アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

湯滝

時間の外に逆流(ぎゃくる)する丹田の今とは何でしょうか?

ププル ジャヤカール) クリシュナジが昨日彼のトークで話したことがありますが、それを議論することが相応しいかどうか私は知りません。彼が提起した問題は頭脳細胞がそれ自身からあらゆるものを取り除くことができるのかどうかということです、生存に必須な活動を除いて、身体組織の生存のための純粋な生物的必要性を除いて。それは非常に驚くべき発言でした。クリシュナジはこう言っているように思われました、新しい次元の何らかの活動が起こる以前に、そのむき出しの岩盤へ何らかが余すことなく剥ぎ取られることが重要であると。ある意味で、彼は全く物理的な立場に帰っていました。
P.Y.Deshpande) もしあなたが存在としての次元で生き残るなら、他の次元はありません。それは探究するに値しますか? そのように意識からあらゆる要素を剥ぎ取ることは、我々がそのことを理解するうえで、可能ですか? 我々はいつも主張してきました、人間は生存欲以上の何かであると。
Maurice Friedman) 頭脳細胞は文化の貯蔵庫ではないのですか?
 もしあなたが物理的生存欲以外のあらゆる心理的要素を人から取り除くなら、人は動物とどう異なりますか?
クリシュナムルティ) 我々は生物的そして心理的生存の両方を知っています。しかし、心理的生存のための要素が、ナショナリズムのように、生物的生存をほとんど不可能にします。心理的な断片化が生存の美を破壊しています。人は心理的要素を人から取り除くことができますか?
 生物的そして心理的なものとは別に、他の何かがありますか? あなたはあなた自身からあらゆる要素を取り除くことを話しました。私はあなたに問うています、生物的そして心理的なものとは別に、何か他の要素がありますかと。
 我々の知る限り、それらは人の中で働く唯一二つの要素です。
 物理的要素とは別に、心理的生存のようなものはないのでしょうか?
 それは精神の生存を意味します。精神は環境や伝統的なものの産物です。昨晩、我々が“意識”という言葉を使ったとき、我々は言いました、意識とは全てその内容のことであると。意識の内容は争いや苦痛であり、それら全てが意識です。
 あなたはこうも言いました、叡智は意識以上の何かであると。
 待って下さい。我々は言いました、意識の事実を理解して、それを超えていくのが叡智であると。あなたはそのような叡智に至ることはできません、もしこの意識が何かを争っているなら。我々が現在知っている全ては生物的生存と心理的意識の生存です。次の質問は何でしょうか?
 あなたが昨日言ったのは、生物的生存を確かにする要素を除いて、意識からあらゆるものを取り除く必要性があるということでした。
 あなたは心理的である意識の全内容を取り除くことができますか? それが取り除かれると、叡智が働きます。そうすると、生物的生存を確かにする要素と叡智だけが残ります―他に何もありません。
 あなたは昨日叡智のことは話しませんでした。あなたは言いました、意識が余すことなく取り除かれて、他に何もなくなるとき、そのような働きは生物的な生存活動であると、そして、それは気づく働きであると。そのように見ることが起こりますか?
 そうすると、精神は単なる生存要素ではなく、その中に何かに気づく他の性質が生じます。
 その性質とは何でしょうか?
 は昨日何と言いましたか?
               ...
          沈黙が見るとは何でしょうか
          丹田が見るとは何でしょうか
               ...
 彼は言いました、意識が取り除かれることが生じて、沈黙の生存活動のみが生じると。そして、そのような沈黙が見ることになると。
 全くその通りです。それでは、沈黙とは何でしょうか? 沈黙の性質とは何でしょうか?
 そのように見ることは我々の肯定できることです。しかし、他の何かを昨日耳にしました、そこで、我々は問わずにはいられません、もし人が、人を人間にする要素と我々が考えるあらゆるものが取り除かれると...
 その取り除かれるのは何らかの争いであり、苦痛です。
 それだけではありません、慈しみ...
