2002年1・2月・3月

2002年3月29日

改編期。

愛聴していたラジオ番組が幾つか終わる。

某コミュニティーFMで開局以来5年間ずっと生放送を担当していた女の子コンビ(18歳と19歳)の番組も終わった。彼女たちがまだ中学生だった頃から愛聴していたので寂しい限り。当の本人達はあっさりしていたが・・。

それからTBSラジオ木曜深夜『鴻上尚史の博愛ライダー』も終了。

なんだかんだ言ってよく聴いていた。この人もオールナイトニッポンの頃からスタンス変わっていない。

いよいよ新学期が始まるが、少子化と畏縮する経済がテレビやラジオ番組に与える影響も少なくない。

更新されるべき健全な新陳代謝が行なわれなくなり、旧態依然な番組だけが残っているように感じるのは自分だけか。

余談だが28日深夜ニッポン放送『オールナイトニッポン』でパトレイバー特集みたいな特番をやっていた。アナウンサー以下スタッフが皆、『パトレイバー』ファンらしく、ツボを押さえたトークがナイスであった。新作映画キャンペーンの一環であろうが、たまにこういったイカしたラジオ番組に出会うと嬉しくなる。


2002年3月25日

次回作コンテ。

少し作業行程を変えてみる。

最良のイメージを直接原稿に焼きつける策を試行錯誤。

『ラーゼフォン』9回目。

今日は午後3時からの放映。そして来週からは深夜。曜日も変わる。これでは継続して観る方が無理というもの。創作側の熱意を汲み取れないTV局の眼力の無さを嘆くべきか、はたまたカルトチックなアニメを毎週取りあえず放映する勇気を称賛するべきか・・。

それはさておき、今回は秀作。

絵も演出もイカしていた。結局『ラーゼフォン』はロボットがお約束の戦闘をしない方がいいのかも。

ところで26話連続ものだとこの辺りで視聴者がハマるか、離れていくかの分かれ目だがどうやらまだまだ行けそうだ。

うっかりして録画は半分失敗。もったいないことをした。


2002年3月23日

MACWORLD2002。

東京ビッグサイトで開かれたMACの展示会に足を運ぶ。

一応自分もMACユーザーではある。

MAC購入直前の時はいろいろ調べるためにこういったイベントに積極的に足を運んだのだが、今はもうこと足りている(今だ全機能の20パーセントも使っていないかも)し、買い替えなんてまったく考えていないのでただの見物。

入場料2500円(当日)

結構高い・・。それに見合う分の何かがこのイベントにあるのか自分には解らない。OSィも新型iMACも興味の対象外だし、各種のソフトも必要に迫られるものではなし・・。15分も会場にいたらもう見たいものがないことに気がついてしまった。

一方で同じビッグサイトでやっていた写真機器のイベント『フォトエキスポ2002』に興味がそそられ足を運ぶ。

こちらは入場無料。

コンパニオンがいっぱいで活気がある。各企業のブースでは興味深い展示やアトラクションが用意され、人が群れている。撮影し放題。まあ客層はカメラを下げたやや品の悪い男子ばかりだが、そういう俗な部分もあってのイベント。それなりに楽しめた。

もうデジカメが主流。35mmフィルムで撮ったものをDPEに出す経費も馬鹿にならないのでそろそろデジカメ購入も考えたい。

いずれにしろカメラは今でも日本がトップシェアを誇る産業。やはりアピールの仕方に工夫が見て取れる。

一方MACは殿様商売感覚。敷居が高いので客を選んでいる。

高級ブランド品みたいなMACと大衆消費物である日本カメラ企業の対応の差が見れて興味深かった。


2002年3月22日

昔のドラマ。

遅い朝食時にTVをザッピングしていたらテレビ東京で『俺達の旅』という70年代中盤のドラマを再放送していた。

中村雅俊と若き桃井かおりがデュエットしているシーンは今から考えると「お宝映像」かも。

それにしても、このドラマはよく作り込んである。ストーリーだけでなく画面構成も凝っている。一つのカットにも奥行きがあって背景の人物や情景にも気を使った撮り方をしているのが解る。

今観ても引き込まれるような魅力があるのは何故だろう。

そう、この時期造られたドラマ、アニメは秀作が多いのだ。卓越したクリエーターがテレビで仕事する上で最っも条件が整っていた時期だったかも。

それはさておき、この『俺達の旅』の舞台が吉祥寺だったとは知らなかった。井の頭公園のシーンがよく出てくる。

このドラマで当時描かれていた20代前半の若者は、今や50歳代。

自分の息子がそろそろ成人を迎える頃。

『俺達の旅』というドラマは結婚や出産という通過儀礼がいずれ当たり前のように約束されている最後の時代の幻影なのかもしれない。


2002年3月19日

変わるもの変わらぬもの。

乾燥した晴天が続く。

原宿から渋谷にかけて写真を撮りつつ散策す。代々木公園の桜はほぼ満開。季節が半月ほど早く進んでしまい、もう新緑のシーズンかと思う程の陽気。

渋谷スペイン坂を通り抜ける。以前ここにあった『アンミラ』がなくなっていた。今まで4〜5回程しか利用していなかったのだが、なくなると寂しいものだ。新宿『アルタ』地下のマクドナルドもよく待ち合わせに使ったのだが、そこも閉店している。

移り変わりが激しすぎ・・。

渋谷パルコPART3で田宮模型の展示会があったので覗いてみる。1970年代の絶版模型やらジオラマやらが並んでいる。懐かしさと恥ずかしさが入り交じった感覚。考えてみると1/35ミリタリーシリーズの洗礼を受けた当時の子供が大人になって現在の精巧かつ緻密な模型やフィギュア、食玩に携わっているのだ。

こちらはいくら歳を重ねても変わらないロマン(死語)・・。

複雑な気分である。


2002年3月18日

海洋堂『エヴァ』ガチャポン。

最近、第弐弾が出たようで何個が出してみる。屋島作戦の情景が作れるようだ。この小ささでちゃんとポーズが乱れない可動フィギュアになるのだから凄いというしかない。

『ラーゼフォン』

今週はクリスマス仕立てのエピソード。この時期に妙・・。本来は10月から放映開始だったのか?それでも1ヶ月早いし・・。いずれにしろ当初予定されたスケジュールで放映されているのだろうか?

