2004年4月・5月・6月


2004年6月29日

夏の天気図。

気象衛星の画像を観ると大平洋上に大きな台風二つ。晴れ渡る関東地方。気温は30度を超し時々雷雨。

まるで8月の気圧配置。

ここ数年は5月頃より高温がつづいて季節が先行ぎみ。時々今は何月なのか解らなくなる時がある。

これから涼しいシーズンになるのではと錯覚さえしてしまう。

まだ梅雨明けすらしていないというのに。


2004年6月28日

街頭インタビュー。

選挙が近いのか、テレビのニュースで街頭インタビューみたいな映像が流れる時がある。気が付くのはそれが全て収録であることだ。自分が子供の頃は殆どライブで街頭インタビューが流されていた記憶があるが、最近は一切ない。おそらく都合の悪い発言者は全てカットしているのだろう。恣意的に操作されたものが「市民の声」とはこれ如何に?

「宇宙人が攻め込んでくる」とか「電波で国を操る事の出来るこの俺に一票を」とか「銀河皇帝島耕作!」とか喚く電波系発言をそのまま流してこそ意味のある街頭インタビューなのだ。そこに「市民」の真の意志が託されているかもしれないのに。

そうすれば多少は国政選挙の投票率も上がるというもの。

可も不可もない当たり障りのない操作された街頭インタビューは滑稽の極み。いったい誰が見るのか?

犬も食うまい。


2004年6月25日

まぐろ。

先日の日記にも記したが、阿佐ヶ谷某BARにて自分がスポンサーとなった「マグロパーティー」を開催した。

マスターがマグロの切り身を数キロ分築地で購入。参加者は10人ちょっとだったが2時間程で片付いたようだ。刺身にしたり、寿司にしたり、炭火であぶったりで堪能。

いつもマスターの手伝いをしている例の謎のバイオリニストが髑髏の切り抜きをピアノに貼りつけていた。

「これは?」と聞くと彼女曰く、

「あんたがスポンサーだから取りあえず髑髏」

つまり「絶望=髑髏」だそうだ。そういうイメージ以外何もないと言う事なのだろう。

有り難いやら寂しいやら。


2004年6月17日

『おたくのビデオ』

知り合いから借りたビデオの中に『おたくのビデオ』という1990年代初頭に作られたOAVがあった。

『エヴァ』以前に作られたガイナックスの自伝的作品とのこと。今回が初見。

世代的にかなり重なっているのでとても興味深く観た。

だが振り返って思うに、実はここに描かれている「おたく」遍歴を自分はよく知らないのだ。

1980年代初頭、大学を卒業してからすぐに商業誌で活動し始めた自分は趣味としての「漫画アニメ」から離れてしまい、『新世紀エヴァンゲリオン』に触発されて同人誌界に参入するまでの15年間、いわいる「漫画アニメおたく」と呼称される世界には非常に疎かった。

だから当時、その世界で流行ったOAV等は殆ど知らない。

ガイナックス黎明期の諸作品、そう『トップをねらえ!』すら観たことがない。

庵野秀明氏といえば、学生当時の1981年、アニドウというグループが主催した自主制作アニメ上映会『PAF』にて公開された『SHADO』作品集に氏の作品があったのを記憶している。『丈夫なタイヤ』という紙に鉛筆で描いたアニメだ。当時この上映会には足繁く通い、自分で感想文集なんかを作っていた。『丈夫なタイヤ』に関してはこう記していた。

「車の動きに引き込まれる。上手い。落ちがよい」

実は『新世紀エヴァンゲリオン』を観るまで、それが庵野秀明氏作品であることをまったく知らないでいた。

そればかりか、『ふしぎの海のナディア』の監督であったことも『王立宇宙軍』のスタッフであったことも『風の谷のナウシカ』の巨神兵作画担当であったことも知らなかった。画面を見ればクレジットに名前が出ているのにまったく気が付かなかったのだ。

1970年代後半から1990年代、「おたく」達の底流に延々と信仰されていたガイナックスとそのスタッフ達の活動に、なぜか自分は関心がなかった。

『ナディア』にしろ『オネアミス』にしろ、初放映、初上映当時は傾倒するほどの感動を得られなかったのはなぜか?

おそらく『おたくのビデオ』に描かれている世界に自分はいなかったのだ。

コミケや同人誌には無縁で、漫画はあくまで「仕事」と割り切っていた当時の自分は、たぶんそんな自己完結な「おたく」に染まる事に抵抗感を感じていたかもしれぬ。

だが改めて、今『オネアミス』や『ナディア』を観ると、その尋常ではない完成度に感動すると共に、もしかするとこれは壮大なる報われない「代償行為」「自慰行為」なのではないかと虚しくなる。

現実世界に反映されない創作活動は悲しい。

たとえば『オネアミス』というアニメ映画によって、日本の宇宙開発に弾みがついたとか、そういった「伝説」を得られればよい。しかし単なる「おたく」たちの嗜好を満足させるのみに存在しているモノであったならば、幾ら完成度が高くても、所詮はサブカルチャーの一角を賑わすだけの存在だ。

「おたキング」になったとしても、それが自己完結の世界に閉じこもった人達の「王」に過ぎないのならば、恐ろしく虚しい。そしてその「王家」には未来がない。

だがその閉塞感を破壊したのが、あの『新世紀エヴァンゲリオン』だったのは間違いなかろう。

あの作品は確かに現実世界とリンクして、現実に生きる人々を変えようした。

1980年以降に制作されてきたガイナックスの野心的作品がこれからも現実世界を変革させる梃子になっていくのかは知らない。

だが、この2004年の現実を考えると爆発的に増殖している「ひきこもり」「フリーター」の惨状は『おたくのビデオ』の「おたく」よりももっと悲惨ではなかろうか?

