2009年10月・11月・12月
ブログもあります。ブログの方が早く更新される場合があります。
2009年12月30日
改めてコミックマーケット77(12/29〜31・東京ビッグサイト)のご案内。
あびゅうきょスペースは31日(木曜)東地区”ヤ”38a。
オフセット新刊は二つ。
新刊御案内その1
誌名/『波の数だけAIR CHECK with 初音ミク』サンプル画像情報
新刊御案内その2
誌名/『秋葉原火葬場少女帯』サンプル画像情報
著者/亜風紀代
他、既刊誌多数。突発コピー誌も作るかも。
「あびゅうきょ氏へのメッセージ大募集」のチラシも配布。
ということで、31日あびゅうきょスペースにてお待ちしております。
2009年12月29日
アニメ作家ktooonzさん主催の忘年会
アニメ作家ktooonzさん主催の忘年会にお邪魔する。
知人から「たまにはこういった場でコミュニケーションを図るべし」と促され、一緒に連れて行ってもらう事にした。
ここ連日、引き篭もってネットやブログに「トイレの落書き」するだけの不毛な時間を浪費せざるを得ない身にとって、己を客観視出来る場に誘ってもらうのはありがたい。
その知人と大泉学園駅で待ち合わせ。知人は駅前のショッピングセンターで差し入れ用にオリーブの惣菜を購入。知人はktooonzさんの所で時々お手伝いされているので、どんなものが喜ばれるか分っているのだろう。
一方、自分はこういったパーティーに慣れていないからどうしてよいか解らず、何も買わずに現地へ。お呼ばれされているのに相変わらず非常識な人間である。今に始まった事ではないが。
こんな「50歳児」を相手にする知人も大変であろう。遅かれ早かれ愛想を尽かされそうである。
それはさておき、「ゆめりあ」はいろいろお店があって楽しい。買い物の後、途中、大泉学園で有名なケーキ屋さんに寄るが知人が欲しかった商品は売り切れだったらしく残念。そのまま徒歩でktooonzさん宅へ。
大泉学園の閑静な住宅街の中にあるアトリエ兼ご自宅でのパーティ。ktooonzさん手作りのご馳走でもてなされる。
ktooonzさんお知り合い関係の映像作家さんら多数が来られてインド映画をBGVに歓談に励む。
例によって生身のコミュニケーションに疎く、何をしゃべってよいのか自己完結な思考が渦巻くだけだったが、それでも名刺を交換したり、同人誌を渡したりとかで恥を覚悟で交流に勤めた。
意外にもコミケとか同人誌イベントを知らない、あるいは参加したことのないクリエーターさんも多く、不思議な気がした。
ところでktooonzさんのご自宅は近隣の公園から差し込む日差しが心地よく、まこと創作環境に恵まれた立地条件。
やはり創作には周りの環境も大切なのだと実感。
パーティーからの帰り道、冬空に浮かぶオリオン座を眺めつつ、今年を振り返らんとするが何も出てこない。
まだ31日のコミケット参加が残っているので、それが終わらない限り己の今年も回想出来ないのだ。
とはいえ、普段交流する機会のない人達と接する事が出来たので、誘ってくれた知人には感謝の極みである。
帰り道では、知人から「覇気がない」とか「もっと笑顔を見せろ」とか「ストーブの前をお前が占領していてどうする。少しは気を使え」と説教。
どうやらモチベーションの低下はこんなところにも出てしまっているのだろう事を知人は察しているらしい。
たぶん、説教される内が華なのだろう。
相手にされなくなってはおしまいだ。
これを教訓にコミケでは接客に勤めたい。とりあえず大晦日はよろしくの程を。
2009年12月28日
ツイッターはトイレではないらしい
ツイッターを始めて暫く経ったが、どうもダメである。
どうやら便所のような使い方はしてはいけないらしい。
ツイッターを誘ってきた腐れ縁の大学後輩にプライベートメッセージで「新しく社民党が作ったポスターでオナニーしてみろ」とか、シツコク下ネタで絡んでみたらブロックされてしまった。
親しい奴に下らない戯言を投げつけるには便利かなと思いかけた矢先、ブロックである。
こうなると、もう何のためのツイッターか解らない。
大統領やら首相やら宇宙飛行士までが、サルのラッキョウ剥きの如くツイッターを始めるというが何のためだ?
状況は尋常ではない。
おそらく、このツイッターを運営している会社からお金でも貰っているのだろう。
有名人が始めればトレンドの最先端だから自分も乗っからないと時代遅れになるとか、そんな理由でみんなツイッターに手を出しているのだろうか?
他に理由が考えられない。
フォローしている人たちの「呟き」が延々と流れるスレッドを眺め、そこから有益な情報を探し出すというような「才能」は残念ながら自分にはない。
どちらかといえば苦痛だ。
情報収集は重要だけれど、ツイッターは肌に合わない。
自分なりにカスタマイズして取捨選択しないとだめなのだろうが、そういうのは本当に苦手だ。
自分のようなタイプの人間がツイッターみたいなモノに手を出すと、延々とトイレに座り、糞を小出しに排泄するだけで1日が終わっていくようなもの。「うんこ製造機」が「うんこ製造機強化型」になるだけのことだ。
せっかく始めたので辞めるつもりはないが、正直面白みはゼロである。
自分をダメにするだけだ。
しかし、よくこんなシステム思いついたものだ。
ここから如何に儲けを絞り出すか、いろいろ計算したんだろうなあ。メリケンさん。
残念ながら、私からは「排泄物」しか出ません。
「うんこなう」。
2009年12月27日
メッセージ募集のお知らせ
2010年3月頃発刊予定の『影とおたまの変態記2』(仮題)に合わせて、これまであびゅうきょ作品を読まれてきた読者各位からメッセージを募集。
この12月25日で半世紀の人生を迎え、また30年近く漫画を描きつづけてきたあびゅうきょ。
これも一つの節目かも知れぬと、同人作家の森野優樹氏がユニット企画として「あびゅうきょ氏へのメッセージ大募集」を考案していただいた。
詳しくは最新情報を参照していただければ幸いである。
果してどれだけメッセージが集まるかなんとも言えぬところ。
普段、日記やらでネガティブな毒吐きしかしていない者に、メッセージなんざあ寄せる奇特な読者が居るのか甚だ疑問なところだが、せっかく同人仲間が企画してくれたのだから、ここは一つポジティブに構えたい。
五十路の土産になれば幸いである。
宜しくの程を。
2009年12月22日
古い機器の整備
冬型の気圧配置が続き、急に寒くなった。暖冬と言われていたのに気象衛星画像は季節風に伴う筋雲だらけ。
寒さが身に凍みる。
何か未来に見通しとか、目標とかおぼろげながらに見えていた40代もまもなく終わり、「老い」が首をもたげてくる50代に入らんとしている今、後の余命をどうやって生き延びるべきかだけしかない。
自分と同世代の阿佐ヶ谷某BARマスターが呟いた。
「これから先の人生は付録みたいなもの」
そう、「付録」だ。すでに人生の「本編」は終わってしまったのだ。
とにかく、出来るだけ辛くない「余生」を送りたいと願うも、まともな貯えもなく、ただ不安と恐怖のみが手薬煉挽いて待ち構えている。
そんな「付録人生」嫌だなあ。
10年前に買ったアルプスの熱転写型プリンターMD5000がまた壊れたので修理に出した。
これで4回目か5回目。修理費全部あわせたら8万を超えた。定価が5万強だから修理費のほうが高くなってしまった。今だったら1万円ソコソコで最新の複合機が買えてしまう。
故障したのが同人誌の入稿前だったので、出力見本が刷れない。結局、致し方なく安い複合機を買って急場を凌いだ。
しかしメインのマックには対応していない。何せ未だにOS8.6。これで動く周辺機器なんて殆ど聞かない。
だからマックで作ったデータを一旦ウインドウズ機に入れなおして、そこからプリントアウトするという面倒な作業を強いられた。
インクジェットプリンターは、やはりMD5000に比べて印刷の質が悪い。オフセットの質感がインクジェットだと出てこない。
インクで濡れている紙を見ていささかびっくり。インクジェットは紙にインクをしみこませるタイプらしいので何となくエッジが滲んで見える。使用した紙のせいもあるかもしれないが、やはり熱転写型プリンターに慣れると他方式の製品は使えなくなる。
よって、今なお、MD5000には頑張って欲しいため、高くても修理に出してまで使い続けるしかないのだ。
幸い「像のロケット」という会社がアルプスの修理保障期間を過ぎても修理メンテナンスを請け負ってくれているのでなんとか延命処置が可能だ。
古いパソコン周辺機器といえばMOがある。
家電量販店で640MB記録できるMOメディア10本入りで4700円する。CDRと比較すると同じ容量でも桁違いに高い。ただCD−Rはどうしても耐久性に不安が。それに、家のマックではDVDとかUSBメモリーがまともに使えないので今でもMOを使わざるを得なくなっている。
もっともMOドライブがなくなってしまったら元も子もないのだが。
古いシステムを使い続けるとお金が掛かる。
人も機械も古くなると直すことより、新しい新品に取り替えるほうが手っ取り早い。
いずれ自分も「ぽい」されてしまうのだろうか。
恐ろしい。
2009年12月18日
ツイッターがついったー(シャレ)@自分専用トイレ
いやいやながらツイッターとかいうのを設定してみた。
嫌ならやらなきゃいいのにと思うが、ネットや携帯自体、いやいやながらやっているのでその流れだ。
人生成功している者はそもそもネット、携帯の類は不要だと勝手に思い込んでいる自分としては「質量」のないバーチャルなコミュニケーションツールに時間と労力を割く時点でその人間の質が問われるようで情けなくなる。
「出来る人間」はそんなツールがなくとも旧来からあるコミュニケーション手段で先方からアプローチしてくるもの。
だから、こういうものに手を出せば出す程、己の「失敗人生」を認めているようなものじゃないか。
それはさておき、このツイッターとかいうカラクリ、さっぱりよく解らない。
自分の「つぶやき」を公開するシステムらしいのだが、そんなの誰が見たいのか?
