2010年4月・5月・6月

ブログもあります。ブログの方が早く更新される場合があります。


2010年6月29日

サッカーとか相撲とか選挙とか

先週は珍しく、寝る間もない程多忙で、あっち行ったりこっち行ったりバタバタ動いていた。

もっともこれが「働く常人」にとっては当たり前であって、普段の自分がおかしいのであるが。

それはさておき、そんな状況だと普段なら薀蓄を垂れそうなサッカーとか選挙とか相撲とかの話題に気を向ける余裕もなかった。

いやむしろその方が新鮮でよい。

確かに肉体的には疲れたが不毛な妄言吐きから開放された分、人間としては充実していた。

ネットに張り付いてマスコミの流す「不味い餌」に食いついて時間を浪費するよりかよっぽどよい。

そういえばワールドカップサッカーも日本が決勝トーナメント進出したというのにあまり高揚しない。

テレビの前にあまり居られなかったという理由もあるが、何だかんだいっても4年に一度の祭りだから、自分のブログでも開催の度に妄言を吐いていたのだが今回は何もない。

まあ、強いてあげれば優勝候補のヨーロッパ勢が尽く負けていること位が気になる程度。そのお陰かどうか知らぬが日本は1次リーグ突破出来たのだろう。

なんでヨーロッパ勢が今ひとつだったのかは知らない。

強いてあげれば、かつて植民地としてのアフリカから搾取の限りを尽くした旧宗主国だから「元奴隷」に囲まれた土地にあまり長く居たくなかったのではないか?

調子に乗って勝ち進めば「土人」たちに襲われるとビクビクしてたんじゃないだろうか?

選手たちはサッカーどころじゃなく、命の危険を恐れて逃げ帰る事を優先したのだ。

まあ、そんなところであろうか?

プロスポーツなんて過去からの悪しき因習と暗い歴史とかに塗れているから無関係ではいられない。

金もらったらさっさとトンズラだ。

純粋で綺麗なスポーツなどあるはずがないのだ。

だから敢えて「奇麗事」で装飾するのである。

チームの入場行進に子供を連れてくるが、これまた胡散臭い。

「汚い本質部分」を如何に奇麗事で誤魔化すかがプロスポーツの「作法」であろう。

それと同じく、大相撲の賭博騒ぎも笑止千万と言ったところか?

封建社会そのものの大相撲に「清廉潔白で爽やかで誠実」を求めるほうがどうかしている。

「君子色を好む」ではないが無頼漢ほど「飲む、打つ、買う」に長けているものだ。

個性的で魅力ある力士に限ってそういう「男の世界」に没頭するんじゃないのか?

それが人間的な厚みにも繋がってくる。

光が強ければ、影もまた強い。

賭博ごときで廃業なんてたまったもんじゃないだろう。昔は傷害致死なんて日常茶飯事だったんじゃないのか?

格闘技の世界はそういう「非常識で野蛮」な世界であることを認めないからおかしなことになるんだ。

大相撲が「国技」だとか公益法人だとか誰が決めたか知らないが、「野蛮で非常識」な人間が営んでいる組織なんだからその位は大目に見てきたんじゃないのか?

本人たちにとっては「今更なんだ?」って感じなのだろう。

そもそもこの世界の「指導者」に「清廉潔白」を求める事自体、キチガイ沙汰。

本当のキチガイみたいなのが指導しているんだから。

配下の選手に恐怖を植えつけて、旧日本兵やソ連兵みたいに敵陣に丸腰で突っ込ませて喜ぶような輩である。

どこかのニュースで見たが、女子バレーの指導者が選手に顔面膝蹴りして怪我を負わせて懲戒処分されたとかあった。

この人間は以前にも何回か同じような処分を受けているらしい。

こんな「暴行」しても名前すら公表されないのだ。

どうせまた違う学校行って同じ事をするのであろう。

これが「スポーツ指導者」の常識なのだ。

テレビで放映される「高校バレー」の中継なんか見ていると悪魔のような形相のコーチが化け物のような叫び声を上げて選手を罵倒するシーンが頻繁に写る。

よくこんな「キチガイ暴力筋肉リンチ生物」に自分の子供を預けられるものである。

親は平気なのか?

大相撲だって「賭博リンチ常習」親方の下に自分の子を弟子として預けるのだ。

親は自分の子が「賭博漬け」「暴力漬け」にされる覚悟を持って送り出しているのだろうか?

今の時代は「子供や女性」にちょっとでも危害が掛かりそうな事例で大騒ぎする。

たかが痴漢でマスコミに名前を晒され、社会的地位を抹殺されてしまう。それが冤罪であったとしても。

昨今問題になっている「児童ポルノ法改正」や「非実在青少年」問題にしろ、実際にそれが18歳未満青少年の「健全な育成」に著しく害するかどうかも疑わしいのに、徹底的に排除しようとする訳だからね。。

にも拘らず「スポーツに掛かる暴力と不道徳」に対しては異常なまでの「寛容性」を発揮する。

このまったく相反するダブルスタンダードをどう説明するつもりなんだ?

「スポーツ暴力」のほうが実際に「子供」を殺している訳であり、指導者が「反社会的」な賭博の入れ知恵をして更に暴力団の資金源をあたえているのになぜこちらは認め続けられるのだ?

そんな「反社会的スポーツ団体」が公益法人であり「国技」であり公営メディアNHKも放映する一方で、何で実際に直接的被害者など存在しない「非実在青少年」を法令まで制定し抹殺しようとするのだ?

スポーツ暴力は「きれいな暴力」、スポーツ不道徳は「きれいな不道徳」とでも言うのかね?

それで死んだ子供は「きれいな殺人」か?

結構な理屈である。

いい加減、奇麗事でスポーツを装飾するのは辞めたらどうだ?

もうメッキはあっさり剥げきっているんだ。今更隠すものもあるまい。

大相撲も公益法人から脱退して公営ギャンブルでいいだろう。

賭け事の対象にすれば万事解決だ。八百長もやりたい放題。幾ら賭けても誰も文句は言うまい。

桟敷席は皆「その筋」の人。

ちょっとでも意にそぐわない取り組みをしたものなら、その場で力士は「処刑」だ。

死人が出ようと、反社会的団体から脅されようと本人の責任。荒川に死体が浮かぼうと知った事ではない。

プロスポーツの根源は「勝利か死」なんだから寧ろこっちのほうが見ていて面白い。

下らない奇麗事の装飾なんてかなぐり捨ててガチンコで戦え。

そのうち八百長なんていってられなくなる。生きるか死ぬかなんだから。

その末に新たな「新生大相撲道」が生まれる可能性がある。

「国技」を名乗るんだったらそこまでしろ。

建前上の「謹慎」でお茶を濁して逃げ切る姿勢に大相撲の未来なんてあるか。

中川放水路の脇の草野球グラウンドの隅でこじんまり取り組むのが相応であろう。

スポーツもどうでもいいが、選挙もどうでもいいなあ。

もう公約とかマニフェストとか止めたらどうだ。

スポーツと同じく政治に清廉潔白とか出来るわけないだろう。

「有能」な人物には金も集まるし、政治活動には金も掛かる。

金が集まらない政治家は単に無能なだけだ。

昔のドイツ軍人ゼークトが言った有名な諺がある。たしか「組織論」。

「軍人は4つに分類される。

有能な働き者。これは参謀に向いている。

理由は勤勉であるために自ら考え、また実行しようとするので、部下を率いるよりは参謀として司令官を補佐する方が良いからである。また、あらゆる下準備を施すためでもある。

有能な怠け者。これは前線指揮官に向いている。

理由は主に二通りあり、1つは、怠け者であるために部下の力を遺憾なく発揮させるため。そして、どうすれば自分が、さらには部隊が楽に勝利できるかを考えるためである。

無能な怠け者。これは総司令官または連絡将校に向いている、もしくは下級兵士。

理由は自ら考え動こうとしないので、参謀や上官の命令どおりに動くためである。

無能な働き者。これは処刑するしかない。

理由は働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、更なる間違いを引き起こすため。

事あるごとにいろんなところで引用されるから敢えて説明するまでもないが、政治家も同じようなもんだろう。

昭和の政治家は無能は無能なりに自分の「立ち位置」が判っていたし、戦争を生き抜いた有能な「戦犯」黒幕も居たからなんとか高度成長期を先導していけたが、平成の世、ただの世襲で「政治家」やっている輩にこの頃の仕事を期待するのは酷であろう。

にも拘らず「無能な世襲」議員がへんな「指導力」を発揮したらどうなるか?先の諺に当てはめれば「無能な働き者」となる。

つまり銃殺するしかなくなるんだな。これは。

特に元クラリオンガールみたいのがこれに当たるから危険である。

日本を破滅に導くような「無能な働き者」は大人しくしているのが一番。

もう無能は無能と認めてお情けで有権者に哀願するのがよい。

こんなふうに。

「有権者のみなさん。私は無能な世襲議員です。だけど政治家は辞めたくありません。

お父さんやお祖父さんに申し訳が立たないからです。それに私は他の仕事が出来ません。

この少子高齢化の時代、新たに職を探すことは困難。だから私は先祖から受け継がれた票田で食いつないでいくしかないんだ。

だから私に票を入れてください。私を政治家として食い繋ぐチャンスを下さい。

日本がどうなろうと知った事ではないが、自分の生活と財産は死んでも手放したくないんだよう。

だから私に一票くれよう。

落選したら車で暴走してみんな轢いちゃうぞ」

こう演説すればよいのだ。

私はこの候補者に入れる。

少なくとも嘘はついていないからね。

無能な人間は無能なりな「知恵」を絞って生き抜かねばならない。

世襲議員もお情け頂戴選挙活動すれば、高齢有権者の同情を買って見事当選である。

これでいいのだ。

最初から「無能」を公言している奴のほうが「信用」出来る。

下手に「無能な働き者」に政治を支配されては困るからね。

どうせ、政策など外圧とか自然災害で動かされるのだ。

世襲無能政治家が導くものではない事だけは確か。

普段は流れに任せときゃいいんだ。

万一、国家的危機が起こったら平時は隠匿状態の「有能な働き者」の出番。

形骸に過ぎない政治家に期待も希望も持ってはならない。

これが有権者の心得として肝に命じておこう。

サッカーも相撲も選挙も「建前の形骸」に塗れた茶番劇。

それを解ってドンちゃん騒ぎである。

まあ、適当に楽しむのが日本人の嗜みであろう。

どれもこれもハエの大群みたいなブブゼラの音がお似合いだ。

ブヲオオオーー!

あーあ。また無駄な妄言に時間を食いつぶしてしまった。


2010年6月28日

『秋葉原火葬場少女帯』シリーズ新作御案内

成人向け漫画月刊誌「コミックマショウ」(三和出版)2010年9月号(7月24日発売)に『秋葉原火葬場少女帯ルサンチマン・ザーメン』掲載予定。

シリーズ3作目の新作オリジナル作品。

なお、ペンネームは亜風紀代(成人向け名義)。

ストーリー

火葬場都市秋葉原には今日も火葬志願の絶望独身男性が大挙してやってきた。

但し、火葬街に入場するには「あるモノ」が必要。

それを持参しない者は容赦なく警備の女の子スタッフによって排除される。

この日もそんな「不届き者」が警備班女子によって拘束された。

職務質問によって所持品検査すると、彼はとんでもないものを所有していたことが判明。

ヲタク第一世代の絶望独身男性と平成生まれの警備女子が織り成すルサンチマン・ザーメンの嵐が始まる。

刮目して見よ!


