2005年7月・8月・9月


2005年9月30日

巨人のいないプロ野球。

なにやらプロ野球セリーグの優勝が決まったそうだ。

かつては国のメインスポーツのひとつであったプロ野球だが、今は一部の愛好者、地元のファンだけが楽しむ行事になってしまった感がある。

巨人中心に事が進んでいたイベントだったから、その巨人が凋落してしまった以上もうダメなのだろう。

かつてはたとえ巨人が優勝出来なくとも、それなりに巨人の話題で盛り上がったものだ。だが今は巨人の腑甲斐なさを叩く論調すらない。巨人が何位なのか、誰がダメだったので低迷したのかすら話題に昇らない。

もはや巨人ファンもアンチ巨人もいなくなった。

日常の話題として巨人はその対象から見捨てられたのだ。

巨人のいないプロ野球は、カレーのかかっていないカレーライスのようなもの。大阪の球団が優勝したからといって御飯だけのカレーライスを旨い旨いと食う人は希有だ。

野球自体は面白いスポーツであることに今でも間違いはない。でもそのシステムに魅力がなければどんなスポーツでも陳腐化する。

巨人におんぶにだっこ、他球団の4番バッターをかき集めた結果がこのありさまだ。

そりゃ、誰も見なくなるのも頷ける。

魅力のなくなった巨人戦中継の代わりに、どんな番組が作られるかは知らない。

ただ世の中「巨人、大鵬、卵焼き」の時代から「女男参画、フェミ優先」に変わってしまったので、かつての巨人戦よりもっと醜悪でおぞましい番組が並ぶのだろう。

勘弁していただきたい。

気がつけば、きょうで9月が終ってしまい、残すは今年もあと3ヶ月。

単行本の準備もほぼ終った。あとがき等の原稿を書く時、いつも思うのだが印刷を前提とした文章はネットの日記と違い、後から修正が出来ないので苦労する。

誤字、脱字、重複、表現の不自然、句読点の場所等何回読み返してもおかしなところを見つける。

表現したい事はたくさんあるのに文章は下手だから大変なことになる。

小中学校の頃の作文等を見返すと、あまりの酷さにびっくりする。幼い頃から基本をしっかり学習しないと大人になって苦労するのだ。もっとも自分の場合は「学習しない」というより「学習する能力」がなかったのかも知れない。

正直、記憶回路のどこかに欠陥があったのだろう。

だが、今更どうしようもない。欠陥は治らないのだからこのまま背負って生きていくしかあるまい。

人には出来る事と出来ない事がある。それを自覚して成長していくのだ。


2005年9月25日

愛知万博閉幕。

25日で半年間の会期を終了した愛知万博。

思えば、最近の大規模イベントのパターンは決まっている。

開幕までは、どちらかと言えば批判一辺倒。

「金掛り過ぎ」「環境破壊」「テーマが付け焼き刃」「アクセスが悪い」「騒いでいるのは関係者だけ」「展示内容が陳腐」「どうせ赤字で大失敗」等など悪評が目立つ。実際この愛知万博も開幕前は批判の声を集めたサイトがたくさんあった。

開幕初頭も入場者が少なく、このプロジェクトは失敗で終るという声が多かった。

ところが開幕中盤から終盤にかけて人が押し掛けてくるようになり皆「お祭りって面白いなあ〜」状態になる。愛知万博批判サイトもさっぱり更新されなくなる。作った本人も期間内チケット買ってパビリオン廻りでもしているのか?

長野オリンピック然り、サッカーワールドカップ然り。最後は大フィーバーである。

結局、メディアが莫大な資金を投入して宣伝するから最終的には盛り上がる「仕掛け」にはなっているのだ。人々はそれに踊らされるだけ。

だが、当初の万博に対する批判も決して嘘ではなく事実であった訳で問題が解決されたのではない。

キッコロ・モリゾーは閉幕後、森に還ったというが元々彼等の森を切り開いて会場を作った訳でキッコロ・モリゾーは実は還る処がないのだ。

でも人々はお祭りの余韻に酔いしれ「キッコロ・モリゾーありがとう!」と叫ぶだけ。

地獄の沙汰も金次第なのであろう。

さて、人々はキッコロ・モリゾーのことを何時まで覚えているだろうか?

長野オリンピックの時、おみあげ売り場で売り切れ状態だったマスコットのスノーレッツ。

今、彼等はどこにいるのだろう?

キッコロ・モリゾーも10年経ったら、人々の記憶から忘れ去られるのか?いや、もしかすると1週間後には、もう誰もこのマスコット達の存在を口にしなくなるのかも。

今頃、キッコロ・モリゾーは「サツキとメイの家」の屋根裏でマックロクロスケとこう話し合っているだろう。

「100年後にはこの国もまた昔のように森に覆われる。それまでの我慢だ」

キッコロ・モリゾーまた会おう。


2005年9月24日

ヨドバシカメラ秋葉原店

先日開店した新しいヨドバシカメラ秋葉原店に行ってみた。

JR秋葉原駅に見なれない乗降口が出来ていて吃驚。その目の前にこの店が出来ていた。

確かに大きい。客層もいわいる「秋葉系」っぽい人は少なく家族連れが目立つ。

だが品揃えやレイアウトは正直期待外れな部分があった。オーディオフロアに立ち寄ってみたのだが、商品のレイアウトがメーカー別になっており、特定の機種を物色するのに大変苦労する。大半のユーザーはメーカーでなく特定機種を選ぶために買い物に来る訳で、見本市のようなレイアウトでは疲れるだけ。これでは既存の秋葉原家電専門店には勝てない気がする。

あと、玩具フロアにも立ち寄ったが今一つ楽しさが感じられない。一般向けに重心を置いているらしく、「秋葉系」客からすると物足りない。かつてのアソビットシティーのほうが断然良かった。

全体的に、価格もそれほど安くしている訳でもなさそうで買い物心を揺さぶる要素が少ない。今は開店直後ということで賑わっているが、今後はどうだろうか?

結局の処、わざわざ秋葉原まで来て買い物をする程の価値はないかなという感想。

ヨドバシカメラは新宿で充分事足りるし。

もっとも「つくばエクスプレス」が開業したので、その沿線住民にとってはよいのかもしれない。

また昭和口改札(この出口は昔からあったのだろうか?)が出来たおかげてJR総武線に乗るのが楽になった。駅の改装前までは階段で一旦山手線のホームまで出て、更に総武線のホームまで登っていかねばならなかった。

この歳になると階段が億劫になる。


2005年9月23日

『電車男』最終回。

テレビドラマ『電車男』最終回を観る。

結局、既存の「純愛ドラマ」を踏襲した、ありきたりな「ハッピーエンド」に仕上げてあるのだが、主人公の設定が「現実世界」を放棄しかけたヲタク故、非常に無理がある。同じ「純愛ドラマ」たる『バスストップ』主人公の運転手とはステージが違い過ぎてリアリティーが保てないのだ。恋愛ドラマとしては破綻しすぎている。

「お姫様」たるエルメスがこの「非現実」に生きる電車男のどこにスキンシップさえ許してしまう魅力を見い出したのか、皆目解らない。

この絶対にありえない「ハッピーエンド」の映像が奇妙で滑稽でもあった。

エルメスは異常な嗜好をもった「イカれた女性」なのか。それとも身体障害者に対する極端な慈愛精神が恋愛にまで高まったのかな?

