2006年1月・2月・3月


2006年3月31日

スタニスワフ・レム氏死去。

先日、新聞の訃報覧を見ていたらポーランドの著名なSF作家スタニスワフ・レム氏が死去したという記事に気が付く。

自分の世代にとって最も影響を受けた海外SF作家のひとりだった。

『ソラリスの陽のもとに』等、この作家の暗くて内面的な描写は好きだった。氏の作品を読んでいなかったら、今の自分はなかったろう。

30年前、ハヤカワSF文庫で影響を受けたSF作家達は今どうしているのだろう。

アーサーCクラーク、小松左京等、すでに作家としての旬を過ぎて別分野で活躍されているようだが。

そのような「大御所」が次々にこの世を去る時代となったのは寂しい。

振り返ってもこの「偉大なSFの王道」を継ぐ者はもういない。

御冥福をお祈りする。


2006年3月23日

携帯電話の罠。

新学期シーズンなのか携帯電話売り込みキャンペーンが騒がしい。

携帯が爆発的に普及して「当たり前」の情報ツールになって久しい。

そういえば先日、ラジオで誰かがこんな事を話していた。

「家族制度を守りたければ携帯電話を禁止にしろ」

多分、少子化対策で政府が会議をひらいたとか、そんな話題だったと思う。

携帯に限らず、ネット社会がこれ程までに普及すると従来の人間関係は完全に維持不可能に陥る。いや、社会構造だけではなく「自己」の位置付けすらもはや意味を為さない。

外出先や会談時、目の前に自分の携帯を置く者が多い。特に女性だ。

もはや当たり前の「作法」となっているのか、この行為に誰も疑問を抱くこともない。

多分、本人は無意識なのだろうが、その行為が実は自ら己の意識を通信会社に「献上」していることを悟るべきだ。

彼女達は24時間、通信会社に「常時接続」されている携帯奴隷である。

情況は悪化の一途を辿っている。

最近、ファイル交換ソフトのウイルスによって個人情報が著しく漏洩しているという報道を耳にする。

データ化された情報は常にネット上に流れ出す危険性を孕んでいる。そして漏えいした情報は限り無く拡散し、それを消去する事は永遠に不可能だ。

気を付けて使用すれば万全という者もいるが、それは欺瞞であろう。

人は「常時接続」という環境下に置かれた瞬間に、もはや「自己」を維持出来なくなると考えた方がよい。たとえ本人が情報をデータ化せず、ネットへの接続を物理的に断ったとしても、生身の人間を介して自分の情報がネット上に流れ出す事は避けられない。

人と接する限り、己を利する情報だけでなく、己を害する情報もネットに流れ出す。人は必ずしも善意のみで接しているのではないだから。

そして「自己」は自分の意思に拘わらず、勝手にネット上にリンクされ、得体の知れない「巨大な意志」によって勝手にリモートされるのだ。

その「巨大な意志」が自室のパソコンや携帯からカビの菌糸のごとく伸びてきて自分の脳と融合し全てを呑み込んでしまう。

そこにはもう個人の自由意志は存在しない。

やがては世界中の全ての者が、たった一つののっぺりとしたホワイトノイズのような無味乾燥な「情報の更地」に支配されよう。

あとは時間の問題である。

かつての原子力と同じように「万能の利器」と讃えられたインターネットも、その危険性が露呈しはじめた瞬間から「死に至る道具」となる。

ネットが普及し始めて何年経つのか知らないが、薄々皆、この危険性に気がつき始めているだろう。

ネット推進論者は尚もその利便性を謳う。家電も医療も、果ては旅行さえネット上で処理され、人の五感全てがネット上を行き交うようになって「夢のような社会」が到来すると説くが、そんな世界が「夢」である筈はない。

そんなのは「死後の世界」を説くのと同じ。胡散臭いのである。

このネットを始めて6年近く経つ。

利便性の恩恵は随分と受けてきたが、もしかするとそれは単なる錯覚で、気が付かないうちにこのネット上に存在する「巨大な意志」に生体融合させられていたのではないかと疑う時がある。

そう、自分の情報がネット上に曝されるということは、ある意味ネット上に棲む「巨大な意志」の奴隷となることだ。

通信会社は相変わらずネットがバラ色の社会を産むと宣伝して末端装置である携帯やPC売り込みに必死だ。しかし、そろそろこれは恐るべき「罠」と知るべきだろう。

携帯、PCは自己崩壊に至る凶器にもなりえる諸刃の剣。

そう考えると、新たに携帯を買い替えるとか、パソコンを新しくとかする度に「自己」を崩壊させることにならないか。

少なくとも自分はそのような自己崩壊を促す機械を売る通信会社の奴隷にはなりたくない。

今のパソコンが壊れたり、10年近く使っているPHSが使えなくなったら敢えて買い換えを選択せずにネット社会から撤退する手もあるのだ。

先日、携帯電話ショップを覗く機会があった。

店員に徐に訪ねる。

「電々公社がちょっと前に扱っていた重さ10キロ近くあるバッテリーを肩にかけて通話するやつ。受話器も黒電話そのもの。自動車電話と呼ばれていた頃の携帯。こういう無骨な機種は残ってないの?」

ところが店員はそんな機種はもうないと言う。

利便性をまったく無視した携帯なら敢えて使ってやろうかと考えていたのだが残念の極み。

それなら10年前のPHSを買い替える理由は何もない。

機種変更せずにウィルコムで使い続けることも可能と聞く。

それも一興か。


2006年3月21日

ベースボール「世界一」。

やっとタイミングが合って仕事の合間に「ベースボールクラシック」の生放送を2試合続けて観る事が出来た。

決勝戦のキューバ戦より準決勝の韓国戦の方が実質的に「真剣勝負」という感じに思える。

韓国に2回続けて惜敗して惨めに帰国と思いきや、奇跡的に決勝トーナメントに進めた訳だから日本ナインもやっと「本気モード」に入ったのかも知れない。それでも韓国に3連敗してもおかしくない情況だったから観ている方も力が入った。

ただ単純に野球の試合として観た場合、韓国、キューバ戦共々大味で微妙な駆け引きとかがなく、逆転シーンもなかったので今一つ熱戦というレベルではなかった。やはり国内でのプロ野球とか高校野球で慣れ親しんだ「日本の野球」とは別のスポーツに感じられる。

あと、国を代表して闘うチームにしてはスター選手が少ないのもボルテージが上がらない理由のひとつ。

最近、プロ野球から離れてしまったので、知っている選手が殆どいない。精々イチローと松坂くらいか?

他は何処のチームの選手かすらも知らない。春先ということでスター選手が参加しにくい時期に開催されたのも原因の一つだろうが、サッカーワールドカップと比べると選手層に見劣りがする。

「巨人大鵬卵焼き」の時代に育った世代からすると王、長嶋をはじめ12球団のクリーンアップに名を列ねていた猛者が現役で出場していないとどうにも腰が重い。そんな30年前のプロ野球黄金時代と比較すると、やはり今はマイナースポーツという印象が否めない。

大会前の「イチロー発言」や疑惑審判の「活躍」がなかったらこの「ワールドベースボールクラシック」も大して盛り上がらずに終っていたのかもしれない。

あと、球場の広告の大半が日本企業であることも妙に気になるし。

ただこのようなワールドワイドな野球大会が開かれたのも、野球の凋落を危惧するアメリカの大リーグが音頭取りになったと聞いているので、まったく新しい視点から野球の面白さを再発見するきっかけになった事は確か。

競技人口がサッカーと比べて桁違いに少ない野球が今後ナショナリズムを鼓舞するようなスポーツになり得るかは未知数。

でもフリーエージェント制度でチームより自分のことしか考えない選手ばかりが幅を聞かせる今のプロ野球や旧態依然の化石のような高校野球よりは魅力的な「野球」が見れる大会になりそうだ。

これからの球児(死語)の夢は巨人軍入団より日本ナショナルチームに選ばれる事になるのだろうか?


