全く異なる生き方

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4 責任を負う人間とは?

アラン W アンダーソン(A) 我々の前の会話の終わりに、私は自分の行動に責任をもたなければならないという考え方と私が責任を負う人間であるということとの間にある区別の問題が起こりました。私は恐らく我々は今そこから始めることができると思います。
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、何かに責任をもつということと責任を負うということとの間には非常に明確な区別があります。何かに責任をもつというのは方向を意味します、何らかの方向性を示す意志を意味します。しかし責任を負うという感情はあらゆることについて責任を負うことを意味します、ある特定の方向だけの責任ではありません。教育に責任をもつ、政治に責任をもつ、私の生き方に責任をもつ、私の振る舞いに責任をもつなどです。それは完全に責任を負うという余すことのない感情であり、それが行動の生まれる土台です。
 私はこのことは我々を我々が話していたこの危機のことに引き戻すと思います。もし危機が継続していると、このように誤解して言うことになります、私は自分の行動に責任があると、なぜなら私はそのような状況をそこに再びもたらしたからと、そしてそれが行動を必要とする身近なことと私の行動の考え方の概念を私が混乱させる機会になります。私私の行動なのです。
 はい、そこです。
 私がそれです。
 それが意味するのは、責任を負うという感情はそれ自身を政治的に、宗教的に、教育的に、ビジネスの世界でも、生のあらゆるところで表現します、それは人の振る舞いに余すことなく責任を負うということです。ある特定の方向の責任ではないのです。私は人が私は私の行動に責任があると言うときには大きな違いがあると思います。それはあなたがあなたの行動にあなたがあらかじめ抱いていた観念に従って責任をとるということを意味します。
 その通りです。人々は時々言います、子供は自由であると、なぜなら子供には責任がないからと。しかし私は時々考えます、我々がこのように言うとき、我々は我々の自由が拘束を受けない自由であったかのような過去に対する郷愁を抱いていると、しかし一方、もし人が正しく、絶対的に人の行動であるなら...
 どのような拘束もありません。
 ...どのような拘束も全くありません。
 宜しいですか、もし人がこのような責任を負う感情を抱くなら、あなたの子供たちに対するあなたの責任とはどういうものですか? それは教育を意味します。あなたは子供たちを社会が確立したパターンに順応する精神を子供たちがもつように子供たちを教育しようとしますか? それはあなたが現にある社会の非道徳を受け入れることを意味します。もしあなたが余すことなく責任を負うと感じるなら、あなたは子供が生まれた瞬間から子供が死ぬ瞬間まで責任を負います。それは正しい種類の教育であり、子供を何かに順応させる、成功を崇める、そして戦争をもたらす国家間の分断を作り出す教育ではありません。お分かりですか、あなたはそれら全てに責任があります、ある特定の方向の責任ではありません。たとえもしあなたがある特定の方向の責任を負って、“私は私の行動に責任がある”と言えるなら、あなたの行動は何に基づいていますか? どのようにあなたは、あなたが、あなたの行動が、あなたに引き継がれてきた何らかの方式の結果であるとき、責任を負うのですか? 
 はい、あなたの言うことは分かります。
 例えば、共産主義者たちは言います、国家に責任をもてと。国家を崇拝しなさい、国家は神であると、そしてあなたには国家に責任があると。それは彼らが国家はどうあるべきかをあらかじめ考えていて、それを観念的に形作ってから、それに従ってあなたが行動することを意味します。それは責任ある行動ではありません、それは無責任な行動です。一方、行動は今行うことを意味します。行うという動詞の能動的現在形であり、それは今行うことです。今行動するということは過去から自由でなければなりません。そうでなければ、あなたはただ何かを繰り返しているだけです、伝統的に何かを続けているだけです。それは無責任です。
 私は私があなたの指摘している法則に呼応すると思う易経の中のある部分を思い起こします。もし私が標準的な訳の一つから正しく引用しているなら、それはこういうものです、“上級者は―それは自由な人を意味していて、序列的な上級者を意味しません―彼の思考を状況から逸脱させません”。それが意味するのは、彼が単純に現にある通りに存在していて、彼が彼にどのように責任を取るのか、彼が何をなすべきかを告げようとする外の何かに応じないで、彼が存在するや否や、彼はいつも...
