2003年1月・2月・3月
2003年3月29日
『連想ゲーム』
先日、19時半頃であったか、何処からともなく聞き覚えのある音楽が流れてきた。
瞬間にこれは20年程前にNHKで放映していた『連想ゲーム』のテーマソングだと気が付く。
だがそんなもの今やっているはずはない。何かの錯覚だと思いつつも、自室のテレビを灯すと、そこには紛れもなく『連想ゲーム』のセットが・・。
またしても「NHKアーカイブス」の仕業であった。
まるで20年前の茶の間に引き戻された感覚。放物線を描いてセンターフライが落ちてくるような気分。
河の逆流とも言えようか。
・
NHK総合テレビ深夜、イラク戦争ニュースの合間にずっとバクラッドの映像を流しているが、その時に使われているピアノ曲が何故か心地よい。
本来の深夜テレビはこうあるべきだ。
2003年3月26日
椎名林檎と『ニュースステーション』
テレビ朝日『ニュースステーション』に歌手の椎名林檎がゲストで出演していた。
改編期によくある特別ゲストコーナーの一つであろうが、気になったのは何故か「イラク」戦争を絡めている事。番組としては、椎名林檎に何らかのメッセージを発してもらいたかったようにも見えたし、歌手側も何か言いたそうにも見えたのだが、よく解らず。唄った曲も特に明確な意思表示があるようにも思えず。
「戦争は困りますがとりあえずCD買って下さい」なのか?
自分は椎名林檎のファンではないから唄われた曲に込められた深いメッセージ性や、彼女の生い立ちから来る戦争へのこだわり等は解らない。ニューヨークテロと授乳の事を絡めていたようだが。
でも、椎名林檎にしろ、『だめんず〜』の倉田真由実にしろ、報道番組に出る事が彼女達の表現活動においてそんなに重要なのだろうか?
いや、むしろ彼女達の意思ではなく、彼女達を出演させているメディア側が彼女達に「誰か」の意思を語らせたいのだろう。
定かではないが、確か椎名林檎も倉田真由実も夫と離婚し、1人で子育てに勤しむ「シングルマザー」だったような。
そういった人気女性クリエーターをして「父親」はもういらないと主張したいのか?
まあ、子種さえ植え付けられない「父親以前」な独身絶望男性が溢れるこの日本で、そんな主張をしても
「飢餓状態の者に飽食を戒める」ようなもの。
机上の空論を押し付けられる者にとっては災難だ・・。
嗚呼お腹空いたなあ・・。
2003年3月25日
『千と千尋の神隠し』アカデミー賞受賞。
この情況下だから、どちらかと言うと『風の谷のナウシカ』の方がインパクトあったような。
宮崎駿氏がセレモニー会場で「火の七日間」を喩えにして、戦争を戒めるメッセージを読み上げたら興味深かったかも。
・・にしても「反戦」「戦争賛成」どちらにも組みしない対応というのは、ある意味最も賢い選択なのかも知れぬ。
戦争は「祀り事」であるから、その熱狂から冷めた時、自ら放った言葉が自分の足元を掬う事だってある。
但し、クリエーターとしてこの期に沈黙を守るというのは、余程の賢者か馬鹿のどちらかだろう。
大抵のクリエーターはこの状況下、何らかのメッセージを発しているようだ。
では、お前はどうなんだ?と尋ねられたらどう答えるか?
とりあえず「単行本『晴れた日に絶望が見える』を買って読んで下さい」としか言えまい。
少なくともそこには自分なりの戦争に対する幾分かの主張が込められているはずだから・・。
まあ、こんなマイナー漫画家の主張など、虫の羽根程の重みでしかないのだが。
2003年3月24日
切実さ。
先日、あるビルの展望室でぼうっとしていると、4歳位の女の子を連れた親子が隣にやってきた。
娘は母親に尋ねる。
「富士山爆発しないの?」
生まれてから僅か4年にして、富士山のことや、それが爆発する火山であることをいったいどこで知るのだろう?
実に子供というものは、ちゃんと育てれば驚異的な知識を身に付ける「未来への希望」だ。
・
国勢調査によると、日本の40代男性の未婚率はまもなく25%近くに上るという。4人に1人が結婚出来ないのだ(自分の周りでの実感だと10人に9人が結婚出来ていない)。当然ながら「未来への希望」である子供も設けられない。また学歴が高くなる程、その率が上がるという。マトモな男子が絶望の淵にあるというのも頷ける。
最近のニュースで時々放映される中東諸国での「反戦」集会を観ると、参加者の殆どが20〜40代の男性だ。察するにほぼ全員が独身と思われる。イスラム諸国は一夫多妻制が原則であるから、乏しい国だと一部の裕福な男子のみが女性を独占し、その他大多数の男性は生涯女性を獲得する事が出来ないらしい。
その絶望度は正に切実である。
その鬱積した絶望が、自分達を抑圧する外敵に向けられ、「反戦」(というより「反米・反イスラエル」)集会へと駆り立てられるのだろう。
だから中東地域での「反戦」集会は割と理解出来る。
一方、欧米諸国や日本での「反戦」集会には、何一つ切実さが感じられぬ。
参加者は皆、裕福そうで子連れもいる。容姿も立派で可愛い女性もたくさんいる。集会というよりピクニックだな。
彼等に訪ねよう。
「・・・お前達は絶望しているのか?・・・」
否。絶望なんかしていない。何不自由なく未来への希望を獲得している「人生の勝利者」ばかり。
「人生の勝利者」にとって「反戦運動」とはなんだ?
そう、他人の不幸を肴に救済者を気取る偽善パフォーマンスの類だ。
そんな集会に実質的な意味はない。
この国で希望から見放された絶望独身男性の大半は、そんな偽善を冷笑し傍観するだけ。
メディアはプライドある絶望独身男性を意図的に無視し、存在を否定してきた。だからメディアが意図的に捏造する「反戦」集会から彼等は距離をおくのだ。
「反戦」集会は、所詮現状維持がベストだと考えている者達のお芝居に過ぎぬ。
もし、「未来への希望」を得られぬ数百万の絶望独身男性達が本気で動き始めたらどうなるか?
