2004年7月・8月・9月


2004年9月27日

苦行の百里航空祭。

茨城県にある航空自衛隊百里基地航空祭に赴く。

今年は米空軍アクロバットチームも展示飛行するので是非とも観ておきたかった。

またF15等戦闘機の資料収集目的もある。仕事で戦闘機を描く時は出来るだけ自分で撮影したものを使いたいからだ。首都圏で唯一の戦闘部隊が常駐する基地なので興味深い被写体が多い。

さて、家を午前4時に出て始発で現地へと向う。百里基地は交通事情が極端に悪く、以前行った時は渋滞に巻き込まれ、えらい目にあったため出来るだけ早い時間に到達することが肝心だ。

最寄り駅のJR石岡駅に着いたのは午前7時15分。

ところがすでに基地行きシャトルバス乗り場には長蛇の列。曇り時々雨のあいにくの天気にも拘わらず凄い人だ。結局3時間待ってやっとバスに乗り込む。昼頃着ければ御の字と思っていたがとんでもない事に。

渋滞がなければ1時間程のところをなんと5時間掛かってしまったのだ。こんなにも長時間バスに閉じ込められたのは初めて。待ち時間を合わせれば8時間!怒りを通り越して呆れるばかり。

結局、基地に着いたのは15時30分。

ちょうど基地祭終了の時刻だ。なんと家から基地まで11時間掛かってしまった。

それでも人が引き始めた基地内を時間が許す限り観て回る。お目当ての米空軍アクロチームはすでに帰投した後。虚しい気分が流れる。それでも格納庫内の戦闘機を近接で撮影出来たのはせめてもの救いか。

いずれにせよ、毎年渋滞するのが解っているのに抜本的な対策をとらない自衛隊、現地警察、バス会社の手際の悪さが目立つ。

まあ、ネガティブな事ばかり嘆いても仕方ない。良い事もいくつか。

歩いた方が早いバス車中から眺める基地周辺の家屋は興味深い。

時から忘れ去られた国道沿線のぼろぼろの看板や店鋪。対照的に奇抜な花環が並ぶ石材屋等は楽しい。一方で防風林に囲まれた屋敷や色とりどりの花を栽培している庭など都内では見受けられない緑一杯の環境に羨ましさを感じる。

更に帰りに乗った鹿島鉄道は絶品である。

半世紀前から時間が止まったような駅舎に車両。実に赴きがある。夜の常陸(ひたち)小川駅は時空を超えたタイムステーションのよう。

結局、写真は百里基地より常陸小川駅で撮った枚数の方が多かった。

この鉄道はもっと活用されて然るべきであろう。渋滞の国道を横目にスイスイと走るディーゼルカー。本数は少ないけれど確実に走ってくれる。いっそ百里基地まで線路を伸ばしてくれないものか?

車社会の弊害が酷くなる中、既存の鉄道を上手く活用する時代になった。ヨーロッパでは路面電車の復活が著しい。この鹿島鉄道もレトロな雰囲気を残したまま、車に代わる交通手段として活躍してもらいたい。

鹿島鉄道のディーゼルカーに揺られていると、往路の不快な「バス旅行」もいつのまにか解消されていった。


2004年9月23日

涼しさ。

やっと関東地方も此所に来て涼しさを感じられるようになった。

陽射しが傾いて部屋の中にまで日光が差し込む季節だというのに暑さが治らず閉口していた。

それはさておき、これほど暑さが続くと身体が「熱帯気候」に慣れて温かい飲み物に戸惑う。

今年の夏は一体、何本の500mP入り紅茶の紙パックを買ったろうか?アイス最中の消費も新記録だ。

普段はアイスなど殆ど食べないのにこれは異例だ。

近年は春と秋がなく、いきなり暑くなったり寒くなったりするので今年も真夏日の次の日に初雪が降るのではないだろうか?寒暖の差が1日にして20度以上の日も少なくないのであり得る出来事だ。

猛暑の年は厳冬になると言われる。

今から寒さ対策する方がよいかも。


2004年9月22日

年少者の性交禁止条例。

なにやら都条例で小中学生同志の性交を禁止する法案を検討中とか?

どこまで本気なのかは解らぬが、最近の都条例は荒唐無稽なのが多い。

自分が小中学生の頃は性交はおろか男女交際すらお伽話の世界。だからこんな法案も童話の世界の話かと錯覚する。

でもどうやって性交を検証するのか?

毎朝、保健の先生が女子児童、生徒を集め処女検査でもするのか?そこまでやればまあ、この条例も意味があるかもしれぬが、たぶんそんな検査はしないのだろう。

下着の見えそうなミニの制服で性フェロモンを公の場でまき散らしておきながら、その制服にはまったく手を付けず、徒に買春禁止やら児童ポルノ取り締まりやら、果ては自由恋愛での性交禁止やらの法律を濫用する。もうやってることが気狂い沙汰だ。

こんな犬も食わない法律作っている暇があったら、30〜40歳代の恵まれない童貞独身男性のための公娼制度でも作れ。

都営の売春宿を設立するほうがよっぽど有益であろう。

そこなら援助交際も合法になるんだから一石二鳥。

パチンコ屋と高利貸しが濫立する街を放置しておきながら何が児童ポルノ取り締まりだ。

小中学生のせせら笑いが聞こえてきそうだ。


2004年9月16日

火山灰。

朝、自転車のサドルを見るとうっすらと細かい塵のようなものが。

浅間山の火山灰だ。

随分前にも同じように浅間山の火山灰が東京に降った事がある。前回は一回きりだったが今回はどうか?

今後、季節は冬に向うにつれ北西風が卓越する。そうなると風下の東京に火山灰が降る確率が多くなる。

もし浅間山の活動が活発になったら雪景色どころか灰景色が見られるかもしれない。

灰に埋まる東京。

因果応報だ。


2004年9月15日

薪能。

15日、西新宿の都庁前で開かれた薪能を観る。

高層ビルの谷間での薪能はこれまで二回程観賞したことがある。

新宿住友ビル下と日比谷。

超高層ビルと薪能は不思議とシンクロする。

厳粛たる能の時間軸と超高層ビルの空間構造がおそらく合致するのであろう。更に闇が無駄なものを消し去り、ビルの灯りと能舞台の薪が超時空を出現させるのだ。

おそらく、戦国武将の織田信長もこれと同じ感覚を能に求めたのであろう。

さて、今回の薪能は入場無料の上、新聞にも大きく広告が載っていたので大挙人が押し掛け、凄い行列が出来ていた。座って見れる席は僅かで殆どの見学者は後ろで立って観なければならぬ。とても能観賞出来る情況ではない。疲労が先に来て神経が集中出来ぬ。

それでも好天の星空の下、薪(といっても人工の照明はあったが)に照らし出された能舞台と都庁舎のシルエットは戦慄を感じる程の神々しさがあった。

本来はもっと厳粛な環境で薪のみの灯りの下、能を観賞してみたい。明治神宮や新宿御苑でも薪能は上演されるようだ。

それはさておき、この日は「敬老の日」で休日だったはず。ところが今年から「ハッピーマンデー」制度で休みがどこか別の日に移動したそうだ。

国を挙げての「大きなお世話」はこのことを言うのだろう。

せっかくの好天なのに休みではないのだ。因に代替の休日の20日は全国的に悪天だとか?

天に唾吐くようなことするから「ハッピーマンデー」は大抵雨か曇りになる。

いい加減にこの制度は止めるべき。

「ハッピー」じゃなくて「バカ」になるだけだ。


2004年9月14日

「ニート」

最近、増えている新しい「引き蘢り人種」。

大学を卒業しても就職活動せずにいる若者をニート(NEET=無業者)と言うそうだ。

平成15年には日本全国で63万人位いるとか。

フリーターよりも更に就業意欲がなく、とにかく働こうとしないらしい。

大半はパラサイトとして生きているのだろう。

まあニートなんて名称はカッコよすぎるから「ウンコ製造機プラス」という呼称でよいのではないか?

