全く異なる生き方

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18 瞑想と聖なる精神

アラン W アンダーソン(A) クリシュナムルティさん、我々の前回の会話で我々は瞑想を議論しました。そして我々が議論を終えるところであなたは植物の開花の美しい比喩を取り上げました、そして私が心打たれたのは、植物の開花するときに本来備わる秩序があなたの議論してきた秩序を彷彿とさせることでした。そしてまた我々は瞑想の理解並びに知識との関係も話していました、そしてそのような区別は人々の間で非常に稀にしかなされていません。
クリシュナムルティ(K) はい。
 我々は普段の言葉遣いの中で恐らくその区別を無意識のうちに行っているけれども。そこにはそのように我々には二つの言葉があります。
 はい。
 そこで、その区別がどういうことなのかに踏み込んでいくことがあなたの始めようとしていたことでした。そうすると、恐らく...
 我々はそこから進めることができます。宜しいでしょうか、我々はコントロールについて話していました、そして我々は言いました、コントロールするものが正にコントロールされる当のものであると、我々はそのことを十分に検討しました。コントロールしようとすると何らかの方向性が生じます。方向性は意志を意味します、コントロールは意志を意味します。そしてコントロールしようとする欲望の中には確立されている何らかのゴールや何らかの方向性があります、つまり、それは意志によってなされた何らかの判断の遂行を意味します、そしてその遂行は時間的な持続を意味します、従って方向性は時間、コントロール、意志そして何らかの目的を意味します。それら全てが“コントロール”という言葉の中に意味されています。
 はい。
 そうすると、意志は瞑想の中で、従って生の中でどのような役割を果たすのですか? それともそれには何の役割もないのですか? それは判断に何の役割もないことを意味します。ただ見て取って行うだけです。そして、それには意志や方向性は要りません。お分かりですか。
 はい、分かります。
 その美しさを見てください、宜しいでしょうか、それの働くさまを見てください、つまり、精神がコントロールすることの不毛さを見て取るとき、なぜなら、それはコントロールするものが正にコントロールされる当のものであることを理解したからです、一つの断片が他の断片たちを支配しようとしているのです、支配しようとしている断片は他の断片たちの一部です、従ってそれは堂々めぐりであり、悪循環であり、決してそこから抜け出ません。そうすると、コントロールしない生き方がありえますか? そのことにただ耳を傾けてください。意志を働かせずに、そして方向性を持たずにです。知識の領域の中には何らかの方向性がなければなりません、それは了解済みです。そうでなければ私は家に帰れません、私の住んでいるところへ帰れません。私は車を運転する能力を失うでしょう、自転車に乗れません、言葉を話せません、生活に必要なあらゆる技術的なことを行う能力を失うでしょう。そこでは、方向性や計算やそのような領域の中での判断が必要です。これやあれとの間の取捨選択が必要です。ここでは、取捨選択すると混乱が生じます、なぜなら気づきが生まれないからです。気づくときには取捨選択しません。取捨選択するのは精神がこれやあれとの間で混乱しているからです。それでは、生はコントロールとは無縁に、意志とは無縁に、時間を意味する方向性とは無縁に生きられますか? それが瞑想です。ただ問うているのではありません、それが興味深い問いであろうと、恐らくは刺激的な問いであろうと、つまり、問いには、それがたとえ刺激的であろうと、それ自体何の意味もありません、それは生きている中で何らかの意味を持ちます。
 私はあなたが話しているとき再び普通の英語の言葉遣いを考えていました。興味深いのは、誰かが我々の“わざとした”と呼ぶ行動をとったとき、我々はそれを理解しないでとった行動であると見なします。
 もちろんです。
 そうすると、その言葉の名詞としての“意志”と形容詞としての“わざとした”との間の正に区別の中にこのような区別のヒントがあります。しかし、もし宜しければ、私はあなたに意志の関係性について問いたいと思います、我々は瞑想について話しているけれども、我々は熟考しました、知識には本来その固有の働きがあると。
 もちろんです。
 そして我々は言います、判断はそれに関連していると、取捨選択はそれに関連していると、従って意志はそこで働いていると。
 そして方向性やあらゆるものが。
 そして方向性など。そこで我々はここで何らかの区別をしています、意志と我々がノウハウと曖昧に言うその全領域に関連する意志の役割との間の区別です。
 ノウハウ、知識。
 はい。そしてそのような活動が、本来とても必要なそのような活動がここに持ち越されると、そのような混乱が起こります。
 その通りです。
 そうすると、我々はそれらのどちらもなしえません、現実に。
 正にそこです、従って我々は無能になります。
 はい。
 個人的に。
 しかし宜しいですか、我々はそう考えません。我々が考えるのは、我々は知識の中でとても効率的になりえても同時に我々は非精神的にもなりえると。ここでは成功者でありえても、そこでは成功者ではありえないと。一方、もし私があなたの言うことを正しく理解しているなら、あなたはそのどちらか一方でしくじるのではなく、あなたはただしくじるだけです―それ以上でもそれ以下でもない。この混乱が生じると全てにしくじります。あなたは、それがたとえどのように見えても、さしあたりここでは全く働くことさえできない。
 あなたの中に完全な秩序が生まれていない限り。
 はい。その通りです。そのように、我々が内と外との間で起こすその正に分断それ自身がこの酷い...の兆候です。
 内側と外側を分断してきた思考の兆候...
