2008年7月・8月・9月


2008年9月 29日

「消された台詞」が意味するもの。

MXテレビで放映されている『巨人の星』が絶好調だ。

己の魔球を実父に打倒され気の触れかかった主人公星飛雄馬、己の野望達成のために息子すら滅ぼそうとする狂気偏愛教条主義者星一徹とその忠実な「気狂い野球ロボット」アームストロング・オズマ。

そしてそのイカレタ行動を正直に「キチガイ!キチガイ!」と呼称する取り巻き連中と民衆。

そこに広島の原爆まで絡んでくるのだから心地よい。

この爽快な「キチガイアニメ」を観る為に、朝6時半にテレビを灯すのが楽しくてしょうがない。

だが、実際の所、狂っているのは『巨人の星』ではない。

気が触れているのは実は「現世」。平成20年の日本。

勘違いしてはいけないのだ。

当時はこの「表現」がごく自然な事であって、なんら異常な作りをしている訳でもない。

『巨人の星』はごく自然な「人生の闘争」を描いているに過ぎないことに注視する必要がある。

初放映から約40年。

台詞の所々が抜け落ちて「無音」にせざる負えない情況は、つまり現世がごく普遍的な「人生の闘争」すら表現する事も許されない「異常な時代」であるかを如実に物語っている。

「言葉狩り」という検閲は、おそらく60数年前のレベルに匹敵するのではないかと考える事がある。

特定の「価値観」から逸脱する表現をその存在すら許さない時代。人はそれを「受難」と呼称する。

これはマトモな社会ではない。

どこか歪んだ「狂気」の匂いが漂う。

「狂気」はいずれ「検閲」「焚書」をも復活させる勢いである。

「検閲、焚書」を奨励する社会とは如何なる時代だったか、多少なりとも歴史を学習した者であれば説明は不要であろう。

先日もこんなニュースがあったが、水着姿すら「検閲」の対象にしなければ「正常な社会に非ず」というのなら、それはその社会自体がどこか狂っているのだ。

かつてはこの程度の「表現」で社会が脅かされるなどと誰も思ってはいなかったし、事実こんなもので社会は揺るぎもしなかった。

少女の姿態に抱く感情は、程度の差こそあれ、ごく自然な「人間性」の現れだ。

だが今やこれを「焚書、検閲」の対象にしなければならない程「気が触れた」社会が構成されつつある。

鉄面皮に道徳観を強調し「少女の姿態に反応する者は異常者である。法で罰せよ!」と声高に叫ぶ輩の出現は教条主義復活の警鐘と見た方がよい。

「キチガイ度」は最高レベルだ。

ジャンヌダルクを火炙りにした坊さんと似通っているからね。

そんな連中が「聖人君子」面して、やれ「国民の安全、安心」のためと規制を強めればいずれ息苦しい程の「中世密告社会」が復興するだろう。

そのうち、印刷物、ネット上で全ての18歳未満少女の画像(空想上の絵も含む)が事実上「発禁対象」になるのも時間の問題だ。

これが「国民の安全、安心」の名の下に不可欠というのなら江戸時代におけるキリスタン弾圧も「民主主義」のお手本ということになる。

当然お隣「将軍様」のお国やスターリン、毛沢東も「国民の安全、安心」を第一にした「見習うべき国家」と讃えなければならない。

つまりは「個人崇拝」が「少女禁忌」と入れ代わっただけ。本質は同じ恐怖政治。

あらたな教条主義の誕生である。

もっとも「児童ポルノ」禁止を高らかに謳っているのは、そんな教条主義者に近い連中ばかりなのだが。

人間のごく自然な本性、本能、闘争表現を抑圧する社会とは何か?

その人間の自然な欲求を恐れる者が「弱き者」を利用して支配を強めたい時、「国民の安全、安心」を口実として、その人間の闘争本能を削ぐために表現活動を押さえ込むのである。

そんな時代に、もう夢も希望も存在しない。

「表現活動」はただ既得権者の保身ための「道具」に零落れる。

骨抜きに去勢された「表現活動」以外、つまり既得権者のプロパガンダ以外存在しなくなる。

人畜無害な婦女子を踊らせて無菌無思考状態の子供を無抵抗に洗脳することが唯一の「表現活動」となろう。

初々しい官能に満ちた少女や猛々しい闘争表現は既得権者を脅かす「大人の男」を生産するから一切許されない。

すべての創作表現は去勢される。

日本のクリエーターはこの「受難の時代」に生きる覚悟が必要なのだ。

昭和48年当時、単純な熱血で鬱陶しいだけだったスポ根性アニメ『巨人の星』が年々面白く貴重な作品と思えるのは現世の「狂気」が如何に病的な水準に達しているかの現れだろう。

スターリン圧政下の地下室で発禁書を読むがごとくの「面白さ」。

それを学ぶためにも『巨人の星』はお勧めだ。

所々「消された台詞」が現世の「闇」を浮き彫りにする。


2008年9月 25日

「国民のための政治」って何?

何やら政局が流動化してきて、選挙でも近いのかメディアが選挙向け常套句を多用しはじめた。

中でも「国民のための〜」というキーワードが耳に付く。

メディアも与党も野党も行政側も市民側も、やたら「国民のための」何たらかんたらがお好きのようだが、その「国民」っていったい誰の事を言っているんだ?

平成20年における日本の「平均的国民」を言い表わそうにも、如何にそれが困難であやふやかであるかに吃驚する。

昭和50年頃であれば、まあ平均的中産階級の妻子ある20〜40代サラリーマン家庭が、おおよそ都市部における「平均的国民」として例えてもよさそうだが、平成20年に至ってはもはや「平均的国民」が何をさすのかさっぱり解らない。

巷に溢れる後期高齢者?引退まじかの団塊世代?非正規雇用の派遣社員?ニート、フリーター、引き蘢り独身男性?「自分捜し」に夢中な独身女性?

もはや価値観も経済力も将来の展望もてんでバラバラな「愚衆団」と成り果てた「日本人」。

それを十羽一絡げで「国民のための〜」と言われたところで誰の利益のことを言っているのかさっぱり解らない。

もう日本は誰が何のために何を成そうとしているのか、誰も知らない。

己の保身のために政治家も一般庶民も右往左往するばかり。

此処に至って与党野党の二者択一の選択肢を用意されたところで、その「違い」など無に等しい。

「高度経済成長」下、自民党と社会党が切磋琢磨していた昭和元禄の時代ならいざ知らず、世襲と既得権維持が最大の目的となった「古ぼけた価値観」しか存在しない現与野既成政党に「己の幸せ」を託す者がどれだけ居るか?

今の時代、所詮、政治家なんて飾り物でしかない。

中国、ロシア、アメリカに「一睨み」されたら何にも出来ない国に「政治」なんて不要である。

外交、経済、軍事全て「他人任せ」の国に「政治」は存在するだけ無駄であろう。

学歴や世襲で安泰な地位を確保した高級官僚にコントロールされる以外、何が出来ると言うのだ?

こんな状態で「指導力発揮」の宰相が選ばれたところで、ろくな事にはならない。

高齢者の為に指導力を発揮すれば、若者が酷い目にあうだろうし、その逆も然り。あらいる分野での「国民のための利益」は同時に「国民のための不利益」となって「国民の不自由」を買う。

国民同士が反目しあうだけの愚行だ。

ほんの僅かの既得権者の安泰のために、下々の者は「政治パフォーマンス」の犠牲になるだけ。

だからもう何もしないほうがよい。

ただ「滅びゆく日本人」のための事後処理を円滑に進めるために「政治」があればよいのだ。

最初から出来っこないような政策の閣僚など必要なし。

特に「少子化対策」云々大臣って何のためにあるのだ?

この時に及んで「子供を増やす」などという幻想を「政治」に求める「国民」など何処にもいない。

誰も期待しちゃいないのだから。

本当に必要な「国民のための閣僚」はもっと他にある。

曰く

「安楽死対策担当大臣」

「絶望独身男性処理対策大臣」

「破産国民処理対策大臣」

「国立自殺センター長官」

「超高齢者処理対策大臣」

「火葬場確保対策大臣」

「路上独居死体処理対策大臣」

「育児放棄婦女子対策大臣」

等など。

人口減、大量死、少子高齢、高度経済衰退時代におけるもっとも重要な政策とは、如何に「いらない国民」「無駄な国民」「死に逝く国民」を効率的かつ混乱なく処理していくことではなかろうか?

それこそが、今政治に求められる「真の国民のための政治」と考えるが如何か?

経済、軍事、外交、財務などどうせ未来永劫イニシアティブなど得られないのだから欧米列強中国の言いなりになればよい。

よって国防、外務、金融関連の閣僚なんていらない。

全廃だ。

官僚が適当に外国の言い分を事務的に処理しときゃよいのだ。国益など知ったこっちゃない。そんなもの最初から守れる国ではないのだから。

国体を維持する一部の上流階層が生き残れればよいのであって、それ以外全部切り捨てればよかろう。

それがこれからの日本の行くべき未来である。

よって政治に求められる「国民のための政策」は、自ずと「死に逝く国民」「いらない国民」の為に成す政治であろう。

このようなマニフェストを掲げる政党があれば、来るべき選挙には投票しよう。

だが、恐らくそんな政党、政治家が現れるとは到底思えない。

例によって出来もしない、あるいは存在しえない「希望溢れる国民のための政策」を凝りもなく掲げるのであろう。

そんな似非政党には期待も希望も一切持っていない。胡散臭いだけ。

「国民のための政治」とはすなわち

「楽して死なせてくれ。希望も未来もないこの国に生き続けるのはまっぴらだ」

という国民の声に応える事。

それが真の政治家だと思うのだが?