「我々に子供を!」「我々に家庭を!」
その時は本当の「変革」が起きてしまう。
だからメディアは執拗に絶望独身男性の情念を無視しつづけるのだ。
・
夜のニュースで「反戦」集会の次に映し出された話題は「蕎麦の早食い大会」の模様。
その姿は「反戦」集会参加者と寸分と違わぬ幸せそうな人々の表情だった。
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冒頭の展望室でのエピソードに戻る。
その4歳位の女の子は富士山の話題に飽きると、こちらをじっと見詰めて母親にこう尋ねた。
「あそこにいるお兄さん、なんで独りなの?」
「反戦」よりも何が切実なのか?その女の子は理解しているようだった。
2003年3月23日
「戦争賛成」
『NO WAR!』を叫ぶデモ隊の姿はたまにTVに映るが、戦争大好きボーイの姿が全く無視されているのはなんでだろう?
戦争報道が始まって以来、メディアから流れてくる情報は至極マトモになってきた。
夕方のニュースの時間に流されていた醜悪な話題、たとえば「汚ギャル」「片付けられない主婦」「子育て拒否」等、諸々のニュースに値しない「ゴミ箱漁り」からすれば、戦争報道は実に真っ当である。なにせ多くの人命が関ってくる訳だから。
『NO WAR!』を叫んでる人々は「ゴミ箱漁り」に終始する堕落した日々には何の疑問も感じていなかったのだろうか?
そんな日々で満足出来る人々だから、変革など望んでいないのだろうな。
で、まあ洒落で「戦争反対」などを叫んでみようかと。SMAPの曲が反戦歌だなんていう「釣り」にまんまと乗せられてしまう辺り、動機が単純だ(これは新手の反戦商法に引っ掛かってしまったというべきか)。
この国にはそんなお気楽気分で「反戦」を謳うほど余裕のある者は多くない。
特に、結婚も出来ず、子も設けられない若年層の大多数の絶望男子からすれば「反戦」どころか「こんな世界さっさと終わっちまえ」と思っている連中の方が多いはず。
そんな者からすれば「戦争大歓迎」なのだ。
ブッシュの怪し気な世界戦略やフセインの野望などどうでもよいのだ。自分達を虐げてきたこの世界を綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれればそれでよい。
それにライブ中継される爆撃シーンはなんと美しいのだろう。
各種武器が発射される映像や戦闘シーンは、正に「男の映像」。
それに比べ、反戦デモの映像は何故あんなに醜悪でみっともないのだ?その上胡散臭い。
・
戦後、この国には徴兵制もなければ戦争に直接触れる制度も教育も何もない。無論、戦争に直接関った事すらない。第二次世界大戦敗戦以降、この国での戦争は常に「空想」の中だ。
その「空想」で「戦争反対」を唱えたとしても、所詮は戯れ事。
同じ戯れ事であれば「戦争賛成」を唱えたところで罪にはなるまい。
むしろ行き場をなくし、彷徨うに任せる何百万もの日本独身絶望男性達の無言の「叫び」にこそ、耳を傾ける時に来たんじゃないのか?
未来に希望がないのは、爆撃下のイラク市民と同じ。むしろ本物の爆弾が落下する分、生きる事の切実さが解るイラク市民の方が人間としてリアルなのかもしれぬ。
だから敢えて言おう。
『戦争賛成!B2ステルス萌え。くたばれSMAP!』
(このメッセージを掲げてデモ行進しよう)
「空想」でしか戦争を語れぬ日本人にとって「リアル」な戦争の是非を論ずる資格なんて元々ないのだ。
2003年3月20日
「人間の的(まと)」
フセイン大統領の演説をテレビで観ていたら電話が掛かってきた。
受話器から流れ出た言葉は
「マンション買いませんか?」
危機を煽るメディアとは裏腹に、大半の日本人は相変わらず仕事に忙しいらしい。
・
まるで出来損ないのC級戦争映画を観るような展開。
ブッシュもフセインも安っぽい「正義の味方」と「悪党」を演じている三流役者の様で痛々しい。
(ただし空母から発艦する艦載機や、対空砲の爆音は血沸き肉踊り魂を鼓舞させてくれるが。)
こんな有様を眺めていると、反戦とか反テロとか、正直な話、次元が低すぎてまともに語る気も起きない。
ただ唯一、関心があるのは「人間の盾」。
イラクに行って、無防備のまま米軍の攻撃に立ち塞がるのだとか。
ある意味無鉄砲で間抜けなのだが、実際現地まで赴き、身を危険に曝す分、説得力はある。まあ、本当は「反戦」活動なんてどうでもよくて「死地」としてイラクを選んだと考えるならばなかなか賢い。
彼等は実は「人間の盾」じゃなく「人間の的」に成りたいのではないか?
最近、ネットで仲間を募って自殺するのが話題になっているが、これもその類かもしれない。
いい加減、この日本に生きていたって未来に希望はない。そんな絶望独身男性にとって「人間の的」は、なかなかオシャレな「死に方」ではある。
人に迷惑かける訳じゃなく、米軍の最新兵器で逝けるのだから、プライドある男性にとっては願ったり叶ったり。
いよいよ「人生の敗北者」にとって、生きる努力よりも死ぬ努力にエネルギーを傾けるべき時に来たのかも。
「人間の的」を志願した者からすれば、安全地帯で「反戦」や「反テロ」を叫ぶ怪し気な輩など、ただの俗人以下だ。
頑張って逝ってほしい。
応援するぞ。
2003年3月17日
「受かった夜には何しよう」
たしかこんな吊り広告を電車の中で見た。
予備校CMも盛んに流されているこのシーズン。
それにしても、たった一回のテスト合否で人生が決定付けられると、今だ信じ続けるこの情念とは何だ?
10代前半の時点で学歴社会から「不要」のレッテルを貼られた自分からすれば、夢の中の出来事。
「受かった夜には何しよう」という標語は、「不要人間」にならなくて済んだという安堵感の現れだろうか?