 責任を負う。
 はい、彼は全く彼の思考を彼の状況から逸脱させません。それはあの“否定”という言葉に戻ります。なぜなら、もし彼が彼の思考を彼の状況から逸脱させないなら、彼は彼らのそのように行う責任を否定したからです、違いますか?
 なるほど。
 はい、私はそれが分かります。私がそれら他からの引用に言及している理由は、もしあなたの言っていることが真実なら、そしてもしそれらの引用が真実なら、共通な何かがここにあるはずです、そして私はあなたの強調することが行動する上で実践的であると、優れて実践的であると悟ります。しかしもし人がとても沢山の言明を内に含む偉大な諸々の文献―それらが理解されないと異議を唱えるそれらの文献―と会話を交わし、通じ合えるなら、それは大きな価値があると私には思えます。私はそれには得るものが多いと見ています。
 仮に世界に書物が全くないとしたら。
 問題は同じです。
 問題は同じです。
 もちろんです、もちろんです。
 リーダーはいません、教師はいません、誰もあなたに、こうしなさい、ああしなさい、これをするな、それをするなと言いません。あなたはそこに存在します。あなたは余すことなく、完全に責任を負います。
 はい。
 そうするとあなたは驚くほど活動的で、明晰な頭脳を持つ必要があります、まごつかない、困惑しない、うろたえない頭脳です。あなたは明晰な頭脳を持たなければなりません。そしてあなたは、もしあなたが過去に根ざしているなら、明晰に考えることはできせん。あなたは単に現在から未来へ継続しているにすぎません、恐らく何らかの修正をしながら継続しているにすぎません、それが全てです。そこでそのことから問うことになります、人間関係の中の責任とは何かと。
 はい、そうすると我々は関係性の問題に戻ります。
 はい、なぜなら関係性が生の基礎的な土台だからです、つまり、関係していること、触れていることです。
 我々は現在関係しています。これが現実です。
 人間関係とは何ですか? もし私が余すことなく責任を負うなら、そのような責任は私の子供たちとの関係の中で、私の家族との関係の中で、私の隣人との関係の中で自らをどのように表現するのですか、私の隣人が隣に住んでいようと、一万マイル離れていようと、その人は依然として私の隣人です。そうすると私の責任とは何ですか? 自分が自分の光であり、自分が余すことなく責任を負うというこの感情の中に完全にいると感じる人の責任とは何ですか? 私はこれが、宜しいでしょうか、探求されなければならない問い掛けであると思います。
 宜しいですか、私は責任を負う人だけが、あなたがその言葉を定義したように、我々が明晰な判断と呼ぶものを下しうると思います。
 宜しいでしょうか、私はこのことを問いたいと思います。判断というものが本当に生じるのでしょうか? 判断は取捨選択を意味します。取捨選択はこれやあれとの間で混乱している精神を意味します。しかし明晰に見て取る精神は取捨選択をしません。それは判断をしません、それは行動します。
 このことは我々を再び否定というこの言葉に引き戻しますか?
 はい、もちろんです。
 恐らく明晰な判断は否定するところで起こることから、そしてそこから異なる行動が生まれるということから解釈されえます。
 しかし私は“判断”という言葉を使いたくありません、なぜなら、それはこれやあれとの間の判断を意味するからです。
 あなたはそれが争いを意味するのでその言葉を使いたくないと。
 はい、我々は我々が取捨選択できるので我々は自由であると考えます。取捨選択できる精神は自由ですか? それとも自由ではない精神こそが取捨選択するのですか? なぜなら取捨選択はこれかあれを意味するからです。それは明らかです。それは精神が明晰に見ていなくて、従って取捨選択をすることを意味します。取捨選択は混乱しているときに存在します。明晰に見て取る精神にとっては取捨選択は生じません、それはすでに行っています。私はここが我々のむしろ多くの困難に陥るところだと思います、つまり我々は我々が自由に取捨選択すると言い、その取捨選択が自由を意味すると言います。私は反対のことを言います、つまり取捨選択するのは混乱していて、従って自由ではない精神を意味すると。
 今私が思うのは、自由を行動の状態としてよりもむしろ行動の特性あるいは質と考える違いです。我々は自由が何らかの状態のことであるという考え方をもっています、そしてそれはあなたが指摘している意味とは全く異なります。
 このことに戻りましょう、宜しいでしょうか。関係性の中の人間の責任とは何ですか? なぜなら、関係性は生であり、関係性は存在の土台だからです。関係性は絶対に必要です、それがなければあなたは存在できません。関係性は協力することを意味します。その言葉の中にあらゆることが含まれています。関係性は愛、寛容を意味します、それら全てがその中に意味されています。それでは、関係性の中の人間の責任とは何ですか?
