2010年1月・2月・3月

ブログもあります。ブログの方が早く更新される場合があります。


2010年3月20日

コミケットスペシャル水戸ゲスト原稿情報

3/21〜22に行われる「コミケットスペシャルイン水戸」に参加するサークル『漫画の手帖』にて頒布される新刊「漫画の手帖TOKUMARU4号」にゲスト原稿を寄稿。

スペースは2日目3階E-45bです。

なお、あびゅうきょ工房は今回のコミケットスペシャルには参加していません。


2010年3月16日

東京都青少年健全育成条例改正案と『非実在青少年』規制を考える集会出席

昨日、新宿都庁舎議会棟で開かれた「東京都による青少年健全育成条例改正案と『非実在青少年』規制を考える集会」に参加してみた。

たまたま興味ある知り合いも居たので同行することに。

14時開場だったが30分くらい前にはすでに会議室前には相当数の参加者が集合。異様な熱気に包まれていた。

予想外にたくさんの人が集まったものだ。

やはり東京である。

その中には知り合いの漫画家もいらっしゃり、やはりこの条例改正案に危惧を持つ同業者は多い。

14時からイベントが始まる。

壇上には重鎮クラスの漫画家、評論家、革新系元国会議員、民主党都議、無所属革新系都議が臨席。

記者席及び、傍聴エリアは立錐の余地もないほどの参加者。

集会の具体的内容はすでに各方面で述べられているし、16日付け朝日新聞朝刊にも大きく取り上げられている。

記者会見についてはこちらを参照。

ここからは自分の思ったことを徒然なるままに記す。

まず、集会の主旨が事前に解っていなかったからかもしれないが「内向きの説明」が多かった事に違和感が。

外に向かってのアピールの場としては、やや集会の方向性が曖昧な気がした。

事前の記者会見が主だった声明の場だったらしく、結局「内輪の報告会」にされた雰囲気は否めない。

壇上の評論家が「健全と不健全の分離は不可能」と説明していたが、部内者からすればそれは周知の事実で、ここで改めてレクチャーを受ける必要もない。

一方で、規制賛成派や懐疑派からしたら、そんな理由で考え方を改めそうもない。

これは捕鯨問題と似て、推進派からしたら「食の対象」に過ぎないが、反対派からしたら「崇高な動物の虐殺」に当たる訳で、どこまで行っても平行線。

最後は文化、文明、宗教、民族対立に行き着くだけ。

この「非実在青少年」規制についても同じで、いくら時間を費やしても平行線の議論に終始するだけだ。

「内輪の報告会」のために貴重な場と時間を費やすのは如何なものだろう?

もはやこの法案成立回避のために残された時間は残り少ない。

改正案排除のため如何に実務的な行動計画を発表し、それを参加者に実践してもらうかを伝達する場であって欲しかったのだが。

ここで情緒的な不合理を説いても無意味。

実務的に法案を可決させないための議会工作として、この法案に反対している議員にどのような支援が出来るのかを論じる場であって欲しかった。

「水際」で敵の上陸を阻止出来なかったのだから、内陸に引き込んで包囲殲滅する戦略を立てる時に来ているのにも拘わらず、何となくのんびりした雰囲気が漂っていたのが気になった。

具体的な法案阻止の戦略がなく、同席した知り合いに言わせれば「ロードマップなき反対運動」である。

無論、今回は時間がなかったとも言えるが、普段より自分たちが置かれている「危機」を自覚してこなかったところにも責があろう。だから不意をつかれ「奇襲上陸」を許してしまうのである。

この集会で意義ある事だったと思うのは、永井豪氏のお話。

実際自分の作品が批判に晒された経験からこの状況を危惧されているため言葉に説得力がある。

永井豪氏の作品は国内外でも高く評価されており、もし当時、法律で「不道徳」漫画表現を規制していたら今の日本コンテンツ産業の土壌は育たなかったであろう。

あと、反対派都議の出席も有意義だ。

ここに実質法案を採決する当事者が居なければ何ら意味がない。

直接、自分たちの主張を都議たちに訴えるために都議会に来ているのだからね。

その都議にしても「票」になりにくい「コンテンツ擁護」の主張を如何に展開していくかに苦労しているようだった。

自動車産業のように、その地域まるまる企業の「城下町」みたいな構図があれば運動の展開はしやすいだろうが、コンテンツ産業の場合、従事者が散在してなかなか難しい。

精々、杉並区とか練馬区、武蔵野市、三鷹市位なもの。

もっと産業規模の大きい、出版、流通、取次、書店をも巻き込んで動いていかないと有効な戦略にはなり得ない。

首都からこのようなコンテンツ事業の一切をボイコットするような経済効果に訴える戦略方針が立てられれば、恐らくこんな教条的法案などあっという間に吹き飛んでしまうだろう。

そんなことを思案しつつ16時の閉会を迎える。

準備不足等で集会内容には若干の不満があったにせよ、このようなイベントが開かれたことは有意義だった。

また、パソコンの前で悶々としているだけでは解決策にならぬ。実際動いて陳情するという行動も必要だ。

まだまだ、状況は予断を許さないようだ。

しかし、法案反対の声は各方面から着々と上がっているらしい。

遅まきながら続々と援軍到着という状況だ。

スターリングラード戦のジューコフの如く敵を包囲殲滅出来るか、はたまた硫黄島持久戦の如く敵に多大なる出血を強いて法案を退ける事が出来るか否か。

今回の事案が日本コンテンツ産業の未来を決めるといっても過言ではなかろう。

中国、韓国などがコンテンツ産業育成のために国家を挙げて取り組んでいる今、日本が首都東京でそのコンテンツ産業を萎縮させる法律を施行したら、家電、自動車、電子機器産業と同じように彼らの後塵を拝する結果を招くことは目に見えている。

コンテンツを制するものが、これからの基幹産業たる情報ネット分野の世界覇権を獲得する。

諸外国がなりふり構わずその覇権に向けて動いている今、「奇麗事」を言っている場合ではない。

ダークな部分を含めてコンテンツなのだ。

たとえばグーグルに「青少年の健全育成に有害」なものを一切検索できないように法で縛ったらここまで大きく成長したろうか?

否。

一切の規制を与えず萎縮させずに容認したからこそグーグルは国際的基幹産業として成長出来たのだ。

もし「青少年の健全育成」に「有害」なものを見せたくなければフィルタリング、ゾーニングを徹底させればよろしい。

実際それは必要だし、それ相応の対応は実践されている。

東京の一般書店の子供向け書棚に成人向け漫画が一緒に並んでいるケースなど殆ど観たことがない。

コンビニしかりだ。もはや「成人向け漫画」誌の立ち読みすら容易ではない。

にも拘らず、一部の者が「有害」と判断したものを存在すら否定するならばナチスの「退廃芸術」排除運動と寸分変わらない。

そんな国は遅かれ早かれ自壊していく。

更にこんな例えもあろう。

スピードが出すぎる車で事故が起きるからといって時速120km以上出るエンジンを開発してはいけないと技術者に法律で禁じたら高性能エンジンが開発出来ると思うか?

そんなことをしたら世界のシェアを他所に奪われ、市場を失うのがオチである。

無論、公道で120km出せば交通違反だ。しかし取り締まるのはドライバーであって車ではない。

同じく仮に「有害」なものを観て事を起こす者が居たらその人間を厳しく取り締まればよいのだ。

ところが規制反対派は人間ではなくコンテンツが悪いから、市場からコンテンツを排除すれば「この世の春」が来て「青少年が健全に育つ」とでも説く。

今や、コンテンツがどれだけ基幹産業として成長し始めたかも知らずに。青少年が「健全」に育つ前に国が滅ぶよ。

恐るべき、無知と無邪気さである。

すでに日本は「コンテンツの黒船」に囲まれてしまっている。

規制に妄進する守旧な者たちは己の「無知無策」を知るべきなのだろう。

手遅れになる前に。


2010年3月13日

「パンズ・ラビリンス」という映画

「パンズ・ラビリンス」という映画を観た。

最近は、殆ど新しい映画というものを観ない。

映画館に足を運ぶ事も殆どなく、DVDも借りない。テレビで放映されてもチャンネルを合わせない。

基本、もう新しい「他者の創作物」に興味がないのである。

結果、観るものといえば20〜30代のまだ感受性が豊かで許容範囲が広かった時の作品を反芻する位なもの。

「パンズ・ラビリンス」は今回たまたま知り合いから薦められた流れで観た作品。

タイトルもストーリーも一切知らない作品だったから予備知識もない。

この作品が2007年のアカデミー賞他数々の映画賞を撮った「名作」であることすらまったく知らなかった。

それほどまでに最近の映画には疎いのだ。

ストーリーに関しては、各方面でレビューがあるだろうからここでは記さない。

基本、残酷でえげつない表現映像は生理的に受け付けない。

この作品に限らず、最近の映画は視覚効果がリアルになりすぎて作品鑑賞以前に、生理的に堪えられないものが多い。

特にもう50を超えると、若い頃は平気だった多少刺激的な表現ですらもう見ることが出来ない。

それにヨーロッパ映画は陰湿なものも多く「ブリキの太鼓」を観て以来、こういった系統の作品はまったく受け付けられなくなった。

スタンリーキューブリックの作品「時計仕掛けのオレンジ」も学生当時は普通に楽しめたのに、今はもうダメだ。

「ジョーズ」も高校生時代に映画館で普通に観ていたのに、もう今は刺激的過ぎて耐えられない。

ましてや最近の特殊効果のリアルさは当時の比ではない。

「プライベート・ライアン」しかり、作品の評価以前に正常な精神を保てない映像に辟易するというか「観たくないもの」に対する拒絶反応が先に立って鑑賞どころではないのだ。

例えで言えば「磨りガラスを爪で引っかく」不快感に似て、正常な精神を著しく阻害するのである。

嫌な感覚が何日も続くような、そんな不快な感覚。

「ブリキの太鼓」を観た後、何日後悔したろうか。

ジェットコースターとか、ああいった重力系アトラクションの不快感と似ている。

ああいったものに好んで乗る人間の気が知れない。

「パンズ・ラビリンス」もそういった生理的に受け付けない映像が満載で「鑑賞以前」の問題でダメであった。

確かに内容は世俗的幻想世界とリアルな現実世界を巧みに対比させ観るものを引き込む魅力がある。

しかし拒絶反応が出てしまう映像があるので鑑賞に堪えられなくなる。

これを20代の時に見たらそんな拒否反応はなかったかもしれないが、もうこの歳だと全然ダメになっている。悪い意味で影響を受けてトラウマを呼び起こし精神を不安定化させるのだ。

人間はそういったものを呼び起こさないよう、歳を重ねるにつれそのような恐れのある刺激は極力避けるものだ。

だから自分のような人間はこの歳になったら観てはいけない映画だった。

あと、ファンタジーに対する考え方というか、欧米人は深い森の中に棲む「幻想世界の生き物」を所詮野蛮人が妄想した役にも立たない幻という捉え方をしがちで、この映画でも主人公が観た「妖精世界」は結局、現実逃避から産まれた「妄想の産物」として処理され、哀れな結末を迎えている。

結局、彼らにとって救いはキリスト教であり、古代人が信仰した「土着宗教」から派生した「ファンタジー」は遅れた野蛮人の邪教であって、そんなものに救いはないぞとでも言いたげである。

確かリュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」という映画も天からの啓示を受けて戦に立ち上がったのは、結局のところイカレタ少女のトラウマが原因の妄想事でしかなかったとして処理されている。

一方、日本のような森羅万象、すべてのものに八百万の神が宿る世界では「ファンタジー」にこそに真理があって自然に身を委ねるところに救いがあるという捉え方が普通なので、この「パンズ・ラビリンス」のような結末を見ると非常に違和感が残る。

もっとも、そういった部分を除けば映像も雰囲気もストーリーもよく出来た映画。賞をいくつも獲ったのも頷けよう。

いずれにせよ、自分の感性が錆びれ、許容範囲が著しく狭くなり、刺激的な映像にまったく耐えられなくなってしまった己の「老化」に吃驚する。

歳を取るというのはこういうことだ。


2010年3月11日

東京都青少年健全育成条例改定のこと

現在「東京都青少年健全育成条例」改定案が都議会で審議されているという。

その中には、実在しない2次元キャラクターなどを「非実在青少年」として取り締まる規定も含まれているらしく、ある意味、漫画家にとっては死活問題になるという。

詳しいことはこちらを参照してみれば解ると思う。

正に他人事ではないわけだが、しかし「児童ポルノ法改定」といい、従来から規制の輪が締め付けられているのに何故当事者の漫画家、漫画団体等が「規制反対」の実効的活動を展開してこなかったのか?