愚痴とか舌打ちとか毒吐きとか、自分のですら鬱陶しいのに他人のものを好き好んで見聞きするのか?
多分、本質はそこにはないのだろうが、それ以外に思いつかない。
メリケンの考えたツールらしいので、またぞろ搾取のトラップかなんかだろう。
ということで、いやいやながらツイッターを設定してみる。
まだ、よく解らないので設定は「非公開」にしておく。でも「非公開」にすると自分しか観られないのか?自分の愚痴を見るためにツイッターやるのか?
これじゃまるで自分専用トイレだ。
もっとも「うんこ製造機」たる自分にはお似合いのシステムかも。
そんな「人生の敗北者」のトイレを覗きたい人はどうぞ。
https://twitter.com/abyukyo
2009年12月17日
コミックマーケット77あびゅうきょ新刊御案内
コミックマーケット77(12/30〜31・東京ビッグサイト)新刊御案内その1
誌名/『波の数だけAIR CHECK with 初音ミク』
サイズ/A5版32P表紙カラー
頒布予価/500円
ゲスト/ゆーま
新刊サンプル画像情報
ボーカロイドとして人気の初音ミクを案内役に、彼女のモチーフとなったヤマハDX-100が発売された1985年前後のオーディオ、エアチェック世代を振り返る2次創作イラストエッセイ。
アナログカセットテープやオーディオコンポ全盛期の1980年代半ば。
FM誌には2週間分のタイムテーブルが掲載されていた。
その「忘れられたエアチェック時代」に初音ミクが出現していたら?
そんな妄想イラストストーリーです。
また市川FM人気DJゆーまさんによるオリジナルスコアも掲載。
あびゅうきょ作詞の楽曲『波の数だけ1985』を初音ミクに唄ってもらう予定です。
販売スペースは31日(木曜)東地区”ヤ”38aです。
・
コミックマーケット77(12/30〜31・東京ビッグサイト)新刊御案内その2
著者/亜風紀代
B5版・全48P・成人向け(18禁)
頒布予価/700円
新刊サンプル画像情報
(この作品は成人向けです。18歳未満の方は購入出来ません)
成人向け漫画月刊誌『夢雅』(オークス)2005年6月号掲載された『秋葉原火葬場少女帯』を含む未発表続編を収録。
近未来、リニューアルされた秋葉原は巨大な火葬場街に変貌。
打ち捨てられた絶望男性が生きながら火葬されるために全国から集まってきた。
彼等にとって「死」こそ唯一の希望なのだ。
そんな街で働く少女達がいる。
人は彼女達を「秋葉原火葬場少女帯」と呼ぶ。
第一話はこれから死に逝く絶望独身男性から精液を採取する少女たちの活躍を描く「ザーメンハンター」(18P)。
第二話はニートヒキコモリ管理士の資格を目指す女の子が秋葉原で実地体験する様子を描く「ヒキコモリ管理士」(20P)。
販売スペースは31日(木曜)東地区”ヤ”38a「あびゅうきょ」です。
2009年12月16日
コミケ新刊入稿完了
15日に冬コミ頒布用自費出版原稿を入稿。今回は新刊2冊分。共にカラー表紙。
複数のカラー表紙本を準備したのは今回が初めてだろうか。
商業誌活動に目途がつかないため、自ずと頒布日時が決まっている自費出版のほうに比重が掛かってしまう。
最近、不況のせいかは知らぬが、同様に同人誌イベントへ活動範囲を広げざるを得ないプロ漫画家が目立つという。
いわいる大手出版社という「版元」を通さず、「直販」で自分の作品(本)を売り捌く販売形態への移行だ。
その代表格がコミケットなどの同人誌イベント。
だが、そのような「直販」のみで「プロ漫画家」が衣食住を賄えるほどの純益を上げる事は可能なのだろうか?
いろいろと推測してみた。
かなり大雑把な勘定になるが、仮に同人誌イベントで年間200万円の純売り上げを得られるとしよう。
これで満足な生活が確保出来るかは別として、まあ少なくともソコソコな稼ぎにはなるだろう。
そのためには、年2回のコミケットで最低でも1回のイベントで100万円の純益を上げないといけない。
1冊頒布価格500円として考えると少なくとも2000部の売り上げが必要。しかし印刷費その他経費を考えると2500部位売らないと目標まで到達しないだろう。
コミケットで2500部以上売り上げるサークルがどの位あるか知らない。
恐らく壁際に配置されたサークルの幾つかはその程度、売りさばいているのかもしれないが、いずれにしろそんなに多くはない。
つまり、「大手」と言われるサークルさえ、そんなコンスタントに100万以上売り上げるのは難しいと思われる。
ましてや「2次創作」ではない「オリジナル」でそこまでの売り上げを確保できる「自費出版メインのプロ漫画家」が多数存在出来るとは思えない。
仮にそこまで自費出版で売れるのならば、商業誌連載は容易だろう。「版元」が放っておかないだろうし、何も自腹を割いて同人イベントにこだわる必要はないのだ。
だから「自費出版メインのプロ漫画家」というのは考えづらい。
以前より「直販」の間口が広がったとはいえ、自費出版活動のみで「プロ」並みの稼ぎを上げるのは容易なことではない。
「とらのあな」等の漫画書店での委託販売やネットダウンロード販売など販売ルートは増えてはいるが、それでも大手出版社という「版元」依存で商業誌連載の原稿料、印税と比べたら微々たる数字。
つまり、プロ漫画家が同人誌イベントに頼らざるを得ない状況は、正直「止むに止まれず」という事情があってこそなのだ。
同人誌イベントはあくまで「お祭り」であって、生活云々の基盤にする場ではない。現状ではあくまでPR,自己宣伝の場の域を出ない。
とはいえ、社会情勢は厳しく、出版社も台所事情は苦しいと聞く。
ある程度、利益が見込める作家でないと安定した連載の場を確保するのは難しい。
同人誌イベントがまだまだ商売の場として脆弱であることは解っていても「直販」に流れる「プロ漫画家」が多いのは、一方で旧態依然の版元との関係性も関わっているのかもしれない。
印刷のクオリティーや納品形態は、いまや自費出版同人誌の方が遥かに勝っている。
大量生産前提の商業漫画雑誌の印刷度合いや、未だに写植、紙原稿依存の版下入稿形態、原稿管理の現状から比較しても自費出版のほうが漫画家に「やさしい」(もっとも、こちらがお金を出すのだから当然と言えば当然なのだが)。
今後、同人誌イベントや書店委託、ネットや携帯によるダウンロード販売市場がどんどん伸びていけば、「版元」の依存から脱却する「プロ漫画家」が増えることは容易に予想出来る。
というか、少子高齢化や生産人口の減少によって漫画出版社の存亡さえ危うくなるやもしれぬ今日、賢明な漫画家諸氏がいつまでも「版元」に頼って生き延びれようとは思って居まい。
己の活路は己で切り開かねば生き残れない。
その選択肢の一つとして同人イベントがあることには疑いはない。
漫画に限らず「直販」という選択はどんな業種にも見られる。
本当に「版元」に頼らずして成り立つ「漫画家」がスタンダードになる未来が存在するかは知らない。
しかし、自己表現を糧として生きる者にとっては僅かの可能性も逃してはならぬのだ。
でも、経費や売り上げを第一義に考えていると「仕事」と変わらなくなってしまう。
たとえば、印刷所に入稿が早ければ早いほど費用が安く上がるからそれを計算してスケジュールを組んだり、セット割引なんかも利用したりと原稿執筆以外で気を使わねばならぬ。
一冊の頒布価格もある程度利潤を求める価格設定を組まなければいけない。しかし利益度返しでオールカラー本を格安で頒布している「趣味優先」のサークルなんか見てしまうと、なんだかやりきれない気分になってしまう。
「貧すれば鈍す」
やっぱり同人誌は楽しく作るべきだ。
2009年12月7日
「かみさん」自慢ができる男が人生の勝利者
よくラジオを聴いていると、たまにパーソナリティーが「かみさん」自慢を口にすることがある。
「仕事が忙しいけどかみさんにせっつかれて」とか、毎日しんどいが、とりあえず家に帰れば「かみさん」が居てどうのこうのとか。
建前上は苦労話なんだけど、それはお惚気であって、独身者に対する「上から目線」の自慢話であることは確かなんだろう。
本人も悪気はないようだ。
もっとも妻を娶り、子を設けることは社会生活を営む哺乳類として定義すれば「必須の通過儀礼」であって、それが出来ない「独身者」よりステージが高いのは当たり前。
そんな「かみさん」自慢を出来ることがある意味ステイタスなのだから、「独身者」は甘んじてその「ありがたい自慢話」に対し、自分の置かれた立場を悔い改めねばいけないのだろう。
最近、新聞誌上で、「男女共同参画社会に関する世論調査」なるものが発表されて結婚しても子供はいらないとの回答が40パーセント以上に昇ったとか記されていた。
これは明らかに「滅びの予兆」であって「子孫を残すことが負担」と認識した時点で、その種の絶滅は確定的であろうから何とかせねばいけない記事かと思いきや、「男女共同参画運動が浸透した成果」等とのたまう。
世も末だ。
結婚も子供を設けることも「否定的」になった時点で、すべてがおしまいである。
この国は国民に対し、自ら滅びを奨励していると見える。
「このアンケート結果見てください!子供なんて要りませーん!男女共同参画ばんざーい!ぎゃああー!!」
まさにキ印並だ。
精々頑張って欲しい。
・
独身、既婚者どちらが人生を豊かに過ごせるかなどの物差しなんてこの世に存在しない。
自殺する富豪もいれば、いつもにこやかなホームレスもいる。それと同じことだ。
しかし、人生のパートナーも己の子息も設けられない人間が、幾ら声高に「そんなもの要らない」と叫んだところで人間はいずれ例外なく歳を取る。
これは避けがたい宿命だ。
老い朽ちかけた時に地団駄踏んで後悔するのはどちらなのかは、薄々気が付いている。
既婚者、子供を設けている者は差程「声」を上げない。
なぜならどこかで満たされているからだろう。満たされている者は世間に訴えなどしない。
最も幸せなのは「専業主婦」である。彼女らの声は殆ど巷に聞えてこない。
だから幸せなのだ。
そして幸せたる基盤も確固としてあるから、何も声にする必要もない。
子を設け、育てると言うのは究極の「幸せ」の形であることを、図らずも証明している。
一方で、満たされないものほど煩く声を上げる。
独身者は煩い。特に独身女性の「声」はありとあらいるメディアに溢れ、隙間もない。
なぜなら己の「不幸」を自己欺瞞で固めていなければ生きていけないからだ。
「不幸者」はいつも煩い。
「不幸者」は満たされていないから、常に何かを要求せずにはいられないのだ。
未来を作れない者の哀れな叫びは果てしない。
そしてそれを是とするメディアと国のスタンスに「世界の終わり」を予感するのは自分だけか?
