2000年11・12月
2000年12月30日
コミックマーケット59に参加。
寒い会場の中、来て頂いた方々には感謝。
新刊の出来はまあこんなものか・・という感じ。もう少しパソコンを駆使してクオリティーを上げる努力をしなければ。
コミケは相変わらずの人波。しかし年2回位はこのような人波に揉まれないとバランスがとれない。
閉会後、会場近くの『レッドロブスター』で打上げ。
とりあえず一仕事終えた満足感。
2000年12月28日
気がつくと忘年会に1回も出ていない。
もともと人付き合いが面倒な上、仕事関係で忘年会を開く所がなく、知人関連もタイミングを逸したりしてこの年末一度も宴席に縁が無い。
まあもともとそういう場は苦手でもある。
「まずビール」というビールが飲めない。炭酸系はだめ。回りに合わすというのも億劫。
宴席では誰かの振った話題に相槌を打つ位。人の話に自分を合わすのもしんどい。
というか、会話の仕方が思い出せない。大抵、人と話すのは2週間の内5分ぐらいなので自分にとって会話するというのは特別の労力がいる。
一度に30分も話すと声帯が痛くなって辛くなるのだ。だからなるべく喋らない。
3時間の宴席中、二言三言しかしゃべらなかったことが常である。
一方で自分が伝えたい話題を宴席に持ち出しても、大抵の場合、皆追いて来れないか場が引く。
困った事に稀に自分が喋る言葉が人を傷付けることがあるらしい。だからますます喋りたくなくなる。
最近はこれを悟ったので、飲む時はカウンターで1人が落ち着く。
煙草をおぼえてからこれが出来るようになった。
少し前の煙草のCMで
『言葉より語るもの』
というコピーがあったが正にこれである。
因みに煙草をおぼえたのは35才の時。ある女性から教わった・・。H・Cさんありがとう。
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CDプレイヤーが故障。
安い製品だったが10年もった。ただ修理に出すと買うより高く付きそうなため5千円代のポータブル機で我慢。一応、LINE
OUT端子があるのでオーディオシステムに組み込めた。
バッハのミサ曲ロ短調(カール・リヒター指揮/ミュンヘン・バッハ合唱団)を聴く。
2000年12月24日
知り合いのところで『BAROQUE』というゲームを見る。
見る、というのはつまり自分はまったくゲームをしない人間(インベ−ダ−ゲームの頃から馴染めなかった)なので端で見るしか無いということ。
知り合いがその世界に没頭していて、いろいろ教えてくれた。
まあ要約すると
『記憶が無く、罪の意識だけが残った主人公、世界を支配しようとする男、心を読む老人、
箱に娘がいるという男、綺麗な水が欲しいと言う少女、
背中に翼を生やした者達、歪んだ世界。』
無気味な廃虚の中で無気味なモノと闘うゲーム。
そもそもゲーム自体疎すぎるので「感想は?」と聞かれても、例えれば「この車の印象は?」と聞かれて「タイヤが4つありますね」と答えるようなものだから『BAROQUE』の画面を見ても「?」なのだがなんとなくその世界観は解る。歪んだ妄想世界のような。
それにBGMが前衛音楽のようで、こんなゲームがあるとは知らなかった。
ただ、よくよく考えれば自分自身、この現実世界を歪んだ妄想として生きている訳だから、もともと『BAROQUE』の世界で生きてるようなもの。
このゲームをするまでもないかもしれぬな。
死ぬまでゲームオーバ−出来ない『BAROQUE』が自分の人生みたいなものだから。
2000年12月23日
4ヶ月ぶりに散髪。
幼少の頃から馴染みの店。店内のBGMはNHK東京第一ラジオ。実に古典的。
11月初旬あたりから街の雰囲気がクリスマスモードなのでやや食傷ぎみ。
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郵政省が発行している「20世紀切手シリーズ」の第何集かは知らないがガンダムがデザインされたものがあった。ではエヴァも出るのかと期待したが出なかった。
選考基準がよく解らない企画。
2000年12月21日
次回作のネームをきる。
まるでジグソーパズルのごとく、コマを割って何処にどの絵を入れるか悩みながら・・。
ネームにかける時間は作画作業の1/30位だが全作業行程エネルギーの半分はここに集約される。
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阿佐ヶ谷の某BARで『式日』にも参加した助監督業の男性と少し話す。
そういえばこの方の誘いで5年前、あるビデオ作品のエキストラに参加したことがあった。その作品は観ていないのだが、係わったシーンはカットされているらしい。
まあ、たとえ映っていてもフィルム上の自分の姿など観たくもないが。
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月曜深夜、TBSラジオ伊集院光の番組内で『運の悪いヒポポタマス』とかいう曲が流れていた。
シュールな曲として聞けば一興だが、自分の人生として聞くと洒落にならないところが心に響く。
でも「かわいいお嫁さん」貰えたんだから満更でもない人生。
ヒポポタマスは結構運がいい?