もはや仮想世界に生きる方が実はマトモなのかもしれない。

『おたくのビデオ』の主人公たちが「就職活動」しているシーンが暗示的だ。当時は「おたく」といえども就職を志したのだからね。


2004年6月14日

プロ野球再編。

先日のニュースでパ・リーグの2チームが合併する話が進んでいると報道されていた。

最近、殆ど興味が薄れたプロ野球だが、物心付いた頃からセ・パ両リーグ12球団というのは空気みたいに当たり前だったから、その情況が崩れるのは「世界の終わり」を感じさせる。

あって当然のものが無くなっていくというのは底知れぬ不安を生む。

無論、それに代わって新しいモノが産まれるのなら「新陳代謝」ということで健全だと納得出来るが、その「新しいモノ」が産まれる事無しに、ただ従来在るべきモノが失われるだけだとしたら?

これはスポーツだけの問題ではない。

半世紀近くに渡って現体制を維持してきたものが壊れると言う事は、その時代に平行して「あって当然」のあらゆる物事が失われていく事を意味する。

衣食住に関る「あって当然」のモノが次々に消えていくのだ。

人もモノも次々と。

スーパーに並ぶ食材が毎日一品づつ店頭から消えていくように・・。

これまでは増えていくことが当然であったことが反転し、減っていくことが当たり前の世の中になる。

宇宙が収縮に向かうのごとく、全ての物事がマイナスに、冷却していく。

ふりかえれば、この「文明」は1968年の人類月到達が頂点だった気がする。

あとは緩やかに尾根を下り、此所に来てジェットコースターのごとく急速に落下していくのだ。

もし近い将来、戦争や大災害に見舞われたら、もう2度と復興はないだろう。

瓦礫は何時まで経っても片付けられる事なく放置されっぱなし。物資もなく流通システムは放棄されるだろうから列島に恐慌的飢餓が襲い、そんな中で人々は猛烈な勢いで死んでいくだろう。僅か一年で日本人5000万人が死ぬ可能性だって考えられる。

そしてこの国はあっという間に江戸時代のレベルに還っていく。

2100年頃の日本は北斎の描いた風景と変わりない情況になっているかも。

プロ野球再編はそんなテープの逆回しみたいな未来を予感させて憂鬱になる。


2004年6月10日

出生率と「葬式」番組。

10日付けの新聞に日本の昨年度出生率が1.29になったと報じられていた。出生率低下に歯止めが掛らず、もう絶望的らしい。

因に、今晩のNHKの番組を観ていたら「葬式」をいかに執り行うかを特集していた。

産まれてくる者よりも己の「葬式」の方が重要らしい。

公共放送が率先して「葬式」番組やってるようでは誰も子を産みたくなくなるわな。

出生率より火葬場稼働率発表した方がよいのでは?


2004年6月9日

皇太子の憂鬱。

ニュースでは皇太子殿下が発言された「雅子妃の人格を否定するような情況があった」とする発言に対しての回答文章に関して注目が集まっている。

同じ世代として、皇太子の憂鬱は痛い程解る。

ほぼ100%結婚、子育てが当然の通過儀礼であった時代から僅かに外れ、さりとて生涯独身を是とする覚悟もない。妻を娶るなどお伽話の世界と解っていながらその現実は受け入れられない。幸運にも結婚出来たとしても威厳を持って妻子を征する男子の権力は遠に失われ、徒(いたずら)に増長した婦女子の身勝手さに振り回されるだけの日々。

更には高齢化社会によって何時まで経っても現役の座から去らない団塊以上の世代が社会に胡座をかき、40半ばになっても指導的役職や権限を持てないという苛立ち。

それでも、否応無しに矢面に立たざるおえない歳となってしまった。

高度成長期のような活力もなく、国富が老いたる者達に略取され墓場に持っていかれるような時代に債務だけを背負わされる不安と絶望。

その代表こそが徳仁(なるひと)皇太子殿下だ。

プライベートにおいても公務においても、殿下の意志は通らず、威厳も失われた皇室にあっては殿下の存在意義は限り無く希薄だ。

祖父たる昭和天皇は殿下と同じ歳(45歳)には終戦の勅語を読み上げていたのに、殿下には國はおろか、自分の妻にさえ囁くことが出来ない。

親類縁者は敵だらけ。側近は身の保全しか考えず、信頼出来る友もおらず、全力で守ると誓った妻は引き蘢って姿を現さない。

昔だったら自害しているところだろう。

皇太子という地位ですら、こんな情況なのだから下々の昭和30〜40年生男子の置かれた立場は推して知るべし。

生きているのが馬鹿馬鹿しくなる。


2004年6月8日

金星の太陽面通過。

日本では130年ぶりに見られたという金星の太陽面通過。

あいにく東京は曇っていたが僅かに見えたらしい。

残念ながら自分は見る事が出来なかった。雑用に追われ、気が付くと太陽は沈んでいた。

自分がまだ小学生の頃、天文図鑑に次回日本で見られる金星太陽面通過が「2004年」と記されていたのを読み、遥か未来のこの天文現象をどのように迎えるんだろうとわくわくしたものだ。きっと世界中の人々がこの現象に注目するんだろうと・・。

ところが、実際、その日が来たのにも拘わらず、世間はどうでもよいニュースに現を抜かし、金星の太陽面通過の話題は僅かに天気予報のコーナーで小さく取り上げられるだけ。

いつしか人々は空や未来を見なくなり、足元に落ちている己の影だけを追う愚かな存在になってしまったのだ。

雑用に気を取られた自分も、この愚かな時代に飲み込まれた矮小な存在と化したのか?