まあそんな「悟りし賢者」が国会にいるとは思えぬがね。

よって今回も白票が濃厚だ。


2008年9月 23日

虚構の正義

今更ながら「まだやるのか」という感じであるが、例によってマスコミは幼い子供の犠牲が嬉しくてしょうがないらしく雪の中を走り回る犬のごとくキャッキャ喜びながらキチガイ報道に狂奔中だ。

人の不幸をそんなに楽しめる「マスコミ様」にはいつも脱帽である。

残念な事に、福岡の方の事件は「母親」が容疑者という「マスコミ様」にとっては「期待外れ」な結果となり、さぞお嘆きであろう。

「子供」を狙う「犯罪」は常に街の不審者、犯罪者予備軍たる「秋葉系」独身男性でなければならず、彼等を生け贄にすることが現マスコミの目的であるから、容疑者が母親であったことは如何にも都合が悪い。

だから論調も「憎むべき犯行」から「同情すべき悲劇」に転換される訳だ。

母親は常に子供の味方であり、犯罪者から身を守る最大の守護者でなければならないから、こういった事件後は「お約束」のごとく母子同伴での登校シーンがこれでもかとテレビで流される。

犯行現場には、これまた「お約束」のごとく献花台が設けられ、なんかの宗教行事みたいに「憎むべき犯人」を吊るし上げるための「祭壇」の役割を果す。

スタジオにはまたまた「お約束」のコメンテーターが用意され、曰く「犯人は幼児趣味のヲタク系男子の可能性が高い」という何の根拠もない「妄言」を世間にまき散らし、「見えない敵」の恐怖を流布する。

むろんこれ全てマスコミの作り上げた虚構に基づくシナリオだ。

「健全な世間」には常に社会の安全を脅かす「敵」が必要である。

その「敵」が本当に存在するか否かなんてこの際どうでもよいのだ。取りあえず都合のよい「生け贄」を用意して全ての犯罪の濡れ衣を彼等に被せれば「万事上手く」という仕掛けだ。

歴史はそんな「差別」の記録で埋め尽くされているから、まあ驚くには値しない。

その「差別」対象が、今は秋葉系独身男性ということ。

そういった構図が出来てしまうと、なり振り構わぬメディアスクラムによって秋葉系男子が「犯罪者」に仕立て上げられているのは周知の通り。

秋葉系男子は「社会の安全を脅かす敵」でなければならず、全ての罪を背負う義務があるらしい。

これが近代民主主義日本の紛れもない現実とは恐れ入る。

朝日新聞22日付け夕刊によると、警察庁のまとめでは保護者による殺人等「児童虐待」は今年上半期で166人に上り、死亡した児童は29人だという。そのうち殺人で検挙された実母は16人だという。

これがいわいる「現実」の統計であって、実は児童殺人で最も多くを占めるのが母親等の親族であるらしい。

昔から親子心中や近親者による児童虐待など珍しくはないのだが、改めて問われるべきは親の身勝手な凶行なのだ。

マスコミが騒ぐ秋葉系男子の犯行など、実は特異な事例に過ぎないのが現実。

ところがマスコミはそんな紛れもない「現実」を一切無視し、母親は最大の守護者と信じて疑わず、子を脅かすのは秋葉系「幼児趣味」独身男性と決まっており、その敵たる秋葉系男子を徹底的に差別弾圧する事で「安全で無垢な社会」がやってくるのだと流布する。

社会から秋葉系男子をあぶり出し、殺せ!吊るせ!と。

まあ、やってることは中世の「魔女狩り」と何ら変らない。

おそらく、こういった構図を確定する事で既得権者の安泰が計られるのだろう。

かつて60年前、戦争に負けている「現実」を一切伝えようとはせず「虚構の勝利」で人々を騙し続けたマスコミ。その結果、国民はどれだけ酷い目に合わされたか。

それと寸分違わぬ事を今尚続けているのだ。

こういうマスコミに翻弄される日常とは一体なんなのだろう。

毎日、「生け贄」としての対象者として怯えながら生きていかねばならぬ現実。

「虚構の正義」を平然と行使するマスコミとはいったい如何なる存在なのだ?

これも「地獄の沙汰も金次第」の成せる技か?

「真実」を伝えてもらいたければ「大金積め」ということらしい。

さすが「正義とヒューマニズム」の担い手「マスコミ様」である。

いっその事「神」を名乗ればよかろうに。


2008年9月 22日

無気味な『サザエさん』

十何年ぶりかにテレビアニメ『サザエさん』を観る。

この時間帯、テレビの前に居る事は殆どないので新鮮だった。

エピソード回数を見たら、なんと6000回を超えている。

これはなんだ?天文学的な数字じゃないか?

最近のアメリカ金融危機も何十兆円とかキチガイ沙汰の数字が飛び交っていたが、これまた吃驚。

そして内容もパラレルワールド。

背景などをみると昭和50年前後と思われる設定。携帯とか出てこないので平成ではないようだが、なぜが「スチュワーデス」を「キャビンアテンダント」と言っている。

なんだか滅茶苦茶だ。

子供の頃、観たサザエさんは少なくとも「同時代性」があってそれなりに共感出来る部分があったのだが、今の『サザエさん』は異次元ワールドである。

現代の家庭像を映し出す訳でもなく、かといって昭和を懐かしむ訳でもない。

そもそも今の時代に『サザエさん』的家族構成が不自然なのは観ているほうも承知してはいるが、この違和感は常軌を逸している。

いずれにしろ「都合の悪いもの」を排除したカルト道場の日常みたいで気持ちが悪い。

得てしてどんな作品も6000回も続くと作品構成上の尋常性を失う。

みんな狂った世界だ。

一般人が100万円位借金すれば「自己責任」を問われるが、銀行や保険会社が何十兆円損したら国が「救済」してくれるという理不尽に似ている。

「地獄の沙汰も金次第」「一人殺せば殺人犯。何百万人殺せば英雄」と同じ類だ。

『サザエさん』も6000回も作られたことで「地獄の沙汰」になってしまったのだろうか?

そう言えば、伊集院光のラジオでも発言があったが、『サザエさん』の何年後かの設定でCMが作られたらしい。しかしその内容は笑止千万の類だったとか。

自分は観ていないが聞き齧った設定によると、ワカメやカツオは何やらサブカル系の職に就いているとか。

まあ、そりゃあ納得行かないのも解る。

『サザエさん』の世界観ではワカメは20代早々に専業主婦と相場が決まってるし、カツオも高校出てサラリーマン以外に考えられない。

『サザエさん』の家族構成が永遠に継承されるからこそ『サザエさん』であり続ける訳だ。

それをサブカルっぽい職だの、結婚しないなどという設定がよく承諾出来たものだと思う。

6000回も同じ事が繰り返されるカルト道場のような『サザエさん』は未来永劫一切の変化は許されないのである。

それにしても『サザエさん』を作っている人達は、この非尋常性をまったく疑問に思っていないのだろうか?

もし長谷川町子が今でも生きていて『サザエさん』を執筆していたら、きっとワカメもカツオも携帯を駆使ししていろいろやらかしたり、携帯料金超過でカツオがサザエにこっぴどく怒られたり、近所の小説家がネット入稿で失敗するようなエピソードが描かれよう。

でも今のアニメの『サザエさん』にはそういう「同時代性」の発想がない。

気味の悪い「昭和エッセンス」のあり得ない世界が反芻されるだけだ。

進化を失うとはこういう事なのだろう。

何の変化もない世界を「善し」とした結果が、無気味な『サザエさん』を生んでいるのだ。


2008年9月 20日

5万円パソコン。

最近、安いモバイルウインドウズ機が出回っている。

自分はウインドウズはもっていないのだが何かと不便と感じるようになった。手持ちのデスクトップマックG3とOS8.6では動画サイトは殆ど閲覧出来ないし、集計などの汎用性の高いソフトはウインドウズ専用だ。

だから5万円であればちょっと一台あってもいいかなと思い、久しぶりに家電量販店のパソコン売り場に赴く。

吃驚する事にディスプレイは薄型の液晶とかそういう類で埋まりブラウン管は皆無。

ノートパソコンもたくさんあったがどれも20万〜15万円位であまり安いとは言えない。

そこに5万円パソコンが登場したものだから業界も大変らしいと新聞記事にあったのを記憶している。

まあ従来のノートパソコンは余計な機能が多い訳で、簡単なフリーソフトを動かす位なら5万円パソコンで十分だろう。光学メディアも外付けでそんなに高くはない。

余計な機能といえば「顔認識システム」だ。パソコン売り場を通っていたら、勝手に動画カメラで映されてディスプレイに映った自分の頭に海賊帽のイラストが乗せられて払っても払ってもくっ付いてくる。

それが凄く不快だったのでそのパソコンの電源を切ってやった。

勝手に自分の顔を認識されてカスタマイズされることがこんなに腹が立つとは思わなかった。

こんな機能は迷惑千万。

顔を認識するのはユーザーであって、「道具」でしかないパソコンに人様の顔を認識する権利などない。

こんなものを載せて高い価格設定をしているのだろうか。

更に有名タレントを使い、高い宣伝費をかける必要はあるのか?理解に苦しむ。

ガラパゴスと揶揄される日本の携帯も、アイフォーンの登場で酷く色褪せてみえる。

アイフォーンは、ほんとに魅力的だ。条件さえ許せば手に入れたい。

絵文字が使えないとか、ワンセグないとか、パソコンがないと機能を十分に発揮しないと言われるが、そもそも大の大人が絵文字なんて使うのがどうかしている。あれば便利だとは思うがそれは「少女趣味」の範疇。ワンセグだって思った程、外で視聴する必要性は薄い事に気付く。

むしろパソコンと連動させるのはかっこいい。

男のアイテムだ。

自分にいらない機能満載のノートパソコンや携帯は、つくづく「自分向き」には作られていない事を改めて悟る。

逆に考えれば、世間様にとって自分のような存在が「いらない」のだろうな。


` 2008年9月 15日

携帯コミック配信。

携帯コミック配信を手掛けるBbmf社「マンガ王国」よりあびゅうきょ電子書籍『快晴旅団』『風の中央鉄道が』9/16より有料で配信予定。

携帯電話で見る電子書籍である。

カメラ付携帯電話であれば下のQRコードからサイトに飛ぶ事が出来ると思う。

携帯に関してはこの日記で罵詈雑言ばかり述べているが、コンテンツ閲覧末端としても無視出来ない存在となってきた。

これも時代の流れか?