それはさておき、こういったパラサイト無業者を世間は軽蔑する傾向があるようだ。

「親に寄生し、生産性のない社会のゴミ」

「現実逃避の臆病者」云々。

しかしこの世に何物にも依存しない人間がいるだろうか?

否。

考えてみれば、人間はこの地球に依存して生きている。人類すべて地球のパラサイトだ。空気や水は全て地球からタダで頂いている。就労者にしたってその雇い主や会社に依存している。更に都市住民が農業や狩猟という重労働から解放された理由は、貨幣、物流というシステムに依存しているからである。

そう考えれば、みんなパラサイト。

単に「依存の階層」が深くなっただけで、ニートと会社員の差など大して意味はない。

就労者にだって「社会のゴミ」はたくさんいるし、ニートの中にも「天才」はいるだろう。むしろ会社の「社畜」になる位なら、ニートの方が賢い生き方ともいえる。

これからの時代は釈迦力に働いたって得るものは少ない。出世、結婚、出産などはもはや一部の選ばれし特権階級にしか獲得出来ない。

多すぎる人口を間引きする時代がとうとうやってきたのだ。

最近流行の「合併」は、早い話「人減らし」なのだから。

全てが縮小に向っていくこれからの世の中、ニートは自らの未来を自主的に放棄した「おりこうさん」だ。

で、依存する対象がなくなったらどうなるか?

おそらく、これからの行政はこうした「いらない人間」を合法的に処分する「安楽死センター」を各自治体に設置する業務に負われるだろう。清掃工場が「安楽死センター」に生まれ変わるのだ。

長生きしたって得るものはなかろう。これからの時代は特権的貴族と家畜みたいな奴隷人の二階級社会に逆戻りだ。

奴隷の血筋を残す位ならニートとして死んでいく方がマシというものだろう。

ニート万歳。


2004年9月13日

女性の気象予報士。

最近増えている女性の気象予報士。

だが彼女らの伝える台風情報を観ていると急に恐ろしくなる。

なんだか、凄い違和感が全身を走るのだ。

なぜだろうか?

いろいろ考えて結論が出た。

気象は地球大気の物理現象であると同時に、神の祀り事でもある。

それを司る者が「不浄の存在」である女性であってよいものだろうか?

そう。このような神の祀り事たる台風来襲に女性が関る事は禍を意味する。

女性気象予報士の存在は、台風を怒り狂わせ、甚大な災害を発生させる原因となろう。

今年の台風がこれ程沢山本土に上陸したのも彼女達のせいかもしれない。

恐ろしい。

先人が神儀の場から女性を遠ざけた理由が、これで何となく解ったような気がした。


2004年9月8日

顔料系ゲルインクボールペン。

現在、「影男シリーズ」の新作をペン入れ中。

ところで、ここ数年ずっと漫画原稿のペン入れにメイン筆記具として使っているのがパイロットの「ハイテックC」

0.3と0.4ミリをメインに使用し重宝している。

最近このような細く綺麗に描ける顔料系ゲルインクボールペンが各メーカーよりたくさん出ているようだ。

漫画用に使えるものとしては「ハイテックC」の他に、三菱「ユニボールシグノ」というブランド名で超極細のペンが出ている。ペン先は0.28ミリで「ハイテックC」より細い。

更にペン先の構造が「ハイテックC」と異なり、よりスムーズに描写出来る。より細い線を描く時に丸ペンで処理していた部分もこれで代用出来そう。

「ハイテックC」も、最近0.25ミリの超極細が出た。さっそく使ってみるがやや根詰まり感があって掠れてしまう。やはり「ユニボールシグノ」のほうが描き味はよい。

ただ、問題もある。

ゲルインクは元々乾くのが遅いので「ハイテックC」の場合もかなり時間を開けて消しゴム入れしていたが、「ユニボールシグノ」は「ハイテックC」よりも更に乾きが遅く、約1日置かないと消しゴム掛けが出来ない。締めきりギリギリの時は要注意になる。 また余り強く消しゴムをかけると薄くなってしまう。定着度は「ハイテックC」と比べ劣っているので気をつけた方が良い。この辺りはまだ付けペンの方が勝っている感じだ。

ところでこういったボールペン選びは男性より女性の方が得意なようだ。文房具売り場でペンをチェックしているのは大抵女性である。蛍光色とか女性受けがよい商品が多いからかもしれない。

実は「ハイテックC」も「ユニボールシグノ」も、自費出版でユニットを組んだ女性同人作家さんから教えて貰ったのだ。このきっかけがなかったら、未だに丸ペンでノロノロ描いていた事だろう。


2004年9月7日

地震、台風、噴火に津波。

防災の日に合わせた訳ではなかろうが、こんなに天変地異が重なるのは珍しい。

何かの予兆だろうか?

少し、備えていたほうがよさそうだ。

紀伊半島沖の連続地震は超巨大地震の前触れと考えてもおかしくない。台風だって本格シーズンはこれから。超弩級台風が来襲する可能性は高い。

浅間山もこれで沈静化するとは思えぬ。

特に、広島の厳島神社の倒壊は何かの暗示として心に留めておく必要がありそうだ。


2004年9月4日

未知なる者とのコミュニケーション。

最近のニュースに面白いものがあった。

プエルトリコにあるアレシボ天文台の電波望遠鏡が天然ノイズとは違う「人工的」な信号を捉えたという。

地球外文明を探索する機関が宇宙空間から来る電波を常時モニターしているのだが、その網に引っ掛かったらしい。

無論これが異星人からのメッセージである可能性は低い。

だが、たとえそれが地球外文明の発したメッセージだとしても、彼等とのコミュニケーションが出来るとは思えぬ。

同じ人間同志ですら、意思の疎通は難しい。特に異性とのコミュニケーションは、もしかすると異星人とコンタクトするより難しいと思う事がある。

それで思い出したのだが、先日テレビでこんなものを観た。

「外国人男性と結婚したがる30代女性」

夕方6時頃の民放の「ニュース」で扱っていた特集だ。

この時間帯の民放は「ニュース」と称しているが実質専業主婦向けの「ワイドショー」であって、このような特集を真に受けるのもどうかしているが・・。

さて、そこで紹介される白人大好き30代独身女性曰く

「日本の男性は察してもらう事ばかりで、はっきり自分の気持ちを言わない。それに比べ、外国人はストレートにものを言うからコミュニケーションがとりやすい」

文化も言語も違う異国人のほうがコミュニケーションが取りやすいとは理解に苦しむが、おそらく彼女の憶う「優しい白人」からは、なんか不思議な電波が出ていると信じて疑わないのだろう。

アレシボ天文台で捉えた「信号」のごとく。

最近の若い女性の思考基準は正に「異星人」並だ。いや、それより遥かに難解かもしれない。

今の日本女性が、白人男性に憧れるのは相手を理解する努力を怠り、傷つく事ばかりに敏感になったからかもしれぬ。

だから未知の「異星人」たる白人男性が幸せを運んできてくれると考えるのだろう。

しかし、言語や文化が違う者同志のコミュニケーションは、日本人同志よりもっと複雑なものになろう。

日本人は「察しと思いやり」だったはず。

それを失ってしまっては、たとえ相手が白人だろうがマントヒヒだろうがM76星雲人であろうが結果は同じだ。

何千万光年のはるか彼方にある者とコミュニケーションが取りたいのなら、まず目の前の人間を理解する努力が必要だ。


2004年9月3日

鉄道のない街。

先日、NHKテレビで鉄道が廃線になる街の杞憂を題材にした番組をやっていた。

過疎地でもない街から鉄道が消えるというのだ。

生まれて以来、東京23区以外に住んだ事のない自分にとっては考えられない事。

両親の実家も23区内であるから「里帰り」もJR山手線、中央線と東急東横線だ。

鉄道以外に交通機関を使うのは余程の事でない限り、ありえない。第一、都内での自動車やバスでの移動が鉄道に勝る要素は何もないからだ。

こういう生活に慣れると、地方の生活が如何に苦痛かよく解る。

まず、車がないと生活出来ないらしい。

だが、それでも鉄道が通っている地方都市は幸いだ。本数が少なくとも時間の計算は出来る。

ところがそんな地方都市から鉄道がなくなったらどうなるのだろう?