最初から人生を放棄しているような人間にとって、そんな安堵感は一生訪れそうにない。
2003年3月14日
遥洋子著『ハイブリッド・ウーマン』
知り合いの家に置いてあった本。なんとなくぱらぱら読んでみる。
いわいるフェミニスト本。
あるレビューにはこう説明されている。
「女は堕落しよう! 男社会を斬る痛快エッセイ。電車の痴漢、男子トイレのゲイ、混浴温泉にいたおじさんから男を学んだ「男らしさ」に縛られた男と、男に認められたい女。そんな社会に遥洋子がもの申す」
たぶんこの類の本は書店の女性関連コーナーに行けば腐る程置いてあるのだろうから、別にこの本が特別な意味を持っている訳でもない。それに著者の遥洋子がどんな人かも知らない。
まあ前提として女性を読者対象とした内容であるから、男が読んでも何の意味もないのだが。
この本における「ハイブリッド・ウーマン」とは「いいとこ取りをする女」を意味するらしい。即婚者、キャリアウーマン等の良いところだけを獲得して美味しい人生を生きようという主旨。
自分が気になった部分は、痴漢の冤罪について述べた部分。
「女性にとって痴漢をやっていない男性を痴漢に仕立てる行為は、これまでの男性上位社会に対する正当な「テロ」行為であって恥ずべき事ではない。むしろ反省すべきは、これまでの男性優位の社会構造であり、冤罪の濡れ衣を着せられた男は因果応報と諦めて冤罪を受け入れよ。」
要約するとこんな内容だ。
この著者に限らず、女性の社会的地位向上を訴える者が一貫して叫ぶのは「オヤジ」に対する憎悪と嫉妬だ。
「オヤジ」が持っている社会的地位とその支配こそが、女性の社会的進出を疎外しているのだと。
やっかいなのは、その「オヤジ」に対する憎悪を「オヤジ」そのものではなく、何の力も持っていない弱い男に対して振り向けていることだ。
一般の「賢い」女性達は「オヤジ」に抗する事など最初から無意味と解っており、ギブアンドテイクいう共犯関係で社会が成り立っている事を承知済みなのだが、フェミニズムを標榜する女性にとってそれは納得出来ないらしい。とにかく「男」に復讐することが何より大切なのだろう。
だが、いくら「オヤジ」に憎悪を燃やしても効果的な反撃手段はみつからない。それに失敗すれば自分の身も危ない。ならば毒にも薬にもならない社会的地位の低い脆弱な男性に憎悪の鉾先を向け、普段の鬱憤を晴らしましょうと・・。まあこんな具合である。
その鉾先にされた男達がどんなに悲惨な目に合わされているか・・。それは身を持って体験している。
独身絶望男性をまるでゴミのように扱い、無視し、嘲笑の対象にして日々の鬱憤を晴らしている女性がどれだけ増えたか。
結局、自分が何をやっているのか気が付いていないのだ。自分達が憎しみの対象としている「オヤジ」と寸分違わぬことを、独身絶望男性に対して実践しているのだ。それも陰湿に。
これが社会進出した女性の目指した「正しい行動」というらしい。
結構な御身分である。
そんなことを奨励する「ジェンダー本」が書店には溢れているのだ。
絶望独身男性の基本的人権を蹂躙し、更なる絶望に追いやることが「若い女性の正しい権利」らしい。
『だめんず・うおーかー』を描いた倉田女史にしろ、この『ハイブリッド・ウーマン』の著者にしろ、自らが書いた本によってどれだけの罪のない男性が貶められているか少しは考えてみるべきと思うのだが、まあ無理だろうな。
この手の本が売れていると言う事は、そういう需要があるということ。そしてそういう需要を生み出している社会の背後に潜む「邪」を排除しない限り、この現状は変わらない。
この手の本は今後とも大量生産され無垢な男子を貶め迫害しつづける。
結婚のチャンスを剥奪し、絶望に追いやる事。それが「邪」の目的なのだから。
そんな「邪」に踊らされている倉田女史や遥洋子が、いつの日か報いを受けないか逆に心配でもある。
2003年3月12日
SMAPの新曲。
12日付の朝日新聞夕刊に「SMAPの新曲は反戦歌と反響」と題した記事があった。
まあ、反戦歌と思う思わないかは個人の自由だが、少なくとも自分にはそんな歌には聴こえない。
「ナンバーワンでなくオンリ−ワンを」
歌詞を書いたのは槙原敬之だそうだが、SMAPが唄った時点で、もうどうでもよい曲だ。
だいたい、ウチワを振ってSMAPを応援している女性達が世界情勢云々を真剣に考えているとはとても思えぬ。
まあ、SMAP自身、自分達の唄っている曲が反戦歌なんて思われる事自体、迷惑な話と思っているんじゃないか?
それにSMAPみたいな男達があえて「ナンバーワン」になろうと渇望する理由はなにもない。
男として優位な地位を先天的に持ち合わせているのだから「オンリ−ワン」で良い訳だ。彼等にとっては、この現状が「この世の春」。
そんな特権男性が、社会を変革しようなどと説いて利することは何もない。またそんな動機もない。
一方、日本男子若年層の大半を占める絶望独身男性にとって「オンリ−ワン」ではただの生きる屍。現状のままでは結婚も家庭も得る事が出来ないゴミのような存在。そんな男達に「オンリ−ワン」を強要するのは「そのまま死んでろ」と宣告するようなもの。
そういう意味で、この歌は「生まれながらに恵まれたモテモテ男の戯言」でしかない。
社会とか戦争とか、そんなものと関係付ける事自体、滑稽ではないか。
反戦歌以前の問題。
この歌にメッセージなどない。
この歌は、夢見るSMAPファンたる女の子達への甘い御菓子に過ぎないのだ。
2003年3月9日
モー娘と子供ジャニーズ。
東京12チャンネル(テレビ東京)日曜お昼頃に、可愛い女の子が他愛のないコントをやっている番組がある。しばらく観ていると彼女達が「モーニング娘」らしいことに気が付く。ただ名前が解るのは辻、加護(ただし、二人の見分けはつかない)位で、全部で何人いるのかも知らない。でもモー娘って歌だけではなく、コントもやるのだね。
それはさておき、彼女達がコントの中で男装する場面があるが、それが妙に似合っている。中性的な感覚が実に心地よい。あれはどういう理由なのだろう?