 はい、私はそれを詳細に見ていくのをあなたに辛抱してほしいのです、なぜなら私は宗教的思考の中の―私の学問分野ですが―この混乱、その重みを知っているからです。
 はい、分かります、その通りです。
 あなたは感じるのです...
 抑圧を...
 そしてあなたがそれについて何らかの発言を始めるや否や、それは単に問いを発しているだけです、その厳密な厳格性と生ずるイライラはドラマチックです。
 はい。そのように瞑想は生の全領域をカバーします、その一断面ではありません。従ってコントロールとは無縁な生を生きることです、意志や判断、方向性、何らかの成就とは無縁な生を生きることです。それは可能ですか? もしそれができないなら、それは瞑想ではありません。従って生は皮相的で意味のないものになります。そしてそのような意味のない生から逃れるために、我々はあらゆるグルたちを追いかけます、宗教的なエンターテイメント、浮かれ騒ぎを追い求めます、お分かりですか。瞑想のあらゆる実践です。それには何の意味もありません。
 我々には“意志”の古典的な定義の伝統があります。我々は言います、それは道理にかなった欲望であると。
 道理にかなった欲望。
 道理にかなった欲望。もちろん、我々はずっと前から古代の人々がその“道理”という言葉で―彼らの瞑想的背景から―何を意味したのか分からなくなっています。我々はそれが計算を意味すると考えます。しかしもちろんそれは古典的な伝統が意味する道理ではありません。それはむしろ定義されていないそのような秩序を指示しています。そして私に思い当たるのは、もし我々がその言明を正しく理解するなら、我々は意志が私の自己意識的に焦点を当てない欲望の焦点であると言うことです。
 はい、その通りです。そして欲望が花開くのを見守ることです。
 はい。
 従って、その意志が働くのを見守って、それを花開かせるのです、そしてそれが花開くと、あなたが見守っていると、それは朽ちます、それは枯れ果てます。結局のところ、それは花のようです、つまり、あなたがそれを開花させると、それは萎れて行きます。
 それはそうなって、やがて朽ち果てます。
 従って、もしあなたが取捨選択することなくこの欲望やコントロール、意志に気づいていて、その意志などが働くのに焦点を当てているなら、それを花開かせるのです、それを見守るのです。そしてあなたがそれを見守っていると、あなたはそれがどのようにしてその活力を失うのかが分かります。従ってコントロールしません。そうすると次の問いが起こります、つまり、方向性をもたない空間がありえるのかということです。
 はい、もちろんです。
 それは非常に興味深いことです。空間とは何ですか? 思考が作り出してきた空間が一つです。空間は天空に、我々の宇宙の中に存在します。山が存在するためには空間がなければなりません、樹木が生長するためには、花が花開くためには空間がなければなりません。それでは空間とは何ですか? そして我々は空間をもっていますか? それとも我々はみなとても小さな住居に、小さな家に物理的に閉じ込められ、外面的に全く空間がなく、従って空間をもっていないので、我々はますます暴力的になるのですか?