全24ページ作品。

久々の商業漫画作品だ。

執筆開始が1月末。5ヶ月近くかかってしまった。

途中内容変更したり、ページを増やしたりでかなり紆余曲折。

更に途中に細かな依頼原稿やら自費出版などが挟まれて予想外に時間を食ってしまった。

成人向け作品というのは、モチベーションとかペース維持が一般向けとは異なり比較的難しい。

やはり慣れが必要なのだろう。

それはさておき、内容は影男シリーズの18禁版みたいな感じ。

「秋葉原火葬場少女帯」は通算3作目であるが、この世界観でコミックスを出せる位は続けていきたい。

相変わらずなストーリー構成であるが読んで頂ければ幸いである。


2010年6月26日

「GoFa Award 2010」あびゅうきょ原画展示のお知らせ

昨年あびゅうきょ原画展「絶望廃墟要塞2009」でお世話になった青山のギャラリー「Gofa」にて6月26日から7月4日まで開かれる「GoFa Award 2010」というイベントに原画4点と販売用水彩画1点を展示する。

基本、若い新進気鋭のクリエーターさんによる公募展なのだが、ギャラリーのご好意によりスペースを頂き、昨年に続き、原画を公開する場に恵まれた。他に沙村広明氏の原画も展示されている。

あびゅうきょの展示原画点数は4点でパネル1面のみのスペースだが、「絶望廃墟要塞2009」で展示された作品とは別の原画を用意した。すべて「影男シリーズ」未単行本作品の原画。

また、販売用水彩原画(ポストカード大)も展示。

実際の販売期間はGoFaの次回予定イベント「カワイイ展」(展示期間7/17〜8/1)期間中に委託形式で販売する予定。

昨年のあびゅうきょ原画展にお越しいただけなかった方も是非この機会に原画を見ていただければ幸いである。

原画展示期間は7月4日まで約1週間なのでお早めに。

詳しくは「Gofa」特設サイトを参照。


2010年6月22日

「とらまつり2010」参加

20日に東京ビッグサイトで開かれた「とらまつり2010」イベントに参加。

当スペースにご来場頂いた方にはこの場を借りて御礼申し上げる。

前のブログに記したように今回、主催者によるチャリティーTシャツ企画があった。

なんとか無事に入稿出来たようで、当日自分がデザインしたTシャツもスペースに置かれていた。

当初はこれをその場で頒布する予定でいたのだが、支給されたのは2着のみ。

基本見本的なもので他のサークルを見渡しても、頒布している様子はない。また価格設定も難しく、のちに「とらのあな」サイトで販売するとの事なので、頒布は見送ることにした。

朝早くから、Tシャツ目的でいらっしゃった方には大変申し訳なかった。

今、考えればそのままプレゼントすればよかったかも。ただ同時に2名の方がいらしたので2枚とも差し上げると、見本が手元に残らないので致し方なく頒布は見送った。

「とらのあな」サイトで発売され次第、このブログでご報告する。

さて、この時期、同人イベントに参加する予定はなかったのだが「コミケットスペシャル」に不参加だったため、敢えてこのイベントに申し込んでみた。

漫画書店主催であるために、純粋な同人イベントとは雰囲気が違った。

周りのサークルもコミケやコミティアとはジャンルが異なり、ある意味新鮮。

声優ライブイベントなども同時に開催されていたため、14時前にはもう人も引けてしまい閑散となる。

普段、同人イベントは時間いっぱいまで居る主義なのだが、流石に15時を過ぎると自分の「島」には4つくらいのサークルしか残っていない。

結局、閉会16時の30分前に撤収した。

アトリウムでは「東方・・」とかいうゲーム?キャラクターの展覧会のようなイベントがあったので覗いてみる。

「東方・・」という世界観はさっぱり判らず、「?」なのだがキャンパス地にプリントされたイラスト群を見ると圧倒された。

この猛烈な思い入れは只者ではない事だけは理解した。

「エヴァンゲリオン」のようにTVアニメから派生したブームではなく、元々同人ゲームが発祥という時点で、自分の世代にはもうついていけないのだなと残念がる。

でも「初音ミク」はなんとかついていけたしこの「東方・・」も突っ込んでいけば面白いのかも。

それなりに楽しめたイベントではあった。


2010年6月14日

「はやぶさ」帰還に想う

昨晩、小惑星探査機「はやぶさ」大気圏突入の様子をネットで見る。

アクセスしたのはどこかの大学が開設した動画サイト。込み合っていてなかなか繋がらない。

これだけ関心が高いのに例の如くテレビは生中継なし。そのためネットに人が集中したらしい。

普段はこの手の話題にそれほど関心のない知り合いからも連絡が来て「何でテレビ中継しないのだ?」と不思議がっていた。

無理もない。

今の地上波テレビは自己欺瞞独身女性や小金持ちの老人を騙くらかす番組を並べて意地汚く延命することしか能のない人間が支配しているから「魂の祭典」たる宇宙開発に関わるニュースは無視するのである。

ようするに「肝心なもの」は伝えないようになっている。

チャンネルを合わせても愚にも付かない芸人の顔しか映らない仕掛けだ。

もはや情報メディアとしては役に立たぬから最初から期待せぬほうが精神衛生上よろしい。

それはさておき、昨今における日本の宇宙開発プロジェクトは成功続き。

宇宙ステーション物資搬入輸送システムや野口宇宙飛行士長期滞在プロジェクト、更には先日打ち上げられた金星探査機「あかつき」やそれに相乗りした太陽風で進む試験衛星「イカロス」も順調のようだ。

数年前の月探査衛星「かぐや」プロジェクトも完遂し「上手く行き過ぎる」ほど成功が続いている。

しかし、上手くいっている割にはプロジェクトに継続性や将来への展望がみえない。

今回の「はやぶさ」にしても基本は工学実験機。

地球外惑星の権益を獲得するとか未踏の地を開拓するとか、そういった国家的野心に基づいた計画ではない。

所詮技術者のマスターベーション。

だから、今回の「はやぶさ」帰還を妙に擬人化させて感動を誘う伝え方はなんだか抵抗がある。

「奇跡の生還」とはいうけれど、最初からトラブルがなければ、カプセル切り離し後も太陽回周軌道上で稼動していたはずで衛星ごと大気圏突入させる必要もなかった。

要するにすでに「半分失敗していた」プロジェクトだったのだ。

小惑星からサンプル採取も上手くいっていない可能性も高い。

元の設計に余裕がないからトラブルを起こしたのであって、搭載ペイロードを十分に取れる設計であればこんな事態も生じなかったはず。

ロケットにも予算にも余裕がないのだ。

だから日本の惑星探査科学衛星はいつまでたっても「技術試験」目的という技術者のオナニー道具の域を出ない。

今回の「奇跡の生還」も、如何に日本のJAXA技術者の「テクノロジーオナニー」がアクロバット的に世界一流であるかを見せつけただけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

確かに深宇宙通信技術やトラブル時におけるフェイルセーフは最高水準である事は証明されたのかもしれない。

しかし、それだけだ。

本来、「手段」であるべき技術が「目的」になってしまったのだ。

結局は自己完結で終わってしまっているのである。

1990年代に打ち上げられた火星探査機「のぞみ」も「技術試験」が目的のシンプルな造りだったから、火星軌道投入前にトラブルを起こしてしまい、結局火星の観測は失敗に終わってしまった。

さながら「手漕ぎボート」で太平洋を渡るようなもので、対岸まで辿り着く「困難の克服」を自画自賛するだけ。

肝心の火星観測が出来ないのでは、これまた「技術者のオナニー」の域を出ない。

先日、打ち上げられた金星探査機「あかつき」もロケットはH2A型で多少の余裕はあったものの元の発想は「のぞみ」と同じ「技術試験衛星」。

科学探査は単なる「おまけ」。

目的は「金星の権益確保」ではなく、結局「搭載した機械が上手く動くかをテストする」だけのこと。

要するに「機械の調整」に行っているだけなのだ。

その機械も実は「最先端」という訳ではないらしい。衛星組み立ててる間にどんどん陳腐化してしまう始末。

2010年に3DOの実用試験やってるようなものだ。

これは宇宙開発の分野だけでなく、たとえば携帯電話やIT機器市場も同じ。

技術やサービスは優秀かも知れないが「世界市場」においてはシェアは皆無に近く、「世界のスタンダード」には程遠い。

結局これも日本のお家芸「テクノロジーオナニー」の成せる技であろうか。

こんな「オナニー」に勤しんでいてはいずれ世界から取り残される。

事実、ソフトはアメリカのIT企業に席巻され、ハードも新興国にシェアを奪われた。

これは技術者のせいではなく、怠慢に満ちた無能な政治が原因だ。

では、どうするべきか?

答えは一つ。

明確な国家プロジェクトとして「宇宙開発」を推進するしかない。

国家意志として宇宙開発を見据えなければ、宇宙ステーションも月も火星もアメリカ、中国、ロシア、ヨーロッパの権益の下に支配されてしまうだろう。

すでに、アメリカは火星に何基もの無人探査機やローバーを送り込んで着々と権益確保を目指している。

偵察衛星並の解像度を誇るカメラで火星をスキャンしているのだからね。またヨーロッパ宇宙機構の衛星も回周中だし、更にロシア、中国も近年中に火星に衛星を送り込む予定だ。

そんな状況下、日本にはまともな火星探査計画がまったくない。

こんな馬鹿なことがあろうか?

火星に探査機を送り込む技術があることは今回の「はやぶさ」の件で十分に証明された。

しかし、技術はあってもそれを実践する計画が存在しないのだ。

まったくもって情けない。

今、日本がやるべきことはお家芸である2足歩行ロボットを火星探査用に開発し、火星に送り込むことだ。

日本のロボットが火星に一歩を踏み出せば、そこに日本の権益が発生する。

「火星満州国」の夢が花開くのだ。

サンプルリターンだって不可能ではない。

そう、火星には生身の人間を送り込むより、精巧な2足歩行ロボットに先行入植させるのである。

ロボットであれば大掛かりな生命維持装も食料もいらない。こんな事も必要ない。

外観だけ人間に近づければよろしい。

たとえば、美少女アニメに出てくるキャラクター風にデザインしたってよい。

「彼女」たちが火星のクリュセ平原を闊歩する様子を想像してみよ。

血湧き肉踊るではないか。

アメリカの車輪付きローバーの比ではない。

そして、わざわざ宇宙探査機を妄想の中で「擬人化」する必要もなくなる。

探査機そのものが「美少女」の姿をしているのだからね。

まさにクールジャパンが「火星征服」を成すのである。

今すぐにでもJAXAはこのプロジェクトを立ち上げて10年以内に火星に「美少女探査ロボット」を送り込まねばならない。

それが日本の未来のすべてに繋がるのだ!

