クリシュナムルティをめぐりて

愛は意識の一部ですか?

 これが最後のトークです、或いは二人の友人の間の最後の対話です。我々はこれまでの三回のトークで生の色々な様相を話してきました。我々は言いました、世界で起こっているあらゆることを外面的だけではなく内面的にも―我々の全ての思考や我々の感情、もし人が気づくなら、自分自身の幻想などそれら全てを―疑う能力を、問う能力を持つことがどれほど重要であるのかを。何故なら冷笑とは無縁の懐疑心には大変有益な効果があるからです。我々の頭脳はプログラムされています、二千年もキリスト教世界によって、三千から五千年もヒンズー教そして仏教によってプログラムされています。それらはコンピューターのようにプログラムされてきています―カトリック教徒、アメリカ人、ロシア人、信仰する人、信仰しない人、専門家、精神分析学者、精神病学者などとしてプログラムされてきています、科学者や医者としてプログラムされてきています。我々はプログラムされてきています、そしてそのことを我々は疑いません、何故ならそのようなプログラミングが我々の条件づけにつながっているからです。そしてもし我々が問わなければ、疑わなければ、大いなる健全な懐疑の念を抱かなければ、頭脳は決して自由でいられません。そして何かからの自由と自由でいることとは二つの異なるものです。もし宜しければ我々はそれら全てを検討します。
 我々は今朝さまざまなことについて話そうとしています―自由や欲望そして思考の重要性です、そしてほとんどの文明が基礎にしている宗教とは何かについてです、ほとんどの文化がこの生の宗教的な見方から生まれています。そして我々は瞑想とは何かの非常に複雑な問題も一緒に話し合おうとしています。これら全てを我々は今朝一緒に話し合おうとしています。そしてまた思い起こして頂きたいのは、もしくどくなければ、これが決してエンターテイメントでもなければ、週末に参加して、その後すっかり忘れてしまう何かでもないことです。しかしそれはむしろとても騒々しくて、無秩序で、不確かで、混乱してきている我々の日常生活に関することです。
 そしてこのような条件づけ、このようにプログラムされていることを、その性質を人は理解しなければなりません、そしてそれから全く自由でいられるのかどうかを見なければなりません、そうでなければ創造はありえません、そうすると全て発明ばかりでしょう。発明は創造と全く違います。技術的な発明は思考の産物です。詩的であろうと、宗教的であろうと、技術的や何かであろうと、何らかの筋道に沿ってなされる発明はむしろ比較的簡単です、しかしほとんどの宗教がそうしようとしてきたように、創造とは何かを明らかにするためには、そしてその性質とその深さとその美を理解するためには、人は理解してプログラムされていることから自由でなければなりません。
 そうすると自由でいるとはどういうことですか? 自由と言えば何かからの自由です―我々自身の悲惨さからの自由であり、我々自身のトラブルや問題からの自由であり、或いはあらゆる人間に必需品を供給する経済社会を手に入れる自由であり、あまり腐敗などしていない社会を手に入れる自由などです。我々自身が自らに課す束縛からの自由であり、ほとんどの我々が囚われている自分自身の特殊な傾向や意見や判断からの自由です。意見や判断や結論は我々の誰にとってもとても強力で、それらは気づくことを妨げます、世界で何が起こっているのか、外的にも、外面的にも、そしてさらにずっと内面的にも、我々自身の生の心理的な複雑さを余すことなく明確に見ることを妨げます。
 そうすると自由でいるとはどういうことですか―反射的な反応になる何かからの自由ではなく自由でいることです。資本主義からの自由はその全ての悲惨さと残虐性を伴った全体主義へと通じていました。そして我々自身の特殊な恐れからの自由は依然として何らかの反射的な反応の領域の中です―「おーっ、人が何らかの妙な衝動―或いは傾向―から自由なら、人はとても立派になれるのに」などと言うことです。一方、自由でいることは全く異なる何かです。“自由”という言葉は―語源的にあまりはっきりと確定されていないけれども―自由である、自由でいることはその言葉の中に、その他の意味に混じって、愛という意味があります。我々は我々の生の中で愛するということがどういうことであるのか本当には理解していないので、そしてもし愛が憎しみの対極なら、もし愛が嫉妬の対極なら、或いはもし愛が執着の対極なら、あらゆる対極のルーツはそれ自身の対極の中にあります。我々はこのことを理解しているのでしょうか? もし人が貪欲なら、ほとんどの我々がそうであるように、そして貪欲でないようにする衝動は、そのような矛盾は、我々自身の貪欲から生まれます。お分かりですか? このことはある程度明瞭ですか?