それはさておき、内容の方だが人間描写のシーンと主人公の乗るロボットの戦闘シーンのギャップがやや大きくて戸惑う。主人公の闘う動機付けも今一つ明確ではないような。

人間関係が明瞭に描かれていない時点で『エヴァ』を踏襲したような主人公の葛藤描写は不自然に感じてしまう・・。主人公綾人が「いけてる男」過ぎるところに難があるような気もする。どうしても心の葛藤をするような男に見えないのだ。

一方で音楽の使い方はなかなかよい。ラストのパーティーシーンで流れていたピアノのライブ感がよく出ていた。

『ラーゼフォン』どうやら4月から放送時間帯が深夜になるそうだ。


2002年3月16日

原稿が1本仕上がる。確定申告と原稿の仕上げが重なったので結構ハードな日々。

ここ1ヶ月半、ほとんど原稿の日々だったのでかなり悶々とする。

最近の日記もちょっと煮詰まったか・・。

ふと、モノ書きが記すWeb日記について考える。

原則無料で公開するネット上の日記はモノ書きにとって原稿料印税なしで仕事しているようなものかもしれない。人気作家やエッセイストなど日記本を出して商売している人もいるのだから。

そう考えると商売にすべき媒体と無料公開のWeb日記で記す内容(文だけでなく画像も含めて)はある程度分けて考えなければならぬかもしれない。

とはいえ、自分自身の切り売りみたいなのがモノ書きの商売なのだからその境など不明瞭だ。

ここで記したことが創作物の原典になることだって充分考えられるし、事実そうなっている場合もあるだろう。Web日記に拘らず、HP上に公開されたものは自分の創作素材を事前に公開しているようなものだ。無論それがすべてネガティブなことではない。新しき表現活動の一形態ともいえよう・・。

ただWebは送り手と受け手のステージを限りなく近いものにしてしまう。かつて作家は読者からすると手の届かない雲の上の人みたいだったが、ネット社会の中ではほぼ同列の存在になってしまう。

インターネットはそういった作家の持つ「神話」や「伝説」を尽く壊して平準化させる作用があるようだ。

よほど気をつけていないとこのインターネットという怪物に食われてしまう。

これからのネット社会ではいかに情報を流さないかが生き残るカギになるかもしれない。

なんとも皮肉なことだが・・。


2002年3月15日

確定申告書類提出のため杉並税務署へ。

自宅から税務署まで徒歩で30分近くかかったのだが、数年前から区営のバスがJR阿佐ヶ谷駅から井の頭線浜田山駅まで走るようになり、税務署前にも停留所が出来たのでそれを利用した。乗ったのは今回が2回目か。料金は100円。

結構便利。ミニバスなので小回りが利く。狭い路地も上手く抜けていく。

因みに運転手は女性であった。

帰り、西友で惣菜(餃子と稲荷鮨)を買って帰宅。


2002年3月14日

捨てる事。

確定申告のため、溜まっていたレシートやら領収証をひっくり返す。

自分はなかなかモノを捨てることが出来ないタイプの人間。

どんな負の遺産であっても残しておく。

それがある意味、生きた証にもなるし創作のネタにもなる。

コンビニのレシートから失敗原稿までありとあらいる「生きた証」が山積みだ。

その一方でほとんど流行りのものには関心がない。

相当自分が欲しいと思わぬ限り、手を出さないのであまりお金というものを使わない。

だから吟味に吟味を重ねたものしか購入せず、自然と手元にあるのは思い入れのあるものばかりになる。だからそういうものは捨てられないのだ。

10年、20年と繰り返し読んだり使ってみる。多分これが侘び寂の境地(?)なのだろう。どんな粗末なものでもそこに込められた無形の憶いというものが存在する。

一方でモノをどんどん処分出来る人がいる。

なんの躊躇いもなくどんどん捨てる人。

モノを捨てられずにいる人とすぐ処分出来る人、どちらが良いとは言えまい。捨てられずにいて身動き取れなくなったら臨機応変な人生は望めない。

でもモノに内在する無形の憶いを大切に出来ない人は優しさに欠ける感じがする。

そこに込められたいろいろな憶いも簡単に捨てられるのだろうか?

自分はそこまで割り切れる人間にはなれそうもない。


2002年3月10日

フリーター。

TBSテレビ6チャンネル日曜夕方に『ドキュメントDash Dash』(だと思ったが)という番組がある。たまたまチャンネルを合わせたのでぼうーっと観てしまった。

今週はフリーターをしながら夢を追う若者の追跡レポート・・まあいかにもありがちなドキュメントなのだが。

女優を目指す20代半ばの女性フリーターとロックギタリスト志望の27歳の青年フリーターの日常が描かれている。TV番組ゆえ多少脚色されているのだろうが、なんか現状でも楽しそうなフリーターたち。

それなりの苦労が描かれてはいるが悲愴感はあまりない。特に女優志望のフリーターは、なんかとりあえずそのままモデルのバイトを続けているだけでも満たされてるんじゃないかと思ってしまう。

で、彼女が同性の友人のライブを見に行った時のエピソードで、その友人が言った言葉・・

「あと1年がんばってもダメだったら結婚する」

その言葉に少し動揺する女優志望のフリーター。

結婚という選択肢も一応あるらしい・・。

一方で27歳のギタリスト志望の男性フリーター。

病気で倒れ、田舎から親が出てきて世話をする。国民健康保険に入っていないので入院費も親の金で面倒みてもらう。

なんか凄く格好が悪い。

立場としては、女優志望の子とそんなに変わらないのに、なぜ男のフリーターは格好悪いのだろう。その上、男の場合「経済的依存のための結婚」という選択肢がない分、大変だ。

いずれにせよ、二人とも夢叶わずとなったら取りあえず田舎の実家に帰ればなんとかなるらしい。

こういうモラトリアム的な生き方ってどうなんだろう?

