2010年10月・11月・12月
ブログもあります。ブログの方が早く更新される場合があります。
2010年12月20日
コミックマーケット79新刊御案内
コミックマーケット79(12/29〜31・東京ビッグサイト)新刊御案内
誌名/若葉台夜祭
著者/あびゅうきょ
A5版・全32P
頒布価格/500円
内容/
舞台は東京都稲城市若葉台。
1970年代より入居が始まった多摩ニュータウン。その最後の開拓地が若葉台であった。
かつて鬱蒼とした多摩丘陵の森に覆われた地が、突如として開墾された。
だが、3000年前、この地には縄文文化栄える神秘の集落があった。
彼等は獣達の魂と人とが交わる秘技を生み出した。
その復活の祭事が今、『若葉台夜祭』として蘇る。
販売スペースは31日(金曜)東ホール”カ”24a「あびゅうきょ」です。
2010年12月19日
辛い2010年が終わり、辛い2011年が来る
暮も押し迫って、もうあと10日余り。
2010年も終わる。
半世紀生きて、もはや社会的人間として「終わっている」状況下。
だからと言って積極的に動く訳でもなく、擬似的世界のネットに時間を奪われ為す術もない日々。
先日、知り合いの子供の姿を久しぶりに垣間見る。1歳半になって急激に「人間らしさ」が身についてきた。
暫く観察していると、もはや基本的人格の基礎はこの時点で出来上がりつつあるのだと。
大人とは所詮、その部分を覆い隠しているだけで、基本は1歳半と同じなのだ。
特に就職、結婚、出産、子育てという「通過儀礼」を経ない大人はそうだ。
ちょっとしたことですぐ「1歳半」に戻ってしまう。
つまり、あらゆる面で「自立」が出来ないまま歳だけとって、中身は子供のままの恐怖。
依存するものを失えば、たちまち1歳半の赤子のごとく、泣き喚き、よだれを垂らしてオシメにお漏らしだ。
そんな50代がいたら、もう目も当てられない。
でもこれからの絶望独身男性はこの運命から逃れられないのだ。
子育ては困難を伴うが、子供の成長は無限の可能性と未来を保障する。
己に寿命が来ても希望は子供に託せる。親は子供と共に育ち、人生は何たるかを悟り、安心して老いていける。
いや、老いすら自覚しないだろう。
生きるとはそういうことだ。
逆にそのような「通過儀礼」を経ない人間はただ恐怖と不安が付き纏い、1日として安心する事が出来ぬ。それを「自己欺瞞」によって覆い隠しているだけ。
それでも蓄えがあればその「自己欺瞞」を十分肥やし、「現実」から目をそらすことも可能だろう。
しかし、貯蓄が殆どない絶望独身男性は恐ろしい漆黒の闇しか待っていないということ。
人は老いからは逃れられない。
「子育て」をせずに、老いを迎える絶望独身男性はこの先、惨めな恐怖が控えているだけだ。
大抵の絶望独身男性は資格も技術もないから、もはやまともな職なんかない。
たまにスーパーのレジにいる初老の男性パートが居るが、辛くて目を背けてしまう。
大の男がエプロンしてレジ打ちだぞ!
それもパートのおばさんより仕事が遅いので客もそのレジにはあまり並びたがらない。
接客する相手はバリバリ働いているキャリアウーマン。
その客に向かって「レジ袋はご利用ですか?」なんて聞いている。
嗚呼、死んだほうがマシだ。
惨めの極みだ!あらいるプライドを捨てて、泥に塗れて這い蹲って、それでもこの男性に明るい将来なんかないのだ!
ただ、死ぬまでの繋ぎとしてレジに立っているだけなんだ。
自分が子供の頃は、こんな男性は居なかったのにいったいどうしたというのだ!?この日本は。
恐ろしい!恐ろしい!
こんな人間にはなりたくない!
だけどもうこんな人間になるしか選択肢はないんだ!
恐ろしい!恐ろしい!
身体も動かせず、体力気力も衰え、ただ「社会のお荷物」として存在するよりも、いっそまだ元気なうちに己の信念を貫かんための捨石になったほうがいいとまで思うことがある。
たとえば、自爆テロ要員として己を虐げている「敵」と刺し違えるとかね。
だが、この日本にはそんな人間を雇う「最終就職先」たる武装テロ組織も、使える武器も、手立ても用意されていない。
挙句、ネットの匿名掲示板に「擬似テロオナニー」して己を慰めるだけ。
なんと惨めであろうか。
哀れ、哀れ、哀れの極みである。
1歳半の子供はニコニコ笑う。
でも目の前に居る50代独身絶望男性に未来がない事をその子供は知らない。
自分が子供の頃、目の前の大人がどんな不幸や絶望を背負っているかなど解らないのと同じだ。
昭和40年代、自分が幼い時、親族の集まりでよく大人の親類に遊んでもらった記憶がある。
「きゃっきゃきゃっきゃ」叫びながら親族のおじさんにお相撲でじゃれたりしてたし、そのおじさんたちも親しげに相手にしてくれた。
その親族も大抵は結婚し子供も居た。
当時は、まだ中産階級は健在で、未来の失われた不幸な大人など存在しなかった。
しかし2010年の今、状況は一変する。
親族の集まりに顔を出しても老人ばかり。子供の姿はもちろんない。
50〜80代ばかりだ。
70代以上は年金で悠々自適。しかし50代で結婚していない親族は、そこに居る意味がない。
老後もなければ残すべき未来もない。
あるのは孤独で絶望に塗れた死あるのみ。
嗚呼、辛い辛い。
いやだいやだ。
何も残せずに、ただ無益な犬死が待っているだけのこれからの人生。
1歳半の子供の微笑がズキズキと心に突き刺さる。
己の乗った「泥舟」はいよいよ浸水し、わらに縋って荒れた大海に流される時が近づいてきた。
2011年は、もはやその縋る藁すら四散する。
辛い辛い、嗚呼辛い。
2010年12月16日
倉田潤都青少年・治安対策本部長の野望
ツイッターにも記したのだが、今回の都青少年育成条例改正案成立は石原東京都知事よりも、倉田潤都青少年・治安対策本部長の手腕によるところが大きかったと思われる。
むしろ、石原都知事や猪瀬副知事を利用し、警察キャリアの地位を確固たるものとするために都青少年育成改正条例が利用されたといえないか?
倉田自身の警察内権力を確実なものとする手段としての条例案改正。取締りの対象を拡大し己の地位を盤石とするための策略。
今回の事例はその一点のみに集約されている。
そこには「子供の安全を目的とした法益」なるものは存在しない。
あるのは倉田潤個人の権力欲だけだ。
すべては条例改正案成立条例強化を画策した都青少年・治安対策本部長の「出世のためのシナリオ」なのだ。
警察キャリア主流を疾走する冷徹な倉田に温和な交渉術など意味をなさない。
出版や漫画関係者が都に「なぜ根回しすらせず短期間で改正を強行するんだ?」と抗議しても無理な話。
この人物はさながらナチス政権下のハイドリヒみたいな男なのだからね。
都の面子とか出版業界との信頼関係なんて考えちゃいないだろう。
彼にとってはマンガ、アニメ関係者はジェノサイドすべき対象なのだから。
人間扱いすらしてない。
彼のやりたいことは「子供の安全」等じゃなく、警察にとって新しい獲物を作り出したいだけ。その獲物を「ガス室」送りにして自らの手柄にしたい。
それだけだよ。
ハイドリヒはチェコ副総督になったとき、労働者階級を懐柔させ、反対派たる中産インテリ層を徹底的に容赦なく弾圧した。
倉田潤都青少年・治安対策本部長もPTAとかうまく取り込む一方、反対派の出版、漫画関係者に対しては一切交渉すら拒絶。
正にハイドリヒと同じ手法を踏襲している。
石原はヒトラー気取り。猪瀬はヒムラー。倉田潤都青少年・治安対策本部長はハイドリヒという構図で考えるとわかりやすい。
因みにハイドリヒは上官であるヒムラーを軽蔑し、ヒトラーに対しても心酔してはいなかったらしい。
ハイドリヒたる倉田潤都青少年・治安対策本部長も猪瀬や石原のことを心の中では「利用しがいのあるマヌケ野郎」と馬鹿にしてるんじゃないのか?
所詮、石原、猪瀬なんて行政のアマチュア。東京都の「お飾り」にしか過ぎない。
一方倉田は行政のプロだ。彼ににとって石原、猪瀬レベルの人物は警察キャリア出世街道を突き進むための恰好の「踏み台」としか考えていない。
「こいつらには利用価値があるな」と悟り、タイミングを計って東京都に出向してきたんじゃないのか?
この頭の切れ方は、やはりナチの「金髪の野獣(Die blonde Bestie)」と言われたラインハルト・ハイドリヒと共通するものがあろう。
ここで改めてラインハルト・ハイドリヒがどんな人物だったかおさらいしてみよう。
『その生まれと教育からハイドリヒはヒトラーのドイツの「あちら側」に属し、ナチからねたまれもし、嫌われもするオフィサー階級である。
しかし上官の娘の愛情をもてあそんで海軍から追放されると、忠誠の対象をドイツの新しい勢力に断固うつしかえ、SSに入隊してたちまちヒムラーの代理に登用された。
彼は国内の防諜と弾圧にあたる国家保安本部の長官となり、1939年9月ポーランド国境のグライヴィッツ事件[ポーランド軍の制服を着たSS隊員がドイツの放送局を襲撃したように見せかけた事件]を出演し、ヒトラーに開戦の口実を与えた。
ソ連侵攻後は絶滅班(アインザッツグルッペ)の作戦の責任者となり、東方の占領地域で何十万人のユダヤ人を殺害した。
1942年1月のヴァンゼー[ベルリン郊外]会議で承認されたユダヤ人問題の「最終解決」の報告書を書いたのは彼であり、1942-44年の東方の絶滅キャンプでの欧州ユダヤ人の組織的殺人への道を開いた。
ハイドリヒはチェコスロバキアの占領地域ボヘミア、モラヴィアの保護管(総督)となったが、チェコ人工作員チームによりプラハで暗殺された。
報復としてドイツ軍はチェコのリディツェ村の成人住民を大量殺害した。
ハイドリヒはナチ幹部の大多数よりも傑出していた。
その異常な自信、並みはずれた才能、そして完全な酷薄さによってであり、これに匹敵する性格をもつものは他にヒトラー自身しかいない。
ハイドリヒはそのヒトラーのあとを継ぐつもりだったのではあるまいか。彼を知る者はみな、ヒムラーでさえも震え上がった。』
<ジョン・キーガン編/猪口邦子監修/永沢道雄訳『第二次世界大戦人名事典』原書房 1996年初版より出典>
一方、倉田潤都青少年・治安対策本部長はどうか?
下の画像は倉田潤 青少年治安対策本部長が平成22年第4回定例会12月 7日(火)本会議代表質問での音声である。
倉田潤都青少年・治安対策本部長に関してはこのあたりのサイトを調べてみると面白い。
過去にもいろいろと物議を醸し出した人物であるようだ。「脛に昔の傷」を負っているのはハイドリヒと似通っている。
またハイドリヒがプラハに派遣されて豪腕を発揮した履歴は、倉田が東京に出向して「目覚しい成果」を上げた状況と近い。
倉田もまたハイドリヒと同じく、恐らく強引な手法でのし上がり、警察内部からも相当反感を買ったり、疎まれたり怨まれている人物と想像出来る。
にも拘らず、出世街道を驀進している点では如何に権力闘争に長けているかを示している。
彼にとってこの都青少年・治安対策本部長は出世街道の最終関門だ。如何に大きな業績を上げるかが勝負だ。
次の出世先、すなわち警視庁警備部部長の椅子。
このエリートコースを盤石にするためにも都青少年育成条例改正案は手段を選ばず成立させねばならなかった。
しかし、これはまだ序章に過ぎないだろう。
これからが彼の本領発揮である。
歴史に名を残すのだ。警察官僚としての圧倒的な実績をね。
そのための「生贄」が、漫画、アニメに関わる無垢な人間。
さて、取締りの対象を法律で規定できた以上、今度は配下の警察を動かして徹底的な取り締まりを実践し、己の力を警察内に知らしめなければならぬ。
ハイドリヒと同じ「恐怖と冷酷さ」でね。
上司である石原や猪瀬はもはや倉田の「操り人形」に過ぎぬ。
放っておいても首長が「規制強化」を叫んでくれるのだから、これほど仕事がやりやすい環境はなかろう。
あとは都議会だが、倉田にとっては造作もない。
とにかく「規制派」に対する周到な根回し、懐柔を積極的に謀る。
漫画規制を狂信的に推進させるカルト組織を一般市民やPTAに偽装させ、恰も都民の大半が「規制に賛成している」という「世論」を醸し出す。
一方で規制反対の漫画、アニメ関係者の声は断固無視する。聞く耳など絶対持たない。
「映倫」みたいな自主規制団体の設立すら受け付けない。
彼の目的は業界との信頼関係ではなく、殲滅すべき敵を作り出すこと。
彼にとって漫画、アニメは敵そのもの。
妥協は許さない。
ただ潰すのみ。
警察権力を誇示するための「標的」として徹底的に敵視し、実力で殲滅する対象を国民に見せつけ、己の力を誇示し権力を奪取すること。
そのための「生贄」が漫画、アニメなのだから妥協など最初からありえないし、話し合いの必要性もない。
彼にとって漫画、アニメ従業者、漫画家、アニメーターは単なる狩猟の対象物だ。
無論、警察が守るべき都民ではない。いや、人間ですらないと思っている。
だから倉田は警察組織を総動員して漫画、アニメを「子供の敵、社会の敵」とする世論作りに無慈悲に邁進するだろう。
たとえば「ヲタク系」が起こしたように見せかける性犯罪を捏造。殊更誇張してメディアにリーク。
大手マスコミも身の保全しか考えないので、このような「子供の権利」に偽装した事件をろくに検証もせず大きく報道する。
一方、「表現の自由」を守れという声は相対的に潰されてもはや何の効果も失っていく。
やがて都民の大半は、漫画、アニメを危険な媒体として認識し、その関係者を罪人と看做すだろう。
すれば、「表現の自由」を訴える反対派の都議も賛成に回らざるを得なくなる。
なぜならば有権者に逆らえないからだ。
これで、都議会も倉田の野望現実のための道具となった。
こうして条例案改正を成立させたのと同じ手法で徹底的な弾圧と取締りが出来る環境を整える。
漫画、アニメ関係者、出版社を「生贄」にする準備は整った!