いや、慈愛だけでは恋愛は成立しない。それともこれは恋愛ドラマではなくて、単なる不幸な男性に対するボランティア精神を発揮せよというキャンペーンドラマなのだろうか?

いずれにせよ、常識的に考えれば、この「ハッピーエンド」はありえない。

だからこのお話は、すべてこの主人公電車男の妄想に違いない。

もっとも原作がネット掲示板の書込みを題材にしているのだから、妄想でも成立する。

ネット掲示板はその匿名性故、書込まれた内容の真偽を確かめる術はない。だからドラマ『電車男』の掲示板で語られる「ハッピーエンド」が真実である必要もないのだろう。すべて主人公の妄想だったとしてもそれはそれで成立してしまう。

そもそもネット掲示板が、「現実世界」における誰かの恋愛を成就させるような機能をもったコミュニケーションの場として描かれている事自体、幻想と思わなければいけない。

ネットの中に特定の「意志」は存在しない。

創造性は全否定され、そこにあるのは冷えきった無秩序な情報だけ。

この『電車男』ではネットの住人達が、ある特定の「意志」を持ったように描かれているが、こんな情況は、まずネットには存在しえない。

文化、思想、芸術、宗教等、人間が心の中で「創造」する数多の事柄はすべて、勘違いや思い込み、誤解、幻覚、幻聴、噂等の不確実なものから生まれてくる。そういった独立した思考は、ある一定期間、周りとは隔絶した空間、地域で育まれ熟成していく。そこで「奇蹟」が起こり、一つの文化、芸術、宗教、民族として確立するのだ。数多の可能性、多様性としてね。

しかしネットは、このような「創造の苗床」を全否定する。

過ちは瞬時に修正され、思い込みの時間はリセットされ、幻聴や幻覚を受ける機会さえ剥奪される。

あるのは方向性が定まらない渾沌とした無秩序な情報だけ。

万人がネットに繋がってしまえば、その渾沌とした無秩序な情報に支配された時間だけが、唯一の「人格」となる。

「個」は否定され、万人がその冷えた「人格」に支配される。

文化、思想、芸術、宗教、民族を全否定した、単なる情報の通過点として。

だからネットが誰かの恋愛成就のために機能することなどありえない。

創造性の全否定がネットの正体なのだとしたら、電車男がネットにアクセスした瞬間に恋愛成就は破綻する。

現実に、もし掲示板に恋愛相談の書き込みがあったとしても、その大半は人格否定、煽り、釣り、嫉妬、罵詈雑言の言葉で埋め尽されるであろう。

そこには創造性の欠片すらない。

実はこの『電車男』に描かれたネットの中の住人すらも電車男自身の妄想に過ぎぬ。

ディスプレイの向こうに居るのは、血の通った暖かい思いやりのある優しい人々ではない。

顔のないのっぺりした化物が人の心を食おうと待ち構えているだけだ。

ネットにアクセスするということは、その化物の身体の一部になるということ。

渾沌とした「無」に取り込まれてね。

結局、電車男はネットの中に巣食う化物に喰われ、その胃の中でエルメスと結ばれた妄想を見ているに過ぎない。

とても哀れな物語なのである。


2005年9月22日

テレビの主人。

たまたま朝方、地上波民放テレビを観ていたら、アメリカ民間旅客機の緊急着陸ライブ映像が飛び込んできた。前輪が曲ってしまいそのままの状態で滑走路に進入してきた。乗客百数十人の命が掛かっている正に固唾を飲んで見守るシーン。

ところが着地する寸前で映像は突然コマーシャルとなった。

肝心の着地シーンに延々とCMが流されていく。

だが驚く事はない。

民放の主人は言うまでもなくスポンサーである。視聴者ではない。

たとえ流されている映像が、人身に関る世紀のライブ中継であったとしてもスポンサーとの契約が優先される。

民営化とはそういうもの。

郵便局もNHKも、民営化や聴取契約不払いによってどうなっていくか、この出来事が如実に語ってくれる。

人の命よりもサラ金やパチンコCMが優先されるのだ。いや、もっと強大な力によって個人資産も大切な情報も支配操作されてしまう。

郵便局民営化やNHK聴取料支払いを肯定的に叫ぶ輩には警戒したほうがよい。

彼等の背後にはどす黒い何かが蠢いている。


2005年9月21日

あびゅうきょコミックス新刊情報

来月24日、新たなあびゅうきょ作品集が幻冬舎コミックスから発刊される。

誌名は『絶望期の終り』。

幻冬舎コミックス「月刊コミックバーズ」にて不定期連載された「影男シリーズ」を中心に既刊単行本未収録作品も掲載。

一昨年の『晴れた日に絶望がみえる』、昨年の『あなたの遺産』につづき、3年連続で単行本が出る。超遅筆の自分からすれば驚異的な発刊ペース(といっても『あなたの遺産』は過去の作品集の再録だったが)。

カバー絵作画もなんとか完了し、現在は描き下ろしカット他製作中。

『絶望期の終り』はB6版/価格693円(税込み)

10/24発刊予定の新刊に御期待頂きたい。


2005年9月15日

愛知万博に行く。

大袈裟ながら35年前の大阪万博のリベンジを果すため、日帰りで愛知万博に行ってきた。

家を出て入場までに5時間(半分は乗り継ぎの際の混雑や行列渋滞)かかったが、昨年の百里(目的地まで11時間。着いた時にはイベント終了)に比べれば大した事なし。むしろ名古屋日帰りがこれ程快適だとは思わなかった。

名古屋は空気が微妙に違う。人の雰囲気も違う。妙に忙しい。めったに遠出しないので異郷の地に足を踏み入れると空気の違和感に過剰に反応する。実際はそんな違いなど僅かに過ぎないのだが。

万博会場では会期末が近づき、近郊の「タダ券」客が大挙して押し掛けているらしく、平日のこの日でも20万人の入場者。人間、何年経っても変わらないものでギリギリ追い込まれないと行動しない。大阪万博然り。かくいう自分も、結局無理矢理時間を作って出掛けたのであるから、同じようなものか。

猛烈な残暑の中、入場待ちの列に佇み周りを見回すと老人が目立つ。それでも年配の女性は忍耐強く元気に見えた。その一方で年配男性は辛そうだ。若い時から鍛えている者は別として、大抵の男性は老年期に入ると代謝能力が極端に落ちる。陽射しにじりじりと焼かれたベルトコンベアー上の干肉のごとし。自分の未来を見るようで恐ろしい。