着陸船に3体の人型少女探査ロボットを搭載し、着陸後徒歩で探査を開始する。主な動力源は原子力電池。3火星年は稼動する。採取した資料は着陸船のラボで分析されデータを地球に送信。

これが新たな「王道楽土」の第一歩となろう。

日本火星開拓団の先鋒は少女ロボットなのだ。

だが、この希望の夢想も、現実を垣間見ると絶望的にならざるを得ない。

宇宙開発を推進すべき行政の長が、このような「ロマン」を実践できるような野心を抱けるとは到底思えない。

それどころが宇宙開発の「う」の字すら理解していない輩しか見当たらない。

かつてケネディーが「10年以内に人類を月に送り込む」と宣言したような1960年代後半のごときエネルギーがこの日本に存在するはずもなく、むしろ如何に「宇宙開発予算」を削減するかに血道を開くしか脳がない馬鹿しか見当たらない。

今回の「はやぶさ」プロジェクト「成功」にしたって、今いる政治家の貢献によって成された訳ではまったくない。

誰ひとり「宇宙開発プロジェクト」を謳って当選した者はいないし、政治家自身も己の票に結びつくとは思っていないしね。

要するに、政治家にとって「宇宙開発プロジェクト」は何の役にも立たないし、宇宙開発技術者側からしても政治家の存在は邪魔以外のナニモノでもない。

昨今の日本宇宙開発プロジェクト「成功」にしても、前政権の政治家が「宇宙」に無関心で官僚任せに予算を丸投げしていたからこそ上手くいったのだ。
技術者が勝手気ままに「オナニー」出来たのも政治家が無関心のお陰。

皮肉にもそれが「成功」に結びついたと言えよう。

ところが政権が変わって「政治主導」で宇宙開発にクビを突っ込み始めたからとんでもない事になった。

なにせ、この日本には宇宙開発に積極的な政治家なんて皆無の上に「無能」「無知」ときているから語るに及ばず。

「水金地火土天海」も言えない様な、恒星と惑星の違いも判んない様な政治家しかいない。

その上、元クラリオンガールみたいな「紅衛兵」気取りのキチガイが宇宙開発に口を出し始めたからもうお終いである。

前政権下で許された「技術者のオナニー」すら禁じられ、種子島宇宙センターは元のサトウキビ畑と帰すだろう。

キリングフィールドみたいに技術者の白骨が転がっているかもしれない。

もはや日本の宇宙開発は万事休すである。

「無能」な政治家がしゃしゃり出れば禍しか残らない。

それを鑑みると、あの「はやぶさ」大気圏突入の光景は、日本宇宙開発最後の輝きなのかもしれない。

大気圏で燃やすべき無能な政治家やマスコミは生き残り、残すべき「はやぶさ」のほうが燃え尽きる。

まさに日本の将来そのものの姿だ。

合掌。


2010年6月10日

「とらまつり2010」オリジナルTシャツご案内

6月20日に東京ビッグサイトで開かれる「とらまつり2010」というイベントにサークル参加予定。

詳細は主催者サイトを参考にしてほしい。

ところで主催者よりチャリティーTシャツキャンペーンなるものの企画参加を募られたので自分も1枚描いてみる。

何となく思いついた絵柄は黄昏の入間基地からファントムが離陸する風景。

鉛筆画にペインターで彩色。この手法だと1日弱で仕上げられる。

サークルにも無償で2着ほど支給されるようなので、当日、あびゅうきょ工房スペースにて頒布してみようかと思っている。

スペースは東京ビッグサイト西1ホール「か」03b。

ただ、主催者サイドがこの類のイベント準備に慣れていないのか、いろいろと戸惑うことも多い。

純粋な同人イベントではない様だし、参加サークル募集も変則的との話。

このTシャツイラスト納品方法もメール添付のみしか案内がなく、また受領のメールも返ってこない。

メール添付だとファイルサイズが大きすぎるのだが大丈夫なのだろうか?

データがちゃんと納品されたか現在のところ確認メールが来ていないので、万一当日にTシャツが納品されない可能性もある。

その際はご容赦いただきたい。


2010年6月4日

デジタル化は「泡沫の夢」

マックのハードディスクが満杯になったのでいつものルーティン通りにMOにバックアップを取ろうと思い、ふと気が付いた。

「もうMOでのバックアップは無駄ではないか」

1999年に初めてマックを購入し、バックアップにはMOと外付けハードディスクでずっと対応してきた。

バックアップメディアでは最も信頼性がおけて日本での普及率も高いMOを使っていさえすれば長きに渡って大切なデータを保存続ける事が出来ると。

しかし、2010年の今、もうMOを積極的に記憶メディアとして使おうとしている人はあまり聞かない。

原稿の版下入稿とかではまだまだ主流のようだが、一般ではもう殆ど誰も使っていない。

わずか630MBしか入らないのに1枚500円以上するのではないか?結局量産されなかったから価格も下がらないまま。

メディアもドライブも何時まで生産し続けられるか判らない。

メディアの寿命よりもドライブや読み取り方式が廃れ、結局読み出すことが出来ない事態が迫っているようだ。マックでフォーマットされたMOはウインドウズでは読み取れないし汎用性にも乏しい。

記憶容量も少なく、コストパフォーマンスが悪くなったメディアはMOに限らず、フロッピーディスクも淘汰されようとしている。

あれほど「MO」を信頼し、数多のファイルを記憶させていったのにこのままではただのプラスティックの円盤だ。

確かレーザーディスクも同じような感覚で廃れていった。

「半永久的に鮮明な画像でお気に入りの作品を手元に置ける」という「信仰」のもとに買い集めたLDも今やジャケットを眺めて映像の記憶を反芻するだけ。

結局のところ、デジタルメディア(LDは正確にはデジタルではないようだ)という類の短命さから学習するにあたり、そういったものに下手にお金を掛けると結局馬鹿を見るということだろう。

カセットテープからMDやDATに楽曲データを移行して、カセットを捨ててしまった人も多かろうが、結局、生き残ったのはカセットのほうでMD、DATを再生しようにもドライブがなくなってしまう時代が来る。

ハイビジョン映像で記録された貴重な記録や数々の「最新デジタルメディア」に残されたあらいる「文化遺産」もいずれドライブがなくなるから再生が不能となる。

結局、マイクロフィルムやアナログテープ、35mmフィルムで記録しておいたほうが「長持ち」するという皮肉。

「デジタル信仰」に煽られて元のアナログメディアを破棄してしまい、再生できない「死んだデジタルメディア」の山だけが残るという時代が来るかもしれない。

現在、主流のCD−R,DVD-R,ブルーレイ、USBメモリーなどのスマートメディアもいずれは例外なくMOと同じ道を辿ろう。

ある意味、「デジタル化」は人類文化遺産の喪失を意味しているのかもしれない。

数年後ごとに更新される「最新デジタルメディア」にこの全部の「デジタルデータ」を移し代える労力と工程上に生ずるデータの劣化を考えるとデジタル化は次世代に文化を受け継ぐ手法としては決してベストとはいえない。

最近はネット上でデータをバックアップするオンラインストレージというのがあるらしいが、これも果たして万能なのか判らない。

メディアに頼ることはなくなるだろうが、ファイル形式などが時代遅れになって結局将来、読み込めなくなる可能性もある。

こうなるとデジタル化させたものを長きに渡って保存させておく行為自体が、もはや破綻しているのではないだろうか?

そんなものに大金を叩いて保存させても数年後には読み取れる方策がなくなってしまうのであれば、こんな馬鹿馬鹿しいことはない。

結局は新しい記録メディアを投入するIT企業の意のままに投資しつづけない限り「デジタルデータ」は継承出来えないのだろう。

ipadだって「新しい書籍のカタチ」と持て囃されているが、所詮持っても5年だろう。

「紙に変わる新たな書籍のビジネスモデル」などという「信仰」は胡散臭い。速まって「紙」の書籍ビジネスを放棄し、ipad形式にすべて更新したところであっという間に廃れるから大損である。

所詮デジタルには質量がない。

価値があるのはそのプラットホームであって、そのプラットホームが刷新されるごとにフォーマットも最初から全部作り直さねばならない訳だ。

そんなことをしていたら本屋も出版社も利益どころの話ではない。新プラットホームごとに全部元から作り直しである。
「紙」で構成された元来の書籍フォーマットはもう何世紀にも渡って受け継がれており、出版社も本屋も読者もそのフォーマットを受け継いでいたから「安定したビジネスモデル」が確立した。

しかしipadみたいな「電子書籍」は数年毎にフォーマットが変わってしまうから将来を展望できる営業活動は保障されない。

また読者にとっても新しいプラットホームではもはや書籍を読み返す事すら出来ない。新方式になる度に新たに購入を強いられる。

「紙」の本を裁断してデータ化する人が居るが危険だ。本来の書籍ならいつでも読み返せるが、データ化したらそのリーダーが壊れたらおわり。

データーを新しいリーダーに取り込めるとは限らないし、取り込めるとしてもお金と労力を強いられよう。

結局、儲かるのは電子書籍プラットフォームを更新し続けるIT企業のみだ。

それを知ってかアップルなどはipadで配信する「電子書籍」に制限をつけて検閲まがいの事まで始めているという。

伊集院光もラジオで危惧していたな。

結局のところ、「電子書籍化」というのは世界の文化、芸術、風俗すべてを、増長するIT企業に委ねてしまうという危険性があるのだ。

すべてがデジタル化され、その閲覧が限られたIT企業の開発したプラットフォームのみでしか見られなくなったとしたら、ある意味恐ろしい。

デジタルに疎い一般の人も薄々この事に気が付き始めている。

デジタル化というのは、雲をを掴むような話で、そのような一瞬で霧散するものにすべてを置き換えるのは無謀すぎる。

結局、質量のないものに恰も価値があるように見せかけるシリコンバレーの錬金術に過ぎない。

対価は質量のあるものに生じる。

質量のないものにお金を掛けてはいけない。タダがデジタルの不文律。

そんなデジタルに取り込まれた数多の企業は遅かれ早かれすべて破綻するだろう。

そして最後に世界の富はアメリカIT産業の懐に収まると。

しかしこの「デジタル錬金術」もいずれは行き詰る時が来る。

原子力が万能エネルギーでなかったのと同じように。

デジタル化は、ある意味「泡沫の夢」なのだ。



2010年5月30日

ipadであびゅうきょ作品は読めるのか?

ipadが発売された。

世は電子書籍の「ビッグウェーブ」が来るんじゃないかと戦々恐々らしい。

自分はお金もないのでipadなど買えるはずもなくただ眺めているだけ。

とはいえ一応自分の電子書籍アイテムも存在しているのだからipadの発売は新しいプラットフォームで自分の作品を読んでもらうチャンスであることも事実だ。

だからこの珍妙な「祭り」のどさくさにまぎれて己の電子書籍も宣伝してしまおう。

随分前から自分の著作であるフルカラーコミック「快晴旅団」と「風の中央鉄道」がebook Japanより有料ダウンロード出来るようになっている。
あびゅうきょ作品のダウンロードはこちらから可能。