2006年3月17日

電車内の気狂い婦女子。

いつしか水温む季節になった。

昨年の12月から1月にかけての厳寒がきつかった分、3月の比較的暖かい日々はホッとする。

庭では椿がほころび、ヒヨドリが蜜を吸いにやってきた。

さて、春が近くなったせいかどうか知らぬが、先日電車内で破廉恥な光景を見た。

ローティーンの婦女子5〜6人が喧しく騒いでいる。尋常なレベルではない叫び声が車内一杯にぎゃーぎゃー響く。

その内容も酷い。

男子すら憚るような下ネタをその婦女子共が連発させているのだ。

「騎上位!騎上位!ギャハハ!きいいい!」

酔っ払いだって口にしないであろう破廉恥下劣極まりない言葉を素面な婦女子が臆面もなく狂ったように捲し立てている。腰から上をびよんびよん身体を跳ね上げ金切り声で猥褻用語を連発する様は正に狂気。

これがズベ公やパンパンならまだ納得出来ようが、いたって普通な風貌の女子高生集団だから理解に苦しむ。

昨今、車内での化粧や飲食、携帯メールと場を弁えない婦女子が増えているが、ここまで酷い婦女子集団は初めて。

そのうち、排尿排便やナプキン、タンポン交換まで厭わない婦女子が現れるのではないか。

動物並みに堕ちた婦女子。だが誰も注意する者はいない。他の乗客は遠巻にして一切関らないように身を小さくするだけ。

これではまだ痴漢の方がまだマトモに思えてくる。

電車内での気狂い婦女子の乱心は、今後増々エスカレートしていくだろう。

恐ろしい。


2006年3月16日

ワールドベースボールクラシック。

仕事が忙しく、タイミングも逸してまだ一試合もライブで観ていない「ワールドベースボールクラシック」。

今日の時点で日本チームは実質的に決勝トーナメントに進めそうにないらしい。試合経過を聞いた限りではアメリカにインチキジャッジで負けて、韓国には気迫で負けたようだ。

フリーエージェント制度が導入されて以来、プロ野球に関心が無くなっているのでどうでもよいのだが、この敗退は日本の野球、スポーツのみならず、日本の全てが堕落、衰退の果てに諸外国から舐められはじめたという事実を如実に表わしたよい例であろう。

アメリカはもう日本の味方ではないし、韓国も国力を増長させ、もはや侮りがたい存在となっている。

にも拘らず日本だけは三流後進国並みの愚鈍を曝け出し黒星を重ねる。

アメリカはゴリ押しでデタラメを「正義」にする程のパワーを持っているし、韓国は徴兵制度下に生きる若者が死にものぐるいに闘ってくる訳だから、日本もそれ相応の対処を考えるべきだったのだ。

ところが、まあ呑気というか勝負する気迫の無さというか「取りあえず一流選手を集めたんで何とかなるだろう」的な生ぬるい姿勢で試合に挑んだ挙げ句、みっともない結果しか出せなかったという事。

このような屈辱を被ったからには、徹底的にこのチームを叱責非難断罪し、国家の代表として恥を曝した責任を追求し今後の戦略に繋げるのが当然の処置。

ところがマスコミの馬鹿は「よく頑張りました」とか「韓国強いですね」とか愚にも付かない戯れ言でこの情況を「女の腐ったままごと」化して事の本質をすり替える。

更には韓国民が対日戦に勝利して喜ぶシーンを平然と流し、日本国のプライドを汚した屈辱的敗北に憤怒する日本男子の心を陰湿に傷つけ続ける。

いったい何処の国のメディアだ?恥を知れ。

日本メディアは今や、女子トイレの汚物入れのごとく、汚らしい使用済み生理用品をぶちまけた様相を呈している。下層階級の婦女子を喜ばせるためだけに機能しているようなメディアに日本人のプライドと団結を促す本来の役割を期待する事自体無理というもの。

挙げ句の果て、真っ当なスポーツマンはメディアから消え去り、残ったのはサラ金パチンコCMの合間に顔を出すチンピラ擬きの胡散臭い連中ばかり。こんなのは国家を代表するアスリートに値しない。

日本スポーツ界はもはや国際大会に参加する品位すら失った。

いっそのこと、サッカーワールドカップも早々に参加を辞退する方が賢明だ。

結果はおそらく、ワールドベースボールクラシックよりもっと惨めで屈辱的醜態を見せられる羽目になろう。

そんなのをテレビ観戦するよりは、犬の散歩がてら荒川河川敷で草野球や草サッカーを眺める方がまだマシだ。


2006年3月12日

四半世紀の時空の歪み。

先日、何年かぶりに大学サークルの後輩と会う機会があった。

彼は名古屋方面で情報誌のフリーライターを勤しむ。卒業後、自分と同じフリーランスの道を歩んでいるので同世代にして価値観が合う希有な存在だ。無論独身であることは言うまでもない。

この際、久しぶりに母校周辺でも覗いてみるかと多摩都市モノレールで大学の最寄り駅へと赴く。

無論、在学当時はこのような交通システムはなかった。後輩は久しく東京から離れていたため初めての乗車。車窓からは懐かしい風景が広がる。

後輩はこのモノレールの最寄り駅から程近い所に下宿していた。そこで早速そのアパートを訪れてみることにする。

ところが周辺の様子がすっかり変わっており場所を特定出来ない。

モノレールの開通によって宅地化が進んで、もう当時を思い起こさせるあらゆるモノが消え去っていたのだ。唯一昔からあった送電線の位置を頼りに彷徨ってみるが、そこにはアパートの姿など跡形もなく綺麗な一戸建て住宅が整然と並んでいるだけであった。

なにせもう25年近く経っているのだ。そう25年である。

よくよく考えると恐ろしい程の時間の経過なのだ。

自分の中ではついこの前の事のようだった学生時代の諸々の記憶が、すでに四半世紀過去の出来事であると認識した瞬間、この時空間における己のポテンシャルの奇異さに驚嘆するのである。

周りはこんなに変わっているのに何故に己の内在する時間の経過はこれ程までにゆっくりなのか?

まるで数億年に渡る造山運動を2時間のテレビ映画で見るのごとし。

その一方で、まったく当時と変わらないモノもある。

学舎の近くに店を構えていた古ぼけた食堂がそのまま残っていた。25年前と全く変わらない。看板さえ同じまま。更に大学中庭の図書館前の階段に腰掛けると、何故かそのまま教室に入ってこれから4時限目の授業を受けられそうな錯覚に囚われる。

これまた不思議な感覚である。

25年も経っているのにその時間差が全く感じられないのである。まるでワープ航法みたいに。

だが、学内を歩く在学生の姿を見ると明らかに未来世紀の人々。ハマトラファッションも聖子ちゃんカットも居ない。

服装も備品も「未来」である。彼等の手に握られた携帯電話を見た時、ここは1981年ではなく2006年である事を知るのだ。

たしかに時は経っている。

夕方、かつて後輩が住んでいたアパートがあったであろう場所の近くに出来たファミレスに入って暫しこの不思議な時空間の歪み感覚について語り合う。

この25年間、自己の内面を激変させるものは何もない時代だった。我々が幼少、あるいは学生時代に勃興流行した『ガンダム』も『ウルトラマンシリーズ』も今尚「現役」で作られ語られてつづけている。それらは「過去」ではないのだ。20才以上歳が離れている者達同志でもこれで共通の話題が成立してしまうのだ。

つまりそのような若年期に慣れ親しんだ価値観は不変だったのだ。

一方で情報ツールの革命的発展やバブル経済による街並の激変、ニートの恒常化で結婚や出産がむしろ希有な「通過儀礼」と化してしまった社会構造の急変貌は、まったくの予想外。

25年後も、結婚出産を経験せぬまま『ガンダム』を語っている「未来」。

このアンバランスさが、この奇妙なパラドックス的「気味の悪さ」に繋がっているんじゃなかろうかと。

もしかすると何処かで時空の歪みに巻き込まれて自分達は「別の時系列世界」に飛ばされたんじゃないか。

もし、その時空の歪みに呑み込まれていなかったら今この時でも、あのアパートは存在し、ハマトラファッションも健在だった一方で、『ガンダム』は記憶の果てに消えて、携帯やネットも存在しない世界の中、「高度成長的ガンバリ」で妻子を養うという「当然予想された2006年」があったのではないか。