やっぱりこの「未来」は間違ってる。


2004年6月5日

「マグロ祭」

久しぶりに阿佐ヶ谷の某BARに行くとマスターが一言。

「マグロパーティーやるから1万円出して」

時々、この店では常連客が代表して食材費を全額負担してパーティーをやることがある。どうやら今度は自分が指名されたらしい。

高級マグロの切り身を数kg位まとめて買う費用を全額自分が負担しなければならぬ。

数年前、常連客の小学校の先生が全額負担した「蟹パーティー」というのもあったし。

とりあえず自分が言った言葉・・。

「マグロといってもJR中央線に飛び込んだ人もマグロというから、そっちの方が安いよ」

店内が白けてしまったのは言うまでもない。


2004年6月4日

淫猥な風。

今年も夏が近づき、女性の服が目の毒になってきた。

なにやら都条例とかで健全な青少年の育成のために性表現の規制が強化されるらしいが、その前に女性の肌着や女子高生のスカートをなんとかしたらどうか?

ヒップハンガーのGパンからパンツが見えていても平気でお腹をボリボリ掻いている若い女性が公共の場でうろうろしているのを見ると、これ自体が「猥褻物」に見えてくる。

こっちはまったく放置状態なのだから、もう笑うしかない。

ブルマーを売買するのと臍やパンツを見せて公の場を闊歩するのと如何程の差があるのか?

奇妙な世の中になったものである。


2004年5月31日

扇風機。

ここ連日の暑さで扇風機を出した。物心付いた頃から実家にあったナショナルの製品。おそらく40年使い続けた代物である。

だが、さすがに耐久年数を超えて動かし続けていたので、モーターの軸かベアリングがいかれてしまい回転しなくなってしまった。

ほぼ自分の年齢と同じだけ稼動し続けた昭和40年代製の扇風機。重厚長大な造りで非常に重いのだが、その反面耐久性に優れ簡単には壊れない。当時の電化製品はある程度「一生もの」として考えられていたのだ。故障すれば修理して使い続ける。これが原則だった。

おそらく、今でも当時の扇風機が現役のまま稼動しつづけている家庭は多いのではないか?テレビや冷蔵庫と比べ単純な構造なのでメンテナンスをちゃんとすれば動き続けるのだ。逆に最近の製品はすぐに壊れる。最初から買い換えを前提としているのだろうが廃品を増やすのはどうかと思う。

人間も単純な造りほど長生き出来るのかもしれない。

それはさておき、週末から「関東地方は曇り後雨」という天気予報が尽く外れ、まるで梅雨明けのような天候がつづく。夏らしい南風と青空。曇ってくる気配はまったくない。それでも天気予報は「今夜から曇り後雨」と伝えている。梅雨前線が南下してくるというがはたしてどうだろう?「梅雨明け10日」のごとく、関東地方だけこのまま「夏の天気」が続くかも。


2004年5月30日

ベストセラー

朝日新聞に近年の文芸書ベストセラーについて書かれた記事があった。

その一覧の中で自分が読んだことがある本を捜してみた。発見したのは一冊のみ。それも今から30年以上前、1973年に発刊された小松左京の「日本沈没」だ。まだ中学生の頃の本。

無論自分で買ったのではない。家の誰かが買ったのを借りて読んだのだ。

気が付くとそれ以来、小松左京ファンになっていた。

人間の嗜好、趣味、創造性を決するウインドウが開いている時期というのは、ある程度決まっていて幼少期から10代後半までにどんなモノに出会うかが問題なのだろう。

そしてそのウインドウが閉じてしまうと、環境の激変がない限り、もはや新しい嗜好、趣味、創造は受け付けなくなるのである。だから最近話題になっている諸々のベストセラーに関してはまったく興味が湧かぬ。それも若い婦女子が好むような「純愛もの」となってしまえばこれは無理というものだろう。

それにしても、この年になると新しいモノに対する興味というのが薄れてくる。

同人誌イベントを通じ20代の人達と接する機会が多いのだが、つくづく20代というのは多くのモノを受け入れる器が大きいなあと感慨に耽る。こんな自分も20代前半は『ぴあ』を片手に単館上映の映画を巡り、マイナーな漫画等を貪るように読んだものだ。

但し、歳を取るに連れそういった感性が衰える反面、経済力や社会的地位が増して、自分の方が作り出す立場になるのだ。それが真っ当な「人の成長課程」だ。

しかし、現在の日本では40代になっても経済力、社会的地位を得る事も出来ず、ただ感性が衰えていくだけの惨めな男子が激増中だ。

こうなったらもう、人としておしまいだ。

30年以上前のベストセラーを読み返し、自分がかつて感性豊かだった頃を確かめるのが唯一の慰め。

社会的地位も経済力もない40代男性はなんとも哀れだ。


2004年5月23日

天職と『エンタの神様』

先日、朝日新聞に天職に関するコラムみたいな記事があった。

「本当に自分のやりたいものがみつからない」「やりたいものをみつけるまでフリーターを続ける」等の現代若年層が持っている就業観から天職とは何かを探るような記事だったと思う。

はたして天職とはなんぞや?

好きな事をやって生活していける職業か?

金曜の夜に『エンタの神様』という番組がある。デビューしたての若手芸人が芸を披露するのだが、彼等自身にとってこれが天職なのだろうか?