神秘的で実に可愛い。
さて、そのままチャンネルを変えずにTVをつけっぱなしにしていると、今度はジャニーズ児童版(?)の少年が出てくる番組が始まった。
2、3分も観ないうちに吐き気がしてきた。
モー娘とたいして変わらぬ歳なのに、なぜ男子だとこれほど不愉快に思えるのだろう。
アンドロゲンという男性ホルモンを浴びてオスとして生まれると、いくら可愛くとも少女のような永遠の神秘性を得る事は出来ない。そんなオスの子供が、自らの容姿に陶酔しながら唄ったり踊ったりしているシーンは醜悪この上ない。その上、十数年しか生きていないのに人生を語るような生意気な口調でトークなど披露したりすると堪え難いものが込み上げてくる。
要するに性として中途半端なのだ。
彼等にとって最大の不幸は男に生まれてきたことだ。
いくら頑張ったとしても、彼等はいずれ、すね毛やヒゲが生えてくる。そして髪も薄くなって禿げる可能性だってある。要するにいずれ「汚い」存在になることが運命付けられているのだ。
それを考えただけでも不快になってくる。
・
モー娘は「永遠の少年」なれるが、ジャニーズ子供版は「永遠の少女」になれない。
ジャニーズ子供版は不幸だ。
そして不快な存在でもある。
2003年3月8日
週刊少年漫画誌。
コンビニでなんとなく「週刊少年サンデー」を手に取る。おそらく5年振り位か。
昔ながらの古典的作家の作品もあれば同人誌ぽいカルトなネタを扱った作品もある。ただ変わっていないのは紙や印刷。作家の絵の技術は上がっているのに、この部分は恐ろしくチープなまま。まあ、一応ストーリーを追う上で判読可能であれば描き手の方も納得済みなのだろう。週に一回大量に発行するものと考えればこれが普通。
気になったのは、新人と思われる作家の連載回数がすでに100回を越えている事。たぶんこの人が一年で描いた原稿枚数は、自分がこの20年で描いた枚数より多いのだろう。
それを考えると目眩がしてきたので、その週刊誌を本棚に納めると一目散にコンビニから飛び出した。
ため息。
2003年3月5日
共著本。
複数の作家の短編作品をテーマ毎にまとめた共著本(競作集アンソロジー本)というのがある。
このような共著本は雑誌と違って、ある程度長く流通する書籍として残る。かつて自分がデビューした本「季刊プチアップルパイ」(1982〜1986年)もそのような単行本形式の共著本であったので、今尚古本屋やネットオークションで入手可能だし、読者もいる。
ところが共著本はオンライン書店で求めようにも代表格の執筆者しか登録されておらず、他の執筆者の名前で検索してもなかなか引っ掛からない場合が多い。そこで自分の参加した本で現在も入手可能な共著本を当HPにて一覧にしてみた。
1996〜1997年頃は『新世紀エヴァンゲリオン』のアンソロジー本がたくさん出て幾つか参加させてもらった。今でも注文すれば購入可能な本も多い。
近年参加した共著本で「コミックエデン」(兎菊書房/1999年)というのがあるが、そこに巻頭カラー4Pで描かせて頂いた『絶望廃虚要塞’99』は今回の単行本メイン作品である『影男シリーズ』の一部でもある。
また「米韓連合軍VS.北朝鮮軍」(日本出版社/初版1994年であるが版を重ねており、今でも書店で入手可能)に掲載された『PU線上の愛』は、北朝鮮との謀略戦を描いた作品。1994年頃も北朝鮮の瀬戸際外交で一触即発の情況だった。当時、北朝鮮からの短波放送を入念に受信モニターし、練りに練って構想した作品がこの『Pu線の愛』である。お陰で、最近の北朝鮮報道を見ても「先」が見えてしまい大して驚きもしない。
自分で薦めるのも何だが、『Pu線の愛』は是非とも今読んで頂きたい作品。
それはさておき、改めてまとめてみるとアンソロジー本には結構参加しているものだと思う。元々、長いページは描けない性分だから必然的に短編集が向いているのだろう。
「プチアップルパイ」等を含めれば、雑誌掲載と大して変わらぬ量かもしれない。
2003年3月2日
本の洪水。
めったに行かないコミック専門店。一応、自分の本が並んでいるか確認するために覗いてみる。
それにしても物凄い量のコミック本。
それが毎日、新刊として書店に並べられ、そして消えてゆく。
平積みにされるのは精々1週間か?
自分の本など洪水の大河に流される一葉に過ぎない。それが本の流通の当たり前の姿なのだ。
それでも、紙の媒体に固定、定着されることには意義がある。
本には、重み、インクの香り、紙の質感がある。自分の足で書店に赴き、自分の手で本を取り、自分の財布からお金を払い、自分の指でページを捲り、読後、本棚に納める。
この五感を使ってこそ、記憶の中にその内容が染み渡っていくのだ。
いくらネットが普及したといえども、本の存在観に優るものはない。
・
ところで、今回の単行本を読んで当サイトに初めて訪れた方もいらっしゃるかと思う。
あいにく当サイトには掲示板がなく、コメントを残したくとも残せない方もあろう。
出来ればe-mailにてコメント、感想など頂けると幸いである。
既に何人かの読者の方から感想等頂いており、大変参考になっている。
宜しくお願いします。
2003年2月24日
『晴れた日に絶望が見える』発売。
お陰様で新刊『晴れた日に絶望が見える』正式発売日を迎える事が出来た。
発刊にあたり、購入して頂いた読者、及びお世話になったすべての方に御礼申し上げる。
まだ購入していない方も是非、手にとって頂ければ幸いである。
ところで幻冬舎のネット販売で先着20名にサイン本が購入出来る。多分競争率はそんなに高くない(?)のでこちらの方もよろしく。
2003年2月23日
コミティア63。
来場感謝。
この日はビッグサイトでワンフェス等のトイ、模型イベントが目白押しであった。しかし今回も1人参加なので見て回る時間がなかった。残念。
今回は、久しぶりにコミティア合わせのコピー本を作ってみた。ラフな4コマ本だが、こういうのも結構楽しい。
さて、すでにフライングぎみに『晴れた日に絶望が見える』を購入された方もいらしたようだ。漫画専門店では予定より早く扱うらしい。
さて、その単行本であるが、印刷が大変良い。
B6版という高い縮小率で、はたして細かい線が潰れないかという不安があったが杞憂に終わる。微細な線まで再現されているのには吃驚。これまでの自分の本では最も納得のいく仕上がり。誤植もほとんどない。
CGで彩色したカバー絵、扉絵の色合いもOK。装丁もセンスが良い。裏表紙はカバーから透けて下の文字がうっすらと浮き上がる仕掛け。
細かい部分まで含めると完璧とまではいかないが、贅沢を言い始めたらキリがない。
手応え十分な出来。
自分からすれば自信を持って提供出来る本に仕上がっている。660円の価値は十分過ぎる程ある。
是非とも買って読んで頂きたい。
2003年2月18日
新海誠映像集。
今月の「アニメージュ」に、例の『雲のむこう、約束の場所』の作者、新海誠氏の映像集がCD-ROM付録になっているというので購入し、じっくり鑑賞。
不思議だ。
所々、自分の創作領域とほとんどシンクロしている。
新海氏の「塔」に対するこだわりは、かつて自分が学生時代、学漫機関誌に描いた『塔へ』『山手鉄道の夜』(自費出版「偏西風’78」に収録)の頃と似ている。更に先日の日記で述べた「プチ・アップルパイ」掲載の作品もそうだし・・。
そればかりではない。新海氏が描いたという『塔のむこう』という漫画(自分はまだ未読)は、付録のブックレットインタビューによると、豊島区の清掃工場の煙突がモチーフになっているとか。
それって、正に自分が一昨年、自費出版した『池袋沈黙の塔』と同じではないか?