たぶんおそらくipadでも読めるはず。

ebook Japanではこんな案内もしている。

http://www.ebookjapan.jp/ebj/reader/ipod/
http://www.ebookjapan.jp/ebj/info/news/2010/05/ipad.asp


自分は暫くはipadユーザーになれそうもないので自分の作品が実際ipadで読めるのかは解らない。

でもこの新しいプラットフォームで一人でも多く自分の作品を読んでもらえるきっかけになってもらえれば幸いだ。


2010年5月24日

コミティアの見本誌会

久しぶりにコミティアの見本誌会にいってみた。

コミティアイベント当日は自分のスペース管理で手一杯なので、この見本誌会は他の参加者の作品を拝見する貴重な場でもある。

会場はJR王子駅近くにある北とぴあ7階。

500円を払って入場。

見学者は黙々と見本誌を読んでいる。事細かにノートにレビューを記しているツワモノも。

総じてフルカラーイラスト本が目立つ。作画レベルも高く、レイアウトや装丁もしっかりしていて感心する。その上頒布価格も1000円以下と良心的。

まったく脱帽である。

日本のコンテンツクリエーターの裾野の広さが窺い知れる。

高水準のアマチュアがこれほどたくさん居ることを知っただけでも驚異な体験だ。

自分的には漫画よりも資料的価値のある写真集や旅行記みたいな同人誌に興味を引かれた。

廃墟写真集などは素晴らしいものがある。

一方、漫画同人誌はじっくり読めるものが少ない。

もともと漫画はそれ程読むほうではないので、ぱっと見てインパクトがないとさらっと読み飛ばしてしまう。

たまに読める本があっても、それは商業誌に掲載された作品の再録だったりする。

あるいは天邪鬼な性格ゆえ、イージーなコピー誌のシュールなへっぽこ絵に魅力を感じたりする。

しかし結局、目に留まるのは知名度が高い作家だったり、知り合いの作品ばかりだ。

如何に他者に自分の漫画を読ませるかが難しいことかを学ばせる。

もう一つ気が付いたことは、こうしてわざわざ見本誌会まで足を運んで、本を読むという行為そのものの重さである。

ネット上で検索すればもっと効率よく作品チェックが可能かもしれない。

しかし、自分の足で会場に赴き、自分の手で本の質感を確かめる作業あってこそ記憶に残るものがある。

仮に同じものをネットで知っても数分で忘れてしまうかも。

この日は雨で、外出するには億劫さがあったが、だからこそこの日に読んだ作品は印象深く残るのだろう。

ipadが最近話題だそうだが、果たしてそれで読んだ電子書籍に愛着を持てるかどうか甚だ疑問である。

歴史的名作と女子高校生の他愛ないメールやブログみたいなのが同じプラットホームに並ぶことが「書籍革命」だとしたら、数年後には「書籍」という概念すらこの世からなくなってしまうだろう。

やはり本は紙の質感に依存してこそ記憶に残るような気がする。

質量のある「書籍」に至らない作品は対価を産まない。

「有料ダウンロード」という商法がこの先成り立っていくとはとても思えない。遅かれ早かれ全部無料だ。

要はipadが普及したところで淘汰が進むだけ。

何も変わらないのである。

世に知れ渡るということは、途中何人もの人間が介在してこそ。

それが「書籍化」であって、単純にネット上にアップされたものに「価格」は存在しない。

肝心なのは人間であって生身のコミュニケーション能力だ。

所詮、ネットは質量のない幻みたいなもの。

同じ作品でもipadで読むよりコンビニで刷ったコピー誌で読んだほうが余程人生豊かになる。

人間が介在しない創作物に、生き残る資格はないのだ。


2010年5月19日

モノ言えぬ家畜と絶望独身男性の運命は同じだ

宮崎の口蹄疫禍が今頃になって全国的に騒がれ始めた。

汚染拡大防止のため、汚染区域周辺の家畜を片っ端から処分するとか。

もはや「焦土作戦」の様相を見せ始めた。

野火の延焼を食い止めるため敢えて火を放って緩衝地域を作るのと同じようなものか?

当事者の農家にとって国が補償する処分は放置するよりはベターなのだろう。

家畜は生産物であって愛玩動物ではない。

だから所有する家畜を処分しても損失にならなければ、農家にとってはありがたいのかも。

政府が殺処分した家畜を高く買い取ってくれれば願ったり適ったり。餌代も浮く。

だが家畜といっても生き物であることに変わりない。

何十万頭の家畜が感染拡大防止のために処分されるのは、家畜にとってはジェノサイドと同じだ。

鯨やイルカのように「同情してくれる人間」もいない。

豚や牛は人間に食われるために「生産」されている訳で遅かれ早かれ「屠殺」されてあの世行きとなるのだから、結果的には食肉として処分されるか、感染防止のために処分されるかの違いだけだ。

口蹄疫はウイルスで感染するそうで感染力も強く、食い止めるのは宿主の家畜をすべて処分しない限り収まらないとか。

放置すれば日本の畜産業は壊滅するらしい。

イギリスでも過去に何百万頭も殺処分して口蹄疫蔓延を防いだとか。

しかし口蹄疫自体は人にうつらないし、その食肉を食べても大丈夫なようだから、なんでここまで騒ぐのかと不思議に思うが多分畜産業の常識からしたらここまでしないと治まりがつかない事例なのだろう。

つまり「生産性」が悪化するから処分するのだ。

病が家畜の生死に関わるかなんて農家にとっては関係ない。

質のよい食肉を生産するという目的に適わぬ家畜は存在意義はないのだ。

その範疇にない家畜はゴミ同様。

赤字を出してまで商品価値のない家畜を飼育する生産者などどこにいるか?

だから口蹄疫に罹った家畜は粛々と処分される。

彼らに「命の尊厳」もへったくれもない。

「生産性」という不文律の下に「大量虐殺」は正当化される。

しかし、これがもし絶望独身男性の身に降りかかったらどうであろう?

たとえば、「独身絶望男性は社会の害悪であって犯罪者予備軍だ。児童ポルノ愛好者もこの分野に多い。よってその存在は健全な社会にとって危険な病原菌である。質の悪い人間は同じ人間であっても生きる権利はない。よって直ちに殺処分しなければならない」

もしこういった法令が出来たら、日本中の絶望独身男性は、宮崎の牛や豚と同様に殺処分の対象になろう。

口蹄疫に罹った牛や豚自身が致命的な病気に成らないのだから殺すまではしないでくれと人間に哀願しても、聞く耳は持たないと同様に、絶望独身男性が独身ニートというだけで殺されるのは理不尽だと説いても殺処分は実践されるだろう。

決まり事とはそういうものである。

全国各地に自衛隊が巨大な穴を掘ってそこに絶望独身男性を放り込み、殺処分する。

そんな時代が来ないとは限らないのだ。

物言えぬ家畜と絶望独身男性の運命は同じだ。

殺処分は他人事ではない。

いつ自分も口蹄疫に罹った家畜同様に殺処分されるか警戒したほうがよい。

生かすより殺したほうが利益になって国も補償してくれるとあれば、宮崎の畜産農家同様、喜んで同胞を殺処分場に差し出すであろう。

世の中はそんなものである。

絶望独身男性は家畜以下と思っているキチガイもいる。

豚や牛並の存在だとね。

そんな人間が国を司る要職に就いたら恐るべきジェノサイドが始まろう。

この口蹄疫禍は日本絶望独身男性の未来図でもある。

しかと心得るべきだろう。



2010年5月18日

あびゅうきょ原画展「絶望廃墟要塞2009」から1年

新緑の中、初夏の日差しが清清しいシーズンになってきた。

思えばあびゅうきょ原画展「絶望廃墟要塞2009」開催から1年を経た。

原画展会場でBGMにしていたPSY・SのCDを改めて聴いてみると、当時の様々な残像が甦る。

景気の底、パンデミックと騒がれた世情の中、足繁く青山のギャラリーGofaまで通ったあの9日間は感慨深いものであった。

濃厚な時間で凝縮された日々は自分にとって非常に稀有な経験でもあり、「非日常」的高揚感に包まれていた。

新緑の宮益坂を登った日々から、1年。

準備段階で様々な不安があったものの、実際開催することが出来、様々な方にご来場いただいた。

この1年という年月を過ぎて改めて滲み出てくる思い出は掛け替えのない貴重な財産でもある。

この原画展を踏み台に、更なる創作活動の進展を促すという目論みは、残念ながら目立った収穫は得られず365日が過ぎた。

もっと積極的な営業活動すべきだったかと反省もするが、取りあえず無病息災だったことを感謝すべきか。

原画展をきっかけにHPにつくった「ミュージアムショップ」には現在もジクレー版画、原画などの頒布作品を紹介している。

興味ある方は一度覗いてみて欲しい。


2010年5月12日

「大人かわいい」は日本を救う?

昨日、NHKの「クローズアップ現代」で「30〜40代のアラフォー女子にもミニスカを着せようキャンペーン」みたいな番組をやっていたのでぼけーと観る。

10代、20代の女子が着ているフリフリミニやショートパンツを、30代以上になっても着てもいいじゃない?可愛いのだから、というコンセプトらしい。

それをいわいる「大人かわいい」というらしい。

かつては「おばさんの若造り」と揶揄されて来たファッションだが、これだけ年齢不詳の女性が増えると実年齢が30を超えようとも「少女」みたいなファッションしてもいいのだ!と主張したい気持ちも解らんでもない。

公園に行ってもどちらが母親で娘か解らない親子が結構いるし、ファッションセンスも同じという母娘もよく見かける。

もっとも、この番組の主旨は、小銭を持っているアラフォーから更なる消費を煽るのが目的だから、この番組に煽られてミニスカートを履くのは正直痛い。

特に、それを煽っているのが「疫病神」タレントだったから余計警戒する。

ただ、お刺身も腐りかけが一番美味しいという諺があるように、崩れかけた体型と肌にミニスカートという組み合わせは案外ミスマッチして香ばしい「旨み」を醸し出すから、「大人かわいい」を全面否定はしない。

むしろ、ションベン臭い10代のミニスカートよりも30代の人生経験を積んだフトモモのほうが美しく感じるのは何故だろう。

そう!30〜40代こそミニスカ、ニーソを履くべきなのである。

そのためにミニスカ、ニーソはある。

少しデロンと重力に抗しきれずに下がりつつある太ももの肉に黒いニーソックスが食い込んでいる様は女の人生の厚みを醸し出しぐっと来る。

何ともいえないまったりとした官能は10代20代には無理である。

決して「熟女趣味」とかそういうものではなく、30代40代でもフリフリミニスカニーソの「少女」が闊歩出来るというのは「クールジャパン」の真骨頂であろう。

かつては「サザエさん」に出てくるサザエさんとワカメのように、昭和日本では明らかに「子供と大人」の女が別の生き物であるかの如く厳格に異なっていなければならなかったが、今はその必要もない。

たとえ結婚、出産、子育てという通過儀礼を経ても「大人かわいい」でいつまでも「少女」のようにミニスカ、ニーソで闊歩しようと許される時代になったのだ。

ついでに哀れな絶望独身男性に痴漢冤罪の濡れ衣を被せ「お小遣い稼ぎ」も社会が容認している。

まさに「女天国」のこの平成日本で、女性がガマンしなければいけない事など、なにひとつない!