たしかに、いやいやながら強制的に芸をやらされている者は居まい。少なくとも自らの意思でこの世界を目指している者が殆どだろう。番組を通じて自分の才能を世に問うているのだ。それが生涯通じた職になるならば、おそらく彼等にとっては、これこそ天職であろう。

だが、それには類稀な才能と行動力、タイミング、強運を合わせ持たねばなるまい。

そんな人間は1万人に1人もいない。

『エンタの神様』出演者の大半は10年後、おそらくこの世界に残ってはいないだろう。それでも全国ネットのTV番組に出たと言うだけでも、この世界を目指す者からすれば上出来なのだ。テレビはおろかライブすら開催出来ぬまま消えていく芸人志望者は星の数程居よう。

時々、画面に映る男性局アナの司会者は心の中でこう呟いている筈だ。

「この人生の敗北者共。そんな陳腐な芸で生きていけると思うのか?君らみんな40才前後で野垂死だ。その点、俺は一流基幹局の正社員局アナ。将来を保証された社会人さ。いくら下らない事やっても、会社が俺を保障してくれる。ボーナスもあれば老後の保障もある。愛すべき妻子に囲まれ、高級マンションに住めるんだ。君達みたいなクズとは違う。嗚呼本当に君達みたいなクズでなくてよかった」とね。

学歴社会を勝ち抜き、一流企業就職というステイタスを獲得した者からすれば芸人など「人間のクズ」にしか見えまい。

一方、芸や類稀な技を生かしてその道を極める者は、元々生きているステージが違う。それはもう生まれながらの血統に由来する先天的なものかもしれぬ。

「自分の好きなものがみつかるまでフリーター」と考える時点で、その人は天職から見放されているのだ。一生ダメを背負って徘徊するしかない。

しかし、今の時代、極端な事を言うと無職でも生きて行けなくはない。この国には強制労働も兵役もない。若者の無職が珍しい事ではなくなって久しい今日、中途半端な就労はむしろ忌むべき事だ。だから実は「死ぬまで無職かフリーター」で構わない。

この『エンタの神様』で大成しなかった芸人志望者たちも路頭に迷う訳ではないのだ。

彼等にとって永遠のぬるま湯人生こそが「天職」。

お昼頃、安アパートの自室でもそもそ起きだしたその男は『笑っていいとも』をボーと観ながらこう叫ぶのだ。

「ふん!『笑っていいとも』ごときに出演することがメジャー芸人と思うな!俺は『エンタの神様』すら出られなかったが、その代わり宇宙人に改造されて電波覚醒芸人として日夜、世界の要人にスーパー電波芸を「俺世界357」で披露中さ。さっきも俺のスーパー電波芸に感動したアラブの石油王が俺のスイス銀行秘密口座に100兆円振り込んだって連絡があったぜ!ちくしょー!その代わり俺はゴルゴ13に狙われてるからこの3ヶ月部屋から出られねエー!あーまた神からの電波が俺を操ってる!ちくしょー」

如何であろう。

こちらの方が中途半端な可も不可もない芸人よりよっぽど幸せだ。

何もかも捨て去って引き蘢っていた方が天職を目指すより幸せだって事もあるのだ。

人生いろいろ。


2004年5月20日

変な1960年代ドラマ。

最近、1960年代を舞台としたドラマが幾つかNHKで放映されている。

ほんのちらっとしか観ていない者が論ずるのもおかしいが、その僅かに垣間見ただけでも変であった。

前クールで放映されていたNHK朝の連続テレビ小説『てるてる家族』も出てくる人物の思考や行動が殆ど時代錯誤で違和感だらけ。無論、1960年代を舞台としたからといって、その当時をシュミレーションするのがドラマの目的ではないが、それにしても変過ぎ。まるで時代劇に携帯電話を扱える人物が出ているかのごとく。

懐かしい時代設定で家族の絆とかをテーマにしたいのだろうが、そうであればその時代背景も取り入れなければ嘘になる。

自分の記憶の中にある1960年代は、今よりイージーで大雑把で汚くて人間の喜怒哀楽が露骨だった。その上、学生運動や政治に関する活動が一般人にまで浸透し、生活の中に反映されていた。デモ隊なんて珍しくなかった。だから1960年代に作られた当時の映画、ドラマやドキュメンタリーをみると、やたら一般人から「ベトナム」や「反米」「沖縄」という政治臭い言葉が飛び出してくる。デモのシーンも頻繁に取り入れている。

ところが、今の「1960年代ドラマ」は、その部分を全部カットして、恰もそんな「社会運動」はなかったかのごとく描いているので、まるで歴史を操作された嘘の1960年代なのだ。確かに大道具や衣裳、髪型なんかは当時に似せているし、「東京オリンピック」のシーンなんかも出てくるが、それは単に都合のよいポジティブな部分の1960年代の残像であって、ネガティブな1960年代は自分が観た限りどこにも見当たらないのだ。おそらく、そんなデモとか赤旗振るシーンとか入れると何かと問題になるから敢えて「なかったこと」にしているのだろうが正直「変」過ぎて観るに耐えない。

「よい事だらけの古き良き1960年代」を描いて、今の殺伐とした時代にもう一度「家族愛」をとでもいいたいのだろうが、今日、新しく家族を設けられる若者がどれだけいるか考えてみるがよい。

99%の男女が結婚出来た1960年代を無事過した者のノスタルジー妄想は正直、うんざりである。

そんな時代はもうやってこない。

だから今日、「朝の連続テレビ小説」で描くとすればこんなドラマだ。

登場人物は「ひきこもり」の30代後半独身無職男子(役/出川哲朗か伊集院光あたり。江頭2:50でも可)。ヒロインはこれまた「ひきこもり」の30代前半独身無職女子(役/モリマンの太ったほう)。

週に一回、コンビニに通うシーンの他は、自室に籠ってネットの掲示板で自分の不幸を嘆き、自分が結婚出来ない情況を罵りあうシーンが延々と続く。そして最終回、自分は単に「うんこ製造機」である事に気が付き、JR中央線に飛び込むシーンで終わる。

題して『ヒッキーは死ぬだけ』。

如何であろうか?まさにこの時代にぴったりの朝ドラではないか?