代替の公共交通機関のバスなど1時間に1本あるかないかとか。そんなものあてになるまい。

車のない住人は死んだと同じだ。

何時来るか知れぬバスを待ち、乗ったら乗ったで渋滞。電車移動での数倍の労力と無駄な時間を浪費しなければならぬ。車の所有者だって、維持費に加え交通事故の心配は常に付きまとう。更には出先でお酒も飲めぬ。当然渋滞に巻き込まれたらとんでもない時間を食う。イライラも募る。

自分には好き好んで車に乗る人の感覚が解らない。

以前、こんな事があった。

北関東の温泉に知り合い達と旅行にいった時の事。知り合い達は皆、車での移動だったが自分は車の非効率性が嫌いだったので、独り鉄道で現地に向い、宿で落ち合うことにした。

夕方4時頃、先に民宿に着いて宿のロビーで待っていたが、いっこうに仲間はやってこない。当時は携帯なんて便利なものはなく連絡も付かない。結局、仲間が着いたのは夜中の12時。渋滞に巻き込まれ動きが取れなかったのこと。

ところが彼等は人を8時間も待たせたのに謝りもしない。文句を言うとまるで電車に乗って早く着いた方が悪いみたいな反論をする。その件があって以来、増々車が猛烈に嫌いになり、どんな事があろうと車での移動は断じてしないと誓ったのである。

もし車でしか移動出来ない地があったなら、そんなところには金をくれても行くまい。非効率で不快で危険な乗り物に乗って移動するのは田舎者か野蛮人のすることだ!とまで思うようになった。

会合や仕事等でどうしてもやむおえない場合を除いて、車での移動は一切しない。そこまで愚かな人間にはなりたくないのだ。

だから、鉄道のない街に住むなど言語道断だ。そんな場所は文明人の住む地には適さない。

車主体の移動手段しかない地方都市の渋滞は気狂い沙汰でもある。

まともなバイパスがないから、一度渋滞するとにっちもさっちもいかぬ。数年前、茨城でのイベントで乗車したバスが大渋滞に巻き込まれた。まったく動かず、歩いた方が余程早い。それでも交通手段は車しかないから、わらわらわらわら車が集まってくる。その殆どが土浦ナンバー。現地の人だ。

これでは目的地に着く前にイベントが終わってしまうではないか?この渋滞に巻き込まれているドライバーと同乗者達はこの愚かさが解らないのだろうか?

それでも忍耐強く車に乗っているのである。とてもじゃないが付き合い切れない。車社会がどれだけ無駄な時間、労力、財産、生命を浪費しているか解らならしい。地方都市住人は一家に三台も車があるというではないか!

まったく信じがたい。

きっとどこかマヒしているのだ。たとえ歩いた方が早くとも車に乗る習慣が付いてしまった以上、車で移動する以外の選択肢がないのだ。

コンビニにまで駐車場があるというではないか!

まさに狂気の沙汰だ。

こんなところには絶対に住めない。

鉄道のない街に住むぐらいなら死んだ方がマシである。


2004年8月31日

電波メダル。

アテネオリンピック男子マラソンでトップランナーを妨害した男がいた。

「自称元司祭」のアイルランド人。

警察によると、彼はこう言ったそうだ。

「キリストの降臨に備えてランナーを捕まえた!」

前にもこの男はイギリスの自動車レース会場でコースに飛び出し捕まった前科があるそうだ。

彼には電波メダルを授与すべきである。

よく、頭のおかしい人間が事を起こした時、メディアは「訳の解らない事を言っている」と報道するが、その「訳の解らない事」の真相を知りたい。

実は「訳の解らない事」の中に究極の「真理」が隠されている事だってあるのだ。

この「元司祭」も、天界から本当に電波指令を受けていたのかも知れず、それを実行に移したのは称賛に値しよう。

オリンピックは「参加する事に意義がある」。

ならば彼にもメダルを獲得する権利があろう。

「妨害」された選手も怒りどころか「神から与えられた試練」とむしろ喜んでいる。

メディアも結構大きく扱っているではないか。

このアテネオリンピックでの最大のヒーローはこの「元司祭」であることは間違いない。

電波男に栄光あれ!

今後の活躍に期待したい。


2004年8月30日

コミティア69来場御礼。

昨日、悪天の中、東京ビッグサイトでのコミティア会場当ブースに来て頂き御礼申し上げる。

それにしても今年の8月の同人イベントは、なぜこうも雨に祟られる?

昨年のような冷夏であれば諦めもつくが、前日まで猛暑晴天の連続だったのにイベントの日に限って突如として冷たい雨が降り出すとはこれ如何に?

それはさておき、会場でモンゴル料理を出しているブースを見つけた。やたらと行列が出来ているので大手のサークルだろうと列を辿っていくと料理屋だった。今度食べてみようか。

この日のビッグサイトはコミティア以外にも同人イベントがあったようで、ゴスロリファッションの女子を多く見受けた。最近ゴスロリは増殖しているようで眺めるには楽しいが、着ている本人は恐ろしくて近寄りがたい。

でも時々、あのゴスロリッ娘のツインテールをぴょーんと両手で持ち上げてみたい衝動に駆られる。

きっと殺されるだろうな。

恐ろしい。


2004年8月28日

『大平洋ひとりぼっち』

最近、久しぶりに面白い本を読んだ。

1962年に大平洋を単独ヨット横断した堀江謙一氏の著書だ。

元々は40年近く前に発刊されたもの。それが今年復刊されて書店に並んだ。

航海日誌風の構成で勿論ノンフィクション。

大自然と対峙するリアルな描写が飽きさせない。地図帳を出して本に記された太平洋上の緯度経度をチェックしながら読むと、まるで自分が冒険しているような錯覚に囚われる。

1960年代初頭は米ソが激しく対立し、核実験も頻繁に行なわれた時期。航海中、ハワイ近海での超高空核実験に遭遇した描写などはわくわくさせる。

1980年以降、大気圏内核実験は中止されたのでとても羨ましい。当時は大平洋でしょっちゅうメガトン級のキノコ雲が上がっていたのだ。もし今「核実験見学ツアー」があったら真っ先に申し込んでいただろう。

それはさておき、当時の日本は単独で外国への渡洋が許可されなかったそうだ。だから堀江氏はパスポートなしにこの航海に挑んだそうだ。

一見、大雑把で稚拙で無責任な計画。『風船おじさん』とさして変わらない。

しかし、自分を信じる力が夢を現実化させるエネルギーで満ちていた時代。

この本の帯にはこう記されている。

「孤独と孤立は違う。人間関係の中で置き去りにされた孤立は堪え難いが、周りに人が居ないというだけの孤独なら、いつかは我慢出来る」

大平洋の真ん中で悟った言葉らしい。

鬱陶しい人間関係で自分をすり減らすより、自然と対峙し孤独に生きるほうがよほど「人間らしく」生きられるのだ。

この時代はまさに「男のロマン」がメジャーな場で語られたのだ。

女子トイレの汚物入れを引っ掻き回して喜ぶフェミニンな小説が幅を利かせるこの時代に、このような著書を読むと心が洗われるようだ。

大平洋上で満天の星空の下、リプトンティーを飲んでみたい。


2004年8月22日

オリンピック。

アテネオリンピック真っ盛りであるが、それほど熱心に観ている訳ではない。

なにか昔よりも醒めている感じ。

日本選手の活躍が連日報じられ、家族や地元民が狂喜乱舞する様子がテレビに映る。

しかしながら本人にとって地元や家族はどういう意味を持つのだろう?