まだまだある。
『雲のむこう、約束の場所』パイロット版の後半に、駅のホームをシルエットに夕日が沈むシーンがあるが、よくよく見ると、これってJR中央線阿佐ヶ谷駅から南西方面を眺めた風景ではないか?その場所からは遥か地平線に、高井戸の清掃工場の煙突が見える。このシーンにも煙突らしい建物が僅かに描かれているので、ほぼ間違いはない(と思う)。
実は自分はこれと殆ど同じ構図、時間で何枚か写真を撮った事があるし、作品にも描いた事がある。特段知られている訳でもない場所なのに、あえてこの風景を描くというのはいったい・・。
(ただし、鉄道雑誌なんか見ると、たまにここから撮った中央線の写真が載っていたりする。新海氏も鉄ちゃんなのかな?)
新海氏の存在を知ったのは、今月の「ニュータイプ」「アニメージュ」が初めてだ。一方で新海氏が、あびゅうきょのようなマイナー漫画家の作品を読んでいるとは思えない。むしろ存在にすら気付いていないのではないか。
にも拘らず、着眼点のシンクロ率の高さには吃驚だ。
無論、塔をモチーフにすること自体、それほど珍しいことではない。おそらく、新海氏も宮崎アニメにかなり傾倒しているだろうから、そういう作家達の作品がどことなく似通ってくるのは、むしろ当然かもしれない。
それにしても、阿佐ヶ谷周辺をモチーフにしたと思われるシーンを発見した時は吃驚した。
自分よりも一回り以上若い作家が、自分が表現しようとした「世界」を見事なテクニックと感性で描き切っているのを見ると、本当に凄いなあと思う。
悔しいので新海誠氏のパロディー本でもコミケで出すか(嘘)。
2003年2月15日
予告ページ。
2/24に出る新刊『晴れた日に絶望が見える』の告知ページを更新。
テキストだけの告知よりはインパクトがあるかも。
かなり重いページになってしまったが興味ある方はどうぞ。
2003年2月14日
アニメ映画『雲のむこう、約束の場所』パイロット版。
この制作者のHP上からDL出来るようになっていたのでさっそく拝見。
『ラピュタ』や『オネアミス』を彷彿とさせる映像がなかなか美味しい。何かワクワクさせる要素があるということは、ブレイクの予感も。
だが、驚いたのは、この作品が僅か3人のユニットで作られているという事。
ということは、これはプライベートアニメ?
自費出版みたいなものなのだろうか?誰かが出資して商業ベースで作られたのではないのか?
吃驚だ。
たしかに、音楽の世界では、かつてフルオーケストラで演奏制作されたものが、コンピューターの打ち込みで1人でも制作可能になっているから、それがアニメの世界で起こっても何ら不思議はない訳だが・・。
それにしても、もったいない。
このようなアニメがNHKの地上波で毎週放映されるべきなのに。
いくら完成度が高くとも、個人レベルでは出来る亊に限界がある。1時間弱のプライベートアニメに終始していては、せっかくの才能や感性も自己完結で終わってしまう。これをテレビ放映2クール26話程のストーリーに拡大してこそ意味があるというものだ。
退屈なドラマに出資する金があるのなら、こういったアニメ作家に投資するのがNHK等放送業界の使命じゃないのか?
とにかくもったいないの一言に尽きる。
2003年2月13日
小学校時代の体験。
以前、日記にも記した幼馴染みと久しぶりに会う。
会う度に小学校時代のクラスメートの消息が断片的に伝わってきて興味深い。
授業中スポーツ中継の真似事をして先生に怒られていた奴が、現在NHKのメインスポーツアナウンサーに就いていたり、小3の時、転校時にバイオリンを演奏してお別れして行った女の子が、今やCD店に平済みになる程の売れっ子アーティストに成っていたり・・。
35年以上昔、あの当時の他愛のない出来事がその人物の原点であったことに改めて気が付かされる思い。
ある意味、自己暗示なのだろう。
個人の才能、技能に頼る職に就く者は、おそらくこの当時の体験に左右されている。影響を受けた先生、クラスメート、テレビ、遊び・・。そこから人生の活路を見い出し、夢を実践するのだ。クラスの中の変な奴は、大抵特異な職業に就いているものだ。
そう、小学校時代は有象無象で溢れんばかりだった。それが今やマトモな社会人として成長し、子を設け、その子供はもう中学生にすら成っているというのだから不可思議と言う他ない。
2003年2月12日
「コミックバーズ」3月号発売。
1年弱ぶりに自作品が商業誌に掲載される。印刷がよいので申し分なし。
ただ久しぶりの商業作品だったので、絵、ストーリー共にやや堅かったかなという自己評価をしてみる。
2/24発売の単行本告知ページもなかなかよい出来。
ついでにアニメ誌「ニュータイプ」がエヴァ特集していたので購入。そういえば、先日電車のつり革広告で宣伝を見た記憶が。
付録のDVDはプレーヤーがないので観る事は出来ないが、その収録作品の中に気になるものを発見。
今年公開されるアニメ映画『雲のむこう、約束の場所』という作品の解説を読んで、そういえばこんな感じの話、昔描いた事があるなと思い出した。
1983年発行の徳間書店「プチ・アップルパイ」第4号に執筆した『壁の向こうのFreedom』。おや・・微妙にタイトルも似ているな(笑)。久しぶりに読んでみると恥ずかしくて冷や汗が出た・・。何せ20年前の作品だし。
でももしかすると、この映画作った人、昔の「プチパイ」読んでいたのかもしれないなあ・・と勝手に妄想してみる。
超高層ビル見上げて感動する少女というシーンも・・・(以下略)。
いずれにせよ、『雲のむこう、約束の場所』はちょっと観てみたい作品。
それから、最近、本屋で見かけたハードカバー本で『終戦のローレライ』(だったか?)という本も、妙な懐かしさを憶えた。ぱらぱらとページを捲ったら、全文読まなくても大凡内容の主旨は理解出来たような錯覚に。おそらく20歳若かったら貪るように読んでいただろう。でもこの歳に至ると、もうこの手の作品は自分の中では「完結」しているのだ。
それはさておき、「ニュータイプ」誌上のハイレベルなクリエーターたちによる作品群には驚嘆する。
これでもかこれでもかと、モーレツに上手い作家が洪水のごとく押し寄せる。才能ある者が皆、アニメやコミック、ゲームという分野に集中している証であろう。
にも拘らず、一般メディアでは殆ど注目されていない。
彼等はもっと恵まれるべき立場にあるはずなのだが。
2003年2月11日
『千と千尋の神隠し』米アカデミー長篇アニメ賞候補に。
これは喜ぶべき事なのか否か。
今だ世の中には「権威」を基準にする人間は多い。特に社会的地位の高い者にそういった傾向があるから、アニメ映画の普遍性という意味では好ましい事かも。
一方で、宮崎駿が黒沢明のように「天皇」扱いされるのはちょっと堅苦しくもある。
で、この長篇アニメ賞を『千と千尋〜』が本当に獲得出来るのか?