胡散臭い1960年代再現ドラマよりよっぽどマシだ。


2004年5月15日

「影男シリーズ」新作原稿完成。

やっとのことで月刊コミックバーズ7月号(5/29発売)用新作原稿が上がった。途中2月に出た単行本準備もあって前回掲載時から半年も経ってしまった。

今回も24ページと自分としては長い作品。16ページを超えるとなかなか計算通りに進んでくれない。次回からは多少絵柄も変更しようかとも考えるがまだ解らぬ。

いずれにせよ、久しぶりの新作に御期待を。

あと、電子書籍のダウンロード案内URLが変更になっていた様なので修正しておいた。

今年も気候が一ヶ月先行しているようで季節の感覚が狂う。

うっかりすると、もう夏を過ぎて秋に向かっているのではないかと錯覚する。

気候に身体を合わせるのが大変だ。


2004年5月4日

コミティア68来場感謝。

今回は会場に向かう際に思わぬハプニング。いつものようにJR大崎駅でりんかい線に乗り換えようとしたところ、間違って湘南ライナーらしき電車に乗ってしまいあらぬ方向へ。次の西大井駅で降り慌てて戻ろうとしたが、なんと大崎方面列車が来ない。仕方なく品川で乗り換えて大崎へ。とんだトラブルで30分もロスしてしまい、あわや遅刻するところだった。

さて、今回もいつものごとく1人参加。ところで同人というのは得てしてベクトルが内向きの人が多く、ポジティブに人的交流を深める人は稀なのだが、一方で壁を取り払って同人仲間を増やそうと努力している方も多い。特に優れた本を出し、なおかつ多くの同人仲間と積極的に創作活動を勤しむ超人レベルの同人作家さんも稀に存在する。

そんな作家さんと出会えるのは希有ではあるが、才能溢れる男女がひしめき合う同人界において個人の壁を如何に突破出来るかどうかが作品の普遍性を高める鍵となるだろう。

社交性と創造力を兼ね合わせる事。

実はそれが最も難しい事ではあるが。


2004年4月26日

カラスの巣撤去。

数カ月前より庭を塒(ねぐら)にしていた番(つがい)のカラスが庭木に巣を作りヒナまで産まれていた。

隣人がこの番カラスに不快感を抱いていたらしく、実家の方に巣の撤去を要求してきた。

行政の「カラス処分隊」みたいのが遣ってきてあっという間に巣を撤去してしまった。巣の中に居た母親カラスは逃げ出し、父親カラスは近くの電柱で様子を窺う。ヒナは落された巣と共にゴミ袋に入れられて運ばれていく。

まさにこの番のカラスにとっては恐怖極まる無慈悲で恐るべき出来事だったろう。

わが子を連れ去られ、巣を壊され、安住の地を人間の都合で追い出されたのだ。

彼等は叫ぶ!

「俺達の子を返せ!俺達の子を返せ!」

カラスは日本語を話さないが、確かに精神電波でこちらの脳に訴えかけてきた。

それを受信すると自分はガクガクブルブル恐ろしくなって耳を塞ぎ、一目散に現場から逃げ出す。

尚も親カラスは奇妙な声で鳴き、この虐殺現場上空を旋回する。

「許すまじ!許すまじ!」と。

自分にとって人間はあまり興味がない。

何を考えているか解らないし、たいして面白いとも思わない。人同志の交流で感激した記憶はほとんどない。むしろ鬱陶しいか恐怖、失望の対象である事が多い。

反面、ウスバカゲロウや蟻、ゴキブリ、蚊、ハエ、カラスのような人間にとって「嫌われ者」の方が相性がよい気がする。同じ立場として親近感が湧くのだろうか?

灯りに誘われて原稿の上を這いずる羽虫の行く末を案ずることはあっても、電車内の女子高生に親近感を感じる事はない。羽虫が死んだら悲しいが、女子高生が誰かに傷つけられても何とも思わないだろう。何故なら虫の気持ちは解るが、町中をうろつく女子高生にはまったく心が通わないからだ。

我は思う。今更東京のカラスを減らしたからってどうなるものでもない。カラスを増やしたのは邪な欲望に肥えた人間自らの罪の成した結果だ。

むしろカラスはもっと増やした方がよい。

やがて来る平成大震災の際、大量の遺体をカラスに処理してもらうためにもね。

子を奪われた番のカラスは半日たっても呪の歌を唄っている。

「わが子を還せ。わが子を還せ!ウラミハラサデオクベキカ!」と。


2004年4月23日

『しゃべり場』

NHK教育で金曜夜に放映している若者の討論番組。

今週は、いわいる「ヲタク」青年の存在賛否を問うみたいなテーマ。

典型的な「ヲタク」タイプの青年が世間の偏見に対しもの申す。

だが、この手の議論はもう10年以上前に陳腐化しているような気もする。外見は別として、今の若年層に「ヲタク」的要素がない者を捜す方が難しい。かつては特殊だった「オタク」嗜好は、今やコンビニの食玩に見られるように一般人に広く浸透し普遍化している。今更「ヲタク」と「非ヲタク」を区別して討論するなどナンセンス。

問題は「ヲタク」が更に進化した秋葉系男子の存在だ。

この期に及んで彼等が世間に対し迎合する必要もあるまいと思う。彼等はもともと世間を超越しようと望んでいるのだからね。

『しゃべり場』に出ていた「ヲタク」青年は世間に対し「我らを認めよ」なんて訴える必要はない。

彼は番組でこう発言すべきだった。

「我らに降伏せよ。我々は覚醒人である。我らに逆らい、冒涜する者には神罰が下るであろう。我々はアトランティス人の血を継いだ選ばれし者である。再度、忠告する。我々に降伏せよ!」

無論、こんな発言をしても番組内ではカットされるかもしれぬが、それでも世間に迎合する主張より建設的だ。

自らを覚醒人と名乗れば、世間から「きもい」なんて罵られる事もなく、むしろ恐れを抱き「神」と崇めてくれるかもしれない。「ヲタク」を見下していたストリートダンサーボーイもひれ伏して失禁するだろう。

秋葉系男子=覚醒人=神

素晴らしい!