あの携帯の小さい画面でどうやって漫画を観賞するのかと疑問には思っていたがサンプルを観させて頂いてなんとなく納得。

一ページをいっぺんに見せるのではなくて一コマごとフキだし台詞ごとに閲覧していく方法だから、小さい画面でも読み進められる工夫がされている。

百聞は一見に如かず。

興味ある方はダウンロードして見て下さい。

宜しくの程を。


2008年9月 8日

横浜FM『ライドオンオートバックス』のこと

ちょっと前の日記にも記したが高畑勲演出アニメ『赤毛のアン』のアン役でお馴染みの山田栄子が担当していたラジオ番組『ライドオンオートバックス』のエアチェックテープをたまに再生してBGMにしている。

横浜FMで1986年4月から1990年3月まで4年間、毎週土曜午前11時30分から25分間流されていたドライバー向け番組である。

構成はオープニング、CM、エンディング含め全て山田栄子がボイスを担当。番組全体が山田演ずる横浜在住20代前半女性のドライビングトーク風で構成されていた。運転席から見た横浜散策という雰囲気だ。語りの間にアメリカンポップスが流される。

山田栄子がこの番組に採用されたのはたぶん出身地が横浜市だったからであろう。

当時オーソドックスなドライバー向け番組ではあったが山田栄子の『赤毛のアン』エッセンスがいっぱいで聴いているとグリーンゲイブルズが脳裏に浮かんで来て心地よかった。

アンがそのまま横浜に移住して馬車の代りに自動車で街を廻っているイメージ。この番組を構成した人ももしかしてそんなイメージで作っていたのかもしれない。

番組のオープニングはこんな感じ。

いくつものバージョンがあるようだが代表的な二つのフレーズを紹介する。

(1986年秋バージョン)

まず汽笛と車の起動音に続いて山田の語り。

「車は私達のタイムマシーン。

今日はどこ行こうかなあ?海の見える公園?それともタンカーの停泊する港?

どこまでも続く道は夢溢れる二人の舞台。

そして合言葉はライドオンオートバックス。

この番組はオートバックス神奈川グループ8店鋪の提供でお送りします」

(1990年春バージョン)

車が通り過ぎる走行音に続いて山田の語り。

「過去はバックミラーのずっと彼方に。未来はフロントガラスのずっと先に。

現在、過去、未来。

私は時を泳ぐ。

自由に、気侭に、美しく、元気に。

そしていつもの合言葉はライドオンオートバックス。

この番組はオートバックス東戸塚店、246江田店、浜見平店他、オートバックス神奈川グループ12店鋪の提供でお送りします」

このオープニングトークで山田栄子が語ると一気に「グリーンゲイブルズのアン」の世界に引きずり込まれてしまう。

そして最初の語りには必ずこんな感じのフレーズが入る。

「季節という名の旅人がいる。

その人はいつも私達の前を走りながら遷り往く時の流れと、変り往く自然の姿を見させてくれる。

けれどその旅人を見た人はいない。

ひょっとしたらこの道の彼方にあの曲り角の向こうにいるのかもしれない。

季節という名の旅人に一目会いたくて

今日も私の小さな旅が始まる」

オートバックスオリジナルCMでは「A子」「B子」一人二役で演じたりとコミカルな面も見せて楽しかった。

すべてが「山田栄子ワールド」一色のラジオ。かといって声優番組のような閉鎖された雰囲気もなくあくまでドライバー向けというスタンスもよかった。

「知る人ぞ知る」アンファンだけが密かに「山田節」を楽しめる、そんな感じも好きだった。

これだけ思い入れのある番組だったのだが、実は殆ど聞き逃しているのも事実。

生活も不規則で必ずしも横浜FMにチューニングしていた訳でもなかったからいつも「気が付いたら終っていた」状態だった。土曜の正午前という時間帯もチェックするには辛い。

だからテープにダビングしてあるといっても、わずか10回分。

4年間に放送された「アンの語り」殆どを知らないのだ。

アニメ作品などであれば後日DVD化され観賞する事も可能だがラジオ番組の場合はそうもいかぬ。

ネットで検索してみても殆どヒットしない。

昔のFM雑誌の番組表を引っぱり出してタイトルだけで内容を想像する以外にない。

もっとも、当時リアルタイムで聴いた僅かの放送分しか残っていないからこそ貴重なのであって、仮に今、何らかの方法で全放送分聴けたとしても果して喜びに繋がるのかは解らない。

あくまで空想の中に留めておくのもよいかも。

1990年春、首都圏FM多局化に伴い横浜FMも番組編成大幅変更を実施、この番組も姿を消してしまった。

1980年代後半、横浜のローカルFM局土曜お昼前だけに流された伝説の「赤毛のアン」の語り。

今でも横浜の何処かでその「アン」が車窓の向こうに佇んでいるかもしれない。

そんな妄想もまた楽し。


2008年9月 6日

スタジオジブリレイアウト展

東京都現代美術館で開かれているスタジオジブリレイアウト展を見に行く。

これまでもこの美術館には何回か訪れた事があったが、なにしろアクセスが悪い。どの地下鉄最寄り駅からも10分以上歩かねばならない。

上野を除いて在京美術館は得てして不便で解りづらい場所が多い。世田谷美術館しかり。

森に囲まれ閑静なのはよいのだが、不便だと足が遠のくのもまた事実。

それはさておき、今回は地下鉄大江戸線清澄白河駅から美術館へと向う。

これまでは東西線木場駅からだったので初めてのルート。

美術館へと向う道には何やら地元住民が作ったと見られる案山子がたくさん立っていて飽きさせない。

のんびり散策気分で赴くなら悪くないルートだ。

正午予約のチケットで入場。

さすがに人気のジブリ主催だから入場者は多い。アニメが現代美術で扱うジャンルかはさておき、人が呼べるということは美術館にとっても必須条件。

純粋な現代美術など堅気の人から見れば「粗大ゴミ」と何ら変らないのだから、それを遥々金を払って観に来させるためには美術館も「人気アニメ」で釣るしかあるまい。そのついでに常設の現代美術も観てもらうと。ジブリファンの1000人に1人位が現代美術に目覚めて貰えれば美術館側も「儲けもの」であろう。

それはさておき、肝心のレイアウト展の内容であるが、とにかく大量のレイアウト画である。昔からアニメ専門誌にはよく掲載されていたから自分にとってはお馴染みなのだが、やはり本物が見れるのは収穫である。鑑賞者もレイアウトに描かれた作品のシーンを思い起こして感想を語っていた人が多かった。

自分は『太陽の王子ホルスの大冒険』のレイアウト画を期待していたのだが流石に東映動画時代の作品はなかった。残念。

考えてみればこのようなレイアウト画が額装されて「美術品」のように観賞の対象にされるなんて隔世の感がある。

昔であればこのようなアニメ映画の制作段階で作られる「副産物」は作品が完成したら処分されるか倉庫に放り込まれたままか、見学者に無料で配られて霧散していたろう。

展示コースのラストには例によってジブリのミュージアムショップがあってムスカの台詞ではないが「人がゴミのように」群がっていた。

自分も10年ぐらい前であれば片っ端からグッズを漁っていたかもしれないが、今はその元気がない。

カタログも悪くはなかったが昔買ったアニドウの関連本にもたくさんレイアウト画が載っていたので今回は控える。いずれまたジブリ美術館に行けば売っているであろう。

館内のレストランは高かったので美術館近くのファミレスで食事。周辺に食事出来る場所が少ないので席に案内されるまでかなり待たされた。

やはり立地場所には問題のある美術館である。もっとも「現代美術」がいつも盛況というのも変な話ではあるが。

いっそ「現代美術」という看板を下ろして日本固有のコンテンツ系美術館に鞍替えしては如何だろうか?

東京都クール美術館とか。


2008年9月 5日

失う恐怖。

ここ10日位は夏イベントの揺れ返しに加え、打ち合わせ等初対面の方と会合含め、従来の「引き蘢りモード」ではなくなっていたせいか世間の動きにあまり関心が向かなかった。

「影男」シリーズも終って、仕事の方も今は「エアポケット」状態。そろそろ正常な「引き蘢りモード」に戻らねばいけないのだが、なかなか取っ掛かりがない。

このまま惚けてしまえば、なんだかそれはそれで楽なのかもと思う事がある。

もうすぐ人生も半世紀なのだが、「いよいよこれからが俺の人生だ!」なんていう根拠のない希望を抱いた20代と違って、何もかもが先細りに思える昨今は、ちょっとでも何かを「失う」とそれを充填出来た時代ならまだしも昨今では「なくしたらおしまい」という怯えがある。

失う事は恐怖である。

貯金、時間、人間、健康、自由な空間等。

何もかもが失うと還ってこない時代。

こんな時代だから誰もリーダーなんかになりたがらない訳だ。失ったモノの責任だけ取らされて得られるモノは何もない。

既得権をがっちり押さえる者だけが地べたを這いずりながら生きていく姑息な時代。

それはそれで認めてしまえばまだ快いのだが、世間は尚も「建前」で誤魔化そうとするから教員採用の不正とか明るみに出ると急に「聖人君子」化して「不正合格者」を生け贄にしたりする。

コネとか口利きなんて、世間を渡るための賢い常套手段なのだから今更聖人ぶってどうするつもりか?

放置自転車回収と同じ。

駅前にある程度の時間、自転車を留め置くというのは都市生活者にとっては避け難い習慣である。

そこをねらって駅前を「駐輪禁止」にすれば労せず罰金が取れると。

あれは一種の賄賂であって「自転車返してもらいたければ3000円よこせ」というのを自治体が公然とやっているのだ。

世の中はそういうものであって、もはや新しいルールだとか意識改革でとか、そんなもので世の中は変らないしむしろ既得権者にとっては変っては困るのだ。

何故なら下々の民からお金が取れなくなるから。

既得権者の利益になれば、日本の首相など牛丼屋の「雇われ店長」レベルでよいのであろう。だから指導力ある人間は決して首相にはなれない。

賢い者は水面下で「深く静かに潜行」していて姿を見せないのだ。

こうなったらいっそアニメのキャラクターを新たな首相に据え置いてもよいのじゃないか?