愛知万博のテーマが「自然の叡智」と謳ってはいるが、もともと森を潰して作った万博会場。「自然」を出汁にして利潤を追求しているのだから35年前と比べ卑屈なイメージ。木材を使ったパビリオンや広大な回廊が作られていても、そこを蠢くのは大量の俗人であるから、まあ人を呼べれば何だってよいのだ。

行く末短い年配者を数多く迎える万博としては、「自然の叡智」たる土への帰還を促す最新の火葬場があってほしいが、さすがにそんなパビリオンはない。

日本館の作りが何となくそれを彷彿とさせたが、単に暑さと混雑で朦朧となった妄想の産物だった。

興味深かったのが「バイオラング」という世界最大級の緑化壁。なにやら宮崎アニメの『ラピュタ』を彷彿とさせる巨大緑化回廊。

これはなかなか凄い。確かに周りより涼しく快適だ。二つの塔があって頂上には「天空鎮守の森」と呼称する空間がある。

商業主義で固められた施設ばかりが目立つが、ここだけは神聖な香りがする。

しかし思うのだ。

もし、都市全体が廃虚になったら、そこら中、この「バイオラング」みたいな緑化回廊が出来上がる。

わざわざ作る必要なんかない。人が減って都市が廃虚になれば、自然にこの万博の掲げた目標は完遂出来る。

だからこそ人減らしのために、テーマ館は巨大火葬場か墓所にすべきだったのである。

結局、人気パビリオンは終始スルー。「脳内万博」で想像力が肥えてしまったので実際のパビリオン展示が興醒めする事は解っていた。なので悔いはなし。

万博特設郵便局に行って切手に消印を押してもらい、「メイとサツキの家」を遠くから眺め、パキスタン館でナンとカレーを食べたのみ。あとは趣味の野暮用をちょっと。

とはいえ、腐っても万博。パビリオン展示が陳腐だとしても人が集まれば祭りの雰囲気は盛り上がる。何か面白い出会いがあったりすると楽しさが広がっていくものだ。

何だかんだ文句やケチをつけても、実際行ってみると凝り性の自分はいろいろ探究してみたくなる。

きっとピンズやスタンプラリーに手を出したらとことんやってしまうだろう。遠隔地での開催だったので複数日行くのは元々不可能だったが東京近郊での開催だったら期間内パスを購入して足繁く通ったかも。

参加するならとことん楽しむ。中途半端が一番いけない。

お祭りやイベントなんてそんなものである。


2005年9月10日

『The 40-Year-Old Virgin(40歳童貞)』

アメリカで最近ヒットしているというハリウッド映画の題名だ。

40歳童貞の男が、如何に童貞を捨てるかというコメディー映画だそうだ。

簡単な粗筋を読んだ限りでは、彼の趣味はフィギュア集め。いわばアメリカ版「電車男」みたいなもの。日米同時にこういった類の映画が流行するというのは、やはり万国に共通した男の在り方が問われているか。

しかし恋愛至上主義のアメリカで、そんな40歳で童貞なんて存在が話題になるのはなんとも不可思議ではある。

アメリカには「負けの美学」はない。負けたらお終いなのだ。向こうで40歳童貞とは、完全に男として敗北している。だから映画の内容も「童貞の美学」を語るのではなく、如何に童貞から脱するかに重点が置かれているそうだ。

その辺りが日本の童貞の在り方と根本的な相違がある。

そもそも、なぜ童貞ではいけないのだろう?

男の本能として、女性と関係を持ちたいというのは、哺乳動物の雄としてごく自然な欲求だ。

その自然な欲求を実践出来ない、つまり女性を獲得出来ない雄は、遺伝子を継承することが不能ないわば淘汰される存在だ。

童貞イコール自然界の掟から排除される対象ということ。

かつては、恋愛が出来なくとも、社会が婚姻のお膳立てをしてくれた時代があった。殆どがお見合い結婚という形で自動的に童貞を捨てる事が出来た。

だがそういった「自動童貞排除システム」が無くなった今日、男達は恋愛という「野蛮」な決闘の場で勝負させられてしまう。むろんプロの女性を相手にして童貞を捨てる事は可能だが、女性を獲得するか否かという意味においては童貞となんら変わらない。

当然ながら、恋愛弱者、恋愛不適格者の男性は女性を獲得することが出来ず、童貞を引きずるしかなくなる。

だが何を好き好んで、負ける事が決まっている恋愛闘争にエネルギーを注ぎ込む必要があろうか?

女性を獲得する事が、必ずしも絶対的幸福には結びつかなくなった今日、童貞のほうがむしろ人生を豊かに過ごせるのではないか?

勿論、それは幻想に過ぎない。生き物としては敗北者に決まっている。ただ、だからといって女性が社会的地位を高めた現代では、平均以下の大多数の男性にとって女性を獲得する事は万に一つの確率もない。

だったら、たとえ欺瞞と分かっていても、童貞に甘んじて「敗北者の美学」を味わうのも一興であろう。

そのうち放っておいても40歳、50歳の童貞がうようよいる時代がやってくる。

そうなれば、もう童貞が恥だとは誰も思わなくなる。むしろ童貞を捨てた男のほうが「野蛮で犬畜生」な存在として非難されるかもしれない。

少子化や、ニート、引き蘢りの増加が自然淘汰、人口調整の必然と考えれば、高齢者童貞もまた然り。

悲しい存在として生きていかざるおえない。


2005年9月7日

「電車男」再放送。

夕方、テレビを灯すとドラマ「電車男」の再放送をやっていたので、じっくりと観てみる。

最初の方は全く観ていなかった、というよりドラマの存在すら知らなかったので有り難い。

主人公電車男は、設定22歳で派遣会社勤務、年収300〜400万円あるらしい。実家住まいなので結構使える金はありそうだ。ただし恋人いない22年の、たぶん素人童貞。完全な「秋葉系」人間。

なんか、自分の22歳の頃と比べてしまった。

そう、たしか自分も22歳の頃、この電車男と同じように「恋心」を燃やして恥ずかしい青春を送っていた。このドラマ程ではないが、女の子に電話をかけるというシチュエーションで赤面ものの会話をした記憶がある。

だが当時は、当然ながらネットやメールも携帯も無い時代。

ダイヤル式の黒電話のみで、電車男みたいなやり取りしていたのだ。思い出しただけでも惨じめになる。

それはさておき、この電車男は憶いを寄せる女性に好かれようと、自分を改造するため金と時間をかけて身なりを整えたり、デート場所をリサーチしたりする。

思うに、もうこの時点で彼は「ヲタク」ではないなあ。

「ヲタク」は自分が誰かに好かれるために金と時間はかけない。内なる「自分」を満たすためにのみ生きるのが「ヲタク」であって、自分が誰かに評価されることは意識すらしない。だからあんな風貌でも平然と公の場に出られるのだ。「ヲタク」にとって身だしなみなど無意味なのだ。

にも拘わらず、この電車男は、恋する女性を意識して真っ当な身だしなみを整える。これはもはや「秋葉系」というより、行動様式としては「渋谷系」に近い。

電車男は結局、なんだかんだいっても周りの情況に対し、適用力が高い人間なのではなかろうか?