 はい。
 私はあなたがある夕方の光景を見たことがあるのかどうか知りません、全てのツバメが電線の上に等間隔に並んで止まっている光景です。
 はい、あります。
 そのような空間を見ることは素晴らしいことです。空間は必要です。そして我々は物理的に空間を手にしていません、ますますの人口過剰などその他の全てです。従ってますます暴力が生まれ、ますます狭い住居の中で何人も暮らすことになり、何千もの人々が混雑して、同じ空気を吸い、同じことを考え、同じテレビを見て、同じ本を読み、同じ教会へ行き、同じことを信じ、同じ悲しみを味わい、同じ不安にくれて、同じ恐れを抱きます。そして“私の国”と言うのです―それら全てです。そのように精神には、そうして頭脳には僅かの空間しかありません。しかし空間は必要です、そうでなければ私は息が詰まります。それでは精神は空間を手にすることができるでしょうか? もし何らかの方向性があるなら、空間は生まれないでしょう。
 もちろんです。
 もし方向性が時間を意味するなら、空間は生まれないでしょう。精神が家族や仕事、神、飲酒、セックス、経験で塞がれているときには、占められているときには、満たされているときには、空間は生まれません。
 その通りです。正にそうです。
 そうすると、知識が思考として精神の全領域を占めるとき空間は生まれません。そして思考はそれ自身の周りに“私”や“あなた”としての閉じた空間を作り出します、“我々”や“彼ら”としての閉じた空間を作り出します。そのようにして自己や“私”は―それは思考の正に本質ですが―それ自身の小さな空間を手にして、そのような空間から抜け出すことは恐怖であり、恐ろしいことであり、不安です―なぜなら私がそのような空間にだけ慣れているからです。
 はい、その通りです。そのことは我々を以前の会話で我々が触れた恐怖の問題に連れ戻します。
 はい、その通りです。存在しているとか存在していないとかは思考が作り出してきた小さな空間の中のことです。そのように思考は決して空間をもたらすことができません。
 もちろんできません。
 そのように、瞑想は精神からそれ自身の小さな空間を作り出す意識としてのその内容を消滅させることです。お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 そうすると、そこから人は問います、それは可能かと。というのは、私が私の妻や私の子供たち、私の責任で塞がれているからです、私は樹木の世話をします、私は猫の世話をします、私はあれやこれを世話するので私は手一杯です、それらで塞がれています、それらで占められています。
 このことはイエスの言うことに素晴らしい光を当てます、そして人々はそのことを思案してきて非常に不思議に思ってきました、つまり、“狐には穴倉があり、空飛ぶ鳥には巣があるけれども、人間には頭を休めるところがない”と。物事を理解するそのような人間は自分自身の空間を発明していません。それは完全に符合します。
 私は...は知りません。
 はい、私は分かります。このことが私に閃きました。我々の会話は私には私が何年も没頭してきた文献に関する大いなる啓示になっています。それは私にとってあなたが言ってきたことの立証です、つまり、例えば、私がそれらの問題を自分自身に個人的に問う限りにおいては、それらが正に答えられると、そうするとそこここにあるあらゆる問題が答えられます。“私は世界であり世界は私である”ということ以上に人に対して経験的に証明できることが他にありえるでしょうか!
 その通りです。そうすると、宜しいでしょうか。世界はますます人口過剰になっています、都市はますます広がっています、拡大しています、郊外などに広がっています。人はますます空間を狭めていて、そのために動物たちを追い出し殺戮しています。お分かりですか。そして、そこに、外面的に、空間を手にしていないので、例外として、時折私が田舎へ出かけて行って自分に言います、“おお、ここに住めたらいいなあ。しかし私には無理だ、私には責任などがあるから”と。
 それでは、内面的に空間はありえますか? 内面的に空間が生まれると外面的に空間が生まれます。
 その通りです。
 しかし外面的な空間が内面的な空間をもたらすことはありません。何かに塞がれていない精神の内なる空間です、それは一時それが行わなければならないことで占められるけれども、それが終了すると、それが済むと、それは自由です。私は仕事を家に持ち込みません。それは済ましています。そのように、精神の中の空間というのは意識からその全ての内容を空にすることを意味します、従って“私”としての思考が作り出してきた意識は消滅して空間が生まれます。そしてそのような空間はあなたのものでも私のものでもなくて、それは空間です。
 はい、私は創世記の中の創造の話を考えていました。空間が現れるのは水が分かれて鳥たちが舞う円天井ができるときで、その空間が天国と呼ばれます。
 天国です。その通りです。
 もちろんです、もちろんです。しかしそうすると我々がそれを読んで、宜しいですか、我々は...しません。
 幸いにも、私はそれらのいずれも読みません! そうすると、空間があり方向性や時間、意志、取捨選択、コントロールというものがあります。宜しいですか、それら全ては私が生きる上で、私の日常生活の上で、あらゆる人間の生活にとって必要です。もし人が瞑想の意味を知らないとすると、人は単に知識の領域の中を生きているだけであり、そのためにそれは牢獄になります。従って、牢獄の中にいると人は言います、私は何らかのエンターテイメントを通じて、神を通して、これやあれで、何らかの楽しみで抜け出さなければならないと。宜しいですか、それが実際に起こっていることです。
 “ヴァケーション”という言葉がそれら全てを物語っています、違いますか?