そんな疑問は常々思う。

表立って「ポルノ漫画」擁護を声高に叫ぶのは憚れる、ということか?

日本の次期基幹産業は漫画、アニメ、ゲーム等のコンテンツ産業だと何度か聞きかじったこともあるし、事実、海外からの評価も高いと伝えられる。
一方で、積極的にこのコンテンツ産業を推進発展保護に邁進する政治家は知らない。

未だ「道路族」などの族議員は多いが、「コンテンツ族」なんて聞いたことがない。

こういった規制の法律強化の話が出るたびに思うのは、我々のような漫画家の味方をする強力な「政治家」が皆無ということ。

せいぜい「表現の自由」を尊重したい「革新系」の政治家がこのような規制に反対している程度。

しかし、彼らは決して日本のコンテンツ産業や漫画家の権利を保護する立場に居るわけではない。

むしろ、「子供と女性の権利」という立場からすれば「萌え系」漫画、アニメ、ゲームは規制すべき対象物だと思っているだろう。

つまり、本当の意味で我々の味方に付く国会議員、地方議員は何処にもいないのだ。

議会にも会派にも政党にも。

いったい何をやっているのだ?

我々の代表者は行政府の何処にもいない、ということを異常とは考えないのか。

だからこんなキチガイカルトが思いつくような規制法案や改正案が簡単に議場に上がってしまうのである。

今回も「東京都青少年健全育成条例」改定案が議場に上がってから急に騒ぎ出した感があるが、議場に上がってしまう時点で勝負にならない。

手塚治虫が戦後日本漫画界を開拓し始めたのが1950年代と考えるならば、この半世紀、いったい何をやってきたのだ?

漫画、アニメが戦後の出版、映像産業界を大いに支える貢献をし、国民に親しまれ、十分に市民権を得ているはずにも拘わらず、未だ漫画、アニメというものが国家事業として位置づけられないことのほうが異常なのだ。

だからいつまでたってもキチガイカルトの標的にされるのである。

アメリカの議会がハリウッド映画界の表現活動を萎縮させるような法律を作っているか考えてみよ。

自分たちの主要産業を自分で自分の首を絞めるような馬鹿は流石に居ない。

ところが日本には、そういったコンテンツ産業を積極的に保護しようとする議員が皆無だから、平気で自分の首を絞めようとする法律を作ったりする。

国立メディア芸術総合センター建設破棄もしかり。今回の条例改正案もしかり。

だが、結局それは己の権益を守ろうと積極的に動こうとしなかった漫画、アニメに携わる「作り手」当事者にも責任があるのではないのか。

日本社会、いや世界において己たちのやってきた仕事が誇れるものであるとするならば、もう少し政治的な場で自分たちの権益を守る意識を持つべきじゃなかったのか?

いつまでたっても世間から「風当たりの悪い」位置に立たされ、陽の目を見ないまま何時までこんなことをやっているつもりなのだ。

この法律が施行され、創作活動や頒布の場が奪われたら「はいそうですか」とでもいうのか?

その程度のレベルであれば、潰されても文句は言えまい。

もし「萌え系18禁漫画、アニメ、ゲーム」を含め、今後も存在すべき価値があると誇れるのならば「闘争」してその権利を勝ち取らなければいけない。

世は少子高齢化し、あらゆるものが萎縮し、「表現の自由」よりも「日々の安全」を優先するようになってきた。

そんな潮流の中で「萌え系18禁漫画、アニメ、ゲーム」が生き残っていくのはかなりの困難が伴う。

だが一方で、これらのコンテンツは特に若年層には普遍的なジャンルとして底辺まで根付いている。

これが「犯罪を助長する」科学的根拠もない。むしろバーチャルな領域で「己の欲望の発散の場」となるならば、現実社会での犯罪抑止に繋がっている可能性もあるし、実際統計もそれを証明している。

このネット時代。いくら「聖人君子」面した胡散臭いキチガイカルトが主導した条例が施行されたとしても、その法律が描いた「専制管理社会」を現実化させることは不可能に近い。

「規制」対象の画像などネットを通じて幾らでも手に入る。

そのすべてをこの世から消し去ることなど費用対効果で考えれば現実的ではない。

また、単純所持禁止と言ったところで、これ程普遍的に出回っている書物すべてを回収すること自体、不毛な行為だ。

あらいる価値観がごった煮のように蠢き、個人の人権が煩く叫ばれている時に、一軒一軒家宅捜査し焚書ごときイベントを国家レベルで展開することも現実的でない。

更に空想の産物である「非実在青少年」など取り締まれるはずもない。

ただでさえ不景気の今、雇用が失われている時代に、たとえ産業規模が小さいとはいえ、同人誌産業や成人向け出版社を潰し、失業者を増やし、政情不安を煽るような事態を敢えて作るような不利益をしてまで強行する類のものでもない。

一部のキチガイカルトが喜ぶだけの「選民事業」を実践するエネルギーや指導力が今の国や自治体にあるとは思えぬ。

結局は、たとえ法律が施行されたとしても実効性には乏しい。

むしろ、それによって被る損失は避けたいと考えるのが人の性だ。

たとえば、公共の施設での同人誌イベントが年間どの程度の割合なのかは知れぬが、それが規制で一切無くなった時の利益と不利益を考えれば自ずと悟ろう。

建前上の効果のまったくないキチガイカルトを喜ばすだけの「法益」を遵守したところで一銭にもならぬのだ。

景気が上がる気配すらない時代に教条的な「法を遵守」する馬鹿は居ない。

この日本には「売春」や「賭博」を取り締まる法律はあるが、実質有名無実だ。

「パチンコ」然り「ソープランド」然り。

「利益になる」「人が集まる」商売やイベントを潰そうとしたところでそう簡単にいくものではない。

本気で「成人向け萌え系コンテンツ」を潰すエネルギーとそれを利用して利潤を得るエネルギー、どっちが得か?

そこに「大人の計算」が入れば自ずと答えが出よう。

これが現実というものだ。

結局、警察や行政が「儲かっている新事業者」からピンはねしたいだけの話なのだろう。

それを調整するのが、政治家であって、その調整役が居ないからいつまでもごたごたしているのだ。

最終的にこの条例がどうなるのか解らない。

でもこの時点でバタバタ動き始めるのでは遅きに失しているのは確かだろう。

「おっとり刀」でいろいろやってみても結果は知れている。勿論、有力議員にメッセージを送る手立てもあろうし、それは現実的戦略になるから積極的に参加すべきだ。

だが、自分たちの職を守りたいのなら、何かもっとステージが高い活動が求められる。

今は1960年代のような若い世代のジェネレーションパワーは期待出来ない。街頭活動したところで「児童ポルノ推進者」とレッテルを貼られるだけだ。マスコミも味方にはならない。

ただ、ネットでは圧倒的にこちらの声が優勢だ。

それは新たな「世論」であり、行政もそれを無視し続けることは出来ぬ。

もはやネットなしには世の中は動かないからだ。

だから、ブログ、ツイッター、ミクシー、掲示板などありとあらいるネット媒体を使った「闘争」を展開することが有効な手段になる。

本気で「非自在青少年」を取り締まれるとは思えないし、実行は限りなく不可能に近い。

脳内創造物を取り締まるなどまさに「やれるものならやってみろ」だ。

たとえ法律が施行されようと、己の欲する脳内創造を停止する者は少ないだろうし、実際自分も停止するつもりは更々無い。

むしろ敢えてこの条例に抵触する「非自在青少年」を描いて描いて描きまくってやる。

創作動機の原点は反権力だからな。確か手塚治虫の著書にもそんな記述があった。

仮にキチガイカルトがそれでも規制を強行したいのならば「戦争」しかない。

ペンを剣に持ち替える。

それ位の覚悟なくして己の表現活動権利は守れないと悟れ。

だが、結局「戦争」に追い込まれるまで己の権利をこの世に訴えかけて来なかった己の怠慢にも責があろう。

いずれにせよ、「闘争せぬもの生きる資格なし」である。己の権利は己の力で勝ち取るものだ。


2010年3月10日

中国の「美少女」漫画家

28歳なのに「美少女」な漫画家が中国に居るという記事をネットで見つけた。

名前は夏達さん。中国湖南省出身とか。日本の漫画雑誌にも寄稿しているようだ。

漫画家には男女共々「年齢不詳」な人がいる。実年齢よりも20歳若く見られる人もざらだ。だから28歳で「美少女」というキャッチフレーズも特に違和感は無い。

写真や動画を見て納得。

ストレートのおかっぱロング。キャシャで病弱そうな雰囲気。

いわいる「昭和40年代的古典美少女」を象徴するような人だ。

紹介されている映像がどれほど「真実」に近いのかは知らない。

途中、様々なフィルターにかけられて「脚色」されていることは十分に考えられる。

だがたとえ、そうだとしても何かしらを訴えかけてくる「神秘性」を秘めた「美少女」さんであることは間違いない。

元々中国南西部の省には美少女を産出する部族が多いと聞く。

中国沿岸部に比べればまだまだ貧しい土地から来ているので、恐らくは眠るのも惜しんで漫画に打ち込んでいるのだろう。その華奢な身体に鞭打ちながらひたすら創作に打ち込む健気な姿は、今の日本婦女子にはない可憐さがある。

彼女がどんな漫画を描いているのか知らない。

ただ日本ほど漫画産業の基礎がない中国で「漫画家」として一人立ちするのは相当の苦労があるようだ。

日本の漫画雑誌に寄稿出来る事が「出世」の鍵なのかもしれない。

この「才色兼備」なお嬢さんは自分が「美少女」に観られることを余り好ましく思っていないようだが、天から与えられた「美」と「才能」が世に知れ渡った以上、この運命から逃れることは出来ない。

「美少女」故の「不幸」も覚悟しなければいけないだろう。

彼女の画像を観て連想したのは、1972年頃、デビューしたばかりのアグネス・チャンである。

同じような黒いストレート・ヘアーに神秘的な歌声。当時、中学生だった自分にとって初めて陶酔した「アイドル」だった。

他にも、後藤久美子とか、この系統の「美少女」たちは1950年代昭和男子達の琴線を刺激し「迷いの森」に引き込むのである。

だが、所詮「美しいバラには棘がある」のだ。

彼女たちは「神秘的美しさ」故に時の権力者によって利用され、人々に禍を齎す道具と化す。

人生で最初に「異性への憧れ」に導いたアグネス・チャンはその30余年後、ろくでもない「思想」のスポークスマンとして我々の存在権を脅かしているのを見ても解るだろう。

また、後藤久美子もさっさとこの日本を捨て、フランスのF1レーサーの下へ消え去っていった。

「美少女」は人の心を惑わした挙句、裏切り、去っていく存在と相場は決まっている。

人間の歴史はその「魔性」によって綴られて来たのだ。

恐らく、この中国出身28歳「美少女」漫画家も、やがて己の神秘的美貌故に様々な「魔性」を取り込み、数多くの「哀れな男たち」を奈落の底に叩き落す人生を歩むに違いない。

いずれ「反日戦士」みたいな活動家のシンボルとして奉り上げられるかもしれぬ。

そしてゆっくりと地獄に堕ちてゆく日本の男たちを、この子は微笑みながら見送るのである。

そんな漫画を描いたら結構人気が出るんじゃないだろうか?

恐ろしいけど応援したい。


2010年3月5日

「ザ・コーヴ」アカデミードキュメンタリー部門受賞。これも因果応報だ。

スーパーの惣菜売り場に行くと、お寿司が山と積まれている。

本格的な寿司ネタがパック詰めにされて普通に商品として扱われるようになったのはいつごろからか?