2004年4月22日

新緑を渡る風。

初夏のような陽気で新緑が激しく萌えている。

南からの風に新緑を撓わに抱えた銀杏やカエデが揺れる。

その光景を眺めていると恰も此所が『風の谷のナウシカ』に描かれた腐海によって浄化された新世界のように思えてくる。

木々に宿った八百万の神が囁く。

「我と一体化せよ」

新緑は究極の真理を垣間見せてくれる。


2004年4月21日

般若のごとく。

電車のつり革広告を見ると、復刊したある漫画誌の広告が目に泊まった。

般若の面を被ったサラリーマンがこちらを睨んでいる写真。

キャッチコピーは「怒れ」だったか。

だが新歓コンパ帰りらしいOL、学生、サラリーマンで混雑している車内では、そのポスターを気に泊める様子も無く、乗客は皆一心不乱に携帯メールを送受信している。

それがとても奇妙な光景で、ポスターの般若の面よりも無気味に思えた。

携帯といえば、この4月になってうるさい程にTVで流れるチャクメロのCM。液晶画面に映る腕のはえた魚が泳いでいる陳腐なアニメを有り難そうに眺める女性。携帯の周りに集まってくる老若男女。

そんなにこの携帯のチャクメロとチャク画面が羨望の的になりうる「商品」か?

どうにも狂気の沙汰にしか思えぬ。

このCMだけではない。

ビール、車、ゲーム、コーラ、コーヒー、マクドナルド、サラ金、生理用品・・。喧しい程にこれでもかこれでもかと流れるCMの、その全てが「ノーサンキュー」。

携帯は所持してない(持ってるのは8年前のPHSのみ)し、ゲームは『インベーダーゲーム』を約25年前一回プレイして以来、一切やらないし、車は乗らない。コーラ、ビール等炭酸系飲料は身体が受け付けぬ。コーヒーも苦手だ。マクドは体調を崩すし、借金するほど愚かでない。また男の自分にはナプキンを必要としない。

これらのCM、広告に何百億掛けているか知らないが、そのすべてが自分にとっていらないもの。

御苦労なことである。

本当にほしいもの。たとえば「男の魂」である本物の銃器、弾薬とか許嫁(いいなずけ)のCMは一切ない。

いらないものばかりが氾濫し、本当に必要なものは何処にもないのだ。

つり革広告の般若が「怒れ」と訴えている。

だが殆どの大衆は「いらないもの」の洪水の中で満足しているらしい。

狂ったように携帯メールを確認する若い女性に乾杯。


2004年4月18日

特殊技能。

4月になって街には「新社会人」で溢れている。

でもこの「社会人」という言葉も死語だな。これほどフリーターが増えると何をもって「社会人」というのか解らない。

それはさておき、自分のような三流大学卒業生には「クリエイティブな職種の求人」など無縁だった。

特別な学科で特殊技能や教職課程、資格を得た者ならともかく、それ以外の文系三流大卒者の求人先は、今も昔も大抵は「営業職」である。

でもこれは実に奇妙だ。

営業というのは、相当なるコミュニケーション能力がなければ出来ない職種。

文系三流大卒者全てがその能力を有している訳でもないのに、なぜ「営業職」の求人しかないのか不思議で仕方なかった。

大学4年生であった25年程前、嫌々ながら就職活動した時も、なぜにコミュニケーション能力ゼロの自分が「営業職求人」ばかりの会社を訪問しなければならなかったのか自己矛盾に苛まれた。

「小中高大学と16年間学校に通った挙げ句、最も自分に向かない『営業職』に就くしかないなんて・・」と嘆いたものだ。自分にとって営業職など、原付き免許すら取得出来ない者がジャンボジェット機を空母に着艦させるようなもの。

要するに不可能ということだ。

当然、やる気がない訳だから、面接態度も推して知るべし。

会社の人事担当曰く「あなたは何故この会社を選んだのですか?」

自分「えーと、大学卒業したら就職しなければいけないので仕方がないので来ました」

会社の人事担当曰く「あなたはこの会社で何をやりたいですか?」

自分「やりたいといわれても、指示された事をこなすしかないでしょうから、そうするだけです」

会社の人事担当曰く「お帰り下さい」

訪問する会社全てこんな調子だから、当然ながら全部不採用。でも元々やる気がないのだから落ちても何とも思わなかった。

資格もなければ、技術もない。かといってコミュニケーション能力もないから「営業職」も無理。体力もないから「単純肉体労働職」にも就けない。結局の処、自分は全ての求人先において「いらない存在」でしかなかったのだ。

まあ人格を含め全否定された訳だから、諦めも早く清々したものだった。むしろ自分にとっては喜ぶべき結果だったのかもしれぬ。

これで躊躇なく「世捨て人」になれるとね。

にしても営業職や接客業は今でも自分にとって神業としか思えない。

例えば、ウエイトレス、ウエイター。

会った事もない赤の他人にオーダを聞くなど、どうして出来るのだろう?客がもし鬼だったらどうするのだ?その上、料理を間違いなく客の席に運ぶなど恐ろしくてとても出来ない。誰が何を頼んだかなんてどうして覚えられようか?正に神業である。何よりも人の顔を見て会話する事自体が特殊技能だ。