趣味として「ヲタク」っぽいことはしているが、根は「常識人」だ。

でなければ純愛ドラマは成立しない訳で。

考えてみれば、彼は同僚の女性の相談相手になってるし、そもそもちゃんと会社勤め出来ているのだ。有能ではないにしろサラリーマンとして生きているのだから社会に適応した行動が出来る。

肝心なのは、この電車男は引き蘢りでもニートでもフリーターでもないこと。

この御時世に派遣社員?として年収300〜400万円貰っているのだ。

ダメ人間が行き場をなくして「ヲタク」に転落したのではなく、常識人がたまたま「ヲタク」的趣味に染まっているに過ぎないのだ。

だから電車男の恋が成就したって不思議はないし、時には女性から好かれるケースもあって当然だろう。

振り返って、自分の22歳の頃を思い浮かべると、就職もしてないし、女の子に好かれるような身だしなみやファッションに関心すらなかった。バイトすらせず、風呂に10日以上入らず、家に引き蘢って悶々と漫画を描いていただけ。

社会不適格者として気がつけば「ヲタク」というジャンルに放り込まれていた。

それから20年以上根本的に何ら変わる事なく堕ち続け、今に至っている。

そんな社会不適格者からこの電車男をみても、所詮彼の苦悩は「洒落」としか思えないなあ。

常識人が趣味として「ヲタク」やっているのと、真のダメ人間が「ヲタク」に堕ちているのとは根本的に天と地の差がある。

常識人の「ヲタク」は実はエリートだったりもする。知識も豊富でとてもマメで優しいところがあり、実際のところ女性から頼られたりもする。無論そんな男は「隠れヲタク」で風貌や身なりは一般と変わらないのだが。

視聴者として主人公電車男に対し、それほど応援したいとは思わない。

なぜなら、彼は遅かれ早かれ恋を成就出来る能力をもった男だからだ。

むしろ主人公の電車男よりも、劇団ひとり演ずるより濃い「ヲタク」男に共感してしまう。

このドラマがたとえハッピーエンドで終ったとしても、現実世界の惨めな真性ダメ人間「ヲタク」は永遠に救われない。

彼等は死ぬまで毎日がバッドエンドなのだから。


2005年9月5日

豪雨。

昨日の夕方から深夜にかけて、東京23区周辺で雷を伴う局地的豪雨があった。杉並区では1時間に100ミリ以上の降雨を記録したとか?気象衛星の赤外線画像を見ると、ほんの僅かな地域だけが真っ白になっている。強力な積乱雲が発達していたらしい。

最近は、短時間の猛烈豪雨などそれほど珍しくないため、昨日も「なんか、また派手に降っているなあ」程度に考えていたのだが吃驚である。自分の家から自転車で5分位の妙正寺川周辺は川の氾濫で大変だったらしい。

ふと庭を見ると、百日紅の花が今頃咲き始めた。約一ヶ月遅れ。なんか不思議。

コミックスのカバー絵の図案がなかなか決まらず。

前回も結構難義した記憶があって、胃が痛くなる。


2005年9月1日

入稿。

先日、やっとのことで仕上がった影男シリーズ最新作をバーズ編集部に入稿。

絵コンテが仕上がって作画に入ったのが、4月20日頃。結局4ヶ月ちょっとかかった計算だ。

途中、自費出版や臨時の仕事が入ったので単純にこれだけ時間かかった訳ではないが、それにしても遅筆過ぎる。

今回はいつもより増して細かく描き込んだので余計手間がかかってしまった。

更にまたコミックス10月24日発売を目指し、これからカバー絵等の作業に入らねばならない。

気の抜けない日々が続く。


2005年8月28日

コミティア73来場感謝。

コミティア73の当スペースへお越し頂いた方に、この場を借りて御礼申し上げます。

コミケでの新刊がオリジナル作品ではなかったのでコミティアに持って行けなかったのが残念であったが、今回も多くの方に訪れて頂き、感謝。

この8月は、週末好天に恵まれ、毎週のように開かれた東京ビッグサイトのイベントは盛況であった。

ここ数年、何かしらの「祭り」に自分が積極的に参加していることに気がつく。

「祭り」の質が自分とシンクロするようになったのかもしれない。これは自分だけの感覚ではなさそうだ。

かつて、若者の「カッコよさ」というのは「反抗」であって、「祭り」に参加しない事に自らの存在意義を見い出すみたいな時代があった。

だが、最近は逆に、若い人程、積極的に「祭り」に参加しようという流れがあるように思える。

「ひきこもり」、「ニート」の増加ばかりが騒がれるが、一方で集団陶酔たる「祭り」の場を求める若者も増えているに違いない。

どこのお祭りに行っても、明らかに数年前とは違う熱気と人の増加を感じる。

先日、近所の「高円寺阿波踊り」を5年ぶり位に覗いてきたのだが、明らかに規模が拡張していた。子供の頃など近所の盆踊りに毛の生えた規模だったのに、今や東京の夏祭りの一つに上げられる程になった。

歩く隙間もないほどの人の波。もはや飽和状態だ。それも若い人が多い。普段は籠っているが、ここぞとばかりの「祭り」の場にはぞろぞろ出てくるのだろうか?

靖国神社に20万人参拝とか、そんなニュースが流れると国全体が来るべき「魂の祭典」に突き進んでいるようにも思える。

人は祭事なしには生きていけぬ生き物なのだ。


2005年8月23日

彷徨える魂。

火星探査車『スピリット』から、最近送られてきた砂漠の竜巻き連続写真

火星が近日点に近づき、大気が暖められて対流が活発になったのだろうか?激しく竜巻きやつむじ風が行き交う。

これを見てふと思った。

これはもしかすると、かつて火星上に存在していた生物の魂の化身ではなかろうかと。

数億年前、まだ火星に海が存在していた時代。

もしかすると高等生物が何処かに棲息していたかもしれない。そして火星が砂漠化し、その生物が滅んだ後、魂だけがその肉体を捨て、地上で彷徨っていたとしたら。

そしてあのつむじ風一つ一つがその魂の実体化した残像なのだ。

彼等は叫ぶ。

「我が彷徨える魂に肉体を与えよ!」

その肉体を捜すべく、ああしてつむじ風となって、何千万年も彷徨しているのだ。

あれは、我らの未来の姿かもしれない。


2005年8月21日

横田基地友好祭。

今年は多忙でキャンセルしようかと思っていたが、戦略偵察機U-2が来ているというので写真取材を兼ねて基地に赴く。

この日も真夏の陽射しが降り注ぐカンカン照り。飛行場エプロンは砂漠状態。まあこれが真夏の航空祭の醍醐味ではあるがかなり過酷。

乳児を連れた家族も多く、少々心配にもなる。下手をすると脱水症状にもなりかねない。

それはさておき、入場するとさっそくU-2が展示してある場所へ。ロープが張られているために写真を撮るには不都合だったが、パイロットが来場者と気軽に接する情況にあったため、U-2グッズを購入しサインをしてもらう。