「大人かわいい」大いに結構!

ミニスカ、ニーソに限らず、女子高生制服やアニメコスのアラフォー40代が居たってよい。

それを「痛い女」とか「電波」とか「キチガイ」とか言うのは、新しい世界に飛び込めない臆病な女たちの嫉妬に過ぎない。

さあ、40代になっても「魔法少女ララベル」の衣装で街に飛び出そう。

「ファーファーファーマシー」の衣装で銀座を闊歩する50代の女性に恋しよう!

何を恐れるか!

日本女性は古臭い呪縛から解き放たれたのだ!今更何を躊躇う?

「大人かわいい」は何時までもサザエさんに捉われている日本婦女子を覚醒させたのだ。

これから大人のファッション誌特集は「大人かわいい」で一色になろう。

曰く「40代からはじめるマイクロミニ、ニーソのコラボ。娘に勝つ10のアイテム」

曰く「40代でアンダースコートにチャレンジ。見せるショーツでティーンに勝つ」

曰く「閉経後に楽しむペチコートとチューブトップで悩殺アラフォー戦士に!」

曰く「更年期障害にはホットパンツとチビTシャツで対抗よ」

曰く「50代からのセーラームーン戦士!あなただって月に向かっておしおき出来る!」

曰く「もっと早く気づけばよかった?今からでも遅くない60代からのメイドコス」

崩れかけた肌にミニスカ、ニーソ、アニメコスを包み込み自由に闊歩する30〜60代日本女子。

その妖艶な姿は黒船で遣ってきた脅威をあっという間に跳ね返すだろう。

「これぞ日本の夜明けぞえ!勝海舟先生!」

坂本竜馬も「大人かわいい」に覚醒した平成女子を見て、草葉の陰で感涙を流して居られるであろう!

これで日本は安泰だと。

素晴らしき日本のアラフォー婦女子。

「大人かわいい」万歳!


2010年5月11日

本当のパンデミックが来る?

数日前から、喉の痛み、発熱、咳が出る。

自分の周りにも多少の時間差があるが、声が出なくなったり咳が出たりと似たような症状の知人が多い。

飼い猫もこの前まで声が出なかった。

この時期に体調を壊すことはよくあって、数年前は激しい咳が1ヶ月続いたことがあった。

が、今回の風邪症状は周りの状況を見る限り、気管支系の流行性疾患が流行っていることは間違いない。

ところが、マスコミは何にも言わない。

世間的には流行していないって事か?

だが事実、こうして自分と自分の周りは罹っているのだ。

これをどう説明するのだ?

昨年の今頃は、キチガイのようにパンデミック!パンデミック!と騒いでいたが、自分とその周辺でインフルエンザに罹ったという人の話は全然聞かなかった。

風邪の「か」の字も掠りさえしなかった。

誰一人として!

喚いているのはテレビと新聞だけ。そしてそれに踊らされた従順な民。

自分の身に起こっている状況を鑑みれば、如何にマスコミの流布する情報が「真実」から程遠いかを証明してくれる。

昨今のギリシャ云々の報道だって、どうせ為替で利ザヤを稼ごうとしている「胴元」がマスコミを買収して適当な情報を流しているのだろう。

もしかすると実は、これからが真のパンデミックのはじまりで、宮崎辺りの口蹄疫もそのプロローグかも知れん。

もう家畜が6万頭も処分されている。

こっちのほうが昨年の「パンデミック騒動」より余程恐ろしいんじゃないか?

このまま放っておくと日本の畜産業壊滅する可能性もあるとか?

実際、過去に台湾で流行した口蹄疫でこの国の畜産業は消滅したそうである。

と同時に未知のインフルエンザが日本人に広がりつつある気配も感じられる。

にも拘らず、マスコミはインフルエンザ禍には沈黙し、どこか頭のおかしい宰相の動向を追っかけるだけ。

マスコミが無視するということは、逆にこちらのほうが真実味があるということ。

さあ!今こそマスク買占めだ!タミフル買占めだ!

真の賢者はマスコミを信じない。

本当のパンデミックがやってくるぞ!

マスコミは肝心な時に真実は伝えない。マスコミの伝えるものは既得権者のために利するデマのみだ。

たとえ真のパンデミックが来て、何百万人死のうとも既得権者が得する事象でなければ一切報道しないだろう。

世の中そういうものである。

生き残りたければ真実は己の肌で見極めよ。


2010年5月7日

コミティア92来場感謝。

遅ればせながらコミティアのあびゅうきょ工房ブースにお立ち寄り頂いた紳士淑女にはこの場を借りて御礼申し上げる。

好天に恵まれ、多くの来場者で賑わったようだ。

今回も差し入れ、スケブなど諸々感謝。中でも久しぶりに再会した同人仲間には懐かしさを覚える。

10年ぶりにお顔を見たが殆ど変わっておらず感慨深い。

売り上げは例年の5月コミティアにしては低調であったがコミティア初売り新刊もソコソコ捌けてくれた。

帰りは新刊のユニットを組んだ同人作家とその友人クリエーターあわせて4人で池袋で打ち上げ。

「ハーベスト」という和食バイキングで食事しお開きとなる。

次回イベントは「とらのあな2010」に出展予定。

今後ともよろしく。


2010年5月1日

COMITIA92(5/4東京ビッグサイト東1/2ホール)新刊御案内

誌名/『おたまと影の変態記2』

サイズ/A5版118P

頒布予価/750円

著者/あびゅうきょ・森野優樹

企画・編集/森野優樹

コミュニティーFMに関する限定コピー本と番組へのイラストFAXを集大成した『おたまと影の変態記』第2弾。

更にあびゅうきょとユニットを組む同人作家森野優樹のシュールな4コマ作品も収録。

第一弾以上にボリュームアップした全118ページにも及ぶ重厚な一冊です。

販売スペースは(5/4東京ビッグサイト東1/2ホール)「は」01bです。



2010年4月29日

旧友たちとの宴

先日、久しぶりに大学の漫画研究会同期だった旧友達と会う。

きっかけは自分のホームページにアクセスした旧友からメールを貰った事に始まる。

いつしか幹事も決まって宴席の場を設ける運びとなった。

集まったのは13人。

無論、男ばかり。50代に掛からんとする世代ではもはや女性部員に連絡出来る術がない。女性は家庭に入ってしまうと「別世界」の住人となってしまう。

それはさておき、こうして纏まって会うのは十数年ぶりだろうか?

その中の8人が妻帯者で子持ち。子息はすでに大学進学しているというから驚きだ。

子供が二十歳前後であることが信じがたい。自分らが大学在学中の頃と同じ年齢なのだ。

まさに御伽噺の世界。

そこに現実の妻子が見えないからまだ耐えて聞いていられたが、実際やってきたら卒倒してしまうだろう。

確かに旧友たちはそれ相応の「50代」になってはいたが、実際会うと「空白」の十数年が抜けたようになって、その年月は意識されないから余計奇妙な感じに捉われる。

だが妻帯者と独身の間には「越えられない見えない壁」が歴然と横たわっていた。

20年間、子育てをし、子供を大学に通わせているという妻帯者と、己の遺伝子を残せず、ただ時間に委ねて流されただけの独身者とでは「生きるステージ」が格段に違う。

かつて気兼ねなく馬鹿話出来た旧友たちの間には底知れぬ恐るべき溝が存在していたのもまた事実であった。

会話もどこか他人行儀。やはり子供を大学に通わせるというステイタスが在るなしでは身分が違う。

妻帯者からすれば、独身者など身体障害者並みの片輪。だから丁重に扱わないと失礼という意識が見え隠れする。

実際身障者手帖を持った独身者同輩もいたし、やはり独身者はどこかしら障害があると言わざるを得ない。

一方、妻帯者たちは、ミクシーもツイッターもスマートフォンも無縁な者が多い。

なぜならそんなもの必要でないからだ。

そのようなネット情報ツールに頼らなくても十分に「リア充」は確保できる事がここに証明されている。

要するにミクシーもツイッターも本来の幸せには何ら貢献していないのだ。

「リア充」には必要ない無駄な情報だけが彷徨い、独身者たちを戸惑わさせているだけ。

その事実を知っただけでも、自分は情けなく辛くなる。

何も残せない自分。

妻帯者の「沈黙なる自信」がひしひしと迫って自分の惨めさが浮き彫りになってくる。

子育て中心に生きてきた妻帯者は「上から目線」で独身者を見下ろす権利がある。

そして独身者は己の惨めさを再確認しなければならぬ義務がある。

子育て支援も受けられず、ただ「犯罪者予備軍」「ニート」「ひきこもり」と責められ続け、挙句孤独死を迎えざるを得ない哀れな絶望独身男性に宴を楽しむ余裕は何処にもなかった。

さて、宴での話題はもっぱら「自殺」。

「あの人自殺したねえ」「会社の上司、自殺したよ」

さすが年間3万人を誇る自殺者の国である。

50代となれば身近な人間の死の原因は自殺が定番となろう。

「自殺話」を肴に焼肉を頬張る。

恰も自殺者の死肉を貪るかのごとく、刹那的に宴は進む。

しかし妻帯者にとって子育てはほぼ終了。哺乳類として人生は成就しているのだから、たとえ自殺話が出たとしても他人事だ。
一方、独身者にとっては「明日は我が身」。

焼肉が自分の死体に感じたので思わずレタスに包んで現実を忘れようとする。

同輩の一人が尋ねる。

「お前は全然変わらんなあ。変わらないということはいいことでもある」と。

しかし、それは志を成した者に限って言えることだ。

何も成せずして変わらないのは単なる木偶の坊。

無論、社交辞令だったのだろうがそれを素直に受け取る余裕もない。

いっそこう言って貰えればよかったのだ。

「お前はいつまでたっても役立たずの50歳児だな。恥を知れよ」

そして自分はこう応えるのだ。

「あいすみません」

独身者の一人が、四半世紀前、合宿免許の宿舎で片思いだった女の子の話をし始める。

今更どうにもなるまいのに回想は止まらない。

自分は苛立ってこう返す。

「いっそ、タイムマシンであの頃に帰って彼女を妊娠させるんだ!妊娠させるんだよ!この意気地なしがあ!今の惨めさはあの時の意気地なしの自分にあるんだ!このダメ人間の俺!ぐぎゃあーー」

かなり酔いが回っていたのでよく覚えていないがそんな内容の妄言を吐いた気がする。

更に我々の席の隣に女の子グループが居たので思わず同輩の独身者に進言する。

「今からでも遅くはないんだ。あの女性グループの席に近寄り、焼肉に己のタンパク質を振りかけて、全員を妊娠させるんだ!それが俺たち惨めな独身50代の最後の希望だ!菊水作戦だ!ちくしょう!」

しかしもう誰も自分の話は聞いていない。

極めつけ、本日のメインディッシュはこれだ。

同席した旧友が持ってきた学生時代の写真。

その中に、昔、想いを寄せた後輩の女の子も写っていた。

1980年前後、聖子ちゃんカットにハマトラファッション全盛期。その集合写真に残された彼女は今や50に近い。

現在、その彼女は2児の母親なのである。彼女の旦那は同サークルの旧友でこの宴にも同席しており、なんとその場で次女の写真が披露されたのである。

いかにも今風な中学生の女の子の姿が、その携帯の液晶に投影されていた。

奇妙で複雑な想いが脳裏を駆け巡り、失禁しそうになる。

まるでネモ船長がナディアをフォログラムで観た時の如く。

就職、結婚、子育てという「通過儀礼」を悉く放棄してここまで生きてきた自分にとって、思いを寄せた後輩の女の子の娘の姿は俄かに信じがたい。

自分の中ではその後輩は今でも18歳のままで大学の教室で佇んでいるはずなのだ。

その彼女に中学生の娘が居る。

そんな馬鹿な!