B.Balasundaram) 我々は考えます、人は、動物と全く異なって、人間であると。人を動物と区別するものは何でしょうか―叡智、分析する能力、話す能力。
 人は言葉を話す動物です。そして、それが人を他の動物世界から区別する目安です。言葉によって人は言えます、“私は私である”と。そして、人がそれを超えるや否や、人は思索します、人は思い描きます、人は言います、“私は私であり、そして、その‘私’の中に、あなたは全宇宙を含めることができる”と。
 そしてもう一つ。言葉のおかげで、人は文化を発展することができています、そして、人は生物的段階へ戻りえません。
 二万五千年の進化や思考や話すことなどを経験してきて、人の中に非常に少しの変化しか生じません、環境は変化してきました、しかし、根本的に人の中に非常に少しの変化しか生じません。
 はい。
 私はの言うことを受け入れますが、依然として私は私であると気づきます。それが肝心なところです。
 は非常にシンプルに言っています、つまり、人からあらゆる心理的な要素を取り除けと、そうすると、動物と人との間の違いとは何でしょうか―お〜、途轍もない違いがあります。
 あなたが何らかの違いを断言するや否や、あなたは何か他のものを探究しています。
 人は自分自身に気づきます、そして、動物はそうではありません、それが唯一の区別です。
 戻りましょう。我々は心理的に生存したいと思います、そしてまた、生物的でもそうしたいと思います。
 私は何か他のことがあると思います。
 我々は明らかにする必要があるでしょう。単に何か他のものがあると断言するのは意味のないことです。
 しかし、あなたは言います、人間のあらゆる他の局面は終了していると。
 争いや悲惨や苦痛が終了するとき―
 空想や感嘆や想像も―それら全ては人を内面的にも外面的にも広くしてきました。
 は言いました、外面的にも内面的にもと。
 それは同じ働きです。それら全てが取り除かれるとあなたが言うとき、何が起こるのでしょうか? そのように問うのは道理にかなっていますか? 我々は、議論して、それを検討して、そのように取り除くこと、そのように見ることの感じをつかむことができますか?
               ...
        首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか
               ...
 我々は言ってきました、叡智は意識を超えていると、そして、精神から心理的要素が取り除かれるとき、それが正に取り除かれると、この叡智が現れます、叡智はそれが正に取り除かれると生まれます。生物的な生存があり、そして、叡智が働きます。それが全てです。
 叡智には引き継がれる何ものもありません、意識には引き継がれる何かがあります。意識の領域の中で我々は何かになることに囚われています、我々はその領域の中で何かになろうと努めています。それら全てを取り除くのです。それら全てを無に帰するのです。精神がそれら全てを自ら無に帰するようにしましょう。それが正に無に帰するとき叡智が生まれます。従って、二つのことが残るだけです、叡智の高度な形と生物的生存です、それは動物のように生きることとは非常に異なります。人は単なる動物ではありません、人は考えること、デザインすること、何かを構築することができます。
 あなたはこう言っているのでしょうか、意識を取り除く行為の中に叡智がそれ自身を現すと。
 注意して聞いて下さい。私の意識はいつも何かになろうとしています、何かを変えようと、何かを修正しようと、何かと争おうとするなどしています。そうしたことと生物的生存が我々の知っている全てです。誰もがその二つの中で行動しています。そして、そのように格闘する中で、我々は意識を超えた何かを思い描きます、しかし、それは依然として意識の中です、なぜなら、それは思い描かれたものだからです。
 本当にそのような論争から自由になりたいと思う精神は、そのような内面的なお喋りから自由になりたいと思う精神は問います、精神はそれ自身の内容をそれ自身から取り除くことができるのかと。それが全てです。
―(間ができる)
 叡智はそのように問うときに生まれます。
 無に帰する行為は終わりのないプロセスでしょうか?
 いいえ、そうではありません。なぜなら、もしそれが終わりのないプロセスなら、私はその同じ現象に囚われているでしょう。
 少し間を置きましょう。それは終わりのないプロセスではないのですか?
 それは終わりのないプロセスではありません。
 あなたはこう言うのですか、それが一度行われれば、それで終わりですと。
               ...
           意識とは何でしょうか?
               ...
 ゆっくり行きましょう。あなたはこのことを最初に言葉で理解しなければなりません。私の意識は我々が話してきたそれら全てで出来上がっています。
 意識を無に帰するには時間を要しますか、それとも、それは時間から自由でしょうか? それは一つずつでしょうか? それとも、それは全体を無に帰するのでしょうか?
 質問は、それを無に帰するのは一つ一つそうするのか、それとも、それは全体的にそうするのか、ということでしょうか?