あるエピソードで、ぬるま湯に入れたカエルをそのままにして少しずつ煮立てていくと、飛び出すタイミングを失いそのまま茹で上がって死んでしまうという。

でも自分の最期に気が付かないって楽なことかも。

こういう人生も良いかもしれぬ。

ある意味幸せなのだ。


2002年3月9日

夢と仕事。

TBSラジオ木曜深夜『鴻上尚史の博愛ライダー』の後半でやけに暗いメッセージを読むコーナーがある。

人生に失敗した人の泣き言みたいであまり好きになれないコーナーなのだが・・。

今週紹介されたメッセージはこうだ。

ミュージシャンになりたくて、いろいろチャレンジしたものの芽が出ず、結局諦め、父親のコネで背広姿の堅気商売に就いたという。

背広姿の自分がやけに似合っている事が切なかった・・とかいう内容。

まあよくある話。

このメッセージに対し、鴻上氏はこんなことを言っていた。うる覚えで正確でないかもしれないが・・。

「努力した末の失敗はいずれ報われる。選ばれないことで自分に合った仕事を見い出す事もある」と。

どうなのだろうね。

考えてみると、このメッセージの男は元々いろんなことがそこそこ出来る人物ではないか。

人生の選択肢の中にたまたまミュージシャンという夢があっただけの話で、いつでも乗り換え可能だったのではないかな?最初から堅気の仕事だってやろうと思えば出来たんだと。

結局、彼は平凡ながらもいずれは結婚し、子供を設け、家庭を築くことが可能になろう。

過不足ない人生が獲得出来るのだ。

何の不満があろう?

堅気の商売が出来る分、恵まれている男なのだ。

ミュージシャンに限らず、クリエーターと呼ばれる者にとって自らを表現することと生活していく事とは違う。

表現活動は生活のための手段ではない。

表現活動そのものが生きる目的。

業みたいなものなのだ。

その業で稼ぎ、家庭を持つ(自らの意思で独身である場合も含む)ほどの経済力を獲得し、ましてやトップクリエーターの地位を手にしたいなどという希望は戯言に過ぎぬ。

そのような「選ばれし人」は最初から生きているステージが違うのだ。

そんな情況を望む方がどうかしている。

クリエーターの99%はルンペンみたいな垢塗れのゴミだ。あるいは何かに寄生して生き存えるサナダ虫のようなもの。

そんな醜態を曝しながらも何かを表現せずにはいられない。

それがクリエーターというものだろう。

これで食っていこうと考えること自体、愚かなことなのだ。

クリエーターの大半は家庭を持つ事なんか出来ない。

50歳前後で賞味期限切れ食品のように燃えるゴミの日に捨てられ、野垂れ死ぬ。

それがクリエーターの人生。

この番組にメッセージを寄せた男は、堅気の仕事が出来る分、救いがあるのだ。

番組のDJ、鴻上氏はトップクリエーターであるからして、この戯れ言メッセージを軽く受け流すことが出来たのであろうが・・。

私からすれば、実に恵まれた男の妄言と半ば呆れてしまうと同時に羨ましくも思う。

選択肢がある分、幸せであるとこの男が気が付くのは何時(いつ)のことだろうか?


2002年3月8日

『箱庭の世界』

某コミュニティーFM水曜日深夜にDJが神主さんの番組がある。

30分にも満たない収録番組なのだが不思議な雰囲気。

今週のトーク。

某大学には神主養成学科があるという話は興味深い。そこから各神社へ神主が任命されて派遣されるとのこと。

ラストにドイツ語らしき締め言葉で番組を終えるのだが、あれは翻訳するとどういう意味なのだろう?

巫女さんゲスト希望・・。

「おさかな天国」

某コミュニティーFMを聴いていたら突然妙なフレーズの音楽が。

さかなの名前を連呼する変な曲。

一度聴いたら耳から離れない。


2002年3月7日

言葉の質量。

遥か昔、小学校2年の頃だったか、近所に女の子の友達がいて、その時の他愛のない会話にこんなのがあった。

女の子「雨は宇宙から降ってくる」

私「どうして?」

女の子「どうしても」

私「・・・」

理屈で説明不可能なのだがなぜか言い包められてしまった。

始まりと終わりが自己完結した文章。

積み重ねられた言葉の山がまったく質量を持たない文章。

答えのない質問のようなもの。

1+1=1

質量のない言葉もまた一つのメッセージなのかもしれぬ。


2002年3月6日

ルーズソックス。

画材の補充のため、吉祥寺の『ユザワヤ』へ。

昼過ぎなのに電車内や駅前は制服姿の女子高生で一杯。

だが様子が変だ。

誰もルーズソックスを履いておらず、皆、黒い普通のソックス姿なのだ。プリーツスカートもそんなに短くない。

いったいどうしたというのだ?つい先日までルーズソックス100%の女子高生の群れが、今日は皆ミッションスクールの厳格な規律に従う清楚なお嬢様と化している。

一夜にしてルーズソックスは捨てられた遺物と化したのだろうか?