法律は整備され、「世論」は規制一辺倒となり、立法府も手中に治め、メディアも骨抜きにした。
いよいよ「宴」の始まりだ。
倉田は都青少年育成改正条例を効果的に拡大解釈、恣意的運用を現場に指示する。
都内の大方の書店ではほぼすべてのコミックが「成人指定」され、売り場から排除される。書棚の前には警官が配置され、もはや大人すらコミックを購入する事が出来なくなる。
いつしか「成人向け」のみならず、すべてのコミック、アニメが恣意的に「不健全作品」に指定され、書店から一切のコミックが姿を消す。
大手出版社はコミックの新刊を出すメリットが失われ、最大のマーケットである東京を失っては利益が上がらないと判断。コミック雑誌は次々と廃刊。
同人イベントも一切禁止され、自費出版もすべて取り締まりの対象に。製作、販路は完全に遮断。
漫画、アニメに関わる産業は壊滅。作家、従業者は失業し、生活の糧を奪われる。
更に倉田は規制第2弾を実践に移す。
都青少年育成条例を更に強化し、漫画、アニメに関わる人間はすべて「性犯罪を助長している危険な人種」と規定。「疑わしくは罰する」という方針を明確にして徹底的な摘発に乗り出す。
議会もメディアも手中に収めているので何の抵抗も無く計画は進む。
摘発推進キャンペーンとして都内要所で青少年・治安対策本部主催による「大焚書大会」が催される。
児童生徒を大量動員。カルト宗教団体構成員が主導してあらいるコミック、アニメソフト、ゲームを新旧問わず持参させ、炎の中に投じさせる。
その様子をテレビが生中継。
石原都知事を担ぎ出して「漫画、アニメ追放演説」を繰り返しメディアで放送させる。
倉田はこれを「健全浄化・水晶の夜」と名づけて、都民に漫画、アニメに関わる人間をあぶり出し、当局に通報せよと呼びかける。
一晩で10万人近くの漫画、アニメ関係者、漫画家、同人作家が検挙され、投獄される。
都庁舎前の都民広場では、摘発された漫画家や同人作家を公開拷問処刑。
ハイドリヒも公開処刑もしばしば行っている。ウィキペディアによるとこのような記述があった。
「特にヒムラーがプラハ訪問中だった1941年12月15日にはプラハ聖堂前の広場で大規模で派手な公開処刑を催した。
1942年2月4日にはハイドリヒ自身が秘密演説の中で次のように述べた。死刑判決は400ないし500、拘束者数は4000ないし5000に及ぶ。」
倉田もハイドリヒに見習い、このような公開処刑イベントを開くと思われる。
なぜなら市民を恐怖によって統括するには効果的だからだ。
「不健全をばら撒く犯罪者の末路」と称し、警視庁の取締官が作家の利き腕を殴打したり、目を潰したりしする拷問を都民に公開。
「ぎゃーあああ」と悶絶してのた打ち回る同人作家を眺めながらのディナーショーも開かれる。
この様子は世界にも配信されるが、所詮「児童ポルノ犯罪者」を取り締まる様子として伝えられるので、むしろキリスト教圏の国では賞賛され、倉田の業績は世界で高く評価される。
ハイドリヒは「プラハの虐殺者」と呼ばれたが、倉田も「東京の虐殺者」として歴史に名を残す。
この強化された都青少年育成条例は、すぐに国家レベルに格上げされ、国会で「児童ポルノ防止強化法」として成立。
もはや日本中すべてのコミック、アニメ、ゲームソフトは新旧問わず焚書にふされ、所持者も片っ端から逮捕される。
漫画家、アニメーターは逃げ場を失い、強制収容所に放り込まれ殆どが処刑される。
こうして倉田は警察内で確固たる権力を治め、晴れて警備部部長に就任。
警察キャリアのトップに君臨出来るのだ。
ハイドリヒが教えてくれた出世方法は完璧である。
おそらく、これが今、倉田潤都青少年・治安対策本部長が夢見ている「未来予想図」だ。
程度の差はあれど、遅かれ早かれこのような状況は現実化されるだろう。
倉田の野望実践が都内で続く限り、この「受難」は免れない。
2010年12月15日
都青少年育成条例改正案成立後の行方
都青少年育成条例改正案成立。
今更、自分がこの件に関して何か述べたところでどうなるものでもないし、状況はほぼ決まってしまった感もあるからじたばたしても始まらない。
この事案はこれまでも当ブログで何回か書いたし、思うこともたくさんある。
ただ取り止めもなく文を連ねるよりか、以前、自分が商業誌に描いた、あるシーン5Pを見てもらったほうが言わんとしたいことが伝わると思ったので、その部分をアップしてみた。雑誌からスキャンしたので絵はクリアではないが大体ストーリーは追えると思う。順番は左から右。
これは2007年に幻冬舎コミックス「月刊コミックバーズ」に発表した『絶望帝国の興亡』という作品の1シーン。
一連の「影男シリーズ」の終盤エピソード。体制側が漫画、アニメを規制して東京ビッグサイトで抵抗するファンやクリエーターを権力側が弾圧するという場面である。
カバーイラストを担当させていただいたマイクロマガジン社発行の『マンガ論争』(編 著 永山薫 / 昼間たかし)
1巻、2巻の表紙カバー表4にも1部分が抜粋されている。
このシーンは3年前、その「来るべき危機」に対して、何らかの対処を促すべきじゃないのかという思いと、同時に状況が変わらなければいずれマンガ、アニメ愛好者はこんな風に殲滅されてしまうよという警告と諦めと絶望を籠めて描いたと記憶する。
別段、今回の状況を見越して描いた訳でもないが、このような「対立構図」は漫画がこの世界に登場して以来、常にあったし、取締りや弾圧はいつ起きてもおかしくない。
だから今後、このような暴力的取締りも可能性は大いにあるんじゃないかと。
昨今の都青少年育成条例改正案騒動は「いつか起こるであろう」必然でしかないし、混乱の序章でしかないと思っている。
さて、その都青少年育成条例改正案可決がいよいよという段階で様々な声が響いてくるのだけれども、なんだかどれも空しく響く。
たとえば、「東京がダメなら他の地域に避難すればよい」という声。
これは本気で言っているのだろうか?
マンガ、アニメ、ゲームなんていうカウンターカルチャーは東京のような「特殊」な土壌でこそ育つのであり、東京以外の如何なる場所でも成立し得ないと思う。
人口密集度、交通アクセス、施設インフラの充実、多様な価値観等など。
日本でこの条件を満たすのは東京以外の何処にある?
東京にずっと住んでいると解らないのだが、地方出身者に聞くと、如何に東京が「特殊な土地柄」であるかを教えてくれる。
日本の地方の「守旧」レベルは想像を絶する。
新しいものを許容する「受け皿」がどこにも見当たらない。
あるのはパチンコ屋と中古車販売店位のもの。
そんな日本の「地方」に「萌」を代表とするコンテンツ文化が根付く土壌は絶対にないと確信できる。
地方出身者が漫画家を目指すには、兎に角東京に出なければ話にならない。出版社の大半は東京にあるし、情報や人脈も東京に居ないと圧倒的に不利だ。
いくらネットが普及したとはいえ、地方に居ながら仕事できるのはある程度知名度がある作家だけだろう。
ましてや何十万単位のイベントを滞りなく遂行できるインフラがどこにあろう?
地方で開かれるイベントは数万単位でも大混乱だ。車しか移動手段が無いからすぐに大渋滞。公共交通機関がまともに存在しないからだ。
茨城の百里基地祭などいい例。毎回、半日ほどバスの中に閉じ込められるのが当たり前。
地方で東京並の動員数を考えたら途方もない状況が予想される。
また、イベント参加者の多くは東京在住の者が多いのも事実で、仮に地方開催となれば交通費、宿泊費負担が増大しイベント参加のメリットがない。必然的に参加者の減少を招き、文化そのものの衰退が予想される。
インフラだけではない。
地方の首長も議員も住民も異様に保守的で新しい文化を受け入れる思考回路が東京都と比べ著しく鈍い。
アメリカの例ではあるが、未だ教育現場では「進化論」は拒絶し、「人は神によって造られた」と学校で教えている。程度の差はあれ、日本も同じようなものだ。
そんな人間しか居ないところで「萌文化」が育つものか。
400パーセント無理。
東京以外のの首都圏に拠点を移したとて、すぐに似たような条例が施行されるのは時間の問題。
所詮、神奈川、埼玉、千葉も遅かれ早かれ「東京へ右に倣え」がオチである。
よって、東京がダメだから他所に行けばよいなどという考えはまったく意味をなさない。
東京を拠点に出来なければ、ジャパニメーションもクールジャパンもへったくれもない。
お終いである。
次に東京都主催の「国際アニメフェアー2011」に主要出版社ボイコット。
少なからず喝采を送る人も居るようだが果たしてどうなのだろう?
勿論、大手出版社の決めた事であるから付け焼刃で行動しているとは思えない。
どんな妙案があるのかは知らないが。
自分レベルの人間が大きな版元の行動にあれこれ言える立場にもない。
出版社側が本当に漫画家やマンガ文化の未来を誠実に考えて行動しているのかも解らない。
が、もしかして利益追求の「捨石」として漫画家を位置づけていたとしたらこんな「悲劇」はなかろう。
もし、そうだとしたら石原都知事と大手出版社は皮肉にも共に漫画家の未来を潰している事になる。
東京国際アニメフェアーは、個人の作家ブースもあって、零細なアニメ作家も出展出来て、世界のクリエーターと交流している。何年前だったか自分の知人のアニメ作家もブースを無償で提供してもらい、交流に勤しんでおられた。
このような場を設けられるのも自治体という大きな存在あってのこと。
良くも悪くも自治体、それも東京都がバックアップしているのは利益至上主義の大手企業に頼る事の出来ない作家にとっては嬉しい事でもある。
もし、大手出版社ボイコットによりこの国際アニメフェアーが中止となった場合、その個人作家の活動の場はどうなってしまうのか?
更には日本のコンテンツ産業を世界市場に広げるという戦略を自ら捨てることにはならないか?
同じ東京都といっても、都知事や条例強化を画策する都青少年・治安対策本部の思惑とアニメフェアーの目的はまったく異なる。都条例は残るものの知事や治安対策本部長は任期が終わればどこかに消える。しかしアニメフェアーの理念は少なくとも数年で終わるものではなく、次世代に繋がる戦略を担っているはずだ。
狂信者まがいの倉田潤都青少年・治安対策本部長や老害任期切れ寸前の呆け石原都知事の「妄動」に釣られて、ボイコットを決定したとすればそれはやや拙速ではなかったか。
無論、繰り返しにはなるが大手出版社が束になって決行した事案であるから「思いつき」ではあるまい。
何らかの根回しや策略があってこそのボイコットと思いたい。
しかし、このアニメフェアーの実行委員長は確か石原都知事自身。出版社のボイコットに弱気になって譲歩するような人間ではない。寧ろ「卑しき漫画家」を東京都から追放する恰好の口実にするかも知れぬ。
その辺りは大丈夫なんだろうか?
諸手を挙げて、このボイコット決起に賛同する気にあまりなれないのは、国が創ろうとした国立メディア芸術総合センターも少なからずコンテンツに携わるものからも反対の声が挙って潰れてしまった件があったから。
己の権益を広げんと欲すれば国や自治体をも取り込み「地位向上」を目指さなければ次のステージには登れないのはどの世界も同じ。
それを否定して旧態依然の貧乏根性を発揮し、薄給の低待遇をよしとするならば、所詮日本のマンガ、アニメに未来を語る資格など無い。
いいように規制派の餌食にされればよろしい。
だが、自分はそれを是とは思わない。
今更、貸本マンガのレベルに戻れというのか?
零細産業に零落れて、傷の舐め合いでもしろと?
そんなのは真っ平御免である。
世界に冠たるジャパニメーション。
それを目指さずして、なにがクールジャパンだ。
条例は所詮、教条主義者の作文。
何十万のファンが国際アニメフェアに押し寄せ、活況を示せばキチガイカルト警察官僚の野望やボケ都知事の妄動など何の意味もなさぬ。
人の数で圧倒する事。
それが最大の戦略だ。
そもそも一部規制派カルトを喜ばせるために都民が協力するか?
否。
そんな馬鹿は何処にもいない。「マンガ規制」で世の中が良くなるなんて誰も信じちゃいない。実際そのような「有害マンガ」など巷の何処にも見当たらないのだからね。
それより人が押し寄せるイベント開催によって「お金が落ちる」ほうを望むのが真っ当な都民の選択だろう。
いずれ条例は形骸化して意味をなさなくなる。
『北風と太陽』という寓話ではないが、人は懐が暖まるほうを選択するに決まっている。不況下なら尚更だ。
カルトは「浄化」を訴えるが、そんなもの胡散臭いだけで一銭にもならない。
だが、逆にイベントが衰退すればそれこそ規制派の思う壺である。弱い存在は叩かれやすい。
そういうことだ。
国政と支持する政党が180度正反対というのも大いなる皮肉だ。
民主党政権になってから外交をはじめとする「無能」さを垣間見ると、むしろ石原都知事の発言にシンパシーを抱いてしまう事が多かった。ところが、マンガ、アニメ規制などの「表現の自由」となると、もうまったく支持する対象がまっさかさまとなる。オセロのごとし。
国政では「仙谷許すまじ!」だが、表現規制では「石原許すまじ!」である。これはどういうことか?