そんなどうでもいい妄想事をサイゼリアのドリンクバーを際限なくおかわりしながら語り合っていると、外は徐々に闇に包まれはじめる。

「そろそろお開きにしよう」

風向きが北に変わった夜の八王子。ふとこの闇の中から25年前の仲間達がふらふらっと現れて「正しき2006年」に引きづり込まれそうな幻覚を見る。

後輩は語る。

「今までは結婚や出産の便りで仲間達の消息を知リましたが、これからは訃報ですかね」

帰りの多摩都市モノレールはまるで黄泉の國に向う時間列車のごとく闇の未来へとゴトゴト走っていった。


2006年3月5日

身体の「活動限界」。

気が付くと3月に入っていた。2月が存在した感覚がない。

確かにオリンピック等、大きいイベントがあった月であるから記憶にないという訳ではないが、何か快速で「2月」という駅を通過してしまったような気分。

最近、年相応の身体変化に戸惑っている。

思春期を迎えた頃と情況が似ている。あの当時は急に喉仏が出てきて声が低くなったり、体毛が生えてきたりと「大人へのメタモルフォーゼ」に吃驚したものだった。とにかくずっと子供で居たかった自分にとって身体だけが大人になっていくという必然が受け入れがたかった。

鬱陶しい大人の世界などお断りだったのに勝手に「大人」がやってきたのだ。タカラの『人生ゲーム』と同じ不快感だ。あのゲームはコマを進めていくと「自動的」に結婚や出産が待っているが現実にはそんなものはやってこやしない。

よく早く大人になりたいとか、尾崎豊の『卒業』みたいな歌に共感する者がいるが、全く理解出来なかった。現実の大人の世界に対して一切の期待も夢も憧れも感じなかった自分にとって「大人の世界」イコール刑務所のような場所にしか思えなかった。

そして今、40台半ばにして、またもや「招かれざる通過儀礼」がやってきた。

精神年齢は今だ20代前半。人生経験もそんなレベル。

男は40を過ぎれば、重い社会的責任と経験に裏付けられた風格を醸し出し、確固たる地位を築くのが当たり前。家庭を持つのは当然だし、一家を支える大黒柱として、そして社会の中核的世代として活躍しなければならぬ。

40半ばにして立たねば、何が男か。

ところが自分にはそんな風格に値するものは微塵もない。今だ青臭く暗中模索状態。

にも拘らず、身体は正直にも年相応の弱体化を示し始めた。

著明なのは老眼である。

もともと近視なのにそこに老眼が入ってくるから、近いものまで見えにくくなる。仕事上、常に細かい作業で原稿から10cm位の距離しか見ていないのにそれが難義になるのは困ったもの。今の処はやっと自覚症状が出た程度のレベルだがいずれ遠近両用のメガネが必要になってくるのだろう。

全くもって忌々しい。

精神だけは若いのに身体だけは勝手に成長し、勝手に老い朽ちていく。

人はこの魂の器たる身体の呪縛から逃れる事は出来ない。

そしてその身体には「活動限界」があるのだ。

男に更年期障害があるのかは知らないが、勝手に歳を重ねていくこの身体との「タイムアタック」が否応にも強いられるのだ。

身体の「活動限界」が来る前ににやり遂げねばならぬ事が山ほどある。なのに作業に掛かる時間は歳と共に長くなっていく。如何ともしがたい。

新聞にニートの「高年齢化」が著明になったとの記事があった。

仕事も学業にも就かぬ者の年齢層が高くなっているそうだ。

だが、思うにニートがそれほど世間で目立った存在として感じられる事は、実はあまりない。

騒いでいるのはメディアと行政府だけ。引き蘢っているから目に付かないだけか?いや何かが根本的に違う。

定義のあやふやなニートと呼ばれる存在は本当に特殊な「階層」なのだろうか。

本当にこれまでに存在しなかった「階層」なのか?

そもそも仕事も職業訓練も学業も受けていない人間とはどういうものか?

かつてそんな存在が当然の社会的地位を確立していた「階層」があった気がする。

そう。それは専業主婦である。

解釈によっては専業主婦もニートの範疇に入ろう。が、専業主婦は決して恥ずべき「階層」ではなかった筈。が、今やその専業主婦が減って職に就く女性が増えた分、それに押し出された格好の若年男子が「いらない人間」としてニートというレッテルを貼られていると考えられなくもない。

すると、仕事も学業もしない者の人口比率は、実はあまり変わっていないのだ。

専業主婦とニートが入れ代わっただけ。

ただ専業主婦は育児という重責を担っていたが、ニートにはそんなものはない。ただの食い潰し「うんこ製造機」である。だがそれは仕方なかろう。男に子供は産めないし、乳も出ない。

これは少子化社会の必然の現象だ。それを裏付けるように、この記事と同じ紙面に「団塊Jr.女子の50%は30歳時点で子供を産んでいない」という統計記事があった。それだけ育児に専念するはずの「専業主婦」が存在しないのだから、子供が減るのは当たり前なのだ。そして本来子育てしているはずの女性が社会に出て、若年男性の職を奪い、ニートの増加に貢献しているのである。

だが社会に出た女子は単なる使い捨て労働力として酷使され、かつて若年男子が担っていた社会の健全な発展と革新には何ら寄与しない。一方ニートとなった若年男子は子を産み育てる機能を有していないので、少子化もまったく改善されず悪化の一途だ。

健全な変革も起きる事なく、子供も生まれないただ年老いて行くだけの衰退スパイラル社会がこうして出来上がる。

出産適齢期の女子がその権利を行使せず、社会を変革すべき役割を担う若年男性がニートとして虐げられる。そんな者達がどんどん高齢化して本来の「あるべき人生」を逸しているのだ。そのような者達の行き着くところは即ち絶望であろう。

彼等はいつしかこの「絶望ジェットコースター」に乗せられて破滅コースをまっ逆さまに下り始めた。今更気が付いたところでもう遅い。乗客は叫ぶ。

「下ろせ!下ろしてくれ!俺達はだまされた!ニートニートなんて聞えはいいが所詮いらない人間じゃないか!このままじゃ廃物処理場行きだ!PSEマークが付いてない中古電化製品と同じじゃないか!助けてくれ!助けてくれ!」

しかし、この「絶望ジェットコースター」は止まるどころか増々加速して奈落の底へとまっしぐら。

周りでは、結婚し子を設け正職に就いている「選ばれし幸いな者」達が哀れみと嘲笑をもってそのジェットコースターの行く末を眺めているのだ。

恐ろしい光景である。

この運命から脱する手段はただひとつ。このような「絶望ジェットコースター」を「量産」する社会を自らの手で叩き潰し、生き残る闘争に参加することだ。

だが「絶望ジェットコースター」に乗ってしまった者に恐らくその気力はないだろう。

為されるがままに堕ちるだけ。

魂の器たる「身体」は歳と共に老い朽ちていく。

少子化とニートの増加は連動して、人々の希望を奪っていく。

「活動限界」は残り少ない。


2006年2月28日

「秋葉系」紹介番組。

最近、テレビでたまに目にする秋葉原「萌え」紹介番組。

「電車男」以来、マスコミのネタとして「秋葉系」男子を「面白可笑しく」取り上げるのが流行っているらしい。

パターンは大体同じ。

まず、萌系店鋪とそこに群がる奇妙な男達の映像を流して視聴者にこの街の持つ特殊性を印象付ける。更に昔ながらの電子部品店と再開発のインテリジェントビルや「ヨドバシカメラ」を対比させて、秋葉原の過去と未来を暗示させるという構成だ。

番組には必ず「秋葉系」の代表格みたいな人物が複数登場し如何にもそれっぽい「珍道中」を繰り広げる。なぜかどの番組も同じ面子だったりするのが不思議である。

そしてなんといっても大きく取り上げられるのは、ネオおにゃんこクラブみたいな萌系アイドルグループや「メイド喫茶」だ。

この手の萌産業が騒がれて久しいが、お店で働くメイド服を着た女の子達と客席にいる男達の対比が「如何にも」な雰囲気を醸し出しす。

だがしかし、これらの「秋葉系」紹介番組は根本的に何かが間違っている。

何処の量販店でも購入出来そうな商品を、わざわざ秋葉原で買うシーン等は滑稽ですらある。

そもそも「萌」の定義付けがおかしい。

「萌」なるものは本来、感覚的なもの。言葉として普通の会話ではあまり口にするものではないと思うのだが。それに「秋葉系」にとって「萌」はすでに手垢に塗れ、旬を過ぎたムーブメントになりつつある。

にも拘らず、これらの番組では「萌」は今尚「秋葉系」男子の必須合言葉かシュプレヒコールかのごとく紹介している。その時点でもはや「秋葉系」の本質を見誤っているのではなかろうか。