メダルに絡むような選手は「選ばれしエリート」であり、幼少の頃より英才教育を受け、大人になっても世界各国を巡り自らの力を試している。

彼等にとって、実は生まれ故郷や祖国はどうでもよい事なのかもしれない。

自分の才能をより発揮出来るのであれば、平気で祖国を裏切る者だっているだろう。プロ野球のFA制度みたいに。

前回と国籍が違う選手は結構たくさんいる。

地元のため、家族のためと言うのなら、ずっと地元に留まり、家業を継ぐはずだ。

金メダルをとった水泳選手も本来なら家業のコロッケ屋で親の手伝いをすべきなのだ。

でももし、コロッケ屋を継いだとしたら彼は誰からも注目されないし、祖国の栄誉を国民に齎すこともなかったろう。せいぜい近所のおばちゃん相手にメンチカツを安くサービスする事くらいだ。

「選ばれしエリート」は自らの力で運命を変えられるのだ。

父子そろってメダルを目指すみたいなエピソードがよく紹介される。

実際、親の英才教育を受けたアスリートも多いようだ。

ところで逆に家族や地元民から一切相手にされない金メダリストっているのだろうか?

親からも家族からも友人からも一切応援されないアスリート。

残念ながらそんなアスリートはいない。

大成する者は無条件に慕われる素質がある。

でなければ、オリンピックどころか「選手」という肩書きすら得られないだろう。

一方で夢を叶える才能もなく、さりとてコロッケ屋も継げない中途半端な人間が、得てして誰からも相手にされない人間の典型となる。

平日の昼間にパチンコ屋か牛丼屋を覗くとそんな「ダメ中途半端人間」で一杯だ。

誰もそんな人間にはなりたくもないが、気がつくとみんなそうだったりする。

中途半端人間オリンピックというのも面白いかも。

観客が一切居ない競技場でぶつぶつ独り言を呟くだけ。視聴率ゼロ。

人生のロウソクをただ無駄に剃り減らすだけの競技だ。

これなら出場資格を得られそう。


2004年8月21日

夜の横田基地祭。

毎年恒例、米軍横田基地の友好祭に行く。

今回は、昼の猛暑を避けて、午後4時頃から入場した。黄昏の飛行場もまた趣がある。

Tボーンステーキをオーダーして滑走路エプロンにて食す。

味はぱさついて淡白だが、祭の場だとそれなりに美味しい。甘ったるいゲータレードも一興。

視界が開けた滑走路に寝転がると360度パノラマの虚空が広がる。照明がまるで宮沢賢治の世界のような雰囲気を醸し出す。

米軍チャーターのDC8が闇を劈き離陸していく。

遠くで西武園の花火が見える。

今年の夏は本当に「絵」に描いたような夏だ。


2004年8月16日

コミックマーケット66来場御礼。

悪天の中、当スペースまで来店して頂き、この場を借りて御礼申し上げる。

今回は売り子さんの活躍で充実した時間を過すことが出来た。無粋で接客の苦手な自分に代わってスペース内を取り仕切って戴き感謝の極みである。

また、ファンの方からの差し入れ、アドバイスなど大いに励みになった。

重ねて御礼申しあげたい。

それにしても15日の悪天には吃驚した。前日までの酷暑が一夜にして晩秋の雨模様。

気温も日中は20度に届かなかったのではないか?前日との気温差は15度近い。昨年の冷夏以上に「寒い」。

こんな気象変動は珍しい。

とにかく同人イベントにとって雨は天敵。たとえ40度近くあっても晴れの方がマシだ。

本来の夏コミならば、熱気の中、酸欠状態で大汗をかき、息絶え絶えになりつつも人波を超えつつ同人誌を売買する光景が見られるはずだった。手に握られたお札は汗でぐっしょり。得体の知れない匂いも一興。冷たいドリンクはあっという間に「お湯」と化し、飲んでも飲んでも水分補給が追い付かない。

しかし、だからこそ「お祭り」なのだ。暑さも祭りを演出する大切な要素である。

雨だとこの熱気が存在しない。

湿気を帯びた涼しい風が会場を漂うと気分が鬱になる。高揚感が失われてしまうのだ。逆に余計な手間も発生する。

傘など荷物が増える。紙の媒体にとっては濡れる事はタブーだから防水対策も附さねばならぬ。動きも鈍くなり、購買意欲も減退だ。まさに雨天は「百害あって一利無し」。

とはいえ、天気は自然現象。如何ともしがたい。雨なら雨なりの仕様で取り組まざるおえない。

会場内には大きなビニール袋を下げてその中に買った同人誌を放り込んでいる一般参加者を多く見た。まるで鮮魚市場にいる仲買業者のごとし。

サークル参加者もカートの荷物はすべてビニールに包み、防水対策に勤しんでいた。

3日目も雨天にも拘わらず18万人が訪れたという。来客もピークは午後であった。夕方には雨も上がり、濡れる心配から解放された安堵感が漂った。

さて今回のコミケは自分の個人サークルにとって同人イベント参加10周年であった。

1994年、晴海で行なわれたコミケットに初参加。

某無線雑誌編集長から頂いた参加申し込みセットがきっかけだった。

この年も暑かった。

あの驚くべき人の多さと、同人誌にこれだけの市場が存在する事にカルチャーショックを受けた覚えがある。更には興味深き才能ある人々がこの集いの場に濃縮されていることも知る。ネガティブの面ばかり強調されているが、コミケットはこの日本で最も活性化した創作意欲の臨界場であることは今でも間違いない。

最近はバブル的な要素はやや落ち着いてきて、何十部もまとめ買いする人は少なくなり、じっくりと読んで買っていく参加者が多くなった。ある意味、健全な傾向だろう。

直接ファンの方と接し、アドバイスも頂ける時もあり、創作者にとっては肌で自分の作品評価を知る貴重な場でもある。

今後ともこの集いの場を有効に活かしていきたい。


2004年8月14日

コミックマーケットあびゅうきょサークルの御案内。

すでに最新情報等でもお知らせしているように、明日15日コミックマーケット66(8/13〜15・東京ビッグサイト午前10時〜午後4時)にて、今回もあびゅうきょサークルが出店します。

販売スペースは東4ホール”メ”36a。

新刊は『おたまじゃくしくん』と亜風紀代著『フタナリ姉妹とネコ人間』第3巻(18禁)。他既刊オフセット、コピー本等頒布予定。

また今回でコミケサークル参加10周年を迎えるので本購入の方に記念ポストカードを先着順で贈呈。

会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。

お誘い合わせの上、御来場いただければ幸いです。


2004年8月10日

「ママのおっぱい、ちゅうちゅうちゅうー」

最近、牛乳のCMでこんなのがある。

子牛が母牛のおっぱいを吸いながら「ママのおっぱい、ちゅうちゅうちゅうー」と楽しげに呟いている。

これが妙に和む。

乳に吸い付くというのは、男子にとっては幾つになろうと永遠の憧れでもある。

時々、公の場で女の子の乳に衝動的に吸い付きたくなる時がある。これは男性であれば普遍的な欲求であろう。

あの乳房の柔らかさは何なのだろう?

ぷにぷにぷよぷよしていて、ちゅうちゅう吸わずにはいられない。

女性からすれば最大の武器だ。

ウッディー・アレンの映画で巨大おっぱいが出てくるのがあるが、おっぱいはとにかく偉大だ。

最近の女性は、おっぱいを出し惜しみし過ぎる。昔は公の場で授乳させている光景がよく見られたというのに、今は思わせぶりに強調するだけで触らせてもくれない。

これからは月一回「おっぱいの日」というのを設定し、おっぱいの共有化を図ってみては如何か?