つまりは、日本のマンガ・アニメはジャパニメーションとして世界に誇れる次期基幹産業(本当はどうだか解らぬが)なのだから、一種のナショナリズムの一翼を担う存在であると信じたいがゆえに「右翼的」な思考とシンクロしたヲタク層が、弱腰外交の民主党に反感を持つ一方で、石原の国粋的な発言にシンパシーを持つに至るということなんだろう。
だから、当然石原都知事もジャパニメーションを日本の誇りと位置づけ、支援してくれるだろうと。
ところがそんなヲタクたちの期待に反して都知事はマンガ、アニメ規制に乗り出す。
一方、無能弱腰外交、政権能力なしと罵声を浴びせていた「自分たちの敵」であったはずの民主党や社民党は、なんと「表現規制反対」の声を挙げ、皮肉にもヲタクたちの味方に付く。
いったいこりゃどういうことなんだ?!
そう!
結局のところ、日本のマンガ、アニメの真髄を真に理解する政治家なんてこの日本には存在していなかったのだ。
石原都知事は、ジャパニメーションを日本ナショナリズムの一翼なんてこれっぽっちも考えておらず、マンガ、アニメに拘わる者など「卑しい商売」をやってる低レベルの存在と馬鹿にしているだけだった。
同じく、民主党や社民党もジャパニメーションや日本のコミックが「世界制覇」の原動力、プライドの拠り所なんていう観点ではなく、単なる「表現の自由」の侵害という論点のみで規制に反対しているだけ。
どちらも真の理解者でもなく支持者でもない。
彼らがもし、そのことに気が付いたらどう対処するつもりなのか?
なんと悲しい存在なのか?
おまけに都議会民主党は結局、改正案賛成に回るというどんでん返しまで披露してくれた。
もはや語る言葉もない。
いったいいつになったら、日本のアニメ、マンガは世界から真の理解を得られるのか?
ジャパニメーションの黎明期からすれば、もう半世紀は過ぎている。
にも拘らず、この国の指導者のなかに真の理解者など誰一人としていないのだ!
50年経っても!
誰一人として!
思いを巡らせば巡らすほど絶望感に襲われる。
事実上条例改正案が成立し、今後マンガ、アニメ周辺の状況がどうなるか予断を許さない。
好転する事はないだろう。
ただ以下のことだけは確かだ。
東京以外にコンテンツ産業を支える場所は存在しない。
大手出版社の国際アニメフェアボイコットは好転材料になるのか不透明。場合によっては自分の首を絞める。
政治家の中に、日本のマンガ、アニメの真の理解者は存在しない。
少なくとも政党全体の意思を決定出来る有力者は居ない。
自分のいっている事が正しいかは解らない。
大きな勘違いがあるかもしれない。
自分が関知しないところで様々な動きがあるのだろうと思うから多分状況は変わっていくだろう。
果たして杞憂に終わるのか、もっと酷い事になるのか・・。
少なくとも自分がこの世界で生きていかなくてはならないと考えたとき、静観することは許されないと思う。
自分の出来うる力で自分たちの権益を守っていかねばならない。
結局、そんな当たり前のことをみんな怠ってきただけなのだ。
最後に営業文。
因みにこの闘争エピソードが入っている『絶望帝国の興亡』は、今のところまだ単行本化されていない。
幻冬舎コミックスでは「影男シリーズ」として『晴れた日に絶望が見える』と『絶望期の終わり』がコミックス化されているが、完結編である『絶望帝国の興亡』を含む終盤6エピソードが未だ単行本化される目処が立っていない。
一昨年、「コミックバーズ」の編集長が変わり、編集方針も転換された際(まあよくあること)、「影男シリーズ」のようなマイナー作品はなかなか取り上げて頂けず、恐らく今の状況では幻冬舎コミックスでの単行本化は不可能と思われる。
よって、現在、この「影男シリーズ」を改めてどこか別の出版社で出せないかと検討中でもある。
私事になってしまうが、この世界観をより多くの人に伝えたいという想いは強い。
当然、この世界で食っていくためにもである。『晴れた日に絶望が見える』と『絶望期の終わり』、そしてこの『絶望帝国の興亡』を含む未収録6エピソードまとめて完結させ、世に放つ事が目下のあびゅうきょプロジェクト最大優先事項。
もし、このブログを見て多少なりとも関心を持たれる編集の方が居られたらご一報願いたい。
fb6y-ab*asahi-net.or.jp(*の所を@に替えて下さい)
2010年12月2日
師走の空しいキーワード
師走。
「エコポイント」「ラジコエリア拡大」「実写版ヤマト」「イクメン」云々。
そんなキーワードがラジオ、新聞、テレビから流れてくる。
そして車窓から眺める風景のように、自分には何のかかわりも無く過ぎ去っていく。
「エコポイント」とはなんぞや?
てっきりただでテレビをくれるのかと思ったら結局買わされるのか?
にも拘わらず、なんで家電量販店に客が群がるのだろう。
あれを観るとテレビを買えるだけのお金を持っている人がまだまだ多いのだなと思う。
「エコ」を出汁に使った詐欺まがいの安売りにあっさり乗っかるのもどうかと思うが、そこまでして新しいデジタルテレビを買い求める「意欲」というのはなんなのだろう?
自分の部屋には1979年製のテレビが現役だ。
ビデオ端子すら付いていない代物。勿論リモコンもない。
だがちゃんと映るので実用上これで十分。
デジタル化されたとて新しくテレビを買う気も余裕も無いから恐らく来年7月以降はそのまま部屋のオブジェだ。
他にどうしようもない。
テレビに拘わらず、もう電化製品と称されるモノを買いたいという欲求が起きない。家電量販店に行っても欲しいものはゼロ。
たとえ購買欲が芽生えるとしても、もうそれを購入するために資金を回す余裕がない。
欲しいものが無くとも機械はいずれ故障するものだからいずれは更新しなければならないが、それすら間々ならない。
先日、25年間使っていたオーディオアンプが故障してしまったのだが、もう買い換える余裕がなくどうしたものかと悩む。「エコポイント」騒動で家電を買い換えている人々とはもはや「人種」が違うのだろうな。
だから自分にはもうまったく関係のない他所の出来事だ。
「ラジコエリア拡大」ってなんぞや?
12月からパソコンで聞けるラジオの聴取エリアが広がったそうだ。
意味不明。
自分はラジオリスナー暦40年近くになり今でも1日8時間はラジオを聴いているが「ラジコ」なるものにアクセスした事が一回もないし、したいとも思わない。
「パソコンでラジオが聴けて便利です」って理解不能。
ラジオなど部屋に2,3個位転がっているだろう。それなのになんでわざわざパソコン起動しなきゃいけないのだ?
家には無線機含めて数十台ラジオがある。
だから敢えてパソコンで聴く必要性を感じた事など唯の一つもない。
「パソコンで作業しながらラジオが聴けます」
聴けないよ。パソコンやってると脳が視覚に偏ってラジオに集中できないからラジオをBGMにするのは無理。
パソコンはラジオの敵だ。ノイズ源でもある。
だから「ラジコ」が「ラジオ革命」なんて発想がさっぱりだ。これを宣伝している者は実際ラジオなんて聞いていないんじゃないか?
ラジオはアンテナを建て、己の技で遠距離受信をして嗜むものだ。
ネットを経由したらもはやラジオではない。
そんな「ズル」をしてまでラジオを聴きたいとは思わぬ。
ネットから流れてくるものは所詮電話回線に依存しているその他諸々の「混沌なる有象無象」の類でしかない。
「ラジコ」でラジオを聴く人は「リスナー」ではなく単なる「ネットユーザー」だ。。
本当にラジオを聴いているのか疑わしい。少なくとも自分の知る「ラジオ」の世界とは程遠い。
100円ショップで売っているAMラジオのほうがまだ信用できる。
だからこれも自分にとっては関係のない「他所の世界」の出来事だ。
「実写版ヤマト」とはなんぞや?
12月1日から封切りされたようだ。
先日の伊集院光のラジオでも取り上げていたが、試写会を見た伊集院の知り合いが口をそろえて言った感想「思ったほどクソじゃなかった」は興味深い。
1974年だったか?最初のテレビシリーズをリアルタイムで観て心打たれ、その後の続編劇場版も映画館に観に行った記憶もある自分だからそれなりに思いいれは強い。
自分の世代でこの「宇宙戦艦ヤマト」の洗礼を受けていない者のほうが稀有だろう。
今回の映画は、それをリニューアルして実写化したものだとか。
ジャニーズのメンバーが主人公らしい。ある程度最初のオリジナルに沿ったストーリーとのことだがよく知らない。
得てしてアニメ作品の実写化は劣化コピーに等しく、「見るに耐えない代物」に仕上がる場合が多い。
だから「思ったほどクソじゃなかった」というのは多少は見ても損はしないレベルということだろうか?
だとしても「血湧き肉踊る」気持ちには程遠い。
学生時代、「スターウォーズ」や「2001年宇宙の旅」リバイバル上映が矢継ぎ早に続いた時、心躍らせて映画館(テアトル東京がまだあった)に足を運んだ頃が懐かしい。
もう、そんな好奇心の躍動は錆付いてしまったのか、観たいという欲求がまったく上がってこないのだ。
その上、映画代だってただではない。一本の映画を見ることにすら財布の中身を気にするほどアクションが取れない状況が恐ろしい。
余裕というものがいつしか消えている。
これが、仕事が忙しいとか他に激しく優先することが控えているのならまだしも、そんなものが一切無いのに「余裕がない」とは如何なる状況なのか?
暗澹たる気分に襲われてますます映画どころではなくなっている。
だから「実写版ヤマト」も別の世界の他人事になってしまった。
「イクメン」とは何ぞや?
朝日新聞のコラムみたいのがあった。読んではいない。
「イクメン」はイケメンが訛った言葉かと思いきや、育児に勤しむ父親のことだそうだ。
男性親が育児するのはそれぞれの家庭の事情で自由にすればよいし、他人がどうこう言うことではないが、マスコミがキャンペーンみたいに推奨扇動する理由が解らない。
というか鬱陶しいだけ。
街行く子供を抱っこした男性を見て最初に浮かぶ言葉は「気の毒」だ。
男なのになぜ赤ちゃんを抱いていなければならぬのか不憫でならない。
子供は母親に抱かれるのが幸せで、そうじゃない家庭は不幸なんだという昭和40年代に刷り込まれた「常識」で育った世代の自分からすると、父親が子育てする状況は即ち「かわいそうな家庭」に他ならない。
それを「よい行い」とするマスコミは不幸を奨励しているのか?
理解しがたい。
もはや「専業主婦」が死語となり、母親が仕事に出るのが「常識」となってしまった現在、父親が育児するのはいたって普通であることは理解できるが、それを「イクメン」なんてオシャレな言葉で恰も「正しい行い」かの如く扇動する目的はなんだ?
それともレジャー気分で育児する父親になれとでもいうのか?
仕事の時間を割いて育児に勤しむというのは相当生活に余裕のある家庭だろうと想像出来よう。
年収1000万円位あって父親も朝10時に出社して16時頃帰れるのなら「イクメン」もありかもしれないが、そんな家庭はどれだけあるか?
「父親は仕事、母親は家事育児」と相場が決まっていた時代に生きてきた自分からするともはや耐え難い。
恥を忍んで育児する父親像しかイメージできない自分からすると「イクメン」なんて強制収容所の囚人に「労働は自由への扉」と嗾けている標語にしか思えない。
もっとも、結婚すら出来ない絶望独身男性にとってはお伽話の世界。
子供を設ける機会すら喪失している男に「イクメン」など語る資格すらない。
だからこれも「他所の世界」。
自分には関係ない。
まだまだ様々なキーワードが師走のメディアを駆け巡るが、その殆どが自分に無関係で興味も湧かぬ「他人事」ばかりだ。
自分が歳をとった証かも知れぬ。
もう、世の中の主流からは「お呼びでない」のだ。
男五十路を過ぎれば一家の大黒柱として、子供もそろそろ成人を迎えよう。そしてそれを養うだけの経済力を持ち合わせているのが当たり前の世代。
そのすべてを持っていない50代独身絶望男性にとって「エコポイント」「ラジコエリア拡大」「実写版ヤマト」「イクメン」すべて縁がないのも頷ける。
そんな男、世の中は相手にしないのだ。
2010年の師走キーワードはそのことを再確認したに過ぎない。
来年は更に自分にとって無縁のキーワードが増えていくのだろう。
ああ、辛い。
2010年12月1日
都青少年育成条例記者会見を見る
「私たち漫画家は、都青少年育成条例に断固反対します!」記者会見動画を見る。
「私たち漫画家は、都青少年育成条例に断固反対します!」記者会見 生中継
要するにこの一連の規制法案は、これを推進する一部警察官僚が己の実績作りのために漫画家や出版社の権益など完全に無視して、性急に自らの「野望」を追及するところにあるようだ。
その「野望」実践のために、出版社との根回しや話し合いの場などまったく設けず、頭越しに都知事を引っ掛け、規制派を扇動し巧みな戦略でただひたすらに規制法成立に突っ走っているのだ。
このような野心家に話し合いなど無意味だ。
この警察官僚の野心を砕かない限り、いくら出版、漫画家が抗議しようと繰り返し規制法案を出してくるだろう。
この役人が任期切れで物理的にその立場から退くか「不慮の死」に見舞われない限り、法案成立は免れない。
もはや都議会最大会派の民主党も、連中の懐柔工作によって今回は賛成に回る情勢らしい。
この状況においてもっとも現実的対処法はパ○○コ業界みたいに金で懐柔する以外になかろう。
連中は実績が欲しいのだ。その「実績」とやらを金で買い取る。
懐が膨らめば法案つくりからあっさり手を引く可能性もあろう。
しかし、この不況下。コンテンツ業界がそのような「工作資金」を工面出来る目処はあるまいし、そもそもそんな方法で本当に連中の「野心」を思い留められる保障もない。
漫画家や出版業界にとって禍たるこの警察官僚は如何なる精神の持ち主か?