 はい、その通りです。
 その“ヴァケイト”という言葉の意味は空間へ抜け出すことですが、我々は一つの穴から抜け出して別の穴へ入ります!
 別の穴へ。そうすると、もしそれがはっきりと見て取られるなら、私自身の中で気づかされるなら、私が私の日常生活の中で起こることを見て取るなら、何が起こりますか? 空間は沈黙を意味します。もし沈黙が生まれないと方向性が生じます、それは意志の活動であり、私は何事かを行わなければならない、私は何事かを行ってはならない、私はこれを実践しなければならない、私はこれを手に入れなければならないなどです、お分かりですか? すべきことやすべきではないこと、起こってしまったこと、起こってはならないこと、そして後悔などです。それら全てが起こります。従って空間は内面的に沈黙を意味します。
 それは非常に深い意味です、非常に非常に深い意味です。そもそも我々は現れるものを、隠れているものに対して、音に結び付けて考えます。
 はい、音です。
 そうするとあなたの言ったことはあらゆるものを驚くべき...
 沈黙は二つの音の間の空間ではありません、沈黙は音の中断ではありません、沈黙は思考が作り上げた何かではありません。それはあなたが目を見開くとき、あなたが観察するとき、あなたが検討するとき、あなたが探究するときに自然に必然的にやってきます。そうすると次の問いが起こります、何らかの活動とは無縁の沈黙が、その活動が何らかの方向性をもつそれであろうと、思考の活動であろうと、時間の活動であろうと、そのような沈黙が私の日常生活の中で起こりえるのかということです。私は知識としての音の領域の中で生きています。私はそうしなければなりません。それでは、沈黙と音の世界を同時に生きる生き方がありますか? その二つが共に活動している生き方であり、その二つの流れが齟齬をきたさずに流れる生き方です。分断が起こりません。齟齬をきたしません。分断が生じません。それは可能ですか? というのは、もしそうでなければ、もしそれが不可能なら、心底正直に言うと、私はただそこで生きうるだけです、知識の領域の中で生きうるだけです。私はあなたがこのことを分かるのかどうか知りません。
 おお、はい。
 私にとって、それは可能です。私はこれを虚栄心から言っているのではありません、私はこのことを心を大いに謙虚にして言うのです。私は可能だと思います、そうなるのです。そうすると何が起こりますか? そうすると創造とは何ですか? 創造は表現される何かですか―絵画で、詩で、彫像で、書物で、子供を産むことによって表現される何かですか? それが創造ですか? 創造は表現されなければなりませんか? 我々にとっては、それは表現されなければなりません―ほとんどの我々にとっては。そうでないと、人は欲求不満を感じます、不安になります、私は生きていないと感じます。それらの類です。そうすると創造とは何ですか? 人は、もし人がこれら全てを本当に詳細に見ていったなら、それに答えうるだけです。そうでないなら、創造はむしろ安っぽいものになります。
 はい、それは、表現されるという言葉からしても、表に現される何かということになります。
 表に現される、もちろんです。
 それが全てです。
 それが全てです。文学をする人々の生のように、その人たちは―それらの幾人かは―絶えず自分自身の中で戦っています、気を張り詰めるなどして戦っています、そしてそこからその人たちは本をものにして有名になります。
 はい、心理学の理論によれば、芸術の仕事は神経症に基づいているとされます、そしてそれはその人が駆り立てられることを意味します。
 はい、そうすると創造とは何ですか? それは何か、花がその咲いているのを知らない花の開花のようなものですか? 
