたと記憶しています」という九州の方がいらっしゃいました。
また絵葉書は持っていませんが、三式戦「飛燕」や2式複戦「屠龍」も献納機が写真で確認できます。 三式戦は(株)島津製作所から献納されているようですし(但し、絵葉書は二式単戦で、社史にある三式戦は誤植等の可能性がありますが)、特別攻撃隊にも三式戦の愛国号が使用されていることが、隊員の日記から分かります。 また、試作1〜2号機が昭和17年の秋(制式前です)に愛国1737(?)として献納式にある写真が残っています。 さすがに試作機を献納することは考えにくく、献納式に合わせて引っ張りだしてきたとしか思えません。
   では献納機はどのようにして機種が決められていたのでしょうか。 さすがに発注段階から製作数に入れていたとは思いにくいので、献金が陸軍に供出されてから、その金額によって機種(戦闘機とか爆撃機といったレベルだったと思われます)や機数が決められていったと考えられます。 そして献金供出から時間を置かない時期に献納式(命名式)が行われたと見るべきでしょう。
その献納式に出ていた機体は工場からの新品もあったでしょうし、機種によっては献納機と同種の機体を近隣部隊から招集してきたこともあったと思われます。 3式戦試作機の例は後者に近いと思われるのですが、制式前で存在自体も発表もされてないので、献納者へどういう説明をしていたのか興味深いです。

愛国号の消息(2)
 2式単戦「鐘馗」は絵葉書はかなり入手できているのですが、写真で確認できるのをまだ知りません。
これについては参考となる話があります。わちさんぺい氏(氏は福生にあった陸軍航空審査部に軍属として参加されておられました)は著書「空のよもやま物語」の中で、献納式について触れられています。 少し引用させて頂きます。
『芝生の色が、日増しに秋の彩りを濃くしてきたある日の午後−−。飛行場の南端に、「愛国号」と、黒い文字を胴体に入れた隼戦闘機を見かけた。離れた位置から見たので確かではないが、その下に小さい文字で、「○×県愛国婦人会」とあったように思う。
 
(中略)
愛国号は短命だった。翌日になるとその文字は溶液で拭きとられ、迷彩色の塗装がほどこされていた。(後略)』
 つまり太平洋戦の開戦以降では、献納式が終ればその愛国番号や献納者は時間を置かずに消されてしまうのが実際だったようです。これでは、写真で確認できる愛国号が数少ないというのもうなずけます。
事実、97戦までは実戦部隊での写真もあるようですが、開戦以降で見ることができる愛国号の文字はほとんどが奇麗でかすれ等もなく、献納式前後や報道写真として撮られている例がほとんどだと思います。 愛国710「帝国生命第二」なんてのは、まさに報道写真って感じです。

愛国号の消息(3)
 前述したように献納された機体は行方不明になるものがほとんどです。
ただ極まれに(太平洋戦の開戦前ですが)、その後
  の消息が判明しているものがあります。
数例あげてみたいと思います。

(1)愛国30「女学生号」
   この「女学生号」は青木典夫氏から提供があった写真のように、飛行第十大隊機として参戦しています。
『満州事変当時、最も人気があったのは愛国第30号女学生八八式二型偵察機で、この部隊の誰もが乗りたがっていた。 はじめは部隊長の計らいで独身者が選ばれたが、運良く武勲機となり、足掛け訳3年間のうちに約1,000時間の飛行に耐えて、最後にはガタガタになるまで使われた。
 
後半の約300時間は、八八偵の最高のベテランといわれた藤田雄蔵大尉が乗り、鈍足な偵察機でありながら急降下で地上攻撃に参加し大戦果をあげたという。 藤田大尉は帰還後、陸軍航空技術研究所に所属し、昭和13年には航研機で世界航続距離(周回)記録を更新した。 愛国女学生号も国防館に展示された。』
 
(翼の図面集2、「愛国号物語」、野沢 正 より)
(2)愛国170「全日本号」
   この「全日本号」は朝日新聞による全国献納機の第一号で、かつ97式偵察機の量産第1号でした。
本機は独立飛行第18中隊に配備され、昭和14年5月、大室大尉の乗機として包頭から蘭州への長距離偵察飛行に成功しました。 この偵察飛行に対して、異例の個人感状が航空兵団司令から与えられました。これを報道した朝日新聞に大尉のインタビューがあるようです。
『私一人が感状を受けるより、部隊全体にほしい気持ちでいっぱいです。全日本号と私は実に深い関係があり、 全日本号の第一号機である愛国第百七十号を操縦したのが私です。それ以来、私はずっと全日本号の乗り切りです。 皆様のお陰で事故もなくやっているのであります。』
(新司偵、碇 義朗 より)

(3)愛国325「東京鋳物号」
 古本屋で見つけた陸海軍戦闘機献納報告書には、東京鋳物号のその後が載っていました。
 六月二十八日の命名式で『愛国三二五号(東京鋳物号)』の名を与えられた献納機は、その後まもなく大陸に送られ戦線に活躍することとなったものの如く、 七月二十九日付け東京朝日新聞紙上(朝刊社会面)に突如として左の如き報道記事が現れた。

 戦わずに二機撃墜
     献納愛国號の奇功

 国境にて入江特派員28日発】
 ソ連空軍を相手に我が陸軍荒鷲の空中戦は献納愛国号を交えて一戦毎に華やかな戦果をあげているが、 二十五日の空中戦には愛国三百二十五号(東京鋳物献納)が面白い手柄を樹てた。この機の操縦者は野口部隊長谷川智在少尉(岐阜市徹明町)だ。 既に敵機十六機を撃墜している長谷川少尉は最近この愛国号を与えられたばかり。
この日の午後三時頃ハルハ河畔を飛行
 
中の長谷川○隊は約一千メートルの上空でソ連機イ十六型二十機の編隊と突然ぶつかった。 敵は我が機を少数と見てぐんぐん近寄って来る。 ところが長谷川○隊は他に重要任務を帯びているので空中戦は成るべく避けねばならぬ。よし敵を誘い込んで友軍に引き渡して喜ばしてやろうと突然的に飛びかかる如く見せて左へぐっと曲ってしまった。 なにしろ敵は数が多いので慌てて大編隊が曲ろうとした時、三番機と五番機が空中接触したと思う間にパッと二機は火花を散らして墜落した。 それをソ連軍は奇襲を喰ってやられたと勘違いしたらしく、蜂の巣を叩き壊したような大騒ぎとなって、上空へ行くもの、下へ降りて逃げるもの、五分間くらいはワンワンと大騒ぎをして右往左往、 この間に長谷川○隊は悠々と見物して引揚げた。
 この第11戦隊第1中隊 長谷川智在少尉は、酣燈社の「陸軍戦闘機隊 付エース列伝」 にも載っているエース。 ノモンハン事変では最終的に19機を撃墜しており、強行着陸して戦友を救出するという救出美談の第1号の人です。2機撃墜の件も同本に載っています。


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