はからない精神

 

カルカッタ・トーク

悲しみの消滅

 今夕、我々は一緒になぜ人間は、四万年以上生きてきて、現にこのように振る舞っているのかを話し合う必要があります、何が人間に起こったのかを、何が我々一人ひとりに起こったのかを一緒に話し合う必要があります、我々は秩序正しい、正気な、バランスのとれた生を送っていません。我々はこの社会を作ってきました、不道徳で、倫理に欠けた、腐敗した、破壊的な社会を作ってきました。我々の誰もがこのことに力を貸してきました、そしてもし社会的な構造の中に根本的な変化が起こるべきなら、我々は自分自身から始める必要があります、政治ではなく、マルクス主義あるいは何らかの種類の現実逃避ではなく、自分自身から始める必要があります。我々は自分の家に最初に秩序をもたらす必要があります。我々は自ら秩序を乱していて、暴力的で、混乱していて、孤独です。そこで、我々は今夕余すことなき秩序とは何かを話し合います、何らかの種類の愛があるのかどうか、慈悲心とは何か、悲しみは、世界中の人間の悲しみは消滅するのかどうかを話し合います。
 我々は一緒に話し合っています―あなたと話し手です―我々の問題を、友好的に、いかなる抵抗もすることなく、同意するのではなく、探求しています、調べています、なぜ我々がそのような秩序の乱れた生を生きているのかを、そしてなぜ我々は物事を現にあるように受け入れるのかを見ていきます。我々は物理的な暴力、物理的な革命を喧伝しているのでも話しているのでもありません。それどころか、そのような革命は決して良い社会を生み出してきませんでした。我々は人間の振る舞いについて話しています、なぜ人間は現にあるような人間なのかについて話しています。我々は環境を非難できません、我々は政治家あるいは科学者を非難できません。それは非常に安易な逃げ道です、我々が関心を持つ必要があるのは、なぜそれなりに聡明な人たちが、それなりに教育を受けた人たちがそのような秩序の乱れた生を送っているのかということです。そこで、我々の質問は、秩序とは何かということです。混乱した精神、混乱した生には秩序が何かを見つけられません。我々は我々の生の中に秩序の乱れを引き起こすのは何かを、全く秩序の乱れた社会を生み出すのは何かを自分自身で一緒に見つけ出すことができますか? 秩序の乱れとは何ですか? 秩序の乱れの構造と性質とは何ですか? 秩序の乱れがあります、違いますか? 矛盾があるところ―あることを言って、まったく異なることを行うこと―には秩序の乱れが必ず起こるはずです。人はこのことに気づくのでしょうか。我々が理想を追求していると―それが政治的な理想であれ、宗教的な理想であれ、あるいは我々が我々はそうなる必要があると我々自身で思い描いたそれであれ―争いや秩序の乱れが起こります。つまり、実際に我々自身の中に起こっていることとそれを無視して何らかの理想を追い求めることとの間に分断が起こると、それが秩序の乱れの原因の一つです。心理的な、いわゆる内面的な生の中のその別の原因は、権威を追い求めることです、それが書物の権威であれ、グルの権威であれ、いわゆる霊的な人たちの権威であれ、権威を追い求めることです。我々は我々の内面的な生の中で非常に安易に権威を受け入れます。もちろん、あなたは科学者たちの権威、技術者、医者、外科医たちの権威を受け入れる必要があります。しかし内面的に、心理的に、なぜ我々は権威を受け入れるのでしょうか? これは問うべき重要な質問です。我々はそこへ戻るでしょう。