 その通りです、その通りです。
 はい、そうです。そうすると、宜しいでしょうか、何が起こるのか見てください。私の生の中の創造です。お分かりでしょうか。何かを表現するのではありません、美しい椅子を作ることではありません、これやあれが出来上がるかもしれない、出来上がるだろうということではありません、そうではなく生の中のことです。そしてそこから別の問い掛けが起こります、それは本当にもっとずっと重要なことです、つまり、思考は“はかること”だということです。そして我々が思考を育んでいる限り、我々の全ての行動は現にある通り思考に基づいていて、計り知れないものの探究には何の意味もありません。私はそれに意味を与えることができます、私は言います、計り知れないものがあると、名づけようのないものがあると、永遠なものがあると、それについて話すのは止めよう、それはそこにあると。それには何の意味もありません、それはただの仮説であり、憶測であり、あるいは知っていると称する少数の人たちの主張です。人はそれら全てを捨て去りました。従って、人は問います、精神が完全に沈黙しているとき、計り知れないものとは何かと、永遠なものとは何かと、永久なものとは何かと。神や人が発明してきたそれら全てのことではありません。実際にそうであることです。宜しいですか、その言葉の深い意味で沈黙がその扉を開けます。なぜなら、そこであなたはあらゆるあなたのエネルギーを手にしているからです、ただの一つも浪費されません、エネルギーの消散が全く起こりません。従って、そのような沈黙の中にはエネルギーの総量があります。
 その通りです。
 それは鼓舞されたエネルギーではありません、自ら捻出したエネルギーなどではありません、それらは子供じみています。なぜなら争うことがないからです、コントロールしないからです、手を伸ばして何かを得ようとしないからです、あるいは手を差し出したりしないからです、探し求めたり、願ったり、問うたり、要求したり、待ち受けたり、祈ったりなどそれら全てとは無縁だからです。従って、浪費されてきたあらゆるエネルギーが今やその沈黙の中に集積されます。お分かりですか? そのような沈黙は神聖になっています。
 もちろんそうです。
 それは思考が発明した神聖なものではありません。
 世俗的なものに対する神聖なものではありません。
 はい、全く違います。そうして、そのような神聖な精神こそが正にこのことを、この上もなく至高な神聖さを、神聖なあらゆるものの本質を、美の本質を見ることができます。お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 そのように、そこにそれはあります。神は人が発明した何かではありません、あるいは人のイメージや願望や挫折から作り出された何かではありません。しかし精神自身が神聖になるとき、それは計り知れなく神聖な何かの扉を開けます。それが宗教です。そしてそれが日常生活に影響します、私の歩き方に、私の人との接し方に、その行ないに、その振る舞いに影響します―それら全てに影響します。それが宗教的な生です。もしそれが存在しないなら、その他のあらゆる種類の悪影響が生じます、たとえその人がどんなに賢くても、どんなに知的に優れていても、どんなに―それら全てであっても。
 そして瞑想は秩序が乱れているところには起こりません。
 それがこの上なく深遠な宗教的生き方です。宜しいでしょうか、別のことが起こります。このことが起こっていると、なぜならあなたのエネルギーが集積されているので―エネルギーが集積されていますが、それはあなたのエネルギーではありません―あなたは他の種類の力を手にします、超感覚的な力です、あなたはあらゆる種類の奇跡を起こすことができます、それら全てが私に起こりました、悪魔祓いなどそれら全ての類であり、癒しなどです。しかしそれらは全くの筋違いです。あなたが人々を愛していないということではありません。その反対です、宗教はその本質です。しかしそれらは全て二次的な問題です、しかし人々はその二次的なことに囚われます。つまり、何が起こってきたのか見てください、本当に癒すことのできる人が人々の崇拝の対象になります―ちょっとした癒しのせいです。