自分が子供の頃、昭和50年代くらいまでの頃は、寿司がスーパーに並ぶなど想像すら出来なかった。

寿司は頑固な親父が仕切る老舗寿司屋の専売特許と決まっていた。

それがいつしか「回転すし」やら寿司チェーン店が出来、いつのまにかスーパーにまで扱うようになった。

スーパーで鮮魚を売ること自体そんなに歴史は長くないだろう。

今日これだけ膨大な鮮魚市場が膨らんだわけだが、果たして日本人がかつて程、寿司を含めた鮮魚を消費するようになったとは聞かない。

自分からすると寿司や刺身は人並みに食べるが率先して好きだというほどでもない。寿司屋などめったに行かない。回転すしなど生涯で入ったのは1,2度程度。それも付き合いだ。

いずれにしろ、これだけ鮮魚市場が増えているのだから漁獲量もそれ相応に拡大しているのだろう。

だが、その獲った魚は本当に的確に消費され、無駄は無いのだろうか?

先日、アカデミー賞ドキュメンタリー部門で、日本のイルカ漁を批判した映画「ザ・コーヴ」がオスカーを獲得したという。

これに限らず、シーシェパードによる南極海捕鯨妨害活動やクロマグロ取引規制など、日本の漁業、水産に対する非難が日を追って高まっている。

そもそも当の日本人が差ほど魚を食べなくなってきているというのに、日本の行政当局がいつまでも従来の水産方針に固執する理由はなんなのか?

既得権益固守だけのために、その結果日本の国益を損ねているという感覚はないのか?

鯨、イルカ、クロマグロ、そもそもそんな魚肉類が今の日本の食卓にどれだけの頻度で並ぶというのか?

これが無くては生きていけない日本人などどれ程の数だ?

恐らくこれらの魚肉摂取年間ゼロという日本人も少なくあるまい。

結局、これらを捕獲することに固執して得る利益より、不利益のほうが余程大きいことは子供でも解る。

鯨、イルカは論外としても、クロマグロでさえ殆ど口にすることはない。大抵「マグロの刺身」というのはメバチマグロとか品種が違うそうである。

どこかの寿司チェーン店がクロマグロを目玉に商売を展開して、クロマグロ漁獲に規制がかかると困るとかテレビで紹介されていたが、そもそもそんな貴重な魚を商品の材料に扱っている感覚の方がおかしいんじゃないのか。

こういった店に並ぶ客層も民度が低そうで「日本の恥」を世界に晒しているようなものだ。

外国から見たら「犬を食っている民族」と差ほど変わらぬ目で見られているのだろう。

兎角、日本の水産業は西欧の規準からして「野蛮で残酷」と見られている。

それぞれの国にはそれぞれの風習があって食文化も違うのは当然であって、それを他の国からとやかく言われる筋合いは無い。

鯨類が家畜の豚、牛などより「生命の価値」が高い根拠など何処にも無い。所詮生きていくためには「殺生」は付きものだ。

だが、絶滅危惧種を平気な顔をして食らっている様はどんな理由を付けようと「文明人」とは言えまい。

日本人だって他の国の人間が絶滅危惧種を食らっている様を見れば「野蛮な野郎共だ」と思うに違いない。

「ザ・コーヴ」の受賞が発表された瞬間、アカデミー会場では歓声が上がり、総立ちで祝福していた。

すなわち、彼らにとっては「野蛮人ジャップの悪行を暴き、世界に知らしめた偉業」を称えたのだ。

日本人が「あれは盗み撮りで事実と反する」などど反論したところで「神聖なイルカ」を「大量虐殺」していることには変わりない。昔、同じような情景を撮影されて世界から非難を食らったことがあったが、その教訓を日本人はまったく忘れているのだ。

そもそも、そこまでしてイルカや鯨を大量に殺さなければいけない理由が存在しないにも拘わらず、いつまでたってもイルカ、鯨漁に固執するからこんなことになる。

この受賞がきっかけでますますジャパンバッシングが広がり、トヨタのみならず他の日本製品不買運動が起こってもなお、鯨、イルカを獲り続ける理由はどこにあるのか?

その理由はさっぱり解らぬ。

これが日本古来からの文化というならばインカなどの生贄の儀も文化として保護すべきだ。

日本の行政府はそこまでして堅持すべき文化というならばそう主張して、そこで発生する不利益も受け入れよと全日本人に説得しなければならないだろう。

だが自分は御免被る。

お断りだ。

めったに食わない絶滅危惧種のために日本人の立場と地位を犠牲にされたらたまったものではない。

此処に到って鯨やイルカを食う理由はなんだ?

そろそろそんな因習が「恥」だと自覚したほうがよい。

小学校の頃、世話になった「鯨の竜田揚げ」は美味しかったが、現状況を鑑みれば無理して欲する理由は何処にも無い。

日本にはもっと守るべき「未来志向」の事業があるはずだ。

自分も日本人だが、和歌山の太地町漁民や南極海捕鯨業者やクロマグロを扱う寿司屋の利益だけのためにその他諸々の不利益を被りたいとはさらさら思っていない。

太地町漁民は必死になって、この「ザ・コーヴ」上映をさせまいと「妨害工作」しているようだが、そんなさもしい行動は北朝鮮、中国と同レベルである。

イルカ漁が正しいかどうかは別として日本人の野蛮さを象徴するターゲットにされたことの自覚位は感じるべきだろう。

いずれにしろ、こんな状況を生んでいるのは、無能な日本文化行政の結果であることは明らか。

オリンピックにしろアカデミー賞にしろ、日本のスポーツ文化が如何に無為無策に陥っているかをよく表している。

今回のアカデミー賞でも日本の次期基幹産業(といわれていたはずの)であるコンテンツ事業のひとつであるアニメーションは一つも受賞していない。

いや、受賞はおろかノミネートすらされていないのだ。

その一方で日本批判の映画はオスカーを受賞した。

コンテンツを育成する施設、事業予算を削った結果がこのザマである。

日本を世界に発信するという「国益事業」を蔑ろにし、旧態依然の古びれた因習に基づく水産既得権に固執した挙句、世界から「日本人は野蛮だ」という一方的非難の集中砲火を浴びているのだ。

本当に日本が漁業既得権を守りたいならもっと賢い手段を模索したらどうだ。

ここまで批判に晒されているのは、それを担当する行政府が馬鹿で無能であるからに他ならぬ。

馬鹿の一つ覚えのように南極海に出かけていって、とても国益になるとは思えぬ「調査捕鯨」を続け、イルカ漁の悪しき因習を放置したり、絶滅危惧種を食い物にしている業者を黙認しているから、欧米の環境団体から恰好の標的とされてしまうのである。

正直なところ今回アカデミー賞受賞した「ザ・コーヴ」を観たい気持ちはあまりない。

胡散臭いプロパガンダ臭がするのは否めないし、この映像がどれだけ「真実」に近いのか確かめようもない。
だが、己の主義主張を貫くためのチャレンジ精神は否定すべきものではない。

「盗撮」すら敢行し「不正義(彼らにとっての)」を世に知らしめる活動力には見習うべきものがある。

今回のイルカ漁批判映画受賞に日本行政府と和歌山の漁民たちが何も学ばず、ひたすら「上映妨害」に奔走していたら、日本の立場はますます悪化の一途を辿るだろう。

そんなことをしたらグーグルに規制をかけようとした中国共産党と同じである。

アカデミー賞自体を批判したところで何も始まらない。

アカデミー賞は世界にメッセージを伝えるうえで最も強大なイベントである。それを味方に付けた彼らが賢かったのであり、それを「敵」にまわした日本人がマヌケだっただけなのだ。

その間抜けっぷりが日本人ながら笑えてしまう。

今回の受賞劇は、この日本の間抜けっぷり、無能っぷりが焙りだされた面において愉快痛快だったのである。

この映画自体の価値は正直、どうだっていいのだ。

だからこそ、こちらの主張を訴えたいのならば、同じ手段でこちらの「正当性」を描けばよいのだ。

そのためのコンテンツ産業なのだ。

宮崎駿あたりが捕鯨を日本の伝統文化として上手くアレンジしたアニメ作品を作れば、それを「政治力」でショービジネス化し国際市場に太刀打ちできるような規模で提供して、アカデミー賞受賞でもすれば欧米人だって捕鯨に対する感情を変換させる可能性だってありえる。

そういう戦略も日本の国益を守る観点から必要になるだろう。ところがなんだ。

事もあろうに、新政府はその手段の象徴であった国立のコンテンツ施設の予算を破棄し、自らの手で葬り去ってしまったのだ。

己を守る有効な武器になるうるコンテンツ産業の未来を自ら放棄しているのだからね。

まあこんな調子ではジャパンバッシングは永遠になくなるまい。

愚鈍で大馬鹿連中が行政の上にいるうちは日本に未来なんてあろうはずもない。

因果応報である。

馬鹿には馬鹿なりの結果しか付いて回らない。

世界から更なる批判に晒され、日々日本の国益が損なわれても知ったことか。

さて、この状況下で当の行政府はどう対処するつもりか?

さしあたり予定にあるのはまたぞろ「事業仕分け」だそうである。

あの元クラリオンガールが例によって紅衛兵よろしく「造反有理」をがなりたて、日本の未来と希望を奪う「文化大革命」ごっこを繰り広げるとか。

馬鹿も極まれりだ。

この期に至ってまだこんなことやってんのか?

笑いが止まらないね。

太地町漁民もイルカ大量殺害なんか辞めて、代わりに生簀に無能与野党議員を放り込んで銛で突くのは如何か?

こっちのほうが余程溜飲を下げられるであろう。

これなら環境団体から批判は来ないから安心だよ。

題して「ザ・無能」

もっともアカデミー賞は獲れそうもないが。


2010年3月3日

疫病神ゴールデンウイーク。

バンクーバーオリンピックも終了した。

その大会終盤に今の日本を象徴するかのようなシーンが出現した。

それはスケート団体競争。パシュートとかいう競技。

予選で優勝候補が次々と脱落する波乱模様の展開。気が付けば日本にとってトップを獲れる千載一遇のチャンスが訪れていた。

天は日本に味方し、レベルから言っても十分に勝機は整った。

勝利とは実力だけではなく、運も必要だ。その運も十分に掴み、勝利の女神は完全に日本に微笑んでいたのだ。

遂に、あれよあれよと決勝進出。

勝てば金メダル。

あとは普段通りに滑ればよかった。奇跡もハプニングも必要なし。

そして決勝戦。

レース前半からリードを広げ、勝利は目前。

誰の目にも金メダルは確実に思えた。疑う余地はない。

やっとこれで溜飲を下げることが出来るのだ。

しかし、ゴールの瞬間、なぜか勝ったのは相手チーム。

実力もあり、運も掴み取っていたのに、負けたのだ。

0.02秒差。

要するに日本は疫病神が取り付いたかのように「何をやってもダメ」になってしまったのだ。

運さえ味方に付けたのに勝てないなんて普通では考えられない。

「ダメ」さ加減もここまで来ると国宝級。

丸出ダメ夫も吃驚だ。

その「ダメ」を呼び込んでいる一因は、やはりポルポトよろしく日本の屋台骨を壊して喜ぶ気の狂った政権の存在だろう。

こんなのが国の上にいたら、そりゃあ「何をやってもダメ」になろう。

その疫病神集団がまたぞろ、ろくでもないことを考え付いたらしい。ゴールデンウイークを地方ごと分散するんだとか?

いったい、この日本の巷で是が非とも連休を地方毎に分散してくれという大きな「世論」があったのか?

否。

正直、そんな主張、聞いたことすらない。

なぜならそんなもの誰も望んでいないから。

渋滞やら観光地の混雑やらが分散できるから経済効果が計れる等とメリットを主張するが、渋滞混雑ひっくるめて連休なんだろうが!

人気のない閑散とした行楽地なんて楽しいか?

全国規模の祭りはどうするんだ?

人ごみでごった返す「非日常」に身を置くことによって祀り事は成り立つのだ。その一体感なくして何が「ゴールデンウイーク」だ。

活気も熱気もなく、中途半端な休みと出勤日が地方毎、業種毎てんでばらばらで観光地に行ったらみんな齷齪働いていたり通勤ラッシュだったり、そんな状況で行楽が楽しめるというのか?