言うまでもなくアメリカはディズニーの牙城。自国のメイン作品を退けてまで日本の宮崎駿氏に賞を与えるほど、今のアメリカは度量が深くないと思うのだが。
どっちにしろ、それでこの作品の質が問われる訳ではない。ただ『未来少年コナン』から宮崎作品を観続けている自分からすれば、賞を取って欲しいというのが本音ではある。
2003年2月9日
使えないドライブ。
先日、某社製の外付け型FIREWIRE接続DVDマルチドライブを購入した。
最近はマッキントッシュ対応DVDマルチドライブの機種も増えてきた。そこでバックアップメディアとして新たにDVD-R/RW、及びCD-R/RWが焼けるドライブも一応揃えておこうと思ったのだ。今回購入した機種もマック対応の最新型モデル。カタログを見るとOS8.6にも対応しており、求めていたタイプとぴったり。
ところがである。
購入して中の説明書を見るとDVD-R/RWのライディングにはOS9以上の環境が必要と記してある。つまりOS8.6ではDVDには焼けないのだ。外箱の説明やHP上の作動環境表等パンフレットにはそんな事は明記されていない。今のところOSのバージョンアップは不都合が多く、現状では無理。
「看板に偽りあり」だったが既に遅し。いずれバージョンアップする時までDVDはお預けにするのも致し方ないと諦める。暫くはCD-R/RWを焼くために使えればよいかとドライバーをインストール。ところがパソコンがドライブを認識しない。更にライティングソフトで保存したファイルが開かない。勿論CDにデータも焼けない。
あまりにもおかしいのでユーザーサポートに問い合わせる。
するとどうやら、このドライブの作動領域として、パソコンのハードディスクフォーマット形式が「MacOS拡張」の必要があるという。ところが現在使っているパソコンのHDDフォーマットは「MacOS標準」。つまりデータをすべて消去して初期化しフォーマットし直さねばダメと言う事?
冗談ではない。
DVDに焼けないどころか、パソコン内のデータを全部消す作業を経ないと作動すらしない訳か?
そんな「DVD」ドライブなど使っていられるか。昨年、必死の思いでHDをフォーマットし直した苦労はもう二度と御免。
ハードディスクのフォーマット形式に制限がある等、重要な作動環境の条件を全く明記せずに、OS8.6でも簡単に使えるかのような売り方には憤慨する。
さすがにこれでは使い物にならないので返品するか否か悩む。いずれOSィにバージョンアップする時までタンスの肥にするか?いずれにしろ現状では無用の代物となってしまった。
ドライブの機種によっては、同じ「OS8.6対応」でも昨年買った外付けHDDのように問題なく使用出来る製品もあるかと思えば、今回のように、まったく使い物にならないのもある。自分のパソコンの作動環境との相性もあるのだろうが、今回のケースは最悪。
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それはさておき、パソコン導入以降、データーのバックアップに苦心してきたが、次第に馬鹿馬鹿しくなってきた。
FD、Jip、MO、CD-R/RW、DVD-R/RW、DVD-RAM、HD等など記憶メディアはたくさんあれど、方式やドライブ、それに対応するパソコンの種類や作動環境条件等で読み書き方式が異なる上、2〜3年ですぐ更新されるため、古いメディアで記憶したものは10年も経たぬ内に再生する手段がなくなる。またメディア自体の劣化も馬鹿にならない。
これが記憶メディアと言えるだろうか?
結局、コンビニでコピーするのが最も確実なバックアップだったりする。
正直、いい加減にしてもらいたいものだ。
2003年2月8日
コンビニのバレンタインデーチョコ。
例年、このシーズンになると綺麗にデコレーションされたバレンタインデーチョコがコンビニの棚にたくさん並んでいる。
それを見る度、気の毒な気分になってくる。
まるで、結婚出来ない哀れな絶望男性のようだ。
いくら綺麗にラッピングしても所詮はコンビニで売られるモノ。元々「いらない存在」なのだ。
今時の女性がそんなステイタスの欠片もない安物を敢えて購入する理由は何処にもない。今や「義理チョコ」という風習さえ廃れた今、コンビニのバレンタインデーチョコの存在意義などあるのか?