でも人気アニメキャラは「正義の味方」が多いからダメだ。

日本のアニメキャラクターは何かと角が立つから、アメリカ様の御機嫌を取るために「スポンジボブ」あたりを首相に迎えるのはどうだろう?

ガンダム萌えや秋葉系首相よりアニメそのものが首相なんだから手っ取り早い。二次元キャラクターは裏切らないし。

これなら失うものは何もない。

日本万歳!


2008年9月 4日

いろんな企画。

早いものでもう9月。

部屋に差し込む陽射しも少しずつ傾いて昼間の時間も短くなってきた。

さて先日、ある打ち合わせのため青山へ赴く。

オシャレな街なので行き交う人も何だかサブカルチャーな雰囲気が漂い、緊張する。

その青山界隈の某ビルにて、ある企画のミーティングに参加。まだまだ準備段階ではあるが自分にとってはかなり大きなプロジェクトになりそう。

実際、現時点ではどうなるか何とも言えぬが具体化した時点で公表できればと思う。

もう一つ。

従来のPCに続き、携帯でもあびゅうきょの電子書籍が読める企画も進行中である。

配信日が近くなったら、このサイトでお知らせしたいと思う。

諸々宜しくの程を。


2008年8月 30日

『とらのあな』委託販売。

夏コミに出したドラマCD『多摩モノレール堰場幻影』が漫画専門店『とらのあな』でも購入出来るようになった。

あとこちらも。

宜しくの程を。


2008年8月 25日

夏の宴の終り。

夏恒例のイベントや北京オリンピックも終了し、宴の後という雰囲気。

ここ一週間程いろいろと片付け事が多く、久方の日記更新。数日まとめてアップ。

8月後半の週末は悪天に見舞われ気温も低く、テンションも下がって今一つの今年の夏であった。

なんだかんだいってもオリンピック中継は観ていたから、久しぶりにテレビが「テレビ」らしくなっていた。

この時期だけテレビや新聞が「正気」になってくれる。生の人間の闘争を伝える事こそマスコミの役目である事に今更ながら気付かせる北京オリンピックであった。

そんな束の間の「正気」な期間も終って、また明日からはろくでもないキチガイの戯言が始まると思うと憂鬱でもある。

それはさておき、民放のオリンピック中継で思ったのだがメインキャスターのお笑い芸人や役者が金メダリストと「マブ友」風に接する映像がなんだか異様に鼻についた。

お互いの立場を利用して今後メディアで上手く立ち振舞わんとする魂胆が見え見えで気分が悪くなる。

メダリストもさっさと現役引退して楽して稼げるタレント転身の足掛かりにしたいように見えるし、芸人の方もメダリストに取り入って自分の株を上げたいというあざとさを感じる。

感動も興醒めだ。

そんなスポーツとメディアが持ちつ持たれつ上手く立ち振舞って「美味しい人生」を共有せんと談合するから日本の野球代表チームに対する真っ当な批判も影を潜める。

プロにあるまじき「恥」を曝したのだからもっとメディアは糾弾すべきなのだ。

ところが何だか知らないがテレビはこの屈辱劇を「終った事」にして何事もなかったようにスルーする。

アマチュアなら仕方ないかもしれないが、相当な年棒を貰っている「プロ」が恥ずかしい結果を出したのにお咎めなしとは結構な身分だ。

もっとも、最初から気概も闘志も感じられない無気力感が漂い、選手達も「なんで俺がここにいるんだ?早くペナントレースに戻って民放女子アナといちゃいちゃしたいよう」って感じに見えたから、この結果はある程度予想出来たのだが、だからこそ徹底的に叩かれてその腑甲斐なさを世間に曝されるのもプロの「仕事」ではなかろうか?

勝てば官軍。負ければ賊軍。

同情された時点でプロ失格である。

怪我とかコンディションだとか審判の癖だとか・・。なんだか最初から負けた時の言い訳を用意していたようにも思えてしまい増々不信感が募る。

いっそタイムリーエラー連発した選手は愛称も「北京の思い出ポロポロ」と改名してバラエティー番組に出れば結構稼げるのではないか?

味噌も糞も一緒の癒着蜜月関係であるスポーツと芸能界なんだからこれでいいんじゃなかろうか?

所詮日本のスポーツ界はこのレベルがお似合いだ。

国に殉ずる位の気概があるアスリートなんて結局この日本からは生まれる事はあるまい。

それが北京オリンピックの日本選手団に対する純粋な感想である。

北京の次は民放バラエティー番組でがっぽり稼ごう!メダリスト諸君。


2008年8月 24日

コミティア来場感謝。

去年に続いてコミケ一週間後の同人誌イベントコミティアに参加。

今回は大学時代の知り合いやその友人が訪れて珍しく自分のブースが賑やかになった。両側のサークルの方には諸々お騒がせ及びお世話になってしまいこの場を借りて御礼ご容赦申し上げる。

また差し入れして頂いたファンの方にも御礼申し上げます。

反面、天候は先週にも増して悪く8月とは思えない程の冷たい雨が降り注ぐ最悪のコンディション。

また、昨今の物価上昇で遊興費を節約モードにされた参加者も多かったのか、普段のこの時期のコミティアと比べても本の売り上げは少なかった。

戦略物資の高騰はついに同人誌界にも影響を与え始めたのであろうか?

それでもいろいろな方とのコミュニケーションも楽しめて無事にコミティアも終える事が出来た。

会場内で行われていた「児童ポルノ法改定反対署名」にもサインする。

どれだけ効果があるか解らぬが何もしない訳にはいかぬ。

夏休みモードもそろそろ終了。


2008年8月 18日

『スカイクロラ』『ポニョ』

『スカイクロラ』と『ポニョ』を数日間隔で観る。どちらも都内繁華街の映画館だったのでほぼ満席だった。

『スカイクロラ』は原作を読んでいないがそのほうが純粋に映画を楽しめる。もっとも押井作品は原作が何であろうと結局「押井色」になってしまうから別によいのだ。

戦闘機のCGは慣れるまではちょっと違和感があったが仕方あるまい。馴染めば気にもならなくなった。

ストーリーとしては、まあ「父親殺し」の出来ない哀れな時代に生きる若年者へのレクイエムといったところか?

「大人の男」を必要としない社会と代理戦争という現在のリアル世界とシンクロしていてなかなか面白かった。

同じ設定で同じ映画が1970年代〜80年代に作られたとしたらおそらくこんな結末にはなるまい。青年は大人になるための通過儀礼として『ティーチャー』を必ずラストで撃墜していたろう。

そうでなければ作品は成り立たない。

なぜならばそれが当時の必然だったから。

皆「大人の男」になることが宿命つけられた時代。若人は古き世代の「敵」を打倒し「大人」に成長していく。「父」は打倒すべき対象なのだ。

就職、結婚、出産、子育てという「通過儀礼」を獲得するために古き老いたる者を乗り越え「勝利」する必要がある。そして新世代による新秩序という「進化」が齎されるのだ。

その正常な新陳代謝が行われなくなった時代の悲劇が『スカイクロラ』の世界観。

ちょうど北京オリンピックが開かれているが、日本のメダリストの大半は四年前のオリンピックに続いて連破という選手が多い。言い換えれば新たな有力選手が現れないということ。

常に勝者は決まった者に齎され、「新戦力」は必要とされない。

そしてその「勝者」が寿命を終えたら競技自体それでおしまいだ。

スポーツに限らずあらゆる分野で絶望的閉塞感が漂う時代となっている。まさにそんな世相に相応しい映画であろう。

一方で『崖の上のポニョ』は対照的だ。

グランドマザーたる「大地の母」が一切を取り仕切る世界の話。

宮崎駿氏の作品は根源的にすべて「偉大なる母」の子宮の中に納まっている。

だから最初から大人になるための通過儀礼など必要ないのだ。

倒すべき「父親」までもが菩薩の手の内で踊る哀れな存在にしか過ぎない。そしてその世界で惚けようがお漏らししようが狂おうが偉大なる「グランドマザー」が何とかしてくれる。

それはそれで一切の進化を必要としない世界。

進化を否定する事が悲劇ではなく大地や海洋の「女神」に全てを委ねる事が、実は真の幸せであると。

それはそれで恐ろしいのだが、まあこっちの世界のほうが『スカイクロラ』の世界観よりも救いがあるのかも。

まあ楽だし、死なないし女神がなんとかしてくれるし。

『スカイクロラ』も『ポニョ』も閉塞されたエンドレス世界を描いている事には違いない。

違うのは単に現状を打破するための闘争があるかないかの差だ。

だが、永遠の安息の地たる「偉大なる母性」すら失われつつある現世においては、『ポニョ』もまた「絵空事」に過ぎない。

闘争による死が描かれている『スカイクロラ』のほうがリアリティーがあろう。

出てきた女性達もみんなイカレタお姉さんばっかりだし。現実世界もこんな気狂い女性で溢れてるから現状認識は『スカイクロラ』のほうが適格だ。

『ポニョ』は何だか惚けかけた爺さんの戯言にも感じる。

なにもかも包んでくれる「母性」信仰はもう平成の世には破綻しているのに何呑気な事描いているのかと。

いや、宮崎駿世代には関係のない事かもしれないが。

さて、『ポニョ』を観て映画館を出た後、ふと主題歌の替え歌が思い浮かんだ。

「ポーニョポニョポニョ キチガイだ。

頭の おかしい 女の子」

これを口ずさみながら歩いていたら、小さい女の子がこちらをじーっと見ていた。

楽しいな。


2008年8月 18日

コミックマーケット74無事終了。

いろいろと不安材料も多かった今回のコミケもなんとか無事終ったようだ。

17日、当スペースに足を運ばれた紳士淑女各位の皆様にはこの場を借りて御礼申し上げる。

さて、当日であるが、荷物検査を考慮して普段より幾分早くビッグサイトに赴く。天候は曇り。昨日夜の雨で空気が入れ代わり妙にひんやりする。涼しいのはよいがやはり夏のコミケは真夏の陽が照りつける熱気がほしい。なんだか拍子抜けだ。