たとえ時間に縛られない自由業だったとしても、連休でなければ出来ないこともあるし、一年の節目として世の中の流れを感じるには全国一律の風習制度があってこそ。

それを潰すなんて馬鹿も休み休みに言え。

ヨーロッパかどこぞの「猿真似」かは知らぬが、理屈だけを持ってきて日本に組み込めば何とかなろうなんて発想はクメールルージュが都市住民をみんな農村に強制連行して国を破滅に導いたポルポトカンボジアと変わらぬ愚行。

地政学的にも民俗的にも異なる場にシステムだけ移植したところで失敗するのは目に見えている。途端に拒絶反応が起きて死に至るだけ。

ヨーロッパのバカンスが何週間あるのか解っているのか?こんな長期休暇は発展途上国の出稼ぎ労働者をこき使えるからこそ成立するんだ。

サマータイムにしろ、連休分散にしろヨーロッパの風土習慣が生んだ制度であって、日本では人迷惑以外のナニモノでもない。

机上の空論をこねくり回して「経済効果」なんて胡散臭いお題目で歴史上意味のある祝日を蔑ろにするのは「ハッピーマンデー」と同じく愚の骨頂。

百害あって一利もない。

連休分散化なんてものを喜ぶのは疫病神位なものだ。

繰り返しになるが休日の習慣を変えろなんて誰が注文したんだ?

こんな愚策がまかり通れば更に輪をかけてこの国から幸福感や誇りが逃げていくだろう。

そんなものいらないと言うのなら、こんな国、さっさと中国にでも売り払え。

そうすれば旧正月に一斉に休めるってか?

だったら最初から連休分散意味なしだね。こりゃ参った!

馬鹿につける薬なし。


2010年2月28日

津波に向かって突っ走れ!

「120cm!120cm!」

テレビから盛んに流れる数値。遂に日本金メダルか!と思いきや津波の最高値が120cmだったというだけ。

津波にしたら「金メダル」どころか「予選落ち」のレベル。この程度で一喜一憂するのは、オリンピックと同じ位拍子抜けだ。地球まで日本をおちょくっているのだろうか。

朝から殆どのチャンネルで津波特番を組み、「一刻もはやく海岸から離れてください!」と呼びかけている中、逆に海岸へ向かって集団でつっ走る人たちに声援を送っている番組を延々と流していた局があった。

ゴールの東京ビッグサイト隣にある「海の科学館」では別の局アナが津波警戒のレポートしているそのすぐ脇を過剰演出気味のタレントが海に向かって恐ろしい形相で突っ走っているのだ。

司会の女性タレントは、その疾走を感動に咽びつつ実況している。

ゴールのすぐ先の海岸には「津波警報」が出ているのにも拘わらずだ。

こんな構図はドリフ大爆笑のコントにすらないシュールさ。

これはいったいなんなんだ?

日本はもう来るところまで来てしまったのか?

津波に向かって突っ走れ!

オリンピックよりも凄まじいインパクトで観る者に不条理極まる衝撃を与える「集団入水マラソン」中継。

そうだ。これはマヤ文明の生贄の儀式と同じ。

南米から津波と共に古代文明の儀式もやってきたのだ。

これはオリンピックの比ではないぞ。

どうせ勝てないのなら神々に己の命を捧げてしまえと訴えたいのだな。
素晴らしい。

こんな大自然の摂理にシンクロするマラソン大会があったとは。

これなら他の国の追随は許すまい。日本の圧倒的勝利である。

頑張れニッポン。

でも120cmの津波じゃあそれさえ叶わぬ夢だよう!せいぜい漁港の発泡スチロールの箱を動かす程度だよう!

ちくしょう!地球までニッポンを馬鹿にしやがって!

オリンピックも津波も「金メダル」なし。

何をやっても中途半端でダメダメだ。

こんな日本誰がした?


2010年2月25日

嗚呼、惨めなり日本選手

生暖かな風が吹く2月末、冴えない毎日が続く。

テレビは相変わらず不甲斐ない日本選手の姿を伝えている。

かつてはそれでも「アングロサクソン」のような体格に勝る選手相手に奮闘、みたいな構図があったが、いまや人種も同じアジア系の韓国、中国選手にも負けている状態では、ただの恥晒しに過ぎない。

その上、トヨタ何某がリコール云々で社長までがアメリカに呼び出しを食らって火達磨状態。もう国として体をなさなくなってきた感じ。

そんなこんなも結局、無能な政治家が「毛沢東語録」よろしく選挙対策で適当に作った「マニフェスト」を未だに振りかざして妄言よろしく「友愛友愛」と喚いている状況では当然の成り行きか。

「政治家主導」とは笑わせる。

「政治家主導」で成功するのは官僚よりも政治家が有能な場合であって、どうみても国会でごたごたやってる与党野党ひっくるめた政治家は「優秀」とは言いがたい烏合の衆ばかり。

沖縄の基地移転云々で虚勢を張ったところで、所詮有効な交渉材料もないのだ。

あっという間に足元を見られて頓挫。挙句、トヨタまで恫喝報復の対象にされる始末。

まさに愚の骨頂。結局は散々馬鹿にした官僚に泣きついてるんじゃないのか?

「金」もなけりゃ「軍事力」もない国が、大国相手に偉そうな事、言ったところで相手にもされないのは子供でも解る。

そんな「無能集団」が、今の日本を引っ張っていると言うのだから恐ろしいことこの上ない。

周辺の大国にとってはつけ込む恰好の条件だ。

テレビで話題のオリンピック女子フィギュア競技にしろ、日本の政治や企業が強靭であったなら、結果を見ずして日本選手が金メダルを獲れていたろう。

「印象で得点が左右される」とか「芸術点」とか、こんなのスポーツか?

主観で決まる得点競技など、どう考えたって審判員を買収すればどうにでもなるのだ。

トヨタが強ければ韓国の選手に後塵を拝することなど考えられない。相手にもならなかったろう。

今の状況は、如何に日本の国力が衰退しているかを如実に物語っている。

オリンピック選手養成には金が掛かるわけだからそれなりの資金がいる。かつて長野オリンピックを招聘出来たのは某企業のワンマンカリスマ経営者の力だったと言われる。

良くも悪くもそういった「金と力」を背景にしたコネクションがスポーツや外交の勝敗を決定付ける。

しかし、そんな豪腕経営者も誰が仕組んだのか失脚に追い込まれ、それ以後、日本のウインタースポーツも凋落の一途のようだ。

その上、今の「無能政権」が追い討ちをかけるように、そういったスポーツ育英予算を削ったものだから自ずと衰退に拍車をかけている。

日本選手の金メダルは韓国選手の失敗待ちしか可能性が無いなんて、どれだけダメダメなんだ。

みっともないったりゃありゃしない。

相手の失敗がない限り、トップになれないなど何処まで堕ちりゃ気が済むのだ?この日本。

日本の女子フィギュア選手が不憫でならない。

怨むなら今の日本に生まれていたことを怨め。4年前の絶頂期に年齢制限で出場出来なかった己の運の無さ。

まだあの頃の日本のほうが僅かにまともだったのかもしれないが、これからは堕ちていくばかりだ。

いっそ国籍をロシアか中国に変えたほうが救いがあろう。

才覚ある者にとってこんな国の代表になったとて得るものは少ない。

この国の卑屈さは年々度を越している。

やたら潔癖で至る所に監視カメラを備え、法律まで遡らせて時効廃止だとか後ろ向きの自己完結の窒息しそうな閉塞感を社会に作り出す一方で、無為無策無能内政外交で日本を破滅に導くような「無能政治家」しかいないこんな国はさっさとおさらばするのがよろしかろう。

スポーツにしろ文化にしろ、この国で己の才覚を花開かせるのは不可能に近い。

すべてを萎縮させる空気で満たされ、呼吸も出来ぬ。

「外国人参政権」や「夫婦別姓」「子育て支給」なんてものは国が豊かで余裕があってこそ出来るものだ。

屋台骨がへし折れつつある国が考える事ではない。

こんなの「夢想」の世界である。「夢想」を現実化出来るのは強大な国力と賢い指導者に導かれた超大国だけの特権だ。

馬鹿と無能に「夢想」を語る資格はない。

「友愛夢想」に明け暮れた挙句、日本の外交既得権を次々に奪われ、国民を餓死に追い込むことも厭わないキチガイ政権に付き合わねばいけない今の日本人をご先祖様が見たらどう思うのか。

こんなのドリフのコントにすらならない。

韓国の女子フィギュア選手に鼻で笑われるのがオチだ。

惨めだね。


2010年2月20日

バンクーバーオリンピック

バンクーバーオリンピック真っ盛りのようだ。

「イナバウアー」からもう4年経ってしまったということを知った。いつもの如く、始まる前は無関心状態だったのに、テレビを灯し中継を観れば自ずと興味も湧く。

例によってマスコミは開催前からどうでもよいようなことで騒ぎ立て、それに乗っかるのもどうかと思うが、結局こんなものは話題を取った者勝ちなのだ。

それがネガティブなことだろうと「可もなく不可もない」選手よりはよっぽどいい。

確か前の冬季オリンピックも女子フィギュア選手に絡んで試合前からああだこうだと持ち上げていた流れがあったが、それで選手の知名度が上がった訳で、本人にとっては願ったり叶ったり。

「芸能界」転出も夢ではなくなる。これを踏み台に己の人生をステージアップさせるきっかけが出来るのだから。

あとは本人次第である。

今回も、スノボー選手の服装の乱れ、男子フィギュア選手の本番で靴紐切れる云々で「お得」なアドバンテージが付いた。

もっともメダルに手が届かなかった事で「敗北者」のレッテルを貼られるのは仕方のないこと。それこそ本人の実力の問題だ。

「勝てば官軍。負ければ賊軍」である。

敗者の弁明はすべて「言い訳」にしかならない。

あと気になったのがカーリング女子。

そんなに実力があるとも思えぬカーリング女子日本チームを過剰にクローズアップさせ続けるのはどういう意図があるのか?

生中継を何本かみたが、試合の合間で行う「ガールズトーク」風の作戦会議は、なんだか安っぽい「女の浅知恵」を晒しているようで観ているこっちが恥ずかしい。

どこかのファーストフード屋の店内で女子高生がだべっている風だから余計不快だ。

女性の集団に何度も陰湿な仕打ちを受けてきた経験がある自分として、ああいった女子数人の会話の場は生理的に受け付けないし、恐ろしい。

結局最終的な戦略はコーチらの「実力のある男性」に知識を乞うしかないのに、如何にも「自分たちだけで決めている」風のポーズも鼻に付く。

これで金銀を狙う実力があるのなら、誰に文句を言われる筋合いなどなかろうが、どう考えても頂点を争える能力がある集団には見えない。

ただの「仲良しグループ」が放課後、暇に任せて遊んでいるレベルだ。

そんなお気軽女子を過剰にクローズアップさせるのは、彼女たち自身にとってもよいことだとは思えない。少なくともオリンピックという「国の代表」で出場するのだから、もう少し「頭のよさそうな」選手を人選すべきじゃないのか?

でもこれに関しては誰も批判しないんだよね。

スノーボード男子選手の服装よりも、こっちのほうがよっぽど「品格」に問題があるように思えるのだが。

どっちにいろ、テレビ桟敷に居て勝手なことをのたまっている側の理屈であるから、当の選手たちにとってはどうでもよいことなのだが、代表選手に選ばれてしまった以上、負ければ「晒し者」にされるのは致し方ないこと。

それにしても、中国、韓国勢の後塵を拝する様は日本の凋落を印象付ける。

そのうち、メダルはおろか入賞も出来ない国に成り果てるのも、時間の問題だろう。

環境テロリストのターゲットにされている内がまだ華かも知れない。


2010年2月15日

コミティア来場感謝。バレンタインデー一考察

昨日、コミティアあびゅうきょ工房スペースにお越しくださった方々にはこの場を借りて御礼申し上げます。

天候も回復し、寒い日ながらも多くの方の来訪を賜った。奇妙な縁で10年近く前の知り合いがいらしたりと実り多き日であった。

この日はビッグサイトでコミティア以外でも大きいイベントがあったらしく、若い同人女性の姿が目立っていた。

しかしバレンタインデー当日にも拘わらず、それらしい光景は一切見ることがなかったのは印象的。

基本的に女性はもうこの日に義理だろうが本命だろうが「チョコを異性に渡す」という社交儀礼すら放棄しているようだ。

バレンタインデーの存在意義すらなくなってしまったので、この日に一喜一憂するなんてこともなく、「女性が愛を告白する日」なんてお題目は、やがて人々の記憶からも薄れていくのだろう。

どうせ製菓会社が販売促進の為に煽った企画に過ぎないバレンタインデーだ。

もっとも自分のような最初からチョコに縁のない「恋愛不能片輪男性」からすればどうでもいいことなのだが。

でも、「健気さ」とか「可愛らしさ」の一表現である「チョコのプレゼント」を女性自ら放棄してしまう時代とはいったい何なのだろう。

もはや女性にとってそんなものは負担にしかならず、面倒なものでしかないのだろうか?