恐らく、マンガ、アニメに関しては一片のシンパシーすら持っていないはずだ。
完全なる「無理解」と「敵視」。
それがすべてだ。
連中はマンガ、アニメを「社会の敵」と信じ込み、治安維持のためにはこの世から抹殺すべき対象と信じて疑わない。
こんな「狂信者」が都に出向し、カルトと結託し、日本のコンテンツ産業の息の根を止めようとしているのだ。
もし、漫画家が己の生存権を行使したければ、この「狂信者」との闘争に挑むほかない。
己の表現活動を武器として己の権益を守っていくこと。
これからの日本の漫画家にとって表現活動とは単に与えられるものではなく、己の力で勝ち取っていくものに変貌するだろう。
恐らく、この法案が成立する可能性は大きい。
しかし闘いはこれからだ。
我々の敵は、我々自身で倒すのみである。
その「戦力」はまだあるはずだ。
2010年11月30日
気持ちの悪い国日本の未来
悪名高き官房長官がいつだったか国会で自衛隊の事を「暴力装置」とのたまわったそうだ。
野党やメディアは騒ぎ、いつのまにか自衛隊の事を「国を守るために必死になっている隊員に失礼」等と大合唱だ。
しかし待てよ。
ついこの前までマスコミは、自衛隊のことを憲法9条に鑑みて存在すら否定する論調で異端児扱いしていたではないか?
いつから「国を守る大切な組織」になったのだ?
気味が悪い。
自衛隊が「暴力装置」である事は論を待たない。
武装組織である自衛隊から「暴力行使機能」を抜いたら何の存在価値もない。
「国防」を「暴力」と同意語で語るのは如何なものかと思うが、力ずくで己の価値観を実践する上においては、国防は暴力の一部なのだ。
それを踏まえて自衛隊を「暴力装置」と語ったのは正しい。
しかし官房長官は自衛隊の最高司令官たる首相を補佐する立場である。
己の子飼いの武力集団を「暴力装置」と発言したのでは、些か自覚に欠ける。
おそらく官房長官は自衛隊を己の政策実践の手段から除外しているのだ。
なぜなら「軍隊」というものをどう扱ってよいかまったく解っていないから。
出来れば拘わりたくないのだ。
つまり客観的な視点からしか自衛隊を見れないから平気で「暴力装置」というような言葉を使ってしまう。
どう考えても配下の集団に使うべき言葉ではない。
そんな「飼い主」に武装集団たる自衛隊が忠誠を誓うとはとても考えられない。
すでに、この状況において官房長官や首相が自衛隊を指揮する能力は存在していない事が証明された。
つまり、もはや現時点においてシビリアンコントロールは崩壊していると確信出来よう。
現政権を牛耳っている官房長官は自衛隊を信用していないし、自衛隊は官房長官を最高司令官に値する人物とは思っていない。
実際、尖閣での漁船衝突事故におけるビデオを流出させた海上保安官を逮捕出来ずにいる事が何よりの証拠。
今や官房長官を筆頭とする現政権は自衛隊や海上保安庁、警視庁などの「暴力装置」をコントロール出来ずに危険なステージへと突入し始めた。
先日、テレビに映っていた着弾の映像が38度線近辺の韓国領ではなく、日本の石垣島だったらどうなっていたであろうと思う。
あの映像が中国軍による石垣島への空爆、ないし艦砲射撃であったのならば、まさしく極東が新しい歴史の幕開けを告げた「号砲」になっていたろう。
そしてその可能性は明日にでも起こりうる。
尖閣や先島諸島は急速に覇権主義を露骨に推し進める中国にとって最初の「侵略地」であり、海洋権益を奪取するための重要な橋頭堡になる。
そしてその実践の時はすでに来ている。
外交防衛能力ゼロの現日本政権下にあって、中国の海洋進出の夢を実践するには正に千載一遇のチャンスがやってきたのだ。
己の子飼いの武装集団である自衛隊を「暴力装置」と言い放った官房長官がいる国だ。
そんな「最高司令官」をいただく軍隊がまともに動くはずもない。
侵略する側はまさに時が満ちたと思っているだろう。
そのシミュレーションを妄想してみると実に面白い事になりそうだ。
○月○日、突如、尖閣諸島沖を遊弋していた中国警備艇が海上保安庁の巡視船に発砲。
数隻を撃沈し、保安官は多数殺害される。直ちに中国海兵隊が尖閣諸島へ上陸。
中国外交部は声明を発表。
内外に尖閣諸島の実効支配を宣言する。
同時に先島諸島に空爆と艦砲射撃を開始。島内の主要施設を破壊し、住民も多数が死傷する。
一方、日本側は中国の動向を俄かに察知していたものの、何の行動も取らず静観。
尖閣諸島周辺の巡視船が攻撃を受けた報を聞き、狼狽するのみ。
とりあえず巡視船を退避させる命令を出すくらい。
外務省は一応、中国に抗議声明するが無視される。
逆に中国政府からこんな返答が。
「尖閣諸島は元来中国領であってその周辺に不法侵入していた日本の巡視船を実力で排除しただけ。この紛争の責任はすべて日本側にある。今事件における中国側の受けた損害の賠償と謝罪を要求する」と反論される。
日本の官房長官はそれに対して記者会見し「中国の真意が解らない。こんなことはお止めになってください」と涙ながらに呟くだけ。
一方、在日米軍はまったく動く様子がない。在日米軍司令部は「尖閣問題は中国と日本当事者で解決すべき問題」と介入を避ける発言を繰り返すのみ。
おそらく、裏では事前に中国から今回の作戦について通告済みだったのだろう。アメリカはこれを看過した。
中国市場を考えれば尖閣諸島など取るに足らない。アメリカ本土の安全保障には何の影響もないからだ。
それを知らずに日本の外相は何回も在日米軍に介入を要請するが無視され続け、記者会見では「アメリカは動いてくれないんです。どうしたらいいのでしょう?」と逆に記者に尋ねる始末。
この状況を予め予測していた陸海空自衛隊幕僚は密かに三沢のF2戦闘爆撃機部隊を沖縄先島諸島へ移動配備。
首相の防衛出動の命令がないまま独断専行で反撃開始。
尖閣ないし、先島諸島周辺に展開していた中国軍艦船のいくつかに損害を与える。また、沖縄那覇基地に配備されている空自のF15も制空作戦を実行。周辺の制空権をなんとか確保する。
在日米軍も部隊は動かさなかったものの、中国軍に関する情報は適時、自衛隊に提供し実質後方支援に回った。
これらはすべて、現民主党政権の頭越しに行なわれ、官房長官や首相以下閣僚は完全に蚊帳の外。
数時間後に「事後報告」されただけ。
閣僚は為す術もなく、黙って事後承諾を受け入れた。
官房長官だけはシビリアンコントロールを無視した行動だと反論するが、もはや誰も相手にせず。
事態はもうそんなレベルではなかった。
紛争は数日間続き、尖閣付近にいた海上保安庁の船は多数撃沈され死傷者も多数。
一方中国軍も自衛隊の初動反撃によって少なからぬ被害を被る。
これ以上紛争を拡大させると流石に米軍の介入を招くと判断した中国は、先島諸島攻略は断念。しかし結局尖閣諸島は中国軍に実効支配され、中国の目的は8割方達成された。
戦後初の国家間紛争による人的物的損害を被り、尖閣諸島まで奪われた挙句、自衛隊にシビリアンコントロールを無視され、「暴力装置」たる飼い犬に裏切られた現政権は国民や野党から「統治能力なし」という轟々たる非難を浴び、総辞職を余儀なくされる。
官房長官は辞任後、密かに中国に亡命を図るが発覚し投獄。
首相以下閣僚は紛争責任を追及され議員辞職まで迫られるという有様。
国民やマスコミはシビリアンコントロールを無視した自衛隊を非難するどころか賛美の嵐。参謀長や反撃作戦立案した自衛隊高官は英雄視される。政治は混沌から挙国一致内閣へと転換、中国に対して軍事的に対峙する政策が推進される。憲法は改正され、核武装も選択肢の一つとして上がってきた。
しかし、中国からの経済依存脱却は容易ならぬことで、国内経済は深刻な状況に。国民生活も困窮。
新政府は国民の不満を外へ向けるため、尖閣と竹島奪還作戦を画策するが・・。
こうして日本を含めた極東は新たなる紛争のステージへと展開していくのである。
如何であろう。
おそらく程度の差はあれ、遅かれ早かれこんな状況がやってくるであろう。
望むと望まざるに拘わらず、中国の覇権主義は日本を「気持ちの悪い国」に推し進めていくだろう。
自衛隊たる「暴力装置」がまた力を持つ時代。
マスコミが軍隊を賛美する時代。
時代は繰り返す。
それが歴史だ。
あの、どうしようもない官房長官はその新たなる歴史の序文に記されるだろう。
恥ずかしい意味でね。
2010年11月25日
また出た東京都青少年健全育成条例改正案に関する妄言
自分のような腐れ漫画家が閑古ブログで薀蓄をほざいたところで状況は好転しないが、あえてこの話題に何回目かの妄言を呈す。
また出てきたらしい東京都青少年健全育成条例改正案のこと。
「非実在青少年」の文言は消えたが、性的描写のシチュエーションを規制の対象にするような方向性で成立を図っているらしい
近親相姦とか、まあそんな描写は規制の対象(18歳未満に販売禁止)だと。
いずれにしろ表現規制を掛ける事には変わりないので状況は好転していない。
このような表現規制の潮流をもはや抗えない状況まで看過してしまった原因はいったい何処にあるのだろう。
どうしたって「まず規制ありき」なのだからいろいろ策を講じても対処療法で終わってしまう。
理不尽さを訴えたところで規制する側には通じないのだからね。
根源的にこの潮流を逆転させない限り、規制は単なる時間の問題に過ぎない。
「表現の自由」なるものは、昨今のナショナリズムの高まりと反比例して抑圧されるのが世の常であるからこれも時代の宿命として諦めるか?
まあ、今のままでは多分そうなるだろう。
そして規制案の提出は日本の行政府や経済団体が、漫画やアニメ等のコンテンツ産業を日本の基幹産業として拡大発展させる気が更々ないということの証明でもあろう。
もし、その気があるのなら、保守政党や都知事がコンテンツ業界や現場を萎縮させるような条例を作るはずもない。
逆に規制どころかあらゆる表現活動を緩和して東京を「表現解放区」「治外法権区」とする条例案を提出するだろう。
都内の表現者たちにアニメ、漫画、ゲームのあらゆる表現活動を保証するような特権を与えるのだ。
すれば世界中から有能なクリエーターたちが大挙して訪れ、永住権を確保するだろう。
こうして都内の個人クリエーター、企業が日本の基幹産業に成長となれば将来、膨大な利益を上げるから税収も見込める。
都にとっては虎の子の財源となろう。
それに比べれば保守系の宗教組織や警察官僚等の圧力団体の妨害など取るに足らない。
所詮、世の中は金である。
では、なんでそうならなかったのか?
まあ、推測するにコンテンツ産業に拘わる者の怠慢に他ならないだろう。
所詮、アニメや漫画で儲けようと試みる出資者って他の業界と比べ、レベルが低いような気がする。
現場は使い捨てで、その場その場で小銭を稼げればいいという程度の人間しか居なかったのではないか?
ましてや、業界全体の将来のために政治家に取り入り、ロビー活動を展開するコンテンツ産業の出資者って存在したのだろうか?
先日、1970年代に一大ブームを引き起こしたSFアニメのプロデューサーが事故死したニュースがあった。
日本のコンテンツ産業の先駆けとなったようなエポックメーキングな作品を世に送り出した人物であるにも拘わらず、クリエーターやファン層からは、すこぶる評判が悪く、死去したニュースが流れても余り惜しむ声は大きくなかった。
それはおそらく、作品を愛する気持ちよりも目先の利益のための道具としてしか考えていなかったその人物に対する客観的
評価そのものの表れだったのだろう。
現場を酷使し、業界の未来を見据える事もなく、ただ目先の利益だけに走るだけの出資者。
おそらくこれは日本のコンテンツ産業全体に漂う「悪癖」ではなかったか?
その挙句が、今日の表現規制に繋がっているのだ。
同じ表現でも文学では許されて、なぜ漫画、アニメでは許されないかという根源的な理不尽の要因がこの一点にある。
この状況を看過しつづけ、ダラダラやってきたツケが、今まわって来たに過ぎない。
遅かれ早かれ行き詰る運命だったのだ。
今回の改正案は、前回反対だった民主党まで賛成に回るという話ではないか?