展示場着は7時半。すでにりんかい線は満員だった。会場周辺も一般参加者で溢れていた。さて問題の荷物検査は結局の所実施されていなかったようだ。入場ゲートには一応机が並べられていたもののサークル参加者の荷物を検査するようなことはなし。

もし検査が実施されていたら混乱は目に見えていた。普通に入場するだけでもゲートは渋滞することもありこれに荷物検査が加わったらサークル入場だけで昼過ぎまでかかってしまう可能性もあった。もっとも一応アナウンス効果はあったのでこの「荷物検査告知」は無駄ではなかったのかも。

さて、開場まで2時間半あったのにも拘わらず、すべての準備が整ったのは10時少し前、新刊のドラマCDにシールを貼ったり、スペース設営に手間取ったりとあっという間に時間が過ぎる。今回は売り子さんに来て頂いたので二人がかりで準備したのだが、それでもこんなに時間が掛ってしまった。

搬入アイテムが増え過ぎたのも一因なのでもう少し効率を考慮しないとまずい。基本が個人サークルなので一人で手に余る事は避けたい。

開場後はいつもの雰囲気。一般参加者は大手サークルに走り、少年創作の島サークル周辺は昼前まで混雑もなし。配置された場所が原因かは解らぬがここ数年は人垣を久しく見ていない。「新世紀エヴァンゲリオン」が盛況だった時は、少年創作の島サークル周辺も物凄い人垣でとても一人では応対出来ない程のお客さんが押し寄せてきたものだ(オリジナル創作サークルでも相当数がエヴァ関連の同人誌を出していた)。それはなかなかの活気だった。

近年はそんな勢いも一段落。終日落ち着いている。全体的にコミケ来場者は増え続けているものの世代交代や企業ブースお目当てに流れて古典的オリジナル少年創作ジャンルを目的とする来場者はむしろ減っているのかもしれない。

このあたりで何かインパクトのある刺激を齎すムーブメントを期待したいところだ。

更に今年は物騒な事件もあったので、来場を控えた人も多かったのだろうか?近年にも比べて人の流れが少なかったようにも感じる。また午後より雨が本降りとなってしまったのも痛かった。雨は本にとって天敵である。雨が降る位なら猛暑の方がまだましであろう。それに会場の天井から漏れる陽が感じられないのも寂しい。 なんだかテンションが上がらない。

そんなマイナス面も影響したのか期待した程の売り上げはなかったものの、外人さんがまとめ買いして下さったりお馴染みの常連さんや数年ぶりに訪れて頂いた方等ともお会い出来て終日楽しく過す事が出来た。売り子さんもメイドコスで頑張って頂き大変助かった。

閉会後、宅配受付が西会場のみになってしまったので若干手間取ってしまったがなんとか撤収も完了。

冷たい雨には閉口したが、来年の夏はよい天気になってほしいものだ。


2008年8月 16日

コミックマーケット74あびゅうきょブース出展お知らせ

明日17日にサークル参加する「あびゅうきょ」の頒布情報を改めてお知らせします。

スペースは東4ホールモ29a。

頒布する新刊作品はドラマCD『多摩モノレール堰場幻影』

先着100名様に特典ポストカード(2種類)を差し上げます。

詳しくはこちらの特設サイトを御覧になって下さい。

あと別名義の成人向け最新作新刊も頒布予定です。

他、既刊本も頒布いたしますので宜しくお願いいたします。

今回は荷物検査等があるので若干早めに動いたほうがよいかも知れません。

会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。

お誘い合わせの上、御来場いただければ幸いです。


2008年8月 11日

手荷物検査

今度のコミケットは入場前に手荷物検査があるそうだ。

三日間で延べ五十万人が参加するこの空前絶後のイベントで、はたしてスムーズに手荷物検査が可能なのだろうか若干不安でもある。

もっとも昨今の情勢下ではどんなイベントも手荷物検査はある訳で、それほど特殊な事ではないのかもしれないが、もともとコミケットは「同胞の祭」という感覚が強く、あえて手荷物など調べる必要のない「性善説」でうまくやってきたのだけれど、最近は秋葉系イベントがメディアで取り上げられる事も多くなり、参加者も多種多様な人間が増えてきた。

となると、もはや他の一般の大イベントと同じく「警戒心」も必要となってきたのだろうか?

たしかにここ最近のマスコミ嗜好を考えるとコミケットは恰好の「標的」になりうる訳で、ちょっとした事でも大きく叩ける「素材」にされる恐れがある。

だから警戒するのも致し方なかろう。

だが実際のところ「通り魔」が異常発生している訳でもなく、過剰報道が「錯覚」を植え付けているだけ。

むしろコミケ参加者は普段より気を使って慎重に行動せざるおえなくなるからトラブルは逆に減るかもしれない。

要するに「危機バネ」が働くのだ。

いずれにせよ、いままで経験のない手荷物検査がコミケットの人の流れにどう影響するのかが気になる。

手際が悪ければ午後4時になっても参加者が入場しきれない事態だって十分考えられる。

サークル参加者も下手をすると一般入参加者より入場が遅れるかもしれない。なぜなら搬入荷物が多いからである。一般入場者がやっと会場に辿り着いたら、大半のサークルが未だにスペースに到着していないなんて事もあり得る。

早めに会場に行くに越した事はないが、本当に予想がつかない。

ただ何事も困難を克服するところに喜びがある訳で、参加者はある程度覚悟を以て臨むしかない。

それもコミケットの嗜みのひとつである。


2008年8月 10日

北京オリンピック

例によって始まる前は全く盛り上がらず、始まった途端に列島沸騰(?)。

サッカーワールドカップしかり、愛知万博しかり。歴代のオリンピックも似たようなもの。

さて、北京オリンピック開会式は国家の威信というかあれだけの重厚長大なパフォーマンスを観せつけられたら完敗という感じ。中国を敬服せずにはいられない。

ちまちま重箱の隅を突くような事しか出来ぬ日本に比べたら、まともな国家とは如何なるものかを思い知る。

中国批判なんて、所詮成功者に対するやっかみでしかない。

餃子云々でウダウダケチつけるだけに終始する日本は永遠に劣等者だ。中国に対抗するには同じように「創造的闘争」に邁進する以外に方法はない。

それはさておき、なんだかあまり日本選手を応援する気にはなれない。

近年はオリンピック選手に親近感が全然湧かない。同じ日本人でも生きているステージが違い過ぎて「同胞」という意識がもてないのだ。

水泳の金メダリストは「スポーツ貴族」みたいだし、美人アスリートもタレントのようで棲む場所が違い過ぎる。

そもそも国籍ってなんなのだ?

ジンバブエ代表の金メダリストは白人だった。元の生まれはヨーロッパに違いない。多くのジンバブエ人にとって、そんな白人を応援する気になれるのだろうか?

人種や宗教、思想、階層が入り交じった多国籍国家の国民は決して国を上げて代表選手を応援するなんて事はないだろう。

この日本もだんだんそれに似通ってきた気がする。

柔道の男子選手が金メダルを取った時、妻子あってこそみたいな事を言っていた。

しかし皆妻子を持てた曾ての日本とは違い、今日のように結婚出来ない独身男性で溢れる情況では、正直「他人事」でしかない。

感動の共有は無理だ。

妻を娶り子供を設ける事は男にとってステイタスの象徴。それは一部の特権階級だけが許される制度になってしまった今、それ以外の男子にとって「家族のために頑張る」なんてお伽話の世界。

要するに、同じ「日本人」でも価値観や経済事情の異なる階層や集団が幾つも出来てしまい、同じ「日本人」だからといって代表選手を応援するとは限らないのだ。

もう国籍別代表なんか止めて、各々の階層毎の代表選手を選べばよいのではないか。

たとえば、40才になっても深夜コンビニアルバイトで年収50万円以下の独身男性代表とか、ニート引き蘢りで匿名掲示板に中傷を書込むのが趣味の30代独身男性代表とか、「自分捜し」に夢中で気が付けば中年になってしまったけれどヨン様みたいな「白馬に乗った王子様」がきっとやってくると信じて疑わない40代独身家事手伝い女性代表とか、まあこんな「階層別」で日本代表が選ばれれば感情移入出来てもっと楽しくオリンピックが観れるかもしれない。

これこそ本当の感動ではなかろうか?