であれば、もういっそ化粧もオシャレもやめてしまったほうが楽ではなかろうか?

「男性依存」から脱却出来る時代になったのだから、なにも男性の視線を気にする必要もない。

そんなものに時間を割く暇があったら「自分探し」に奔走すればよいのだ。

異性に好かれる必要がなければ身嗜みも必要ない。

男性の目を気にするための「無駄な労力」から解放されたのだ。

風呂にも入る必要もない。身体中フケ、垢だらけでも構うまい。服もジャージ一丁でよい。無駄毛もそのまま。ダイエットも必要なし。男性から苦言を浴びてもこう返せばばよろしい。

「私たちは男性依存から解放されたの。どう思われようと関係ないのよ。あんたら男に頼る必要ないのだからこっちの自由でしょ」

これで世の中、丸く収まる。

まあ不潔同士であれば、こちらも風呂に入る手間が省ける。

お互い臭ければ気にもなるまい。

いい時代になってきた。

昨今のバレンタインデーから学ぶ教訓は深い。


2010年2月8日

「キューポラのある街」と「キャンディーズ」解散

1962年製作の日本映画「キューポラのある街」をたまたまBSで観た。

吉永小百合がブレイクした代表作。

これを最初に見たのは、中学校での上映会だった。当時、通っていた中学には映画好きの教師が居て「教育の一環」として体育館に全校生徒を集め、何回か上映会を開いていた。

大抵の映画は「反戦」とか「人権」とか、まあ当時の先鋭的思想に準じた作品ばかりだったような記憶がある。
で、そこで最初にこの「キューポラのある街」を観た感想は?というと、主人公の吉永小百合演ずるジュンという中学生が、不良に乱暴されそうになるシーンがあって、子供ながらに「こんなの中学校で上映していいのか?」と心配になった事位で、話の内容とかはあんまり頭に残らなかった。

精々「貧乏くさいのはいやだなあ」と、まあその程度の理解力しかなかった。

今、改めて観るに、まずこの映画に限らず1960年代前半の日本映画に描かれた当時の日本の風景、町並みの映像がとてつもな
く貴重に感じるのだ。

あの時代の「空気」すべてを真空パックに保存しているかのごとく、観れば観るほど素晴らしい記録だ。

汚いどぶ川、畑と文化住宅が混在した市街地、鉄道、バス、3輪トラック、服装、ジャイアンツの帽子、看板、そのすべてが「文化遺産」レベルの映像である。それを観るだけでもタイムトラベルしているような感覚に捉われる。

そして、その奥行きある風景と当時の泥臭くて汚くて乏しい日本人の生き様が何ともいえぬ味を醸し出す。

その巨大な泥団子がごろごろと否応なく未来へ転がろうとする1960年代の魂がこれでもかこれでもかと訴えかけてくる。凄まじい程の圧力で。

北朝鮮集団帰国のシーンも当時の「理想」を疑いもなく無邪気に描いており、このピュアな感覚は爽快ですらある。

規制だらけの今日では決して表現することの出来ないリアリティーがこの映画には存在する。

そして主人公、吉永小百合は今見てもなお理想的美少女として、その地位を揺るぐことがない。

半世紀の間、まったく色褪せていないのは驚異すら抱く。AKB48と比べてもその凛々しさには足元にも及ばない。

そうだ。吉永小百合演ずるジュンの健気な姿は、宮崎駿が描くヒロインとどこか似ている。その世界観と共に宮崎アニメと吉永小百合は深層領域でリンクしているのだ。

余談だが、ジュンの服装はなぜかヒトラーユーゲントの制服を連想させるのだが何故だろう。

それはさておき、ジュンは戦後昭和女性のスタンダードな生き方を象徴した存在でもある。

彼女は「強い女」だ。

「強い女」といってもフェミニズムが標榜した類のものではない。

己の欲を捨て、家族に殉じる。進学よりも家族を重んじる精神。

その忍耐力が真の強さである。

かくあるべき、模範的少女像、それがジュンだ。

彼女の生き様は特殊ではない。むしろ1960年代前半においてはごく当たり前の姿だ。

そしてこのジュンこそ、高度成長期に入らんとする日本を代表する「普通の女の子」の原点だった。

「普通の女の子」・・・。

これで思い出すのは、1978年に、アイドルグループ「キャンディーズ」の解散騒動である。

メンバーは「普通の女の子に戻りたい」と叫んで芸能人としての地位も名誉もかなぐり捨ててしまった。

彼女たちにとってそんなものはただの負担である。

芸能人としての「栄光」よりも日本女子として不可欠なものがあると彼女たちは悟っていた。

彼女たちが目指したものは普遍的最終就職先、すなわち「専業主婦」だった。


戦後昭和女子にとって何よりも最強な地位が「専業主婦」であって、それ以外の選択肢は考えられなかった。例え芸能人として大成功を収めようとも、それは昭和女子にとって何の価値もない。

「専業主婦」こそが人生のゴールであり、唯一の「強い女」が生きていける領域だった。

実際、彼女たちが「専業主婦」になったかどうかは知らない。

だが少なくとも己の職を辞した後には、表舞台から去り、代わりに結婚という「最終就職先」に人生のスタンスをシフトさせたかったことだけは間違いあるまい。

さて、女性に「普通の女の子」の生き方があるとすれば、男性にも同様のスタイルがあってしかるべきだ。

では、昭和男子における「普通の男の子」とはなにか?

それは「終身雇用」の仕事に就くことに他ならない。

戦後昭和男子もまた、学校を卒業すればすべてを捨て去って直ちに就職し、会社に滅私奉社し、妻を娶って子を設け、死ぬまでその身を家庭と会社に捧げるという選択肢しかなかった。

それが唯一「強い男」への道だった。

最強たる「専業主婦」を目指す女子が最強の「終身雇用」男子に嫁ぎ、家庭を築く。その結果、日本は奇跡的にも比類稀に見る経済大国の地位を確保するに至る。


吉永小百合演ずるジュンは、戦後昭和高度成長の銃後を守る「専業主婦」の模範であり、その尖兵としてのジャンヌダルクであったと断定しても過言ではあるまい。すべては彼女から始まり、彼女で終わるのである。

それから半世紀近く、2010年日本。

高度成長を戦い抜いた模範的モデルである「普通の女の子」も「普通の男の子」も、もはや何処を探しても見当たらない。

今、アイドルが「普通の女の子」になりたいが故に芸能人を辞する状況を想像出来るだろうか?

否。

かつてのジュンたちは年老い、生産人口世代から次々に引退している。

もはやスタンダードな生き方は曖昧となって、何を持って「普通」となすのか誰も解らない。

「専業主婦」も「終身雇用」もほんの一部の特権階級にしか与えられない稀有なものとなった今、富は偏り、歪な貧富の差が露骨化してきた。

大学卒業しても半数近くが就職できず、3人に一人が終生独身のまま。

もはや「普通」にすらなれない「弱弱しい愚衆の群れ」が、2010年の日本の姿である。

まもなく、国民総生産も中国に抜かれ、唯一の取り柄であった経済すら2流に零落れよう。凋落の一途を辿る日本にかつての栄光は甦らない。

こうして「キューポラのある街」は廃墟となってこの地上から消え去る。

1960年代の、あの汚らしくて猥雑な混沌の中で蠢いていたエネルギーはこの半世紀の間にすべて昇華され、その魂の燃えカスはもはや風前の灯火。

町並みは当時と比べ物にならぬくらい清潔で安全になったが、その実態は活気も覇気も若い息吹も欠落した老人だらけのサナトリウムに過ぎない。

人影の薄いシャッター通りに、所狭しと設置される監視カメラ。

いったい、誰を守り、誰を見張っているのか?

それすら誰にもわからない。

ただ、これだけははっきり言える。

キューポラの代わりに林立するマンションは「普通の女の子、男の子」の巨大な墓標であることを。

もし、2010年の「キューポラのある街」、いや「かつてキューポラがあった街」をジュンが観たら何というのだろうか?

もしかするとこれこそがジュンの目指した理想郷、「地上の楽園」の姿なのかもしれないが。


2010年2月6日

捕鯨強行と力士追放が招くバンクーバーオリンピックの惨事

モンゴルから来た相撲取りが不祥事を起こし横綱を首になったとかなんとかでテレビは賑わっているようだ。

大相撲には殆ど関心ないし、今誰が出場しているのかも大相撲中継自体を観ていないから知らないのも同然。

大鵬と柏戸はまだ現役なのだろうか?若乃花とアイドルとの結婚はどうなったのだろうか?そんな話題すら混同するぐらい、今の大相撲には疎い。

それでも夕方6時前に出てくる「嫌われ役」の横綱の姿は否が応でも視界に飛び込んでくるから「なんか居る」というレベルでは知っている。
渦中の力士が北の湖ではない事位は認識出来る。

その力士の辞任理由は「品格」なんだそうである。不祥事がどうのこうのとか。

こういったプロスポーツの不祥事云々の騒動の度に解せないのは、そもそもスポーツマンに品格や「さわやかさ」を求めるところ。

そこに多大なる胡散臭さを感じるのだ。

一つ年下だけでも相手を「半殺し」にする程のシゴキでこき使い、人間扱いすらさせない「体育会系」の常識。

こんなものに「品格」などあるものか。

プロスポーツなんてものは「勝つか負けるか」がすべて。大相撲だろうとサッカーだろうと野球だろうと、荒くれ者が体力技力で相手をねじ伏せる「儀式」なんだから「品格」云々言ってたら勝負事にならない。

「模擬戦争」であるプロスポーツに「奇麗事」を絡めたところで、所詮負ける奴など相手にされないのだ。

この力士がなんで辞めなきゃいけないのか云々は知ったことではない。

だが、少なくとも稀有な強さを誇っていた選手を「品格」云々でやめさせなきゃいけない位の競技であれば、そんなもの最初から観戦する価値もない。

「大相撲」が神道儀式の一種だというならば、勝負事にすること自体おかしいのだ。

いっそ、場所ごとに力士を一人、生贄にして伊勢神宮の祭壇にお供えすればよろしい。

そっちのほうが余程、崇高な儀式となろう。

所詮、こんな騒動は既得権を持っている者たちが身の保全のために、責任をこの力士に押し付けて難を逃れるための茶番劇に過ぎない。

それでこの力士の出身国との関係が悪化しようとも、どうでもいいのだろう。

トヨタにしろ、この力士辞任騒動にしろ、この機に乗じて日本を潰そうと画策する者にとっては恰好の材料になる。

この力士を「反日の勇者」に仕立て、トヨタリコールや反捕鯨運動の先鋒者にすればいろいろ面白いことになろう。

すでにアカデミー賞では、日本作品のノミネートは皆無である一方で、日本でのイルカ猟盗撮ドキュメントは有力候補に上がっている。

トヨタリコールに加え、このイルカ猟ドキュメントが賞を獲得すれば、日本バッシングに勢いがつく。

南極海の調査捕鯨ごり押しにしろ、モンゴル出身横綱追放にしろ、それが如何なる「世界世論」に結びつくのか、日本人はもう少し敏感になったほうがよい。

余りの鈍感さにはあきれ果てる。

反捕鯨活動で有名な「シーシェパード」を環境テロリストだと非難する向きもあるが、欧米では寧ろ「英雄戦士」としてシンパシーを持っている有力著名人が多い。

だから、今日のトヨタリコールも「シーシェパード」支援者たちが暗黙のうちに「日本潰し」を発動始めたと推論出来る。

彼らの行動力を侮ってはいけない。

フランスがマグロの流通規制に乗り出したのも彼らの影響力だろう。

更に今回の外国人力士追放騒動は彼らに恰好の「日本バッシング」材料を加えたことになる。

日本自身が己の墓穴を掘るというのは、こういうことなのだろう。

まもなく始まるバンクーバーオリンピックではとんでもない事が起こりそうだ。

アカデミー賞で「日本人のイルカ虐殺映画」が賞を獲り、それが報道されるや否や、世界世論は一気に反日一色に沸騰するだろう。

「イエローモンキージャップは神聖なイルカを殺す野蛮な劣等人種だったことが証明された!」

「劣等人種ジャップが造る製品はボイコットして中国製品を買おう!」

みたいにね。

そしてクビになったモンゴル出身力士は水を得た魚の如く「反日戦士」の先鋒に起つだろう。

それを支援する中国や欧米マスコミが彼の元に押しかけ、世界に向けて大々的に「反日演説」をやらせるのだ。

彼は言う。

「日本人は偏狭な奴らだ。己より強い奴が出てきたのを恐れて俺を追放しやがった。世界を観ずにその小さな安住の地にへばりつく事しか能がないジャップどもを世界にのさばらせるな!トヨタソニーを潰せ。鯨イルカを獲る野蛮な行為に懲罰行為を与え懲らしめよう!今度は我々がイエロージャップを世界から追放する番だ!」