 もし我々が紛れもなく完全に分かち合っているなら、責任は十分に浮上しています。
 はい、しかしどのようにしてそれは関係性の中にそれ自身を現すのですか? 今のあなたと私との間だけではなく、男と女との間、私の隣人との間、あらゆるものとの間でも、自然との関係の中でも。自然と私との関係性とは何ですか? 私はアザラシの赤ん坊を殺しに行くのですか? 
 いいえ。
 私は我々が敵と呼ぶ人々を破壊しに行くのですか? 私は自然を破壊しますか、人が今行っている全てのことを言っているのです。人は地球を、大気を、海を、あらゆるものを破壊しています、なぜなら、人は全く責任を感じないからです。
 人はそこにあるものを人が手を下すべき何かと見ます。
 そこで私は問うのです、この責任性は私の生の中でどのようにそれ自身を現すのかと。仮に私が結婚しているなら、私の責任とは何ですか? 私は私の妻と関係していますか?
 法的な婚姻関係は大したことではないように思われます。
 法的な婚姻関係だけではなく、実際の関係です。私は私の妻と関係していますか? それとも私は私の妻と私が彼女について抱くイメージに従って関係しているのですか? そして私はそのイメージに責任を持ちます、お分かりでしょうか。
 はい、なぜなら私の思い描いたものはそのイメージという点で継続しているからです。
 そのように、もし私が彼女について何らかのイメージを抱いているなら、私は私の妻と何の関係性も持ち合わせていません。あるいは、もし私が私は成功したいと思うなどそれらの他の全ての類を思って自分自身について何らかのイメージを抱くなら。
 我々は今について、今ということについて話していたので、私にはこのような繋がりがあると思うのです、つまり、あなたの話していることとあなたが我々の以前の会話の中の一つで使った現在を裏切るという言い方との間に繋がりがあると。
 その通りです。宜しいですか、それが要点です。もし私があなたと関係しているなら、私はあなたについて何のイメージも持っていません、あるいは、あなたは私について何のイメージも持っていません、そうすると我々には何らかの関係性が生まれます。我々には、もし私が自分自身について或いはあなたについて何らかのイメージを抱いているなら、何の関係性も生まれません。我々のイメージには何らかの関係性がありますが、実際には我々は何の関係性も持っていません。私は私の妻と寝るかもしれませんが、それは関係性ではありません。それは物理的な接触であり、感覚的な興奮であって、それ以外の何ものでもありません。私の責任は何らかのイメージを持つことではありません。
 私はこのことから離れるべきではありません、なぜなら、このことは本当に極めて重要なことだからです。と言うのは、あなたがどこへ行こうと、人間同士の間に何の関係性もないからです、そしてそれは悲劇であり、そしてそこから我々の全ての問題が生じます、暴力などあらゆることが生じます。そのようにこの責任が生まれると、この責任感が生じると、それは関係性の中で自らを表現します。誰との関係性とかは問題ではありません。イメージである既知からの自由が生まれます。そしてそのような自由の中に善いことが花開きます。
 善いことが花開く。
 そしてそれが美です。美は抽象的なものではなくて、善いものと共に歩みます。振る舞いの中の善きもの、行いの中の善きもの、行動の中の善きものです。
 我々が話してきていると、時々私は“もし”という仮定的な言い方で話し始めていました、そして私があなたの目をうかがうと、すぐに私は私が間違ったことを言ったのを知りました。我々はいつも“もしそれが...”という仮定的な言い方をしています。
 “もしそれが...”! それは分かります。我々はいつも現実に存在するものよりも抽象的なものを扱っています。
 我々が“もし”と言うとすぐに、我々が絶えず話す構文がそこに出来上がります。
 その通りです。
 そして我々は益々それについて巧妙になりますが、それは何ものとも何の関係もありません。
 そうすると、この責任はそれ自身を人間の振る舞いの中でどのように現すのですか? お分かりでしょうか?