子供をいらないと公言する40パーセントもの人間は己が「不幸」に無頓着であることを知るべきだろう。
それはけっして賢いのではなく、ただ人間という寿命ある宿命に「鈍感」なだけだ。
いずれ歳を取れば解ろう。
まもなく50を迎える自分が「不幸」な独身者であることは解っている。
だからラジオパーソナリティーが「かみさん」自慢を始めると、ラジオの前で「アイスミマセン」と頭を垂れて自分の不幸を再認識するのだ。
自己欺瞞で固め「自分は絶対不幸じゃない!」と言い張る「独身者」よりは少なくとも素直だと思っている。
・
どうやら「学研の科学」と「学研の学習」が休刊するそうである。
原因はいうまでもなく「少子化」。
商売にならないほど子供の数が減っているのだろう。
自分たちが小学生だった昭和40年代、自分は「学研の科学」を採っていた記憶がある。
毎月クラスで配布され、人生の楽しみの一つだった。
教材付録と小冊子は、どの教科書よりも有意義で好奇心と知識欲を刺激した。
今の自分はこの「学研の科学」なくしては成り立たなかった。あれを読んでいなければ、宇宙の果てしない広がりや地球の成り立ちや自然科学の基礎知識を得る事もなく「くだらない使い捨ての人間」に成り下がっていただろう。
今から思えば、そのすべてを保存しておけば良かったとも思う。
当時は、「将来もっと夢のある未来」が来るはずだから「学研の科学」は単に通過していくものに過ぎなかった。
しかし、現実にはあの頃のほうが「夢のある未来」だったのだな。
これからの子供は、もうそんな「夢とロマン」を掻き立てる教材に触れることもなく、「くだらない使い捨ての人間」として飼いならされていくのだろう。もはや「夢とロマン」を継承する世代は消滅してしまうのだ。
もっとも若年層がいなくなった時代に、世界を刷新する可能性を抱く「夢とロマン」なんか必要ないのであるが。
・
動画サイトで先日、1985年当時の若年層向けCMを見つけた。
アクシアというカセットテープのCMガールだった斉藤由貴が出ている。
これを見ると解るのだが、CMの中に出てくる「消費者」は中学生くらいの子供だ。
当時、オーディオ、テープなどの家電を楽しむ世代の中心は、そんな中高生。
彼らの消費意欲がこれらの商品の売り上げを左右した。
でも、四半世紀後の今、こんなCMは作れない。
今、これに相当する製品のCMは薄型テレビとかなのだろうが、殆どが中高年(中高生ではない!)向けにCMが作られている。
若年層向けに作られたCMは最近殆ど観る事がない。
ようするに、テレビの前にそんな若年層はいない、と言うことなのだろう。
四半世紀前のこんなTVCMからも日本の急激な「老化」が見て取れる。
余談だが、斉藤由貴は現在3人の子供に恵まれ、子育てに勤しんでいるそうだ。
・
「かみさん」自慢をするDJの一人に伊集院光がいるが、そのラジオのコーナーでこんなのがあった。
「こども店長」がいる事務所の部下として派遣されたら?というもの。
そして派遣される部署には高齢者の「使えない男」がいる設定だ。
その「使えない男」は孫ほどの「こども店長」にこき使われる。
「こども店長」は言う。
「お前は使えねーな!何年生きてんだ!65年?それだけ生きてそのザマか!お前結婚してんのか?
なに?独身?子供もいない?
だからダメなんだよ!
僕の親父は美人のお母さんを娶って僕みたいなデキル子供を設け、育てたんだ!
それに比べ、お前はなんだ?
結婚も出来ない、子供も設けられないだと?恥を知れよ!出来損ない!
てめえはこの世に何にも残せない人生の敗北者だなあ。嗚呼、見ているだけでもムカついてくるな。
使えねえ65歳は、ただの社会のお荷物なんだよ!
そんなのを雇ってやってんだ。ありがたく思え!この生きる屍」
それに対し「使えない男」65歳独身はただ「アイスミマセン」と「こども店長」の前で土下座するだけ。
ただの深夜ラジオトークに過ぎないのだが、まるで自分の未来を見ているようで、思わず「ぎゃああ」と叫び、ラジオを放り出して布団に潜り込んでしまった。
これを戯言として笑えるだろうか。自分は笑えない。
結婚出来ない、子供を設けられない独身者は、程度の差はあれ、将来こんな目に合わざるを得ないのだ。
それを覚悟しておいたほうがよい。
「かみさん」自慢ができる男が人生の勝利者に疑いはない。
愛情は金では買えない。
虚勢を張って「独身のほうがよい」と叫べば叫ぶほど己の惨めさが浮き出てくるから、決して自分は己の立場を肯定しない。
ただ、自分の惨めな立場を省み、嘆くだけだ。
「アイスミマセン」。
2009年11月25日
国民全員当選ジャンボ宝くじ
テレビのニュースを見ていたら、大卒の就職率が60パーセント台に落ちたそうだ。
不況とかそういう周期的な落ち込みというより、もはや日本社会が大卒すらまともな職に就けない国に堕ちたということだろう。
1980年代、自分が大学卒業した頃は、自らが拒否しない限り、就職は人生における絶対的通過儀礼だった。「就職せぬもの人にあらず」みたいな雰囲気すらあった。
だから大卒の就職は空気の如く「当たり前」だった。
そんな時代からすると10人に4人が就職できない未来が四半世紀後に来るなど誰が予想したろうか。
大卒ですら必要としない社会構造になってしまったこの日本。
ではその国を現在司る行政府は何をやっているかといえば、紅衛兵かクメールルージュよろしく己の国家事業を放棄破壊することにご執心のご様子。
国家運営よりまるで文化大革命のごとき不毛なマスターベーションショーのほうが大切らしい。。
あの元クラリオンガールを見ていると、紅衛兵が「造反有理」を叫びながらブルジョアを吊るし上げている状況とそっくりである。
こんな偽政者かトップにいるから、大卒者に職がない理由にもなっているのだろう。
いずれにしろ、もうこの国に終身雇用のような将来を保証できる職場なんて存在しない。
かつて1億層中流と言われた時代には当たり前だった終身雇用は、今や「おとぎ話」。
これからは、ほんの僅かな特権階級だけが「昭和的安泰」を確保できるのだ。
学歴社会も形骸化して、結局「血筋家柄」が幸せを確保出来る最低限の基準となろう。あとはほんの僅かな「運のいい奴」だけだ。
先日、伊集院光のラジオを聴いていたら「中卒でここまで成れたのは、単に運が良かっただけ。億馬券を拾ったようなもの」と話していたが、言い得て妙である。
しかし、もはや中卒だろうが大卒だろうが、その差は限りなく縮まっている。
大学までの学業は就職に何の役にも立たない。
だから、もう誰も勉強しなくなり、ますます国民は劣化していくだろう。
もし、己が家系や財力に恵まれていなかったならば、中卒だろうが大卒だろうが伊集院のように「億馬券」がどこかに落ちていないか、地べたに這い蹲って「運」に己の人生を賭けるしかない。
しかし大抵の者は、中世の農奴かタカラの人生ゲームのように敗者が収容される「貧乏農場」行が相場。
「億馬券」を拾う幸運など、それこそ億に一つだからね。
これがこれからの日本の在り様である。
まあ、それはあんまりだというのなら、年末のジャンボ宝くじを全部「当たり」にすれば如何か。
当選が200人ちょっとなんてセコイこと考えずに買った人全員当選だ。
10枚買えば10億円。100枚買えば100億円だ。
ええい、メンドクサイ。いっそ1枚100兆円当選くじにせよ!