いや、実は「秋葉系」の本質など制作者にとってはどうでもよい事かも知れない。単なる特殊な存在としてのレッテル張りがこの番組の目的だとすれば合点がいく。

今に始まった事ではないが、マスコミは取材対象を持ち上げるだけ持ち上げて、いずれはそれを叩く材料として活用する。

最近ではホリエモン騒動然り。

結局、この「秋葉系」紹介番組も将来叩くべき対象としての布石かも知れない。

だからこの手の番組が目立つという事は必ずしも「秋葉系」男子が市民権を得たという意味ではないのだ。

むしろ、これから本格的に弾圧される前触れとして警戒すべき現象と捉える方がよさそうだ。

「メイド喫茶」や「美少女同人誌」「18禁ゲーム」等の「萌」アイテムは摘発されるボーダーラインギリギリの処で成立している部分もある。世間の関心が高まれば高まる程、司直の介入を許す危険が増す。

「秋葉系」男子は今やスケープゴートとして処刑台への階段を登らされているのかもしれぬ。


2006年2月24日

女子フィギュアスケート。

注目されていたオリンピック女子フィギュア日本選手三人組だが、結局、荒川という人が金メダルを獲得。村主と書いて「すぐり」と読む変わった名前の選手が4位。

そしてやたらマスコミに追っかけられていた愛称ミキティとかいう選手が15位という結果。

エリート二人組の実力派に交じって、おっちょこちょいでお茶目キャラクターの女の子が挑むという構図はひと昔前のスポーツ根性モノ少女マンガの王道。

なにかと評判の悪い「ミキティー」であるが、お茶目ダメッコ娘が、結局マスコミの雑音を一身に受けて「被害担当艦」を演じ、残り二人の選手を生かしたという点では、ある意味功労者であろう。

にしても金メダルを獲得した選手はこれからが大変だ。

彼女は表彰台の上で「君が代」を口ずさんでいたが、帰国後メディアの恰好の餌食となって食い尽されないか心配だ。

オリンピックメダリストの栄光の期間は短い。

相当な覚悟と摂生と強靱な忍耐力がない限り、商業至上主義に潰されよう。つまらぬスキャンダルに巻き込まれて、行き着くところは「場末の安タレント」だ。マラソン選手然り、モーグル選手然り。

すでに、この金メダリストは陳腐なお米のCMで恥を曝している。メダルを獲得した直後からこの有様だから先が思いやられる。

金メダリストが国家の英雄として末永く讃えられるためには、実はこれからの人生の方が重要なのだ。

気を許せば、あっさりと白人の妾と化そう。

人間の堕落は栄光よりも容易く訪れる。

警戒せよ。


2006年2月19日

COMITIA75来場感謝。

曇り空のぱっとしない天候の中、ビッグサイトまで足を運んで頂いた読者の方にこの場を借りて御礼申し上げる。

当日はコミティアの他にワンフェスという模型の展示即売会があったらしく、朝のビッグサイト前には若い男性の長い列が出来ていた。こういったマニアックな趣味のイベントに毎回これだけの人が集まるのを見て、奇妙な感慨に耽る。前回のコミティア開催時にはアイドルグループの握手会でこれまた濃い女性の集団が何万と蠢いていたから、ビッグサイトは諸々の趣味ジャンルのウラン濃縮工場みたいなものか。

それはさておき、コミティア。

なぜか配置されたジャンルが「SFファンタジー」。いつも少年マンガジャンルで申し込んでいたので不思議。申込書に間違えて書込んだのだろうか。まあでもこのジャンルでも別段構わないのだが。

さて前回に続き、会場内に食品を扱う出店がない。一旦外に出ないと食料を調達出来ないのは億劫だ。特に、10時半から30分、再入場が出来ないため不便であった。

もっとも半日くらい飲まず食わずで平気なので我慢すればよいことだ。実際そうしているので大丈夫。

今回はスケッチブックを数多く頼まれた。12月のコミケでも多かったので、流行りなのだろうか?イベントでのスケッチブックは如何に手早く完成度の高い絵を即興で描けるかの訓練になる。

とはいえ遅筆の自分にはかなりのプレッシャー。たいした絵も描けず、依頼された方には申し訳ない。

寒い一日だったが、無事イベントを終える事が出来た。

次回も宜しくお願いします。


2006年2月18日

COMITIA75参加のお知らせ。

恒例オリジナル同人誌展示即売会コミティアが、明日東京ビッグサイトで開かれる。

今回もいつものようにサークル参加します。

COMITIA75(2/19東京ビッグサイト東1ホール)のスペースはG14bです。

会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。

宜しくの程を。


2006年2月16日

「未解決!御近所のお節介」

NHKテレビで放映される欺瞞的価値観押し付け番組「解決!ご近所の底力」

以前から忌々しい内容ばかりで胡散臭かったのだが、今回は「ネコの飼い方」にまで注文をつけてきた。

どう考えてもネコに愛情を持つ人間が企画したとは思えない内容。

ネコの習性や数千年に渡る人間との関りあいを無視して、ただのモノ扱いのように「近所の都合」を優先させるだけ。生き物を何だと思っているのか?

ネコの魅力は「自由」である。

ネコは気紛れに行動し独立心が強い。それがネコ科動物の特徴。集団で行動する犬科動物と違って主従関係ではなく、付かず離れず対等な関係が面白いのだ。

もともと、ネコは穀物を荒らすネズミ退治のために人間に重宝された動物である。

放っといてもネズミを捕ってくれる訳だから、本来鎖で繋いだり、ケージの中で飼う動物ではないのだ。

ケージに入れたら、もはやそれはネコではない。

ところがこの番組ではネコを無理矢理屋内で飼う事を強要し、ケージに押し込み、本来のネコの自由さを奪う事を奨励する。人間の都合だけで事を納めるという身勝手な論法で何でも解決出来ると思うのか?

むしろ、ネコが自由に闊歩出来ない「御近所」こそ改めるべきなのだ。

野良猫一匹いない街が健全な社会とでもいうのだろうか?

そんな社会こそ異常だ。

昨今、やたらと動物や植物、樹木に対するクレームをつける者の声を大きく取り上げる傾向にあるが、そんな「生き物を愛でる心」を持たぬ偏狭な人間こそ矯正すべき対象ではないか。

土佐犬を放し飼いにする等は論外としても、ネコが敷地に糞をするぐらいで目くじらを立てる輩をいちいち相手にする必要が何処にある?

やれ「トユが詰まるから落ち葉なんとかしろ」とか「見通しが悪くなるから剪定しろ」とか「子供の安全が確保出来ないから公園の樹木を伐採しろ」とか、そんな文句をつける「御近所」こそ異常なのだ。

かつては、広い庭があるのが当たり前で、落ち葉はよい肥料となってむしろ歓迎されたものだ。散歩の犬の糞さえありがたかった。ところが昨今の「土地の有効利用」とかいう狂った思想が蔓延すると、庭は潰され、駐車場やマンションと化し、落ち葉は「ゴミ」として扱われるようになった。落ち葉焚きすら出来ず、街全体が「過剰な潔癖症」に罹ってしまった。

そんな「病人の街」の基準を押し付けられてはたまったものではない。

ネコが自由に闊歩出来ない街は息の詰まる刑務所みたいなもの。街全体がケージだ。そんな牢屋みたいな街に希望も未来も自由もない。

改めるは「病」に罹った「御近所」そのものの常識であろう。

ネコが自由に暮らせない街作りを奨励する「解決!ご近所の底力」という番組こそケージに閉じ込めるべきだ。

因にこの番組で「ネコはベタベタするものが嫌い」と紹介していたが、翌日、民放ペット紹介番組には「粘着テープが好きなネコ」が出てきたがこれ如何に?