 暴力の消滅があるでしょう。
 その通りです。
 それは次第に少なくならないでしょう。
 宜しいでしょうか、我々は何をしてきたでしょうか? 我々は暴力的な人間です、性的にも、倫理的にも、あらゆる点で我々は暴力的な人間です、そしてそれを解決できないので、我々は暴力的ではなくいるという理想を作り出してきました、そしてそれは事実からの抽象を意味します、暴力という事実がある中での事実ではない抽象を意味します、そして我々はそのありもしない偽りの事実を生きようとします。
 はい、そしてすぐにそれが争いを生み出します、なぜならそれは成しえないことだからです。
 争い、悲惨、混乱などそれらです。なぜ精神はそうするのですか? 精神は暴力という事実にどう対処してよいのか分からないのでそうします。従って、暴力的ではなくいるという理想を抽象的に編み出して、それは行動を引き延ばします。私は暴力的ではないようにしています、そしてその間、私は何と十分に暴力的です。
 はい。
 そしてこれは事実からの逃亡です。あらゆる抽象化が事実からの逃亡です。そのように精神は、それが事実を扱えないから、あるいは、それは事実を扱いたくないから、あるいは、それは怠惰で言うからです、私はそれを他の日に試みて見ますと。これら全てがそれの事実から引き下がるときに意味されています。宜しいですか、同じように事実は我々の関係性が存在しないことです。私は私の妻に言うかもしれません、私はあなたを愛しています等々を、しかしそのようなことはありません、なぜなら私は彼女について何らかのイメージを抱いていて、彼女も私について何らかのイメージを抱いているからです。そのように我々は抽象を糧にして生きてきました。
 私に思い当たるのは、“事実”という言葉それ自体、それについて限りなく論じられてきました...
 はい、そうです、もちろんです。事実、“現にあるもの”、それをそのように呼びましょう、“現にあるもの”と。宜しいでしょうか、このことは途轍もなく多くのことを露わにします。あなたが責任を感じるとき、あなたの子供たちの教育に責任を感じるとき、あなたの子供たちだけではありません、全ての子供たちの教育にです。あなたは子供たちを社会に順応するように教育しているのですか、あなたは子供たちを単に仕事に就くように教育しているのですか? あなたは子供たちをこれまであったことを継続するように教育しているのですか? あなたは子供たちを抽象的なものの中に生きるように教育しているのですか、我々が今行っているように。そうすると、あなたの責任とは、父親として、母親として、それはあなたがどういう人であろうと問題ではありません、人間の教育に対するあなたの責任とは何ですか? それが一つの問題です。あなたの責任とは何ですか、もしあなたが責任を感じるなら、人間の成長に対する、人間の文化、人間の善きことに対するあなたの責任とは何ですか? あなたの地球に対する責任とは何ですか? 責任を感じるとは途轍もないことです。そしてまた、宜しいですか、責任と共に愛や気遣いや気をつけていることが歩を共にします。
 はい、先ほど私は責任に関連する気遣いについてあなたに尋ねようとしていました。それと関連してすぐに生じることです。
 自然に生じます。宜しいですか、それも沢山のことを含みます、なぜなら、母親は子供に依存し、そして子供は母親にあるいは父親にあるいはその人がだれであろうと誰かに依存します。そのように、そのような依存性が育まれます、父親や母親との間だけではなく、教師に依存することや、何をすべきかをあなたに告げる誰かに依存することや、あなたのグルに依存することが起こります。
 はい、分かります。
 次第に、その子供は、その人は独存することができなくなります、従って、人は言います、私は私の慰安のために、私のセックスのために、これやあれのために私の妻に依存します、そしてその他のことについては、私は彼女なしには途方にくれますと。そして私は私のグルなしでは、私の教師なしでは途方にくれます。それはとても馬鹿げたことになります。責任感が存在するとき、これら全ては消え去ります。あなたはあなたの振る舞いに責任を負います、あなたの子供たちをどう育てるかに責任を負います、あなたは犬や、隣人や、自然と接する仕方に責任を負います、あらゆるものがあなたの手の内にあります。従って、あなたはあなたが行うことに驚くほど気を配っている必要があります。気を配っているというのは、“私はこれをしてはならない、私はそれをしなければならない”ということではありません。気遣うということは愛情を意味します、それは思いやりや気を抜かずに気をつけていることを意味します。それら全てが責任と歩を一にします、そしてそれは現代の社会が全く否定するものです。それが西洋に輸入される様々なグルたちが行っていることです、彼らがしていることは、不幸な思慮を欠く人々に、何らかの興奮を願って彼らに加わる人々に、あらゆる種類の馬鹿げたナンセンスなことを行わせて、そのような害悪をもたらすことです。