すればデフレも一気に解消出来るし、財政赤字も一気に解消。一石百鳥だ。
いい事尽くめだよ。
100兆円手に入ったらPS3いくつ買えると思うのだ?大卒者だってこれで就職の心配もしなくて済む。一生働かなくても喰っていけるぞ。
100兆円で足りないと言うのなら宝くじ一枚100京円にしてしまえ!
これだけあれば安心だろう。「うまかぼう」一生分かかっても喰いきれないほど買えるぞ。
これこそが、今の民主党に求められる第一義的政策じゃないのか?
元クラリオンガールもくだらない「紅衛兵ごっこ」なんか止めて柳原加奈子と一緒に「年末ジャンボ宝くじ」のCMにでも出てろ。
そして歌うのだ!
「外れくじなし!外れくじなし!もれなくその場で100京円!君もあなたも幸せになろうよ!!ジャンボジャンボ宝くじ!どーんといこうや!プルアップ!プルアップ!」
ロケ地は勿論、御巣鷹山。
どうせこの国は墜落寸前なんだから、最後の一瞬だけ国民に夢を見せるのが政治の責務なんじゃないのか?
すこしは頭を働かせよ。
今のままじゃポルポト以下だよ。民主党。
2009年11月16日
森繁主演のドラマ「だいこんの花」
先日、森繁の追悼としてか、地上波民放で「だいこんの花」という1970年製作のドラマをやっていた。
例によってこんなドラマはリアルタイムで見た記憶がない。
多分、当時小学生だった自分からしたら「面白くなかった」のだろう。それに家族の誰もチャンネルを合わそうともしなかったからどうでもよかったのかもしれない。
しかしそんな記憶にすらないドラマにも拘わらず、なぜか今見ると「面白い」のだ。
たぶん作品の内容が面白いのではなく、その時代背景に共鳴しているのだろう。
この頃のテレビ番組を見ていつも感じることは、しゃべり方も展開もテンポが異常に速い。作りも大味で多少の台詞間違いもスルー。舞台道具もイージーで粗雑なのだが、にも拘らず視聴者を引き付ける得体の知れないエネルギーがある。
このドラマで森繁が演じるのは初老の男寡。長男と同居で戦争中の戦友との関わりとか、太平洋戦争終了わずか25年しか経っていないことが解る。
しかし、この年に日本では大阪万博が開かれ、高度成長下、新幹線が当たり前のように走っていたのだ。2009年からすれば、もう40年も前のことである。
1970年から観た1945年というタイムラグと2009年から観た1970年のタイムラグとは著しくその性格が違う。
登場人物は当たり前のようにタバコをすぱすぱ吸う。黒電話と郵便のみが情報伝達媒体だ。
今からならばタバコの害に無頓着と眉をひそめそうだが、当時の人々は老後の健康のことなど考える暇はなかった。いずれ己の血は孫に引き継がれるから己の老後の心配など杞憂だったのだ。
1970年に描かれた当時の若者は「ナンセンス!」と叫びながらも、すべての大卒者は就職し、母親に近いイメージの嫁を娶り、子を作るのが当たり前だった。戦時中に軍人だった森繁演じる男も、そんな若者に反発しながらも彼らに未来を託す事に何の疑問も持たなかった。
2009年現在、ネットと携帯の普及によって、40年前に描かれた多くの普遍的価値観は、生身の身体から質量のない世界に移行しつつある。
結婚したり子を設ける「人の営み」はいよいよ終焉しつつあるようだ。
そしてテレビの役割もそろそろ終わりが見えている。
1970年前後のテレビドラマは強烈なインパクトがあった。
中山千夏が出ていたドラマでは生放送でヒグマをスタジオ内で射殺したりして、それでもそれが普通の時代だったのだ。
ドラマはリアルタイムでその時代の流れを反映していたから、視聴者と同時進行で動いていた。
今、そんな潮流はネットに移行し、硬直化したテレビはもはや「時代を反映する公器」ではなくなった。
もうこれからは、「だいこんの花」のような40年前のドラマをひたすら再放送したほうが視聴率を稼げるのではないか。
そしてテレビは高齢者のためのリハビリの道具と化す。
森繁と共にテレビも終わるのだ。
2009年11月16日
コミティア90来場感謝
15日開催のコミティアに参加。晴天に恵まれた東京ビッグサイト。
例年の11月と比べ、やや参加者は多めという感じか。
年末のコミケに向けて新刊製作シーズンであるからチラシもその関連のが多い。
チラシと言えば、今回クリアファイルが混じっていたので大変助かる。
書類分類に重宝しているので何枚あっても無駄にはならない。
ところが、ゴミ収集場にいったらかなりの数のクリアケースが紙のチラシごと捨てられていて、係の人が分類して別のダンボールの中に山積みされていた。
聞けば持っていってよいということなので数十枚まとめてゲットしてきた。
買えば1枚幾らかする訳で、なんでみんな捨ててしまうのか理解に苦しむ。
クリアファイルが入っていることに気が付かないのか、あるいは本当にいらないのか?
同人に多少拘わっていればクリアファイルみたいな文具は必需品に近いと思うが。
どうせ自分の家で使うのだし萌え絵のデザインだったとしても気にする程の事はないだろうし。
今回のコミティアで最も「謎」であったことがこれであった。
ところで、この日のビッグサイトは昨年に続いてリクルート関連のイベントも開催されていて、就職活動ルックの学生がたくさん居た。
やはり、こういう類の人たちが一杯いるとどうにも違和感がある。
正直「社会の歯車」から最も縁遠い所に逃げて生きてきた自分みたいな人間からすると就活の群れは「現実世界」からの追っ手のようで恐ろしい。
ビッグサイトのイベントを掛け持ちする人はよくいると思うが、このリクルートイベントと同人イベントを掛け持ちする人の話は殆ど聞かないし、リクルート姿の人を同人イベントで見ることはないし、その逆も然り。
要するに同人活動と就職活動を同時に遂行することは「ありえない」事象なのだ。
就職活動は、自分を捨て世間に身を委ねること。
同人活動は自分をアピールし己の存在を主張すること。
それほど「水と油」なイベントが同時進行しているのは、やはり恐ろしいことである。
いずれにしろ就職活動イベントは休日には似合わない。
平日に開催すればいいのではと思うが。
2009年11月15日
絶望的戦局映像
最近、太平洋戦争末期の絶望的戦局を記した記録や画像を延々と見る事に唯一の楽しみを見出すようになった。
沖縄戦の「菊水作戦」等は心地良いほどの絶望を味わえて、「陸海軍総特攻機化」の非尋常ぶりは感動に値する。
YOU TUBEなどには沖縄沿岸洋上に集結する米軍艦艇に向けて突っ込んでくる特攻機の映像がいくつかアップされているが、それを何回もリピートして己の人生とオーバーラップさせる。
もっとも、今の日本人にこの状況を現実化させる手立ても何もない訳だから、ただ単に妄想の域に過ぎないのだが、それでもこの映像を見ていると何ともいえない恍惚感に浸れる。
テレビのドキュメント番組などで部分的に使われている映像が多いが、何のキャプションもBGMもなく、単に記録映像として淡々と流されているほうが「真実味」がある。
最近の「お気に入り」は、1945年3月、九州沖航空戦に参加した神雷部隊全滅の映像である。
迎撃した米艦載機のガンカメラが捕らえた1式陸攻の編隊が次々に撃墜されていく状況を記録したもの。特攻兵器の「桜花」を搭載して米艦隊攻撃進攻最中、レーダーに捉われ、まるで「標的訓練」のごとく撃ち落とされていく1式陸攻。
最初から勝算のない無謀な作戦と解っていながら実践せざるを得ない状況が香ばしい。
この飛行隊長もキチガイじみた作戦命令に相当怒っていたらしい記録が残っているようだが、この画像からもよく窺い知れる。
敵機が襲ってきているのに、護衛戦闘機の姿もない空域で、ろくな回避行動も出来ず、ただ標的の如く漫然と飛行するしかない(搭載している桜花が重過ぎるのでまともに動けないらしい)1式陸攻の編隊状況は、一種の自殺ショーにも見えて、攻撃している米艦載機のパイロットもむしろ「いやな気分」になっていたのではなかろうか?