 我々は秩序の乱れの原因は何かと問うています。我々は言いました、理想を追い求めることは秩序の乱れであると、精神の世界の中に、内面的心理的状態の中に、何か他の権威を受け入れることは秩序の乱れであると。秩序の乱れの他の原因の一つは、内面的に何かになろうと絶えず試みることです。そのように、恐らく、それらや他の原因が秩序の乱れを生み出します。我々はそれら一つひとつを探究しようと思います。なぜ我々は理想を抱くのですか? 理想とは何ですか? その言葉のルーツの元々の意味は、観察すること、見ること、探すことでした。しかし、我々はそれを思考によって生み出された何らかの特殊な概念の表出と解釈しました、そしてそれが理想であり、そしてその理想がもっとずっと重要になり、そのような理想の追求は、あなたが全く“現実”を無視するとき、あなたの心を余すことなく奪う何かになります。“現実”が重要なのであり、理想ではありません。我々は“現実”という言葉を実際に起こっている、内的にも外的にも実際に起こっているという意味で使っています。我々は暴力的です、ほとんどの人間がそうであるように。非暴力という理想をもつことには何の現実性も、何の根拠もなくて、根拠や現実性をもつのは我々が暴力的であるという事実であり、その暴力を理想やパターンという観点からではなく扱うことです。恐らく、この国では、幻想である非暴力を追求することによって、我々は実際に起こっていることを見るエネルギーを奪われてきました。
 我々は決して“現実”を見ません。我々は起こっていることを他の何かに変えたいと思います。このようなプロセスが何世紀も何世紀も続いてきました。政治的理想、宗教的理想、人が自分自身のために作り出してきた理想、目的、目標―そしてその目標が、その目的が、その理想が、途方もなく重要になります、そしてそれは実際に起こっていることではありません。つまり、“現実”は“あるべきもの”に変質させられています。そうすると争いが起こります、秩序の乱れが起こります。ところが、もし我々が“現実”に気をつけているなら、そして“現実”は暴力、憎悪、敵対心、残忍性ですが、我々はそれに取り組むことができます。我々は秩序の乱れの原因を発見することに関心があります。我々は言っています、生の中の秩序の乱れの主な要因の一つは“現実”を“あるべきもの”に変質させよう或いは変えようとすることであると。“あるべきもの”は全く非現実的であり、“現実”が取りも直さず重要です。もし私が貪欲なら、私は貪欲の性質を検討する必要があります、それはその貪欲が本当に消滅するのか、それともそれは継続するのかを検討することであり、無貪欲という理想を抱くことではないのです。“現実”の幻想的な性質を見て取ることが叡智の始まりです。
 我々の中には分断があります、二重性があります、対極的なものがあります。対極的なものが本当にあるのですか? 光と影、高低などの対極はあります。基本的に、対極をなすものが本当にあるのですか? 我々は精神の世界、魂の世界に対極をなすものがあると言います。我々は良いことと悪いこと、善と悪があると言います。善は悪の対極ですか? もしそれがその対極なら、そのルーツはそれ自身の対極の中にあります。もし悪が善の対極なら、その悪は善と何らかの関係性があります。対極的なものは思考によって作り上げられます。善は悪と全く無縁であるか、それともそれは善としての思考の産物、善としての思考の産物である対極的なもの、善としての思考の発明であるなどのいずれかです。それでは善とは何ですか? それを検討してみましょう。
 善とは何ですか? 辞書によると、その言葉の共通の用法は、善い振る舞い、全体的であるという意味の善いことを意味していて、それは断片的ではないそのような意味を持っているか、あるいは生の全体性を理解していることを意味しています、そしてその中には悪としての断片的なものは存在しません。しかしもし悪が善の結果なら、その悪は善と何らかの関係性があります。我々は一緒に問うています、我々の生の中に対極的なものがあるのかどうかを、憎しみと愛があるのかどうかを。愛は憎しみと、嫉妬と何らかの関係性がありますか? もし愛が憎しみと何らかの関係性があるなら、それは愛ではありません。それは明らかです。もし私が誰かを憎んで、同時に愛についても語るなら、それは相いれません。その二つは出会いません。我々は問うています、対極的をなすものが本当にあるのかと。対極をなすものがあると、争いが起こるに違いありません。私は憎みます、そして私は彼を愛しているとも考えます。憎しみの対極は愛ではありません。憎しみの対極は依然として憎しみです。