こうして世界世論は更なるジャパンバッシングを強めよう。

そしてバンクーバーオリンピック。

この「反日」世界世論に後押しされて増長した「シーシェパード」は陸戦隊を編成し、実行部隊を開催地に送りこむ作戦を展開。

彼らは日本選手団が宿泊する選手村に潜入して、ミュンヘンオリンピック同様、その全員を人質に取る行動に出よう。

彼らは日本政府に要求する。

   「直ちに捕鯨を全面中止し、世界に謝罪せよ。すべての危険な工業製品の生産を中断し、自らの富を放棄し、国家主権を中国かロシアに譲渡せよ」

開催地はカナダだから、彼らの行動にシンパシーを感じる世論が支配的だ。

彼らの行動はむしろ支持され、選手村にはその支持者が大挙して押し寄せよう。

彼らは叫ぶ。

「いいぞ!シーシェパード!お前らの行動は正しい!イエロージャップをやっつけろ。この地球上から放り出せ!」

まさか「友愛」や「いのち」を掲げる頭のおかしい日本宰相がこれを受け入れることはなかろうが、あの鳩のことなので予断は禁物だ。

結局、日本の守旧既得権者からの圧力で頑なにこの要求を拒絶した挙句、日本選手団はシーシェパード実行部隊に全員処刑されるであろう。

一方、「シーシェパード」陸戦隊はカナダ警察当局に逮捕されることもなく、寧ろ日本の対応に非難が集中。

「奴らは同胞の命よりも鯨たちを殺す事業のほうを大切にしたぞ!やっぱりジャップは野蛮なサル共だったことが証明された!こんな民族は世界から抹殺すべき存在だ!

さあ、3発目の核爆弾を奴らの頭上にお見舞いするのだ!」

そして「シーシェパード」は英雄視され、エリザベス女王あたりから勲章でも貰うのだろう。

愚鈍な日本人はここでやっと己の立場を悟り、捕鯨を中止し、モンゴル力士を復帰させる事に同意するがすべて後の祭りである。

果たして現実にこんな事象に至るかは解らないが、いずれにしろ昨今の状況を鑑みると遅かれ早かれ、日本は世界からスポイルされ、相手にされなくなるのは時間の問題だろう。

愚鈍な外交に終始する無能政権下、上記の惨劇が起こっても不思議はなかろう。

まあ、すでに「終わっている日本」。

どうなろうと知ったことではない。

どうとでもなれ。


2010年2月4日

NHKスペシャル「無縁社会〜“無縁死” 3万2千人の衝撃〜」の感想

今、最もトレンディー(死語)で注目度ナンバーワン番組である「無縁社会〜“無縁死” 3万2千人の衝撃〜」を観た(本放送の時は外出中でワンセグで視聴を試みるも断片的だったので火曜深夜の再放送でチェック)。

一通り観て思うに、これは今後予想されうる意味での「孤独死」と「無縁社会」の本質とは大きくずれがあるように感じた。

取り上げられた「孤独死」と「無縁者」はすべて50代前後から80代。

基本、まだまだ日本に縁故社会が根強かった世代の人々であって、そこに描かれた事象は今に始まった事ではなく、昔からあった古典的「身元不明者」や「身寄りのない」極々例外的な「不幸な人たち」に過ぎない。

これから始まる真の「孤独死」禍は、そのようなレベルではなく、世代全体を覆う現象なのだからスケールもステージもまったく違う。

「孤独死」が特殊な事例ではなく、普遍的な日常になるのだから、そのようなアプローチで取材すべきなのにまったく本質を突いていない作り方に不満を覚えた。

これは自分たちが迎える「孤独死」「無縁社会」とは別のものだ。


番組の終盤に取り上げられた事例で、孤独な独居老人を救ったエピソードとして、近所の幼稚園児が屋根伝いに毎日通って来て、それが「孤独死」を防ぐ手立てだみたいな締めの仕方をしていた。なんじゃそりゃ?

そんな「美談」など御伽噺である。

今や、独身独居男性イコール変質者、犯罪者予備軍の扱いである。子供を如何にそんな「危険人物」近づけさせないかに世間が血眼になっている今日、むしろ「孤独死」は助長される方向に進んでいるのだ。

それを煽っているのがマスコミであって、なにをか言わんやだ。

まさに笑止千万である。

独身男性を孤独に追い込み、社会から孤立させ「孤独死」環境を助長させている世論がある限り、「孤独死」と「無縁」は加速され、もはや天文学的な数になっていくのは必至。

この番組では「孤独死」者数は、年間3万2千人位に登っていると述べていたが、これからの「孤独死」は年間300万人台になるだろう。

その状況に対して何の答えも見出せていない。

この番組は単にマスコミのマスターベーションに過ぎない。

本当の孤独死時代はこんなものではないぞ。

これからは「孤独死」を無縁仏として供養するなんてこともなく、警察が「行旅死亡人」として申告する訳でもなく、「特殊清掃事業者」が片付けに来る訳でもなく、単なる「燃えるゴミ」として処分されるだけなのだ。

そこには、もう人間の尊厳の欠片もない。

あるのは「虚無」のみ。

賞味期限切れの肉を処分する感覚、スーパーの惣菜の売れ残りを片付けるのと同じレベルなのだ。

その現実の未来を描かずして、何が「孤独死時代」の到来か。

因みに、この番組が始まる少し前に東京12チャンネルで放映されていた超売れっ子漫画家の特集が印象的だった。

その中で人気萌え系漫画家が音大出身の令嬢を娶って、その妻にコスプレさせて都内一等地に建つタワーマンションの一室に住まわせている日常を紹介していた。

唸るほどの財産を入手した者に「孤独死」など無縁だろう。

少なくともお金があれば己の「老後」など如何様にもなるのだ。

所詮はお金だ。

このような僅かな一握りの「富豪」にしか「昭和中産階級的幸福」はやってこない。

残りの大多数は、財産も妻も子も得られず「平成最下層的不幸」を背負い、無残な死を迎えるしかない。

これからの「孤独死」と「無縁社会」の主役は10〜50代の絶望独身男性である。

その「主役たち」を取り上げずして、なにが「孤独死時代到来」か。

NHKは事の本質を見極め、改めて作り直す義務があろう。

だが、マスコミはいつの時代にも「事の本質」を見出すことはしない。

なぜならそんなことをしたら己の地位と既得権が脅かされるから。

期待するだけ無駄というものだ。


2010年2月2日

初音ミク「波の数だけ1985」初オンエア日決まる

昨年暮の冬のコミケットに出した同人誌『波の数だけAIR CHECK with 初音ミク』。

その誌上で予告した初音ミクの曲「波の数だけ1985」がやっと完成した。

初お披露目は2010年2月4日。

作曲担当のゆうさく氏が担当しているいちかわFM生番組「敗戦処理工場」(毎週木曜深夜24時〜26時)内でオンエア予定。

どの時間帯でオンエアされるかは未定。

いちかわFMの周波数は83、0MHz。エリアは千葉の市川市周辺。特に一般のFMラジオで良好に受信するにはJR本八幡駅周辺に移動する必要がある。

初音ミクの楽曲を発表する場は動画サイトと相場が決まっている。しかし敢えてFM放送番組という「アナログ媒体」で初オンエアに拘ったのは、作曲者がこの番組担当のDJさんであるという理由もあるが、もう一つ「古き良き」エアチェック時代を謳った楽曲であるからこそアナログラジオで、という狙いもある。

それも受信エリアの狭いコミュニティーFMだ。

番組を聞くためには自ら可聴エリアに足を運ばねばいけない億劫さ。

パソコンでクリック一つでアクセス出来てしまう動画サイトの手軽さとは程遠い、この「不便」さが、今回製作した楽曲の象徴するところでもある。

エアチェック世代は、高いFMアンテナを建てたり、わざわざ重いラジカセを背負ってサービスエリア内にで出かけたりとそんな手間隙かけてお目当ての番組やオンエア曲をアナログカセットテープにせっせと録音していたのだ。

だからこそ記憶に刻まれていったのかもしれないアナログ時代のディスコグラフィティー。

ネットが普及した今日では、もはや遠い「昔話」だ。

多忙の中、「波の数だけ1985」を作曲していただいたゆうさく(ゆーま)氏にこの場を借りて御礼申し上げる。

 「波の数だけ1985」(作詞・あびゅうきょ 作曲・ゆーま)


バブルの前の日本にアナログ天国ありました
トリオにオットー、オプトニカ
デンオン、ローディー、テクニクス
私の歌もアナログでボーカロイドも真空管
波の数だけ1985
マクセルUD,TDK
ヒロセ無線でまとめ買い
ウーハー、ツイーター、スコーカー
みんなまとめてオーディオテクニカさ
私の歌もアナログでモーグシンセでパーポーおじさん
波の数だけ1985
石丸電気のレコード券、貯めに貯めたら1万点、グレングールド買いました
ソニースカイセンサーBCL、ワライカワセミどこの局?受信レポートすぐ出そう
波の数だけ 波の数だけ1985

バブルの前の日本にアナログ天国ありました
週刊FM、FMファン
レコパルを買ってエアチェック
私の歌もアナログでボーカロイドも真空管
波の数だけ1985

「4半世紀前のアナログ全盛時代、
デジタルの波に削られて
次第に記憶から薄れつつある
アナログメディアの中に、
もし私が生まれていたら」(語り)

メタルにクローム、ノーマルテープ、アナログカセット全盛期
長岡鉄男も生きていた
バブルの前の日本にアナログ天国ありました
波の数だけ 波の数だけ 波の数だけ1985


2010年1月31日

1月も虚無的に終わっていく

宰相の鳩何とかが国会の演説でガンジーよろしく無抵抗主義でみんな死のうとか何とかいったらしい。

いや「いのち」なんとかか?どこかの芸人さんが身体で漢字の「命」を描いていたが、あれを国会でやったのかな?

どっちにしろインチキくさい宗教家の寝言みたいなもので国を導こうというのだから傑作である。

世迷言で国が治められるのなら、東京拘置所にいる麻原何某の方がよっぽど「頼もしい」。

トヨタの車がアメリカとかヨーロッパでリコールの嵐とか報じられているが、あれは多分、南極海で日本の捕鯨船が反捕鯨団体の船を衝突させて沈めたことに対する報復ではあるまいか?

世界には「白豪主義」がまだ支配的で、野蛮な「イエローモンキージャップ」をやっつける機会をアングロサクソンは虎視眈々と狙っている。

それに乗じて中国だって日本潰しの千載一遇のチャンスと喜んでいるだろう。

世界はこういった弱肉強食の「喰うか喰われるか」の闘争の場であるにも拘らず、先の偽政者宰相の「寝言」は冗談にもなるまい。

無論、白人と中華帝国の奴隷に成り下がって「みんな一緒に死のう」という宣言なのならば、それはそれで大したものだ。1億総出家して一切の欲を絶って侵略者に身を任せよというのなら、そうしろ。

さっさと「1億総出家法案」でも提出して、日本の全資産を太平洋にでも捨てて来い。

その覚悟があるのなら大したものだがな。

相変わらずツイッター何某は、誰もが無条件に賛同して参加しているようだが、未だに有効利用が出来ない。

フォローが増えるたびにいろんな人の書き込みが短時間に積み重なっていく。

これが三桁になってすべてチェックしていたら1日24時間あっても足りない。

にも拘らず、人は何故このシステムが「便利」と思うのか?