それにしても、カラー映像だから洋上に浮かぶ積雲と空の青さが美しく、更にこのキチガイレベルの「自殺ショー」が「死の美学」を強調して「芸術作品」の域にまで達している。
冷静に見ればこんな破綻している作戦を実行する感覚が「理解不可能」なのだが、当時はこれが「スタンダード」だったのだ。
火達磨になって堕ちていく1式陸攻の乗務員や「桜花」のパイロットは如何なる気持ちで居たのか?
敵の目標に突っ込む遥か以前に、無念の死を覚悟しなければいけない訳だが、だがまあどう足掻こうが死は免れない訳で、案外あっさりと己の運命を受け入れていたのかも知れない。
どうしようもない「無駄死」もここまで来ると快きものがある。
これら、特攻作戦を立案した旧海軍将軍は、終戦の勅語を聞いた後、停戦後にも拘らず単機「特攻」に赴いて沖縄の沿岸に突っ込んだそうだ。
もう、にっちもさっちも行かなくなったら「特攻」である。勝利を治める為の戦略とか戦術とか、そんなものはどっかに消し飛んで、目的が「自決」になってしまったのだ。
これはもう「戦争」ではなく「自殺祭り」である。
昨今の、民主党が実施している「査定ごっこ」もこれに似た「狂気」度が窺い知れて、いよいよ日本も本当の破滅に向けてまっさかさまという感じだ。
民主党もこの前例を見習って「特攻精神」を発揮してもらいたいものだが、そんな「自殺祭り」を司る優秀な司祭がいるようでもないから所詮期待はしていない。
もっとも年間自殺者3万人を超えているのだから放っておいても「自殺祭り」は開催中な訳だが。
だから、この「悲惨な画像」も過去の話ではなく、今もなお、この火達磨になって堕ちていく1式陸攻は「現在進行形」の日本の光景であることを知ったほうがよい。
明日はわが身である。
2009年11月12日
1982年当時を描いた映画「波の数だけ抱きしめて」
先日、「波の数だけ抱きしめて」という映画を観た。
存在は知っていたのだが、まともに一通り見たのは初めてだった。
1982年当時の湘南を舞台とした青臭いストーリー。これを9年後の1991年に振り返るという設定で、この年に映画化された。
舞台設定年月日も製作年月日も今からすれば、遠い過去の話だ。
湘南にミニFM局を立ち上げた大学卒業間際の若者たちの青春グラフィティーみたいな話なのだが、自分も当時、登場人物と同じ世代であったにも拘わらず、こんなおしゃれな湘南ボーイとは無縁。当然、共感するものはなく、未鑑賞のまま放置していた。
しかし、今実際見てみると結構、面白い。「昔話」として冷静に見れる時期になったのだろうか。
秋葉原での部品調達やモニター用BCLラジオ、アナログレコードのクリーニング、カセットテープ頭だしシーンなど、1980年代初頭のアナログティックなシーンが萌える。
主人公の煮え切らない恋愛事情は、何だか当時の雰囲気を醸し出していて香ばしい。
実益よりも恋愛ごとを優先する感覚は若さあっての事か、それともあの頃はまだ現実より「愛」に夢がもてたのか。
甘酸っぱくて、恥ずかしい「告白」シーンは身に覚えがある。
以前の日記にも記したことがあるが、恋心を抱いて数年、貯めに貯めた告白を女の子にしようと家の黒電話で呼び出したところ、帰ってきた返事は
「今、わくわく動物ランドをみているの!じゃましないで」
であった。
そんなくだらない馬鹿馬鹿しい戯言も28年も昔の話だ。
この映画には、携帯もネットもない時代だからこそ成立したシーンもたくさんある。
というか、もし携帯があったら「恋愛ストーリー」に欠かせない「行き違い」シーンがまったく使えない。
携帯もネットも男女の恋愛観を激変させた。
「結論」に至るまでの過程が、如何に悶々とさせるかが「恋心」を擽るキーポイントとなる訳だが、もはやそんな「過程」は情報革命によって絶滅してしまった。
出会いと結論がほぼ、同時に進行するから葛藤が存在しない。
携帯1本入れれば「物語終了」である。
1980年代の恋愛ドラマや漫画、アニメは、この「行き違い」が味噌であった。
くっ付きそうでくっ付かないこの「行き違い」「思い込み」という当事者自身の葛藤なしにラブコメもシリアルな恋愛物も成立しない。
今や「今日は渋谷で5時」でも、菊池桃子はハチ公前で待ちあわせしていた男に「待った?怒ってないよね」なんていう必要もないし、山下達郎も「クリスマスイブ」で雨の中、「君はきっと来ない」なんてブツブツ呟く必要もない。
すべて携帯によって解決してしまうのである。
知ること、理解することが本当に大切なのかは知らない。
だが、独り思い悩んだり、悶々とする時間をすべて排除した果てに何があるのだろう?
最初からすべて解ってしまっている「事象」に価値はあるのだろうか?
むしろ知らないことのほうが己にとって有益なものもあろう。
これからは敢えて大切なものは「情報を得ない」事がステイタスになるかもしれない。
世の中、すべてを知ったところで大抵のモノは失望に繋がるのだ。
せめて己が「大切」と思う事は、己自身の妄想で「熟成」させておくのがよかろう。
最近のBGM
初音ミクの「Light song」
2009年10月4日
入間航空祭
文化の日恒例、入間航空祭に赴く。
今年はここ数年で最高の晴天に恵まれ、素晴らしい青空が広がった。
冬型の気圧配置で風は寒かったが、空のイベントには晴天が第一条件。ブルーインパルスも青空をバックに非常に栄えていた。
こういう日は放っておいても綺麗な写真が撮れる。
今年から脚立持込禁止。そしてレジャーシートも制限がついてどうなることかと思ったが、結構ルールは遵守されたようだ。ただなんとなく堅苦しさも拭えず、あまり規制を導入すると息苦しいものになってしまうのでほどほどがよかろう。
因みに自宅から入間基地最寄の駅、稲荷山公園まで1時間ちょっと。料金は往復で720円。
現地でサイボクハムのフランクフルトのみの食事代200円。締めて920円しか掛からない。
コストパフォーマンスのよい外出だ。
2009年10月29日
死んだ後にも恥を晒される絶望独身男性
「不潔、貧乏、バカ」
これは渦中の結婚詐欺女が出身高校の卒業文集に記した「嫌いなタイプ」の人間だそうだ。
例によってマスコミが流布している容疑者の人物像なのであるが、印象報道によって恰も被害者男性がこの「不潔、貧乏、バカ」のごときイメージを視聴者に植え付けている。
「不潔、貧乏、バカ」だから、この狡猾な女に引っかかったんだろうとね。
今や絶望独身男性は、加害者だろうが被害者だろうが、マスコミに愚弄され「人間のクズ」として死人に鞭打つかの如く、死後も屈辱と嘲笑に晒される時代。
まったく持って救いの欠片もない。
何の落ち度もない「プラモデラー」40代独身男性氏は、被害者にも拘らず、公共の電波やネットにプライバシーや顔写真を晒され、散々弄ばれ続ける。
もし生きていれば屈辱に耐えかねて本当に自殺しかねないだろう。
つまり、メディアは彼を「2度」殺していることになる。
かつて北海道大雪山で遭難し、組み木で「SOS」をつくって救助を求めた「ヲタク」男性もまた、遭難死したにも拘わらず、週刊誌に「哀れな根暗人生」と侮蔑された例を思い出す。
あの頃から秋葉系絶望独身男性の「犬死」扱いは変わっていない。
その一方で、この結婚詐欺女は疑惑が濃厚になった今なお、本名も顔写真も伏せられ続け、メディアから「手厚い保護」を受け続けている。
現状は「状況証拠」のみ。被害者もすでに「自殺」と判断されて荼毘に処されており、証拠品となるはずの物品すらもはや残っては居まい。
となると、立証も困難になるから、いずれの疑惑も不起訴のままで終わる可能性も大きい。
この女からすれば、まさに「殺し得」である。
警察もこの女にかかわった男性が次々「不審な死」を遂げているのに、ここに来てまで何ら対処してこなかった怠慢は如何なることか?
