uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

五月鳥居

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ 今宵、私は―もし宜しければ―時間、悲しみそして死について話したいと思います。それは一時間でカバーするには広すぎる領域です。そして、いつでも、コミュニケーションが難しい問題になります。お互いにコミュニケイトするためには、何らかの強度で、二つの精神が同じレベルで、同時に、そして、同じ強度で出会う必要があります、そうではないと、コミュニケーションは不可能です。我々は、知的に、あるいは、言葉の上で、同意したり不同意であったりするかもしれませんが、しかし、それは通じ合う何かではありません。通じ合う何かとは、途方もなく強烈な関係性のことです。そして、そのような強度が、二つの精神の間に、同時に、そして、同じレベルで存在するのでなければなりません、そうではないと、通じ合うことが、単なる言葉の上のことに、あるいは、解釈的な何かに、あるいは、表面的な何かになります。
 死、悲しみそして時間について話すためには、忍耐を限りなく要します。そのような忍耐は、あなたが何らかのテクニックを獲得するために、あるいは、何らかの習慣を形成するために培う何かではありません。何事でも深く検討するためには、とりわけ、心理的にそうするためには、あなたは何らかの精神の質を必要とします、それは、一歩一歩、進めて行こうとするそれであり、いかなるときでも、いかなる結論にも収まらないそれであり、いかなるときでも、何かを考え出したり、あるいは、何かの形にしないそれであって、ただ、観察から観察へと、明瞭な理解から明瞭な理解へと進んで行くそれです。私は“忍耐”という言葉をそのような意味で使っています。それには、途方もない精神の状態を要します―同意したり不同意であったりする表面的な精神ではありません、あるいは、聴いているとき、それをそれまで読んできた書物や聴いてきた何かと比較する精神ではありません、それは通じ合う状態にある精神ではありません。
 我々は、今宵、何かを話す必要があります、それは驚くほど気を付けることを要します―精神集中ではありません―いかなるものも排除しないで気を付けることです、あの騒音でさえも、そうすると、あのひどい騒音が干渉することを許されません。そうするときにのみ、そのように気を付けている状態で、我々は通じ合えて、途方もなく難しい何かを検討できます。
 しかし、何かを理解するためには、人はそれを直に経験するのでなければなりません、言葉ででなく。実際に何かを経験するためには、あなたと私が一緒であることを要します、そして、同じ眼差しで、同じ耳で、同じ目で、同じ声で理解することを要します、そうではないと、あなたと私は、同じ位置に、同じ次元に、同じ強度でいません。我々はこの“時間”の問題を理解する必要があります。なぜなら、それを理解することなしに、我々は死と称されるその途方もないことを理解することはないでしょう。
 私は“理解する”という言葉で、言語的な、知的な、断片的な理解を意味していません、あるいは、多くの情報を集めてきて、それが収集してきたものから、比較し、判断し、価値評価する情報通の精神を意味していません―そのような精神は理解する状態にはありません、それは理解することができません。繰り返しますと、理解することは精神のもう一つの不思議な現象です。あなたは、あなたが余すことなく耳を傾けるとき、完全に、あなたの全存在で、あなたの精神で、あなたのハートで、あなたの身体で、あなたの目で、あなたの神経組織で、完全に耳を傾けるときにのみ、理解します―そうするときにのみ、あなたは何かを余すことなく理解します。そして、不幸にも、我々は理解することに決して全身で取り組んでいません。我々は決して何ものにも全身で取り組んできていません。
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      “丹田”の“霊妙な働き”とは何でしょうか?