2006年2月14日

絶望バレンタインデー。

先日、近所の小学校通学路で下校中の児童グループに遭遇した。

女子児童は口々にバレンタインデーの事を話題にしている。自分等が小学生の頃は、こんな風習はなかったので、恋愛至上主義の影響がこんなところまで蔓延していることに吃驚する。

それはさておき、義理チョコすら縁のない自分にはどうでもよいことなのだが、近年バレンタインデーに異変が起きているらしい。

義理チョコは廃れて、女子が自分のため、あるいは同性の友達にチョコレートを配るいわいる「友チョコ」とかに移行しているとか。もっともこの風習の起源を辿れば菓子業界の販売促進キャンペーンの一つに過ぎない訳だったから、女性が男性に「愛の告白をする日」でなくても別にチョコさえ売れれば動機は何でもよい。

それが昨今のフェミファシズム運動とシンクロして、まず「男性弾圧」ありきのイベントと化した。

女性が金銭負担までして好きでもない男性に義理でチョコを配るなどもってのほかという訳だ。

フェミファシストからすればバレンタインデーは女性が男性に隷属する象徴的な日であり、何としても取り除かねばいけない悪しき野蛮な風習なのだろう。

だからメディアを総動員して「義理チョコ」を根絶し「女同士」「女自身」の為にのみチョコを購入するキャンペーンを繰り広げていると考えた方が合理的だ。

女子は自分のためだけにチョコを購入するとなれば、いわいる「もてない男性」は増々阻害され、男女間の憎悪が増幅される無限スパイラルは一層強固なものとなる。

もはや恋愛不適格男女が反目しあう憎悪の日と化した「バレンタインデー」。

こんなおぞましい日はさっさと無くなるべきかもしれない。

トリノオリンピック。

メダルが期待されていた競技で尽く日本選手の成績が振るわない。

もっとも、メダルが獲得出来なかったのにも拘わらずニコニコしながらテレビに出演して「満足してます」等と宣う程度の選手ばかりなのだから、最初から結果は見えていたと言うことか。

ハーフパイプとかいうスノーボード競技を観ていたのだが、メダルを獲得したアメリカ選手とのレベルの差はあまりにも歴然で、どこが「日本のメダルが期待出来る種目」なのか皆目解らない。

どうせ勝ち目がないのならば、ボードの裏に『エウレカセブン』の絵でも描いて、ジャパニメーションのキャンペーンに一役買うぐらいの工夫はしろと言いたい。

ダメ人間にはダメなりの「特技」があるはずだ。それが「生き残る知恵」であろう。

それすら見出せない生き物はただ消え去るのみ。存在価値無しである。

昨今の日本の凋落を観るような「日本選手団の活躍」ぶりで如何にも滑稽。

いっそ受け狙いで世界に恥を曝すのもよかろう。もっとぶざまなシーンを連発してもらいたいものである。

どうせ本国国民はオリンピック観戦よりパチンコに精をだし、テレビは「ゴミ屋敷」を追っかけることに御執心なのだから。

こんなカス国家にメダルなど烏滸がましい。

精々、泥メダルで十分である。


2006年2月11日

『虹と雪のバラード』

トリノオリンピックが始まったせいか、ラジオ から時々『虹と雪のバラード』が流れる。

1972年札幌オリンピックのテーマ曲(?)だ。

この曲が流れると記憶がフィードバックしていく。人生最初に心を揺り動かされた楽曲とも言えようか。ちょうど中学生になったばかりの頃だ。70m級ジャンプの表彰台日の丸独占で、やたらジャンプがブームになり、公園の滑り台では餓鬼共がスキージャンプの真似事に興じていたのを思い出す。

ジャネット・リンというフィギュア選手もいたな。今の選手と違ってプニプニプヨプヨなところが時代を感じる。

それはさておき、いわいる大規模なイベントにポップス調のテーマ曲が作られることがまだ新鮮な時代で、それが独特なインパクトとして記憶に刻まれたのかも知れない。

その意味では『虹と雪のバラード』は革命的でもあった。

閉会式直後にNHKテレビがこの曲をBGMにした回想的なフィルムを流したのが印象的。

なにかこの映像と曲がリンクして強く心に焼き付いているんだな。

それから34年、テレビから流れるトリノ冬期オリンピックの開会式映像をぼうっと観る。

80年代洋楽ポップスメドレーをバックに入場する各国選手はみなニコニコだらだらしていて緊張感がない。彼等の多くは札幌オリンピック後に生まれた世代。

国家を代表して、これから死闘を繰り広げるという闘志が伝わらず、応援したい気持ちになってくれない。

「まあ、好きにすれば?」という気持ちしか抱かせないのは、プロアスリートとして失格だ。

スポーツを通じて人の心を揺り動かす事が彼等の使命であるはず。自分が楽しむだけでの競技参加あれば、実費で観光客として行けばよいのだ。

特に最近の若い女子選手には応援したいという気持ちが全く湧かぬ。日本女子選手のニヤついた顔には我慢ならない。

本来なら負けた時、自決するための懐刀を携えて悲愴感漂わせ、震え泣きながら白装束で行進するのが大和撫子の真の姿だ。なのになんなのだ。あのニコニコした笑顔は。

そもそも女性は「穢れた存在」。

穢れしモノが八百万の神の國を代表するなどもってのほか。

また、女性は裏切る存在でもある。

たとえ栄冠を手にしても、国家に殉ずる事を放棄して、白人の妾や愛人になってしまう「国家の裏切り者」に堕ちた女子アスリ−トをこれまで何人も見てきた。

今回のオリンピックにもフィギュア・ペア選手の中に日本国籍を捨ててアメリカに帰化し米国人として出場している日本女子がいる。

こんな裏切り者、スパイだらけの日本堕落女子選手が含まれるオリンピック代表を心から応援するなど誰が出来ようか?

負ければ切腹、自害覚悟の日本女子は何処にいる?

否。何処にも居ない。

負けて死する覚悟がないのなら、堕落日本女子は選手村から直ちに退去し、トリノの白人専用売春小屋で働くのが相当だろう。

一方オリンピック全体に関してだが、最近増えた競技が面白くない。

モ−グルとかスノーボードの何処がオリンピックに必要な競技なのだろう。これが認められるのならば以下のような競技もオリンピックに加えよ。

ワカサギ釣り

読んで字のごとし、凍結した河口湖で規定時間内に何匹釣れるかを競う。一見地味な競技のようだが、女子選手はテニスのシャラポアやヒンギスのようなユニホームで挑むので視聴率は稼げる。

雪上放尿

雪の上に放尿して絵画を描き、芸術点を競う。

あるいは、氷点下の屋外で失禁し、どれだけ耐えられるかタイムを競う。

アニソンジャンプ

ジャンプ中にアニメソングをどれだけ噛むことなく歌い上げられるかを競う競技。日本選手に不利なルール改訂が続くジャンプ競技下で唯一、日本のお家芸が発揮出来る種目。

雪上ニート

雪原にかまくらを作り、その中に何日間も何もせずに引き蘢っていられるかを競う。

氷上号泣大会

絶望独身男性がリンクの上で全裸で号泣し、女の子に甘えたいと哀願する競技。いかに女の子の同情を買うかで得点を競う。優勝者には母乳を与える。今の日本では最もメダルを狙えるチャンスが大きい。

如何であろうか?

不良がゲレンデで遊んでいるような戯れ事をオリンピック競技として認めるのならば、上記のような競技だってあるべきなのだ。

やはり、今のオリンピックはどこか歪んでいる。


2006年2月10日

ニートの日

きょうはニートの日である。

2月10日だからニートなんだそうだ。

朝日新聞に「ニート」が変な仮想をしてデモ行進している写真が載っていた。世間に認めてほしいというアピールなのだろうか?主旨がよく解らない記事だった。

同じ「仮想」でも「火葬」してもらう方がニートには相応しい。

いっそ火葬場に押し掛けて炉に飛び込むパフォーマンスをすべきなのだ。

因に「ニートの日」の翌日は建国記念日である。

皮肉にも今の日本を如実に物語る祝日の配列だ。

今やニートによってこの国は支えられているのである。

2月10日も休みにしよう。これで三連休だ。

因にニートは365日休日なのであまりお得感がないのが辛い。


2006年2月8日

特殊切手

『新世紀エヴァンゲリオン』の切手が出るそうである。

来年の2月発行とのこと。

どんなデザインになるか気になるところ。

久々に『エヴァ』グッズGETのために並ぶか?

因に今は『銀河鉄道999』の特殊切手が発行中だ。また今年の4月には『名探偵コナン』が出るという。

結構外国のアニメファン宛の国際郵便には重宝されそうだ。

アニメシリーズの次は、『ガロ』漫画シリーズとかはどうだろう?

つげ義春『ねじ式』の切手が出ると楽しそうだ。

「メメクラゲ」の切手を貼った寒中見舞いなんてオシャレだね。


2006年2月3日

節分。

最近、なぜか節分に太巻きを食べることが流行しているという。

しかし、東京近郊では昔はそのような風習は無かった記憶がある。関西から伝わってきたのだろうか?