あるいは「母の日」の主旨を母への感謝から、絶望独身男性への無償母性愛情供与に変換するのだ。

その日には、35歳以下の全女性は無償で母のごとく絶望独身男性に乳房を提供するのだ。

公の場で絶望独身男性から「おっぱいほしいの。ばぶー」と甘えられたら、無条件で自分のおっぱいを吸わせてあげるのだ。

「気の毒な子ね。さあ、私のおっぱいで心の傷を癒しなさい」とね。

こうすれば世の中、丸く納まり、痴漢も皆無になるだろう。

女性が強くなったのだからこの程度の奉仕は当然だろう。

あのCMが流れる度に、この制度を早く現実化出来ないかと真剣に願うのである。

ちゅうちゅうちゅう。


2004年8月8日

キンコーズ

プリンターを修理に出したため、初めて出力サービスを利用する。

「キンコーズ」という24時間オープンの出力チェーン店。

予想したよりも規模が大きい。精々コンビニ程度で店員が受付に二人位と思いきや、大きなフロアに5〜6人のスタッフがいた。パソコン利用も可能。マックも3台用意されていたが、あいにく全部客がいて10分くらい待たされた。セルフサービスなら10分210円でパソコンによる出力作業が可能だ。

だが、プリンターはパソコンとは別の場所にあって出力されるとスタッフが持ってくる。今一つやりにくい。

さっそくパソコン操作して出力してみるが、プリントされた画質が酷すぎ。

メンテナンスしていないコンビニの古いコピー機で出力したみたいでコントラストがなく掠れてスジまで入っている。コピー兼用のモノクロレーザープリンターのようだが実用に耐えない。たまたまこの店のプリンターが悪いのか、「キンコーズ」共通なのかは不明だが文章中心のビジネス向けだとこんなものなのか?

店員に相談するとカラープリンターでモノクロ出力を奨められる。こっちの方は多少マトモな出来。但し、一枚35円かかる(モノクロだと1枚10円)。

結局、30分12枚程出力して1000円強掛かった(パソコンレンタル料込み)。

時間とお金をかけて家のプリンターより画質が悪いものを出力するのは虚しい。

熱転写式のアルプス製プリンターに慣れてしまうと他社プリンターのレベルでは満足出来なくなる。

そういう意味でもアルプス電気製熱転写式MDシリーズプリンターは手放せない。


2004年8月4日

マシントラブル。

プリンターがまた故障。

昨年4月に修理したばかりのアルプス製MD-5000がまたまたおかしくなった。

修理後、順調に動いていたのだが、突然インクカセットを認識しないトラブルに。

前回は機械的不調だったが、今回は半導体っぽい。もしかするとこの連日の暑さが原因かもしれぬ。

まだソフマップのワランティーが使えるので無料修理となるが、戻ってくるまでの間、プリンターが使えぬと仕事にも支障が出る。出力サービスを利用するしかないが面倒な事になった。

人間は暑さに慣れるが、機械はそうもいかないらしい。


2004年8月1日

あすなひろしの原画と花火。

池袋「ジュンク堂」書店で開催されているあすなひろしの原画展に行く。

点数は少なかったが1970年代後半、「週刊少年チャンピオン」で連載していた『青い空を白い雲がかけてった』の原画を見る事が出来た。少々黄ばんだケント紙が時代を感じさせる。当時は「漫画家用原稿用紙」なんて便利なものはなかったのだ。

修正後が生々しいが、要所はきちんと押さえてある。

書評でどなたかが「印刷に出ない描き込みもある」と記されていたが、自分が見た限りちゃんと印刷を前提としたペンタッチだ。やはり週刊誌で揉まれた作家の原稿にはムダがない。白い空間も効果的だ。

プロ漫画原稿かくあるべし・・という感想を抱いた。

ところで最近、漫画書店のフロアの壁には所狭しとプロ漫画家の複製原稿が貼り付けられている例が多い。

ただもうちょっと展示方法を小綺麗に出来ないものか?美術品程ではないにしろ、もっと高級感がほしい。漫画家各々の魂が込められているのだから、複製とはいえ多少の敬意はあってほしいものだ。

池袋を出た後、キャンプ朝霞で開かれた花火大会を見る。

台風が過ぎ、心地よい乾燥した夜風が吹いていて絶好の花火日和。

花火を間近で観賞するのは久しぶりだ。浴衣姿の娘達がたくさん。

なぜか浴衣の帯の後ろには団扇が突き刺してある。あれはどういう意味があるのだろう?

近づいて凝視すると団扇にこんな事が書かれていた。

「絶望独身男性お断り。お前に浴衣姿の娘は無縁。あっち行け!」

もちろん幻覚である。単に日々の抑圧が産み出した妄想の類だが、恐ろしくなってブルブル震えた。

それはさておき、やはり花火は肉眼で見て己の脳裏に焼きつけておくのが一番だ。

携帯のカメラやデジカメの液晶を覗きながらの花火観賞はナンセンスである。その場の臨場感を味あう事こそ大切だ。身体に響く花火の炸裂音と閃光が思い出を身体に刻んでいくのだ。

そんな夏祭りの花火を見上げていると、あすなひろし『青い空を白い雲がかけてった』の一エピソード「8月のツトム」を思い出した。

その中に里帰りした先生が呟く一節にこんなのがある。

『村も変わる・・人も変わる・・人生も変わる』

故郷の夏に街や人の移り変りを吐露する心象シーンは見事だった。

おたまじゃくしの様に打ち上がる花火とその後に虚しく漂う煙・・。

まるで人生だ。風に流されていく爆煙は人生を終えた魂が黄泉の国に還って行くかのような恐怖を覚える。それでも華々しく大輪を咲かせた花火は幸いだ。中には炸裂せずに不発で落ちた花火もあろう。

浮かばれない花火。成仏しない花火・・。

そんな花火に親近感を覚えた夜であった。

嗚呼、夏が逝く。


2004年7月30日

『フタナリ姉妹とネコ人間』サイト新設

昨年5月より2巻出ていた当サークル発行成人向け同人誌『フタナリ姉妹とネコ人間』のサイトを開設した。

作者の亜風紀代(あかぜきだい)氏のプロフィールや、ストーリー、登場人物、各巻解説、通販情報等が載っている。

また、8月15日にコミケで頒布予定の第3巻の情報もある。

但し、18禁であるので、18歳未満、もしくはアダルトコンテンツに興味ない方はアクセスを控えてほしい。といってもたいした画像はないが。


2004年7月29日

ローライズGパン。

台風が接近し、まるでスコールのような雨が断続的に降る。

絵になる積乱雲が東から西へと通過していく。

もう随分長い「夏」を過している感じだ。今年は4月下旬頃から暑かったのでそんな気分になるのだろう。

たまに「モナカアイス」を食す。セブンイレブンのアイス冷凍庫はオープントップになっているが冷気は逃げないのだろうか?

街には相変わらず、ローライズGパン姿の女性が目立つ。

腰の後ろからはみ出るパンツがみっともない。ローライズ用の下着を付けている人はよいが、無理矢理引き上げたGパンに持ち上げられて、ヨレヨレのショーツが飛び出している子も多い。

なんかオシメみたいだ。

でも着ている本人はおそらく気がついていないのだろう。

注意する訳にもいかないし、もしかするとそのだらしなさがファッションの一部なのかもしれない。

臍を出す位ならいっそ、陰毛を露出させたら如何だろう?