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 あなたはこの時間、悲しみそして死の理解に完全に全身で取り組む必要があります。そして、あなたは―もし恐れの理解、時間の理解が生じないなら―全身で取り組むことができません。死は、生と同じように、非常に不思議な現象であるに違いありません。そして、それを理解するためには、それを検討するためには、あなたのハートでそうするためには―あなたの言葉でではなく―あなたは、鋭敏で、明瞭な精神を必要とします、それは、論理的に、健全に、完全な確かさで―話し手の確かさではなく、あなたの確かさで―考えることのできる精神です。そうでないなら、あなたはこの不思議な領域へ足を踏み入れることができません、そして、もしあなたがそうできないなら、あなたはこれまで生きてきてはいません。そのように、我々は“時間”について話そうと思います。恐らく、あなた方のほとんどは、それについて全く考えてきませんでした、あるいは、もしあなたがそれについて考えてきたなら、あなたは明日あるいは十年後に何が起こるのかを考えてきました。あなたは、それを、恐らく、生の要因としては考えてきませんでした。私の言う“時間”という言葉は心理的な時間を意味しています、時計的な時間ではありません―それは、昨日、今日そして明日、次の一時間、そして、この集まりの後で、あなたが行おうとしている何かの時計的な時間のことではありません。恐らく、あなたはそのように考えてきました、なぜなら、あなたはそうするように仕向けられてきたからです、しかし、あなたは時間の途轍もない意義を自分自身で検討しようとは、明らかにしようとはしてきませんでした。我々は決して“時間”を正に窮地に追い込んできませんでした。我々はそれをいつも避けてきました。我々は、この過去、現在そして未来と称されるものが何なのかを探り当てようとしてきませんでした、それは、この過去、現在そして未来として継続する存在です、あらゆる混乱、不安、罪、痛み、喜び、そして、人間の精神が経験するそれら、昨日、今日そして明日としての時間的な過程のその他の全てです。
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          死者とは何でしょうか?
         死者を弔うとは何でしょうか?
    死霊=生霊の意識に水を遣り、香を焚き、花を生け、鉦を響かせるのは何でしょうか?
         空間の美と愛とは何でしょうか?
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 そして、時間の意義を十分に理解することなしに、あなたは悲しみが何であるのかを理解することはできないでしょう。そして、悲しみが生じるところには、愛は生まれません、そして、愛なしには、あなたは死が何であるのかを決して理解しないでしょう。そのように、あなたは話し手と共に歩む必要があります―言葉でではなく、なぜなら、それは非常に表面的で、全く意味をなさないからです。あなたはあなたの存在の全てで歩む必要があります、いかなる抵抗や同意とも無縁に、完全に、全身で、その理解に取り組む必要があります。
 時間は、ほとんどの我々にとって、過去がそれ自身を現在に投影して、未来を条件づける活動としてのそれです。そして、時間は何かを徐々に成し遂げるプロセスでもあります。我々は時間を何かを引き延ばすために使います、我々は時間をここからそこへの変化の手立てとして使います。そして、時間が全く存在しないことがありうるでしょうか? 時間は、現在を通して未来の何かを思い描く人にのみ存在します―その人が成就する何かです、その人の徳、能力、何らかのテクニックなどを培うことです、それら全ては何らかの成就、何らかの発達そして何らかの収集蓄積のレベルに留まります。そのように、我々は時間を使います、そして、そのような時間の使い方に囚われている精神はこのことを理解できません、つまり、恐らく、時間というものが全く存在しないという何かです。
 考えてみてください、その人の仕事場へ三十年あるいは四十年、科学者として、技術者として、物理学者として、国家官僚として出向いてきている人のことを。どうしてそのような人が、四十年間その職場へ自己を差し出してきた人が、その職場ではない何かを、そのルーティンではない何かを理解できるのでしょうか? その人の頭脳細胞は消耗しています、歪んでいます、ねじ曲がっています、疲弊しています、そして、それらは新鮮ではありません、若くはありません、熱気を失っています、気が抜けています、生き生きしていません。その人の反応は鈍いのです。その人は何らかの野望を抱いていて、その人は野望、欲望、地位、権力に突き動かされてきました、そして、その人は時間を使ってきました。時間はその人を色褪せてきました、時間はその人の精神を衰弱させてきました。そのような精神は―我々の精神のほとんどが同様です―それが時間のこの問題に向き合うとき、その十分な意味を理解することができません。しかし、そのような精神は時間を理解する必要があります、そして、それは、それがその問題に気づくときにのみ、そして、それが四十年の職場のルーティンによって破壊されてきていることに気づくときにのみ、理解することができます。そのような精神がそのことに気づくとき、それは全時間を一分に集約して、それを完全に理解することができます―それは時間を正に窮地に追い込むことです。