無垢な秋葉系青年を散々職務質問する「楽な点数稼ぎ」には執心する一方で、肝心な人殺し捜査には手を抜くか。
結構な御身分である。
マスコミも例の如く「状況証拠だけでこの女を裁くのはいかがなものか?」などと「女性擁護」の姿勢を堅持する始末。
まさに、女にとって「殺し得」。被害者男性にとって「死に損」の構図が鮮明になってきた。
こんな世の中に生きる絶望独身男性は正に受難。
「ゴキブリ以下」の「虫けら」同様、スリッパの底で叩き潰される程度の存在なのだろう。
ここまでされて、平然と生き続けられる精神には脱帽と言うか、人間としての最低限の尊厳も持てない存在は、この地球上を探しても中々見つかるまい。
まだ、ウーパウーパーのほうがマトモな扱いを受けているのではないか。
もっとも、己がそんな扱いを受けている自覚がないからこそ、とんでもない狡猾女に引っかかるとも言えるのだ。
この女は被害者男性たる「カモ」を「不潔、貧乏、バカ」と見下している。
だからこそ、平気で虫けらのように殺すことが出来た。
たとえ被害者男性が何千万貢いだとしても、この女からすればそんな存在は「不潔、貧乏、バカ」なのである。
有り金吐き出させて、残金ゼロになれば、「不潔、貧乏、バカ」だ。
何の価値もない滓。
そんなものは、この女からして廃棄処分すべき「生ごみ」であって、薬殺される廃棄ペットの価値すらない。
この女にとってはそんな「用済み男」より「お菓子の空き容器」のほうがまだ価値があろう。
少なくとも空き箱はよい香りがするからね。
加齢臭のする無一文で不細工で女にモテない「不潔、貧乏、バカ」男は臭いだけの粗大ごみ。
さっさと処分すべきもの。
視界から消えてなくなるべきもの。
すなわち「いらない存在」だ。
そしてその見下す意識は、マスコミもまた同じであって、だからこそ被害者男性を「不潔、貧乏、バカ」とオーバーラップさせて報道するのである。
つまり、マスコミとこの女は「同じ価値観」を持っている。
絶望独身男性は「不潔、貧乏、バカ」であって、生きたまま一酸化炭素が満ちている「ガス室」に放り込んでも構わぬ存在であるとね。
この哀れな被害者である「プラモデラー」独身男性氏は、ナチスドイツ政権下、家畜の如く処分されたユダヤ人よりももっと酷い扱いを受けて死んでいった。
もっともユダヤ人は戦後、諸々の手段で救済されていったが、彼に象徴されるような日本の絶望独身男性は未来永劫救済されることなんかなく、ただ「いらない人間」として「ごみのように処分されました」という事実だけが残るだけ。
それはまさに屠殺される家畜以下。誰の記憶にすら残らない「犬死」。
ここまで酷い死に方は歴史にも例を見ない。
これすべて、現代の日本を支配するフェミファシズムのなせる業といえようか。
人類史上稀な惨めな扱いを受ける日本絶望独身男性。
それと比べると、アフガニスタンやイラクで特攻自爆攻撃を果敢に遂げているタリバン等のイスラム戦士独身男性のほうが余程充実した人生観を成就出来るんじゃないのか。
結婚詐欺で有り金貢がされた挙句、睡眠薬を飲まされて練炭が不完全燃焼する密室に放り込まれ、薄れ行く意識の中、走馬灯のように己の浮かばれない人生を振り返り女々しい涙を流す。
そして死んだ後もなお「不潔、貧乏、バカ」というレッテルを貼られ1億人の愚民から嘲笑を浴び続ける日本絶望独身男性。
一方で、己の信念に基づき、自らに爆弾を巻いて己を脅かす敵の真っ只中に飛び込み自爆、見事敵の拠点を爆砕し、民族の英雄として歴史に名を刻むイスラム戦士独身男性。
このどちらが幸せか?
このどちらが男として成就できたか?
どちらがマトモな人間だ?
どちらが価値ある人間だ?
考えよ!
論ずるまでもなかろう。
幸せなのはアフガニスタンの男たちのほうだ。
最貧国として評されるアフガニスタンに生きる独身男子の死は「崇高、壮絶、勇敢」と賛美の言葉で称えられ、その一方で「先進国」であるはずの日本に生きる独身男子の死は「不潔、貧乏、ばか」と蔑視の言葉を浴びせかけられる。
いつから日本男子はこんな屈辱まみれの死を強要されねばならなくなったのだ?
この結婚詐欺女は皮肉にも日本絶望独身男性の異常なる地位の低さを浮き彫りにした。
ある意味、感謝すべき存在かもしれないな。
家畜以下の扱いを受けても平然と生きる日本絶望独身男性。
そろそろ、目を覚ます時ではなかろうか。
この機に及んでもなお、自ら覚醒に及ばぬのであれば、それは結局自ら「虫けら以下」と認めたと同じだ。
これからも「不潔、貧乏、ばか」塗れで惨めに生き恥を晒し、狡猾な女共に利用され続ければよろしい。
「不潔、貧乏、ばか」は死んでも直らない。
同じ「不潔、貧乏、ばか」ならば、己を貶めた己の敵と差し違え、「崇高、壮絶、勇敢」を勝ち取るのが日本男子の伝統ではなかったか?
だが、もはや絶望独身男性にその気概を求めるのは無理なのかもしれぬ。
所詮「いらない人間」だものね。
嗚呼、辛い。
2009年10月24日
1992年のヤクルト優勝の頃
久しぶりにプロ野球中継を観る。
かつてはシーズン中、ナイター中継をBGMにしていた頃もあったが、近年は回りにプロ野球に関心を持つ友人も居らず、更に米大リーグとボーダレス状態となったり、有力選手が一つのチームに偏って移籍する制度に辟易して普段はまったく関心すらなくなっている。
もっとも、地上波テレビで連日中継されていた巨人戦がいつしかテレビ欄から消えてからは、観たくとも観れなくなってしまったが。
だから、最近は秋口のクライマックスシリーズや日本シリーズの時期以外、まったくといってよいほどプロ野球を知らない。
今年は久しぶりにスワローズが3位に入ってクライマックスシリーズに出てきたので、久しぶりにチャンネルを合わせる。とはいえ、地上波テレビでは中継しないのでBSで観たのだが。
学生時代、1978年の初優勝以来、俄かにスワローズファンだった自分。
14年後の1992年に再び野村監督の下、2回目の優勝した時は一生懸命野球中継を追っかけていたものだ。
当時のナインは飯田、古田、広沢、ハウエル、池山、荒井、角、八重樫、荒木大輔などが居てやたら打線が火を噴いていた。
この年の日本シリーズは西武と対戦。
杉浦の代打満塁サヨナラホームランとか劇的なシーソーゲームが多く、結局は3勝4敗で敗北したがなかなか面白かった。因みに当時はデーゲームで行われていた。
当時のラジオ実況中継をカセットテープに録音したものが残っていて、最近再生してみたが記憶がいろいろ甦ってきた。
唯一、当時西武のピッチャー工藤がベイスターズで投げている位。
しかし、他の選手たちはどうしているのだろう。
一部はコーチや監督、解説者になっているのだろうが、大半はプロ野球の現場を離れ、「第2の人生」を歩んでいるのかもしれない。
プロ野球の最高峰、日本シリーズに出場し活躍する選手ですら、このような状況なのだから、控えや2軍選手の「未来」は推して知るべし。
一時の栄光は過ぎ去り、その輝かしい過去を引きずりながら生きていかざるを得ない「忘れられた名選手」。
しかし、一瞬ですら輝けた選手は、まだ幸いである。
まったく光を浴びぬまま、消えていった選手のほうが圧倒的に多い。
それを思うと辛くなってくる。
1992年のヤクルト優勝から17年。
今、ヤクルトナインを見ても知る名は、ない。無論1992年当時の選手は誰一人、現役にはいない。選手生命が如何に短い世界かを思い知らされる。
ただ、当時57歳だった野村監督は、今年も楽天で監督を務めて、なお脚光を浴びている。
それからTBSラジオで解説していた田淵も、17年後も同じように解説者として声が聞こえてきた。
アナウンサーも変わってなかったな。さすがマスコミは終身雇用か?
超一流な選手や、一流メディア従業者は例外で、死ぬまで第一線に陣取っていられるようだ。
これはどの世界でも同じようなものか。
いずれにしろ、少子高齢化、野球人口の縮小で、かつて巷に溢れていた「野球少年」は死語となりつつある。
将来、プロ野球選手を目指したとしても、もはやその受け皿すらなくなりつつあるようだ。
結局、大リーグとのボーダレス化は日本のプロ野球を衰退化させるだけだったのかもしれない。
かつて、地上波テレビの「王道番組」だったプロ野球中継がなくなり、野球選手が大衆のヒーローとして表舞台に立つ時代は過ぎ去った。
今や、その時間帯には「森3中」のような崩れた女子が闊歩する奇怪な番組が蠢き、プロ野球選手に代わって大衆を扇動し始めた。
果たして大衆は王、長嶋に代わって「森3中」を支持するのだろうか?