1960年代はノーブラの人が闊歩していたんだから、陰毛がファッションアイテムになっても不思議はない。

CD並の乳輪がトレンドになるかもしれぬ。エステのCMでは巨大乳輪のタレントが起用され、中にはLD並の乳輪娘が渋谷を闊歩するのだ。

剛毛、巨大乳輪が流行の最先端になる日も近い。

東京はもう南国並の気候になったんだからこれでいいのだ。


2004年7月25日

神保町の成人向け本屋。

コミケ新刊の原稿をいつもの印刷所に入稿した帰り、うっかり地下鉄を乗り越して神保町まで行ってしまった。

ついでなので少し本屋街をうろつく。

学生時代は度々通ったものだが、最近はあまり足を運ばなくなった。休日の18時過ぎには殆どの古書店は閉まっており、時代の流れに取り残された哀愁が漂う。商売気ゼロだ。

だが昔ながらのエロ本専門店はネット時代になっても今だ健在だった。かつてはこの空間だけ異様な雰囲気に満ちていたのだが、今回覗いてみて何か奇妙な違和感に襲われた。

並べられている本が全然そそられないのだ。

年齢のせいとか、内容に規制が掛かっているとか、そういった理由ではなく、根本的に何かが変だ。

そう、かつて淫猥な物はこういった限られた空間にのみ閉じ込められていたのが、今や至る所に氾濫して性リビドーがマヒしてしまったのだ。

街を見よ。

下着の見えそうなミニスカート女子高生の群れ。

へそを出して姿態をくねらせ闊歩する若い女子。

そんな淫猥な存在が否応無しに視界に飛び込む情況下では、街全体が「芳賀書店」化したのも同様。

むしろ成人向け雑誌より、街を行く普通の女子のほうが「わいせつ度」は高い。

今や誰もが飯島愛だ。何も特別なAV女優を求める必要はない。

成人向け本屋の中より外の方が「わいせつ度」が高い世界とは・・。

実に滑稽なり。


2004年7月22日

「葬儀」の描写。

昨日の『ふしぎの海のナディア』第16話「消えた大陸の秘密」を観ていて思ったのだが、監督の庵野秀明氏は妙に葬儀や墓標の描写にこだわる人だ。

今回の話は戦死した同僚を聖なる墓地に埋葬するストーリーなのだが、ネガティブなシーンに拘わらず何故か活力に満々ている。

同僚を悼む踊りや宴のシーンは水を得た魚のようだ。

10年以上前の本放送の時もこの回は観たのだが、当時そんな感想はまったく抱かなかった。

やはり『新世紀エヴァンゲリオン』に傾倒したからこそなのか?

そう言えば『エヴァ』にも墓参りのシーンがあったな。

墓標や亡骸を前にした主人公の描写は素晴らしすぎる。情に流される訳でもなく、物静かな中で魂の叫びを演ずるのだ。

考えてみると、対照的に宮崎駿氏の場合はそれが結婚式の描写だったりする。

『太陽の王子ホルスの大冒険』『未来少年コナン』『カリオストロの城』など全て結婚式シーンは重要な要素を占めている。

未来に希望を持てた世代は結婚式にこだわり、未来に絶望しか持てない世代は葬儀に固執する。

生より死のほうが人生の意義を確認出来るのだろう。

そんな時代が来てしまったのだな。


2004年7月17日

『気狂いの遠吠え』

16日付朝刊の朝日新聞『三者三論』というコラムに例の酒井順子著『負け犬の遠吠え』に関する記事が載っていた。

エッセイスト北原みのり氏とマーケティングライター牛窪恵氏(いずれも女性)、そして元大道芸人白人男性ピーター・フランクル氏のコメントだ。

人選からして胡散臭さが伝わってくるが、内容もおぞましい。

何時しかこの『負け犬の遠吠え』に対して議論が巻き起こっていると聞くが、その殆どは的外れの戯れ言の類らしい。この記事も然り。

曰く「この本を上司の男性から渡されてお前も負け犬だと言われセクハラの道具にされた」

とか「負け犬なんてレッテルはシングル女性に対して失礼」

とか「『負け犬』を『おひとりさま』と呼んで優遇しましょう」云々。

このコラムにおいても独身女性はあくまで「保護されるべき被害者」なのだ。

女にとって、「女性」は常に「男性」に対し弱くあり続けねばならない。

だからこそ男性社会に対して諸々の権利を主張出来るのであり、且つ依存する選択肢も持てる。

もし女性が、男性と対等、もしくは優位に立った場合、立場は逆転し、弱くなった男性の権利を認める責務を負わねばならなくなる。

彼女達は何としてもこの現実を認めたくないらしい。

だから「弱さ」というカモフラージュを頬冠って現実から逃げ続ける。

この本の著者は、とっくの昔に日本が「女性優位社会」に変ぼうしているにも拘わらず、あくまで「女性は弱いもの」という立場を貫くために『負け犬』というタイトルを考え出したのであり、ましてや独身女性の縦横無尽な王侯貴族並の生活が即婚女性に負けているなどと露程にも論じていない。

そんな事は誰が読んでも先刻承知なのに、メディアに支えられたフェミニストはそれを絶対に認めようとしない。

このコラムに寄稿したエッセイストなる女性は『負け犬』本に対しこう記している。

「フェミニストが『負け犬論争』に加わらない、あるいは沈黙を守っているのは自尊心の低さを競うような争いに女が自ら加わりたくないからだ」

一見冷静を装ってはいるが、実は単にこのエッセイストが酒井順子を妬んでいるに過ぎない。同族嫌悪という類だ。自分は酒井順子よりプライドが高い女とでも言いたいのだろう。

だがその本当の理由はこの『負け犬』本が「女性が強くなったから男性に依存しなくなった」という現実を曝してしまった以上、フェミニストが前提とする「女性は弱い、男性に虐げられている」という「フェミニズム原理大原則」妄想が崩壊してしまうことを恐れているからに他ならない。

だからフェミニストは敢えてこの『負け犬』本を無視し、嘘と欺瞞を重ねるのである。

いずれにせよ、このコラム3者の「現実の男性」に対する視野の狭さは気狂い沙汰だ。よくこの程度の認識で大新聞に寄稿出来るものだ。

曰く「即婚か未婚かで女を対比し、高みの見物を楽しんでいる男性が一番おいしい」とか

「まだまだ男性社会。男が変わらなければ世の中変わらない」等。

こんな認識では知的障害レベルだと疑われるぞ。今の日本の何処に上記のような「御気楽男性」がいる?

いたとしても上場企業の特権的役職に付いている僅かな者に過ぎない。そんな者が日本の男性の総意とでも言いたいのか?

このコラムに寄稿した者はそういった0.5パーセント程度にしか過ぎない特権的男性を全ての日本男性の総意として歪曲する。

この時点でこのコラムが如何に非現実的な妄想に基づいて企画されたかが解る。

『負け犬』本に描かれている「負け犬」独身女性に対比する独身男性がどんな悲惨で苦汁に塗れ、絶望に瀕しているか、今更説明するまでもない。

近頃発表された平均寿命統計では日本女性が世界一を保った一方で、日本男性の平均寿命の伸びは抑えられたという。

その理由はなにか?

そう、自殺である。

「高みの見物を楽しんでいる男性が一番おいしい」筈の日本男性が自殺に追い込まれ、虐げられている筈の女性の寿命が伸びるとはこれ如何に?

『負け犬の遠吠え』を巡る論争が如何に馬鹿馬鹿しく、的外れで、かつ「負け犬」な筈の独身女性をますます増長させているかこれでよく解ろう。

こんな『気狂いの遠吠え』ばかりに現を抜かしていると、海の向こうから本物の「狼」がやってきて皆噛み殺されてしまうだろう。

せいぜいその日が来るまで楽しむがよい。


2004年7月15日

ニッポン放送50周年記念特番。

この日、AMラジオ局のニッポン放送が開局50周年を迎え、朝5時から20時間の記念特番を放送していたのでずっと聴いていた。過去の懐かしいレアな音源を次々と紹介し、「ニッポン放送アーカイブス」という感じ。

自分がニッポン放送を聴き始めたのは中学から高校生の頃、1970年代初頭だったか?