が・・

この不可思議な現象の顛末は実はオチがあって・・

つまり卒業式だったのだ。

確かにそういう場ではさすがにルーズソックスはまずいのであろう。ただそれだけのことでルーズソックスは死んだ訳ではなかったのである。

それにしても女子高生の身の振りの急変さは驚嘆に価する。

まるで粘菌のよう。


2002年3月5日

意思伝達。

時々、人に対して自分の考えがまったく伝わらない事がある。あるいは誤解されるとか。

おそらくどこか意思伝達機能が著しく欠損しているのだろう。

言葉も少ないし、表情も乏しいことが原因かもしれないが。

エンジンの回転が駆動装置にまで伝わっていないのと同じか。

こればかりはどうすることも出来ない。

人に誤解されたらされたで放っておくしかない。

そんな相手からすると自分という存在は不可思議で理解不能な存在に映るらしい。別世界から来た人間のごとく・・。

最よく思う事。

実はこの世界は異星人が作った箱庭で、自分はそこに放たれた実験動物ではないかと。そうするといろいろ納得がいくのだ。

『ラーゼフォン』第6回。

あえて確信犯的に『エヴァ』とクロスオーバーさせているシーン多し。それを狙って様になる作品に仕上げるというのもテクニックがいるもの。もしかするとこの作品においてラーゼフォンというロボット(?)は添え物なのか?人間ドラマが主としたら意外な展開を期待出来そう。

内容は別として想像力を喚起させる作品であることは確か。

エンディング曲が冴えている。

でもサウンドトラックが出るのは4月・・。ちょっと遅すぎないか?


2002年3月1日

結婚の条件。

ある週刊誌(週刊新潮3/7号)に庵野秀明と安野モヨコの結婚に至る取材記事があったので読む。

その中で安野女史が

「本当に結ばれる相手とは努力とかしなくとも物事は結婚する方向にしか動かないものだ・・」

と語っていたが、確かにそれは言える。

いくら齷齪(あくせく)しようとも、エネルギーを集中させ、その相手に尽そうとも、貢ごうともダメなものはダメである。テンションを上げた末の恋愛や結婚は結局、常にそのレベルを維持しないと成立しえない。自分をねじ曲げてまで幸せを維持する事は困難だ。

お互いが自然体であることが重要なんだろう。

だがそういう自然体で伴侶をみつけることが、実は一番難しいものだ。

何もせずに「白馬に乗った王子様」や「寝てくれる母親」は現れない。そもそもそんなレベルの伴侶を望んでいる情況では結婚も恋愛も無理であろう。特に男性はね。

あとタイミングも重要かも知れない。

この記事によれば、庵野氏の親族に不幸があり、たまたまその場に安野女史も立ち会う機会があったという。周りの雰囲気とか情況も結婚に踏み切るか否かの重要な条件だろう。

運命の出会い・・

赤い糸伝説・・

伴侶はいつ現れるか解らない。

もしかしてすでに自分の側(そば)にいるのかもしれない。あるいは一生現れずに終わるかもしれない。

但し、漫画やアニメ、ゲーム等に携わっている仕事をしている者にとっては運命の出会いなんてあまり期待しないほうがよい。

そもそも出会いの場自体、希有なのだから・・。

また出会いがあったとしても男子の場合、結婚の最低条件さえ満たされていないのが普通。

身も蓋もないのである。

「本当に結ばれる相手とは努力とかしなくとも物事は結婚する方向にしか動かないものだ・・」

結婚自体に対しての努力は必要無い。

そこに至るまで自分を磨く努力はしろ。

そしてその努力の結果如何に拘らず、その磨かれた自分を見い出してくれる人がもしかすると運命の人となるのかもしれぬ。

但し、出会いがないとただの世捨て人爺さんで終わるかもしれない・・。


2002年2月26日

強さの定義・・?

先日、『ラーゼフォン』のテーマ曲になっている坂本真綾『ヘミソフィア』のCDを購入。仕事のBGMにしている。

その曲の中に自分を貫く事と自分を捨てて守るべきものを守る事、どちらが「強さ」の定義だ?みたいな歌詞があるのだが、それって両方とも「強く」ないと実践出来ないんじゃないか・・などと独りで突っ込んだりしている。弱い人間は自分を貫く事も他者を守る事も出来ないってこと・・。

それはさておき・・

『ラーゼフォン』5回目。

一生懸命チェックしている訳ではないのだが、なぜかここまで1回も見のがしていない。

主人公・・美女と美少女、美少年に囲まれ過ぎ・・(笑)。

ストーリーはいわいるパターン化した戦闘シーンの反復ではなく、主人公の置かれる環境や場面設定をちゃんと描いているので話に厚みが出てきた。

琉球神話も絡めなかなか興味深いし、血の色を桜の花弁と絡めるなどなかなか演出も利いている。

エンディング曲も複数のバージョンがあるようでこの辺り『エヴァ』を意識しているか。

いずれにしろ、これだけの作品が民放の中途半端な時間帯に放映されていることがやっぱり異常なんだね。一方でゴールデンタイムに「やっつけ仕事」で作ってるようなドラマが延々と流されてる情況はなんとも救いがない。

宮崎駿氏が欧米で著名な映画賞を獲得したそうだが、基本的に日本のメディアはアニメ視聴層を積極的に開拓発展させる気は無いようである。いつまでたってもアニメで作られた創作物は、いわいる狭義の「アニメ」に押し込められ、一部の「アニメファン」の対象しかならない。

率直に言えばアニメを本気でプロデュース出来る人材がこの日本には皆無ってことなのだろう。

そういう意味では宮崎駿氏をプロデュースした徳間氏は例外中の例外だったのだろうね。


2002年2月20日

『kanon』

フジテレビ系深夜に放映されている噂のアニメを観る。

この元になっているゲームはおろか恋愛シュミレーションゲーム自体やった事がない自分にとってどう解釈してよいか迷うところ。

可愛い女の子に囲まれた主人公らしき青年を中心に展開されるストーリー。

少女漫画風の切ないエピソードが続く。

これを観たロンリーボーイたちは号泣するのだろうか・・?

ちょうど同時刻に他チャンネルで放映していたクメールルージュのドキュメントとオリンピックのスケルトン競技をザッピングしながら『kanon』を観ていたので、なんか自分の中でポルポトの被害妄想と『kanon』の女の子が混じりあって訳の解らない世界が記憶されてしまった。

因に私の部屋には、友人から「ダブったので譲る」と貰った川澄舞のガチャポンフィギュアがある。

やっと今日、川澄舞が如何なる女の子であるか判った。


2002年2月18日

『ラーゼフォン』第4回目を観る。

その前に放映されている怪談もののアニメとの境界が曖昧で戸惑う。オープニングが明瞭でないのが原因?