 時間は継続する何かです―これまでのこと、これからのこと、そして、現にある通りのことです。それが我々の知る全てです。我々の記憶、我々の経験、我々が聞いて蓄積してきたこと、我々が過去に得た経験、それが過去に更なる力を与えます―それら全てが我々に何らかの存在の継続性をもたらします。記憶、快楽、痛み、侮辱、怒り、残酷性、憎悪の有害な状態、嫉妬、妬み、競争、駆り立てる野望や情け容赦ない欲望―このような存在の継続性を我々は生と称します。我々はこのような全存在を決して一分に集約して、それをやり過ごすことをしません、しかし、我々は、繰り返して、繰り返して、繰り返すのを止めません。そして、我々が生と称するものは時間の網の目の中に閉じ込められていて、いつも、苦痛、不安そして悲しみの充満する明日に相対します。
 そして、時間は苦痛と快楽をもたらす何かです。というのも、思考が継続性をもたらすからです。あなたはあなたに快楽をもたらす何かについて考えます、そして、あなたはそのことを考え続けます―それが性的なものであれ、それがあなたの地位であれ、それがあなたの成し遂げようとしている何かであれ。それについて考えることがそれに継続性をもたらします―あなたが痛みについて考えるときのように、それをどのようの取り除くのかなどです、そのような考えが痛みに継続性をもたらします。どうか、自分自身を観察してください―あなたが生と称する存在にあなたがいかに継続性をもたらすのかを観察してください、それは不安、絶望、苦悶で充満しています、儚い快楽と共に、なぜなら、あなたがそのことを絶えず考えるからです、従って、あなたは時間の中を生きています、心理的な時間の中を生きています。従って、過去が―その全ての記憶と共に、その全ての快楽や痛みの傷と共に、それが手に入れてきた、耳にしてきた全てと共に、伝統と共に―現在を形作ります、そして、現在が未来を形作ります。そのように、我々は時間の奴隷になっています。
 あなたは自分自身で明らかにする必要があります―あなたは何かを告げられるのでありません―時間が果たして存在するのかどうかを。もし実際にあなたに明日がないのなら、あなたの生は全て即座に変質するでしょう、そうすると、あなたはあらゆるガラクタをあなたの精神から放り出すでしょう、あなたが手に入れてきた、学んできた、耳にしてきたあらゆるものです、そして、あなたは全く途轍もなく活発になるでしょう―そうすると、あなたは時間を手にしていません、従って、時間が存在しません。
 時間を手にしていない精神は、そうすると、死を全く異なる目で見ることができます。そうすると、死は遠くにある何かではありません、歳月のもたらす何か、老年、それら全ての苦悶や苦痛の何かではありません、それはそこにはありません、そして、あなたは此処にいます―それは“時間”としての空間です。その“時間”こそ、あなたの正に恐れる、怖がる当のものであり、死ではありません。そして、時間は腐敗をもたらします、それは富みません、それは成熟しません。それを樹木の果実と比較しないでください―そのためには、あなたは時間を必要とします、あなたは日の光を、雨を、闇を、肥料を必要とします、そうして、果実が熟すと、それは落下していきます。しかし、我々は時間を手にしていません。もしあなたが時間に目を向けると、あなたは悲しみに囚われます。そうすると、あなたはこれまでのこと、これからのこと、そして、そうなるに違いないという観点から考えています。そして、悲しみを、その痛みと共に理解するためには―身体的な苦痛、情動的な不安、あなたが失った人の悲しみ、そして、その苦痛―あなたは時間に目を向けてはいけません、あなたは時間を手にしてはいけません。
 私はあなたが悲しみを経験してきているのかどうか知りません。しかし、我々のほとんどは悲しみを避けます、あるいは、悲しみを崇めます、あるいは、それを受け入れます。あなたがヨーロッパあるいはこの国のいずれかの教会へ足を踏み入れると、あなたはいかに悲しみが崇められているのかを目にします! そして、此処で、この国で、あなたは悲しみのための説明を受けます、カルマなどです、あなたは悲しみの中にいることに、決して、あなたの全存在で、余すことなく、反対してきませんでした。あなたは悲しみを受け入れてきました―そして、それが悲しみの悲しい一面です。
 悲しみとは何でしょうか? あなた方のいずれかが本当に何らかの悲しみを知っているのでしょうか? “悲しみ”という言葉には何らかの記憶が潜んでいます―自己憐憫の記憶、これまでにあったことの記憶、あなたの友人に関して、あなたの妻に関して、あるいは、あなたの子供や誰かに関してあなたの行った、あるいは、行わなかったことです。その記憶、その光景、その言葉、そのシンボルが悲しみの感情を形成します、そうすると、我々は言います、“我々はそれを避けなければならない、我々はその理由を明らかにしなければならない”と、そうして、我々は何かを発明しようとします、そうして、我々は何かを克服するための手段として未来に目を向けます。もし時間が全く存在しないなら、明日が存在しないなら、そうすると、あなたは悲しみを受け入れないでしょう、そうすると、あなたは考える時間を全く手にしていません―というのも、思考が悲しみを生み出すからです。私は知りません、あなたが気づいているのかどうかを、悲しみは個人的な何かなのか、それとも、それは“人間”の悲しみなのかを―何かを苦しんできた人間のことです、何かに追いやられてきた人間のことです、いじめられてきた人間のことです、何かをさせられてきた人間のことです、千年あるいは一万年のプロパガンダを通して信じ込まされ受け入れてきた人間のことです。全体としての人間の悲しみがあります、そして、個別の人間の悲しみがあります。私の息子が死にます、彼の姿が脳裏に焼き付いています。私は私の全希望、私の快楽を彼の中に託してきました、それは彼の中で継続する“私”です、そして、彼は死にます。そして、私は私の手にしていたあらゆるものを奪われています、私は、突然、一人であると分かります、突然、孤独であると分かります。