なんとなく、例えとして居酒屋での雑談と同じような気がしてきた。

その雑談の中から取捨選択していろいろと情報交換するのに似ているようだ。

これは自分にとって一番苦手な作業である。

居酒屋での飲み会などに行っても、あんまり人の話が楽しいと思ったり、有益だと思ったことがない。

自分の関心事とシンクロする話題など稀有だ。だから大抵は黙り込んで反射的に頷く位なもの。

2時間の宴で一言も喋らなかった事も珍しくなく、その場に居るのか居ないのか解らないほど「存在感」がない。

ツイッターも似たようなもので、ざっくばらんな人の話を聞くことに何の意味があるのか皆目解らない。

だから、ツイッターとか喜んでやる人は、居酒屋なんかでも饒舌なんだろうなあと思う。

どうして、ああいった多人数の場で率先して話題が尽きないのか不思議に思う。

隣の人が鬼だったらどうするのだ?

そういう恐れはないのだろうか?自分の話が他人にとっても面白く興味深いとなぜ自信を持って喋れるのだろう。

そして何故、他人の会話が面白いと感じるのだろう。

自分は無理だと思う。

自分の話すことは恐ろしく偏狭なのでこの場で話題を振ったところで引かれるのは目に見えている。だから黙っている。

実際「なぜ君は自殺しないんだ?」と隣の人に振ったら困った顔をされたので黙っていたほうがよかったのだ。

一方、他の人の話題は殆どが興味のないことばかり。

稀に関心事だったとしても、大抵は別の参加者のほうがそれに関する情報量や知識が豊富だから自分が喋る必要性はない。喋っても恥をかくのがオチ。コミュニケーション能力マイナス400パーセントだから会話のキャッチボールなどもってのほか。一言二言呟いて終わり。それも独り言の類だ。

結果、自分は黙り込んでテーブルの残飯をジーと眺めているだけとなる。

結局、ツイッターも同じなのだ。

たくさんの流れ行く書き込みをただ虚無感で眺めているだけが自分にとってのツイッター。

時々、ボソッと呟くも、

「あれ、あなたなんか言った?」

で終わってしまうのがオチ。あるいは、突如奇抜な事をのたまって場を白けさすのが関の山。

宴の場ではよくやったものである。

ツイッターもなんだか「村社会」と同じで仲間に合わせないと村八分されそうで恐ろしい。

だから止めるに止められない。

気が付くと1月も終わる。

日々「死刑囚」の感覚が沁み込み、恐ろしい。

空を見上げると、火星が赤々と輝いている。2年2ヵ月毎に接近する第四惑星火星。

火星にはフォボスとダイモスという衛星が回っている。その意味は「恐怖」と「不安」だ。

己の人生は常にその二つが取り巻いて離れない。


2010年1月29日

2009年も自殺者3万人超

メディアによると殺人とか交通事故者数は減り続ける一方で、自殺者数は昨年も3万人を超えたという。

何時の時代にも「いらない人間」「人生の敗北者」は淘汰されるのが生物としての宿命。

それがポジティブな現象として「殺される」か、ネガティブな現象として「自ら命を絶つ」かの違いだけで、特段異常なことではないのだろう。

先日、NHKBSで太平洋戦争中の元兵士の証言から顧みるドキュメンタリーシリーズを見た。

その中で南方の孤島に取り残され、飢餓の中、食い物を巡って殺し合い、同僚の死体まで食らって生き延びたエピソードを紹介する回があった。

70年前、餓死寸前の極限状態の中で、それでも生きながらえようとした「生への執着」。

その一方で2010年の今、飽食の時代にも拘わらず自ら命を絶ってゆく「死への逃避」。

そんな者が年間3万人も居る事実。

結局、人間、いや生物というものはその環境に順応するために、仲間を殺したり、自ら命を絶ってその種を存続させようとする宿命に縛られている。

先進国の少子高齢化、人口減、自殺増は地球がもはや支えきれなくなった「余剰物」をこれ以上増やさず、排除するための「必然の儀式」なのかもしれない。

このホモサピエンスが種として存続するには、出生率を出来るだけ少なくするに留まらず、今生きている者すら「役に立たないもの」としてどんどん「間引き」し「自ら死を選んでもらう」必要があるのだ。

そんなことは今に始まったことではなく、「姥捨て山」とか「コケシ」なんていう普遍的な「人減らし」は昔からあった。

産業革命以来、爆発的に増えていった人間の個体数。しかしもはやこれ以上増やすことは不可能なのだ。

だから自殺してもらわないと困るのである。

成長なき時代に生命のリストラは必須なのだ。

人類が存続しうる必要最小限の数は、恐らく今の10分の1かもしれないし、100分の1かもしれぬ。適正な数など誰にもわからない。

だが「多すぎる」事だけはたしかだ。

だから生物コロニーとしての成長が止まった時、大多数は「いらない人間」となる。いや「いらない人間」にしなければならない。

これから自殺は、ありふれたスタンダードな死になろう。かつての結核や脳卒中や癌のように。

だから「あの人、自殺したよ」といわれても、「ああ、そうなのね。まあ平均的な生涯だったね」で済んでしまうほどありきたりなものとなる。

かつて専業主婦が当たり前の時代に「共働き」が不幸な家庭とみなされたと同じように自殺は非業の死だったが、今や共働きなんて当たり前と感じると同じく、自殺もごく当たり前な死になろう。

これ以上、成長を望めない社会にやがて貨幣制度も崩壊していくだろう。

デフレは破滅への第一歩だ。

物量が減って、モノの価格が逆に上がり始めた時、世界の終焉が来る。

大多数の人間に食料が行き渡らなくなり、飢餓が始まる。

飽食から飢餓へ。

歴史は繰り返される。

再び、人々はかつて南方の島に取り残された兵士の如く、生きるために殺し合い、仲間の死体を食い始めるだろう。

そして今の文明は崩壊する。

しかし、その「破滅」という通過儀礼なくしては、人類は次の成長に進むことは出来ない。累々たる何億人もの死を受け入れなければ未来はないのだ。

僅かに生き残った「人生の勝利者」「選ばれし者」だけが次のステップへ旅立てるのだ。

「破滅」へまっさかさまの入り口。それが2010年の今なのだ。

だから、精々今の「飽食」を楽しむがよかろう。

デフレは神からの「最期のお恵み」だ。今更成長が見込めないのに物価が上がったらそれこそ「THE END」である。

今日において、雇用が増えて、賃金が上がるなんて状況は永遠に来ない。

産業革命以来の成長システムがもはや限界に達している以上、もはやこの先には「衰退」という2文字しかない。

仕事もなく給与も下がる一方の状況下で物流は滞り、「物不足」が蔓延してくる。

こうしてデフレは終わり、恐慌的物価高がくる。こうなったら最期、もはや最低限の衣食住を維持できる者は殆どいなくなり、9割方が「生活保護」「ホームレス」と化す。

多くのものは絶望し、餓死するか自ら命を絶つだろう。

年間自殺者は10万人を超す事態となる。

「ベビーブーマー」世代ならぬ「自殺フィーバー」世代が一世を風靡する。

生き残るのは僅かで、大抵の者は死ぬ。自殺がオーソドックスで、稀に殺されるか、喰われるか。

病院で安らかに見取られながら大往生なんて「宝くじ」並みの確率となろう。

「なに?あいつはちゃんと病院で死ねた?それに葬式まで出来たのか?羨ましい!お墓にちゃんと埋葬されたなんてどんだけ恵まれた奴なんだ。凄いぜ」というのが普通の会話となる。

大抵は「燃えるゴミの日」に出されるか、無縁仏。死亡の報を受けることもない。

誰が何処で死んだか、知らせる人も居ないし、知りたいと思う者もいなくなる。

もはや人の死は「ゴミ出し収集日」の雑務と同じだ。

清掃車がチャイムを鳴らしながらやってくるよ。

「今日は死体回収日です。カラスネットは忘れずに。」

そしてこの国は終わる。

合掌。

2010年1月24日

世界は「己の脳」の中

ベテルギウスが爆発しそうだというニュースを少し前に聞いたが、天文学のスケールだとその誤差は数万年らしい。

それと比べれば己の人生など何でもなかろう。

一瞬にすらならない。

モーニンググローリーという雲があって、それを追っかける男達の話をBSで見た。

時間と金を湯水のように使える者だけがこういった「道楽」に人生を賭けられる。

一方、暇はあったところで、ただ家に篭ってもんもんとしている己のような人間はそんな「道楽」する行動力もない。

だいたいそんな道楽に使う金などないのだから。

ベテルギウスもモーニンググローリーも自分に関係なく存在する。

自分が存在しなくなっても存在する。

しかし、「我思う。故に我あり」。

世界は「己の脳」の中で認識される。

己の脳がなくなれば世界も「終わり」である。


2010年1月16日

冬コミ新刊が書店委託販売開始。

波の数だけAIR CHECK with 初音ミク

秋葉原火葬場少女帯 

宜しくの程を。


2010年1月12日

無縁社会地獄

先日、NHKで「無縁社会」とかいう特集をやっていた。

日本社会は核家族化から更に「単身化」が進んでいるという。

その勢いは爆発的である。

「単身化」は日本社会から「家族」という概念を消し去り、近所付き合いや親類縁者の付き合いもなく、やがて「孤独死」が恒常化すると。

取材対象とされた「単身」中年独身男性は、正月になっても誰からも年賀が来ず、近所で実際にあった「孤独死」に怯えて暮らしている描写が映し出されていた。
そしてこれからは、己の死を告知するために、赤外線を使った探知装置を設置して誰かに自分の生死を確認してもらうシステムが必要になってくるかもしれないとレポートは結んでいる。

おそらく、この予想は的中し、遅かれ早かれ妻子を設けられない孤独男性や、「おひとりさま」という自己欺瞞で自分を騙し続けている独身女性はこのような「孤独死」を免れ得ないであろう。

元気なうちはまだいいが、そのうち身体が動かなくなったり、怪我、病気になれば、寂しき自分の部屋でじっと天井を見つめながら「死」を待つしかなくなる。

このような「人生の最期」を本当に「納得して」受け入れられる者がいるとは思えない。

口先では、こっちのほうが気楽だとのたまっていても、いざ実際、自分の身体が動かなくなった時、親も子も親類縁者も近所の人も友人も訪れることがないとなれば、孤立無援のまま耐えられる者はいるまい。

しかし、これからはそんな「無縁社会」がスタンダードとなり、死んでも誰にも気が付かれないまま、腐ってミイラ化していくのである。

恐らく、単身男女のアパートマンションは建物ごと死臭を放つ遺体安置所と化すであろう。埋葬も手間と時間が掛かるから、そのまま「墓地」化するしかなくなる。

これが「男女共同参画」が目指した理想の未来の姿だとしたら皮肉なものだ。

まるでカンボジア、クメール・ルージュのキリング・フィールドそのままである。

家族の絆や専業主婦を敵視した者は言うだろう。

「ルームシェアでそんな孤独死は防げる」

ルームシェアがどれ程の助けになるか知れぬが、「家族」という絆と比べれば取るに足らない存在だ。

もし、同居相手に恋人や新たなパートナーが現れたらどうするのだ?部屋から出て行けと言われたら「裏切り者」と罵って絶縁するのか?

結局は「単身者」となって無縁社会に逆戻りがオチである。

所詮「単身者」は孤独の中でのた打ち回って苦悶しながら、人迷惑な死を覚悟しなければならない。

国際資本に操られたマスコミに騙され「消費者」として絞られるだけ絞られた挙句、ミカンジュースの絞り粕の如く捨てられるのが「おひとりさま」の行く末だ。

家族の絆は煩わしいか?