 そのように問うことは、全体が個々を含むことを意味します。
 無に帰することは部分と全体を含む一体的なプロセスである必要があります。
 それを議論して下さい。
 人が取り除くのは何でしょうか? あるいは、人が気づくのは何でしょうか? あるいは、現れてくるものの崩壊が生じるのでしょうか、それは思考でしょうか?
 もしそれら全てが消え去るなら、何が残るのでしょうか?
 あなたがそれら全ては消え去ると言うとき、それはどういう意味ですか?
 気づくことだけが残ります。完全な気づきは全体的な何かですか?
 はい。
 彼女は、はいと言います、しかし、質問は何でしょうか?
 意識の一点に気づくのは、嫉妬のような一つのことに気づくのは、意識の余すことのない全体でしょうか?
             ...
          気づきとは何でしょうか
             ...
 あなたが“気づく”という言葉を使うとき、あなたは何を意味しているのでしょうか? もしあなたが言外の意味に気づくことを言うなら―いかなる選択もせず、いかなる意志も働かず、いかなる強制とも無縁な、いかなる抵抗もしない状態を言うなら―明らかにそういうことです。
 そうすると、いかなるときにも、それは可能です。
 勿論です。
 はい、なぜなら、それは入り口だからです―崩壊の入り口です。
 いいえ。ちょっと待って下さい。
 私は“入り口”という言葉を意図的に使っています。
 待って下さい。ゆっくり始めましょう、なぜなら、私は一歩ずつ行きたいからです。私の意識はそれら全てから成り立っています。私の意識は全体の一部です、表面的にも深い次元においても。あなたは問うています、その正に気づきの中に全体が現れるほどの透徹した気づきというものがあるのかと。それとも、それは少しずつ現れるのでしょうか? 何らかの探索、何らかの探究、何らかの分析が行われるのでしょうか?
 ヨガの立場は、自然は流れる河というものです。その流れの中に、人の細胞組織が生じるのです。それが生じるや否や、それは何かを選択する能力も身に着けるのです。そして、それが何かを選択するや否や、それはそれ自身をその流れから、その河から分離します。それはその流れから分離するプロセスです、そして、そのことを生じさせる唯一のものが何らかの選択です。従って、彼らは言います、選択の消滅があなたに余すことのない空虚をもたらすかもしれないと、そして、その空虚の中であなたは見ることになります。
 はい、それが一点です。の問いかけは、その気づきは少しずつ取り除く段階的なプロセスなのかということでした。この気づきは、いかなる選択もしないで、意識の全てを無に帰するのでしょうか? それは意識を超えるのでしょうか?
 もし仮に、私が選択を止めると、それは取り除いているのでしょうか?
 取り除くことに終わりがありますか?
 それとも、それは継続するプロセスでしょうか?
 そして、二番目の問いは、叡智が生じていて、取り除くことが起こりますか?
 最初の質問からスタートしましょう、それで十分です。あなたはどう思いますか?
 それはあなたが“はい”とも“いいえ”とも言えない途方もない問いの一つです。
 それは時間や時間ではない何かに拠ります。もしそれが招き入れられるなら、それは時間です。
 もしあなたがそれは時間の問題ではないと言うなら、そうすると、それは何らかのプロセスではありません。五分後にそれは再び現れます。そのように、その問いは答えられません。
 私は確かではありません。もう一度始めましょう。私の意識はそれら全てから成り立っています、私の意識は時間的プロセスに慣れています、私の意識は段階的に考えます、私の意識は、つまり、何らかの実践です、そして、何らかの実践を通して何かを成就します―それが時間です、私の意識は時間的プロセスです。
 宜しいでしょうか、私はそのような意識に問うています、それはこのことを超えていけるのかどうかを。我々は、時間的な活動に囚われている我々は、時間を超えることができるのでしょうか? 意識はその問いに答えられません。意識は時間を超えていくことの意味を知りません、なぜなら、それは時間的に考えるだけだからです。そのように、そのプロセスを終えること(時間とは無縁の状態に至ること)ができるのかどうかを問われたとき、それは答えられません、違いますか?