最初はTBS派だったのであまりLFは熱心に聴かなかったのだが、同世代「お約束」番組である『鶴光のオールナイトニッポン』だけは、当時から愛聴していた。性の情報なんて殆どこの番組から学んだと言ってもよい。

今回の特番でも『オールナイトニッポン』の音源は数多く取り上げられていたが、70年代以降のものは、こういったアニバーサリー特番の度に取り上げられているので些か食傷ぎみ。取り上げられる頻度が高いと希少性が薄れ面白みがない。

それよりも自分が知らない開局当初から1960年代の番組音源に興味深いものが多かった。当時は一つ一つの番組は小粒ながら入念に造り込んでいて濃密である。今聴くと非常に新鮮だ。この頃はまだテレビがそれほど普及していなかったせいか?

あと不思議な事に1950〜1960年代のトークは今と比べて総じてかん高く早口だ。これは当時の音響機器や録音情況が原因というより、人間の在り方が今よりテンション高かったのかも?いや。もっと物理的に時間の流れの早さが変化したせいなのかもしれぬ。これは興味深い。

それから1960年代半ば『オールナイトニッポン』黎明期に政治的なテーマを取り上げた事例の音源は面白かった。当時アフリカ某国での内戦の惨状を憂いたパーソナリティーがリスナーに対して「日本の余ったコメを内戦国に寄付せよと日本の政治家に訴えよう」と呼び掛けたところ、本当に数千枚のハガキが外務省に押し寄せ、実際にこれが現実化したという。当時の若年層のパワーを窺い知る貴重な事例だ。

今だったら「プロ野球コミッショナーに1リーグ制反対を訴えよう!」みたいなのが旬な事例だろうが、どこの局にもそれを訴えるパーソナリティーはいない。いかに当時と比べ、ラジオというメディアが老化したかがよく解る。

さて、こういった昔を振り返る「アーカイブス」番組を聴取して感じる事は、当時の番組そのものよりも、当時のニュース、天気予報、交通情報、CMの方が如実に時代を反映して面白い。1950年代、『ザ・ピーナッツ』担当の番組スポンサーが「ピーセン」(ピーナッツの入った揚げせんべいメーカー)だったり、1975年当時のDJ番組の中に『プロシード7600』(当時流行したBCLラジオ)というアナウンスが入っていたりと、この辺りが実はアーカイブスとしては最も「美味しい」のだ。

今回のLF特番も録音したのだが、貴重なのは昔の音源ではなく、今現在流されているリアルタイムの天気予報、ニュース、交通情報の方なのだ。

ところでこの番組で紹介されていた半世紀前の音源が非常に鮮明なのに驚かされる。おそらくオープンリールに録音されているものだと推測するが、50年間たいした劣化もなく再生出来る亊に注視すべきだ。

今の最先端の録音メディアがはたして半世紀後、マトモに再生出来るか些か気になるというのに。

因に今回、自分がエアチェックしたメディアはカセットテープCー120、10本なり。


2004年7月14日

火星の地平線、そして

アメリカの火星探査車から最近送られてきた画像。

着陸から半年近く。2両の探査車は各々数千mも移動し、今でも興味深いデーターを毎日送ってきている。『スピリット』は小高い丘陵地帯に登って遥か遠くの地平線を見下ろしている。一方『オポチュニティー』からは紺碧に浮かぶのような現象を捉えた映像を送ってきた。

キャプションがなかったら、誰もが地球の風景と信じて疑わないだろう。

しかし、これは紛れもなく「地球以外」の惑星の風景なのだ。

誰も住んでいない、生物の欠片すらないはずのこの火星の風景。だがこれらの写真を見ていると遥か昔に旅した車窓から垣間見た遠い記憶のような錯覚に陥る。

あの地平線の向こうに何が待っているのだろう?

都市の廃虚だろうか?アトランティス人の宇宙船の残骸だろうか?

もしかすると永遠の花嫁が待っているのかもしれぬ。

いずれにしろ、何かあることは確かだ。


2004年7月13日

ベルマークカタログ。

伊集院光のラジオでベルマークのことが話題になっていたのを聴いて思い出した事がある。

小学校三年生の頃だったか?そのベルマーク協賛企業の商品が一覧になっているカタログが初めて教室で配られた。そこに記された商品の写真と各々に付いているベルマークのデザインに何故か自分は「萌えた」のである。

ベルマークそのものではなく、ベルマーク商品一覧表に。

それ以来、毎年その一覧が配られるのが楽しみになった。

理由はよく解らないが、多分、切手とか切符とか王冠とか、そういったコレクションアイテムと同じ感覚だったのだろう。

ただし、一枚たりともベルマークを切り取った覚えはないのは不思議。

それはさておき、今でもこのベルマークシステムは継承されているようだ。30年以上前からの協賛企業が多い。当時の一覧表を見ると昭和40年代の商品がどんな物であったか興味深い。ベルマークのデザインも年と共に微妙に変化して面白い。

このベルマーク、発案されたのは1960年代初頭。チラシには『僻地の友に愛の定期便』と記されている。当時はまだ物品や物流が桁違いに貧弱な頃だった。学校が備品を買うにも結構苦労した時代。

21世紀初頭の今日も続いているのは、本来の目的より、ベルマークを集めるという情念の方が勝ってしまったのかも。

因にリカちゃんドールにもベルマークが付いている。


2004年7月8日

夏の儀式。

猛暑の夕刻19時過ぎに屋根の上に登る。

この時期恒例になった大気と己の身体をシンクロさせる儀式だ。

心地よい南風が肌を掠める。見上げると黄昏の闇に支配されつつある紺空のドーム半球に星が一つ二つ。

昨年とは違い、完全に高気圧帯に支配された空だ。

天気予報によると大平洋高気圧だけでなく西からのチベット高気圧にも覆われているとか。典型的な猛暑の気圧配置。

その乾いたチベット高気圧の気団を透かして天頂付近だけが宇宙に連なる。

己の魂と宇宙振動がシンクロし、真理が解放される。

東の空より成層圏を行く四発ジェット機が航空灯を点滅させてやってきた。風向きも影響しているのかまったく無音だ。

双眼鏡で観察すると漆黒の夜空にも拘わらず、その機体の腹は鈍く輝いている。直下大帝都の照明のせいだ。機は幾つもの星の間を縫うように飛んでいく。まるで影絵のように。おそらく乗員乗客は眼下に広がる幻想的な帝都の夜景を感動を以て眺めている事だろう。

やがてそのジェット機も西の空に消える。

新宿高層ビル群の赤い点滅ランプが己の心臓の鼓動とシンクロし、儀式は絶頂に達する。BGMのNHKFMからはドボルザークの交響曲が流れていた。

30分程して、屋根から降りる。

そのとたんに、身体には生温い纏わり付くような不快な熱気に包まれる。わずか1メートルの高低差でこんなにも気温が違う。昼の熱気が家屋やアスファルトから放たれているせいだ。

子供の頃は庭木の多かったこの辺りも、「土地の有効利用」という狂気の沙汰ですべて人工的なコンクリートとアスファルトに覆われ、夏の夜の熱気は堪え難いレベルになった。

もはやこの地も宇宙の意思から見放される時も近い。


2004年7月7日

快晴の七夕。

例年なら梅雨空で星空は望めない七夕の夜。

夜半過ぎ、ふと見上げれば雲一片もない漆黒の虚空。照明のせいで星は見えないがこの時期に盛夏のような天候は尋常ではない。

完全に一ヶ月季節が先行している。もっとも旧暦ではこの気候の頃が本来「七夕」があったシーズン。新暦7月7日に七夕を祝うのは無理があるのだ。

それはさておき、ここ数日の暑さも季節外れといえる。今月3日にはもう蝉の鳴き声を聞いた。今年は4月頃から「熱暴走」ぎみの東京の天候であるが、長期予報だと8月も暑いとか。昨年は雨ばかり降っていた夏だったがはたして今年は?