 あなたは孤独が何を意味するのか知っていますか? あなたはこれまで実際に完全な孤立の状態を経験したことがありますか、いかなるものとも何の関係性も持たないそれです、いかなるものともアイデンティティが生じないそれです―あなたの妻とも、あなたの子供たちとも、あなたの国家とも―あなたはあらゆるものから完全に切り離されています。あなたが孤独を感じるとき、あなたの過去には意味がありません、あなたの経験はその意義を喪失しています、あなたの仕事、あなたの家族は意味をなしません、あなたは群衆に囲まれているけれども、あなたはいかなるものとも何の関係性も手にしていません。私は知りません、あなたがそのような孤独の状態にこれまでおかれたことがあるのかどうかを。もしあなたがそうしたこととは無縁なら、あなたは悲しみの消滅を決して知らないでしょう。なぜなら、それがあなたの一部である通り道だからです―その強烈な、完全な孤立、その孤独です。そして、その孤独から、我々は、いつも、意識的にも無意識的にも、逃げます―飲酒で、セックスで、神々で、祈りで、あらゆる形の詐術で。
 そして、この孤独が理解される必要があります。我々の誰もが、その精神の密かなところで、孤独を知っています―経験するという意味ではなく、それを何らかの暗示によって、それを何かの折に垣間見ることによって、言葉の上で知っているという意味で。人はそれを知っているが、それを理解できません、それと共に生きることができません、それに対処できません、人は逃げ去って、それを何らかの方法で満たそうとします。しかし、それは無慈悲にも続いていて、それはそこにあります。そこで、私の息子が死ぬとき、私はそれと相対して、私は私の悲しみをそれから逃れるあらゆる形で解釈します。あなたは幾つもの逃げ道を知っています―私は私の息子に天国で会うことを考えます、私は幾つもの何らかの結論に至ります、輪廻転生などの説明を受けます! 再び、時間が這いよってきます、つまり、私は彼に会うでしょう、私は彼とこうするでしょう、それは私のカルマです、それはこれです、それはあれです。逃げることによって、あなたは時間を認めてきました。そして、あなたが時間を認めるや否や、あなたは悲しみを認めます、従って、悲しみと時間が、衰退、精神の劣化を招きます。
 そのように、悲しみが生じるとき、人は孤独から逃げてはなりません、人はそれを完全に理解するのでなければなりません。あなたは何か不快なことや楽しいことと共に生きるということが何を意味するのか分かるでしょうか? 何かと共に生きるためには多くのエネルギーを要します。樹木と共に、家族と共に、汚穢と共に、汚れと共に、何かと共に生きるためには、あなたは途轍もないエネルギーを必要とします、そうでないと、あなたはそれに慣れてしまいます。恐らく、あなたは夕日に慣れています、穏やかな川の、その上に空がある水の流れに慣れています。あなたが何かに慣れているとき、あなたはもはやそれに気づきません。あなたがそれに慣れるや否や、あなたは生きてはいません。そして、それが我々の行うことです。
 我々は政府に我慢しています、我々の家族に、我々の喧嘩に、我々の悲しみに、汚れに、汚穢に、悲惨に、あらゆるものに我慢しています、なぜなら、我々はそれらに慣れているからです。最初に、何らかのショックがあり、痛みがあり、そうして、徐々に、我々はそれに慣れる―それは時間です―方法や手段を見つけます。私は私の息子の死に慣れます、従って、私は悲しみを受け入れました、従って、そこから自己憐憫が生じます。もし自己憐憫が全く起こらないなら、そうすると、あなたは悲しみを理解しています、あなたはそれと即座に取り組みます、なぜなら、悲しみが消滅しているに違いないからです。
 そして、悲しみの消滅は知恵の始まりです。あなたは知恵を書物から、学校へ通うことから収集することはできません。知恵は悲しみを消滅した人にのみ訪れます。それはあなたが思考と時間のこの問題を理解することが必要であることを意味します。我々は悲しみが好きです! もしあなたがあなたの愛したその人の写真をあなたの部屋の壁から、あるいは、あなたの精神から取り外すなら、あなたは、それは酷いことであると考えるでしょう。あなたはその人を本当は愛していません、あなたはかつて楽しかったその人の記憶を愛しています。あなたはその人について考えていません、その人とのあらゆる場面を、その人との喧嘩のことを、あなたがその人に抱いた不安のことを、あなたがその人と競い合ったことを。それら全てです、あなたはそれらを手にしていません。あなたはあなたの好きな一つの写真だけを手元に置くでしょう、そして、あなたはそれを手放したくありません。なぜなら、もしあなたがそれを手放すと、あなたは一人になり、孤独で、茫然自失します、そうすると、悲しみが再びやってきます。
             ......