 そのように、それが我々の生の中の秩序の乱れの要因の一つです、理想、対極的なものといわゆる精神的な権威を受け入れることです。法律の権威、政府の権威、警察官の権威、良い外科医の権威があります。しかし、心理的に、内面的に、なぜ我々は権威を受け入れるのでしょうか―聖職者の権威、書物の権威、グルの権威などです。我々が誰かに従って誰かにガイドされるとき、何を信じて何を信じないかをガイドされるとき、その人の悟りのシステムなどを受け入れると、我々自身の頭脳に、我々自身の内面の状態に何が起こっているのですか? あなたは私のグルです。あなたは私に何をすべきか、何を考えるべきか、何を信じるべきか、そして悟りや何であれ、その人たちがそう呼ぶものに到達するために私が取らなければならない様々な段階を語ります、そして私は、かなり騙されやすい私は、秩序の乱れた、堕落した、安心を欠く私の生から逃れたいと思います。私はそのグルを信じます。私は私の命をその人に託して言います、私は預けます、私の生の一部をその悟りに到達することに捧げますと。なぜ私はそのようなことをするのでしょうか? なぜなら私はある種の安全を、ある種の安心を得たいからです、私はいつの日か何らかの種類の幸せを得たいからです、私の日常的な心配や悲惨からの何らかの解放を得たいからです。そのグルがあなたに何らかの安心を与えるとあなたは満足します。しかしあなたは決してそのグルを問いません、あなたは決してその人の言っていることを疑いません、あなたは決してその人と議論しません、あなたは受け入れます。それが何百万年も世界中の人間の条件づけになっています。神とあなたとの間を取り持つ解読者、聖なるものとあなたとの間を取り持つ解読者―そしてあなたは慰め、安全を願ってその人を一言も疑うことなく受け入れます。
 宜しいですか、精神的な権威を疑うこと―それがキリスト教の権威であれ、その書物と共にイスラム教の権威であれ、その発言と共にあなたのグルであれ―問うこと、それを疑うことは、自分自身に余すことなく頼ることであり、自分自身の光になることであって、その光は他の人には灯せないのです。それは、外のもの、精神的権威を疑うだけではなく自分自身を疑うことも―なぜあなたは信じるのか―必要です、要求されます、そうするとあなた自身の精神が明瞭に、力強く、活力に満ちて、創造的な活動のためのエネルギーが生まれます。しかしあなたが誰かに従うと、あなたの頭脳は鈍く、決まりきった、機械的なものになります、そしてそれは人間の精神あるいは人間の頭脳の正に破壊的な性質です。ですから、どうか、なぜ我々の生の中にこの秩序の乱れが存在するのかを見てください、そしてあなたがこの秩序の乱れを探究し始めると、その秩序の乱れから秩序が浮かび上がってきます。秩序の乱れの原因が消散すると秩序が生まれます。そうするとあなたは秩序なるものを追い求める必要がなくなります。秩序は徳行であり、秩序は自由を意味します。
 我々は自由とは何かも検討しなければなりません。我々は言いました、我々の生の中で秩序があるところには、余すことのない秩序があるところには、そのような秩序は徳行であり、そのような正に秩序が自由であると。その“自由”という言葉を誰もが誤用しています。何かからの自由というものと自由があります。何かからの自由は自由ではありません。我々はそれを検討します。私は囚人です、私自身の観念の囚人です、私自身の理論の囚人です、私自身の概念の囚人です、そして私の頭脳はそれの囚人です。そうすると自由は私の牢獄から自由になって別の牢獄へ囚われることです。私は自分自身を一つの特殊な条件付けから自由にして、知らずにそれとも無意識のうちに、別の条件づけに囚われます。そのように、自由は何かからの自由です、怒りから嫉妬から、しかしそれらは自由では全くありません。自由は自由ということであり、何かからの自由ではありません。