これは狂った世界だ!

時空が歪んで別の宇宙と繋がったに違いない。

これは嘘世界だ!

こんな写真を見せられるということは、まさに己の人生の「敗北宣言」に他ならない。

彼女には幸せな家庭がある。

しかし自分にはそんなものは何もない。

妻も子も財産も未来も栄光も名誉も・・・。

何もないのだ!

何一つ!

ぐぎゃーーああああ!

その娘の写真が突然、喋り始めた。

こんなふうに。

「あなたが28年前、私のお母さんにあこがれたキモイ先輩ね。

あんたまだ独身やってるの?惨めね。

結婚も子育てもせず、だらだらと自称漫画家やってて恥だと思わないの?この人間のクズ!

お母さんもこんなクズ人間に好かれていたなんて気の毒だわ。

あんた一生独身で孤独死よ。

でも私は愛するパパとママをずっと見守っていくわ。

これが真っ当な人生というものよ。

結婚し、子を残す。これが出来ない人間は人間に有らず。

とっとと朽ち果てるがいいわ!キモイ独身男!

さっさと死ねよ」

無論、これは幻聴であったが、自分はこれを受信した瞬間、ガクガクブルブルとなり、「どぎゃああああああ!」と叫び机の下に逃げ込んだ!

そして独りすすり泣くのだった。

焼肉を焼いている店のお姉さんがキチガイを見るような目でこちらを窺がう。

そうだ。

己はなんの役に立たない片輪であり、キチガイなのだ。

畜生!

嗚呼、何という残酷なる現実なのだろう。

リアル人生ゲーム!

貴族舞踏会に招かれて優雅な人生を美しい妻と可愛い娘に囲まれて過ごす「人生の勝利者」たる妻帯者。

その一方で、地位も名誉も財産も妻も子も何もない「貧乏農場行き」の「人生の敗北者」たる絶望独身男性。

この歴然たる事実を目のあたりにして、己の惨めな人生をこれでもかこれでもかと再確認せざるを得ないのである。

やがて妻帯者の子息たちが、自分のような絶望独身男性を追い落とす日が来るのだろう。

己の遺伝子を残せない独身者の行く末は惨めの一言に尽きる。

これでもかこれでもかとその歴然たる事実が己を打ちのめすのだ。

哀れみと恥をたっぷりと味わい、惨めに宴は終了した。

帰り際、妻帯者の一人が言う。

「もう一生会うことはないと思っていたけれど、こんな宴を設けてくれたことで再び顔を見ることが出来たよ」

おそらく、同年代の惨めな独身者を見物出来て面白かったという意味なのだろう。

哀れの極みだ。

そうだ。

次の再会の場は誰かの告別式会場かもしれない。

だが、それも妻帯者の誰かの可能性が高い。なぜなら独身者は死んでも誰にも気づかれず告別式すら執り行われないからだ。

娘にも息子にも妻にも看取られないから連絡される術もない。

独身者は死しても惨めなのだ。

店の外に出ると、NTT代々木ビルに巨大な満月が掛かり、惨めな独身者を哂うかのごとく月光が「人生の敗北者」に恥のスポットライトを浴びせていた。

絶望独身男性に救いはない。


2010年4月25日

「アリス・イン・ワンダーランド」を観る

先日、「アリス・イン・ワンダーランド」を映画館で観た。

映画自体、最近は殆ど行かないのだが、ティムバートンとジョニーディップが好きな知り合いが居て、たまに誘われる事があり、このコンビの映画は意外とけっこう観ている。

週末の冷たい雨が降る夜、シネコンというのだろうか?複数の映画をたくさんやっている施設で鑑賞。

なんだか昔、夢の中に出てきたような場所でデ・ジャブを感じるのはなぜか?

深夜に近い上映時間帯だったが、金曜日とあって結構人が居た。

今、流行の3D、字幕で鑑賞。受付で専用めがねを借りる。

3Dは、何と言うか、昔「学研の科学」の付録にあった「立体スライド」に似た印象。

確かに立体に見えるが、少々目が疲れる。

映画に限らず、想像力を喚起させる創作物は作品内容が肝なのであり、表層上の刺激的な演出は関係ない。

時として逆に邪魔となる場合もある。

3Dだからといって2Dよりも映像表現が勝るわけでもない。重力系アトラクションに近いので、そういう類が苦手な人にとっては、単に苦痛になるかも。

それはさておき、作品内容だが(ネタばれありなのでこれから観る人は要注意)、自分は特にティムバートンとジョニーディップのファンという訳ではないから、まったく拘りなく観ていたので気が付かなかったが、同行のティムバートンファンにしてみれば物足りないとの評。

恐らく、ディズニー映画ということで「当たり障りのない健全作品」として作らざるを得なかったのだろう。

19歳の少女が大人になるに辺り、かくあるべきみたいな構成で、ルサンチマン的な味付けは一切ない。

反面、当たり障りのない事が並んでいるだけだから安心して観れる。

ラストあたりで、主人公が「不思議の国」から帰還し、様々な現実社会で生きている女性に声を掛けるのだが、その中でいつまでも「王子様」が現れると信じてお嫁に行き遅れの中年女性に対し、「お前は病気だから病院行け」と言い放つシーンは辛らつであった。

その一方で、自分は「キャリアウーマン」を目指すみたいな結末は何とも今風の「出来る女」を応援しますみたいなテーマが如何にもディズニー的。

原作は読んだことがないので比較しようもないが、異形の動物たちがワンサカ出てくるので普通に楽しいのではないか。

先日、DVDで見た同じファンタジーモノの「バンス・ラビリンス」と比べれば、「アリス・・」は限りなく軽い。

もっともこれはダーク・ファンタジーじゃないし、光が当たってる人用の映画だ。

自分はむしろ、作品そのものより、この映画を抵抗なく鑑賞できる「リア充」のお客に囲まれて、そのギャップを肌に感じる刺激が心地よい。

これは、日々充実している人が見て、安心出来る映画なのだろう。

絶望独身男性には「酷」な作品だ。

「リア充」に混じってひっそり鑑賞して、「自分もリア充なんだよう」と己を騙すにはうってつけかもしれない。

映画館を出ると雨は止んでいた。


2010年4月22日

いったいお前はナニモノだ?

曇天の朝。

上空の逆転層に反射され、都市ノイズが低い「ゴオ」という響きと共に落ちてくる。

新宿とか渋谷と池袋とか、激烈なる人の渦に巻き込まれる時、必ず思うこと。

これ、すべて母親の胎内から生まれでた存在であるということを。

それも例外なく。

ごく当たり前の、人類、いや有性生殖生物がこの地球に存在し始めてから延々と営まれていた結果が、この3000万首都圏の人の渦を形成している事実。

これまで人は例外なく、就職、結婚、出産という「ごく当たり前」の通過儀礼を経て、人生を全うし死んでいった。

それはなんの疑いもない誰もが受け入れなければいけない宿命だったのだ。

きょうNHKドラマ「ゲゲゲの女房」を見ていたら、島根から東京へと嫁ぐ主人公が、故郷に今生の別れみたいな覚悟を強いるシーンがあって、その紛れもない「通過儀礼」は苦痛と悲しみに満ちていた。

「幸せな日常の放棄」。

当時はそれが当たり前でそうでなければ生きていけなかった訳でもあるが、その「通過儀礼」あってこそ「未来」が築かれていったことも、また事実なのだ。

だが、2010年現在、この大都市の真ん中に巣食う己のような絶望独身男性はそんな「当たり前」な通過儀礼を経ることなく、半世紀を生き、壮年期から初老期を窺がおうとする人生の「第4カーブ」に差し掛かろうとしている。

にも拘らず、己はその宿命を受け入れることを未だ拒絶し続ける。

人は変わることを恐れ始めた。

変わることは失うこと。

いつしか就職、結婚、出産は人生において損失であり己の破壊であるという「囁き」が蔓延しはじめた。

男も女も「通過儀礼」を恐れ、ただひたすらに「己の殻」に閉じこもる。

そして人生に対する「年貢」を納めることなく生きるようになる。

人は豊かになれば「自己犠牲」を伴う通過儀礼を捨てる。

誰も「年貢」は納めたくないのだ。

「年貢」のない世界は理想郷かも?という幻想が支配していく。

結果、人は子孫を育むことなく老い朽ちていく。

恐らく、それは遺伝子の中に組み込まれた「絶滅プログラム」なのかもしれない。

増えすぎた種は地球上の環境を維持する上で著しく不均衡な存在となる。

だからそのような存在はある一定の「豊かさ」レベルを超えると「自滅」するように作られているのだろう。

この3000万首都圏に渦巻く人の流れは、明らかに許容範囲を超えている。

この人口を抱えるための資源は、恐らくもうこの地球上で確保することは困難になるかもしれない。

この閉塞した時代。袋小路の端っこに閉じ込められ、いじいじと石の下の虫のように生き続けることが「最高の贅沢」となった今、かつての「通過儀礼」は意味を成さない。

「通過儀礼」の果てにあった「幸せ」はもう何処にもない。

そんな幸せは人口が増え続けた時代の専売特許だ。

ついに人口減の時代に入り、新しい未来を築かなくなった社会に、就職、結婚、出産、子育ては必要なくなった。

あるのは滅びだけなのだ。

だが、人は所詮、ホモサピエンスという哺乳動物。

その本能には抗えない。

たとえ理屈で解っていようとも、その理性を乗り越えて、本能はこれでもかこれでもかと大脳被質を乗り越え、その衝動で人を突き動かす。

そして、その衝動が人類の歴史を作ってきたのだ。

望むと望まぬに拘わらず、それが人の「宿命」なのだ。

人はその「宿命」に年貢を払い、多くの自己犠牲を伴って次世代を育んできた。

本能が理性を突破する時、人は変わる。歴史が変わる。

「生きるって事は変わるってことだ」

どこかで聞いた他愛のないアニメの台詞が己の心の片隅で響く。

この気の遠くなるような、人の洪水は、すべて本能に突き動かされた結果なのだ。

望むと望まぬに拘わらず、一切の例外なく己に突きつけられた紛れもない現実がこの3000万の人の渦だ。

闊歩する人々はその背後に何万という先人の霊を背負い、またこの世に生まれ出る前に「刈り取られた」存在をも抱えて生きている。

己自身にも、先祖の霊が幾重にも重なり「生かされて」いるのだ。

その霊たちが己に囁く。

「さあ子孫を作れ!」

「お前の遺伝子を未来に告ぐのだ!」

「我らの血統を残すのだ!それがお前の義務なのだ!」

またこの世に生まれ出ることなく「刈り取られた」存在も己に訴える。

「お前はこの世に生まれでて幸いなんだぞ。その前に消されてしまった俺たちの無念は如何程か解っているのか!」

「その怨念でお前は生かされている。我らが得られなかったこの世に生まれ出た者の権利を行使せずして老い朽ちて逃げ切る気か!