午後4時頃、その機はホームに帰投するため横田を飛び立つ。

U-2の離陸シーンを間近で見るのは希有な事だ。機首が滑走路から離れると、あっという間にぐんぐんと上昇。遥か頭上を螺旋を描きながら成層圏に消えていった。

同じように滑走路側で見ていた20代位の女性がこう呟く。

「さっき目の前に居た人があんなに高いところに・・」

なんとなく印象深い言葉であった。

広大な視界が開ける飛行場や基地に行くと、意外な発想や、忘れていた感覚が蘇ったりする。

果てしなき西の空には夕日に照り返された飛行機雲が地平線まで延びていた。


2005年8月17日

夜明け前。

夏の黎明は一番好きな時間帯でもある。

そんな午前4時、近所のコンビニへ。

すでに秋の虫の音が僅かに聴こえる。そういえばこの夏の蝉時雨は例年より半年位遅かった。蝉時雨のピークと共に秋も立つ。

ふと空を見上げると黎明の天頂に赤い星が。

たぶん火星だ。

2年2ヶ月ごとに接近を繰り返す火星。前回は歴史的大接近だったのだが、あれからもう2年か。

コンビニでアイス最中を買う。某コンビニの絵皿プレゼントはスヌーピー。あまり関心なし。

『赤毛のアン』絵皿を集めた頃がなつかしい。

天は廻り、時は過ぎ行く。


2005年8月15日

コミックマーケット68来場感謝。

晴天に恵まれた14日、暑い中、当スペースまで足を運んで頂いた紳士淑女各位に御礼申し上げる。

今回はアイテムが多く、スペース内のレイアウトに苦慮する。増やし過ぎてしまった感があり、ちょっと整理しなければ。

頒布作業に関しては、お手伝いの方が二人来て頂けたので無理なく進行出来た。特典グッズやポストカード企画を考えて下さった方の助けにより充実したサークル活動が満喫できた。感謝の気持ちで一杯だ。

ということで、今回はちょっと余裕があったので西館の企業ブースにて初めて買い物をしてみる。それにしても西館アトリウムの人波はいつ見ても壮観だ。ラッシュ時の新宿駅でもこれほどではない。企業ブース内も熱気で満たされていた。どこも行列が出来ていて物欲のオーラで噎せ返らんばかり。目的のブツをゲットして早々に退散。

さて、今回は思った程来場客数が伸びなかった。自分のスペースだけでなく周りのサークルもそれ程人集りが出来ている様子がない。売り上げは配置場所に左右される場合もあるが、今回は午後2時頃には目立って人が少なくなっていた。最近は早めに人が退くケースと逆に午後から人が増えるケースの差が著しい。参加者の新陳代謝に伴ってコミケの環境も変わりつつあるのかもしれない。

一方で、昔ながらの読者やファンの方も多く、10年前に描いたスケブの絵を持っていらっしゃる方もいて感慨深い。

にしても、今回は久々に夏コミらしいコミケだった。熱気と汗に塗れるこの雰囲気。

これがある意味、祭りの醍醐味でもある。


2005年8月13日

コミックマーケットあびゅうきょサークルの御案内。

すでに最新情報等でもお知らせしているように、明日14日コミックマーケット68(8/12〜14・東京ビッグサイト午前10時〜午後4時)にて、今回もあびゅうきょサークルが出店します。

販売スペースは東4ホール”メ”37b。

新刊は「フェミファシスト・ヒルダの大冒険」阿佐ヶ谷誘覧ポストカードセット。他既刊オフセット、コピー本等頒布予定。今回、当サークルスペースにてカードセットと新刊ご購入頂いた方先着20名様にささやかな粗品を差し上げます。

また、幻冬舎企業ブース(西地区4階No252)にて発売される限定グッズ(コミックバーズ執筆陣による描き下ろし冊子)に作品掲載。詳しくは幻冬舎コミックスコミックマーケット情報サイトを御覧下さい。

会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。

お誘い合わせの上、御来場いただければ幸いです。


2005年8月11日

ドラマ『電車男』

原作も映画も観ていない『電車男』だが、ドラマも存在する事に最近気が付いた。

今日、フジテレビの木曜夜10時からのドラマ『電車男』を初めて観る。

雰囲気としては、もてそうもない男が必死になって美女を射止めようとする、いわいる『バスストップ』とか金八先生の役者がトラックの前に飛び出して、死ぬ死なないと喚くドラマ(題名忘れた)を踏襲した平凡な話なのだが、いわいるディテールが凝っていて「秋葉系」にとっては壺を突いてくる。

勿論、フィクションドラマであるから誇張が激しく、「こんなのいないよ」と突っ込みたくなるシーンはたくさんある。主人公やその周辺の「ヲタク」は、まるで知的障害者。誇張し過ぎた挙動不審は観ていて痛々しい。10年前だとしても、こんなのは居ない。

ただ、あくまで架空の存在として観賞するならばこれも一興かも。劇団ひとりの馬鹿馬鹿しい演技は下らな過ぎてよい。今回はコミケがストーリーに絡んでくるが、「知る人ぞ知る」シチュエーションが盛り込まれており、結構笑えた。

某巨大掲示板に書込みする数々の輩を、事細かに描いているのも面白い。各々の部屋のディテールとか小道具とか、よく集めたものである。現実には「見えない」掲示板の書込み相手をこのように映像化するのは、たとえ勘違いや誇張があったとしても興味深い試みだ。

これを観てふと思ったのだが、ネットを嗜む者達が如何に豊かな環境で物質、情報に溢れた空間を確保出来ているかよく解る。

かつてそんな空間は存在しなかった。

ところでヲタクの恋愛を考えると、ヲタク系女子が非ヲタク系男性と交際する例はよく聞く。「コミケカタログ」のマンガレポートにも紹介される位日常茶飯事。

しかし、このドラマのようないわいる「秋葉系」男性が非ヲタク系女性と交際するパターンは現実には殆ど例がないだろう。そういう意味では『電車男』は限り無くリアリティーがない。

逆に言えば、だからこそ安心して絵空事として観れてしまう。

さて、このドラマ『電車男』の見どころは、実は本編よりもオープニングとエンディングにあるのかも。

ヲタクの神髄を極めたようなオープニングアニメと、JR秋葉原駅ホームでロケしたと思われる群集シーンに悲哀溢れる歌。

特に、エンディング風景はいつも目にする場所だ。ホームの向こう側に自分の「仲間」が居るかどうか知らないが、そんな期待を抱かせる演出は楽しい。

これを観ただけで、なんか満足。


2005年8月10日

「終戦60周年特番」VS「シャトル着陸中継」。

スペースシャトル帰還の中継を観ようとテレビを灯すが、何処もやっていない。

平日の21時、いつもならNHKがニュースの時間なのだが、今日は長崎原爆の特番で中継が入ってこない。2年半前の事故後初のスペースシャトル帰還。その上、日本人飛行士が乗っているのに。