2000年12月9日
自費出版本入稿終わる。
版下作業はほとんどパソコンで処理。パソコン購入以前はコンビニのコピー機まで何回も往復したものだった。但し今回も版下自体はプリントアウトしたものを使用したから紙媒体による入稿は変わらない。
こういう時にアルプス電機のMD5000系の熱転写式プリンターはよい武器になってくれる。
原稿は紙に描いたものを取り込んでフォトショップ上でいろいろ加工するのだが、この時グレイスケールかモノクロ2階調で表現するかいろいろ悩む。
ペン画の魅力を引き出す場合はモノクロ2階調がよい。線にメリハリが出る。但し、原画の極細の線はうまく再現出来ず、飛んだり、かすれる場合がある。
いっぽうグレイスケールだと中間的な補正がなされ、線が潰れたり、飛んだりする心配がない。但し、絵が全体的に眠い感じになり、ペン画のシャープさが失われる。
結局、モノクロ2階調で処理したが、やはり細かいペン画は印刷媒体として難しい。原画をそのまま版下にした場合でも、上手く印刷に出ない時がある。
パソコンで処理する場合は、グレイスケールで妥協するのがベターであろう。
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昼過ぎ、竹橋の某印刷会社に入稿を済ませた後、近くの『ジョナサン』で休憩。
ここのハーブティーは結構気に入っている。
以前、知り合いの所でパソコンを借りて仕事していた頃、このファミレスで一服し、よくハーブティーを飲んだ。不思議に落ち着いた事を思い出す。
2000年11月29日
ドールを趣味にしている知人の部屋を初訪問。
何十体ものドールに囲まれた独特の雰囲気。不思議に落ち着く。
自作のドールとか見せてもらう。
一つ一つのドールに物語があるという。
自分の分身であると同時に自分の身替わりでもあるドール達。
昔、GIジョーを買った事を思い出す。もうジャンク品並に壊れてしまったが昔の製品はレア物とか。
まだ手元にあるのでレストアしてみようかとも思う。
2000年11月26日
慌ただしい昨日。
昼頃、パシフィコ横浜で開かれている「ロボデックス2000」という人型ロボット展示会に行く。
ところが5時間待ちの行列。呆れた。あれだけTVで紹介されていたから人が押し寄せたのだろう。
とても5時間は待てぬ。ランドマークプラザ内のアンミラでチキンカレーを食って帰る。とんだ散財。
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夕方、阿佐ヶ谷のいつもの某BARに寄る。
例の謎の女性が開店前、秘密裏にバイオリンを弾いてくれるという。聴衆は私を含め二人だけ。
バッハなどの弦楽曲をスコアなしで即興演奏。
著明なバイオリニストに勝るとも劣らないリリシズム。
でも彼女にとっては別段たいしたことではないらしい。
これほどの才能があるのに、それを生活の糧にするとかステイタスにするとかまったく関心がなさそう。
謎はますます深まるばかり。
最近、彼女はこの某BARでマスターの手伝いもするようになっていた。「ちいまま」みたい。
先日、ここになんと庵野秀明が来たそうだ。どうりで『式日』のポスターが貼られていると思った。
(庵野秀明は以前、『風の谷のナウシカ』原画担当の頃、南阿佐ヶ谷にあった「トップクラフト」というスタジオに通っていたはずで阿佐ヶ谷と無縁ではないのだが・・。)
で、その時も彼女はカウンターの内側でマスターの手伝いをして、偏食で有名な庵野秀明に湯豆腐を出したそうである。
彼女にまつわるびっくりがまた増えた。
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夜、高円寺で出身中学のクラス会。
ずっと地元なのだが当時のクラスメイトに会う機会は皆無。25年の歳月は人を確実に老いさせる。
記憶の底のまた底にある断片を掘り起こして再生させた残像と今の姿を重ねると、まるで特殊メイクをした舞台役者のよう。
男の場合は貫禄がつくというか、人生の年輪が刻まれて渋さが出るが、女性の場合は若さが失われるというのは儚く感じる。ただ、例外的にいつまでも初々しくて元気な人はいるものだ。遺伝的なものだろうか?