それはさておき、良く作り込んでいる。神話も絡めてどう展開させるか興味が湧く。

よく『エヴァ』と類似しているという指摘があるが、別にいいじゃないか。この手の作品を『エヴァ』と類似させないで作る方が難しい。むしろ『エヴァ』的な作り方こそ王道であって躊躇うことなく『エヴァ』的なものを目指すべきなのだと思う。

主人公のルックスが渚カヲルに似ていたっていいじゃないか(笑)

要は作り手がその作品に独自の魂を込められるかということ。

それがあるかないかで創作者の才能が問われる。


2002年2月17日

コミティア59

来場感謝。天候も今一つで寒かった。

なぜか最近コミュニティーFMDJさんとの交流増える。リスナーとパーソナリティーの接点がオリジナル同人誌イベントとは不思議な感覚。

『G線上のアリア』

阿佐ヶ谷某BARに立ち寄る。

開店少し前、例の謎のバイオリニストが次の演奏会に向けて練習中。

彼女の弾く『G線上のアリア』を初めて聴く。

この日、店のBGMはその曲を様々な楽器で演奏したCDが流された。

その中に冨田勲のシンセサイザーによる『G線上のアリア』が入っていた。

なにか宙を舞うような感覚に。

グリコのおまけ。

今更語る事もないが「タイムスリップグリコ」。

ここまでくるともう笑うしかない。幼少期に「鉄人28号」の洗礼を受けた世代としては無視する訳にはいかぬが・・あえて遠めに傍観す。

やっと今日、初めてコンビニで買ってみた。

おまけはアイロン。

鉄人28号がプリントされたシャツまで付いている。

ちょうど深夜、NHKアーカイブスという過去のドキュメント番組でこの時代のものが放送されていた。昭和40年前後の都市河川の超どぶ川映像。

このモーレツに汚い汲み取りトイレ時代に鉄人28号が放映されていた訳だ。

なんか複雑である。


2002年2月16日

塩の湖オリンピック。

NHKBSがオリンピック中継の殆どを独占しているのかどうかは知らないが、地上波では日本選手の活躍が期待される競技以外、まったく放送されず、オリンピックをやっている事さえ忘れそうだ。

現地では競技真っ盛りの時間帯。日本では深夜になるが、どのチャンネルを回してもオリンピック中継はない。

地上波7局もあるのにオリンピックは何処も放映しない。その一方で環境ビデオみたいなフィラーを延々と流す感覚はどこか滑稽ですらある。


2002年2月15日

引用の定義。

新聞を読んでいると、ある著名な作家が他者の著作物から無断引用して小説を出版してしまったとか・・。で当事者の作家が指摘を受け謝罪したという記事があった。

さては、まるまる数ページ分をそのまま書き写したのがばれたのかな?と思いきや何の事はない。数行がごく類似した文章になっていただけのことらしい。詳しく読んだ訳ではないので事の真相は知らない。だがどうも大袈裟すぎる。この作家が有名な文学賞の候補に選ばれる程の人物だったため騒ぎになったのだろうがこの程度の引用がはたして問題なのか?そもそもこれは引用なのか?

よく漫画でも他者の撮った写真の模写で問題になることがあるがこれもどうかと思う。

そもそも絵と写真は別物。同じ写真を参考にしても出来上がる絵は十人十色。描き写した時点でそれは独立した著作物。それをとやかく言うのは漫画という創作ジャンルを見下している現れではなかろうか?

そもそも著作物に真のオリジナルなど存在しない。

いろいろなものが影響しあってそれが新しい世界観を持つ著作物となる。引用や模写することに神経質になっては大胆で自由な創作は望めまい。

著作権の濫用は創作の場を畏縮させるだけだ。

断っておくが他者の著作物に何のアレンジも加えず、ただコピー&ぺ−ストしたものを流用するのは言語道断である。

それは引用ではなく、ただの盗用である。


2002年2月12日

『新世紀エヴァンゲリオン』監督、庵野秀明が結婚。

少し前から知ってはいたのだが相手が人気漫画家の安野モヨコとは意外だった(庵野氏本人のHPに明記)。

何となく接点が不明瞭でいまひとつピンと来ないが。

建前上、庵野氏は自分が結婚出来るような人間ではない等と発言していたようだが、まあここまでブレイクすれば社会におけるポテンシャルが変わってしまうのも当然。

ただ結婚するとすれば『エヴァ』の評論や映画版シナリオにも助言したといわれる漫画家野火ノビタ女史が最適だろうと思っていた。

なんか彼女ならば庵野氏の心の補完が出来たのではないかと・・。

クリエーターであれば自分の作品の良き理解者であり創作を共に出来る人をパートナーとして選びたい。そういう意味からすると野火ノビタ女史と庵野氏の関係はベストパートナーと思えたのだが・・。

まあこれは野火女史の著書から見い出した推論に過ぎぬが。

所詮、端で考えた戯言。

本人の実際の意思など此所からでは窺い知れるはずもない。

今回の庵野氏の結婚は『エヴァンゲリオン』等で表現された心の補完や魂の昇華に係るものではなく、社会的ステイタスにおける当然の帰結と言えよう。

著名クリエーター同志との結婚など珍しいものではない。

庵野氏は結局「普通」の結婚を手にする所まで登りつめたということであろうか。

庵野氏と同世代の自分としては気になる出来事ではあったが、この事自体は特殊な事象でも何でもない。確固としたステイタスを確保した男子がそれ相応の妻を娶ったという当たり前の事。

それ以上でもそれ以下でもない。


2002年2月10日

『プライベート・ライアン』

TVで放映されていたのを観る。以前、映画館で観た時は生理的な不快感が先行してよく解らなかったのだが、改めて観ると細かい設定や考証、場面構成が凝って作られている事に気が付く。後半のクライマックスでドイツのSSが出てくるが迷彩服等リアルに再現されているし戦闘シーンも迫力がある(でもあのタイガー1戦車はちょっと・・)。