それと全く同じ理由で、さして魅力のない余った男達の哀れさが、コンビニのバレンタインデーチョコとシンクロするのだ。
一生懸命、女性に相手にされようと着飾ってみても、見向きもされない。それでも懸命にもがく姿がそっくりなのだ。
そして2/15。旬を過ぎたバレンタインデーチョコは特売の棚に移され、それでも売れ残る。
自分にはその売れ残った哀れで儚いチョコが悲痛の叫びを上げているのが聞こえるのだ。
「助けてくれ!もうすぐ返品のトラックがくる!そうしたら僕は燃えるゴミとして焼却処分されてしまうんだあ!だれか僕を見捨てないでくれえ!」
しかし無常にもそのチョコを買う女性は皆無だ。もはや同情の欠片すら彼女達にはない。
自分はその場に佇むことが出来ず、耳を押さえてコンビニを飛び出す。
翌日、そのコンビニにはもはやバレンタインチョコの姿はない。
毎年繰り替えされるこの悲劇に誰も心を動かさない・・。
世も末である。
2003年2月5日
WTM第3弾。
食玩の『ワールドタンクミュージアム』の第3集目。コンビニに行く度に1個か2個買ってしまう。
セットの中に入っている解説書にも記してあったが、タミヤ模型1/35シリーズの2号戦車は印象深い。当時何回も作った記憶がある。昭和40年代〜50年代の小学校高学年と中学生男子にとってミリタリー系模型を作るのは普通の趣味だったのだ。今の子供はそれがゲームに代っただけ。
ところでゲームばかりやっていると「ゲーム脳」になってしまうと言われるが、すると自分の世代は「プラモ脳」か?セメダインや塗料の溶剤を散々浴びているから、何らかの影響があったかもしれない。
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あいかわらずNHKではテレビ誕生50周年の特集番組をやっているが、使用されるかつての映像はプロ野球巨人の長嶋天覧試合でのサヨナラホームランとか、東京オリンピックの開会式等、テレビ番組というより当時の映像記録の断片という感じで退屈する。そういったメジャーなシーンは度々目にするものだから新鮮味がない。
過去のテレビ番組として扱うのなら、当時放映された情況そのままに再現してもらいたいものだ。ニュースであればノーカットで最初から終りまで放送トラブルも含めて丸々流すとか、スポーツ中継も実況そのままに途中の雑談、お知らせもカットせずに観てみたい。
そうすると当時の諸々の記憶が蘇り、興味深いものになろう。
『シルクロード』などは、もう何回も再放送されているだろうし、ビデオ等に残されているからあえて今更、放映する意味はない。
この際、1日丸ごと昭和40年代のある日のNHKを朝から晩までノーカットで再放送してほしい。ニュースも天気予報もお知らせも当時のままで。
これが本当のアーカイブス特集ではなかろうか?
2003年2月1日
TV放送開始50周年特番。
TV放送開始50周年ということでNHK総合テレビは一日中往年の番組を流していた。
夕方、1960年代〜70年代の人形劇を紹介していたのだが、記憶の底に沈澱していた諸々のヘドロみたいなものが湧き出してきた。
あの当時は、番組を残すなんていう感覚は送り手も受け手も持っておらず、右から左へあっという間に忘れ去られていくのが当たり前であった。そんな事にエネルギーを使うよりも、次々に新しいモノを生産するのに追われていた時代。
「ねこじゃら市の11人」とか「空中都市〜」とか断片的な記憶の中に微かに残像として残っているだけ。まったくストーリーは憶えていない。唯一思い出せる事は、毎日の放送でどんどん人形が汚れていった事。当時はその程度のこと気にしていられなかったのであろう。
あの頃印象に残っていたのは「70年代我らの世界」とか「明日への記録」等の未来志向のドキュメンタリー番組。オイルショック以前には遥か21世紀にはどんな世界が待ち受けているのだろうとわくわくさせる番組がたくさんあった。
「プロジェクトX」などの過去の栄光を振り返る番組が幅を利かせている現在とは正反対。
結局、アーカイブスという発想自体、後ろ向きな訳で・・。
モーニング娘が『ひょっこりひょうたん島』のテーマ曲を唄っているのを見ると、なんとも言えない「痛さ」を感じる。
2003年1月31日
入稿完了。
2/24に出る予定のコミックス関連の原稿入稿がほぼ完了した。
カバーイラスト、扉絵用に3枚程のカラーイラストを新たに書き下ろし。色はすべてパソコン上で彩色したのだが、手描きの微妙な表現が、まだCGでは表現し切れず難儀する。
ラフ画や自費出版レベルだとまあ妥協出来ても、完成度の高さを追求しなければいけない商業誌だとCGはまだ練度不足なのだ。
それはさておき、先月の日記でも記したが、当初は装丁表紙カバーにイラストを使わず字組だけで処理したデザインを構想していた。そのラフ案6点がこちら。
しかし、予想通りというか「これでは文芸書だよ」と一蹴され、見事に没。
まあ、仕方ないか。
いずれにせよ、この出版不況の中、「影男シリーズ」のような超マイナーな作品を商業出版出来るだけでもよしとしなければなるまい。
2003年1月27日
『千と千尋の神隠し』テレビ放映。
先週の金曜日、初テレビ放映された視聴率が47%近くまで達したという。
紅白歌合戦並であるから尋常ではない。
普段、アニメを観ない世代まで取り込んでしまった訳で正に神隠しである。
かつて宮崎駿が初演出した『未来少年コナン』がNHKで放映された1978年。「NHKがアニメなんて放映してよいのか」なんて揶揄された頃から考えると隔世の感。
にしても、この作品が万人受けするとはとても思えぬ。
『ガロ』みたいな超マイナー誌に載っていても不思議は無い程のシュールなストーリー。それを老若男女問わず観ている訳だから、こちらの方が不可思議というもの。
宮崎駿は、もしかすると日本人が持っている普遍的アイデンティティーに気が付いた「覚醒人」なのかもしれない。
余談だが『千と千尋の神隠し』DVDやテレビ放映画像が「赤っぽい」という噂を聞く。
確かに言われてみるとそんな気はするが、慣れてしまえばこの色味がそれほど変だとは思えない。
人の色調感覚とコンピューター上の設定は必ずしも一致しないもの。
そのあたりは割り切る必要がありそうだ。
・
コンビニで『エヴァ』劇場版カプセルトイを2個購入。運良く「リリス」と壱号機が当る。今回もよく出来ている。
因に部屋に飾ってあるカヲルとアダムが置かれた棚には、このシーズンになると毎朝8時頃、強烈な朝日が差し込む。それが2体のフィギュアに照射され、恰も本編の1シーンのごとく輝く。
恐るべしエヴァカプセルトイ。
2003年1月23日
往年の人形劇
『ひょっこりひょうたん島』やら『鉄腕アトム』やらがリバイバルされるという話を聞くが、なんとなく違和感が先行する。
過去の墓場から遺体を掘り出して再び蘇生させるような気分。
かつての名作と言われる創作物(特にテレビ番組として作られたアニメ、特撮など)はその時代において価値があるのであり、時と共に色褪せるのは宿命だ。
だが、その作品に込められた魂は後世の者によって新しい創作物の中に蘇る。常に新陳代謝される事によってその時代にシンクロした新たな「名作」が生まれるのだ。
単純にかつての名作の器だけを過去から借りてきてリメークするというのは滑稽でしかない。
もし、『ひょっこりひょうたん島』の登場人物が口を利けたのなら、こう言うかもしれない。
「おいおい、21世紀になってまで俺達を観たいのか?新しいもの造れないのか?勘弁してくれ。恥ずかしいよ。」
NHKにドンガバチョが映る度にそんな声が聞こえてくるのである。
2003年1月16日
茶箱
単行本入稿作業のため、ストックしてある原稿を収納庫(押し入れ)から出す。古い原稿は皆、大きな茶箱に蔵っているのだが、その茶箱に使われているヒノキ(?)の芳醇な香りが原稿にも乗り移っていて不思議な感じ。熟成されたワインのごとし。
だからといって原稿の質が以前より味わい深くなる訳ではないが、時を経たモノには言葉で言い表せない重さを感じる。
因に今回蔵出しした原稿は8年モノである。
2003年1月15日
阿佐ヶ谷レッドゲイブルズ
JR阿佐ヶ谷駅北側、生い茂るケヤキの大木に囲まれて建っていた通称ケヤキ屋敷こと、「阿佐ヶ谷レッドゲイブルズ」がいつのまにか解体されて忽然と消えていた。『阿佐ヶ谷誘覧』でも何回か描いた特徴ある洋風館だったのだが。
この建物の所有者はここ一帯の大地主だったので、おそらく相続税対策で土地の物納でもしたか?