 そこで、我々は戻ります、自由は責任を意味します、従って、自由や責任は気遣うこと、気を抜かずに気をつけていることを意味していて、怠慢を意味するのではないのです。あなたのしたいことをするのではないのです、しかしそれが今アメリカで起こっていることです。あなたのしたいことをする、それは自由ではなく、無責任を育む寛大さです。私は先日チベットでチベット仏教徒になっていた女性と会いました。お分かりでしょうか。アメリカに生まれ、キリスト教徒であり、そのような中で育ちました。それら全てを投げやってチベット仏教徒になります、それは言葉は違うけれど同じことです。それはとても馬鹿げたことです。そして私は彼女のことを何年間か知っていました、私は言いました、“あなたの子供はどこにいますか”と。彼女は言いました、“私は彼を他の解放された自由なチベット人たちに預けました”と。私は言いました、“六歳の子を! あなたはその子の母親ですよ”と。彼女は言いました、“はい、彼はとてもよい人たちの世話になっています”と。私は次の年に戻って来て尋ねました、“あなたの子供はどこにいますか”、“おお、彼はチベット仏教徒になっています”。彼は五歳でした。彼は五歳でチベット仏教徒になっていました。お分かりでしょうか。その無責任さを。その母親は感じます、“彼らは私よりも良く知っています、私はチベット仏教徒であり、ラーマたちが彼を...になるために私を助けるでしょう”と。
 それは聖書の言葉にむしろ邪悪な影を投げかけます、つまり、子供を手元から離して、子供が物心がついたとき子供がそれから離れないように鍛えなさいと。邪悪な言い方がそこにあります、違いますか?
 その通りです。そのように、このことはいつでも世界中で起こっています。そして本当に真剣な人はそれを否定します、なぜなら、その人はそれらの意味することを理解するからです。そのように、その人はそれを否定するはずです。それは意志や取捨選択の問題ではありません、その人は言います、“それはとても愚かなことであり、それはとても馬鹿げている”と。そのように自由は責任と計り知れなく気遣うことを意味します。
 あなたが今使った、“計り知れなく気遣う”という言葉は、我々が意味する限りある存在にとっては全く不可能なことになるでしょう、もしその限りある存在が現在を裏切らないのでなければ。
 宜しいでしょうか、その“現在”という言葉、その“今”はかなり難しいことです。“今”とは何ですか? 今の、現在の行為とは何ですか? 現在を理解するためには、私は過去を理解しなければなりません―歴史ではありません、私はそれを意味しているのではありません―過去としての自分自身を理解することです。私が過去です。
 我々が先に知識について話した立場から言うと。
 はい、私はそれです。従って私は過去を理解しなければなりません、それは“私”です。“私”はすでに知られている何かであり、“私”は知られていない何かではありません。私はそれを知られていない何かであると想像できますが、事実は、“現実”はすでに知られている何かです。それが“私”です。私は自分自身を理解しなければなりません。もし私がそうしないなら、その今は単に過去の修正された形の継続にしかすぎません。従ってそれは今ではなく、現在ではありません。従って“私”は伝統、知識です、あらゆる複雑な策略を伴う、狡賢い、それら全てを伴う、伝統、知識です、それらの絶望、不安、成功願望、恐れ、快楽、それら全てが“私”です。
 我々はまだここで関係性について議論しているので、我々はしばらくの間教育と関係性に戻ってもよいですか? 私は私があなたをこの点で理解したことを確かめたいのです。人はあなたの指摘していることが行われている学校を手にしたことを幸せであったと言いましょう。
 我々はそれを行っています、我々には七つの学校があります。
 もし教師が子どもに対して全く現在的に存在しているなら、子供はこのことを感じるように思えます。子供はこのような意味で教えられる必要はないでしょう。それは正しいですか?