許すまじ!許すまじ!」

その底なしの衝動が、一切の理性をかなぐり捨て己を「危険な」宿命へと駆り立てる。

宇宙開闢以来のエントロピー増大の宿命が、これでもかこれでもかと急き立てる。

一方で「理性」も己の中で反駁する。

「そんな本能に突き動かされたら、己の破滅だ。お前のような弱き者が通過儀礼を選択した瞬間、あっという間に滅ぼされるぞ!」

「いいじゃないか。このままで。今もこうして下らない戯言をネット上の日記で垂れ流せるんだ。それがお前の人生で関の山だったんだよ。これも幸せなカタチさ。」

本能の衝動は激しく急き立て、その一方で通過儀礼の恐怖に抗う己。

理性と本能の衝突が己を引き裂く!

ぐぎゃああーーー!

もはや父親になる権利も失いつつある惨めな己にも、その恐ろしい「本能の叫び」はずっと付いて回る。

そしてその衝動は、滅びと繁栄の分水嶺で木霊のように響き渡る。

「おまえはいったいナニモノだ?」

満員の中央線。その沿線に広がる膨大な人の営みの居。

これすべて「本能の叫び」が生んだ結果である。

「通過儀礼」を拒み、その「本能の叫び」を拒絶し続けた果てには孤独死しかない。

だがその「通過儀礼」を受け入れたところで数多の者は破れ、惨めに朽ち死んでいったのだ。

弱肉強食。

弱きものは淘汰され、この世から消え去る。

その「通過儀礼」のステージに引き出され、現実と闘争させられる恐怖と、このまま朽ち果てる無念さとどちらが勝るか?

闘争の末、僅かの望みを勝ち取るか、はたまた孤独死か?

はっきりせよ自分!

恐ろしい逡巡の日は続く。

人生とは何ぞや。


2010年4月15日

小学44年生の春

一昨日の暖かい日、自費出版原稿を入稿の際、印刷所最寄の南武線駅近くにある小学校校庭にふと目がいった。

散る桜の花びらを追っかけて何人かの女子児童が駆け回っている。

確か数年前、新海誠の作品で「秒速5センチメートル」というのがあって、これは桜の花弁が落下する速度だったようなことを思い出す。

地面に落ちる前に桜の花びらを掴むと何かいいことがあるかのように女子児童は必死になってソメイヨシノの花びらを追っかける。

そういえば新宿御苑でもそんな光景を目撃したので、流行っているのだろうか?

そんな小学校の休み時間の光景を眺めていると何だか自分のろくでもない当時のことが甦ってきた。

今週の伊集院光の深夜ラジオでも話題になっていたが、ひとつは野球のグローブのこと。

自分の世代は「巨人大鵬玉子焼き」の時代で、小学男子は漏れなくグローブを所持していた。

野球のグローブは昭和30年代生まれの男子にとって必須アイテムだったのだ。昔のものは硬くて自分にフィットさせるまではかなりの時間を要したのを思い出す。

年季が入れば入るほど自分の身体に馴染んできた。

未だに自分の手元には40年程前、親父に買ってもらったそのグローブがあり、今でも現役で使える。まさか半世紀近く経ても使っているとは、買った当時想像もしなかったろう。

少年用グローブだったので大きさも小さい。しかし今でも十分に使用に耐えうる。

子供の頃、身体で覚えたスポーツは久しくやっていなくとも、すぐに甦ってくる。

何事も幼少の頃に何を覚えるかで人間決まってくるものだ。

もう一つ、その校庭の光景から思い出されたのは、確か小学校4年生くらいだったか、クラスで二人一組になって鶏の卵を孵すという理科の授業があった。

機械的に組まされた相手は、特に仲がよかった訳でもないクラスメートの女子。

無作為に選ばれた有精卵を孵卵器にいれ、それぞれのコンビが指名された卵の成長記録を担当するみたいな授業。

数日後、クラスで最初に生まれた卵がなんと、自分と女子とのコンビが担当したものだった。

他のクラスメートは変に囃し立て、「お前らの子供だぞ」とかからかってきた。

そもそも当時から女子に相手にされたこともない存在感ゼロの自分が「卵が最初に産まれた」というだけで、クラスメートの女の子との仲を云々されることが奇妙であり、その鶏の雛が恰も、女の子との間に生まれた自分の子供なんていう「ありもしない現実」に戸惑いながらも、心の奥底で不気味なときめきを感じていたことも確かだった。

無論、当時はどうして子供が出来るかなんて知らなかったし、Hなことを考える年齢にも達していなかったのであるが。

それはさておき、そんなこともあって妙にコンビ相手の女子児童が気になり始めた。

もっとも相手の女子クラスメートはこちらをキモイ冴えない馬鹿男子と見くびっていたから、他のクラスメートのからかいにも迷惑千万の表情をしていた。

その後、その生まれた雛がどうなったか覚えていない。

コンビを組んだ女の子とも仲良くなったわけでもなく、どちらかというと嫌がられていたのでこちらもいつしかどうでもよくなっていた。

そんな他愛のない事が急に思い出されたのだが、思い出したところで一銭にもならず、楽しくもない。

40年以上前の話だから、名前も顔もどんな人間だったかも覚えていない。

ただ、朧げに迷惑そうな表情だけは微かに残っている。

そう、異性に関して思い出されるものはすべてネガティブな事ばかり。

その子がもし普通の人生を歩んでいるのなら今頃、結婚し息子娘が二十歳を迎えていることだろう。

一方、こっちは相も変わらずマトモな通過儀礼もなく「小学44年生」として、未だ独身として燻っている。

桜の花びらを追っかけていた女子児童はチャイムがなると一斉に教室へ帰っていった。

そう、小学生は今も昔も45分単位で10分間の休みを挟みつつ細かな時間を区切って生活している。

そんな「決められた時間」の中で思い出が作られてきたのだ。

日本の小学校は12歳、6年生まで。

しかし、ここに50歳、小学44年生の自分が居る。

いつまでたっても初等教育の場から卒業できない哀れな絶望独身男性として。

父兄よりも歳を食っている小学生だ。

ふと、自分もチャイムに合わせて、教室に走って行きたい衝動に駆られる。

しかし、そこに自分の居場所はないのだ。

可愛い女子児童に掴まれることもないまま地上に落ちて朽ち果てる桜の花弁の如き惨めさよ。

嗚呼、小学44年生。哀れなり


2010年4月13日

我が友ハエトリグモ

先日、多少暖かくなった夜、灯火に小さいユスリカが大量に集まってきた。

仕事場の机の上にたくさん飛んできて鬱陶しい。

暫くすると、一匹のハエトリグモがやってきて、次々にそのユスリカをハンティングし始めた。

目の前でハエトリグモが狩に興じているのを観るのは初めてだったので暫し見入ってしまう。

ハエトリグモは視力が良く、獲物を捕らえる行動は肉食哺乳類に似て面白い。

かつて江戸時代にはこれを「屋敷鷹」として重宝したとか。

仕草も人間に似るところが多い。

ユスリカを捕らえて体液をちゅうちゅう吸った後は、その干からびた残骸をポイと捨て、次のハンティングに取り掛かる。

3時間ぐらいの間に15匹位のユスリカを捕らえ、机の上はさながらこのハエトリグモの猟場と化してしまった。

自分の部屋は築50年の文化住宅。大して改装もしていないから、この部屋のハエトリグモも代々住み着いているようだ。

天井を見るとびっしりハエトリグモの巣が作られている。さながらハエトリグモシティーである。

夏場は網戸がないから鬱蒼と茂る庭から大量のウスバカゲロウ、蚊、ガなどの虫たちが大挙して押し寄せてくる。

ハエトリグモにとって食料は事欠かない。虫まみれの部屋が大して掃除していないのに比較的綺麗なのは彼らが捕食しているからに違いない。

自分もここに50年住み着いているから兄弟みたいなものだ。

まさに共存共栄である。

この部屋のハエトリグモは我が人生をずっと見続けてきたのだろう。

時々パソコンのマウスポインターにじゃれ付いて可愛い奴だ。

我が友ハエトリグモ。

信頼できる奴はお前たちだけ。

もし己がここで孤独死したら大量のハエがやってくるだろうからハエトリグモにとっても暫くは「最後の晩餐」になろう。
同期の桜ハエトリグモよ。

これからも仲良くしよう。


2010年4月12日

Pagetop役立たずなパケットライト方式。存在価値なし。

先日、自費出版用の原稿をデータ入稿しようと、版下をCDに焼いて印刷会社に入稿したところ、CDにデータがはいっていないという。

そんなはずはなく、ちゃんと確認したはずなのだが。

渋々持ち帰ってチェックしてみると、データは間違いなく書き込み済みで入っている。

しかしどうやらそのデータはパケットライト方式で焼きこまれていたもののようだった。

これだと他のパソコンで読み取れないケースが多い。

この前もこの方式でデジカメ画像をCDに焼いてDPE店に持っていったら機械が読み取ることが出来ず、とんだ無駄足を食ったことがある。

いったい、このパケットライト方式は何のためにあるのだ?

こんな汎用性のないタイプの記録方式がなぜ存在しているのだ?

まったく人迷惑以外のナニモノでもない。

自分のウインドウズパソコンには何の設定もしないと最初にこの方式でCDを焼くアプリケーションが立ち上がってしまう。

うっかりパケットライトで焼いたその日には、丸1日無駄足を食う羽目になるのだ。

誰が考え付いたか知らぬが、こんな役立たずな汎用性のない記憶方式を仰々しくパソコンに設定するな。

CDに焼くということはそもそもデーターを移動したり保存する目的があるからこそ焼くのであって、そのパソコン以外で読み取れないのであれば何の意味もない。

本当に頭にくる。

単なる技術者のオナニーみたいなパケットライト方式でどれだけ人が迷惑しているか解らないのか?