これには多くの問いかけが必要です、つまり、我々の頭脳はコンピューターのように条件づけられています、ヒンズー教徒としてプログラムされています、イスラム教徒、キリスト教徒などとしてプログラムされています。コンピューターはプログラムされています、我々の頭脳は何千年にもわたってプログラムされてきています、そしてそれが我々の条件づけです。自由はそのような条件づけの消滅です。条件づけが消滅するところに自由があるだけです。そのような自由を手にしないと、秩序の乱れが起こるはずです。そのように、理想、対極的なもの、精神的権威の追求そして我々はヒンズー教徒、イスラム教徒などであるという条件づけを受け入れること―それらが秩序の乱れをもたらします。そのようなことが消滅するとき、秩序が生まれます。あなたは言います、それは不可能です、誰かに従わないことは不可能です、なぜならあなたはあまりにも不確かで、あまりにも安全を欠いているので、あなたは進んで誰かにいとも簡単に従います、しかしそれはあなたの頭脳が鈍く、不活発になっていることを意味します。あなたは物理的には活発かもしれません、しかし心理的には、内面的には、あなたは活発ではなくなります。
 我々は一緒に悲しみについて話し合う必要があります、悲しみは消滅するのかどうかを。悲しみが消滅するとき、そのときのみ愛が生まれます、そのときのみ慈悲心が生まれます。悲しみとは何ですか、悲哀、痛み、孤独感、孤立感とは何ですか? 悲しみの性質とは何ですか? 悲しみの原因は、痛み、恐れ、絶望的な孤独感である悲しみの原因は何ですか? なぜ人間は、太古の昔から、苦しんできたのですか、そして依然として苦しんでいるのですか、身体的な痛み、不治の病あるいは全くの身体的拒絶反応による苦しみではなく、内面的な苦しみの性質からくる苦しみ―痛み、恐れそしてそれから逃れることなどです。我々は過去何千年も多くの戦争を起こしてきて、どれほど多くの人々が泣き叫んできたか、どれほどの母親たちが涙を流してきたかを本当に分かっているのでしょうか! その痛み、不安、希望、それら全てが悲しみを構成します、そしてこの悲しみは我々の生の全ての日々の中に存在します、そして我々は決してそれから自由ではないように思われます、完全にそのような悲しみを消滅させていないように思われます。
 我々は一緒にこのことを検討します、なぜなら悲しみは消滅するからです。悲しみは誰かを失うとやってきます、誰かの死でやってきます。私の息子―私は彼を失いました、悲哀と涙と大きな孤独感が生じます。そうすると、そのような衝撃を受けた状態の中で、そのような痛み、不安、孤独の状態の中で、私は慰めを追い求めます、私はこのような苦悶から逃れたいと思います。私はあらゆる形の娯楽で逃れます、それがドラッグであれ、酒であれ、寺院やモスクや教会であれ。私はあらゆる種類の空想的な概念を発明し始めます。私は彼を失いました、彼は死にました、彼はいなくなりました、そしてそのような痛みが生じます。人はそのような痛みと共にいられますか? 私はそのような痛みを見守ることができますか、それを保持することができますか、貴重な宝石を手にしているように―逃げないで、抑えないで、それを合理化しないで、その原因を追究しないで、水をたたえる容器のようにそれを保持できますか? 悲しみと呼ばれるこのことを、その痛みを保持してください、つまり、私は私の息子を失いました、そして私は孤独です、そのような孤独から逃げずに、それを抑えずに、それを知的に合理化しないで、そのような孤独を見守ることです、その深さを、その性質を理解することです。孤独は、自分本位の野心、観念的な野心、競争意識、自分自身の確立など、我々の日常的な活動を通じてもたらされる完全な孤立のことです。それらが孤独を生み出す活動です。しかしもしあなたがそれから逃げ去るなら、あなたは悲しみを決して解決しないでしょう。“悲しみ”という言葉は正に語源的に熱気を意味します。ほとんどの我々は熱気を持っていません。我々は強い欲望を持っているかもしれません、我々は野心を持っているかもしれません、我々は裕福になりたいと思っているかもしれません、そして我々は我々のエネルギーをそれらに注ぎます。