 はい、しかし人は教師と学生との関係がどういうものなのかを明らかにする必要があります。教師は単に教える側ですか、情報を子どもに与えるだけですか? どのような機械もそうします。教師の関係性とは何ですか? 教師は教壇の上にいて、学生は下にいるということですか? それとも教師と学生との関係性は教師の側も学生と同じように学んでいる関係ですか? “私は学んできたので、私があなたに教えよう”ではないのです。そうすると教師と学生との間に分断が生じます。しかし学生の側と同様に教師の側も学んでいるときには分断が生じません。双方とも学んでいます。
 はい。
 従って、そのような関係が交わりを生み出します。
 共有することを。
 共有することを、一緒に歩むことです。従って、双方が計り知れなく気遣います、それが意味するのは、どのようにして教師は学生に数学やそれが何であれ何かを教えるのか、そしてそれを教えるのにどのようにしてあなたは子どもの中のそれでも叡智を目覚めさすように教えるのかということです、単に数学について教えるのではないのです。そしてあなたはこの教えるという行為を、その中に秩序が存在するこの教えるという行為をどのようにしてもたらすのか―なぜなら数学は秩序を意味するからです、秩序のこの上ない形は数学だからです―どのようにしてあなたは学生に数学を教えているとき学生の生の中に秩序があるはずであることを伝えるのですか? それは何らかの青写真に従った秩序ではありません。それは秩序ではありません。
 はい。
 これがいつも学んでいる行為である教えることです。それは生きているものであり、私が学んできた何かを私があなたに分け与えようということではありません。
 このことは私が何年も前に読んだシモーヌ・ヴェイユのエッセイを思い起こさせます、その中で彼女は言いました、あるテーマについて教える人は誰でも学生に学生が学んでいることと純粋に気をつけている学生との間の関係を学生に教える責任があると。
 もちろんです。
 そしてもしこのことがなければ全てのことに意味はないと。
 それでは、宜しいでしょうか、教育における教師と学生の関係はどういうものでしょうか? 教師は学生を単に何かに順応させるために学生を訓練しているのですか、教師は学生が記憶力を養うために学生を鍛えているのですか、機械のように。教師は学生が生について学ぶように―単にセックスについてだけではなく―生について、生きる上での全くの際限のなさと複雑さについて学ぶように学生を訓練しているのですか、あるいは助けているのですか? 我々はこのようにしていません。
 はい、我々は学生をテーマに引き合わせます。学生はこれを取ったり、それを取ったり、他のものを取ったりします、そしてそれら他のものを取るためには必要条件があります、そしてこのことが教育的な考え方を築き上げます、しかしそれはあなたが生について今言ったことと絶対に何の関係もありません。
 全くありません。
 そして全国の単科大学や総合大学の入学案内の中にさえその最初か何かのページに学校へ行くことと文明の価値との間の関係についてやや宗教的な言及があります、そしてそれによってその種の一連の考え方を学ぶことになります。それらはかつて人格についても言及していました。恐らくそれはもうないでしょう。
 そうすると、宜しいでしょうか、あなたが責任を負うとき本当の愛情が花開きます、子供を気遣う思いやりが花開きます、そしてあなたは子供をあなたの国のために他の人を殺しに行くように訓練しません、条件づけしません。お分かりですか? それら全てが責任の中に含まれています。そうすると、我々はこのことに至ります、つまり、人間が今はとても条件づけられていて責任を負わないようになっているので、真剣な人々は無責任な人たちとどう相対するのかということです。お分かりですか? 教育、政治、宗教、あらゆるものが人間を無責任にしています。私は大袈裟に言っているのではありません、そういうことなのです。
 はい、あなたは大袈裟に言っているのではありません。
 宜しいですか、私は人間としてこのことを見て取ります。私はどうしたらよいのかと言います。お分かりでしょうか? そのような無責任を目の当たりにして私の責任とは何ですか?