 私はそのことであなたがかつて私に話したことを思い出します、川岸に座っている老人と彼に会いに来た青年の話です。老人が青年の学ぶ必要のあることを青年に学ばせるために彼を送り出してから、青年は戻って来て素晴らしいことを老人に告げました、つまり、彼は今や水上を歩くことができると。老人は彼を見て言いました、“そうするとあなたは水の上を歩けるのですか。それらの年月を費やしてあなたは水上歩行を学んできました。ところで、あなたはそこにボートがあるのが見えませんでしたか?”と。
 宜しいでしょうか、それは非常に重要なことです。宗教は、我々が言ってきたように、全てのエネルギーの集積であり、それは気をつけていることです。そのように気をつけているとき、多くのことが起こります。それらの幾人かは癒しのすべを手にします、様々な奇跡です。私はそれを手にしました、私は私が何を話しているのか分かっています、宗教的な人は決してそれに触りません。その人は時々言うかもしれません、“これを行いなさい、あれを行いなさい”と、しかしそれは脇へ除けておくべきことです、何らかの才能や能力のように。それは脇へ除けておくべきことです、なぜならそれは危険だからです。
 その通りです。
 あなたが何らかの能力を持てば持つほど、“私”が強くなります、“私”が重要になります、“私”にはこの能力がある、“私”を尊敬しなさいと。そのような能力によって私はお金を手にします、地位を手にします、力を手にします。そのように、このこともまたとても危険なことです。そのように、宗教的な精神はこれら全てに気づいていて...の生を生きます。
 ...この空間の中の、この素晴らしい空間の中の。このことで私が思い出すのはあなたが以前に言ったことです、エネルギーは、それがパターン化されると―私はあなたがパターン化されたエネルギーの性質をどのように描写していたのか忘れましたが、私が思うに、それは我々が“もの”と称すること...
 “もの”、はい。
 ...そうです。このことがあなたの言っていた行為を指摘している点で、それはパターン化されたエネルギーの性格に異なる光を当てて、我々の目をそのようなパターンから引きはがし、我々に思い起こさせます、我々の指摘する本質的な要素はそのようなパターンではなく,そのエネルギーであると。
 エネルギー、はい。宜しいでしょうか、それが愛です、違いますか?
 その通りです。
 そして愛であるエネルギーの宗教的な集積をこのように実感するとき、それが慈悲心であり気遣いです。それが日常生活の中で働きます。
 愛の中ではそのようなパターンは決して変化に抵抗しません。
 そうすると、宜しいでしょうか、そのような愛であなたは好きなことを行えます、それでもそれは依然として愛です。しかしそこではその愛が何らかの感覚になります。お分かりですか。
 はい、知識の全領域です。
 従って、そこでは愛が生まれません。
 はい、それは玩具のミニチュア電車が輪になった線路をぐるぐる走っているイメージです。
 宜しいですか、それが意味するのは精神が―私は“精神”という言葉を精神や頭脳、身体などそれら全てを含めて言っています―精神が本当に沈黙しうるのかということです。導き出された沈黙ではありません、作り上げられた沈黙ではありません、思考が沈黙と想像する沈黙ではありません。教会や寺院の沈黙ではありません。それらにはそれら独特の沈黙があります、あなたが寺院や古い大聖堂へ入って行くと、それらの中には途方もない沈黙があって、何千もの人たちが詠唱したり、話していたり、祈っていたりするなどそれら全てのことを行ってきました。しかしそれはそれ以上であり、それはそれではありません。そのように、この沈黙は考案されたものではなく、それゆえにそれは本当の沈黙です。それは私が何らかの実践を通じて生み出した沈黙ではありません。
 はい、それはあなたが前に言ったことではありません、それは二つの音の間の空間ではありません、なぜなら、それは何らかの中断であり、何らかの中断であるのでそれは継続的な何かにすぎません。
 その通りです。
 このことは絶えず問うことに戻るという点で途方もないことです。私にはこう思われます、正にそのように問う態度の中でのみ、その沈黙の可能性から離れて直観しさえする可能性が生まれると、というのは、すでにその答えが何らかの音だからです。
 はい。そこで、宜しいですか―ちょっと待ってください、非常に興味深いことがあります―これは何らかを問うことで生まれますか?