ハロウィン然り、いろいろと商魂逞しい。

それよりか、節分で気になるのは、コンビニに売っている豆まき用の鬼のお面だ。

あれは節分時に売れ残ったら全部処分されてしまうのだろうか?

とても気の毒だ。

コンビニの棚で、何万もの鬼のお面が断末魔の叫びを上げている。

「俺はもうすぐ返品処分されてしまう!焼却炉に一直線だ。俺は燃やされるために生まれてきたのか!

嗚呼!辛い辛い!。

いずれこの棚には俺に変わってバレンタインデーの義理チョコが並びはじめるんだ。

その頃には誰も俺の事なんか憶えていないんだあ〜」

そんな鬼たちの心の叫びをキャッチした自分は恐ろしくなって一目散にコンビニから飛び出してしまった。

自分にはどうすることも出来ない。許しておくれ。

さて、このシーズンになると毎年電車の中で予備校の車内広告が目立つようになる。

ある予備校の広告には陳腐なナポレオンの漫画が描かれ、こんな台詞が添えられていた。それも日本語で。

フランス人の我輩も英語が好きになった!

その陳腐さが鬱陶しい程に退屈だ。

もう少子化で競争率など1を切るのだから今更予備校もないと思うが、いっそ広告に使うのならばナポレオンのようなありきたりな歴史人物ではなく、今後期待出来る斬新なキャラクターを採用したら如何か?

たとえば東京拘置所にいるアサハラ、ホリエモン、ツトム君トリオだ。

それを漫画にしてこんな台詞を入れるのだ。

「君もこの宮殿に来ないか!僕達と共にこの世界を救済しよう!」

このコピーならばちょっと通ってもよいかなという気にさせるはず。これからの時代、そこそこの大卒など何の価値もない。だから、凡人のステージを越えた覚醒人を目指さず予備校が必要だ。

これからは覚醒人以外に出世の道はない。

キリストだって十字架にかけられたし、ガリレオだって宗教裁判で有罪に処せられたんだ。

この東京拘置所の「三賢者」だって将来「聖人」として崇められる地位に就かないとは限らない。

先見の明がある予備校しか生き残れないことを考えれば、来年のキャラクターはこれで決まりだ。

「み○ず学苑」に期待したい。


2006年2月2日

「天才バカボン」

夕方のテレビは各局とも堪え難い似非ニュースの時間帯である。

数秒間隔のザッピングで少しでも不快な似非ニュースを避けるのがマトモな人間の作法だ。

在京キー局を避けてローカル局にチャンネルを合わす。すると東京MXテレビで昔のテレビアニメ「天才バカボン」が放映されていたのに気付き、暫し観賞に入る。

これが初放映されたのは恐らく20年以上前と思われる。何作か作られたシリーズの中でも後のものであろう(資料を観ると1990年にテレビ東京で放映された「平成天才バカボン」らしい。但し内容的には1970年代半ばに作られた「元祖天才バカボン」のリメイク。よって時代背景的には30年近く前の作品と考えてよい)。

内容はシュールなギャグの連続。

「ウナギイヌ」とかいうウナギと犬のハーフが目の繋がった警官を茶化して一騒動起こすというストーリー。

正直、初放映された時は全くつまらぬアニメだと完全にスルーしていた記憶がある。

ところが今観ると、奇妙なことに面白いのである。

その面白いと感じた理由はなにか?

そう、今では絶対に通らないであろう女性や子供に対する「差別的」な表現が満載なのである。

差別といっても、そもそも今の「常識」が偏っているのであって、当時の表現が「常識的」と考えれば、今が「異常」な訳だから、その「異常」な世の中である現在でこれが放映されているという事実が、このアニメの面白さに繋がっているのだ。

フェミニストや女男共同参画、ジェンダーフリー至上主義で支配されたメディアで、この「天才バカボン」が扱うギャグは「発禁物」である。

子供をボコボコぶん殴り、女性を卑しい性と扱うに等しいギャグ等は、観ていてとても清々しい。バカボンのパパも今の「常識」では絶対に「やってはいけない」(時事ネタ含む)事を遠慮なくズカズカと実践してしまうシーンは「自爆テロ」的でさえある。

なんと「良き時代」であったろうか。

あれほど「つまらない」と無視していたアニメがこんなにも面白いと感じてしまうのは、恰も飽食の時代に残飯として捨てていた食材が、飢餓の季節が訪れたらまるで「御馳走」かのように感じてしまうのと同じ感覚だ。

如何に今の時代が「フェミファシズム」によって表現の自由が奪われているかを物語る良い例であろう。

この日放映された「天才バカボン」で興味深かったのは、バカボンのパパが目の繋がったお巡りさんに縁談を勧めるエピソード。しかしその相手はキャベツなのだ。ウナギと犬のハーフが許される訳だから、キャベツと人間の「国際結婚」もありと言う訳だ。

当時はこれも馬鹿馬鹿しいシュールなギャグで済んだのだろうが、現在の日本における独身絶望男性の現状からすると、もはやギャグではないのだ。

キャベツすら結婚の相手にする程に絶望的な情況が現実になってしまったのだ。

遂に、2006年の「現実」が1970年代当時に「天才バカボン」で描かれた他愛のないシュールなギャグを追いこしてしまったのだ。

これほどの「ギャグ」があるだろうか?

バカボンのパパは叫ぶ。

「これでいいのだ」

いや!よくない!良い訳がないではないか!

こんなシュールなギャグが、あってはならない「絵空事」が、笑えない「現実」となって我々の前に立ち塞がっているのだ!

「天才バカボン」が終って、再び在京キー局にチャンネルを戻す。

すると似非ニュースは世界の終りが来たかのごとく狂ったように「ゴミ屋敷」の話題を延々と流していた。

30年前、「天才バカボン」で描かれたシュールなギャグ世界が、今現実の「ニュース」として「報道」されている。

バカボンのパパもさぞ驚いているだろう。


2006年1月28日

諸行無常。

今だ一週間前の雪が残っている。

相変わらず厳しい寒さが続き、心身に堪える。阿佐ヶ谷某BARにてウイスキーのお湯割りをオーダー。身体が温まり心地よい。

此所には昔懐かしい円筒状の石油ストーブがあって和む。

マスターがトマトのドライフルーツみたいなものを開発して、その試作品を食した。

味が濃縮されて美味なり。乾燥した冬ならではの季節限定メニュー。

カウンターに佇むといつもの常連客がやってくる。殆どが30〜40代男性。以前は独身者が多かったが最近は既婚者も増えた。徒然なるままに世間話で時間が過ぎる。山芋のチーズオーブン焼きが旨い。

気が付くとウイスキーお湯割りを何杯もオーダーしてふらふらに酔う。これほど酔うのは珍しい。

覚束ない足取りで帰宅の途に。家の近くでネコを見つけ、ひたすら撫でる。寒空を見上げると煌々とシリウスが瞬いていた。

子供の頃からずっと変わることなく輝き続ける天空のオリオン。

変わっていくのは地上に這いずる哀れな人の俗世。星々の寿命からすれば一瞬の瞬きのごとし。

ネコが見つめる空間と宇宙の底知れぬ果ては同じだろうか?

そんなどうでもよいことを考えていたら頭が痛くなってきた。早々に寝床に潜り込む。

まだ冬は終らない。


2006年1月21日

雪。

首都圏は雪模様。細かな粉雪が舞って久しぶりの積雪。

やたら静かだ。自分が幼少の頃はちょっとした広場には雪だるまが出来、近所の子供が雪合戦に興じているのが普通の光景だった。

だが今は子供の影が全くない。

土曜、学校が休みという理由もあるだろうが、近所の公立中学グラウンドはただ深々と雪が降り積もるのみ。

ひとっこ1人いない。

無人の雪原がこの国の未来を暗示するようだ。


2006年1月16日

雛人形。

デパートに寄った折、たまたまそのフロアに早くも雛人形コーナーが設置されていた。

暫し立ち止まって物思いに耽る。

豪華な雛人形セットを眺めていると忌わしき子供時代を思い出した。

家族に女兄弟は居なかったのだが、小学校低学年の頃、時々近所の女子クラスメートが開く「お雛祭り会」におよばれした事があった。当時は同性よりも異性のクラスメートとよく遊んでいた記憶がある。いや、遊んだというより「遊ばれていた」という表現の方がしっくりしているか。