          死者とは何でしょうか?
         死者を弔うとは何でしょうか?
          空間とは何でしょうか?
死霊=生霊の意識に水を遣り、香を焚き、花を生け、鉦を響かせるのは何でしょうか?
             ......
 しかし、悲しみを拒絶する人、それを受け入れない人、いかなる哲学にも、いかなる教会にも、いかなる信念にも与しない人―そのような人のみが正にこの悲しみと称される途方もないものを見ることができます。そして、悲しみを消滅させるためには、人はこの記憶の全問題を検討するのでなければなりません、そして、記憶の必要とされる場面と記憶が障害となる場面を理解するのでなければなりません。もし人がそこまで歩を進めているなら、言葉でではなく、実際にそうしているなら、そうすると、人は死と向き合うことができます。
 老年と加齢の苦悩があります―身体機能の老化です。しかし、我々は会社で四十年過ごしてきました、身を粉にしてきました、そして、我々の精神はその機敏さ、新鮮さを失っています。若いときでさえ、我々はそれを失っています。どうか、自分自身を観察してください。話し手の言うことに耳を貸さないでください、話し手の言っていることには非常に僅かの価値しかありません、もしあなたが実際にあなた自身を観察していないなら。そのように、あなたはあなた自身の思考のプロセスを観察する必要があります、それを拒絶するのではなく、それを非難するのではなく、その流れを見守ってください、あなた自身の思考の実際のプロセスを見守ってください。
 我々は死の問題を決して検討してきていません。我々はいつも何らかの信念を、慰めを、何らかの観念や形式を見つけてきました、それらが我々を死から守るものとしてそうしてきました。しかし、死は誰にでもその場に存在します―この上なく偉大な哲学者たちから通りの哀れな婦人にまで存在します。ほとんどの人々にとって、死は生から切り離された何かです、なぜなら、人々は生を理解してこなかったからです。生は我々の生きる途方もない領域です。悲しみ、苦痛、不安、愛情、同情、憎悪、尽きない恐れ、偽りの神々、寺院、腐敗、競争―それら全てが生です。我々はそれを理解しません。それでも、我々はそれに必死にしがみつきます、なぜなら、それが我々の知る全てだからです。我々はその他の何も知りません、そして、我々はその他の何も知ろうとはしません!