所詮、この政党もコンテンツ産業の味方ではなかったのだ。
漫画、アニメが真の「表現の自由」を勝ち取る資格なんて元々なかったのかもしれない。
レベルの低い「山師」みたいな出資者に「飼われて」いた身に高尚な「表現の自由」など所詮「雲の上」の話だ。
これが身分相応。
この状況を根本的に打開するには、これまでの「悪癖」から決別し、質の良い出資者にコンテンツ産業を任せるしかない。
政治力があってロビー活動に長け、長いスパンで業界の未来を見据えられる出資者だ。
所詮、お金がなければ何にも出来ない。
逆に金があれば「表現の自由」など何とでもなるものだ。規制条例など滓の様に吹っ飛ぶだろう。
政治家に金をちらつかせれば法律など何とでもなる。
コンテンツ業界にとってそんな「救世主」みたいな出資者が絶対に必要。
はたしてそんな破天荒な「革命児」が存在するかは知らない。
もしかしてそんなもの居ないかもしれないし、それが本当に「救世主」に成り得るかは解らない。
でも居なかったら、日本コンテンツ産業はこの辺りで「一巻の終わり」な気がする。
そしてまた貸本漫画の時代に逆戻りだ。
細々と赤貧の中で漫画やアニメを綴る者が数百人規模しかいない世界に零落れる。あとはみんなアマチュアとして野に下るのだ。
そして業界自体が消滅する。
結局、考えあぐねるといつも結論は同じで「お金」である。
「地獄の沙汰も金次第」
良質のマネーこそがコンテンツ産業の明日を築くのだろう。
己の明日すら間々成らぬ者がこんな薀蓄連ねても空しいだけだが、真理はこの辺りにあると察する。
都規制条例案を根源的に潰すには「お金」しか方法がない。
2010年11月23日
ネットもオナニーも切り替え時が肝心だ
年末のコミケット新刊原稿集中のため、極力ネットを控えている。
ネットはあらいる「質量」を有する行いを圧迫する最大の要因であるから、まずそれを排除しないことには何もはじまらない。
自分にとってネットと原稿の両立は難しい。
1日中ツイッターをやりながら仕事や原稿も完璧にこなすなんて「神業」は無理だ。
所詮アナログ人間。ネットを有意義に使いこなすなんて不可能である。
自分の足元を固め、自分の成すべき事は何であるかを顧みた時、ネットは最初に「仕分け」される。
ネットにアクセスしつつ、労働生産性も落さないなんとことは可能なんだろうか?
俄かには信じがたい。
移動中にちょっと携帯から書き込みなんてことなのだろうが、移動含めて「労働」に入るのか?
「労働」の効率を上げるには極力移動の時間を廃し、食事、睡眠に要する手間も廃して効率を上げねばなるまい。
でも、職種によっては移動しないと成り立たない仕事とかもあるし、その移動の間にネットにアクセスしたとしてもそれ
「就業時間内」に含まれるからネットも仕事の一部になるのかな?
多分そうなのだろう。
しかし漫画描きみたいに一日中部屋に篭って作業していると「移動」という時間は存在しないから移動時間を利用してネットという理屈は成り立たない。
切り替えが出来ない者は「一日中原稿」か「一日中ネット」かのどちらかに陥る。
手を動かさなければ作品は出来ないから「1日中ネット」だと何一つ生産されない。
切り替えが出来る人は大丈夫なんだろうが、自分には無理。
漫画家でツイッターを頻繁に更新しつつ大量の原稿を仕上げる人はどんな状況で生活しているのだろう?
身体が二つあるのだろうか?
自分は身体がひとつなのでどちらか取捨選択しないとダメだ。両立が出来ない。
一つの事を始めるとそればっかりやってる性故に大変だ。
たとえば、髭や髪や爪なんかも人に会う機会がなければ限界に達するまで放置してまとめて処分する。こまめになんて出来ない。
排尿も1日に一回まとめて出す。いちいちトイレに行くのが面倒
食事も1日1食が原則。睡眠も1日15時間まとめて寝る。
風呂も外出する機会がなければ26日に1回のペースだったこともあった。
オナニーも39時間ぶっとうしで耽った記録あるぜよ。
空は黄色になり身体はふらふらになった。
とにかく切り替えるのが酷く苦手なのだ。一度始めると止まらない。
だからネットを始めてしまうと1日12時間ぐらいぶっとうしでやってしまう。
ダメ人間だ。
ネットは原則1銭にもならない。1銭にもならないのはオナニーと同じ。
オナニーもネットも工夫すれば利益を出す策もあろう。
美女ならばネットでオナニーを公開して荒稼ぎも可能であろうが、生憎美女ではないし他に有益な技など知らない。
結局己にとってネットは時間浪費のナニモノでもない存在でありつつける。
「偽」の表現活動に惑わされ貴重な人生をすり減らすだけ。
これまで何度も同じ呟きを記してきたのに、事態は悪化するばかり。
ほら、こうしている今も正に限られた人生の貴重な時間をネットに投棄しているんだ。
だからネットを排除するしかない。
排除したら原稿を描く時間が物凄く増えた。
1日12時間ネットしていたと計算すれば、1週間84時間分「原稿」に回せる。
以前は飲まず食わずで1日18時間原稿をし続けても平気だったのに。
まず、自分をなんとかしろ。
自分がリアルな世界でなんとかしなければ己のブログで巷のニュースとかに薀蓄を述べたとて空しいだけだ。
という訳で原稿に戻る。
とりあえず、生きているという報告まで。
2010年11月15日
コミティア94来場感謝
14日に東京ビッグサイトで開かれたコミティア94に参加。
当スペースに立ち寄って頂いた紳士淑女諸氏にはこの場を借りて御礼申し上げる。
生活パターンが昼夜逆転していたので、この時期にイベントがあると体調管理が大変。
眠気と戦いつつ過ごした。
11月のコミティアは例年閑散ぎみで今年も差ほどの混雑はみられず落ち着いた雰囲気。
今回配置された近隣のサークル様におかれては古くから私の商業誌、自費出版物をフォローしていただけている方がいらっしゃり恐縮の極み。誠にありがたいことである。
また当スペース近くでは、超メジャーな少年漫画家氏が出展。「テレビで見たあの昭和を代表するアニメの原作者がここに!?」というシチュエーションで行列が出来ていた。
こんなメジャーな人までがコミティアの一般サークルスペースで自分の本を売る時代になったのだ。
それはさておき、今回もビッグサイトではリクルート系のイベントが併設されていたらしく、リクルートスーツ姿の若者が帰路のりんかい線ホームに一杯だ。
画一されたスーツの暗い色と滅私奉公的オーラが同人イベントの余韻をいつも台無しにしてくれる。
まるでラッシュアワー並のホーム。
自分のカートがその群れの一つに引っかかったが、それが「一個人」として認識されず、「なんかの塊」の一部にしか感じられなかったのが怖い。
いずれにしろ、リクルート系イベントは平日に開催したらどうか?
ココロを弾ませる趣味系のイベント会場には似つかわしくない。ホリデーにウイークデーの陰鬱が紛れ込んでいるようで本当に憂鬱になる。
かつて四半世紀前、大卒時の就活で同じ格好をして歩き回った挙句、「お前は用なし」という烙印を押された記憶が甦る。
もっとも己も就職意欲ゼロ、やる気なしだったから何とも思わなかったのだが。
だからあのねずみ色の群れを見ると当時の無気力さと周辺の鬱陶しさだけが反芻され酷く不快になる。
100%無駄で無意味だった就職活動。
そんな状況は傍から見るだけでもおぞましい。
就活イベントは不毛の記憶でしかない。
2010年11月11日
「愛国義士」は今日も漫画喫茶で逡巡する
尖閣漁船衝突ビデオを動画サイトに投稿した人物が名乗り出てきたそうな。
現職の海上保安官で年齢は43歳だそうである。職場の近くの漫画喫茶から投稿したとか。
メディアでは「義憤に駆られて実行した」みたいな論調が目立つが真偽の程は定かでない。
国家公務員には守秘義務というのがあって、この手の映像を動画サイトに投稿したら罪に問われる可能性が高い。
今回のビデオも守秘義務に抵触するのは容易に予想出来よう。
尋常な人物であれば、たとえ現状況が理不尽だったとしても立場を冷静に吟味すれば安易に流出させようとは考えまい。
案外、現場の職員はメディアで騒がれているほど「義憤」は感じていないのではないかと思う。
過酷でドライな職場故、トップの指示には粛々と従う教育も行き届いているだろうし、いちいち理不尽さを訴えていたらこんな仕事成り立たない。
もし仮に「政治的意図」があってビデオを流出させたのならば、もっと組織的に隠匿性の高い方法を選択するだろう。
海外のサーバーを経由するとかしてね。
少なくとも職場近くの漫画喫茶等という足のすぐ付きそうな場所から投稿するはずもなかろう。
あまりにも稚拙だ。
数年前、厚生労働省の元官僚が連続して襲われた事件があった。
その時は年金問題でメディアが騒いでいたので、この不祥事に対する「政治的テロ」みたいな論調が支配的だった。
ところが犯人を捕まえてみる(自首してきた)と、その動機は、かつて自分が飼っていた犬が保健所で処分された敵などと供述。「政治的意図」とは程遠い不可解な思い込みゆえの犯罪だった。
なんだか、今回の流出事件も、いわいる「政治的意思」というより、個人的な職場への不満とか上司に対する鬱積を晴らすだとか、なんだかそんなような動機に思えてならない。
結果的に外交的無為無策に終始する無能政権に打撃を与え、国民の「知る権利」に貢献したカタチにはなったのだが、だからといってこの男性が本当に「ヒーロー」なのかはどうも釈然としない。
もっとも、「ヒーロー」なんて存在は時代が創り上げるのであって、本人の意思とはあまり関係がない。
「一人殺せば犯罪者だが、100万人殺せば英雄」なんて諺があるように、同じ犯罪にも拘わらず時代背景によって如何様にも解釈されるのだ。
だからこの流出男性も、自分の意に関係なしにこれから翻弄されていくのだろう。
この男性の「真意」なるものは知らない。
知る事が出来るのはメディアを通じた間接的情報だけである。
時の支配者にとって、この人物が「有用」と判断されれば「英雄」に祭り上げられようし、逆に「邪魔者」と判断されれば徹底的に貶められるだろう
かつてのように安易に「ヒーロー」を産む時代は去った。
様々な価値観が交錯する現代では、一元的なものの見方で物事は進まない。
一人の男が未来を築くなんていう事はもう「フィクション」の中にしか存在しないのだ。
庶民は飽きやすいから、この男性の事など数ヶ月もすれば忘れてしまうかも知れぬ。
状況からして時の支配者が、彼を英雄に祭りたてるとはとても思えぬ。むしろ消えて欲しい存在だろう。
だからいずれこの男性の「ヒーロー像」も様々な情報で穢されて尽く崩れ去る。
ギャンブルで借金があったとか、不祥事を重ねていたとか、ヲタクロリコン趣味だったとかね。
無論、それが「真実」である必要はない。
捜査当局が適当にでっち上げて、それをメディアが流布すればいいだけのこと。
本人にも「そういうこと」にしておけば最低限の生活は保障すると裏取引しておけばよいのだ。
で、彼は守秘義務違反で起訴され有罪。
見せしめとして実刑なるかもしれない。
すれば人々は幻滅し、この事件自体も忘却の彼方だ。
そんなシナリオがすでに用意されていそうで怖い。
だが、まあ世の中そんなものである。
これがきっかけで政変が起こるなどという状況はほぼありえない。己の綻びと失態を覆い隠し、責任を他に転嫁することにかけては才能を発揮する政権だからね。選挙も先だし。
更にこの先に何が待っているかは知らない。
彼を犯罪者に仕立て挙げたたところで「現実」を記した40分の動画が全世界に流布された事実はもはや覆い隠せないのだからね。
いずれにしろ、この凋落する日本では情報管理も守秘義務もずさんに崩れ去って、個人が勝手気ままに流出させ放題になっていることだけは解った。
国も組織も、それを押し留める事はもう出来ない。
終わりの始まりが、また一つ露呈しただけの事。
まあ、どうでもいいや。
今日も誰かが漫画喫茶で国家機密を流出せんと逡巡しているのかも。
2010年11月6日
地に堕ちたマスコミ
巷は尖閣諸島での中国漁船衝突ビデオ流出の話題で持ちきりのようだ。
こういった「特ダネ画像」は嘗てマスコミがこぞって狙っていたはずなのだが、今やそのような肝心要の画像はネットでしか見られない。
ふと思ったのだが、自分が子供の頃や学生時代までは「特別報道番組」というものが今より頻繁に流されていた気がする。
社会を揺るがす様々な事件に敏感に反応して、テレビや新聞は懸命にその実態を速報し追求していた。
ところが最近はそのような「特報」がまったく姿を消した。
社会から急報に値する重要な出来事がなくなるはずなどないのに、「特別報道番組」は姿を消す。
要するに伝えるべきニュースを敢えて「無視」するようになったのだ。
人権保護やらあらいる権利関係、利害関係が絡んでもはやテレビは公を映す「公器」ではなくなったのだ。
更にマスコミ自体が「安定企業」と化し、身の保全しか考えなくなった。
そんな地上波テレビに「ジャーナリズム」を期待するだけ無駄だろう。
今回の件にしても嘗てのマスコミならば、あらゆる手段を講じて関係者から「ビデオ」を入手し、いち早く国民の前に新聞
テレビを通じて「真実の映像」を白日の下に晒し、現政権の無能さを全国に告発したであろう。
ところが、今のマスコミに至ってはそんな「当たり前の取材活動」放棄し、ただ当局の流す「官報」だけをダラダラ流し続け、肝心の「ビデオ」はネットからの流出で知る有様。
これでは素人以下である。
もし、この国にまともな報道機関が存在していたならば、ビデオを入手した者の選択肢は迷うことなくテレビや新聞社だ。
だがこの日本に信用に値する報道機関など存在しないから公表の場をネットの動画サイトに選んだわけだ。途中で改竄される心配もないからね。
如何にマスコミ報道機関がまともな機能を果たしていないか、信用されていないか如実に物語っている。
マスコミは恥の上塗りのごとく、ネットユーザーと同じ視点、もしくはそれ以下のレベルで動画サイトに投稿された画像をそのまま流すしかなかった。
もはや今のマスコミに「報道機関」を名乗る資格はない。
かつてベトナム戦争の頃は、戦場カメラマンが活躍し、その写真を報道各社は挙って新聞、雑誌、テレビに掲載放映していた。
それが世論を動かし、時代を変えていったのだ。
それが真っ当なジャーナリズムというものじゃないのかな?