ただストーリーはそれほど新鮮味もなく深い洞察もなく愛国心を煽るだけの安っぽさが気になる。『地獄の黙示録』や『ディア・ハンター』が作られた頃の戦争映画群から比べると稚拙過ぎる。

まあ超スーパーリアル特別編『コンバット』とでも言おうか。(TVシリーズ『コンバット』でも侮りがたいストーリーはあった)


2002年2月9日

12年ほど昔のアイドル。

部屋の本棚に1980年代後半に発刊されていたラジオ月刊誌『ラジオパラダイス』(三才ブックス刊)が残っている。

その中に「アイドルラジオ」を特集した号があったので久しぶりにパラパラ捲ってみた。

西村友美、南野陽子、小川範子、姫乃木リカ、中山忍、小高恵美、北岡夢子、佐野量子・・。

どれもまともには聴いていなかったが彼女達のグラビア写真を見ると今の娘よりも愛らしいことに気が付く。髪も肩まであるストレートな黒髪。ほっぺたもふっくらしていて温かさがある。

最近のモ−娘に限らず、髪を染め、過度なダイエットで鶏ガラみたいな娘と比べると安心感があった。

考えてみるにそういった80年代後半のアイドルイメージが今の美少女アニメ、ゲームキャラクターの土台になっているのかもしれぬ。当時、アイドルラジオが放送されていた時間帯に声優やアニメ関連番組が編成されていることからも解る。

アイドルに内在していた魂が美少女アニメ、ゲームキャラクターに移植されたともいえるのか?

結構長い間気が付かないミスが多い。

通信販売用のメッセージ用紙の誤植。「通販」と記す所がずっと「通版」になっていた・・。

3年前の作品。久しぶりに読み返したら広範囲に渡るベタ塗り忘れの箇所が・・。

お得だと思って買った20枚パック入り「640MB」MO。が・・機械に挿入しデータをコピーすると「容量が足りない」との表示・・。おかしいなと思いパッケージをみるとそのMOは「230MB」・・。

きっとまだあるのだろう・・。

知らぬが仏。


2002年2月5日

脳の間食。

思うにインターネットでの情報収集なり情報発信というものは一種の脳の間食ではないかと考えるようになった。

それもジャンクフードの。

インターネットが普及していなかった時代、情報は1日3度の食事と同じく、規則正しく摂取されていたように思う。郵便は1日1回、新聞も朝夕、テレビのニュースも毎正時、雑誌も週刊、月刊、季刊というようなサイクルが決まっていた。情報の内容も吟味され整理されていた。そしてそれを処理する脳もそれに合わせて機能していたのだ。

ところがインターネットが普及すると情報摂取は24時間いつでも出来るようにになる。知りたい、あるいは発信したいと思えばいつでも可能になった。一方でその内容は雑多で正確性にも欠ける。そのような情況に人間の脳は対応しきれていないのではないか。そのような情報摂取、発信はいたずらに脳を疲労させるだけではなかろうか?ひたすらジャンクフードばかり摂取していると健全な空腹感が喪失し栄養バランスが崩れ心身に不調を来すのと同じように。

事実、インターネットやメールは疲れる。息抜きどころかぐったりする。そしてそれ自体は何の利潤も生まない(間接的に大きな利潤を生む場合もあるが)。

なんとも困った事である。

情報の摂取発信の過多は脳を肥満、劣化させるだけ。

情報摂取は粗食であるべし。情報発信は吟味すべし。

『ラーゼフォン』3回目。

何か小松左京の「首都喪失」「さよならジュピター」「物体O」をアレンジしたようなストーリーに。画面にも「首都喪失」のポスターらしきものが背景に描かれていたし。

リアルな設定と作画に比べロボット「ラーゼフォン」のデザインはかつて乱造された80年代前後のロボットアニメのそれに近く、どうにもアンバランスのような・・。

ただ作品の水準は高いので観ていて気が抜けない。

放送時間帯がなんとも中途半端だが・・。ただ、深夜だと視聴者が偏ってしまいがちなので夕方放映という選択はそれほど悪い事ではなかろう。

今後に期待。


2002年2月1日

他愛のない話。

またまた阿佐ヶ谷某BARでのこと。

臨時にバイトで入っていた女の子(なぜか客やマスターにその風貌から河童扱いされている)と世間話をしていると漫画原稿のベタ塗りがやってみたいとか言い出した。

なぜにベタ塗りに憧れる?

そんなに面白い事とイメージされているのだろうか?

ポータブルラジオを寝床に持ち込んでひっそり聴いてみる。

中学校の頃、深夜放送をよくこうして聴いていたものだ。

『鈴木ヒロミツのヤングタウン東京』『私のロストラブ』『ファイブスイートキャッツ』『中山恵美子のながーい付き合い』『ソニーBCLジョッキー』などなどかつてTBSで流されていた深夜放送・・。

アナログチューニングのラジオを真っ暗な寝床でゆっくりと選局する。赤いパワーランプだけが唯一の明かり。ハングル語や中国語の混信に混じって『ラジオ深夜便』やら『オールナイトニッポン』が聴こえてくる。

ラジオの向こうから流れる他愛のないトークが妙な安心感に繋がる。

もし、質素な生活を強いられてもポータブルラジオさえあればなんとか生きていける気がした。


2002年1月28日

最近、阿佐ヶ谷の某BARにて30代前後の複数の女性客と会話する機会が何回かある。

彼女達の話を聞いていると同世代の男子とは違い、危機感とか切迫感がまったくないことに気が付く。おのずと男と女では物事の価値観が違うから一概に同じ尺度で比較するのは無理があるが、それを承知で論ずるならば彼女達の物事に対する選択基準が途方もなく贅沢というかステージが高い。男の場合なら選択の余地がないような事象に対し、彼女たちはどの高級ブランドを選ぶかという感覚である。男が「残飯か泥水か」で悩むような事を彼女らは「エルメスかルイヴィトンか」レベルで判断するのである。