しかしそれは熱気を生みません。悲しみが消滅するときのみ熱気が生まれます。それは余すことのないエネルギーであり、思考によって制限されません。そのように、苦しみの性質とその消滅を理解することが重要です。その消滅はそのような悲しみを、そのような痛みを保持することでもあります。それを見守ってください。どのようにその痛みを保持し、それを見守り、それと共にあり、それと共に生きて、辛辣にならないで、冷笑的にならないで、悲しみの性質を見て取ることは驚くべきことです。そのような悲しみの中に美があります、そのような悲しみの中には深さがあります。
 我々は愛とは何かについて一緒に話し合わなければなりません。その言葉はあなたにとってどういう意味ですか? もしあなたが居間であなたにとってその言葉の意味はどういうことかと訊かれたら、あなたはどう答えますか? あなたにとってそれはどういう意味ですか? 私はゴルフを愛します、私は読書を愛します、私は妻を愛します、私は神を愛します。それは愛ですか? あなたはあなたの妻を愛していますか? あなたはあなたの夫を愛していますか? あなたはあなたの友人を愛していますか? 我々は愛とは何かを検討しています。これは非常に重要な問いかけです、なぜなら愛なしには生が空しいからです。あなたは地上のあらゆる富を手にしているかもしれません、あなたは腕利きの銀行員、偉大な科学者、数学者、偉大な技術者で大変な技術をものにしているかもしれません、しかし愛なしにはあなたは途方に暮れた抜け殻です。一緒に、我々は愛とは何かではなく、愛ではないのは何かを明らかにしようとしています。つまり、否定から肯定的なものに至ります。嫉妬は愛ですか、執着、不安を含む嫉妬は愛ですか? 嫉妬の中には憎しみがあります。それは愛ですか? あなたはあなたの家族に執着しています、あなたはある人物あるいは何らかの観念、何らかの概念、何らかの結論に執着しています。あなたにとって執着は何を意味しますか? もし仮に私が結婚しているなら、私は私の妻に執着します。それは何を意味しますか? 執着すると恐れが生じます。執着すると所有意識が生じます。何らかの理想に、概念に、信念に執着するとき、あるいは人物に、嫉妬や不安、憎しみ、疑いなどそれらの成り行きと共に執着するとき、確かにそれらは愛ではありません。愛の性質を理解するために、執着することから完全に自由になることは可能ですか? どうか、このことを自分自身に問うてください。
 我々はみな何かしらに執着しています。この上なく敬意をこめて指摘させていただくなら、そのような執着の行く末に気づいてください。もしあなたが何らかの理想に執着しているなら、あなたはいつもそれを防御しているか、それで攻勢的になっているかのいずれかです。もしあなたが何らかの結論に至るなら、その結論にしがみつくことは、更なる問いかけを全て止めてしまうことです。何かに執着すると苦痛が生じるはずです。私は私の妻に執着しています、そして彼女は去って行くかもしれません、彼女は他の男に惹かれるかもしれません、あるいは彼女は死ぬかもしれません。何かに執着していると、いつも恐れが生じます、いつも不安や疑いが生じ、注意して見ていることになります。紛れもなく、それは愛ではありません。そうすると、人はあらゆる執着から余すことなく自由でいられますか? それはあなた次第です、あなたが何かに執着していると、愛は生まれません。なぜなら、その執着の中に恐れが生じるからです。恐れは愛ではありません。そして成功の階段を登りたいと思っている野心家には愛はありません、なぜならその人は自分自身に関心があるからであり、その人の自己成就に関心があるからです、そしてそれは力、地位、名声の収集だからです。どうしてそのような人が他の人を愛せますか? その人には家族があり、子供たちがいるかもしれませんが、その人の中には愛はありません。あなたが「私は最高の原理として神を愛します」と言うとき、それもまた愛ですか? そのような神、そのような原理、最高の原理であるブラフマン、それらは思考の産物です。