 宜しいでしょうか、意識はその問いに答えられないので、我々は言います、気づきとは何かを見てみましょう、そして、そのような気づきが時間とは無縁な状態をもたらしうるのかどうかを見てみましょうと。しかし、このことは新しい要素を招き入れます、つまり、気づきとは何かです。それは時間の領域の中でしょうか、それとも、それは時間の領域の外でしょうか? 気づきの中に何らかの選択、何らかの説明や正当化あるいは非難が生じるでしょうか? 気づきの中に観察者がいるでしょうか、あるいは、何かを選択する者がいるでしょうか? そして、もし観察者がいるなら、それは気づきでしょうか? そのように、観察者が全く非在の気づきが生じるでしょうか? 明らかに生じます。私はそのランプに気づきます、私は、私がそれに気づくとき、何かを選択する必要はありません。観察者が非在の気づきが生じるでしょうか―それは観察者が非在の気づきが継続する状態ということではありません、それは再び誤った言い方です。
Achyut Patwardhan) それを言い表す言葉はsvarupa sunyataです―観察者が無に帰することです、それは取り除かれます。
 それでは、そのような気づきは培われますか―それは時間を意味します。観察者が非在のこのような気づきはどのようにして生じるのでしょうか? このような気づきは培わられうるのですか? もしそれが培わられるのなら、それは時間の産物です、そして、またそれはその中に何らかの選択が存在する意識の一部です。
 そして、あなたは言います、気づきは何らかの選択ではないと、それはその中に観察者のいない観察であると。それでは、どのようにしてそれは意識の干渉抜きに生ずるのでしょうか? それは意識から生じるのですか、それから開花するのですか? それとも、それは意識から自由なのでしょうか?
 それは意識から自由です。
 それは、私が私は誰かと問うときに生じますか?
 すべての伝統主義者たちはそのように問うてきました。
 しかし、それは重要な問いかけです。それは私が本当にエゴそのものの源泉を探究しようとするときに生じますか? それとも、気づきは人が観察者を発見しようとするときに生じますか?
 いいえ。あなたがそのように試みるとき、あなたは時間の中にいます。
 それは言葉の意味の問題です。あなたはどの場面でも意識を取り除けます―観察者はどこにいるのでしょうか? 我々は観察者が存在するのは当然のことだと思っています。
              ...
         “私”とは何でしょうか?
              ...
 ゆっくりと始めましょう。人は意識とは何であるのか分かります。その領域の中のどのような活動も依然として時間的なプロセスです、それはその通りであるとかそうではないと試みるかもしれません、それはそれを超えて行こうとするかもしれません、それは意識を超えた何かを発明するかもしれません、しかし、それは依然として時間の一部です。そうして私は行き詰ります。
 私はあなたの言葉ではない言葉を使いたいと思います。そこで、私はあなたのあらゆる言葉を拒否してきました。私は私自身の装置を使う必要があります。最も強力で力強いと私の中で私に思われる要素とは何でしょうか―それは“私”という感覚です。
 それは過去です。
 私はあなたの言葉を使いません。あなたの言葉を使わないのは非常に興味深いことです。私は言います、最も強力なものは“私”という感覚です。それでは、“私”の気づきはありえますか?
 それは間違った質問です。なぜなのか言います。あなたは問います、私は“私”に気づけますかと。宜しいですか、“私”とは経験を飽きることなく渇望する当のもの以外の何ものでもありません。
 はこう問うことから始めました、私は誰かと。“私”は意識の活動ですか?
 見てみましょう、探究しましょう。
 私が自分自身にこう問うとき、私は誰かと、その“私”が意識の中の中心的な要素ですか?
 そう思われます。そこで私は言います、私に私を見させて下さい、私にそれを見つけさせて下さい、それに気づかせて下さい、それに触れさせて下さいと。
              ...
        メディアの猥褻性とは何でしょうか
                       ...
 そうすると、あなたは問うています、この中心的な要素は諸々の感覚によって知覚されるのかと。その中心的な要素は触れられますか、感じられますか、味わえますか? それとも、その中心的な要素は、“私”は、諸々の感覚が発明した何かでしょうか?