今のところ、天候不順をもたらすオホーツク高気圧の姿が見えないので、このまま「熱暴走」進行かもしれぬ。

また台風や低気圧が尽く日本海側を通り抜けるので、常に関東地方大平洋側には南から暖かい気流が流れ込む。

この情況が変わらない限り、今年の夏は酷暑になるかも。


2004年7月6日

クロゴキブリ。

珍しく巨大なクロゴキブリを発見。顔を近付けてマジマジと観察する。

黒光りして美しい。

数億年前より「血統と大地」の闘争に勝利しつづけた偉大なる昆虫。

触覚をぴくぴくさせて優雅に俊敏に動く。とっても可愛い。

心の中でこう呟く。

「俺はお前の味方だぞ。一緒にこの世の無常と闘おうぞ!」

するとそのクロゴキブリはピクンと動いて挨拶した。嬉しくなった自分はそのゴキブリ君に香水のスプレーをかけてやった。

「お前は偉大な昆虫だ。よい香りになれば女の子からも好かれるよ」

ゴキブリ君は喜んで棚の隅っこに消えていった。

この偉大な昆虫に敬意を払わず、やみくもに殺してしまう女性を見ると、つくづく女性という生き物は残酷極まりないと思う。

なぜ両手に抱き、愛でる事が出来ないのか?ナウシカを見習えないのか?

また殺虫剤CMのシーズンだ。

CM内で虐殺されるゴキブリ、アリ、ナメクジ等を見ていると気の毒でならない。涙が出てくる。

『冬のソナタ』や『世界の中心でアイを叫んだ〜』を観て泣く一方でゴキブリが虐待されているCMで笑う婦女子は気が狂っているとしか思えない。

まったくいやな世の中だ。


2004年7月5日

『わしとお前の二人だけ!』

キンチョウのCMで老人と中年の親子らしき二人連れがぼやく台詞。

老人の親父は妻に先立たれ、中年の息子は独身のまま。

家には女性も子供もペットもいない。

殺風景な家。

フェミニストがニュースショー等で現実離れの「空理空論」をいくら喚き立てたとて、このCMが語る悲惨な現代家族のリアリティーには勝てない。

このCMが描く「悲惨家族」が日本中に溢れ返っているにも拘わらず、誰1人救いの手を差伸べようともせず、呑気な独身女性ばかりに脚光を浴びせている情況は狂気の沙汰だ。

この日本に明るい未来などあろうはずもない。

『わしもお前』もいずれ骸骨。

その骨を拾う者もいない。

哀れの極みだ。


2004年7月3日

女性車掌。

先日、JR中央線各駅停車の最後尾に乗った際、ふと乗務員室を見ると女性の車掌がいた。

おさげ髪で華奢な感じの若い女性。アナウンスからドアの開け閉め、ホームに降りて発車ベルの操作等、休む間もなくテキパキ動いていた。

女性の車内アナウンスはよく聞いたが、実際に乗務している姿は初めて見たので吃驚する。

しばらくは軽快な動きに見とれていたが、だんだんと心配になってきた。

駅の間隔が短く膨大な乗客が乗り降りする首都圏の通勤列車乗務員というのは男ですら相当な度胸がないと勤まるまい。事故、トラブル、酔っぱらい、暴漢、クレーマー等などを走行中は車掌1名のみで応対しなければならぬ。バスの比ではない。駅に着いたとてホームに駅員は疎ら。すぐに応援はやってこない。ある意味、スチワーデスや婦人警官より危険度が高い職種だ。女性にとっては命懸けの仕事だろう。

「女性ならではの心配り」なんていう綺麗事では済まされぬ過酷な職場。

男女雇用均等法で女性にもこのような職種に門戸が開かれて、この女性車掌も自分の意思でこの仕事を選んだのだろうが、正直痛々しい。女性の場合はどうしても筋力や生理的な面で男性よりハンデを負うのはやむおえぬこと。そのハンデを持ったまま男性と同じ職種に就くとはどう考えても合理性がない。男性が徴兵されてやむなく女性が車掌をやっていた戦時中とは違い、現在は男の労働力は余っているというのに・・。それにいざという時「女性だから」という言い訳は利かないのだ。

皮肉にも男女雇用均等法によって女性を危険な職場に曝している結果となっているような。

あの女性車掌は、自分が「命懸け」の仕事に就いている事を自覚しているのだろうか?

ポケットに懐刀を忍ばせて、いざという時自決する覚悟があってほしい。


2004年7月2日

若禿げ。

深夜、民放テレビを観ていたら若禿げに悩む男達の苦悩みたいなドキュメント番組があった。

カツラ、植毛、開き直り等、涙ぐましい苦闘が痛々しい。

しかしながら思うに、これら「若禿げ」に悩む出演者を見ていると、自らの禿げに異常なる執着心と病的な程の意識過剰が尋常でないことに気がつく。20〜30代の内に禿げると、もはやマトモな人間ではなくなってしまうかのごとく恐怖に怯え、強迫観念に駆られたのごとく、何百万を投資して、その「若禿げ地獄」から這い出そうとする姿は狂気に近い。

皮肉な事に、もがけばもがく程その「禿げ」はますます惨めな醜態を増幅させ、見るに耐えない。

世の中には「若禿げ」にも拘わらず、悠々と生きている男子は多い。そんな男達の「禿げ」はまったく自然でむしろ格好がよい。彼等にとって「禿げ」は生きる上で何の障害にもなっていないのだ。そんな男は禿げていようがいまいが、女の子にモテるし結婚も出来る。

テレビ番組である以上、ある程度の演出はあるだろうが、「若禿げ」に悩んでいる男達は、恐ろしい程に「平均的男子」であろうとすることに異常な執着心がある。

「禿げたんだから真っ当な人生辞めればいいじゃないか」とか「スキンヘッドにして出家だ」いう達観に近い選択肢がないのだ。

平均的に就職し、平均的に女の子にモテて、平均的に結婚し、平均的に家族を持ち云々。

「だがそれを実践するには禿げていてはいけないのだ!断じて!」

という強迫観念が辛い。

そのストレスがますます惨めな禿げを増幅してしまう。

この番組では禿げが好きな女の子も登場する。但しおじいさんに限るとのこと。「若禿げ」はお断りらしい。

ある意味、平均的男子にとって「若禿げ」は「死と絶望」を意味する。

だが今や禿げていなくたって若き平均的男子に希望などないのだ。

だから禿げを気にする前に、この時代に冴えない男子として産まれた事を悔やんだ方がよい。

禿げ云々は問題ではないのだ。

楽になろう。


2004年7月1日

墓場でプロ野球。

例のプロ野球再編で合併される予定の球団を新興ソフト企業が買い取るというニュースが流された。

球団数を減らさずに済むという事で、現場の選手やファンは概ね賛成しているようだが、オーナー達はその申し出を門前払いにしたそうだ。

要するに現オーナー達は国民の共有娯楽スポーツ財産であるプロ野球球団を次世代に譲るなんて気は更々なく、そんなことする位なら墓場まで持っていって冥土の土産にしたいらしい。プロ野球の繁栄よりも自分の欲望の対象を自らの骨壷に納めたいだけなのだろう。

こんな者達が日本の支配層に胡座をかいている訳だから、日本の将来も推して知るべし。

いっそのこと球団名も、その方達の希望に沿うよう変更しては如何か?

たとえば『痴呆症ソウギジョウーズ』とか『特別老人ホームオシメーズ』とか『火葬場イハイーズ』等。

客は全員白骨死体。

セパ両リーグ合併し、『冥土リーグ』として再出発すればよかろう。日本シリーズは埋葬方法の違いによる火葬対土葬でやればよい。時には散骨対鳥葬っていうのも面白い。

墓場中ドンドンパフパフ賑やかになろう。

これで日本のプロ野球の将来は安泰だ。

よかったね。


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