神は人間によって発明されます。あなたはきっとこのことが好きではないでしょう。しかしあなたはそのような概念に執着しています、神は存在するという概念に。そうするとあなたは問います、これら全ての悲惨を創り出すのは誰かと。神はこれらを創り出していません、違いますか? もし彼が創り出したのなら、彼は半端な神に違いありません、彼は残酷な神に違いありません。世界中の全ての神が思考によって発明されています、そして愛が何であるかを明らかにするためには、悲しみが消滅しなければなりません、執着が消滅しなければなりません、我々が内面的に傾倒するあらゆるものが消滅しなければなりません。自己、自我、自分があるところには、愛はありません。あなたはこれらを聞いても、あなたの執着、あなたの信念をそのままにして、ここから立ち去ります、そして決して更に問いません、なぜならあなたがこれらのことについて問えば問うほど、あなたの生が危険になるからです。なぜならあなたは沢山のことを、自己犠牲としてではなく、自然に、簡単に捨てなければならないかもしれないからです。あなたは執着の性質を理解して、それから自由になる必要があります。あなたは、あなたが何かの真理を見て取るとき、あなたは完全に独存していることを悟る必要があります、そしてあなたはそれに気づくかもしれません、そしてそれにあなたは怯えます。あなたは信じるかもしれませんし、執着の性質の真理を内面的に見て取るかもしれません、しかしあなたはあなたの妻あるいは夫と口論したくないように、あなたは受け入れます。徐々にあなたは偽善者になります。
 そしてまた我々は叡智の性質を議論する必要があります。慈悲心にはそれ自身の叡智があります、愛にはそれ自身の叡智があります。我々は叡智とは何かを検討しようとしています。確かに、それは書物の中で手に入れることはできません。知識は叡智ではありません。愛、慈悲心があると、それ自身の叡智の美があります。慈悲心は、もしあなたがヒンズー教徒あるいはカソリック教徒、プロテスタント教徒あるいは仏教徒あるいはマルキストであるなら、存在しえません。愛は思考の産物ではありません。愛や慈悲心の性質を理解する中に、それは現にないものを否定することであり、誤りを誤りとして見て取ることですが、叡智の始まりがあります。誤りの中にある真理を見て取ることが叡智の始まりです。秩序の乱れの性質を見て取って、それを消滅させ、それを来る日も来る日も引きずらないで、それを消滅させること―その消滅は叡智である即座の気づきです。
 我々は叡智とは何かを検討しています。賢さは叡智ではありません。様々なテーマ―数学、歴史、科学、詩、絵画―について沢山の知識を持っていること、それは叡智の働きではありません。原子の研究者は途方もない精神集中、想像力、探求、問いかけ、次から次へと仮説や理論を打ち立てることの能力を持っているかもしれませんが、それらは叡智ではありません。叡智は生の全体性の働きであり、そのような叡智はあなたのものでもなければ私のものでもありません。それはいかなる国にもいかなる人々にも属しません、愛がキリスト教の愛でもなければヒンズー教の愛などでないように。ですから、どうか、これらを検討してください、なぜなら我々の生はこれらに依存しているからです。我々は不幸な惨めな人々です、いつも労苦の中にいて、いつも争っています。我々はそれを生き方として受け入れてきました。しかしこれらを検討する中に、そのような叡智が目覚めます、そしてそのような叡智が働いているときにのみ、活動しているときにのみ、正しい行動が生まれます。
                                               1982年11月27日
                                                     カルカッタ
                                                 中野 多一郎 訳