正直、そんな地上波テレビに誰が付き合うのか、自分は知らないし、関心もない。
もっとも、テレビを囲んで団欒を共にする「大衆」なんて存在自体、日本からは消えつつあるのだから、もうどうだっていいのだが。
1978年や1992年のヤクルト優勝時の興奮は、もう地上波テレビからは流れてこない。
野球に一喜一憂するのは、もう廃れた嗜みなのかもしれないが、それでも、幼年期から染み付いた「プロ野球」の刺激は今更拭い去ることも難しい。
ここにも「日本の衰退」を垣間見ることが出来る。
プロ野球という「日本中産階級のお祭り」がまたひとつ消えていくのだ。
2009年10月20日
水月ホテル鴎外荘「舞姫の間」 での宴席
先日、漫画家M・M氏主宰幹事の、とある自費出版本執筆者謝恩会に出席した。
場所は、東京上野の水月ホテル鴎外荘「舞姫の間」 。
文豪森鴎外の邸宅をホテルに改築した料亭だ。
18時半から開宴のため、夜の上野公園を歩いたが、思いのほか暗いのにびっくり。東京都心とはとても思えぬ。
少し遠回りして駅から20分ほどで鴎外荘に到着。
出席者はエヴァのH.A総監督やゴジラのH監督など、錚々たるメンバー。
とても自費出版の宴席とは思えぬほどの豪華さである。
宴席に先立って自費出版本の元になった作品のヒロインY.Mの声優を担当なさり、現在は講談師として活躍中のAさんの講談を拝聴する。
そしてAさんの乾杯音頭の下、宴会に入った。
豪華和式フルコース料理。一人用の盆に料理が運ばれてくる。
1960年代の映画「駅前社長シリーズ」でよく観るシーンだ。
おそらく、これを有料で申し込んだら軽く1万円は越すであろう。
いずれにしろ、こんな豪華な宴席に招待されることは、殆ど稀であるからまったくもってありがたいやら吃驚するやら。
そして主宰の漫画家M.M氏の人徳が覗える。
面識のあるイラストレーターK氏と隣だったので、その元作品の思い出とか語る。
この作品が初放映されたのは、確か1974年だったか。
当時、まだテレビは一家に一台が当たり前の頃。中学生だった自分がチャンネル権を確保出来るか微妙だったにも拘わらず、何とかリアルタイムで観た記憶がある。
見終わった後、いつもエンディングテーマが頭の中でリピートして映像が脳裏に激しく焼きついていた。
第一次アニメブームの先駆けとなったこの作品を、同世代のクリエーターが避けて通ることはありえなかったろう。
最近、実写化されると聞くが、自分にとってはあくまで最初に放映されたオリジナル作品がすべてである。
初放映から35年経ったと改めて知ると感慨深い。
それにしてもかつて文豪森鴎外が住んでいた邸宅でアニメ、漫画のクリエーターが宴を開くなんて、何だか妙な感覚だ。
22時半過ぎに宴は終了し、クリエーター数人と共に夜の上野公園を歩む。
かつて、森鴎外邸に通った明治の文学者仲間もこんな感じで上野駅に向かったのであろうか?なんて妄想してみる。
残念ながら今の世は「坂の上の雲」のような富国強兵時代でもなく、未来は暗い。
上野駅まで歩く間、国を憂うなんて話は微塵も出ず、話題は1970年代声優アイドルであった。
2009年10月10日
1966年台風26号の事
季節柄、金木犀が香る季節となった。
と同時に、今は台風シーズンでもある。
先日の台風18号は2年ぶりに本土上陸して関東地方を通過していった。
例によってマスコミは「伊勢湾台風クラス」と過剰報道。
そして例に漏れず、そんな甚大な被害をもたらすレベルではなかった。
何回か事あるごとにこの日記でも述べているが、自分がこの半世紀近く東京に住んでいて「恐怖」を感じる位の台風は記憶上、2回しかない。
一つは1979年10月の台風20号。海上での史上最低気圧870mbを観測した超大型台風。
日本本土上陸時には960mbに衰えていたが、それでも日本列島を縦断し、100人近くの犠牲者が出た。
ちょうど大学から帰宅する京王線に乗っているときに最接近。物凄い風で首都圏の電車は軒並みストップ。復旧は夜になってからで6時間ぐらい車内に閉じ込められた思い出がある。
首都高の車もひっくり返り、車窓から見える鉄塔も捻じ曲がって倒れていた。
先日の台風18号では「形式的」に風速25m以上になったからJRは止まったみたいだが、この時の台風では実際、架線や線路が強風のために損傷を受けて物理的に止まってしまったからレベルが違う。
そしてもう一つのほうは相当前の事で、どの台風だったか定かでなかったが、いろいろ調べてみると、どうやら1966年の台風26号らしい。
まだ6歳か7歳の頃、未明に関東地方のすぐ西を高速で駆け抜けていったこの台風は、富士山山頂で史上最高の91m/sの最大瞬間風速を記録するなど型破りに強力で、東京でも物凄い風が吹きまくり、家が吹き飛ぶんじゃないかと思う位で布団の中でうずくまっていた。
小さい常夜灯が停電のせいで点いたり消えたりして、早く通り過ぎてくれないかと子供ながらに祈っていた。
翌朝は台風一過の快晴。しかし庭の大木は傾き、至るところ風で吹き飛んだものが散乱していた。
結局、この台風で山梨や関東地方中心に300人以上が犠牲者となった。
この年は他にも宮古島で最大瞬間風速85.3m/sという日本の観測史上1位記録する第2宮古島台風が現れるなど凄いものがあった。
得てして1950〜1960年代半ばは強力な風台風が多く、前年の1965年台風23号は室戸岬で台風として日本の観測史上最も強い最大風速69.8m/sを記録したりと、当時の台風は桁違いだった。
余談になるが自然災害以外にも、1966年というのはいろいろとインパクトの強いことが起っていた。
特に航空機事故。
全日空とカナダ航空の羽田墜落事故と日を置かずに富士山に英国航空の旅客機が墜落。更には山陰の方でYS11が墜落と立て続けに事故が続発。
これは我が人生において最初に記憶に焼きつく「社会的事件」だった。
他にも諸々紐解いてみる。
特にテレビ番組は象徴的だ。
NHK連続テレビ小説「おはなはん」を始めとして「サンダーバード」、「ウルトラマン」、「おそまつクン」など強力に記憶に残る作品があったのだ。
と同時に、当時の最先端情報ツールであるテレビにどっぷりと浸かり始めた頃でもあった。
自分にとってこの1966年頃から1970年辺りまでが「物凄いエネルギー」を感じた時代。
前途した台風26号もそんな「時代のエネルギー」を象徴した自然現象だったかも知れぬ。
因みに伊勢湾台風も、この台風26号も、確かに勢力は強かったがそれだけではなく、急速に発達しつつ、猛烈な速さで東海から三陸沖へループ状に駆け抜けたことが被害を甚大にしたようだ。
台風自体のエネルギープラス位置エネルギーが加わって、桁違いのパワーを見せ付けたのだ。
ここ近年、そのような事例の台風が首都圏には来ていない。
だから、いくらマスコミが「伊勢湾台風クラス」と騒いでも、のろのろやってくるだけでは、大したことにはならない。
当時は気象衛星もなく、観測地点も限られたから1966年台風26号の実態は解らないが、もし今この事例に当てはまる台風が来たら桁破りの記録が観測されよう。
再び富士山で90m/s以上の風速を記録する台風がやって来たら、首都圏はどうなるか?
桁違いの風、おそらく最大瞬間風速60m/sは吹くだろうから電車転覆もありえるし、携帯の基地局が軒並み破壊されたり、高層ビル、マンションが甚大な被害を被るかも知れぬ。また湾岸地域は高潮で広範囲に水没。
テレビ局が「洒落」でやっていた台風実況アナが実際飛ばされて行方不明になったりと従来の常識を遥かに超える被害が出るかもしれない。
1966年から46年、半世紀近く、そのようなスーパー台風が首都圏に来襲しないまま、驚異的な変貌を遂げている東京。
当時は高層ビルなんて一つもなかったのである。
俄かに心配。
2009年10月7日
初音ミクのCD「Synthesis」をダウンロードしてみた
先日、紹介した初音ミクのPVはTripshotsという人が作ったらしく、楽曲も3Dアニメも全部一人で作っているらしい。初音ミク版「新海誠」というべきか?