 それはあとからやってきます。最初に、私はそれが触れられるのかどうかを見てみます。
 私がこう問うとき、私は誰かと、私は誰がそのように探究しているのかをもまた問わなければなりません、誰がそう問うているのかをもまた問わなければなりません。
 私は今そのように問うていません。私はそのことを何度も何度も問うてきました、私は気づくことについて果てしなく議論してきました。私はそれを捨て去ります、なぜなら、あなたがこう言ったからです、あなた自身の言葉でないなら、一語でも受け入れるなと。私はスタートします、私は見てみます。私自身の中心的な核であるこの“私”は触れられる何かですか? 私はそれを表面的な層の中に、私の意識の深い層の中に、隠されている暗闇の中に観察します、そして、私がそれを解きほぐすと、内側から光が差します、何かがはちきれます、内側から何かが広がります。
 別の要素がこう働きます、排他的になっていたものが内包的になるのです。これまで私は排他的でした、今、世界が流れ込んできます。
 我々はそれ見ます。
 そして、私は発見します、それは触れられうる何かでも、知覚されうる何かでもないと。知覚されうるものはこれまで存在していた何かです、知覚されうるのはこの“私”が表現した何かです。私は私の考えたことが分かります、つまり、この“私”が行動しているという考えです、しかし、それはすでに終了しました。そこで、私は探究します、どこから思考は現れるのかと。私は思考を追い求めることができますか? どこまで私は思考と歩めますか? どこまで私は思考を手にしていられますか? 思考は意識の中に保持されうるのですか? それらは個人が完全に自分自身で触れてみて感じる必要がある事柄です。
 シンプルになりましょう。私がこう問うとき、私は誰かと、そうすると、それを問うているのは誰でしょうか? 人はそのことを探究すると分かります、その“私”を観察することはできないと。そうすると、その“私”は諸々の感覚の領域の中にある何かでしょうか? それとも、諸々の感覚がその“私”を作り上げたのでしょうか?
 それは諸々の感覚の領域の中にはないという正にその事実は―
 そこから離れないようにして下さい。それもまた諸々の感覚の領域の中にはないのでしょうか? 我々はとても性急に歩を進めます。
 私はクリシュナジが言ったことのあらゆることを脇へ置きたいと思います、そうすると、私は分かります、その正に“私”についての問いかけが、その正に“私”についての探究が何らかの光と灯すと、叡智を生み出すと。
 あなたは言っています、その正に問いかけが気づきをもたらすと。明らかに、私はそうではないと言っていません。
 そして、その問いかけの中で、人は何らかの装置を使いうるだけです、それは諸々の感覚です、なぜなら、それが我々の知っている全てだからです、つまり、見ること、聞くこと、感じることです―そうすると、その領域が照らし出されます。外側の領域と内側の領域が照らし出されます。宜しいでしょうか、そのように照らし出された状態の中で、突然あなたは発見します、何らかの思考が存在していたと、しかし、それはすでに終了しています。もしあなたが今こう問うなら、取り除くのは部分的ですか、それとも全てですかと、そのような問いかけは適切ではありません、それには何の意味もありません。
 ちょっと待って下さい。私は確かではありません。気づきは部分的でしょうか? 私は諸々の感覚で探究してきました―諸々の感覚が“私”を作り上げています、“私”を探究しています。その働きが何らかの光をもたらします、明瞭な何かをもたらします。余すことのない明瞭さではなく、ある程度の明瞭さです。
 私はある程度の明瞭さという言葉は使いません、それは明瞭さです。
 それは明瞭さをもたらします。我々はそれから逸れないようにします。そのような明瞭さは広がりますか?
 視覚の性質はこうです―私はここを見ることができます、そして、私はあそこを見ることができます、それは視覚の能力に拠ります。
 我々は言いました、気づきは視覚的なだけではなく、非視覚的でもあると。我々は言いました、気づきは照らし出す何かであると。
 私はあなたに問いたいと思います。あなたは言ってきました、見ることは視覚的だけでなく非視覚的でもあると。その非視覚的に見る性質とは何でしょうか?
 非視覚的とは非思考的なことです。非視覚的なことは言葉とは無関係です、それは思考とは無関係です。それが全てです。それは意味とは無縁です、表現とは無縁です、思考とは無縁です。思考しない気づきがありますか? それでは歩を進めましょう。
 近くを見ることができる視覚、遠くを見ることができる視覚はあります。
 待って下さい。我々は気づきのことのみ話しています―感覚の持続や距離やサイズや幅ではなく、非視覚的な気づきのことを話しています、それは深くも浅くもありません。浅い気づきや深い気づきは思考が関与するときのみ生じます。
 宜しいでしょうか、その中に、部分的に取り除くことや余すことのなく取り除くことが生じますか? 我々はそのような問い掛けからスタートしました。
 彼女はこのように問うています、あらゆる感覚の中に、単なる感覚の非言語的要素があるのではないかと、それから、心理的な何かを重ね合わせることが起こるのではないかと。精神の状態の中に、心理的な何かを重ね合わせないで何も取り除かない状態があるのでしょうか?