それはさておき、自分にとって中学時代はろくでもないことが殆どなので、当時を振り返って感慨に耽る話題はさっぱり。出席者の何人かは顔も名前も思い出せない。会話も社交辞令なことに終始。やはり当時、学業、クラブ活動を通して活発に交流していた者同志でないと懐かしさを享受出来ないのだろうな。
大学サークルのような気の合った者同志とは違い、小中学生時代のクラスメイトは過酷な環境の中での競争を強いられ、優劣を決定ずけられた場。ある意味痛いものがある。
大半の者は結婚し、子供が当時の自分達と同じ位の年齢に近くなってきた。
一方でクラスメイトの中には急逝してこの世に亡い者もいる。
時代は変わる。
否応無しに世代は新陳代謝するのだ。
2000年11月25日
自費出版用原稿執筆中。
商業誌と行程が逆。絵コンテもなしにいきなり作画。数枚描くとおおよそのテーマが決まってくる。
その間にネームが浮かんでくる。ある程度枚数を描いた時点で順番を決め、ネームを置いていく。足りない部分を書き足して完成。
タイトルは一番最後。
無論、一枚絵の作品なのでコマ割りとかの行程はないからこれでよい。
商業誌では最初に編集者との打ち合わせが入るから絶対出来ない作画行程だ。
まあ、それぞれ持ち味があってよいと思っている。
2000年11月23日
TBSラジオ水曜深夜。「コサキン」がまだ続いている。久しぶりに聞いてみるとほとんど10年近く前と投書コーナーが変わっていない。ネタが最新の話題になっているだけ。にもかかわらず面白いところが凄すぎる。
ビンテージ物のオーディオで最新チャートの曲を聞いているような気分。
確か、その遥か昔、水曜日深夜TBSラジオ「パックインミュージック」は愛川欽也が担当だったな。
2000年11月22日
パソコンを導入してから約一年。ほぼ毎日稼動させてきた。
あることに気付く。
パソコン(インターネット)が従来の仕事、創作、趣味、プライベートに使われていた時間とエネルギーを著しく圧迫しているのだ。
確かにパソコン導入によってHP制作やメール、インターネット検索により、従来なし得なかった事が可能になったのは確か。自分の作品の告知、保存、加工、新しいコミュニケーション方法を手にしたことは収穫であった。
しかし根本的な創作活動には何ら寄与していないのだ。
補助的なこと(色付けとか)は効率は上がったけれど元の絵を生み出すのはあくまで自分の脳と手。
それに掛ける時間とエネルギーがどんどんPC稼動時に吸い取られていく感じがする。
ディスプレイを覗き込む時間にどれだけのエネルギーが消費されるかちょっと恐怖を感じるこの頃。
所詮インターネットは双方向静止画TV。無目的でアクセスすれば下らないTVをだらだら見ているのと変わらない。
いや、それ以上に無駄な時間とお金とエネルギーを浪費する。
考えてみればメールなんてファックスで済む事。やめたってそんなに困ることはないんだよね。
それに機械は壊れる。このシステムを維持するのにお金は掛かるんだ。
それからHPだっていろいろ疑問は残る。プラスばかりじゃない。
いったい自分の日記を公開して何になるのだろう。創作エネルギーの漏電のようなものにも感じられるこの頃。
だからといってパソコンのない情況に戻る事は難しい。進化し続けなければ忘れ去られるのみ。
パソコンという道具をうまく使いこなす事。逆に使われてはならない。
いずれにしろ、パソコンとの付き合い方は再考せねばなるまいなあ。
2000年11月19日
21日発売の某月刊誌に掲載される作品の刷り出しが来た。