北京オリンピックよりグルジア対ロシアのリアル戦争映像の方が血沸き肉踊るのはなんとも皮肉である。


2008年8月 7日

再びラジオ出演

78.9MHzかつしかFM毎週日曜20時から放送されているマンガ・アニメ情報生番組『秘密のオンライン』に再びゲスト出演予定。

出演日は8月10日日曜日。コミケットサークル参加予定の一週間前である。

8月17日コミケット会場で頒布予定のドラマCD『多摩モノレール堰場幻影』の直前プロモーションといった感じである。

前回聴けなかった方も再チャレンジしていただければ幸い。

このかつしかFMはコミュニティーFMなのでラジオでは葛飾区周辺のみが可聴範囲なのだがインターネットでも聴取可能。

http://www.kfm789.co.jp/

宜しくお願いします。

「影男シリーズ」に継ぐ新作の絵コンテ作業中なのだが、これが難航。

若干、今までのパターンから絵もストーリーも変えようと悪戦苦闘しているがなかなかその糸口が掴めない。

もっとも新しいチャレンジだから早々簡単にいくものではないが、やはり若い時と比べると集中力が維持出来ずすぐにリセット状態。

全然前に進まない。

「影男」に頼りっきりの構成だったからそこから脱却するのが難しい。

取りあえず頑張ってみる。


2008年8月 4日

ヒグラシの鳴く森。

先日秩父に近い奥武蔵の山に一人ハイクする。

8月夏休みの日曜というのに最寄りの駅は閑散としていた。子供や家族連れの姿はなく、50〜60代男性ハイカーがちらほら。

山道もすれ違う人はなく所々荒れている。2階建ての峠の茶屋も訪れる人が少ないのか営業しているのは1階だけ。近隣のガーデンハウスは閉鎖されていた。

ここに限らず曾て賑わっていたであろう首都圏周辺の景勝地や山は今や寂れるばかりのようだ。何処へ行っても売店や宿舎の廃墟が目立つ。

この奥武蔵も自分が小学生時代、「全校遠足」として600人ぐらいが西武新宿線貸し切り列車を利用し訪れたものだ。

目的地には同じように他の学校から児童が集まって物凄い活気で溢れていた。何処もかしこも若年層でいっぱい。そんな昭和40年代と比べていずれの景勝地も凋落の一途だ。

今や景勝地に訪れるのは初老の単独ハイカーが中心。若い人などめったに見る事はない。

かつては景勝地まで直接鉄道やバス路線が引かれていたのに現在は廃止されている場所も多いと聞く。そのためアクセスが自家用車に限られますます寂れに加速がつく。

ゆくゆくは江戸時代のごとく、修行僧のみしか訪れる事がない辺境の地と化すかもしれない。

夏休みなのに子供や家族連れの歓声が一切ない景勝地は異様である。

セミ時雨の中、誰も居ない山の渓流を歩く。ヒグラシの大合唱が「日本人」という種の絶滅を予感させる。

「カナカナカナカナ、お前達日本人はもうすぐ滅ぶ!そして誰も居なくなったこの山は再び森の精霊の下に還るのだ」

自分の魂がまるで山の神に呑み込まれる感覚だ。

しかしそれも一興か。

人間社会の競争に明け暮れるよりも森林の精霊と魂を一体化させたほうが幸せではないだろうか。

しかしそのためにはこの不要な身体を捨てなければならない。

最近、初老のハイカー遭難が多いのも実は自らその道を選び、己の魂を森の精霊に捧げているのではないだろうか?

ヒグラシのセミ時雨はそんなハイカーたちの魂が放つ歓喜の唄なのかも。

恐ろしい。


2008年8月 3日

納品。

ドラマCDの完成品が納品された。告知ページにパッケージ内の様子をアップしたので御覧の程を。

ポストカードは頒布時に別途配布予定。

頒布、通信販売は8月17日以降。いずれにせよコミケットが初売りとなる。

宜しくの程を


2008年7月 28日

「27時間テレビ」の事。

先日、ある民放が毎夏ライブで放映している「27時間テレビ」を観た。

観たくて観た、という訳ではない。たまたまテレビを灯したらやっていたので、という惰性の流れである。

自分が観ていた時間帯は始まってから朝方までだったのだが、テレビで「笑う」体験をしたのは本当に久しぶりだった。

曾て自分が20代前半だった頃に全盛を極めた『おれたちひょうきん族』というバラエティー番組を再現したような構成で、何だか猛烈におかしかった。

禁断の箱を一気に逆さまにしてぶちまけた感じだ。

これが「おかしかった」のは単に世代の「笑い」の壷にはまっただけかもしれない。まだ感受性が枯れていなかった20代前半に慣れ親しんだ「笑いの波長」というか、そんなものが最近の地上波テレビから消えて久しかったから尚更「おかしかった」のだろうか。

年配者が懐メロや「水戸黄門」を観て喜ぶのと同じ事だとしたら寂しいが。

いや、それともちょっと理由が違う感じがする。

「生の笑い」という醍醐味が如何にインパクトがあるかを改めて思い知らされた、と言った方がしっくり来る。

印象的だったのは、深夜、若手のお笑い芸人が次々登場したシーンだ。

スタジオは『ひょうきん族』の重鎮明石家さんまが取り仕切り、中堅のお笑いも大挙勢ぞろい。そこに次々と大量の若手芸人が突撃して芸を披露する。

ここでふと気が付いたのだが、その若手芸人の中に誰一人、ブラックユーモアを武器にする人が居ない事だ。

『ひょうきん族』の時はどことなく当時の社会情勢を皮肉ったギャグや結構危ないネタを売りものにした芸人さんがいた記憶がある。

それもスタンドプレーではなく、おそらくスタッフや作家と練り込んだ末の、緻密な計算の上に成り立った「高度な芸」だったのだろう。

それが今や皆無なのだ。

若手芸人は今を生きる社会や政治に対し全くの無批判。一切拘わろうとしない。

ただ奇声を上げたり奇妙なパフォーマンスで場の空気を濁すだけの連続。

これは「道化師」ではない。

以前にも述べたがこれでは単なる「知的障害者」のシュミレーションに過ぎない。そんなので「笑い」を取ってどうする?

熊のヌイグルミを抱いてキチガイのように振舞う女性芸人さんがいたが何だか「痛々しい」だけで笑いに繋がらない。また気が進まないのか芸を披露したのに途中で止めて泣き出してしまう女性芸人もいてスタジオ全体の空気を引いてしまったりと何だか観ているほうが辛くなる。

視聴者に「笑い」を提供する以前に、自らが「同情」の対象にされては世話がない。

そんな「若手」芸人さんを観ていると、昨今問題になっている「派遣社員」と像が重なる。

次から次へと軽いノリだけで「テレビの主役」に祭り上げられるがあっという間に飽きられてすぐ捨てられる。

今の若手芸人さんはそのまま同世代の派遣社員と扱いが同じなのだ。

多分スタッフも、最初から芸人を「使い捨て」と割切っているのだろう。だから最近のお笑いオーディションも「可もなく不可もない」無抵抗で人畜無害な若手ばかりを起用しているのかもしれない。長い付き合いで共に芸能界に切り込んでいこうなんて最初から考えちゃいない。

『ひょうきん族』のころはそんな野心溢れる芸人を共に育てていく土壌がテレビ界にもあったのかもしれないが、もはやそんな余裕はないのだ。

骨のある社会批判旺盛な真の「道化師」は今やテレビに出る事はない。最初の時点で篩にかけられメディアから隔離されてしまうだろう。

なぜなら気骨な才能ある若手芸人を擁護し育てるシステムはもはやテレビ界に存在しないからだ。目先の利益に終始するテレビに「有能な芸人」は危険すぎるのだ。

だからテレビに出られるのは「小物」「人畜無害」「無抵抗」で奇声をあげるだけのキチガイシュミレーターばかりになってしまう。

もっとも『ひょうきん族』の時代から四半世紀も経っている訳で、明石家さんまが仕切る番組に平成生まれの芸人を対等に並ばせて芸を披露させるというのはいささか無理があろう。

『ひょうきん族』の時代に当時から四半世紀前(1955〜60年頃)の芸人を呼んで、たけしやさんまと絡ませても「笑い」の質が違い過ぎて番組は成り立たないのと同じ。

平成産まれにとって、もはやテレビは時代遅れの情報ツールだ。

20代以下の若年者が夏休みの週末、今回のような「27時間テレビ」を終夜テレビを観ているとは思えない。彼等にとって携帯こそがスタンダードな情報ツールなのだ。

ネットや携帯が当たり前の時代に生きる者に『ひょうきん族』的「笑い」の本質はもはや理解出来まい。

だから気骨で才能ある若者はテレビではなく携帯やネットの中に活路を見い出そう。

『ひょうきん族』はテレビが全盛期だった時代の「華やかなりし最後の宴」なのかも。

そういえば、「27時間テレビ」恒例、深夜の「お色気おふざけ」コーナーが消えてしまった。

地上波テレビがかつて庶民に提供した人間の本質的欲望や笑いの表現活動をすでにテレビ自身が維持出来なくなった如実な現れだ。

既得権維持の宣伝媒体と化したテレビはもうじきに庶民から見捨てられよう。

広告媒体としても、もはや主流はネットに移行しつつある。

今回の「27時間テレビ」はテレビというロウソクの灯が消える直前の輝きだったのかもしれない。

「編集」なしの生放送の醍醐味が地上波テレビで楽しめるのはいつまでだろう。

デジタルになったら、もう真の「生放送」は存在しなくなる。常に既得権者の「検閲」で「都合の悪い映像」は視聴者の目に届く前に「抹消」されてしまう。

そんなテレビ、誰が観るのか?


2008年7月 24日

エリアメール

先日、初めて緊急地震速報を「揺れる前」に確認した。

たまたまFMラジオを聴いていて例のチャイム音がNHKFMから流れ出した。慌ててテレビをつけると震源は岩手というテロップと地図が。

この時点では東京は揺れていなかったのでこの辺りまでは振動は来ないのかなとタカを括っていたが1分くらいしてミシミシと揺れ始めた。

おお!これぞ21世紀的テクノロジーの勝利じゃないかと妙に感心する。

災害時の速報を適格に伝えるのがメディアの役割な訳で最近はその時のみのためにテレビがあるようなもの。

昔、『宇宙戦艦ヤマト』でガミラスのミサイル群がヤマトに接近中であることをブリッジのレーダーディスプレイが表示。音声が「第一波来ます」と告げるシーンを彷彿とさせる。

まさに男のロマンだ。

ところで最新の携帯電話にはこの緊急地震速報を自動受信出来る機能があるらしい。

自分も知ってはいたのだが、きっと料金が高くて設定も面倒なんだろうなと思っていた。

ところが調べてみると簡単な設定方法で受信出来るらしい。

それも無料。

ボッタクリが常の携帯会社の割には妙にサービスがよい。

しかし初期設定ではオフになっている。こんな「おいしい」機能をなんでデフォルトでは設定していないのだ?

この緊急地震速報だけしか受信出来なかったとしても、その機能目当てで買ったって良いくらいなのに。

おそらく、最初から設定してあると万一パニックになった時責任負えないとか、まあそんな理由だろう。

ユーザーに女性が多いからか?