 その通りです。気づきは気づきです。我々は問うています、取り除く必要のない気づきがあるのかと。
 永久に続く気づきというようなものはありません。
 それはあなたの言う叡智と同一な何かでしょうか?
 私は知りません。あなたはなぜそのように問うのでしょうか?
 なぜなら、それは時間とは無縁だからです。
 時間とは無縁なものは時間とは無縁です。なぜあなたはそのように問うのでしょうか? 非言語的な気づきは非思考的でも、非時間的でもありますか? もしあなたがその問いに答えたなら、あなたはそのことにも答えています。気づいている精神はそのような問いを発しません、それは気づいているのです。そして、どの気づきもそれぞれが気づきです、それは気づきを引きずりません。取り除くとか取り除かないという問いはどこから生じるのでしょうか?
 気づきは別の思考に決して持ち込まれません。私はそのランプを見ます。そのように見ることは引き継がれません。思考だけが引き継がれます。
 それは明らかです。私の意識は私の精神です、そして、それは感覚的な知覚の結果です。それは進化や時間の結果でもあります。それは広がりもすれば収縮もします。そして、思考は意識の一部です。宜しいでしょうか、誰かがやって来て、問います、私は誰かと。その“私”はその意識の中の永遠の何かでしょうか? 
 それは永遠ではありません。
 その“私”が意識でしょうか?
 それはありえません。
 意識は引き継がれる何かです。勿論そうです。
 我々は意識の概念を意識の経験と混同しています。
 それは非常に明白です―その“私”がその意識です。
 その“私”は私が探究するまでは私にとっての大いなる現実です。
 勿論です。事実はこうです、調べてみて、観察してみて、私は見て取ります、私はその意識の全体であると。これは言語的な表明ではありません。私はその引き継がれた何かです―私はそれら全てです。この“私”は観察されますか? それは感じられうるのですか、それは捻じ曲げられうるのですか? それは気づきの結果ですか、それは引き継がれた何かの結果ですか? 
 それは引き継がれた何かの結果ではありません、それは引き継がれた何かです。
 そうして、彼女は問います、そのような“私”とは何でしょうかと。そのような“私”は意識の一部、思考の一部でしょうか? 私は、はいと言います。思考は“私”の一部です、思考が技術的に働いている場面を除けば、そこでは“私”はいません。あなたが科学的な領域から離れるや否や、あなたは“私”になります、それは生物的に引き継がれた何かの一部です。
 “私”は気づきの中心です、それは気づきの活動する中心です、臨時の中心です、そして、その“他”は実際の中心です。
 シンプルになりましょう。我々は見て取ります、意識は“私”であると、その全領域は“私”であると。“私”がその領域の中の中心です。
 私はあらゆるものを脇へ置いて、新しい方法で取り組みたいと思います。私は分かります、私の中の最も重要な要素は“私”であると。それでは、“私”とは何でしょうか? その性質とは何でしょうか? 人はそれを探究します、そして、それを観察する中に明瞭な何かが生じます。
 それで終わりです。
 明瞭さは永久ではありません―
 しかし、それは再び取り上げうるのです。
 私は言います、恐らくと。
 なぜなら、私は気づきが全体の何かであると思うからです。
 明瞭さは永久であるかどうかとの問いがその状態の中で生じるのは理にかなっていますか?
 それは気づきの状態の中には生じません。それは私がこう問うときにのみ生じます、つまり、このプロセスは永久ですかと。
 そして、あなたは何というのでしょうか?
 あなたが問われているのです。答えて下さい。あなたはこの問いに答える必要があります。気づきの瞬間には、そのような問いは生じません。次の瞬間、私はそれほど明瞭に気づきません。
 もし私が私はそれほど明瞭に気づいていないと注意深く見て取るなら、私はそれを探究します。
 そうすると、私は何を行っているのでしょうか? 気づきが生じます。それが全てです。
 入口の鍵はそのような問いの中にあります。
 このことについてはシンプルになりましょう。気づきが生じます。その気づきの中には時間的な継続の問題は生じません。気づきが生じるのみです。数分経つと、私は明瞭に見て取りません、明瞭な気づきは生まれません、それは混濁します。そうすると、その汚染源を探究して、明瞭な何かが生じます。混濁―再度の気づき、隠蔽―暴露、そういうことが続きます。それが続きます、違いますか?