確かにそうだろう。

しかし、専業主婦の苦労や困難は己の子を生み育てることで次世代に「希望」を継承し、それによって成就される。

だが、「おひとりさま」の行く末は、何の「希望」も残さず、現役世代に多大な負担を強いた挙句、人迷惑な死だけが待っている。

ただのお荷物なのだ。

「おひとりさま」に消費能力がなくなった瞬間、それは単なる「腐りかけた肉の塊」だ。

そんな「塵」を社会が負担する余力は、もうこの国にはなかろう。

だれがそんな「役立たず」に手を貸すものか。

だから単身者は「孤独死」を甘んじて受け入れ、専業主婦に対し「社会にご迷惑をおかけして申し訳ございません」と懺悔しながら生き恥を晒すのだ。

「おひとりさま」の部屋は、すなわち己の墓場である。

表札がそのまま自動的に墓標となる。

死んだ瞬間に自動的に焼かれ、そのまま墓地化する「おひとりさま」専用マンション兼墓苑がまもなく発売されよう。

しかし、そんなマンションを買える「おひとりさま」は稀有であろう。

殆どの単身者は、安アパートの一室でうわごとのように己の人生を後悔し、己をこんな孤独に誘い込んだマスコミを怨む呪文を吐きながら死んでいく。

やがてその死体には蛆が集り、その身体は銀ハエの餌となる。

そんなものの為にお前は生きてきたのか?

そうだ!

所詮「おひとりさま」は蝿の餌が関の山だったのだ!

今更悟っても、もう遅いのだよ!

ぎゃー!

泣け!喚け!

しかし、お前の運命はもう変えられないんだ!

そのアパートの部屋は当然、もう価値がないから死体ごと解体されて無縁仏どころか産業廃棄物と一緒に東京湾辺りに捨てられるのである。

もはや人間の尊厳すら与えられない「限りなくゴミに近い存在」として廃棄される。

これからの日本はそんな「無縁社会」で死んでいく「おひとりさま」死の宴一色となろう。

2040年辺りの夏。

東京は死臭に包まれる。「おひとりさま」が今日もどこかで大量死している。だがそれを処理する者はいない。

国も地方自治体もそんな予算はない。放っておくしか術はない。

大量の蝿とカラスが首都上空を飛び交い、まるで帝都は「死都」と化す。

23区内はもうそのまま巨大墓地化するしかなくなろう。

まともな家族を設けた「人生の成功者」はそんな「死都」を捨て、新たな地に遷都するかもしれない。

これが、最も信頼できる日本の将来の姿だ。

もう後戻りすることは出来ない。

甘んじて受け入れよう。「不毛で無意味な死」を。

「孤独死」は辛いが、他に選択肢はないのだからね。

合掌。


2010年1月11日

成人の日なんてまだあったのか?

なぜか月曜日が休みだという「ハッピーマンデー」。

.何の祭日かと思いきや、成人の日だとか。祭日の意味が後から悟る時点で「祭日」の意義がもう薄れている。

もっとも「365日アンハッピーマンデー」「人生の絶望月曜日」を繰り返している自分にとってはどうでもよいことなのだが。

この日にやっていた「青年の主張」というのはもうなくなったのだろうか?

代わりに「人生の成功者」たる人気ミュージシャンやアスリート、宇宙飛行士が「上から目線」で新成年に向かって説教する番組をNHKでやっていたのでチラッと見る。

後付の「結果論」で「人生の勝利者」の弁を語ることに果たして意味があるのか。

己が二十歳の頃はこんな苦労をしたなどという事は、己が今、成功しているから語れることであって、もし今尚、夢を成就出来ない人生を歩んでいたならば、そんな嫌な出来事、オクビにも出すまい。

己が成功したのは、類稀な才能、運に恵まれたからであってそれ以外のナニモノでもない。特に自由業なんてそれに尽きる。

だから、こんな「人生の勝利者」のご鞭撻を聞いたところで何の役にも立たない。99・998%の者がそんな「夢」など叶わずして朽ちているのだ。

百害あって一利なし。

むしろ、40、50になっても若き頃の夢はおろか、ささやかな幸せすら手に出来ず、それでも這い蹲って叶えられるはずもない青臭い理想を求め、のた打ち回る哀れな中高年の心の叫びを放映したほうが、よほど新成年にとって役に立つメッセージとなろう。

雲の上のクリエーターを目指すも、己の才能のなさに気づくのが遅れ、しかし今更引き返すことも出来ず、潰しの利かない人生を歩み、気が付いてみれば40を過ぎて独身。スキルも資格もないまま、いつの間にか深夜コンビニのパート。20も年下の店長から毎日のように「使えねえ奴だな。おっさん」と陰口を叩かれ、お客の女子高生から冷笑を浴びる。しかし、己の口から出てくる言葉は

「すいません。ごめんなさい・・」

そんな人生を歩んでいる絶望独身男性の、嫉妬、怒り、妬み、悲哀、諦め、苦痛にまみれた「心の叫び」をこれでもかこれでもかと公共の電波を通じて、全国の新成年に伝えるのだ。

これこそがNHKの使命じゃないのか?

これを聞いた新成年は少なくともこんな人間にはなりたくない!と悟り、真っ当な人生を模索するであろう。

これからは堅実な結婚、子育てこそがステイタスとなる。

もはや男女共同参画なんて誰も相手にしなくなろう。

結婚して子供を設けた同輩の年賀状こそに「真の幸せ」があることに皆、気づき始めている。

この状況下において、まだ「独身がいい。女も外で働くべき。おひとりさま最高」なんて世迷言を信じる者はいない。

居たとしたら、太平洋戦争末期、B29に焼け野原にされた己の国の姿を見て、なおも竹槍を使って戦争に勝てると信じ込んでいる愚か者と同じレベルだ。

もうそんな「泥舟」に誰が乗るものか!

真っ当な者は、直ちに男女共同参画という狂気の教条主義を投げ捨て、「専業主婦」という「正しき幸せの場」へと戻っていくだろう。

新成年に悟らせるべきはこの真理であって、自己欺瞞に溢れた「自分探し」ではないのだ。そんなものはもう誰も求めちゃいない。

「専業主婦」と「終身雇用」こそが絶対的正義であって、それ以外の選択肢は邪道と悟れ!

その絶対的正義に乗れなかった者は、すべて「人生の敗北者」だ。

これから新成年になる者はこの掟を肝に命じておくべきなんである。

これを語らないすべてのメディアは嘘つきだ。

この3連休、気が付くとずっと寝ていた。目が覚めると日が暮れていて天気すら解らない。

明日も同じ。

嗚呼、辛い。


2010年1月1日

謹賀新年「年頭のご挨拶」

謹賀新年。

そして昨日のコミケット77あびゅうきょスペースにお越しの紳士淑女各位にこの場を借りて御礼申し上げる。

今回は15時までお手伝いが手配できず、ずっとスペース内で過ごす。終了間際に大学当時の後輩が仕事納め後に来てもらったので何とかやり遂げることが出来た。

14時過ぎには創作少年のエリアは閑散とし始める。やはり大晦日は引けが早いのか?

かつて少年創作周辺もごった返すほどの人波があったはずだが、最近は殆ど見ない。コミケ全体の参加者は多くなっているはずなのだが、どうにもこの辺りに限っては実感がない。

イベント終了後、カートで荷物を宅配集荷場にまで引っ張っていく道中、ふと東の空を見上げると巨大な満月が昇っていた。

いつも行くビッグサイト近くの70分1500円バイキング形式のレストランで一服。ここもコミケ仕様なのかウエイトレスがメイド風になっていた。

18時過ぎ帰宅。

昨晩、ぶっとうしでコピー誌を作っていたのでその分睡眠が足りず、すぐに爆睡。

起きたのは、朝の6時前。

「紅白」も「行く年来る年」も観なかったので年越しの感じは一切なく、淡々と夜が明けていくだけ。

テレビを点けたら富士山上空からの初日の出中継をやっていたのでぼっと見る。

ヘリを飛ばしての中継。いっそ決死の冬富士山頂アタックを敢行すればよいものの、楽なほうを取るか。

猛烈な冬型でヘリから撮影される山頂付近は雪が吹き上げられて物凄い状況。

気象予報士が体感気温はマイナス50度位といっていた。

だからこそ、山頂生放送を見たいのだが。テレビが生き残りたいのならば身体を張れ。元F1レーサーをレポーターに据えれば視聴率も稼げように。

もっとも富士山測候所が有人観測していた頃は、そこに人が駐在していた訳。

なんとなくこの富士山山頂から撤退してしまった頃から日本が衰退し始めたんじゃないかと思ってしまう。

因みに昨年の日本人人口自然減は7万人余だったとか。

昨年、7万人もの人間がこの日本列島から消え去り、新たに生まれ来る子供もいないということだろう。

今年はGDPで中国に抜かれるというし、いよいよ終わりが近いと考えさせられる元旦のニュースだ。

午前8時頃、近所の神明宮に初詣。去年から改修中でやっと年末に工事を終えたようだ。

伊勢神宮のような造りになり、能舞台まである。ここの神社は阿佐ヶ谷周辺の大地主なのでお金が潤沢らしい。

その分「神頼み」する場としては俗っぽさが増え、有り難味が減った。

お賽銭が馬鹿馬鹿しく思える。

10時ごろ、ポストを覗いたらやっと年賀状が届いていた。民間になってから到着が遅い。

息子娘がもう中高生の同輩も多く、そんな写真が写っている年賀状を見ると、生きている次元がまったく違うことに気づかされる。

自分の父親が50歳だった時、何をしていたかを考えると、自分はすでに「まっとうな人間」ではないのだ。

やがてフェードアウトしていく幻みたいなものだろう。

人は誰かに必要とされるから生きていける。

その最たるものが息子娘の存在だ。子供にとって親は唯一頼れる存在。だから親は子供に「生かされている」ようなもの。

宇宙飛行士は子供がいる既婚者が選択される。生きる意欲は独身者の比ではないからだ。

世は不況、不況と嘆くが、子持ちの既婚者が路頭に迷うなんて聞いたことがない。

真っ当に生きている人間は、いつの時代にも守られ、その者たちの雇用と生活は保障されている。

切り捨てられるのは「誰からも必要とされていない」無能な独身者ばかり。

「派遣村」云々に屯している者も大抵はそんな「不必要な」連中なんだろう。

独身者、特に誰からも必要とされていない者は50を過ぎればもう、朽ち果てるだけの単なる「有機物」に過ぎない。

やがて腐臭を放って周りから疎まれ、孤独の中に死んでいく。

50にして誰からも必要とされない人間ほど哀れなものはない。

社会はすべて有用な者だけを受け入れる。役立たずを受け入れるほど社会は寛容ではなくなる。特にこれからの日本はね。
結局、2010年の正月も、「現実の恐怖」に苛まされることになった。

そうこうしているうちに、あっという間に陽が西に傾き始める。

さっき初日の出を見たばかりなのに、何故だ?

若い頃の正月はもっと長かったはずなのに。

歳と共にエネルギー代謝が衰え、すべての事象が限りなく希薄になり時間の質量もどんどん軽くなっていく。

2010年という「未来」も、誰かに必要とされない人間にとってはどうでもよいことになる。

今が「21世紀」であろうとなかろうと己の存在感が希薄になってしまえば、時代などどうでもよくなる。

ただ日が昇ってきて、暗澹たる時間が過ぎ、日が落ちて闇が来る。

その繰り返しの何回目かに過ぎず、2010年だろうと、2199年だろうと、1959年だろうと「要らない人間」にとっては同じようなものだ。

「2010年ってどうなっているんだろう」と夢を馳せた少年時代は幸いだった。もし己の現実を知ったら卒倒して泣き喚き、こんな2010年を迎える己を創造した神を恨むであろう。

でももはや遅きに失した。

諦めろ。少年時代の自分。お前の2010年はこんな惨めな未来だったのだ。

もう元旦が終わる。

何もせずに終わる。

「パパ!明けましておめでとう」とはしゃぐ息子娘もいない。

「あなた、おめでとう」と囁く美しい妻もいない。

誰からも電話もメールも来ない(夕方、同人仲間の一人からは来た)。

お年玉は無縁だ。親族からは相手にもされていないからね。もっともあげるお金もないが。

ただ、いつもと同じように無益で孤独な時間が過ぎ行くのみ。

今年もよろしく。


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