 我々が英語で言うように、もしそれがどこかでスタートすべきなら、それは自分の家から始めなければならない。それは私から始める必要があるでしょう。
 それが要点です。“私”から始めるのです。
 はい。
 そうすると、このようなことが起こります、あなたはその無責任について何もできません。しかし奇妙なことが起こります。つまり、無責任な意識は責任を負う意識とは別ものです。宜しいですか、人間が余すことなく責任を負うとき、そのような責任は無責任な精神の中へ無意識に入っていきます。私はこのことを私が明瞭に言っているかどうか分かりません。
 はい、続けてください。
 仮に私が無責任だとしましょう、そしてあなたは責任を負っています。あなたは私に何も意識的にできません、そしてあなたが私に更に働きかけると、私は更に抵抗します。私はあなたに暴力的に応じます。私はあなたに対して壁を築きます、わたしはあなたを傷つけます。私はあらゆる種類のことを行います。そのように、宜しいですか、あなたは何も意識的にできません、そのように言いましょう。
 想定通りにはいきません。
 想定して、プランを練って、それが人々のみな行おうとすることです。しかしもしあなたが私に話すことができるなら、私の無意識に語りかけることができるなら、なぜなら無意識はより一層活動的であり、より一層気を抜かずに気をつけているので、より一層、それは意識よりもより素早く危険を見て取るからです。そのように、それはより一層鋭敏です。そのように、もしあなたが私に話すことができるなら、無意識に語りかけることができるなら、それは働きます、そうすると、あなたはその無責任さをいたずらに前もって想定していたかの如く攻撃しません。人々はそれを行ってきて、そして人々はこのことを混乱させてきました。
 はい、そうです、それはただ事を一層ひどくし、複雑にします。
 一方、もしあなたが私に語りかけて、そしてあなたの思いの全てがいかに私が無責任であるのかを示すことにあるなら、責任を負うことの何かを示すことにあるなら、あなたは私を気遣います。
 はい。
 あなたは私を気遣います、なぜなら私が無責任だからです。お分かりですか?
 その通りです。
 あなたは私を気遣います、従ってあなたは私を傷つけないように見守っています、お分かりですか? そのようにして、あなたは私の無意識の中へ非常に非常に深く浸透します。そしてそれは、私が突然、“おお、私は何て無責任なんだ”と言うとき、知らず知らず働きます。それは働きます。私はこのことを見てきました、宜しいでしょうか、それが働くのを見てきました、というのは、私は五十年間トークをしてきたからです、幸か不幸か、新しいことには何にでも途轍もなく抵抗する多くの聴衆とトークをしてきたからです。もし私が、聖なる書物を読まないでくださいと言うなら、それは私がいつも言うことですが、なぜならあなたはただ何かに順応しているだけだからです、何かに従っているだけだからです、あなたは生きていません、あなたはあなたが読んだ本に従って生きているだけだからです、もし私がそう言うと、すぐに抵抗が起こります、“そう言うあなたは何様か”と。
 何かをしないように言う。
 これをしないように、あれをしないように。そこで私は言います、分かりましたと。私は私が彼らを変えようとしているのではないことを指摘し続けます。私は何らかのプロパガンダをしているのではありません、なぜなら私はプロパガンダというものを信じないからです。そこで私は言います、宜しいですか、あなたが無責任なときにあなたの行うことを見てくださいと。あなたはあなたの子供たちを破壊しています、あなたは子供たちを戦場へ送って、殺し殺され、子供たちを不具にしています。それが愛ですか、それが愛情ですか、それが気遣うことですか? なぜあなたはそうするのですか? そして私はそのことに踏み込んでいきます。人々はうろたえます、そして人々はどうしてよいのか分かりません。そのようにして、それはゆっくりとしみ込んでいきます。
 最初それはとても衝撃的です。それは何人かの人々にとっては良い意味で天地が引っくり返るように聞こえます。
 おお、正にその通りです。そうすると我々は何か新しいことに至ります、それは、私の他の人との関係の中で、自由と気遣いが歩を一にする余すことのない責任が生まれるとき、精神が関係性の中に何のイメージも持ち込まないことです。なぜならイメージは分断だからです。気遣うときイメージは生じません。
 このことは我々を恐らく我々が後で追究できるものに導きます、つまり、愛です。
 ああ、それは途轍もないことです。
 はい、私はこのことが自然に生じると思います。私はあなたの言ってきたことに耳を傾けてきて、私にある考えが起こりました、もし人が責任を負い、そして気遣うことがそれと共にあるなら、人は恐れないだろうということです。恐れない“だろう”ではなく、恐れる“はずがない”です。
 宜しいですか、それが意味するのは、人が恐れと共に快楽の追求も理解しなければならないことです。それら二つは手に手を取り合っていて、それらは二つの分離したものではありません。
 私がこの我々の会話で学んだことは、我々が気にかけて理解すべきことはいわゆる価値などではないことです。
 おお、はいそうです。
 それは愛を理解するという問題ではなく、それは我々が囚われていて愛の可能性を全く損なうそれら全てのものを理解するという問題です。このことは耳が痛くて言われたくないことなのでその可能性がただないだけです。このことは計り知れない恐怖をもたらします。あなたは次回我々が会話を交わすとき我々は恐れについて議論できると思いますか?
 はい、良いでしょう。
                            1974年2月19日
                             中野 多一郎 訳