ところが今やマスコミは己の高給を維持せんがため、ジャーナリズムよりも「安定」を追い求め、愚にも付かないどうでもよいようなニュースでお茶を濁し、いつしか身の保全が目的となってしまった。
挙句、視聴者からは見放され、マスコミに対する信用度と期待感は凋落の一途を辿っている。
にも拘らず、未だメディアの雄の地位にあると勘違いしているマスコミは、ネットに嫉妬し醜態を晒し続ける。
今回の漁船衝突映像にしても、国民の殆どが今回の流出事件に「是」の声を挙げているのに、その国民の意に逆らって体制側に付き「御用報道」に終始するしか能がない。
なにせ己の「安定収入」が最大の目的になっちゃったからね。
挙句、「真実」の追求よりも、地に落ちた現政権と共にビデオを流出させた犯人探しのほうに狂奔する。
先刻、民放の報道番組を観ていたらコメンテーターがこんなことを言っていた。
「このビデオは都合のいいところだけを繋いでみせている。真実ではない可能性もある」
笑止千万。
編集改竄は堕ちたマスコミの専売特許だろう。少なくともネットに上げられた「流出ビデオ」の尺は40分近くある。それ
テレビ局が編集カットした縮小版とどちらが「都合がよい」のか?
ネットユーザーのほうは「無編集版」を見ているのだ。
信用されていないマスコミが幾ら咆えてももはや軍配は決まっている。
この期に及んで尚も「マスコミのほうが信用ある」などとのたまう姿は怒りを通り越して哀れさすら感じてしまう。
この現象は日本だけではなく、欧米でも同じらしい。
スキャンダルな「内部告発」画像はテレビや新聞などのマスコミではなく、スウェーデンに拠点がある特殊な機関に持ち込まれるそうだ。
「真実の追究」はもはやマスコミには出来ない。
今回の流出ビデオ事件は、如何に現マスメディアが信用に値しない存在に零落れたかを如実に証明したカタチとなった。
「真実」を追究しないマスコミに存在価値はない。
2010年11月5日
今年も入間航空祭
三日に行なわれた埼玉県狭山市にある航空自衛隊入間基地の航空祭。
今年も足繁く出かけてみる。
好天に恵まれたため、例によって凄い人だ。天気予報では寒くなるとのことだったのだが日差しが強く、杞憂に終わる。
入場がただと言うこともあり、不況とかはあまり関係がない。入り口で手荷物検査。これがネックでなかなか進まず。
踏み切りを渡るのも一苦労。
毎年、同じルーティンで見て回っているので目新しさは殆どないのだが、要するに年中行事で自分に課した義務みたいなものか。
脚立持ち込み禁止とかレジャーシートの時間制限などで少しづつ雰囲気は変わりつつある。
やはり年齢層が高くなってきているような。マニアも年配者。
子供はゲーム機をカメラ代わりにしていた。脚立がなくなった分、肩車が目立つ。中国語も耳にする。
相変わらず最前列は殺伐。本来なら避けたい場所だがベストショットを撮りたい欲望で足が前へ運ぶ。
カメラを掲げて頭越しにシャッターを切る。撮ったら一目散に退散だ。
ブルーインパルスが飛ぶ時間帯が近づくにつれ会場中央は猛烈に混むので例年は端の管制塔辺りに行くのだが、今回は都合
その混雑の真っ只中に入ってしまった。
いつもはずっとエプロンに留まっているのだが、敢えて売店を巡ってみる。例年帰路につく頃は閉店しているのでちょっと早めに覗いてみる。
といってもここも身動き取れぬほど混んでいる訳で大して回れず。とりあえずブルーインパルス50周年のパッチ1500円とサイボクハムのブースで温泉フランクフルト200円。
まあそんなもの。
今回は在日米軍は来ておらず自衛隊のみ。
再びエプロンにもどり、ブルーの帰投を見送って16時頃、基地を後にする。案外この時間帯に帰ったほうが比較的楽。帰
混雑のピークはブルーインパルス演技後だ。
撮った写真は300枚位か?
一眼レフデジカメはCCDにゴミが付きやすく処理が面倒。今回前日にクリーニングしてもらおうとペンタックスフォーラムに行こうと思ったが生憎火曜が定休日。
ゴミ付いたままで撮影を余儀なくされる。後のレタッチ作業が大変だ。
因みに今回の入間航空祭来場者は28万人で過去最高の人出だったとか。
吃驚だ。
取りあえず今年も無事ルーティン完了。
2010年11月2日
もはやこれは外交ではなく「お笑い」である
ニュースを見ていると何やらまた日本の外交失策が物笑いのネタになっているようだ。
北方領土にロシアの大統領が上陸して日本の主権が侵害され云々。
今更日本の現政権にまともな外交手腕など誰も期待していないので、今度はどんな「失態」を演じてくれるのかと興味深々だったのだが、どうやら駐ロ大使を帰国させるらしい。
これが「対抗処置」なんだそうだ。
まったくもって「無能な働き者」の面目躍如といったところか?
尖閣諸島における中国との領土問題でイニシアティブを奪われる原因を作っただけでは収まらず、今度はロシアにまで浸け込まれそうな愚策に飛びつくこの外相の思考回路はどうなっているのかね。
駐ロ大使を帰国させたところで北方領土交渉が上手く行くなどと思う者は誰一人としていない。
逆にサハリンの天然ガスエネルギーの共同開発を反故にされる可能性だってある。
そんな事になれば、中国はここぞとばかりにそのサハリン天然ガス資源の権益を日本に代わって奪いに来るだろう。
ロシアにとっては取引先が変わるだけで痛くも痒くもないが、日本にとってはレアアースに続き、戦略物資の供給源を失うという大失策になる。
もしかしてこの流れは最初から織り込み済みだったのかも。
こんな馬鹿でも解る「安っぽい罠」に何の疑いもなくサクサク入っていくこの外相と、それを容認する現政権の宰相、閣僚は脳がスポンジか何かで出来ているのだろうか?
あるいは日本を滅ぼすためのに中国とロシアが作成した亡国計画を忠実に実践しているのだろうか?
むしろそう考えれば合点がいくのだがそうでもないらしい。
どうやら本気でこれが日本の国益を考えての最善の策と信じてやっている気配だ。
まさに「無能な働き者」の典型を、今この瞬間に日本人は目撃している訳だね。
例えれば縁側でアマチュア棋士がへぼ将棋を打っているのごとき光景である。
試合開始から2,3手で王手を詰まれるような稚拙な駒運びを何の疑いもなく進めているから、将棋の相手も笑いが止まらない。
というか、逆に気の毒がられているんじゃないか?
こんなふうに。
「おいおい。あんた本気でこんな手で戦うの?素人にも程があるよ。ホントにいいの?全部獲っちゃうよ?頂いちゃいまよ
あらら、もう王手だよ?いいの?外交に待ったなんてないんだからね?
本気?あんた将棋のルールって知ってんの?ああ知っててこの手を使うの?
はあ・・。まあ、それならお言葉に甘えて。
王手!勝負アリ!
え!なに?ここは日本固有の領土だって?
何言ってんだ?お前?
王獲られたらもう勝負終わってんの。お前の負けで俺の勝ち。
実効支配したら勝ちなの。お前、もしかしてルール知らないで外交やってるだろ。よくそれで一国を司る職につけたな。
お前の国は外交にド素人を選ぶんだなあ。こりゃびっくり。ご愁傷様。
お気の毒というか、まあおめでたいね。
さあ、負けたんだからさっさとそこどいて立ち去りな!
ぐだぐだ言ってると張り倒すぞ!
それともやるのか?おまえんとこ大した武器も持ってないんだろ?おまえの用心棒も愛想尽かしてるって言うしな。
やってもいいんだぞ!え?どうした?
ボコボコにされたくなきゃ、さっさと身包み剥いで土下座しろや」
まあ、今の日本外交を端的に言えばこんな感じか。
素人というよりも、自分から地雷原に突っ込んでいくメクラの狂人のごときで、日本人でなければゲラゲラ笑っているところであるが、これが自分の国の外交当事者なんだからそうもいかない。
今の日本はカンボジアクメールルージュ・ポルポト政権末期の如く、空理空論のキチガイ夢想政策で国家を弱体化させた挙句、四方八方から侵略されて亡国の危機に晒されているのと同じ。
よく観て見よ。現政権の面々を。
「文化大革命」を礼賛する官房長官に中学校学級委員長レベルの宰相。反日運動家の公安委員長に紅衛兵気取りで事業仕分けというオナニーに狂奔する元クラリオンガール。更にはメクラめっぽう行き当たりばったりの愚策に走って自画自賛の外相。
こんな「ポルポト」政権日本版みたいな狂人たちが、今の日本の舵取りをしている事実を知ると改めて驚愕してしまう。
逆に中国、ロシア、韓国からすればこれ程「食いもの」にしやすい国もあるまい。
今の日本なら小学生低学年レベルの子供にだって3日で滅ぼせる。
「三日で奪おう小日本」というゲームが出来るかも。
残念ながらあまりにも簡単にクリア出来るからクソゲー入り。
もはやこれは外交ではなく「お笑い」である。
それも「お笑い」の自覚がない気の毒な人たちの戯曲だ。
つかこうへいも寺山修二も、ここまで哀れで滑稽な戯曲は書けまい。
まさに「真実は小説よりも奇なり」である。
だが、こんな馬鹿げた戯曲に付き合わされる国民はたまったものではない。
そのうち、中国やロシアにいいように食い物にされ完全に国家主権を奪われそうになった時点でこの「戯曲」の役者共はこぞって日本から逃亡を図るだろう。
こんな連中を持ち上げて日本を災難に導いたマスコミ関係者とともに、羽田空港国際線ターミナルから深夜にトンズラである。
中ソの奴隷にされた国民など省みもしまい。
逃亡先で連中はこう呟くのだ。
「俺たちを国民の代表に選んだのはおまえら国民自身だ。自業自得だよ。中国やロシアの奴隷になったのはお前たち国民が選択した事なんだ。お前らがどうなろうと知った事か!」
そしてハワイのビーチで子飼いのマスコミ連中が手土産で連れてきたAKB48や「嵐」と一緒に乱痴気騒ぎでも繰り広げるのだろう。
「きゃっほきゃっほ」叫びながらね。
元クラリオンガールなんかは「嵐」のメンバーと毎晩乱交パーティーだ。
この程度が関の山である。
もう、いまさらどうしようもない。
この国民にしてこの政治家である。
こんな未来が嫌なら、志ある陸海空自衛隊将兵諸君と共に立って憂国臨時政権を樹立することから始めなければいけないだろう。
しかし、そんなクーデターを起こせる程の勇者がこの国に居るとは思えない。
亡国政治家に代わってこの国を司れる者が存在するとしたら、もしかすると日本人ではないかもしれないなあ。
どっかの自動車企業のように欧米から経営者を呼んで会社を立て直したように、日本の宰相も外国から招聘するしかあるまい。
元々、この日本だって主権国家となったルーツは大陸から日本列島という辺境に派遣された軍人がヤマト王朝を名乗って独立したという説もあるし、いっそ侵略されたほうがいいんじゃないか?