こっちはそんな記録方式を選んで遊ぶパソヲタでもなく、とにかく道具として効率よく働けばよいのだからややこしい汎用性のないものを混在させるなといいたい。

お陰でまた遠路遥遥、印刷会社まで出向かねばいけなくなった。

こんな方式で二度と焼いてなるものか。

さっさとアンインストールしたいのだが、それでまたパソコンに不都合が起こったりするから安易な事も出来ない。

デジタルには役立たずな存在が多すぎる。

とにかくパケットライトはいらない。この世から消え去れ。

まさに役立たずだ。


2010年4月11日

「ゲゲゲの女房」を観る新しく始まったNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を観る。

その中でこんなエピソードがあった。

「売れ残り」気味の主人公独身20代後半女性に縁談の話が来た。

相手は38歳。戦争で片腕もげた漫画家である。

片輪の上に、何の保証もない貸本漫画家がお見合い候補なのか??。

今だったら縁談どころか「犯罪者予備軍」として世間からスポイルされるレベルの「いらない人間」として絶望人生を歩むしかないのにだ。

ところがこの時代、昭和20年代後半から30年代初期位までは適齢男子が戦争によって徴兵された結果、「男不足」による結婚難が発生していた。

結婚しなければ生きていけない当時の日本女性にとって、この状況は深刻だった。

もはや贅沢など言っていられない。

その結果、五体満足ではない片輪漫画家男ですら美人嫁を獲得するチャンスを得られたのだ。

なんと恵まれた時代だったのだろうか!

昨今、「草食男子」やら「恋愛を放棄した男子の増加」等と囁かれているが、どこか胡散臭い。

ホモサピエンスのオスとして延々と受け継がれてきた「性的衝動」を、僅か一世代にも満たない時間で、そのすべてを放棄出来る事などありえない。

女性の社会進出と自立という劇的環境変化があったにせよ、哺乳類のオスがベーシックである以上、その本能の呪縛から解放されることはない。

「結婚も恋愛も必要なし」というのは自己欺瞞に過ぎない。

本当にその本能の呪縛から解き放たれるためには、この哺乳類という「不要な体」を捨て去る以外にないのだ。

ネットに没入しようと「リア充」の人間には勝てない。

己の体は常にホモサピエンスのオスだ。

魂をデジタルにベーシック化出来る時代はまだ遥か先なのだ。

所詮ネットは「仮想現実」でしかない。

だから、未だに「リア充」70代の爺さんたちが「立ち上がれ日本」等と元気に跳びはねていられるのだ。

彼らは現世で「リア充」を堪能してきた。

戦争を生き抜いて、「売り手市場」で安々と嫁を娶り、高度成長期の終身雇用下で社会的地位と財産を肥やすことが出来た。

若年層からネットで罵詈雑言を叩きつけられようと、この世間を支配しているのは「リア充」高齢者だ。

この現実に抗することは出来ない。

今の若年男子は救われないほどの「負け組み」世代に落ちぶれた。

将来が保障されない不安定な給与と雇用。常識外れの価値観を振り回して闊歩する同世代女性との結婚はもはや絶望的。

かつては片輪でさえ縁談が来たのに、いまや平均以上の給与や社会的地位があったとしても必ずしも結婚出来る訳ではない。

もはや「リア充」になることは夢物語であって、己を「草食系」と偽り、欲望を捨てた「フリ」をしながら自分を騙し続けるしかない。

若くして人生を諦めざるを得なくなり、心身ともに覇気を失い、20代にして人生はTHE END。

2010年の今日、はしゃいでいるのは「リア充」爺さんだけ。

結果、この日本には70代による70代のための70代の政治しか存在しない。

そのうち80代、90代、そして「あの世」のための政治と相成ろう。

素敵じゃないか?

骸骨の骸骨による骸骨のための政治。

ホネホネロックにあわせて踊ろうよ。はとぽっぽ。

「ゲゲゲの旦那」はきょうも元気だ。

何の苦労もなく良質の嫁を迎え、洗濯機、冷蔵庫、カラーテレビという「三種の神器」を手にし、高度成長下の終身雇用で給与は増え、60にして莫大な退職金を得て、優雅な隠居年金生活。

こんな「黄金人生」を経てくれば、そりゃ70代でも元気になろう。

それに比べりゃ今の若年層は同じ日本人とは思えない。

人間以下、いや、妖怪以下だ。

妖怪のほうがまだ幸せだよ。

妖怪以下に貶められた若年層日本人に未来なんかないのだ。

ほら、今夜も絶望独身男性ニートたちが歌っているよ。

「下下、下下下の下。

朝から晩までネット漬け。

苦しいな。辛いんだ。ニートにゃ明日も未来も夢もなんにもない。

みんなで嘆こう下下下の下。

人生絶望下下下の下。」

嗚呼、辛い。


2010年4月6日

新宿御苑のソメイヨシノ

新宿御苑にソメイヨシノを見に行く。

毎年、この時期になると新宿御苑の桜を眺めに行く。ここ数年習慣になっていて行かないと妙に気が治まらない。

今年の花見シーズンは雨風や真冬のような日が多く、なかなかゆっくり観て回ることが出来ない。

やっとこの日、暖かく穏やかな晴天に恵まれたので新宿御苑に足を運ぶ。

場所柄平日でも凄い人の数。

アルコール類は原則持込禁止なので派手な酔っ払いもおらず、落ち着いて観覧出来るのがいい。

満開のソメイヨシノは風が吹くと花びらを散らし始めるのでこの日が恐らく今年最後の「花見日和」だ。

年々目立つのは外国人。邦人と思ったらハングルや中国語を話している。白人系も目立つ。

「郷に入れば郷に従え」の諺か、桜に対する反応は日本人と変わらない。

午後の陽に照らされた満開のソメイヨシノは毎年見ているにも拘わらず、その妖艶さに圧倒される。

花見を毎年楽しめるのも取りあえず五体満足である証だ。

誰に頼るのでもなく、一人で新宿御苑に足を運べるのだ。

しかし、人は歳と共に心身は衰え始め、言うことを利かなくなる。

生まれて半世紀余。まだ何とか体は動き、生きる意欲は差ほど低下していない。

しかし、今後はどうなっていくか?

すでに老眼は始まり、近くのものを見るのはめがねをはずさねばならぬ。

まだその程度はよかろう。

様々な機能の低下が己の人生に不安を少しづつ植えつけていく。

人間、摂食と排泄が自分で出来なくなった時が「人生の終わり」だ。

そこまで至らなくとも精力減退とか、勃起不全とか洒落にならない位の衰えが否応なしにやってくる。

若い頃は88mm対戦車砲の如く、鋼甲弾を勢いよく発射し、分厚い装甲をいとも簡単にぶち抜けていたのに、気が付くと37mm対戦車砲のように軽戦車すら撃ち抜けない己の主砲に愕然とするのだ。

意欲があっても、それを行使出来ぬもどかしさが、やがて人生を絶望へと誘う。

妻も娶れず、子も設けられないまま、我が主砲は目的を達せられることなく、朽ち果てようとしている。

レイテ沖海戦シブヤン海の戦艦武蔵のごとく。

人生の敗戦。

そんな言葉が脳裏を過ぎり、ガクガクブルブルする。

すでに己の人生は花吹雪のごとく散りゆくあるのか?

恐ろしい。

レジャーシートの上でいちゃつくカップルや幸せそうな家族連れ、隠居人生を楽しむ高齢者のグループ。

そんな「成就」しつつある花見客に比べ、己のような絶望独身男性は華開かずして枝から落ちる蕾みのようだ。

すると、花吹雪として見事散るまでにも至っていないのか。

嗚呼、惨めなりわが人生。

来年も新宿御苑でこのソメイヨシノを見ることが出来るだろうか?



2010年4月2日

東京スカイツリーは火葬場の煙突か凌雲閣の亡霊だ

2010年の新年度が始まったらしい。

先週、いくつか花見をしたが、寒くて寒くてどうしようもなかった。

体感気温に加え、諸々の気力の衰えが寒さを増大させる。

世間と自分との時間のずれが激しくなり、走馬灯のように猛烈な速さで「自分以外」の風景が飛び去っていく。

ぼうっとしていると月曜の次に月曜が来る。木の芽が膨らんでくるのがコマ撮りフィルムのような速さで見える。

じっとしていればお金を使わない。

しかし、社会保障費とかは否応なしに貯金から引き落とされる。だから何もしていなくともお金は減っていくのだ。

物価も賃金もどんどん下がっているのになぜ国民年金の保険料は増えるのか納得のいく説明を聞いたことがない。

自分が支給される歳まで預金がもたない。そもそも本当に年金などもらえるのか?

それすら疑わしいのに保険料だけが上がっていく。

ただでさえ、収入の低い若い世代の未納率が高いというのに、これではまともに払う人間が居なくなってしまうのではないか?

やれエコポイントだ、やれデジタルテレビだと消費を煽っているCMが流れるが、この恩恵は誰が受けているのか?

少なくとも自分には関係ない。

もはや「消費する」という感覚すら薄れてきた。情報とか趣向はすべて「原則タダ」のネットで済ます。本屋に行くことさえめったになくなった。

買いたいものなど何もない。

ひたすら寝て時間を潰す。

ただそれだけだ。

テレビでは入社式の映像。しかしまともな正社員として「社会人」になれるのは大卒でも一部のものだけらしい。

今日もハローワークで職探しする新卒者も多いそうだ。

だから敢えて就職留年する学生も多いとか?

こんな状況で若者が消費にお金を回すはずもなかろう。

お金を持っているのは高齢者ばかりで消費対象も高齢者。デジタルテレビやエコポイント商品も買っているのは高齢者か、ごく稀に恵まれた一部の若い高所得者だけだろう。

大多数を占める「低所得者」にとってはもはや関係がない。どうでもいいことだ。

ましてや「子供手当て」「高校無償化」なんて何処の世界の話なんだ?

そしてその財源は哀れな低所得者の懐から掠め取られる。

なんの希望も与えられない絶望の愚民がどろどろと蠢いているという現実を忘れ、「家族持ち」なんていう「童話の世界」の住人のためにお金がばら撒かれている。

もはや昭和じゃないのだ。結婚し、子供を設けるなんて今や「童話」以外のなんなのだ?

もう笑うしかない。

これが今の日本だ。東京スカイツリーが東京タワーを抜いたそうである。

しかし家からは見えず、先日たまたま池袋サンシャイン60に昇ったときに初めて目にした。

下町のほうにぽつんとみすぼらしく突っ立っている灰色の棒。

なんとも覇気がなく、あれが600mを超えたとしても何の感慨もなかろう。

重く沈んだ時代背景の中で、東京スカイツリーの存在は火葬場の煙突にしか感じられない。

しかし、本当に完成するのだろうか?

俄かには信じられない。

あれは途中でどうにかなって放棄されるような予感さえある。

不幸の象徴みたいな重苦しさが漂い、気分が曇る。

建設主は今から観光客の皮算用しているようだが、あまり期待しないほうがよかろう。

押しかけるのは小金と暇を持て余す高齢者ばかりだ。高齢者が押しかけるから塔自体も早く老朽化するかもしれぬ。

意外と東京タワーより早く解体されるか倒壊してしまう予感がする。

いっそ巨大な卒塔婆にすればよいのである。

あれは関東大震災で崩壊した凌雲閣の亡霊だ。

運命を同じくして悲惨な最期を遂げよう。

妻も娶れず、子供も設けられず、ただ孤独死を待つだけしかない絶望独身男性にとって、この新年度は単に人生の蝋燭がまた短くなったという再確認に過ぎない。

今年もまもなく桜が散っていく。

恐ろしい。
homeostasisTOPへ戻る