自分にとってはこのすべてが恐怖。テレパシストでなければ接客業など絶対に無理である。

そんな特殊技能を有する接客業、営業が求人の中では最もポピュラーな職種である事に驚愕せずにはいられない。

この世は不思議である。


2004年4月14日

『ふしぎの海のナディア』

1989年頃にNHK総合テレビで放映されていた『ふしぎの海のナディア』が、この4月から教育テレビで水曜日夜7時半より再放映中だ。今やこの手のアニメは深夜帯にしかお目にかからないが、当時は7時のニュースの後に放映していたのだ。

初放送中は全話の半分ぐらいしか観ていなかったので、改めて放送してもらえるのは有り難い。ビデオレンタル店を利用すればおそらくいつでも観られるであろうが、毎週決まった時間に「同時体験」として観賞するところに醍醐味がある。時報とともに始まるオープニングの緊張感がたまらない。

『ナディア』は回によって作画の質が随分違ったので、『未来少年コナン』ほど緊張感を持って観てはいなかったが、後に『新世紀エヴァンゲリオン』を産む庵野秀明の作品とあって今でも興味深い。

毎回好きだったのはエンディングだ。本編終了後、間を置かず『Yes,I Will』が流れ出すタイミングは絶妙。モノトーンの動画と森川美穂の曲がシンクロしてよい味出していた。

久しぶりに、このエンディングを観て、当時のあの心地よさが蘇ってきた。


2004年4月12日

萌える季節。

関東地方は初夏のような気候。

新緑の「黄緑色」が目に眩しい。この色は人間の視覚に安らぎを与えるのかも。

ウグイスが盛んにさえずっている。

このシーズンにぼうーと佇んでいると、まあとりあえず「生きてるだけで丸儲け」なんだと思う事がある。

ケセラセラ。


2004年4月11日

『最強伝説黒沢』

かなり以前からいろいろな方に奨められていた漫画『最強伝説黒沢』を読んだ。

読んだといっても第1巻をパラパラッと捲っだ程度で熟読した訳ではない。基本的に漫画を読まない性分なのでちゃんと読解出来たのかも定かでないのだが。

ある日、「存在の拠り所」に目覚めた40代独身男性が、それを成就させんがため行動に出るが、尽く裏目に出て自分の「ダメ男」ぶりを曝してしまうというストーリーだ。

確かにこの『最強伝説黒沢』の主人公は、ぱっとしない男だ。秀でたものがある訳でもなし、ドン臭くて人望にも欠ける。異性からも相手にされず、40過ぎて独身のまま。

時々、『影男シリーズ』の主人公を連想させるという感想を頂く時もある。

しかしである。

彼は少なくとも、男として体力も体格も平均以上だし、運転免許もある。引き蘢りでもないし、組織の一員として経済的に自立出来ている。その上、子供にも好かれているではないか。なによりもポジティブに現実世界とちゃんと向き合っている。このようなタイプの男はちょっとしたきっかけで人生は開けるものだ。体格がよいということは存在感を誇示出来るから女性を獲得するのもその気になれば容易だ。

結局、この男は遅かれ早かれ、真っ当な人生を獲得するだろう。行動に着手するのが他の男より多少遅かっただけのことだ。

それに彼の行動は周囲を和ませる。少なくとも忌むべき存在として描かれてはいない。

彼の何処が「絶望」か?

それに比べ「影男」は全てがネガティブで「忌むべき」存在だ。ベクトルが現実世界に向いておらず、常に自己世界で破滅と絶望に葛藤し続ける救いようのない男。

だが問題はそんなことではない。

『最強伝説黒沢』は、著名作家が著名雑誌でコンスタントに発表し、多くの読者に読まれる「人気者」だ。

この主人公がどんなに悲劇的でも彼は「人気者」としての地位を確保している。

そんな彼は幸せ者だ。

どんなに「抱かれたくない男」ナンバーワンだったとしても、それが著名タレントであれば美人モデルをお嫁さんに迎えられるのと同じようにね。

一方で「影男」は悲惨である。

16ページ3ヶ月もかかる超遅筆漫画家に描かれ、忘れた頃にマニア系雑誌にひっそりと掲載されるも誰にも気付かれないという悲惨に悲惨を重ねた存在だ。

物語世界の中で存在感が無いばかりか、作品そのものすら存在感がないという救いようのない存在が「影男」なのである。

『最強伝説黒沢』と比較する事自体、間違っているのだ。

今現在も、『影男シリーズ』新作24ページを制作中なのだが、制作開始が12月なのに今だペン入れ途上。

「影男」は漫画として語るに値しないのかも。むしろ描いている本人のダメさ加減を代弁しているに過ぎないのだ。

それでも描いていかざるおえない。


2004年4月7日

陰鬱なテレビその2

深夜、何となくテレビを灯すと、NHK総合テレビで妙なカップルが出演している番組をやっていた。

番組名は『今夜は恋人気分』だったか?