 いいえ、私は何かを問うことでそれが生まれると言っているのではありません。私が言ったのは、何らかの答えに魅了されたり心奪われたりすることから一歩下がることがそれ自身必要な一歩だということです。
 もちろんです。
 そして、そうすること自体がそれ自身恐怖です。
 もちろんです。しかし私は問うています、沈黙は、計り知れない感じは、私が問うことから生まれるのかと。
 いいえ。
 はい。気づくことで誤りを見て取り、その誤りを捨て去ります。問うことは起こりません、それは見て取って、それで終わりです。しかしもし私が問い続けるなら、私は疑い続けます、疑うことにはその役割がありますが、しかしそれには手綱がついていなければなりません。
 それでは、もし宜しければ、ここで私に問わせてください。気づくことは、あなたが言ってきたように、行うことであり、その間には全く何もありません。
 私は危険を見て行動を起こします。
 その通りです。それでは、このように気づくとき、その行動は全く自由であり、そうするとあらゆるエネルギーのパターンが自由に変えられます。
 はい、その通りです。
 もうそれ自身に蓄えることをしない...
 後悔しない。
 それがこれまでに蓄えてきた全て...そして驚くことだけれども、私にはそう思われますが、このことである推論が生じます。そのパターンが自由に変えられるだけではなく、そのエネルギーは自由にそれ自身をパターンにもするということです。
 あるいはパターンにならない。
 あるいはパターンにならない。
 そこではそれはパターンになります。知識の中でそれはパターンになる必要があります。
 もちろんです。
 しかしここではそれはパターンになりえません、何のためにパターンになるのですか? もしそれがパターンになるなら、それは再び思考になっています。従って思考は、もしそれが分断的なら、表面的なものです。誰かが先日私に言っていました、エスキモーの言葉では“思考”は外側を意味すると。非常に興味深いことです。彼らが外へ行こうと言うとき、そこで使われる言葉は“思考”です。そのように思考は内と外を作り出してきました。もし思考が存在しないなら、内も外も存在しません、つまり、それは空間です。それは私が内なる空間を手にしているということではありません。
 はい。我々は宗教との関係で瞑想について話してきています、そして私はあなたに祈りと瞑想との関係について話すようお願いしなければならないと感じています、なぜなら結局は我々がいつも両者に言及するからです。
 祈りを繰り返し唱えることは瞑想の役割ではありません。誰に私は祈っているのですか? 誰に私は懇願しているのですか、請うているのですか、願っているのですか?
 嘆願して祈る人はその中に居場所がありません。しかし我々が話してきたことと調和する祈りという言葉の使い道はありませんか?
 もし嘆願するのではなく、深く、内面的に...
 何もつかみ取ろうとせず、何もつかもうとせず...
 ...なぜなら、つかみ取ろうとするものが正につかみ取られる当のものだからです。
 その通りです。
 もし嘆願しないと何が起こりますか? 私が嘆願するのは、私が理解していないときだけです、私が争っているときだけです、私が悲しんでいるときだけです、私がこう言うときだけです、つまり、“おお、神よ、私は何もかも失いました、私は終わりです、私は辿りつけません、私は成し遂げられません”と。
 嘆願しないとき、私はよく見ることができます。はい、その通りです。
 ある女性が以前私に会いに来ました。彼女は言いました、“私は何年も途轍もなく祈ってきました。私は冷蔵庫が欲しくて祈ってきました。そして私はそれを手に入れました”と。 はい、正にそれです! 私は平和を祈ります、そして私はいつも暴力を振るって生きています。私は私の国を他の国と分断してきて、私は“私の”国のことを祈ります。それはとても子供じみています。
 慣習的に祈りの中には通常嘆願と称賛が同居しています。
 もちろんです、称賛と見返りです。あなたはサンスクリット語の聖歌がそれで始まることを知っているに違いありません、その幾つかの部分は、称賛とそれから懇願です。驚くべき聖歌があり、それは神の御加護を願って言います、“私の足元をお守りください”と。神を称賛してから言います、“どうか私の足元をお守りください”と。そうすると、もし嘆願しないなら、なぜなら嘆願者が正に当の嘆願だからであり、懇願者が正に懇願されているその当のもので、その受け取り手だからですが、そうすると精神の中に何が起こりますか? 何も請い求めません。
 計り知れない静けさ、計り知れない静けさです。“静穏”という言葉が指し示す正にその正しい意味です。
 その通りです。それが本当の平和であり、それは人々みなが―政治家たちや宗教的な人たちが―話している偽りの平和ではありません。何一つ請い求めません。
 聖書の中に非常に美しい文句があります、つまり、“あらゆる理解を得る平和”という言葉です。
 私は子供の時にその言葉を聞きました。
 私は子供のときからいつも自分自身に問い掛けてきました、そのようなことについてとても多くのことを語りうるけれども、その証拠となるや何と少ないことかと。
 宜しいでしょうか、書物が途轍もなく重要になっています。“そのような人たち”が書いてきたことです、“そのような人たち”が言ってきたことです。そうして人間の精神は二番煎じになっています、あるいは他の人たちが真実について経験してきたことについてのとても沢山の知識を獲得してきた精神が、どうしてそのような精神がオリジナルなものを経験できるのですか、オリジナルなものを発見できるのですか、オリジナルなものに出会えるのですか?