優秀な軍人が日本にやってきて新たな国家建設に覚醒し、母国である中国、ロシアと戦い、独立を勝ち取るという構図も面白い。
いずれにしろ、無能世襲で固めた現政権よりもずっと救いがある。
だいたい世襲ハトポッポやモデル上がりに国を任せていること自体が異常なのだ。
国家の長の地位につけるのは闘争に勝ち残った者だけである。
「きちがい三文役者」が演ずる亡国戯曲にはもううんざりだ。
「無能な働き者」には退場願いたい。
2010年10月30日
ゼロ円人間
先日、デジカメで撮った写真を初めてネットプリントでオーダーしてみた。
一般のDPE店で注文するとLサイズで1枚35円〜30円するものが1枚5円でプリント出来る。
注文物がまだ届いていないのでクオリティーは定かでないがそれにしても安い。
DPE店の7分の1の価格である。
作画用の資料であるので品質はさほど問う必要もなくこれは得である。
これまで知らなかったほうがおかしいのかもしれない。
最近はデジカメ画像をプリントすらしない人も多いという。
スマートフォンなどの携帯型ディスプレー内で閲覧しやすくなったのもその理由だろう。
しかしデジカメ画像はやはり一旦プリントアウトして整理しないと資料として成り立たない。
パソコンのディスプレイ上では同時に複数をランダムに比較したり、何枚も並列に並べて直感的に入れ替えたりして作画の参考にするのは難しい。
更には一見無駄に見えるピンボケ画像だったとしても漫画のシーンには使えたりするから侮れない。
だからどんな詰まらなそうなショットでもとりあえず出力しておく。
そのために1枚35円の費用をかけてプリントするのはかなり負担だった。
自宅のプリンターで出力する方法もあるが、インク代が高いので意外にコストパフォーマンスは悪い。」
だから1枚5円のネットプリントは非常に助かる。
世の中にはいろんな価格差のある商品があるが、全然安くならないものもある。
たとえば、年金とか健康保険はデフレにも拘わらず支払う金額は昔からそれ程変化がない。
相対的に重い負担になってくる。
あと、飲食費。ミーティングなどで会食すると割り勘でも吃驚するほど高い時がある。
いや、実際そんな高くはないのだがデフレで物価が下がっているから比較すると高額に感じてしまうのだ。
安いコーヒーショップで済ませば300円程度でなんとか収まるのに、ちょっと高い居酒屋なんか行くと1回で5000円位簡単に飛ぶ。
しかし、付き合いは疎かに出来ないからこれは「必要経費」として不可欠な出費だ。
普通の勤め人であれば差ほど負担になる金額ではあるまい。
これが負担に思うようになったらおしまいだ。
これ位の出費がきつく思えて外出や付き合いを控えるようになったらますます仕事の機会を失い、「負のスパイラル」に巻き込まれよう。
先日、伊集院のラジオで聞いたが「0円居酒屋」というものが存在するとか。
ドリンクはタダで料理で収益をあげるらしい。
確かに給料や仕事が増えるどころか下がってくる時代に旧態依然とした料金体勢の飲食店では財布が持たない。
売れない自由業なんて尚更だ。
かといって、家に篭っている訳にもいかないから出来るだけ出費を抑えつつ飲食の場を確保するというのは普通の成り行き。
それでも飲食費用ゼロには出来ない。すべてをお金の掛からないネットに依存したらそれは社会生活を放棄することになる。
人間自身が質量のある存在なのだからね。
人間髭も爪も伸びるし髪も伸びる。いつかは切らないと限界が来る。
髭と爪は自分で何とかなろうが髪を切るのはお金が掛かる。鋏で適当に切る訳にもいかないし。
電源を切ればお終いという訳にはいかないのである。
人間とは実にメンドクサイ。
「ゼロ円人間」に成れればどんなに楽か。
2010年10月27日
セイタカアワダチソウの黄色い花
先日、多摩川を渡る橋から河川敷を眺めると、黄色い花がやたら目立っていた。
あの植物は何だろうと調べてみるとどうやらセイタカアワダチソウらしい。
戦後、空き地などに猛烈に繁殖した外来植物だ。進駐軍の物資に付着して日本中に広まったらしい。
一時期は数メートルにまで成長するほどの勢いがあったらしいが、最近はそれ程でもないとか。
どうやらセイタカアワダチソウに適した地下の養分を殆ど使い果たしてしまったのが原因とか。
嘗て日本の原野や耕作地に普遍的に居たモグラやネズミが溜め込んだ養分はセイタカアワダチソウにとって最適だったらしく、それが日本での大繁殖に繋がったんだそうである。
しかしそのモグラやネズミが駆除されたため、養分が補給されず、必然的にセイタカアワダチソウの勢力も衰えていったらしい。
昨今、外来種による固有種の危機が叫ばれて国際会議も開かれている。
人間が経済活動などで持ち込んだものが、その土地に適応し繁殖して、旧来からある固有種のテリトリーを脅かしたり、捕食されたり、また交雑によって絶滅の危機に瀕しているという。
生物多様性が失われる事は地球生物圏の危機であると。
だが、セイタカアワダチソウの大群を見て思うに、これはいわいる弱肉強食という生物進化の必然であって、何人もその「掟」を止めることは出来ないのではないのかと。
人間が持ち込んだというが、人間だって「自然」の一部なのであり、人間活動を利用して勢力を広げようとする生物の知恵もまた「自然」な営みの一つだ。
外来生物を駆除するといっても、そもそもこの日本列島に限って考えても、大半の動植物は過去、海外から侵入してきた生物だ。
日本人自身もまた「渡来人」として縄文人しかいなかった土地に侵入して弥生人となり農耕を始めて、この列島に「文明」を築いていったのだ。
極端な話、もし縄文人が純粋な「日本人」であるならばその「固有種」を守るために「渡来人」を駆除しなければならなくなる。
果たしてこれが正しい行いなのか?
仮にそれを実践したとして、未来永劫、縄文人の血統と文化が守られたとしてもこの2010年になってもなお、日本列島には数万程度の縄文人が狩りと狩猟で生き延びているだけだ。
1億何千万もの人間が科学技術を駆使して近代文明を築き営む未来は永遠に訪れなかったろう。
縄文人と渡来人が交配し、より進化したからこそ、今の日本が存在する事実は否定出来まい。
生物の進化なるものは単純な過程では説明し得ない。
かつてこの地球では何回も生物大絶滅が繰り返されてきた。9割方の生物種が絶滅した事すらあった。
しかしその度に、生物は新しい革新的な構造を手にして新たな進化を獲得していったのだ。
だから今日の人間活動における「大絶滅」ももしかすると次の新たなる進化のための「序章」なのかも知れぬ。
セイタカアワダチソウは、一時期は在来種を追いやって一大勢力を有したが、その武器であった他種を抑制する分泌物で自ら「自家中毒」になったり、養分の枯渇で次第にテリトリーを失いつつあるという。
逆にセイタカアワダチソウの枯れた苗床を利用し旧来のススキなどが勢力を盛り返しているとか。
「進化の行き着くところは自滅だ」とどこかのアニメの台詞にもあったが、幾ら大繁殖しようとその単一性ゆえに病気に弱くなり、一気に滅びたりするのが「生き物の掟」なのだ。
固有種を守るということは、同時にその脆弱性を放置するという事だ。
在来種と外来種が交配し、より新しく強い存在が生き残る。
その「掟」に逆らう事は決して出来ない。
セイタカアワダチソウのギトギトした黄色い花はその異常なまでの生存能力を誇示しているかのようだ。
放棄された耕作地、洪水で荒れ果てた河川敷、地上げされた更地。
そんな在来種が刈り取られた「忌まわしい死の土地」に彼らは必ずといってよいほど貪欲に侵入し、おぞましいほどの「帝国」を築き上げた。
彼らは言う。
「お前らが破壊した無残な大地に進出して何が悪い。お前らの破壊が我らの大繁栄を生んだのだ!
見よ!この黄色い華はお前ら日本人の恥の色だ!ぐへへへへ」
しかし、そんなセイタカアワダチソウもいずれは在来種との「生存のための闘争」の末、その身体を放棄し進化のためにメタモルフォーゼを選択する運命が待っている。
数百年後、この多摩川河川敷には見たこともない新たな植物相が出現しているだろう。
「ナウシカ」に出てきた「腐海」のようにね。
その時「日本人」は存在しているだろうか?
2010年10月25日
ウォークマンと日本シリーズ
ニュースでソニーウォークマンのカセットテープ再生機型がこの4月で生産を終了したことを知る。
ちょうど自分が学生時代の1979年に発売が開始されたウォークマン。
サークルの学友が買って来て、皆から羨望の眼差しを受けていた記憶がある。
あの軽いヘッドフォーンも画期的で魅力的だった。当時はまだCDも普及しておらず、もっぱらFMエアチェックや貸しレコード店からレンタルしてきたアナログレコードよりダビングしてカセットテレコで楽曲を楽しんでいた。それが携帯型になり屋外でも聴取出来るようになった。
要するに現在スタンダードな携帯音楽末端の先駆けがウォークマンだったのだ。
当時、流行ったユーミンとかオフコースなんかをC46テープで録音していた自分もいつかはウォークマンを買う予定でいて、それは今でも構想にあったのだ。
が気が付けば30年余。
購入を躊躇するうちに生産が終わってしまった。
自分の中では今でもアナログカセット式ウォークマンは「最新型レコーダー」であり続けている。
実は、今尚、ラジオや音楽はアナログカセットテープに録音する環境しかない。
DATもMDもついに購入する事はなかった。パソコンで音楽をダウンロード保存する事も殆どやっていない。
結局、若い頃から使い慣れたアナログカセットから脱却するタイミングが得られないまま、ここまで来てしまったのだ。とりあえず今でもアナログカセットは安く入手出来るし(C90タイプ10本で1000円程度)、デッキもとり合えず生産販売し続けられている。
そんなだからアナログカセット式ウォークマンが生産終了と聞いてもピンと来ない。
アイポッド等は自分にとって「世界」が違うのだろう。メモリーの中に大量の楽曲を保存できるからコストパフォーマンス
こちらのほうがずっと優れているのだが、もう新しいものを受け入れる行動力が錆付いて如何ともしがたい。
アイフォーンやアイパッドを所有し、それを駆使している知り合いなど見ていると、遂に自分も時代遅れな存在になってしまったとつくづく思う。
ナビゲーターや情報収集のみならず、自分の作品閲覧や紹介もそんな携帯情報末端で処理できるから、営業にも役に立つ。クリエーターには必須アイテムだろう。
このような機器を駆使出来ずに「世代が違うから」等と逃避していると本当に取り残されてしまう。
だからアイフォーンに使い慣れている若い女性のほうが情報にも長けているから、たとえばミーティングの折、街中でお店を探すとかの場合はそんな年端も行かない若い女性の後をついていくしかなく惨めな思いをする。
これらの機器に疎い年長男子は「役立たず」となってしまい、ただの「お荷物」なのだ。
単に長く生きているだけの木偶の坊として恥を晒すだけ。
にも拘らず、未だアナログカセットに依存するしかない自分のような存在はすでに「生きた化石」。
気が付けば絶滅危惧種だ。
もう一つ気になったニュースがあった。
それはプロ野球「日本シリーズ」が地上波テレビで放映されない可能性があるという情報。
プロスポーツでは日本大衆の人気ナンバーワンを昭和時代からずっと誇ってきた日本プロ野球。
多少の人気浮き沈みはあったものの「日本シリーズ」はテレビスポーツ中継コンテンツとしては欠かせない存在だったはずだ。
「巨人大鵬玉子焼き」と謳われた巨人V9時代と比べるのは些か無理があるとしても、今尚、クライマックスシリーズでの観客動員は毎試合満員に近く、これに比類するプロスポーツは思い当たらない
そもそもなぜクライマックスシリーズが地上波テレビで中継されないのか?
その理由もよく解らない。
プロ野球の視聴率が下がっているとはいえ、ペナントレース終盤の覇権争いを無視するテレビ局の姿勢が意味不明。
歪な放送権料とかが影響しているのだろうが、それにしても「日本シリーズ」に取って代わるコンテンツがあるとは思えない。
この時期に「日本シリーズ」抜きに何を放映するというのだろう
かつては「日本シリーズ」の結果で巷の話題が盛り上がっていたのに、地上波テレビで放映しなくなったら「日本シリーズ」の存在自体が無いに等しくなる。
普段、地上波テレビを見なくなった者も「日本シリーズ」位はチャンネルを合わせようと考えるのではないか?
そんな視聴者も切り捨てて、地上波テレビは何をやりたいのか?
愚にも付かない「ガールズトーク」や可も不可もない人畜無害な「芸人トーク」のほうを「日本シリーズ」よりも優先するというのであれば、もう地上波テレビにチャンネルを合わせる意味など微塵もないだろう。
カセットテープがデジタル音楽記憶末端にとって変わる理由は理解できるが、地上波テレビが「日本シリーズ」を切り捨てる理由のほうは皆目理解し難い。
というか、地上波テレビ自体がアナログカセットテープ並の「絶滅危惧種」と成り果てて、視聴者から見捨てられつつあるような気がする。
ただし、アナログカセットには「希少性」という価値があるが、地上波テレビに「残された価値」があるとは思えない。
もう天気予報と地震速報以外にチャンネルを合わせる動機付けが見当たらないのだ。
いっそ「砂の嵐」状態で放置すれば如何か?制作費もかからずお得と思うが。
ただデジタル化すると「砂の嵐」ではなくて「ブルースクリーン」になるのか?
どっちにしろ同じ事だ。
「いつかはウォークマン」と考えていたのにカセットテープウォークマンはなくなり、地上波テレビからは「日本シリーズ」がなくなる。
時代は移り変わるが、自分の中は旧態依然のままだ。
こうなったら、アナログカセットに「日本シリーズ」を録音してやろうか。1980年代の「日本シリーズ」はよくこうして録音したものだ。
まさに「ナウい」ね。
2010年10月21日
「山ガール」から「デモガール」へ
先日、テレビで中国の経済急成長の事をやっていて、過剰投資の末、人の住まない巨大ゴーストタウンがあちこちに出来ているとか。
日本のバブル期を二桁ぐらいスケールアップしたような規模での経済拡大。
貧富の差も激しいが、職に就けない大卒者の「捌け口」はちゃんと確保されているから、日本よりも恵まれている。
その「捌け口」とは「反日デモ」であって、「反日」を叫べば、どんな暴虐を働いても当局に捕まる事はない。
ある意味、「貧者の幸せ」である。これも一つの「精神的福祉」だ。
金持ちは、投資に熱を上げ、貧者は「反日」に明け暮れる。中国のエネルギーというものはこの両輪で確保されているのであり、今や誰も止める事は出来ない。
その一方で、この日本は救いがたき衰退と無責任に塗れた中で、どん底に沈まんとしている。
円高で貿易産業は壊滅、企業や投資は海外へ逃げ、経済は下落に下落を重ねる。外交防衛も無為無策の体たらく、政治は噴飯レベルの無能であらいる外圧に腰砕けだ。国民も国民で生活保護者が急増。鬱積する不満を訴えようとデモをしてもメディアは一切伝えない。
これだけ中国から袋叩きにあっているというのに、テレビに映るのはへらへらした知的障害か痴呆と紛う偽政者と既得権者の薄ら笑いだ。
近いうちに、中国は日本を抜いて経済大国に躍り出んとする中、何の危機感も対応策もなく徘徊するだけのこの国に「存在価値」なんてあるのか?