活版印刷なのでオフセット印刷のような線のシャープさは失われてしまうが、思ったよりも良い印刷だった。
久しぶりの漫画らしい作品であるがやっぱり雑誌の中では浮きそうな気配。
まあ、それが自分らしさでもあるのだが。
2000年11月12日
某同人誌即売会に出店す。
このようなイベントに出るようになってから5年が過ぎた。殆ど独りで出店するので他のブースのことを気にかける余裕がない。ただほんのわずかの時間、見回して感じる事は皆、異常に絵が上手いということ。
ほとんどの参加者の世代は20代であろうから自分の20代の頃と単純比較してもあまり意味がないのだが、とにかく上手すぎて逆に下手な人が新鮮に見えたりする程上手すぎる。
無論、絵の上手さと漫画作品としての価値は別物で、上手いから面白いという訳でもないが、もう今の20代の上手さは世界が違い過ぎる。へたな商業誌よりもレベルが上。
今や同人誌のほうが商業誌よりも印刷の質、本作りのクオリティーは遥かに上。業者と同人作家の切磋琢磨がレベルをアップさせたのだろう。
それはさておき、同人イベントで出店する場合、手伝いがいない場合がほとんどだから、接客とかお釣計算とかひとりでばたばたやっている。いつも慣れない上、お客さんの顔をなかなか覚えられず、馴染みの人に無愛想に接してしまっているかもしれない。申し訳ない。
まあ、愛想のいい、かわいい売り子さんがいれば言う事なしなんだがそうもいかないので、これからもひとりでやってると思う。
朝10時ごろから15時半まで飲まず食わずで一歩も席を外さないというのも我慢大会みたいで楽しい。
今後ともよろしく。
2000年11月9日
1978年にNHKで放映されていた宮崎駿初演出作品「未来少年コナン」のガチャポンフィギュアをみつける。
ジブリ系のキャラのガチャポンはあるのか知らないか宮崎キャラはこれがはじめてなのか?
試しにやってみる。
コナンがラナを抱いているタイプが出てきた。
ちょっとラナの顔がいまいちか。
でもポーズはなかなかの出来。
2000年11月5日
4年振りに母校の学園祭にいってみる。
秋晴れの多摩地方。立川から多摩都市モノレールに乗り、最寄りの駅で降りる。
堰場と呼ばれたところに駅が出来ていた。野猿街道沿いの寂しい場所だったのに風景が一変していて方向感覚つかめず。
しかし『ラブラブ』とか『ホテル野猿』の大きな看板は健在だった。
大学前のバス停周辺はほとんど変わっておらず。
「みかん一箱・・円」という立て看板も健在。変わらぬものは変わらぬもの。
いっぺんに記憶が蘇る。
坂を登り、学内へ。
自分が在学中の頃と比べて質、量ともに桁違い。かつては山奥の寺院のイメージだったが今はリゾート施設に近いか?
コンビニや銀行のディスペンサーまである。
だが、当時のままの部分も多く、学内を歩いていると在学中の様々なことを思い出す。タイムトラベルした感覚。
出身サークルの展示を見て回る。もう卒業して18年。しかし当時の会誌名は今でも受け継がれている。当時コスプレした衣装まで残っているようで現役生が着ていたのには驚いた。
変わらぬものは変わらない。
秋の夕べ。西に傾いた穏やかな陽射し。学舎のある高台から見下ろす谷にはゆっくりと多摩都市モノレールが走る。
遠くにはベネッセのビル。
夕刻、再び堰場のモノレール駅から家路につく。
夕日が富士山をシルエットに沈んでいった。
記憶の底に沈澱していた諸々のことが撹拌されたような1日であった。
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