結構、気に入ったのでいろいろチェックしてみたらアルバムとかDVDとか出ている様だ。
残念ながらDVDは品切れとか。残念。
これを「とらのあな」で頒布していることが信じられない。商業作品としてもレベルが高いのに、同人誌と同じ土俵で活動しているのか。
それにしてもネット発の創作物で是非とも「欲しい」と感じさせる作品は、実はこれが初めてかもしれない。
自分の若い頃であれば、たとえば「エアチェック」したり、ビデオに録画するとか、一歩進めてレコード、CD、LDという媒体化されたものを購入するとかで欲求を満たしていたのだが、今やどうしてよいかわからない。
今回の初音ミクにしても、従来の発想ならば、CDショップに行ってCDやDVDを買ってくるとかであろうが、この作品は商業ベースで流通しているものではないから、一般のお店には売っていない。
世はもはや質量化せずに、ipod等の携帯音楽ツールにそのままダウンロードして頒布する方法が主流のようだ。
この媒体を伴わない流通方法は自分の世代からすると、あまり馴染みがないので酷く戸惑ってしまう。
だが、他に方法がないので仕方なくこの初音ミク楽曲が入っているアルバムのダウンロードに初挑戦してみた。
ところが自分のパソコンの設定に不都合があったのか、どうしてもダウンロード出来ない。
「なんらかの理由により購入者情報が取得できません」と出て、3回連続失敗後「ライセンス」云々がどうのこうのと出て、もうクリックすら受け付けなくなった。結局同じものを3つ購入してやっとダウンロード出来た。どうやらデジタル
メディア プレーヤーのセキュリティ コンポーネントをアップグレードしないとだめだったらしい。そんなこと解る訳もなく、本来ならば750円で入手出来るものを2250円かけてダウンロードした計算になる。
これじゃDVDが買えてしまうではないか。
質量のないものにも拘わらずパソコンの不都合だけで入手出来なかったり出来たりするなんて、流石に馬鹿馬鹿しくなった。
まあ、クリエーターに「寄付」したということにして自分を納得させるしかなかったが、なんだか空しい。
携帯音楽ツールは、東芝のギガビートを持っていたので、取り合えずデーターを移す。
外出など殆どしないので意味はないのだが、音楽聴くのにいちいちパソコンを立ち上げるのもメンドクサイので仕方ない。
やっぱり、CDやDVD化しているほうが自分としては性に合う。今更「慣れ」を変えるのはしんどい。
それはさておき、このTripshots氏の作った初音ミクは、妙に惹かれるものがある。
ちょっと顔が丸っこくて、目の表情がよい。小悪魔っぽくて可愛い。多分自分の好みの「タイプ」なのだろう。
「フィギュアが動いているだけ」的3Dアニメには殆ど関心がなかったのにも拘わらず、なぜかこの3D初音ミクには「魂」を感じてしまうのだ。
初音ミク自体の新鮮さも影響しているのかもしれないが、なんだかこのタイプのフィギュアなんか出たら買いそうで怖い。
もしかすると、エヴァの次に来た「マイブーム」?とまではいかないまでも、暫くは注目したい。
2009年10月7日
初音ミク
「初音ミク」はこれまでおぼろげながら何となく知ってはいたが、先日、集中的に動画サイトに投稿されている作品を見て「ああ、こういう世界ね」と今更ながら驚くと共に、妙な感銘も受けた。
もっとも本質的に本当に理解できたかは、自分でも解らない。きっともっと奥が深いモノが眠っているに違いない。
それにしても、音楽も動画も異常に水準が高く、どれも商業レベルのクオリティー。
今更ながら、この手のクリエーターはこの国に溢れんばかりにいることを改めて実感する。
それを基本「趣味」で作っているのだから、実にもったいない。
自分が大学生の頃、自主アニメ上映会で見た「凄い才能」を持った作家たち。
この頃は8mmカメラで細々と製作し、発表の場も限られていたから人目に触れるチャンスはほんの僅かだった半面、その僅かな人材が今日の映像文化の土台を作ってきた訳だと思うが、それが今や、怒涛の如く、数限りないクリエーターが競ってネットに凄い作品をアップしているから、まるで「才能のインフレ」みたいになって、まあとにかくもったいないの一言に尽きる。
それはさておき、「初音ミク」で作られた曲を見ていると、結構あざとい程の「セツナイ」楽曲が多くて、少し食傷気味になる。やっぱり思い入れが過ぎるのであろうか?
自分が観て比較的印象に残ったのはこの「Nebula」という作品。
クオリティーが高すぎるので、これはもうプロの仕事と考えてよいのかもしれないが、3Dアニメを上手く活かして初音ミクを可愛く表現している。
無論、高度なテクニックを使ったからといって、それが良いとは限らないとは思うが。
多分「初音ミク」が好きな人はそれぞれ「お気に入り」の作品があるのであろう。
でもこういうものを自分の思うがままに作れるというのは羨ましい。
何だか、今更ながら「初音ミク」の同人誌でも描きたくなった。
2009年10月3日
お腹の脂肪
現在、新しい商業作品の絵コンテと原稿を同時進行中。
といっても、今のところ掲載の当てもない状況なのだが、取り合えずこれを完成させて次のステップに進まねばならない。
最近、体質が著しく変わった感じがする。
中学卒業時からまったくといってよいほど体重の増減がなく、体重43kgで安定していたのだが、ここ数年、お腹周りに脂肪が付き始め、50kg前後に増えてしまった。
つまり、今までなかった7kgほどの「質量」が身体に纏わり付いてしまったのだ。
普通、7kgもの荷物って結構重いはずなのだが、そんなものが身体に付くということ自体、なんとなく気味が悪い。
と同時に、諸々の意欲の減退も感じるようになる。
これはやはり、体質の転換がどこかで起きたということなのだろう。
ホルモンとかが作用しているのだろうか。年齢と共にそういった体質の変化が日々の活動にも影響を及ぼすのかもしれない。
お腹に脂肪が付く原因は代謝エネルギーの減少で、その分余ったエネルギー源がお腹に蓄積されるみたいだ。
これまで創作に注いできた悶々エネルギーが「創作」に行かず、お腹に貯まるなんて我慢ならない。
だがそれが避けがたい体質の通過儀礼なのだろうか?
このお腹に付いた忌々しい脂肪を再び創作エネルギーに燃焼するよい方法はないものだろうか?
2009年10月1日
10月の憂鬱
10月だ。
陰々滅滅の日々は尚も続き、今年もあと3ヶ月。
これまで考えたこともなかったのだが、自分と同じ世代の独身男性で大学卒業してすぐ「まともな」就職をした者がどれだけ貯えを持っているのだろう?と思いを巡らす。
たとえば、実家に居て生活費や家賃もたいして掛からず、結婚もせず子供も設けず、さらに派手な趣味もギャンブル、酒、タバコも嗜まずに仕事に励んでいたとする。
1983年に就職して2009年までの26年間を平均月収手取り30万円とする。勿論、年齢と共に給料は変動するし、ボーナスもあったりするが、とりあえず均して考えてみる。
これだと年収は360万円。実家に住んでいると想定して年収の半分位は貯蓄に回せるだろう。
つまり毎年180万円貯まっていくと考えて26年間だから4680万円が一応自由に使える「財産」となろう。
これが一般就業者独身男性における50歳の貯蓄として、多いのか少ないのかは解らない。
でも、派手な生活を考えず、独身のまま実家に住み続けると考えれば決して少ない額ではあるまい。
多少、怪我や病気などのアクシデントがあったとしても自己資金で解決出来るだろう。
これだけ独身男性が虐げられている国で「反乱」が起こらないのは、恐らく相当数の独身男性がこの位の貯蓄があって「精神的経済的」余裕があるからなのだろう。
因みにあるサイトによると40代後半の平均年収は男性で662万円(但しこんな年収貰ってる男性など自分の周りには居ない)。女性は278万円とか。
こんなに男女間で格差があるとは俄かに信じがたいが、これならいくらマスコミが女性優位な扱いをしようとも男たちが「蜂起」しないのも解る。
「金持ち喧嘩せず」である。
しかし、自分のような殆ど売れていない自由業者にそんな貯えは、ない。
無論、男女格差もないからダメな男はダメなまま。
一回、病気でもしたらおしまいである。
もはや、何の余裕すらなく己の遺伝子すら残せない立場の絶望独身男性は哀れである。
最近、小さい子供が妙に愛しく思えるようになった。
少し前なら、鬱陶しくて邪魔にしか思えなかった他者の子供が非常に掛け替えのない存在に感じるのである。
それは恐らく、もはや自分の人生が限界に達し、「もはやこれまで」「万事休す」のレベルに来ているからなのだろう。
今更、まともな就業者のような貯えを確保出来る当てもなく、この歳ですべてが絶望に向かっている現状では、次世代に己の「希望」を託すしかなくなったのだ。
しかし、もはや自分が結婚して子供を儲ける能力も素質もない状況では、他人の子供すら愛しく思わねば、自己が維持できなくなったらしい。
これはもう、人生の最終段階なのかもしれない。
ここに至って必要とされない絶望独身男性は自分自身を騙してでも偽りの「希望」に縋らわざるを得なくなってしまった。
恐ろしい。
だが所詮、他人の子供だ。その子供にとっては近親者でもない自分のような存在は無意味な「いらない人間」でしかない。
「いらない」と認識されている絶望独身男性の行き場はもはや、ない。
恐ろしい!
貯えも未来も希望もない絶望独身男性。
滝つぼにまっさかさまに堕ちている途中の如く、無重力の中でもがく己の人生断末魔の中で、走馬灯のようにこの50年を振り返るしかない2009年の秋。
恐ろしい!恐ろしい!
右も左も上も下も過去も未来も八方塞。
夜中に「ぎゃーあああ」と飛び起きる。八方から迫ってくる「おしまい」のコンクリート壁。
パラシュートが絡んだままぐんぐんと地上が迫ってくるのごとき恐怖!
恐ろしい!
恐ろしい!
電車の中で、乳母車に乗った他人の乳飲み子が、こちらをじっとみている。
その乳飲み子はテレパシーでこちらにメッセージを送ってくる。
「お前は50年生きてそのざまか。男は40にして不惑だぞ。お前は50にして中2病か?伊集院光ならそれでたいそう稼いでいるが、お前は一銭にもならん戯言で時間を浪費するだけ。哀れな奴」
それを受信すると自分は「ひいー」と叫んで一目散に電車から飛び降りる。
乗客が不思議なモノを見るような視線を浴びせる。背中がその視線で焼け付くようだ。
恐ろしい!
暫く街を行くと、今度はショーウインドーに飾られているハロウィンのかぼちゃが毒電波を送ってくる。
「お前は今年で50らしいが、これからどうやって生きていくんだ?資格もスキルもないお前が生きていくのは難しいぞ。ほら、あそこのホームレスはお前の未来じゃないのか?ぐへへへ。
お前は福満しげゆきの描く漫画の中に出てくる失敗者の典型だ。失敗者は失敗者と認めるところから始めろ。人生の敗北者!」
その毒電波があまりにも恐ろしかったので、闇雲に走ったら女子高生にぶつかった。
振り返ると「ちっ」と舌打ちされる。
救いなし。
昼は毒電波、夜は悪夢に魘される日々である。
このままどれだけ精神が持つか、気になるところだ。
恐ろしい。
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