「幸せな逆転夫婦」と称し、妻が働き、夫が家事子育て担当というカップルを紹介するフェミニズム臭漂う構成だ。

だが暫く観ていると奇妙なことに気付く。

出演していた夫婦の妻は売れっ子漫画家。一方、夫は元クラブDJのイケメン男。

何の事はない。イケメンをゲットした金持ち女の「ヒモ自慢」だ。

夫婦の役割云々とは関係ない虚栄心丸出し女性と逆玉の輿ヒモ男の「大衆見下し独演会」である。

この番組も、芥川賞の女性や倉田真由美を持ち上げて女尊男卑を煽る「差別番組」の類。

これを観た大多数の絶望独身男性は、心の底から憤怒に駆られるに違いない。この女性の行為は正に「選民思想」そのものだからだ。こんなものを公共放送が扱っていい訳がなかろう。

かつては気晴らしになった深夜テレビは、今やストレスを増幅する汚水槽。

地上波テレビと訣別する日も近いかもしれぬ。


2004年4月6日

陰鬱なテレビ。

最近、気分が晴れない理由の一つにテレビがある。

たかがテレビである。だが物心付き始めた頃よりずっと身近に存在しつづけたテレビは、幾ら視聴時間が短くなったといってもその影響力は大きい。

そのテレビが過去にも増して不愉快なのだ。

先日、ラジオで伊集院光がこんな事を述べていた。

「テレビはずっと『永遠のチェリーボーイ』の為にあったのだが、最近は『不細工な女』向けに作られて不快な映像をこちらにどんどんぶん投げてくる」

そう、最近のテレビは例えて言えば女子トイレの汚物入れの中を覗かせるような空気が漂う。正直、そんなものは観たくもないが、『不細工な女子』にとっては興味を引く事象で溢れているのだろう。

実際『不細工な女子』が本当に最近のテレビを喜んで観ているのかは知らない。しかし、地上波テレビの狙う視聴者ターゲットは近年明らかに若い婦女子と高齢者を意識するようになった。と同時に自分のような独身20〜40才男子は完全に切り捨て状態だ。

だがかつての重要な顧客であった成人男子を冷遇するような編成をしていると、いずれ報いを受けるかも知れぬ。

飽きっぽい婦女子や将来性のない高齢者の御機嫌ばかりとっていると、いずれデジタル化の際に地上波テレビはあっさり大衆から切り捨てられる可能性だってあるのだ。

今日もテレビから流れる不快な画像と音声が気分を陰鬱にさせる。

結局チャンネルはいつも放送大学かMXテレビのフィラーばかりだ。


2004年4月5日

『青春のオールナイトニッポン』

久しぶりにコンビニを覗くと食玩コーナーに『青春のオールナイトニッポン』というBCLラジオのフィギュアが入った製品を見つける。

精巧に出来たラジオの模型に音声ICが内蔵され、70年代の深夜放送DJの声やジングルが聴ける仕組み。

当時の『オールナイトニッポン』の年表が同封されているので参考になる。90年代前半FAXが普及し始めた頃には番組の大半にメッセージを送付した思い出がある。随分読まれたものだ。

深夜放送との付き合いは、大抵就職してしまうと縁が切れるものだが、こんな夜型の仕事に就くと逆になくてはならない存在と化す。だから自分にとって深夜放送は郷愁ではなく今そのものなのだ。

で、この食玩(といってもお菓子は入っていない)の出来だが、ラジオのフィギュアは完成度高いが、記録された音声は短く(15秒程)若干物足りない。電池内蔵なのだからいっそラジオ機能も付属させたほうが面白かった。あともっと凝った解説書もほしいところ。

ラジオといえば最近聴くのはコミュニティーFMばかり。改編期で終わってしまった愛聴番組もいくつかあったのだが、ある番組の最終回で気になった曲が掛っており、その一節にこんなのがあった。

「喉が乾いた時にはもう水がない」

誰が唄っているのかは解らないが、曲名は『人生一度』とかいうタイトルと記憶する。

齷齪(あくせく)働き、結婚子育てした男がふと人生を振り返るが、今になっては心の乾きを癒す潤いは何処にもないとその曲は訴える。まあ順当で真っ当な人生を歩む男が40路にして抱く悲哀みたいなものだろうが、自分のようなダメ人生を惰性で行く者にとっては

「喉が乾いた時にはもう自分がない」

というフレーズがいい。

曲名は『人生以前』で如何だろう?

コンビニを出ると黄昏時を過ぎた東の空に巨大な赤銅色の満月が煌々と上ってきた。


2004年4月4日

『前進前進、また前進!』

新年度になってテレビ番組も更新されているようだが、面白そうな番組は何一つみつからず。『銀座ナウ』みたいな公開生番組が目立つが、若手芸人の当たり障りのない退屈な進行には辟易する。生番組中に神からの電波を受信するシュールな奴とかいないのか?

気が付くと放送大学の難解な数学講座『カオス方程式・・』云々にチャンネルが合っていたりする。内容は意味不明でも、魔法の呪文みたいで面白い。

そんな中、数日前、いかりや長介追悼番組として1960年代後半に製作されたドリフ主演『前進前進、また前進!』という映画がテレビ東京で放映されていたのを観た。

原色ギトギトでサイケな色合いに、一杯一杯で懸命に走り回るドリフターズの面々が凄まじい「高度成長的ガンバリ」を感じさせ心を打つ。内容的にはイージーで大雑把なB級凡作であるにも拘わらず、時代のスケールの大きさが全てを圧倒する。

その中で気になった台詞があった。ヒロインの女性が叫んだ言葉だ。

「若い女の子に働かせるなんて最低よ」

そう、当時は学校を出た堅気の女性が働く(働かせる)ことは稀だったのだ。

花嫁修行の片手間に職に就くことはあっても、本格的就労を望む若い女性は例外でしかなかったのだろう。だから嫁入り前の娘や結婚した女性が外に働きに出るというのは当時としては恥知らずな行為だったのだ。

その分、男が経済的に家族全て養うのは当然の社会的常識というか義務。

この40年近い昔のドリフ映画を観て改めて時代の変動を感じさせる。

もし、今こんな台詞を吐く若い女性がいたら天然記念物ものだろう。これだけ経済的に女性の社会的地位が上がった現在では、むしろこっちの台詞が似合う。

「そろそろ男性の俺を養ってくれよ」

これが2004年度日本の常識だ。

映画のタイトルも『後退後退、また後退!』である。

ドリフの新作映画はこれで決まり。


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