予定より一日遅れで着陸地点も変更された情況ではあったが、融通の利かないメディアの硬直性には救いがない。

仕方なく、パソコンを立ち上げ、リアルプレイヤーでNASA−TVの画像を観る。小さな画面で我慢だがリアルタイムでシャトルの着陸シーンをずっと流してくれる。

ふと思ったのだが、視聴者の知りたい事と、TVが流す情報とのギャップが最近激しくズレている。

かつては、情報といえば、テレビや新聞を鵜のみするしかなかった。視聴者の知識は乏しく、これらの情報に何の疑いも抱けなかった。

ところが今や立場は逆転。メディアの流す情報は大抵「胡散臭い」と誰もが思うようになった。真に受けたらとんでもない事になると。

だから人はテレビのリモコン片手に無駄な情報を省くべく、僅かな「真実」を捜して激しくザッピングを繰り返す。

昨今の「終戦60周年特番」もそうだ。

悲惨な映像や体験を交えて、2度と戦争を繰り返すまいと訴える。

だが、これを作っている者達は、本気でそれを訴えたいのか?それともただ「年中行事」として撮っているだけなのか?

10年前は、終戦50周年だった。多分、この年も、終戦記念番組がめじろ押しだったはず。

では、何か記憶に残っているか?

否。何一つ覚えていない。

何故ならば、毎年「同じようなモノ」を見せられているに過ぎないからだ。

自分の世代は物心付いた頃から、全く同じパターンの映像、主張を擦込まされてきた。おそらく40年前と何ら変わっていないだろう。

原爆映像もカミカゼ映像も空襲映像も40年前と何ら変わらぬ素材を使い回しているだけ。

まるで念仏のごとく。

念仏を唱えるだけで、戦争が防げるならばこんな楽な事はない。日本人全てが出家して仏門に入ればよい。

ところが、日本人の大半は「俗人」だ。

「俗人」にならなければ、この狭い日本で1億人余の人口を支えられる訳がない。

「俗人」が8月のこの頃にだけ聖人君子ぶって、「念仏」のごとき「反戦」を口にしても誰が信じるか。

幼き頃に「不戦の誓い」を擦込まされたはよいが、大人になってみたら金儲け拝金至上主義の社会に放り込まれ、否応無しに戦わされる。誰よりも「上」を目指さなければ生きて行けない世界に「不戦の誓い」など何の役にも立たぬ事に気が付くのだ。

単に「銃」が「銭」に置き換えられただけで、本質は戦争となんら変わらぬ。

そんな社会に生きた人間が切羽詰まった時、容易に「銃」を手にする事は疑いないだろう。

闘争せぬもの生きる資格はないのだから。

一方で大人になっても「不戦の誓い」に惑わされた者は、競争社会から落伍して惨めな生き恥を曝す。

「ニート」「引き蘢り」の激増は、そんな「不戦の誓い」教育の産物ともいえよう。彼等は闘争して生きる事よりも、落伍者として死んでいく事を選んだのだから、まさに「不戦の誓い」の申し子である。

そんな人間に、社会復帰させようなんて笑止千万だ。失礼にも程がある。

むしろ「聖人」として迎えるのが、筋じゃないのか?

戦死者に対する軍人遺族年金同様、「不戦の誓い」の申し子として「ニート」「引き蘢り」は国が手厚く保護する義務がある。

それを実践せずして、なにが「平和国家」だ。

リアルプレイヤー画像のNASA-TVの画像がら流れるスペースシャトルの優雅な着陸シーン。

予定時間に1分と遅れる事なくランディング。

正にテクノロジーと人類の英知の結晶だ。

一方、ふとパソコンの脇に置かれたテレビを見ると、ケロイドに爛れた背中を曝した老人が、60年前の恨み辛みを吐露している。

戦勝国と敗戦国。

宇宙に未来を夢見る国と卑屈に過去を振り返る国。

貧すれば鈍する。

同じ「俗人」なら、せめて未来に夢を見たいものだ。


2005年8月9日

オーバーワーク。

「最新情報」のページを更新。

コミックマーケット関連の原稿その他諸々に今回程エネルギーを使った事はなかった。

少々、オーバーワークぎみで夏風邪をひいてしまう。

35度近くの部屋で悪寒を感じるのは初めてだ。

エネルギー配分をきっちり計算して取り組むべきであったが、なかなかそうもいかぬ。コミケが終わったらずるずると遅れる商業原稿に力を注がねば。

先日、阿佐ヶ谷の七夕祭りをちょっと覗きに行く。

近年、浴衣姿の若い女性が増えた。あまり着こなしは上手くはないが華やかでよい。さらに今年は男性の浴衣も目立つ。少子化が叫ばれて久しいが、なぜかお祭りの場には若者の活気がまだある。

アーケードからぶら下がっているお馴染みのキャラクター人形で目立ったのはなぜかディズニー系。

ある雑貨店で食玩のワールドタンクミュージアムが新品で一個64円で売られていたのを目敏く発見。まとめて買ってしまう。

祭の場まで来て、WTMいうのは悲しい性か?


2005年8月5日

「愛の理想」

『僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう

アポロ計画はスタートしていたんだろう?

本気で月に行こうと考えたんだろうね。

なんだか愛の理想みたいだね』

これは「ポルノグラフィティ」というJポップスグループが唄う『アポロ』という歌のフレーズ。もう6年位前の曲だが結構今でも新鮮に感じる。

日本人宇宙飛行士が国際宇宙ステーションで船外活動をしているシーンがテレビに映る。

同時に家族のスナップ写真も紹介されていた。

ずいぶんと子だくさんな家庭だ。

子供達が『トトロ』の歌を父親宛に唄って聞かせる交信シーンは微笑ましい。

以前の日記にも記したが、宇宙飛行士選抜の際、優先されるのは決まって妻帯者である。

なぜなら、独身者よりも生き残ろうとする意欲が大きいからだそうだ。

それでふと、『アポロ』の歌詞を思い出したのだ。

よく「宇宙開発する金があるなら、乏しい国の援助や福祉に回せ」という者がいる。

だが、おそらく、宇宙開発を止めた国が、他者を無償で助けるような行為はしないだろう。

冒険や人類の英知に貢献することを放棄した者に、人徳など得られる筈はない。

危険を顧みない者は愛を語れないのだ。

この日本人宇宙飛行士もそうだ。

自分の幸せだけ考えていれば、家族を「遺族」にさせる危険な任務に就くようなことはしないだろう。

だがそんな身の保全だけ考えている人間は宇宙飛行士はおろか、結婚も遺伝子を残す事も出来ない。無論、人助けなど論外だ。

宇宙に「愛の理想」が在るかどうかは知らないが、少なくとも冒険を放棄した者に愛を語る資格はない。

朝日新聞に変な調査記事が載っていた。

「年収が高い男程、結婚する率が高い」

当たり前な事を記事にしているのも不思議だが、統計図を見てふと気付いたことがある。

年収100万前後の男子は30歳までに20%位しか結婚出来ない一方で年収1500万の男性は90%結婚出来るとあるが、逆に言えば年収100万でも10人に2人位は結婚し、年収1500万でも10人に1人は結婚を選択しない訳だ。