中国の経済バブルがもうすぐ弾けるという者もいるが、仮にそうなったとしても日本のように「失われた20年」になろうはずはない。
中国は核武装国。経済がダメなら軍事力がある。
経済崩壊すれば軍事力を行使して隣国に押し入ればいいだけのこと。
そのよいカモが日本という訳だ。
メディア曰く「中国の反日デモは中国人の中に鬱積する不満のガス抜き。中国当局はその不満が自分たちに向かぬようコントロールしている」などと他国の事はしつこい位に伝えるが、日本の中に「不満」はないというのか?その「不満」が日本の行政当局に向かわないとでも思っているのか?
中国人はその鬱積した不満を反日デモで昇華し、中国政府も「その行動は理解できる」とお墨付けする。
が、日本の場合は同じ鬱積した不満を反中デモで表現しても、マスコミも政府も「なかったこと」として処理する。
いったいどちらが全体主義で、「表現の自由」がある国なのか?
中国の反日デモは当局が誘導している「官製デモ」との噂だが、たとえそうだとしても向こうの中国若人の生き生きした「反日行動」は清清しい。
自分たちの存在をこの世界に証明出来る喜びを分かち合えるのだから。
ところが同じく日本の憂う若人たちの行動はテレビも新聞も政府も「なかったこと」にしてこの憤懣やるかたないエネルギーを冒涜する。
そんなことを重ねていては、やがてマスコミ、政治に対する憎悪が充満し、一気に爆発することも覚悟しておいたほうがよい。
中国ではなく、日本でだ!
よく耳をかっぽじいて聞いておけ!仙谷!
日本の首相よ。一言「反中デモに参加している若人の諸君の気持ちはよく理解できる」位のこと言ってみろ。
このエネルギーを無視し続けていれば、必ずや近い将来、この偽政者とメディアに鉄槌が下る日が来るであろう。
いずれにせよ、自然発生的「反中デモ」は今後どんどん広がりを見せてもらいたいものだ。
どっちにしろ膨張する中国に対して「声」を挙げないままでは「奴隷化」されても文句は言えまい。
そんな「声」を従来の参加者だけではなく、これまで政治に無関心だった者たちにも広げていかねばならない。
その最大のターゲットが日本の若い婦女子層だ。
そのための有効な秘策がある。
題して「デモガール」キャンペーンである。
ファッション雑誌や業界がその総力を挙げて「おしゃれなデモガールファッション」キャンペーンを繰り広げるのだ。
かつて、若い女性が誰も見向きもしなかった山歩き。しかし「山ガールキャンペーン」によって様相は一変。山には大挙して「山ガール」が殺到するようになった。
それと同じく、「デモ」もオシャレにかわいく着飾れば楽しく参加できるよ!と呼びかけるのである。
デモ用ジャケットやスカート、日の丸をあしらったリボンなどでかわいくコーディネート。それをハチ公前の集会で見た渋
ガールが「かわいい!私も参加するう」となれば、デモの規模は鼠算式に膨らむであろう。
「デモガールキャンペーン」キャッチコピーはこんな感じになる。
『あなたもこれでオシャレな国粋少女。尖閣は日本の固有の領土よ!って叫んだら噂の彼氏からも注目度アップ』
『ココロの中からキレイになる。アイコクシンはハートの基礎化粧品。日の丸振ってココロをキレイに』
『キュートな日の丸リボンに迷彩ジャケット。代々木公園シュプレヒコール。これであなたも一人前な反仙谷系ガール』
『巨大日の丸青空に掲げて2kg減量大作戦。日本も核武装して防衛力スリムアップ!賢いダイエットの名はICBM』
『あの子と差をつける日の丸鉢巻。ぎゅっと結んで尖閣死守よ。モロトフカクテルを第四機動隊に投げつけてヤマト撫子ここにあり!』
キャンペーンのラフスケッチも描いてみた。
このようなキャンペーンを大々的に展開すれば毎週10万人の婦女子が反中デモに集結するだろう。
「かわいい」が世界共通語と成らんとしている今日、この力を今、愛国に使わずしていつ使うのだ(クシャナ調)!
これが賢い愛国戦略である。
いつの時代にも婦女子を扇動出来た者がこの世を制すのだ。
さすれば、政治もマスコミもこのエネルギッシュな「魂の叫び」を無視することは出来なくなる。何十万もの婦女子が渋谷や霞ヶ関を囲めば、国は動かざるを得ない。
これが日本を救う第一歩となろう。
中国は妥協しない。
必ずや近い将来、日本の奴隷化を画策するであろう。
その時、日本の婦女子は中国の若い餓えた男達の慰みモノとして、毎日ワンワンスタイルで「ご奉仕」させられるのだ。
最大の被害者は婦女子自身であることをしかと心得るべき。
ならば今からその難局に備え、祖国を守るキャンペーンに参加すべきなのだ。
無粋な「反中デモ」から「かわいいオシャレ」な「反中デモ」へ。
中国の「反日デモ」も一種のオシャレ流行みたいのもの。ならば日本の「反中デモ」も「かわいい」ファッションで対抗してやればいいのだ。
ナチスの制服だってオシャレだったからこそ国民が扇動出来た。
野暮ったい格好では誰もついては来ない。
政治家も国民も「新しい時代」がやってきたことを自覚させるべく、日本婦女子を覚醒させるのだ。
少しは頭を使うべし。
「デモガール」万歳!
2010年10月17日
映画『カイジ』を観
週末の地上波テレビで放映していた映画。たしか『カイジ』とかいう作品。
特に観たかった訳ではない。単にテレビを灯したら目に飛び込んで来ただけ。それも途中からだ。
原作は知らないし、この作品がどんな評価をされているかも解らない。アニメでチラッと観た記憶があるだけ。
だが、それでもなんとなく見入ってしまったのはこんなシーンがあったから。
「人生の負け組」な男たちが起死回生のために唯一選択できる道は、高層ビルに掛かる一本の鉄骨を渡りきる事。
このゲームの胴元みたいな男が言う。
「日々、努力もしないで自堕落な生き方をしてきた男が底辺から這い上がるには、一か八かの命懸けのギャンブルに身を投じるしかないのだ!」
もはや、退路を絶たれた「負け組」男たちは遮二無二その「賭け」に挑むが、結局道半ばで落下し死んでいく。
そうだ。
「人生の敗北者」というのは、こうして二者択一を迫られるような状況に追い込まれる時点で終わっているのだ。
貴族でもない平民が真っ当な人生を歩みたければ日々の地道な努力を積み重ねることのみが最低限の生活を保障できる唯一の道。
自堕落な人間は底辺に堕ちて日々危険と隣り合わせの、それも薄給の中、貧困と病と不安と絶望に塗れ惨めな死を迎えなければならない。
一発逆転の人生など万に一つの可能性もない。
真っ当な生き方をした者が報われない事もあるが、それは例外というものだ
不運な事故に巻き込まれる確率は、宝くじと同じ。
そんな天文学的な「不運」は極めて稀だ。
それと同じ確率の「賭け」で人生一発逆転を目論む事自体、空しい。
「自堕落人間」「人生の敗北者」にはそんな「幸運」など訪れはしない。
むしろやってくるのは「不運」のほうだ。
「貧すれば鈍す」の諺どおり、「不運」は常に「人生の敗北者」に付きまとう。
幸運は「勝者」にしか微笑まないと相場が決まっている。
昔、タカラの「人生ゲーム」というボードゲームがあった。「上がり」直前で持ち金の足りぬプレーヤーは最後に全財産をルーレットに託してサイコロを振る。だが大抵はその「賭け」に負けて「貧乏農場」行きだ。
一度たりとも勝った例はない。
そんな一か八かの「賭け」に頼る時点で、もうお終いなのだ。
「負け組み」はいつの世も一本の鉄骨の上から断末魔の様相で遥か地上にまっさかさまの最後しか待っていない。
このシーンはまるで己の近未来を見るようで失禁しそうになる。
恐ろしい!
そう。「人生の敗北者」になりたくなければ、日々こつこつと積み重ねた「質量」ある何かを「武器」にして人生を勝ち抜いていかねばならない。
一発逆転などという万に一つの可能性に頼った時点でおしまいだ。
そんな「袋小路」に追い込まれないためには、若い頃から這い蹲って己にしか出来ない「何か」の積み重ねに活路を見出す他ない。
それが、牛乳瓶の蓋であろうと、自分の垢のコレクションであろうと、日々の膨大な蓄積がもしかすると「宝の山」に化ける。
なぜならそのような「蓄積」は誰もマネが出来ぬ「唯一無二の希少価値」を生むからだ。
誰かが一朝一夕にして為しえない事が「財産」となって己を「人生の勝者」に導く。
己の人生を時の運に賭けることなく「底辺」から抜け出るには、どんな馬鹿げたものでも幼少の頃から継続し続けた「何か」を武器として己を救うしかない。
しかし、中年期を過ぎた「人生の敗北者」にとって、そんな「蓄積」は微塵もなかろう。
もし、そんなものが己に手に残っておれば、とっくの遠に惨めな「底辺」から抜け出している事だろう。
「人生の敗北者」はどこまでいっても「敗北」から逃れる事は出来ない。
「貧すれば鈍す」
人生とは何と非情なものか。
だが、今やこの日本に蠢く男達の大半は「人生の敗北者」に成り下がっている。
未来に託せる「財産」などなにもないのだ。
この「枠組み」の中では一生うだつが上がらない。
そこで男たちは想う。
それは自分が悪いのではなく「世の中」が悪いからだ!と。
己が不幸なのは、そんな「世の中」を牛耳る「敵」が居るからだ!とね。
その「敵」を倒さない限り、己の人生に「光」があたることはない!
だから「敵」!「敵」を倒すのだ!
世間から見捨てられた者はこうしてナショナリズムに走り、この世界の秩序を一変させようと試みる。
「敗北者」は「光」を求め、己の敵を外に見出す。
やがてそれは戦争を呼び、彼らは自ら戦場へ馳せ参じ、原野や海原に死屍累々を重ねる。
結局、気が付かぬうちに彼らは一本の鉄骨の上を歩かされていると同じ運命を強いられていたのだ。
微笑むのはこの「人生ゲーム」の胴元たる「人生の勝利者」たち。
人の魂を己の私腹を肥やす道具に為せるのはいつの世も「人生の勝利者」であって、利用されるのは常に「人生の敗北者」なのだ。
そういえば、こんな台詞もあったな。
「命を粗末に扱うなというが、大切に扱うと魂が腐る。粗末に扱ってこそ魂は精錬され輝くのだ!」
そんな口車に乗せられて「人生の敗北者」たちは「胴元」にいいように利用されてしまうのだ。
だが、この死の「人生ゲーム」から逃れる事は誰も出来ない。
たとえ利用されていると解っていても戦わざるを得ないのだ。
日本中の絶望独身男性たる「人生の敗北者」は、いつしか自ら「死の鉄骨渡り」に志願して、断末魔の叫びを上げつつ、絶望の死の谷へとまっさかさまに堕ちていく宿命なのだ。
こんなふうに。
「堕ちる!堕ちる!こんなことならヒキコモリやっていたほうがよかったよう!」
「押すな!堕ちる!押すな!堕ちるう!戦争なんかで死にたくない!でももう後戻り出来ない!畜生!奴ら俺たちを嵌めやがったな!さっさと核武装しときゃあこんな思いはしなかったんだあ!ああ!堕ちるうう!!」
「誰か助けてくれえ!一兵卒は辛いよう!人生の敗北者はどこまで行っても負け続けるんだああ!ぎゃああ!!」
こうして誰一人例外なく全員が死ぬ!
死ぬのだ!!
他に選択肢はない。
惨めな死か、悲惨な死か。その差にたいした意味はない。どっちみち「人生の敗北者」は哀れに死ぬのである。
一発逆転など、万に一つの可能性など存在しない。
運命は胴元たる「人生の勝利者」の手に握られているのだからね。
「人生の敗北者」が賭けに勝つのはフィクションの中だけだ。
恐ろしい。
2010年10月9日
初音ミク楽曲『火葬場くん』も動画サイトアップ
引き続き、あびゅうきょ工房企画の初音ミク楽曲動画サイトご案内。
先日投稿した2010年8月リリース自主制作CD「波の数だけAIR CHECK with 初音ミク」【http://www.nicovideo.jp/watch/nm12330449】のカップリング曲『火葬場くん』もニコニコ動画にアップしてみた。
http://www.nicovideo.jp/watch/nm12372168
作詞、作曲はゆーま氏(某CFM深夜番組DJ)。
この曲は作詞も氏の担当。
私の著作からイメージしていただいたシュールな楽曲に仕上がっている。
短い曲なのでボーカロイド楽曲募集のところにも同時にアップした。
今回は規定内の長さなので削除される事はないと思うが。
http://www.nicovideo.jp/watch/nm12373063
因みに『火葬場くん』の動画に使用する静止画は改めて描き下ろした作品である。
彩色前と彩色後のイラストを並べてみた。
但し、動画サイト上ではエンコードされてしまうのか、低解像度になり、かなり荒くなるのが残念。
高解像度のままアップする方法もあるようだが、流石にそこまで手が回らない。
ここ数日は動画サイトの投稿方法などで諸々試行錯誤していた。
思うに、投稿するタイミングとかその他諸々の条件で、同じ動画でも再生数が全然異なるような気がする。
先日、自分がアップしたものも、最初の時は数時間で達した再生数が、2回目の時は数日経過してもその半分にも満たなかったりする。
やがては時の経過と共に桁違いの差を生むのだろう。まさに雲泥の差だ。
これに拘わらずタイミングというのは実に大切なんだろうと思う。」
いずれにせよ、今回の動画もよろしくの程を。
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