内向的で無口な性格だった幼年期の自分は、同性の元気な男の子達と一緒に遊ぶ事を避けていた。男の子同士の遊びに関心すら示さなかった記憶がある。多分、同性同志の遊びの中で順列を付けられるのが嫌だったのだろう。どうせ最低の扱いをされるに決まっていたから。

気が付くと女の子グループに紛れてイジイジコソコソやっている自分が居た。

きっとそこは自分にとって安息の場だったのだろう。競争を強いられる事がなかったからね。女の子はそんな情けない「女の腐ったような男」を「玩具」として受け入れた。散々罵られ馬鹿にされ「いじめ」に近い辱めを受けたが、それでも自分の居場所はそこしかなかったので屈辱的扱いをされても黙って耐えざる負えなかった。

まさに自分は「なされるがまま」状態だったのである。

女の子からきつく何か言われるとビクビクブルブルしつつ従っていた。女の子の方も全く逆らわない言いなりの男が面白いらしく、恰好の「おままごと」の小道具として引っ張り回した。

「お雛祭り会」の時も、自分はだらしない情けない嘲笑の的としての「ピエロ」だった。

「のろま!」

「早くしなさいよ!」

「馬鹿!」

「そうじゃないていったでしょ!」

「あんたって何にも出来ないのね。だらしない男。ホントに嫌になる」

「大嫌い!」

ありとあらいる命令調の言葉を散々に浴びながら右往左往する自分。

そんな主体性のない惨めな男を見て女の子達は日々の鬱憤や支配欲を満たしていたのだろう。

女の子の残酷性は限り無く深い。それも集団となると尚更だ。

クラスで一番可愛かった女の子が、普段はお淑やかなのにこの時に限っては口汚く罵ってきた。ある意味感動的でさえあった。

自分は女の子の部屋に飾られたお雛様をじーっと眺めつつ、周りからの罵声の嵐に「ああ、自分ってなんて情けない存在なんだろう」とひとり物思いに耽っていたものだった。

だが一方で、そんな為されるがままの情況に何となく心地よさを感じていた事も確かだった。

「僕は男として情けない存在でも、女の子達は僕を相手にしてくれる。嘲笑する相手として僕をかまってくれているんだ。ああ何か気持ちいいなあ。甘えたいなあ」

もはや幼児期からそんな病的偏愛に支配されてしまった訳だから、以後女性とのかかわりが如何なる顛末であったか、敢えて語るまでもなかろう。

主体性ゼロ。女の子の言いなりになる事が「愛」と信じて疑わず、その呪縛は死ぬまで続くだろう。

お雛様を見ると、そんな「惨じめな人生の始まり」を思い出してとても複雑な気分になる。

だがいつの世も「玩具」は「玩具」である。

散々、弄ばれて捨てられる。気弱な「玩具」たる男はその運命から逃れる事は出来ない。

店内のBGMからこんなフレーズが流れる。

「今日は楽しいひな祭り♪」

急に幼少の虐げられた記憶が蘇り、「ぎゃー」と叫びつつ全速力でその特設会場からすっ飛んで走り出した。

だが逃げても逃げても、女の子達の嘲笑の声は時空を超えて自分に襲い掛かってくるのであった。

恐ろしい!


2006年1月10日

我、生きてゆくために何を成すべきか?

2006年も松の内が終り、また日々の営みが始まった。

年賀状等で数少ない旧友や昔の仕事仲間の近況を知る。

40も半ばに差し掛かる昭和30年代半ば生まれの世代はそろそろ人生の佳境に掛からんとしているようだ。

年始の挨拶と言えば、従来では今後の抱負やら仕事への野心、結婚、子育てに勤しむ便りとか、いずれにしろ前向きのメッセージが卓越していたものだ。総じて未来指向だった。

しかし近年はそのような明るい便りよりも暗澹たる報告が目立つ。

40代半ばにして亡くなる同業者の話もちらほら聞くようになった。

また、この歳にして結婚もせずバイトやパートに勤しむ者もあり。

彼等は皆、先が見えてしまった人生をただ当て所なく彷徨うだけのようで哀しい。

夢とか希望とか、いや絶望を含めて自虐的に自らをニ−ト、引き蘢りと蔑む事が出来ることすらまだ「恵まれた人生」なのかもしれない。

ある時点を過ぎた時、自らを耐えられる限度以下の情況にまで落さなければ生きていけないと気が付いた時、本当の絶望が始まる。人生を賭けた仕事を得る事もなく、妻も子も居ないまま40代半ばを迎えた独身絶望男性が真の悲惨さを味わうのはこれからだ。

自分が20代の頃、もし40代の大の男が学生バイトと同じ条件で働いているのを見たら、それはもう軽蔑に値するものであろう。絶対に自分はあのようにはならないぞと心に誓うはずだ。

そのような屈辱塗れの人生を、40代にして堪え難きを忍んで受け入れなければならなくなった時、この絶対矛盾に声なき叫びを上げざるを得ないのだ。

「辛いという字はどう書くの?辛いと書けばいいんだよ」とね。

これをひとり念仏のように唱えながら、年端も行かない学生バイトから生ゴミを見るような視線を浴びつつ、毎日を生きるのだ。

人は40代半ばでその「絶望の門」が自らの前に立ち塞がっているのを、突然として知る。

人は独りでは生きていけない。

人は失ってから初めて大切なものが何であるかを知る。

40代半ばの、特に独身男性はそうだ。

40代半ばでも元気な者はやはり妻帯者、子持ちだ。理由は明白。たとえ困難が伴っていようとも生きる上で必須のパートナーとの営みがあるからだ。

それが生きる原動力となる。生きる支えとなるのだ。

今の世はこのパートナーを築くことが恐ろしく困難な時代。戦後の日本人社会は大家族から、核家族へ、そしてもはや家族をも構成しない引き蘢りへと変遷してきた。人は自らに閉じこもることで安楽を追求してきたが、反面、愛情の欲求や身体的安らぎは行き場を失った。

ネット網が毛細血管のように繋がれ、携帯電話が人々から孤独を消し去ったかのように錯覚させるが、実は逆に孤独を堪え難き処まで悪化させる要因となっていないか?

毎日のように大量に送られるスパムメール。

孤独の解消どころか「顔のない悪意」が毎日毎日、人の心を弄ぶ。

ブログで人々は「総クリエーター」になったと言われるが、その独白が所詮マスターベーションに過ぎないと気が付いた時、より一層の虚しさに覆われる。

ネットや携帯が充実すればする程、孤独は蔓延し、死に至る病となる。

皮肉な事にちゃんとしたパートナーがいる者に限って、ネットや携帯に頼ってはいない。何処かのアンケートで見たのだが、携帯から縁遠くなった最大の理由は結婚だそうだ。

大切なパートナーが1人いれば「メル友」などとるに足らない存在なのだろう。

人は哺乳類だ。このわずか一世代にも満たない月日であまりにも急激なコミュニティー環境の変動が起こった。そして人は自らの持つ動物的な欲求を余りにも蔑ろにしてきた。哺乳類としての生存条件が極度に損なわれてきた。

こんな情況では、生き物として絶対に維持出来なくなる。

「自分は結婚などしない」と言えるのは心身共に健康で生きる拠がある者の特権だ。それは若さによって保証される。だがその若さが失われた時、人は這いつくばってでもパートナーを捜しはじめる。

おそらくその反動は間もなくやってこよう。

ここまで諸々の条件を楯に結婚を避けてきた独身者達が、ダムの決壊のごとく「結婚」を選択し始める。無論それは従来の一夫一婦制ではなかろう。そのような制度でのパートナー選びが極度に困難な事はこれまでの人生が証明している。

見合い制度の崩壊と恋愛至上主義の社会では余剰ダメ人間は何をやってもダメなのだ。

彼等の「結婚」は従来のシステムとは全く異なろう。

ハーレム、逆ハーレム、奇妙な共同生活グループ。そんな有象無象な人々のグループが新たな「家族」を構成し始めるかも知れない。かつては「見合い結婚」という制度が人々の孤独を補ってきた。それが無くなって久しい。それに代わる制度がいつまで経っても出来ない以上、恋愛感情とは異なる有象無象の共同生活集団が発生するのは生物としてごく自然な事だ。

今や旧態依然なパートナーの条件を振りかざすこと自体、無意味な時代なのだ。

「いい人がいれば」

そんな姿勢では、永遠にパートナーは現れない。なぜならそんなパートナーは万に一つの確率もない程希有な存在だから。

残された選択肢は孤独死だ。では簡単に孤独死に甘んじるか?