 それは時間的な活動ですか?
 非常に興味深いことが起こります。それは、この気づきの正に性質が他の何かに働くということです。
 “他の何か”とは何でしょうか?
 気を付けていないことです。
 待って下さい。気を付けていないことによって気を付けることが生じます。そうすると、気を付けていないことに気づいて、それで気を付けることになります。このバランスがいつも働きます。
 宜しいでしょうか、私はこう言います、気づきは気を付けていないことを軽減すると。私がそう言うのは正しくないでしょう。私が唯一観察できるのは、気を付けていないことに気を付けるという働きが生じることです。
 気を付けていないことにそのように働く何かは気を付けていないことを払い除けて、気を付けていないことが再び起こらないようにしますか?
 それは気を付けていないことに気を付けることです。
 私は気を付けていないことに気を付けることよりも先へ進んでいます。私は言います、この気を付ける性質は頭脳細胞に働く何かであると。私は私がそのように言うとき非常に、非常に躊躇します。それは頭脳細胞に働くための気を付ける性質です。頭脳細胞が気を付けることに触発されるとき、頭脳細胞の中に潜在的にあるそれが再び活発になります、そして、その潜在的な正に性質が何らかの変質を遂げます。私はこの領域が探究されて欲しいと思うのです。
 再度始めましょう。もしその気づきの中に何らかの選択が生じるなら、我々は意識の中に再び戻っています。気づきは非言語的です、それは思考とは何の関係もありません。我々はその気づきのことを、気を付けることと呼んでいます。気を付けていないときには気を付けていないことが生じます、なぜあなたはその二つをいっしょくたくにするのでしょうか? 私は気を付けていません、従って、気を付けていることは生じません。それが全てです。そのように気を付けていないとき、何らかの行動が生じています。そして、それらの行動が更なる悲惨や混乱や問題を引き起こします。そこで、私は自分自身に言います、私はそのような混乱が起きるのを防ぐためにいつも気を付けていなければならないと。そして、私は言います、私は気を付けることを育む必要があると。その正に育むことが気を付けていないことになります。その気を付けていないことを見て取ることが気を付けていることです。
 気を付けていることは頭脳細胞に何らかの影響を及ぼします。何が起こっているのかを見て下さい。気を付けていることが生じます、そして、それから気を付けていないことが生じます。気を付けていない中に混乱や悲惨などその他の全てが生じます。それでは、何が起こりますか?
 気を付けていないことを取り除くことが無意識の中で行われました。
 それは実際にはあなたがそれについて何もできないということではないのですか?
 私はに同意しますが、ちょっと待って下さい。何もできないと言わないで下さい。我々は明らかにするでしょう。我々は探究しています。気を付けていることと気を付けていないことがあります。気を付けていないときにはあらゆるものが混乱しています。なぜ私はその二つを結びつけたいと思うのでしょうか? その二つを結び付けたいと促すものがあるとき、意志の働きがあります、そして、それは意思の選択です、私は気を付けていないことよりも気を付けているほうを選びます。そうすると、私は意識の領域の中に再び戻っています。そうすると、その二つが決して結び付けられない行為とは何でしょうか? 私はそのことを少し探究したいと思います。
 気を付けているとき、記憶としての思考は働きません、気を付けているとき思考的プロセスは存在しません、ただ気を付けているだけです。何らかの行動が、不快なことや悲惨なことや危険性をもたらすとき、私は私が気を付けていなかったと気づくだけです。そうすると、私は自分自身に言います、私は気を付けていなかったと。そして、気を付けていないことが頭脳に何らかの痕跡を残すので、私は気を付けていないことがもたらしたその悲惨なことを気に掛けます。そうすると、その悲惨なことを探究する中で、気を付けることが再び生じます、そして、それは何の痕跡も残しません。そうすると、何が起こっていますか? 気を付けていない瞬間ごとに、その間髪を入れない即座の気づきが生じます。気づきは即時的であり、そこに時間の持続はありません。それは時間を出自としません。気づきと気を付けていることはいかなる痕跡も残しません、気づきの即時性はいつも生じています。
                 ―『Tradition and Revolution