この辺りに「愛の理想」が隠されているような気がする。

年収が極端に少ない男が結婚を選択するということは、おそらく経済力に勝る何らかの「力」を持っているのであろう。同時に年収1500万の男が結婚を選択しないというのも、特殊な理由があるに違いない。

そう、敢えて「常識」を無視出来る「力」を持ちうる者。

おそらく、この中に「愛の理想」を見い出した者が含まれているはずだ。

無論、凡人俗人がそんな選択を試みても破綻するのは目に見えている。

凡人俗人はどう足掻いても、年収100万では結婚出来ないまま朽ち果て、年収1500万あっても己の欲望に身を滅ぼすのがオチだ。

ましてや、ニート、引き蘢りに至っては、この統計にすら含まれない。最初から対象外。

「愛の理想」は希有なる賢者のみしか獲得出来ない崇高なステージなのだ。

『僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう

アポロ11号は月に行ったっていうのに

僕らはこの街がジャングルだった頃から

変わらない愛のかたち捜してる』

変わらない愛のかたちは何処にあるのか。

何億光年先にあろうとも人はそれを捜すため宇宙を彷徨い続ける。

それを止めたら、人類皆ニート。


2005年7月31日

7月終わり。

気が付くと、7月が終わってしまった。今年の7月は日曜日が5回あったのだがそんな実感もなし。

なんだか最近は全てが「気が付くと終わっている」状態。

月末、臨時の原稿の仕事が入ったりと慌ただしく、なかなか日記の更新が出来ない。

愛聴していたあるコミュニティーFMのDJ、O氏が引退。

同人誌のテーマにも取り上げた局に在籍しゲスト原稿まで頂いた方なので何とも惜しい。CFMのDJさんは本業を他に持っているボランティアが多い。それでもO氏は6年近く続けていたので凄いものだと思う。

廃虚や廃線の話は興味深く、ギャグのセンスも壺にはまった。アシスタントの女の子との絡みも絶妙だった。調子に乗ってアホなFAXを大量に出したものである。

彼のようなCFMで聞きごたえのあるDJは希有だったので寂しい限りだ。

CFMを聴き始めてからそろそろ10年近くになるが、当時から残っている馴染みのDJも少なくなった。面白い(つまり際どいシュールでアブノーマル)なDJさんほど短命なのは仕方ないか。かつてのミニFMとは違い、CFMは結構保守的な組織。そこで継続してDJを続けるというのはかなりのエネルギーが必要だろう。

またの再起を期待している。

でもラジオって面白そうなので、一度はやってみたい。


2005年7月24日

コミックマーケット68(8/12〜14・東京ビッグサイト)あびゅうきょサークル頒布御案内。

最新情報にいろいろアップした。よろしくの程を。

頒布アイテムがどんどん増えてスペース内のレイアウトが大変になってきた。ちょっと工夫しないとまずい。

11年前に最初にコミケ参加した時は、新刊20冊をドンと机の上に無造作に置いただけで済んだのに。

涼しい日が続く。

気象衛星画像を見ると関東東北上空に寒気の渦に伴う雲がずっと居座っている。台風とは別の渦巻き状の雲。

これがある限り、大平洋高気圧は関東まで張り出しては来ない。

もしかすると今年は東日本は冷夏かも。


2005年7月23日

「彼の敵は世界」

夏コミ新刊原稿をK印刷に入稿。その足で渋谷シネマライズへ『ヒトラー最期の12日間』を観に行く。

あいにく上映開始時間ギリギリ。この機会を逃がすのも惜しく、仕方なく立ち見で我慢。

単館上映の上に週末とあって思いのほか盛況。観客の中に何故か初老の男女がちらほら。妙な違和感が。

映画自体が死を扱う密室劇ゆえに、銀幕に映し出される断末魔と客席に居るリアル世界の初老の男女がダブって物凄い息苦しさを覚える。

客席の再後列での立ち見だから尚更。

これがある意味、劇場観賞の醍醐味?

それはさておき、映画の感想。

ヒトラーの最期、及びベルリン陥落は随分前から戦記本で読んでいたし、自分もコンバットコミックで『ハンナライチェ我が闘争』を連載していた時に散々調べ上げたので殆どのシーンは「ああ、これね」とうい感じで観ていた。

淡々と時系列に沿って話が進むのでドキュメント映画といった作り。思想臭も薄いので冷静に観賞出来た。

なによりドイツ人自らが作ったという点でリアリズムがある。これがもしハリウッド製で米国俳優が英語で演じていたら同じストーリーでも興醒めしていたろう。

軍オタっぽい視点から観ると、88ミリ高射砲(旧ソ連製の高射砲を似せている)やパンツアファスト、SSの迷彩服やらが随所に出てきて興味深いが、それ程濃い描写はないので今一つか?何かタイガー1型に似せた戦車がちょっと稚拙な作りで残念。戦闘シーンは添え物程度なので仕方ないか?もっと武装SSの戦闘シーンが欲しかった。ドイツ側から見た国会議事堂内の攻防とかね。

あと主役のヒトラーは雰囲気が出ていた。これ以上特徴ある人物はないから演ずると自然に本人が乗り移るのかも。

シュペーアの俳優も似ていた。だがゲッペルスには違和感あり。

ただ、やはり作品の根底に「ナチス・ドイツ」の罪という訴えが見隠れするのは、商業作品として仕方ない事か。

ナチのプロパガンダに殉じる者達を肯定的に描く事は、今でも無理なのだろうね。

渋谷からの帰り、地震に遭遇。

といっても、なぜかまったく気が付かなかった。「東急ハンズ」の地下フロアにいたのだが、揺れをまったく感じず。駅に着いて電車が止まっていることで初めて地震を知る。慌ててラジオをつけて情報を収集。