自分が欲する機能は冷遇されている携帯はつくづく「女性の基準に基づいて設定されている」機械だと感ずる。

もっとパブリックな緊急速報やナビゲーションやミリタリー志向の機能を満載すれば満足度は高まるが、そういう発想はないらしい。

自分の携帯もさっそく緊急地震速報が受信出来る設定にした。これでやっと「21世紀的SFマシン」化完了。

それにしても入手してから半年以上知らなかったとは。

まったく「宝の持ち腐れ」であった。


2008年7月 23日

ドラマCD『多摩モノレール堰場幻影』特設ページ

ここ数ヶ月、ずっと制作に専念してきた自費制作CDドラマが完成した。

そこで夏のコミケット頒布に向けての告知ページを作ってみた。

今後、様々なイベントなどで頒布告知していこうと考えている。

あびゅうきょ初の音声媒体作品であるから自分自身にも新鮮だ。より多くの方に聴いて頂きたい。

自分は気に入ったアニメ作品を映像でリピートすることはあまりしない。

大抵音声だけをカセットに撮って何回も聞き返す。

映像は時と共に色褪せるが、音声だけだと脳内で映像を補正出来るのでいつまでも新鮮だ。

『未来少年コナン』『カリオストロの城』『パトレイバー2』『人狼』等など、気に入った作品は一度映像で見れば残像として脳内に刻まれる。音声再生のみでその作品は何回でも蘇る。

仕事の片手間、音声のみBGMにすることで時間を有効に活用出来るし、新たな創作発想の糧にもなる。

同じ意味で昭和40年代のラジオドラマも好きである。

想像力を養うには映像よりも音声の方がより有効だろう。

だから今回製作したドラマCDも、そんな想像力を喚起する素材として聴いていただけると幸いだ。

仕様は新作書き下ろしイラスト掲載20Pブックレットが附随。どちらかと言えば新刊付きCDに近いかもしれない。

自分の作品が音声ドラマ化されるのは夢であったし、それが現実化出来たのも多くの方の協力の賜物。

主題歌を唄って頂いた方も、主役他演じて頂いた声優さんも20〜30代新進気鋭の才能ある方ばかり。その方達の創作活動拡大のためにも何とか役に立ってほしいものだ。

今回は自主制作であったが、いずれ商業作品への布石になれば幸いである。

宜しくの程を。


2008年7月 22日

7月21日という日。

連日30度以上の日が続き、いつの間にか梅雨が明けていて、気が付けば夏真っ盛り。ただ蝉は例年に比べ少ないか。

そんな7月21日といえば、夏休み突入の日。いまでも幼少の思い出が蘇る。

通知表の評価で親に酷く怒られたのもこの日だったし、オールスターゲームが開催されたのもこの辺り。親子揃ってオールスターをテレビを観るのが夏休みオープニングの恒例行事だった。

実家の庭は広かったので炭火でバーベキューが出来た。これもなかなか楽しい一時だった。

そんな「一家団欒」夏休みモードは、自分達の世代にとってごく普通の光景であった。

今、近所を見渡してもそんな「昭和40年代的」夏休みモードの家庭は見当たらない。

自分はすでに当時の父親より歳が上になっているにも拘わらず、妻も子も居らず、かつて賑やかだった実家のサンルームは誰も居ない「物置き」状態だ。

あの家族でテレビを囲んだ「7月21日」はどこへいったのだ?

2008年、テレビは最近流行の「キチガイに刃物」ごっこに御執心らしく、やたら不安を煽ってマッチポンプに精を出すニュースでいっぱい。

刃物→通り魔→犯人逮捕→「誰でもよかった。死にたい」と供述→大人しい目立たない子(未成年じゃないのだけど)→親登場で吊るし上げ→本人の卒業文集曝し→本人が知らない「親友」登場→自称犯罪心理学者の見当違いの解釈→献花台に自称知人殺到→ほとぼりが醒めたらまた新しいネタ(以降繰り返し)

本来「父親」になっているべき成人男子を「犯罪者予備軍」とする「結論ありき」前提で連日繰り替えされるルーチン報道でで頭がおかしくなりそうだ。

もっともそんな「気狂いニュース」を真に受けるポジションに居る事自体が間違っているのかもしれない。

賢明な者はテレビの「報道」など観ないし自分のやるべき事に専念しているだろう。

この狂気のルーチン報道に振り回されるのは、いわば匿名掲示板の荒らしにいちいち反応するようなものだ。しかし「公共の電波」を使って荒らし紛いの報道で視聴者の世論を操作するのは匿名掲示板とはステージが違う。

スケープゴート、魔女狩り紛いの報道に明け暮れるマスコミというのはもう自浄能力を失った「腐敗権力」と変わらないな。

それにしてもマスコミは「生け贄」がそんなに好きなのか?

付け届け、タクシー居酒屋、落書き、ネットの犯罪予告、痴漢などなど、マスコミは容疑者を極悪人扱いだがそんな人間を吊るし上げたところでどうだというのだ?

ターゲットにされた「哀れな小羊」は他愛のない「微罪」なのに単に運悪くメディアに叩かれただけで人生棒に振る訳で、マスコミが「魔女狩り」のお先棒を担いで庶民を強迫しているようなもの。

本来伝えるべき事が他にたくさんあるというのに。

繰り返しになるが自分が幼少の頃はそんな出来事はニュースにすらならなかった。なったとしても「恒例、街の変質者出現」レベルだ。

刃物振り回すおかしな人間はいつの時代にも居た訳で、暑くなりゃ包丁振り回すキチガイなど珍しくもない。

「親殺し」も当時のほうが多かったようだし、「親殺し漫画」なんて少年誌に腐る程載っていた。真崎守作品はよく読んだものだ。そんなのに影響されるのはいつの時代にもいたし、その「親殺し」の間接的な行動が1960年代は「全共闘」だった訳だ。

当時のマスコミはそんな「親殺し」を散々煽っていたぞ。

「親殺し」は少年少女の必須な思春期通過儀礼としていつの時代にも存在する。漫画やゲームの存在しなかった時代にもね。

既存媒体に影響されて犯罪に至ってしまうのは常に何百万分の1かは存在する。それがキチガイだ。

だがそんな例外的なキチガイの存在に構っていたら子は親を乗り越える行為すら「全否定」しなければならなくなる。

そんなキチガイ放っときゃいいのだ。事実昭和40年代頃は放っとかれたしね。

今はただ「全共闘」運動のような「親殺し」の代りになるエネルギー放出の場がないのは事実だろう。

だがメディアが「世間から排除される若年層が追い込まれた末の犯行」と言うのなら、そんな世論を形成したマスコミ自体が共犯ではないのか?だがマスコミが自らの罪を認めるような事は一切口にしない。

こうしてマスコミによって一方的に「犯罪者予備軍」扱いされた青年はますます追い込まれていく。

小学校の頃のニュースはもっと視野が広くてグローバルな話題に満ちていたような気がする。

米ソ冷戦の中でも、宇宙開発とか何だか希望があった。

そんな希望を垣間見て「少年」は夏休みに夢を実践するのだ。

いつの時代にも年少者はテレビに影響される。

下らないキチガイルーチン報道に明け暮れていると、まともな「大人」は誰一人いなくなるよ。

もっとも今の小中学生はテレビなんて観ずにゲームに忙しいだろう。

ゲームの中の「仮想世界」のほうが「マトモ」なのだ。それを年少者はよく知っている。

実に賢明な選択だ。

だからマスコミは「仮想世界」に嫉妬しゲームや漫画、アニメを「犯罪の温床」として叩き続ける。

なんとみじめったらしいか。恥を知れマスコミ。

今の小中学生にとってはオールスターも通知表も高校野球も夏休みを印象つける要素ではないのだろう。

実は任天堂DSの中に「あの頃の7月21日」が存在するのかもしれない。

2008年、「夏休み」はゲーム機匡体の中に閉じ込められてしまったのだ。

なんとも複雑な心境である。


2008年7月 21日

「子供」と「子ども」

先日の朝日新聞に宮崎駿氏新作『崖の上のポニョ』についてのインタビュー記事があったので読んでみる。

1978年制作の『未来少年コナン』の舞台が2008年である事に改めて吃驚するが、当時の「美しき終末論」はいつしか霧散し、奇妙な不安に怯える「本物の2008年」がやってくるとは思いもよらなかったことはさておき、この記事で奇妙な部分がひとつ。

「こども」表記が全て「子供」になっていた事だ。

最近はやたら「こども」を「子ども」と記す傾向が強かったので、おそらく宮崎氏自身が表記を指定したのではないかと推測する。

「子供」を「子ども」に置き換える傾向は「子供」だと親の従属物という意味だから使うのはよくない、とかいう思想のせいだと聞いた事がある。

でも「子供」は「子供」と記してなんら困る事も当事者が嫌がっている訳でもないのだから、これまた一種の「言葉狩り」なのであろう。

所詮当事者不在の「聖人君子」ごっこの類な訳で、付合わされるほうはいい迷惑である。

子供は子供な訳で表記などどうでもよい。

だから宮崎駿氏もそんな「胡散臭い」思想を毛嫌いし敢えて「子供」表記にこだわったのだろう。

大人が子供を子供扱いするのは大人と子供が明確に違うという意識がある訳で、そんな意識を持つ大人がやたら表記に五月蝿い。

自分は未だかつて己を「子供」「大人」で区切ったことはない。

小学校の時の自分と半世紀近く生きた今の自分に「大人」と「子供」の隔たりなど一度たりとも意識したことはなかった。

早く「大人」になりたい等と思った事もないし、「子供」に戻りたいとも思わない。

自分は自分であってそれ以外の何ものでもないのだ。

幼少の頃から、自分を「子供扱い」する大人は嫌いだったし、成人になってからも「大人らしさ」を求めてくる人間には馴染めなかった。

そもそも自分は通過儀礼など一度も欲せずに生きてきた。

自分は5歳の時から基本的に変わっていない。

そんな自分からして幼少の人間の呼称をあれこれ規制しようとする「思想」は滑稽にしか感じない。

「児童」「子ども」を殊更口にし、規制の対象の媒体にしようとする人間はどこか胡散臭い。

おそらく幼少の人間を己の権利思想価値観正当化のために利用しているのであろう。

つまり「子供」を最も「子供扱い」している連中が「子ども」表記にこだわるのである。

「子供」は勝手に育ち、各々自分のあるべき姿になっていく。

己が「子供」ではなく「子ども」でなければいけないなんて子供からすればどうだっていいことだ。

48歳でも心は5歳でちゅー。

こういう「大人」はどう表記するのか聞いてみたいものである。


2008年7月 16日

「鉄子」は変態である。

今日テレビを観ていたら電車マニアの女性、つまり「鉄子」を特集しているトピックが放映されていた。

別に電車が好きなのは自由だし、自分の知り合いにも鉄道ファンの女性はいたから否定はしない。だがメディアで取り上げる程目立ってくるとやっぱり変なのだ。

普通に見える女性が貨物列車を追っかけして一喜一憂している様は奇妙である。

レールに刻まれた製造番号に詳しい女性もこの番組で紹介されていたが、裏に何か隠された意図があるんじゃないかと疑ってしまう。過去に自分を捨てた男を列車ごと爆破脱線転覆させようと虎視眈々と計画を練っている女ではなかろうかと恐ろしくなってしまう。