そんな調子だから、この店のカウンターに並ぶ同世代独身男性に対しての彼女達の姿勢も窺い知れる。彼女達は明らかに彼等を「見下して」いるのだ。無論表面上は仲良く会話の輪に入ってはいるのだが、余裕の度合いが違うのだ。結婚や恋人に関する話題だとその差は明瞭になる。

彼女達が異性に不自由することはまったくない。

自ら欲すれば間違いなく異性を獲得出来る。また自らの判断で異性との関係を操作可能な位置にもいる。恋人を作る事も壊す事も結婚も離婚も全てイニシアティブは彼女達にある。そうでない女性の話など聞いた事がない。「そんな女性もいる」ではなく「そんな女性しかいない」のである。たとえこの事象に悩みがあったとしても、よくよく聞けば「エルメスかルイヴィトンか」レベルの悩みである。

そんなものは悩みの範疇には入らない。

だから同世代の男の悩みを彼女達に吐露したとしてもマトモな相談相手にはならないのだ。彼女達には男の「痛み」など理解出来ない。一応彼女達の言い分も納得したふりをして聞いてはみるが、内在した「見下し」の非礼さが見え隠れているのに気が付くと途方もない徒労感に襲われてしまう。彼女達の語る「男」の対象が途方もなく現実離れしていて会話にならないのだ。

独身、即婚者に限らず彼女達は現世を謳歌している。まるで王侯貴族のようだ。

少なくとも「見下す」対象があるということは幸せなのだ。だがせめてカウンターに居並ぶ同世代男性を「見下している」という自覚は彼女達に持ってほしいものだ。それによって傷付く男性がたくさんいるのだから。

「そんなことはないわよ」などという言葉は、女にまったく不自由しない「男」に対して言う台詞である。

そんな高級ブランド品ごとき「男」が今の日本どれだけいるのか少しは勉強してほしいものだ。


2002年1月26日

雪の中、10年ぶりに高校時代の旧友の家に赴く。

場所は東京都下あきるの市。

自分を含めて旧友三人と会う。所属していた高校天文部の仲間だ。この旧友宅でよく天文観測に勤しんだものだった。

当時の周辺は東京都下とはいえ開発の手が入っておらず、光害の影響が少なくて別荘地という雰囲気があった。10年ぶりに訪れてみると駅前は見事に開発されて何処にでもある東京の賑わいに変貌していた。一方で逆に寂れている場所もあったが・・。

さて久しぶりに再会した三人だが、これまた三人とも今だ独身・・。多少老けたものの雰囲気は昔のまま。

旧友曰く

「同じ列車に乗っているようなものだから乗り換えない限りいつまでたっても変わらない」

翌日、近くの丘陵公園墓地へ。

ここの展望台が天体観測の拠点になっていたのだったが、今その場所は取り崩されてあらたな墓地が増殖していた。

バブル期のゴルフ場開発と同じシステムらしい。

裾野一杯に並ぶ墓石群を見て、なにか気味が悪くなった。

今週はやたら人と会う機会があった。

未来を模索するというよりは過去を反芻する時間が多かった気がする。


2002年1月25日

渋谷にて某出版社の新年会に単身出席。

このような催しは独りで出席したら居場所がないというのが定説。

予め知っている人は担当の編集の方だけなのだ。

案の定、話す相手もなく、ただモクモクと酒を飲み、料理を食べるだけ。

そういう人のために工夫したのかは解らないが、「お約束」ビンゴゲームは数字の代わりに出席者の名前を書込むルール。なので必然的に会話の場が出来るシステム。

何人かの方が私のことを知っていて多少の挨拶程度の会話が成立するものの、その先が続かない。顔と名前がなかなか覚えられない性分なので一度席を外すともうだめだ。

一方、ビンゴゲームの成果はやたらとビンゴが成立。ただあまり物欲というものがなく、あえて「当った」と意思表示する気力もなかったので様子を窺うだけ。

さすがに三列もビンゴしてしまうと黙っているのも不自然なので景品を貰いに名乗り出る。知り合い多数がいれば当る当らないで盛り上がるところだが独りだと何の反応もなし。寂しい限りである。

ビンゴで運を使い果たすのもちょっともったいないし・・。

それはさておき、出席者の中には結構、知る人ぞ知るというクリエーターが沢山いらした。

だが悲しいかな、自分との接点は殆どない。

自分がもっとメジャーにならぬとダメって事であろう。


2002年1月23日

二年弱ぶりに大学サークル時代の飲み会があった。

全員男子で12人。内妻帯者が4人。独身の比率が非常に高い。

このくらいの歳になると善くも悪くも皆生き方が安定している。数年ぶりに会ってもほとんど変化がない。極端に零落れたり、極端にブレイクしている者もいない。あらたに結婚したという者も出てこなくなった。

各々の水準で安定した生き方に落ち着いているのだろうか?

妻帯者は年相応に皺や白髪が目立っているが独身者は若い頃とそれほど外観に変化はない。でも自分の遺伝子を残せない生物学的劣性は認めざるを得ない。独身者には何処かしら負目というものがある。

話題は結局、学生時代の昔話に終始するが、やはり妻帯者は自分の子の話というものが出来る分、解脱しているのか?