否。

人は死の危険が迫れば必ず回避する手段を模索する。それが恒常性ホメオスタシスである。

残された時間が僅かな40代独身男女は尚更。もはや生き残り競争である。

だが、これも所詮は「終りの始まり」に過ぎない。

そんな共同生活も死の前の虚ろな夢のごとく、あっさりと醒めて目の前に自分の墓穴がポッカリ掘られているのを発見し愕然とするかもしれない。

所詮、一夫一婦制に勝るパートナー獲得制度はない。ハーレムは特権的男性の専有物で、その他大勢の男にとっては幻。

結局は孤独死が待っている。

だがそんな「死の前の幻」にしがみつかざるを得ない程、情況は悪化しているのだ。

人口減、少子化という「まっ逆さまのジェットコースター」に乗り合っている独身男女は「いらない人間」として破棄されるとは分かってはいても、せめて処分される前に「幸せ」の幻くらいは見たいのだ。

年賀の中に地方都市の菓子工場で働いているという昔の仕事仲間の便りがあった。

本意ではなくとも、気が付けば寂しい独身40男のおじさんとして燻る人生がそこにある。

本人がそれで納得していれば、他人がどう思おうと関係のない事。

だがしかし、だがしかし・・・。

なんと人生とは過酷で辛いのだろう。

自分の帰りを待っている妻や娘が居る訳でもなく、ただパートとして工場で黙々と日銭を稼ぐ40代独身男性の姿は余りにも余りにも辛い!辛すぎる!

人は愛し、愛されてこそ生きる喜びがあるのではないのか。生きる意味があるのではないか?

「パパ!」

「お父さん」

「あなた」

一生そう呼ばれる事のない40代独身男性の超孤独の寂しさに何故耐えられると言うのか?

否!否!

この極寒の冬にパートやバイトで悶々と使い捨てライターのごとく見捨てられる運命の何万何十万という40代独身絶望男性の溜息が恐怖を共鳴させるのだ。

恐ろしい!恐ろしい!

右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、漆黒の闇に微笑むのは死の影だ。

真夜中にカラスがカアと鳴く。まるで『太陽の王子ホルスの大冒険』に出てきた悪魔グルンワルドのごとく漆黒の闇のカラスはあざ笑う。

「お前はもうすぐ死ぬ!死ぬのだ!」

恐ろしい!恐ろしい!

我、生きてゆくために何を成すべきか?

遅かれ早かれ、パートナーを獲得出来なかった40代独身男性は雪崩れを打つかのごとく自ら命を断つだろう。

生きる意義と現実のギャップが大きすぎる。

更に孤独が生きる意欲を激しく削ごう。

ピクニック気分でさくッと死ぬのがトレンドだ。とんがりコーンのように死ぬのがいい。

孤独や絶望を楽しめる季節はそろそろおしまいだ。

たとえ誰かと愛憎まみえて魂をすり減らしてでも、自分を磨ける40代を目指せ。

そうすれば否応無しに「生きてやる」という意思が芽生えよう。

更なる惨めな人生が待っていても仕方あるまい。力なき男は総て惨めだ。

惨めな人生から逃れる術は美人か権力者に生まれ変わる以外にない。

これからは大半の独身男性が惨めな最期を迎えるのだ。

その運命を受け入れて悔いのない「惨めな死」を得ようではないか。

小泉首相の年頭挨拶を真似して今年の抱負を述べてみたが駄文に終る。

苺のポッキーでも食って寝よう。


2006年1月9日

銘菓『ひよこ』

結構有名なお菓子なのだがなかなか食べる機会がない。

先日、実家の仏壇にお供えとして頂いた『ひよこ』を食す。

結構美味しい。

でもひよこのかたちをしているので、食べるのが可哀想になる。これは「鳩サブレ」と同じ感覚だ。

昔、ぽんぽこ狸のお饅頭というのがあったが、どこにいったのだろう?


2006年1月8日

妄言。

1月7日付けの朝日新聞オピニオン面で『どうする少子化』と題し、漫画家の倉田真由美と通販会社の女社長の野口美佳の対談が載っていた。

内容は語るまでもなく、いつものパターン。既存の男性社会の価値観が諸悪の根源・・とまあこんな調子。

もうこのような妄言を真に受けて反論するのも疲れた。

この対談の二人の女性はすでに子を設けている。彼女達が非難する「男性優位の日本社会」でなぜに彼女達は男に頼る事なく子供を設ける事が出来るのか?

答えは明白である。両者とも男性の庇護を受けずにも育てられる経済力と時間があるからだ。だからこそこんな主張が出来るのだろう。

しかしその資金は、哀れな独身女性達を唆し、騙した主張を記した著書等の売り上げで成立している。

狂気じみた妄言で女性達を騙し、扇動する。

やっている事は、ナチスやスターリンと大して変わらない。

彼女等の主張は例えれば、ベルリン陥落寸前に尚もドイツの勝利を信じたヒトラーの妄想混じりの演説と似通っている。人口減、少子化という怒濤の波が押し寄せているにも拘わらず、いまだその原因を異性の価値観に押し付け、必ずや自分達だけは幸せを手にする事を信じて疑わない身勝手な、いや妄想に基づいた狂気そのものだ。

ヒトラーは言った。

自らを選んだ国民が此所に至って苦難に陥ったとしても、それは自業自得だと。

倉田真由美を始めとする、フェミファシスト一派は将来、彼女等の主張を信じて結婚も出産も放棄した挙げ句、孤独と老いと病いう絶望の淵に佇む多くの気の毒な独身女性に対して同じ事を言うのだろう。

「あんた等が結婚出産しなかったのは、あんた等自身のせいよ。私達はメディアに唆されて仕方なくあんな主張をしただけ。それを真に受けたあんた達が悪いの。自業自得よ」

そんな捨て台詞を残して、アメリカ辺りにでも逃亡するつもりだろう。

恐ろしい事である。

だが、大半の賢い女性は倉田達の詭弁に気が付いているはずだ。

女性の勘は鋭い。それを甘く見た倉田やその一派は将来、同じ女性達の手で手酷い報復に合うかも知れぬ。

第2次世界大戦中、連合軍に解放されたパリでは、ナチスに協力した女性が、同じ女性によって報復を受けて丸狩りにされたという。

女性の同性に対する嫉妬心は深く恐ろしい。

倉田がムッソリーニの末路のような最期を迎えなければよいがと心配する。


2006年1月5日

寒さ続く。

寒気の渦がずっと北海道のすぐ北辺りに居座っていて反時計周りにぐるぐる回転している。

北極渦がそのまま日本列島上空に移動してきたのと同じだ。

20年ぶりという寒冬に心も身体も凍えそう。

それはさておき、マウスもダメになったので買い替える。もう断線はこりごりなのでワイヤレスの製品を購入。幸いOS8.6でも作動するのがあった。

今回は問題なく動いた。

ただ、このマウスはウインドウズ兼用なのでクリックボタンが二つも付いている。これが慣れないと厄介だ。

いつも間違えて右ボタンを押してしまい、何やら普段使わない表示が出て戸惑う。

ウインドウズ使っている人はこれが当たり前なのだろうが煩雑感があってやりにくい。因に先日買い代えたキーボード、何かキーが足りないと思ったらアスキーなんとか配列と言うものらしく、日本語、英語切り替えキーが無いのであった。

これも慣れるしかないか。


2006年1月3日

謹賀新年

2006年が明けた。

今年は三賀日通してどんよりとした天候がつつき、雨も降り、暗澹たる気分の年明けだった。

年末から調子の悪かったマックのキーボードがお釈迦になりかけ(コードの付け根がが断線ぎみ。この部分を修繕すれば使えそうだったのだがいろいろ試すもNG)、入力が上手くいかなくなったので、キーボードを新しくする。

だが、マックのUSBキーボードで純正のものはOS8.6では使えず、仕方なくサードパーティ製の物にするがこれが価格が高い。その上オリジナルのキーボードにあったキーが、この製品には付いていないなど使い勝手が悪い。マウスも断線しかけて調子が変。まだ1年ちょっとしか使っていないというのに何なのだ。

正月の新聞は日本の人口減についての記事で一杯。

テレビの正月番組もちらっと観た限りでは、再放送番組が多い気がした。

正月に再放送が目立つようでは、もうおしまいだ。

何か本当に「終焉」の始まりの年に思えて洒落にならない。


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