そもそも男のロマンたる鉄道に「穢れた存在」が入ってくる事にも抵抗感がある。

それに女性単独で電車追っかけなんて危険でもあろう。山里深いローカル線の脇で独りカメラを構える女性は何を考えているのか解らない。

悶々と電車の事を調べ尽くして悦に浸るのは絶望独身男性の専売特許だった筈だ。

そんな孤独世界に敢えて入ってくる女性の気がしれない。

プリクラ感覚でディーゼル機関車の写真を撮っているのだろうか?たとえ知り合いに鉄道ファンの男性が居てその影響だとしても理解に苦しむ。

女性が鉄道に興味を示したとしても良い事など何にもなかろうに。

「鉄子」というのはつまり、男性が女の服に興味を抱いた挙げ句、女装趣味に走るのと同じ。

つまり「変態」である。

最近そんな「変態男性」をよく目撃する事が多くなったが、いくら着飾ったとしても所詮は「変態」。

結局世間から奇異な目で見られるだけであろう。

だから女性の鉄道ファンは自分も「変態」の一員なのだという自覚を持ってほしい。

変態は変態なりの覚悟が必要だ。

鉄道ファンを語るからには人の迷惑など顧みず、己の獲得本能を露骨に発揮し、狙った獲物は逃さぬとの意気込みで活動すべきである。それこそがマニア道であって小綺麗にまとめて当たり障りのないレベルで「鉄子」を名乗るべからず。

風呂にも入らず、化粧もせず、垢だらけフケだらけで電車を追っかけて初めて「鉄道ファン」といえる。

アイドル紛いの「鉄道ファン」など信用に値しない。

そういう類は「風向き」次第ですぐに趣味を変え「何もなかったように」鉄道から去っていこう。

周りの評判など一切気にせずに「我が道を行く」でなければ鉄道ファンなど勤まる訳がない。

異常者呼ばわり覚悟で鉄に染まって初めて「鉄子」の資格がある。

だから「鉄子」は変態である。

これこそが明解な女性鉄道ファンに対する回答である。

間違っても「オシャレさん」ではないのだ。

勘違いしないでね。


2008年7月 14日

山手線の液晶画面に映る漫画

時々乗るJR山手線にはドアの上の所に広告やニュースが流される液晶画面が設置されている。

先日ふと眺めていると変な漫画が映っていた。内容は日本人女性とアングロサクソン系白人夫婦の「おのろけ」エピソードの類。

別に他愛のない四コマみたいな話なのだが陰鬱な気分で電車に揺られる絶望独身男性からすれば、まるで見下されているような感覚に陥って気分が悪くなる。

つまりこの漫画の作者(劇中の妻役が描いているらしい)の言いたい事はこうであろう。

「どう?私はこんな素敵な白人男性を夫に持った勝ち組女よ。羨ましいでしょう?

痴漢冤罪で訴えられないかビクビク毎日満員電車に揺られているクズ猿共御苦労様。

白馬に乗った王子様に選ばれた私はイエローモンキーたる下等な日本男子とは生きてるステージが違うの。こんな国さっさとオサラバよ。

私の夫は優越民族たる白人なんだから。お前らは一生、私の旦那様の奴隷よ。黙って御奉仕しな!

下等民族の日本男性はコキ使われてさっさとくたばりやがれ!このクズ共!」

この液晶からは通常音声は流れないが、確かに自分の耳からこんなメッセージが脳内に響いてきた。

自分は恐怖に駆られ、一目散に車内から逃げ出した。

なんと恐ろしい漫画であろうか?

こんな漫画を山手線で流したら、絶望独身男性を飛び込み自殺に誘発してしまうではないか。

JRは何を考えているのか、まったく理解に苦しむ。

更に最近、教育テレビで気狂いじみた番組を発見した。

「ハリセンボン」という女性お笑いコンビが奇妙な被り物をしてイケメンクリエーターの職場を訪問するという内容だ。

暫く観ていたが恐ろしい気分になってチャンネルを変えてしまった。

これは如何なる意図があってこんな番組を作っているのだろうか?

どんな器量のよくない女性でもイケメンと仲良く出来るという洗脳が目的なのか、あるいは被りモノでイケメンに接近して首根っこを掻き切る刺客養成番組なのか理解に苦しむ。

山手線内の漫画といい、教育テレビのイカレタ新番組といい、みんな狂っている。

キチガイ漫画なら自分もお得意なのだが絶望独身男性が発想する作品は一切公共の場には流される事はない。

常に婦女子発想限定である。

女性限定のキチガイ天国日本。

恐ろしい。


2008年7月 12日

携帯愚痴話

アイフォーンとかいう携帯電話が発売されたらしい。

アイポッドに電話機能が付いたようなモノだろうか。

携帯電話には酷い目に合わされ続けて罵詈雑言ばかり述べているが、このアイフォーンは単純にメカとして興味深い。スタートレックに出てきそうなアイテムなのでちょっと欲しい気はする。

もっとも通話基本料等月々最低でも8千円近く掛る。従来の携帯会社による「ボッタクリ」システムに組み込まれている事には変わらない訳で流石に手は出せない。

それはさておき、相変わらず携帯電話の受難は続く。

携帯電話の呼び出し音はカラフルで音楽に近いのだが、これが雑踏の中だとさっぱり聞こえない。着信音量は目一杯上げているのに電話が掛ってきた事に気が付かないのだ。

反面、部屋の中等静かな場所だと喧しい程響く。この差はいったいなんなのだろう?

身体に密着させてバイブ機能を働かせればよいのだろうがそうもいかない。出先でいちいち机の上に携帯を置いておくのも鬱陶しいし、何だか女々しい。それにうっかり置き忘れそうだ。

頻繁に着信の有無をチェックしなければいけないのはどうにも性に合わないのだ。

そんな折、先日原稿を入稿した印刷所から急な連絡が来た。ところがたまたま出先で携帯の着信に気が付かず、チェックしたのは印刷所の営業時間が終った後。

これじゃ何のために携帯を持ち歩いているのか解りゃしない。

頻繁にチェックする癖をつけるか雑踏の中でも解るような大音量の着信音にするかしないと携帯の意味がない。

しかし打ち合わせ中とか会合中や映画とか美術館の中ではそうもいかない訳で、携帯は猛烈に気を使うアイテムだということを改めて悟る。

だが若い婦女子のように頻繁に携帯をいじくり回しているごとき樣を大の男子が真似するのは堪え難い。

とりあえず着信音をチャイム調から黒電話のジリジリ音調に変更(着信音を変更出来る事を知らなかった)。多少は改善されるか?

やはり男たるものかつてのショルダーフォンのように重厚長大な軍用無線機サイズのメカを担いで電話するのがいい。

着信音は120mm 滑腔砲の射撃音。60cmスーパーウーハースピーカーからドンッと出る。

これなら着信に気付かない事はあるまい。

次世代アイフォーンはこれを目ざすべきだ。

女々しい携帯に振り回されるのはみっともない。


2008年7月 10日

版下制作の日々

ここ数日ずっと夏のコミケットで頒布予定のドラマCDのジャケットとブックレット原稿版下作業に追われ、日記更新も滞ってしまった。

カラー原稿もあるので普段の自費出版物よりエネルギーを使う。なにより自分の都合で締め切りを延ばせない緊張感で疲労度も高い。

世の中はエコエコ狂想曲だったらしいが版下作業に没頭していて気が付いたらサミットもあっという間に終っている状態。

新聞にはエコ特集の全面広告が幾つも載っている。まるで万博のごとし。10年くらい経って見返したらどんな気持ちになるか興味深いので残しておくか。

1970年代オイルショックの時は皆運命共同体な一体感があって死ねば諸共というか、みんないっぺんにお釈迦になるんだという雰囲気があったが、昨今のエコエコ騒動ははあからさまに生き残る人間と見捨てられる人間の構図がはっきりしてイヤな感じである。

政治もメディアも、もう見捨てられる人間の事など構う気はないらしい。

救命ボートの定員は限られているからその席を早めに確保して逃げ出そうと・・まあそんなところであろう。

ライトダウンキャンペーンなんていうのもやっていたが、ますます陰々滅々な闇を広げるだけで気分が落ち込む。

負のザワザワ感が肌で感じられる昨今である。

最近TVで活躍中のお笑い芸人の姿はある意味「逆クレージーキャッツ」であり「逆ドリフターズ」なイメージだろうか?

昭和元禄上げ潮時の馬鹿馬鹿しいドリフなお笑いと、何もかもが引いていく時代の虚しい平成飢饉コントとの温度差は計り知れぬ。

笑うべき対象が笑えない下げ潮の時代の寒い笑いは堪え難い。


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