 そのように、生きることを理解してきていないので、当然にも、我々は死を避けます、そして、それを遠ざけます、あなたや私から。そして、生を理解するためには、あなたは全身で生と取り組むのでなければなりません。苦痛、不安、絶望、愛情を理解するためには、あなたは全身で、全存在で、それに取り組むのでなければなりません。そうすると、あなたは生きることと死が分離していないことを見て取るでしょう。生きるためには、あなたは毎日死ぬのでなければなりません、そうではないと、あなたは生きられません。単に、記憶の中を生きること、あなたの思い描いた何かを生きること、あなたの何らかの形式、信念を生きること―それは生きているのではありません。あなたが理解するや否や、あなたが全存在で生に取り組むや否や、そうすると、あなたはあなたが死んでやり過ごしているのを見て取るでしょう―衰退するのではありません、腐敗するのではありません、劣化するのではありません。私は心理的に死ぬことを話しています。
 あなたが心理的に死んでやり過ごしているとき、あなたはいつも死と共に生きています。そうすると、死は遠くにある何かではありません、恐れる何かではありません、あなたが怖がる何かではありません。なぜなら、完全に生きるためには、毎分、毎日、あなたは過去を死んでやり過ごす必要があります、毎分、毎日―そして、それがあなたの死ぬときに実際に起ころうとしていることです。そこでは、あなたは死と議論できません、あなたはそれを引き延ばすことはできません、それにもう一年の猶予を願うことはできません。それはそこにあります、あなたがそれを好もうと好むまいと。そして、死を恐れる人は生きていません、なぜなら、その人は生を恐れているからです。
 どうか、生の中のこの非常にシンプルな事実を理解してください、つまり、あなたは生き方を知りません、あなたがいつも苦痛や不安、恐れ、希望そして絶望の中を生きているとき、それは戦場です。私が“生きている”と言う意味は、それらのいずれもが存在しないときのことです、あなたがもはや誰とも競わないでいるときのことです、余すことなく、完全に悲しみが止むときのことです―断片的に止むのではありません。そして、悲しみの完全な消滅としての何かが存在します。そして、あなたがそのように生きるとき、あなたは見て取るでしょう、生きるためには、あなたはあなたの知っているあらゆるものを死んでやり過ごす必要があることを。そうすると、生と死は分離していません。
 私は願います、あなたが単に言葉にだけ耳を傾けていないことを、幾つかの観念を収集して、それに反駁したり、あるいは、それに同調したりしていないことを、あるいは、話し手は正しいとか間違っているとかと言おうとしていないことを。我々は一緒に歩を進めています。そして、歩を進めるためには、あなたは言葉で歩むことはできません、それは実際に足を地につけて歩むのでなければなりません、あなたの足音を聴くだけではなく、あなたの言葉にも、あなたの思考にも、あなたの感情にも耳を傾けるのでなければなりません。
 そうすると、あなたは見て取るでしょう、既知から自由なところに、死が生じると、そうすると、あなたは輪廻転生があるのかないのかには全く煩わされません。そうすると、他に、何が継続するのでしょうか? あなたの思考のみが、あなたの記憶のみが継続します―いわゆる魂ではありません。もしそれが魂なら、あなたはそれについて考えることができません。あなたがそれについて考えるや否や、あなたはそれを時間の領域へ、悲しみの領域へ変換してしまっています、従って、それは魂では全くなくて、単なる思考の産物です。我々が継続する何かとして魂を語るとき、我々はすでに思考の領域の中にいます。それは思考が単に支配する領域で、その思考が恐れを作り出します。そうすると、あなたは、時間、悲しみそして死の恐怖の悪循環に陥ります。
 そのように、死と悲しみと時間を理解するためには、人は全身で生きることに取り組むのでなければなりません。そして、生きるためには、あなたは高度に感受性豊かでなければなりません―あなたの伝統と共にではありません。あなたはあなたの神経組織と共に、あなたの目と共に、あなたの身体と共に、あなたの精神と共に、あなたのハートと共に感受性豊かでなければなりません。そして、あなたは感受性豊かではありえません、もしあなたがいかなるものにも慣れているなら―セックスに、怒りに、あなたの周りに家族がいることに、通りの汚穢に、晴れた日の素敵な夕日に、あるいは、あなた自身の粗暴に、あなた自身の残酷性や無頓着な態度や言葉に。
 そのように、人は、驚くほど気づいていて、感受性豊かでいる必要があります。そうすると、あなたは、死ぬことがどういう意味で、余すことなく生きることがどういう意味であるのかを知るでしょう―精神には未来も明日もないという意味で、なぜなら、それは過去を手にしていないからです、それはもはや何かになろうとはしていません、それはシンプルに流動しています、生きています、活動しています。そして、活動し、流動するものに死は存在しません。しかし、死は継続性を願う人にのみ存在します。しかし、もし人が毎分あらゆるものを死んでやり過ごすなら、あらゆる快楽を、あらゆる苦痛を、あらゆる習慣を、良くも悪くも、死んでやり過ごすなら、そうすると、人は自分自身で死を超えた何かを、生の苦悶を超えた何かを知るでしょう。それらを超えた何かがあります―話し手がそう言うからではありません。あなたはそれを明らかにする必要があります。しかし、明らかにするためには、悲しみが生じてはなりません、なぜなら、悲しみが残るところに、愛は生まれないからです。そして、愛なしには、あなたは死が何であるのかを理解することはないでしょう。
                ―1964年 1月26日 マドラス
                 1964年 1月22日 マドラス
                 1964年 1月29日 マドラス
                 1964年 2月2日 マドラス
                 1964年 12月27日 マドラス
                 1964年 12月30日 マドラス