 それは不可能です。
 はい。そうすると精神はその内容を空にできますか? もしそれがそのようにできないなら、それはオリジナルな何かを獲得できません、そうするとそれは何事かを拒絶したり、何事かを受け入れたりすることになります。お分かりですか。
 はい。
 なぜ私はそれら全てを経験する必要があると思うのですか? なぜ私はこう言えないのですか、“私は見てみます。私に教えてくれる書物は世界のどこにもありません、私に教えてくれる教師は世界のどこにもいません”と。なぜなら、教師が正に教えられる当のものだからです、教えられるものが正に教師だからです。
 我々が我々の以前の会話の中で見てみるということについて言ったように、もし人がこのことを頭の中に留めておくなら、つまり、“私は世界であり世界は私である”、それは癒しになります。
 その通りです。
 しかしその発言“私は世界であり世界は私である”は、あなたがしばしば言ってきて、とても滑稽に聞こえるので人は再び逃げ出そうとします。
 知っています。
 再びパニックを起こします。
 それは人が非常に非常に真剣にならなければならないことを意味します。それは弄ぶべき何かではありません。
 はい、それは最近言われる“面白いこと”ではありません。
 もちろん違います!
 全く違います。あなたが瞑想に関して議論してきていることはとても全体的なことです。それは他のこととは違います。
 瞑想は気をつけていることや気遣うことを意味します。それはその一部です、つまり、私の子供たちを気遣うことや私の隣人、私の国、地球、樹木、動物などを気遣うことです。動物を殺さない、食用に動物を殺さない、それは全く必要のないことです、つまり、伝統の一部として言われます、あなたは肉を食べなければならないと。それゆえに、宜しいでしょうか、これら全てのことが人の深い内面的な真剣さにかかってきます、そしてそのような真剣さが自ずから気をつけていること、気遣うこと、そして責任や我々が議論してきたあらゆることをもたらします。それは人がこれら全てを経験してきたということではありません、人はそのことを見て取ります、そしてその正に気づきが叡智の働きです、なぜなら叡智が苦しみの消滅だからです。それは無感覚になるのではなく、それは苦しみの消滅です。そして苦しみの消滅はそれを観察することを意味します、苦しみを見て取ることを意味します。それを乗り越えることではありません、それを拒絶することではありません、それを合理化することではありません、あるいは、それから逃げ去ることではなく、それをただ見て取ることです。それを花開かせるのです。そしてあなたが取捨選択することなくその開花に気づいていると、それは自然に枯れ果てていきます。私は何もする必要がないのです。
 エネルギーが自由に自分自身をパターンにしたりパターンにしなかったりできるのはとても素晴らしいことです。
 はい、そうです。それは人間の真剣な活動の全てをカバーします、その思考であり、その不安であり、あらゆることです。
 そうすると、我々の会話で、我々はこの究極の地点に至りました。私はシェイクスピアがこう言ったとき何かこのことを仄めかしたのかどうか分かりません、つまり、“機は全て熟している”と。
 宜しいでしょうか、時間が消滅します、時間が止みます。沈黙の中で時間が止みます。
 沈黙の中で、時間が止む。途轍もなく素晴らしい。私は心の底からお礼を言わなければなりません。私にお礼を言わせてください、なぜなら、我々の議論を通じて私は何らかの変質を遂げてきていたからです。
 なぜなら、あなたは進んでよく耳を傾けているからです、心から耳を傾けているからです。ほとんどの人々はそうしません、人々は聴こうとしません。あなたはそのために時間を割き、そのための苦労を引き受け、気遣いながら耳を傾けました。
 私はすでに見ています、私の授業に関連して、私と学生が共有することの中に、何かが花開き始めていることを。私はとても感謝しています。
                                 1974年2月28日
                                  中野 多一郎 訳