ケヤキ林の中、無味乾燥な更地がぽっかりと空いている。
不景気だと言われているのに、至る所で重機が唸りをあげて古い家を解体し更地を作っている。
まるで現金のための生け贄だ。それで人は幸せになれるのか?残ったものは土塊と泡銭だけだというのに。
少なくとも、そんな世界で長生きしたいとは露程思わない。
まあ、現金一神教の奴隷になるくらいなら死んだ方がマシかもしれないね。
2003年1月12日
影男再起動。
11日に発売された幻冬舎「月刊コミックバーズ」の次号予告にあるように3月号(2/12発売)に新作が掲載される。
タイトルは『絶望期の終り』
実質的に「アワ−ズライト」で不定期連載されていた「影男」シリーズの継承となる。
とりあえず今回は読み切りとして掲載されるので、この雑誌で更に「影男」シリーズが続いていくかはまだ解らない。
いずれにせよ「影男」は2003年も絶望の現世で彷徨い続けるため、再起動した。
読んでいただければ幸いである。
2003年1月7日
アソビットシティー。
久しぶりに秋葉原に出てみた。店鋪の移り変りが早くて目が回る。
今回吃驚したのは、以前全館パソコンショップだったビルが丸ごとゲーム・ホビーショップになっていたこと。それもアニメイトやゲーマーズ等の老舗ではなく、大手家電販売のラオックスである。
名付けて『アソビットシティー』
昨年の10月に開店したらしいのだが何というか・・。
とにかく1階から8階まですべて「ヲタク系」関連商品で埋まっているのだ。曾て家電やオーディオ、そしてパソコンが販売されていた場所にコミック、カプセルトイ、食玩、プラモデル、エアガン、PCゲーム、関連書籍、CD、DVD、はてはアダルト関連グッズまでが所狭しと置かれている。それも家電を扱っていた雰囲気そのままに。
明るく広い清潔なフロア、各階にジャンル分けされた商品、親切な店員、なんと女性向けゲーム、書籍エリアというものまであり、そこはすべて女性店員が仕切っていた。
ひと昔前だったらこういった商品を扱う店は、大抵薄汚くて狭い地下2階辺りに人目を避けるように配置されていたものだが、時代も変わったものだ。
いままでゴキブリ扱いされていたのが、いきなりカブト虫になったかのよう。
だが、冷蔵庫や洗濯機のような生活必需品ならともかく、いわいるマニアックな「ホビー」をこんなメジャーな家電販売メーカーが大々的に扱って、はたして商売になるのだろうか?いや、商売になると見込んだから始めた訳で、いかに秋葉原での客層が「ヲタク系」で占められて来たかを物語ろう。いや、見方を変えれば一般の人が「ヲタク」化したのかもしれない。
まあ、考えてみれば戦後間も無い頃、国民の大多数が飢えていた時期に、秋葉原界隈で米軍の放出品を漁ってラジオを作っていた「ラジオ少年」だって当時の一般人から見たら変人そのもの。だがそんな「ラジオ少年」がいなかったら、今の秋葉原もソニーもホンダも無かったはず。だから今の情況は別段不思議な事ではないのだ。
やがてこのホビー売り場で育った「ヲタク少年」が慰安アンドロイドや人格移植OSを積んだ美少女メイドを開発してこの国を復興させるのか。
それとも単に堕ちゆく者が群れているだけなのか?
・
『アソビットシティー』店内にはこんな標語が記されたポスターが貼ってあった。
「過労死なんてするもんか」
確かにここに来るお客さんは過労で死ぬ人はいないだろう。その代わりゲームのやり過ぎや、独りぼっちで部屋の中で人知れず寂しく死んでいく人は一杯いるかもしれないなあ。
2003年1月5日
遅ればせながら謹賀新年。
今年の正月は寒かった。雪まで散らついた。
・
頭の回転の早さ。
今回、午前中だけだったがコミケでお手伝いして頂いた方の事を少し。
その方は堅気のお仕事をしながらHP上で創作発表をなさっている20代の女性。接客の仕方が上手くて、お釣の計算とかも手際よくこなして頂けた。一見当たり前な事のように見える人とのコミュニケーションが酷く苦手な自分にとって、この方の何気ない対応がとても羨ましく思えた。
人間関係においてタイミングは重要である。ほんの数秒ずれただけでもコミュニケーションに支障をきたす場合は多い。どんな時にどんな対応をすべきか、一瞬にして行動に出せる能力というか。頭の回転の早さというか。
その一方で、彼女の創作活動に対するこだわりの無さも興味深い。
プロ並の腕を持っていらっしゃるというのに、描いた作品等はあっさりと人にあげてしまい、手元にはほとんど残っていないという。同人誌も作らないという。
おそらく、創作活動とは別の所にこだわりを持っておられるのであろうから、自分の描いた絵に執着する必要もないのだろう。
言ってみれば過去に固執しない生き方であろうか?
そういった生き方の是非はともかく、頭の回転が早い人ほど、物事に固執する必要が無くなる事は確か。
羨ましくもあり、寂しくもあり。
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