やっとの事で家に辿り着くと、棚にあった諸々のモノが床に落下している。此所数年の揺れとしては最大かも。

でも何故に、揺れを感じなかったのか今でも不思議である。


2005年7月18日

梅雨明け。

関東地方の梅雨が明けた。なんだかムシムシする陽気が続いていたので今一つスッキリとした梅雨明けではないが。

原稿を自費出版、商業原稿平行して進行させているが、焦りばかり募る。今年前半は作品発表が少なく、その分無理をしてでも今年後半は作品発表ラッシュといきたい。

コミックスの準備も合わせて頑張らねば。


2005年7月12日

墓参り。

13日からは御盆。

何年かぶりに墓参りをする。場所は東京都下にある多摩墓地。

子供の頃はよく家族一緒にピクニック気分で赴いたものだが、最近は御無沙汰だった。自分の歳を考えるとそろそろ墓守りも大切な役目。

だがこの歳で妻も子もない状態では先々思いやられる。このままではいずれは無縁仏になってしまおう。無論、子を残せた親族が後々管理していくことは可能だろうが一抹の不安が漂う。

少子化は先祖を祀るという大切な行事すら損なうのだ。

本来ならば父母祖父母、妻と子を連れ、先祖の眠る墓前で祈る事がこの時期の当たり前な光景だった。

だがこれからは彼岸や御盆に先祖の墓を参る人影も疎らになる。

無数の無縁仏が放置され、先祖達の報われぬ魂が還る場所もなく彷徨い続ける。

生ける者よりも死せる者が勝り、此の国は「死霊」の支配する闇の世界に沈んでいくだろう。

夜、迎え火を焚く。

北東気流の肌寒い風に迎え火の炎は揺らめき、立ち上る煙りは先祖の霊を黄泉の国から現世に誘い出す。

霊は耳元でこう囁く。

「これから我らの魂は何処へ還ればよいのだ。お前が死んだ後、どうなるのだ?」

やがて迎え火は燃え尽き、辺りは漆黒の闇に包まれた。

その闇は深く限りがない。


2005年7月6日

永島慎二氏死去

今朝の朝日新聞に訃報が載っていた。すでに6月初旬には亡くなっていたらしい。

最近体調が悪いとの噂は聞いていたが、まだ60代。この世を去るのは一寸早い気もするが第一線で活躍していた漫画家としては天寿かもしれぬ。

永島慎二氏を直接知るきっかけとなったのは今から10年近く前だろうか。

阿佐ヶ谷の某漫画情報誌編集部で週何回か開催されていたクロッキーワークショップ。

そこで永島慎二氏と直接お話しする機会に恵まれた。

すでに氏は漫画執筆の第一線から退いてはいたが、漫画界の重鎮として多くの現役漫画家からカリスマとして崇められていた。

当時の自分は、もともと漫画を多く読む方でもなく、ましてや漫画家同志の付き合いも皆無だったので永島慎二氏のことは名前を知っている程度であった。

だが、直接お話を伺ってみると、奥深さと言うか、修羅場をくぐり抜けてきた賢者の風格を持つ人だった。非常に敷居が低くどんな格下の者に対しても同じ目線で語りかける優しさがあった。

漫画家としてというより人間として「出来た」人との印象が強い。

因に氏の御長男も著名なクラシックギター演奏者である。一度阿佐ヶ谷で開かれた演奏会に行った事があるが、父である永島慎二氏が満足そうに息子の演奏を眺めていた姿が印象深い。

優秀な血統が見事に受け継がれているのに安心していたのだろうか?

カエルの子はカエル。

だからこの世を去る時も何の悔いもなかったろう。

素晴らしい作品を残し、自らの優秀な遺伝子も継承された。

選ばれし者の死は清々しい。

御冥福をお祈りする。


2005年7月3日

「辛い話を聞いて元気になろう」

TBSラジオ『伊集院光 日曜日の秘密基地』を聞いていたら、成功した芸人や作家、俳優の下積み経験を紹介する特集を流していた。

辛い経験を重ねて今日の地位と栄冠を勝ち取った者の「武勇伝」といったところか?

ただこういった話を聞いていつも思う事だが、これらの「辛い話」は今現在成功している者だからこそ笑って話せるし、今に至る基礎固めのワンステップだったと振り返れる訳だ。

だが大半の者は、そんな辛い経験も何の役にも立たず、歳を重ねた今現在も辛いままなのだろう。

「思い出したくもない過去」として。

役者や歌手を目指して、辛い経験を重ねたのにも拘わらず、何の成果も残せず中年期を迎え、コンビニで20歳代の上司から馬鹿にされつつバイトするしかない者にとっては、過去は忌わしいだけ。

そう、人生そのものが「無駄」だったのだ。

栄光を手に出来なくとも、平凡な家庭を手にする事が出来れば、それはそれで「成功」かもしれない。

しかし、そんなささやかな幸せすら手にする事なく、「社会のお荷物」として打ち捨てられる40代独身の「役者志望、芸人志望」は惨めで哀れだ。

そもそも成功する者は、必ずしも「苦労」する訳ではない。最初から順風満帆で挫折知らずという者の方が実は多いのだ。

生きているステージが違う。

優れた人間にはもともと才能があり、そしてその才能を伸ばす場を嗅ぎ分ける嗅覚に長けている。そんな者は放っておいても「成功」が約束されているのだ。「運」すら自分から引き寄せてしまう。

この番組にも挫折知らずな有名俳優の経験が語られていた。

一方でダメな人間はとことんダメである。

むしろダメなまま人生を引きずっている哀れな者の人生記こそ聞く価値はあるかもしれぬ。

そういった人間を見聞きすればするほど、人々は元気になれる。人は、自分より格下の人間を見て安心する残酷な生き物だ。

「ああ、自分よりも惨めな人間がいる。それに比べればまだマシなんだ」と。

成功する事なく、ダメにダメを重ねる人間に何か価値があるとすれば、自らの惨めさによって人を元気づけることなのだ。

だがそんな人間は常に物陰に隠れこそこそ生きる癖が付くから、唯一最後の「自己表現」の場すら見出せない。

貧すれば鈍す。

「辛い話を聞いて元気になろう」

ただし、いまでも辛い人に限る。


2005年7月2日

原稿の日々。

取りあえず片付けなければならない仕事を一つクリア。

休む間もなく次の仕事にかかる。

気合いをいれて原稿描くべし!描くべし!

因に夏コミにはちょっとしたポストカードを販売する予定。明細は後日。

気の滅入る朝ドラ。

好きで観ている訳ではないが、NHKの朝ドラがやたら陰鬱としている。

タイトル画は人気の女性漫画家が描いているのだが、そのイメージとはまったくかけ離れた内容で訳が解らない。

主人公の親父がめっぽう暗くて鬱を背負って歩いているようなキャラクター。

朝っぱらからこのようなドラマを観せてどうしようと言うのだ?

いっそ毎回登場人物が自殺していく内容はどうだろう?

『ノリピー不思議な夢気分』的シュールさが欲しいところ。

妻役のノリピーが実は宇宙人で、馬に異星人の卵を産みつけて失踪。それを見て親父は覚醒。主人公の娘は感動のあまりゴスロリを着てじっと引き蘢ることを決意。

最終回は全編親父の独り言。

マンネリ化した朝ドラにはこのような突飛なストーリーが必要だと思うのだが。


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