もう子供は中学生になる者もいるという世代。

時間は確実に流れているのだ。


2002年1月22日

ある企画のため15年程前に作画したカラー原稿をスキャンしてデジタルデータ化している。

解像度を高く設定しているため一枚の原稿に60MBも使う。更にB4原稿裁ち切りなのでA4サイズのスキャナーでは分割して取り込まねばならない。フォトショップ上で結合し修正、補正作業を加えると一枚の原稿を処理するのに約30分かかってしまう。それを約100ページ分取り込む。非常に根気がいる作業だ。640MBMOにして10枚分に相当するデータ量。だが原稿のデジタル化はいつかやらねばならぬ事と考えていたので割り切って作業に勤しむ。

こうして久しぶりに生原稿を見るとやはり印刷されたものとはまったく違う事に気が付く。

生原稿でなければ表現出来ない「何か」があるのだ。質感というか、重量感というか・・。逆に言えば印刷を前提とした描き方をしていないということなのだが。

この原稿を描いていた頃のBGMが頭の中でリピートしてきたので久しぶりに聴いてみる。

PSY・Sの『HOLYDAY』に収録されている『ひみつ〜perspective lovers』

原稿の絵とこの曲がシンクロして不思議な気分になる。


2002年1月21日

猛烈な暴風雨。

1月にこんな南風を呼び込む台風並の低気圧が通過するのは珍しい。普通なら北から寒気を呼び込んで関東地方は大雪になるパターンなのだが。

夕方、何となくテレビをつけっぱなしにしていると、フジテレビで16時25分という中途半端な時間から妙なTVアニメが始まった。

『ラーゼフォン』とかいう何か神憑かったSFアニメ。

結構造り込んでいて思わず見入ってしまった。なんか有名な人が監督やってるようで・・。設定とかおもしろいのだが・・。しかし、最近は竜頭蛇尾なテレビアニメが多く、煮え潰れの作品ばかり。これはどうなのだろう?

去年の『アルジュナ』程度のものなのだろうか?予備知識なくなんとも言えず・・。

先日の土曜、MXテレビで映画『八甲田山』を放映していたので思わず観てしまう。新田次郎の原作も読んだ事があって公開時にも映画館で観た記憶があるのだが、今観ても結構よく出来た作品。よくぞあんな所でロケしたものだと思う。

続いて『テレバイダー』を観る。

ランキングコーナーではミスターチルドレンとかけて何故か大人の鉄道模型ファンにNゲージのコレクションの数を競わせるという「濃い」企画。

1000両って多いのだろうか?


2002年1月17日

中野ブロードウェーに赴く。

目的は欧州軍装放出品の迷彩ジャケット購入のため。知人に教えてもらったその店はブロードウェーの4階にあった。ドイツ軍とオーストリア軍の迷彩ジャケットが目に止まるが結局ドイツ軍のを選ぶ。

それはさておき、まともにこの場を訪れたのは10年ぶりだろうか?

話には聞いていたが『まんだらけ』をはじめとする非常に「濃い」店が軒を列ねているマニアな秘境。以前にも増して濃さは倍増されており、がちゃぽんフィギュアが処狭しと展示販売されている店など見ると「濃さ」で息苦しくなる程。

だがその無秩序な雑然さというか、マニアックな店と庶民的な飲食店が混在するかと思えば、フロアの大半はシャッターが締めっぱなしの空き店鋪だったりと賑わっているのか寂れているのか訳が解らない。正に香港の九龍城を彷彿とさせる。

その毒々しいカルピス原液10倍の「濃さ」に圧倒されて、買い物を終えると早々にこの「城」から退散したのであった。


2002年1月14日

HPを開設してから二年が過ぎた。

ネット環境を確立したことによっていろいろな面でスキルアップしたことは確か。しかしネットも所詮目的を達するための手段としての道具にしか過ぎぬ。使い方によってはプラスにもマイナスにもなる。如何に効率良くシンプルに使いこなすかが重要なのだ。

マックのハードディスク容量(9GB)が一杯になってしまったので外付けハードディスクを購入する。

もともとパソコンのハードには詳しくないのでとにかくスムーズに動いてくれればよいということで選ぶ。下手に安い製品に手を出すと面倒なことにもなるので出来るだけ信頼性を重視。

で、選んだのが80GBファイヤーワイヤー接続のYANO AH80FC。若干高かったがOSィにも対応するらしくバックアップとしては長く使えそう。ウチのパワーマックはOS8.6が入ったG3の上級クラス(ちょうどG4が出たばかりの時在庫処分で半額で購入した)でファイヤーワイヤーポートが二つも付いていたがやっと使い道が出来た。

さて、9GB一杯のデータを全部この外付けハードディスクにコピーしたのだが妙なことに気が付く。なぜか25GBも使っているのだ。表示の仕方が違うのか?よく解らない。まあデータのバックアップは取りあえず上手くいったのでよしとしよう。

一通り年賀状シーズンも終わった。やはり結婚して子を設け、真っ当な生活をしている旧友や知り合いからはマメに賀状が来る。

一方で結婚もせず何をしているかよく解らない知り合いからはほとんど賀状は来ない。人生がフェードアウトしているのであろう。これが若い頃なら我が道を行くみたいに格好がよいが、この歳の世代で今だ真っ当な仕事に付かず独り覇気のない人生送っている男子は悲しい。

新春に気になったCM。

「ポカリスウェット」

国際宇宙ステーションでロケした実に説得力あるCM。おそらく音声も実況なのだろう。うるさい宣伝文句もなくシンプルかつ重厚。

素材が本物であれば言葉はいらないのだ。

一方で鬱陶しいCM。

山下久美子の元夫が何やら追っかけ回して騒いでいる缶コーヒーのCM。

他のCMにまで相乗りしているのも嫌味な感じ。このセンスにはついていけない。

一般に缶コーヒーやビールのCMは生理的に合わないのが多い。現役のスポーツマンを役者仕立てにしたCMや中山美穂が下品な姿態で酒のつまみをビールで流し込むCMなどちょっと耐えられない。

基本的にビールもコーヒーも飲まないのでそれも理由の一つかもしれないが。


2002年1月10日

遅ればせながら謹賀新年。

9日、やっと『アワーズライト』原稿UP。1月号に載った前半分を合わせれば32Pに約半年かかった事になる。途中幾つが別の仕事が入ったものの、あまりの遅さに気が遠くなる。

銅版画みたいな絵を描いたとしても漫画は漫画なのだ。

入稿のため真夜中の道を歩く。たまに通り過ぎる人を見ると大抵携帯電話かメールをチェックしている。いつも誰かと連絡を取り合わずにはいられないのだろうか?

奇妙な光景だった。


homeostasisTOPへ戻る