   宜しいですか、我々は一緒に会話をしています。話し手は重要ではありません。話し手は本当にそう思います、その全てナンセンスの個人崇拝はここにはありません、それらの類は全て馬鹿げています。しかし彼の言ったことは非常に非常に重要であり、それが懐疑心を持って評価されることが重要です、彼の言うことを何一つ受け入れないことが重要です。彼は何らかのプロの専門家ではありません、しかし一緒に、二人の友人として、我々は我々の全生活を、我々自身の生を検討しています、非常に複雑で、気をつけていることや気遣いや気づきや観察を要する我々の生を検討しています、二人の友人として彼らの生を話し合っています、従ってこれは講話でもなければ説教でもありません。講話、その言葉の意味は知識を授けること、教えることです、我々は教えているのでもないし、知識を授けているのでもありません、人が生について全て知っていて、他の人はそれについて知らないというようなことではありません。しかしむしろ一緒に行っています、そして一緒に行うこと、一緒に考えることの意味を理解することが重要です。何故なら非常に少数の人々しかどのようなことについても一緒に考えません。人々はとても沢山の意見を持っていたり、とても沢山の判断をしたりなどしますが、我々は決して一緒に考えません。我々は考え方や意見の一致や相違について意見を持っています、あなたは正しくない、私は正しいなどです、しかしあらゆることについて一緒に考える能力のためには或いはその要請にこたえるためには何らかの自由が、愛情や気遣いや気をつけている気持ちが必要です。そうでなければ我々は恐らく一緒に考えることができません。そうするとあなたは追随者になります、知識を授けられる、教えられる、追随する聞き手になります。そうすると我々は再び古いパターンに戻ります。一方、もし我々が一緒に考えることができるのなら、自由でいることとは何かを、あなたが或いは話し手が自由でいることは何かを考えるのではなく、一緒に明らかにするのなら。そのような一体感―もしそのように言って良ければ―の中には、あなたも話し手もいません。我々は一緒に我々自身の全ての問題と我々の周りのあらゆるものの存在を検討したり、調べたりしているただそれだけの感じになります。
 “自由”という言葉には、自由でいるということには多くの意味がありますが、主として自由でいることは友達でいること、愛することを意味します。そして愛は思考が発展させる、作り上げる何かでもなければ、愛は育成されうる何かでもありません。あなたは庭を育てることができます、あなたはどのようなものも育てることができます、耕したり、栽培したり、育てたりすることができます。しかし愛は思考が育てることができる何かではありません。従って思考や考えることの性質を非常に深く一緒に理解することが非常に非常に重要です。もし我々がそのことを根本的に本当に理解できるのなら、我々は我々の問題の殆どを解決できるでしょう。何故なら我々は何十もの問題―関係性の問題、経済的な問題、社会的な問題、あらゆる種類の問題―を抱えていて、人間はそれらの重荷を背負っているからです。
 そのように何かからの自由の性質を理解することだけではありません、自由でいること、完全に自由でいることを理解することでもあり、それは何かからの自由ではありません。そしてそのようなことは思考がいつも働いているとき可能でしょうか? 質問がお分かりでしょうか? 従って言葉だけではなく或いは説明だけではなく思考の全活動を理解することが重要です、違いますか、何故なら我々は思考によって生きているからであり、我々の活動は思考に基づいているからです、あらゆる領域で、あらゆる分野で、外的にも内的にも思考が働いている我々の生のあらゆる領域で。我々は思考に途轍もない重要性を与えてきました。そして我々が思考の全構造とその性質、思考の活動を解明するまでは、単に自由でいようと努めることは―それは自由を育てることです―不可能になります。
 そのように我々は一緒に、二人の友人として、自由とは何かに関心があります、そして余すことなく自由でいるとは何かに関心があります。そして自由がある、自由でいるこのような全体感はありえるのでしょうか? そこで我々は検討していきます。
 我々がプログラムされている限り―カトリックとして、プロテスタントとして、そしてプロテスタントの何千という分派として、或いはヒンズー教世界やイスラム教世界として、そして仏教世界として我々はプログラムされています―我々がプログラムされている限り、我々の頭脳が何千年とプログラムされてきている限り、余すことのない自由という感じは起こりえません。このことは明瞭ですか? 我々はこの点で一緒ですか? それでは自由でいることは可能ですか? それとも我々はコンピューターのように果てしなくプログラムされるように運命づけられなければならないのですか? 我々の頭脳は機能します、話し手はプロの頭脳の専門家ではありませんが、彼は非常に沢山の人たちを六十年間、七十年間観察してきました、人々の頭脳がどのように働くのかを観察してきました、それらを観察しています。そしてまた自分自身の頭脳が働くのを観察しています。それはとても機械的になります、反復的になります、その正に知識の収集蓄積がそれを限界づけます。あなたはこのことを理解するのでしょうか。人が科学のような様々な学問分野についての知識を沢山持っているとき、人が外科や内科や電気通信などの専門家であるとき、我々の頭脳は実際に非常に小さくなります、それは特殊な方向に沿って広がることができますが、その広がりは依然として限られています。私はあなたがこれら全てを分かっていることを願います。それではこれら全てから余すことなく自由でいることは可能ですか? そうではないと我々は創造的であることがどういうことであるのか決して分からないでしょう、全く考えられない何か、全く新しい何かが決して分からないでしょう。「地上には新しいものは何もない」、しかしもし我々がそのようなスローガンを受け入れるのなら、我々は創造的であることがどういうことであるのかを決して発見しないでしょう。
 そこでこのようにプログラムされることを理解するために、そしてなぜ我々がそれを受け入れるのかを理解するために、人は安全であろうとする欲望の全てを、昨日の朝だけではなく、検討しなければなりません。我々は昨日の朝それを非常に注意深く検討しました、我々はそれを再び検討しません。しかしまた我々は思考の性質を何度も何度も検討しましたが、ほとんどの我々はその深さを、思考の質を、それが技術的な世界だけではなく心理的な世界でもこの上もなく途方もないことを行ってきているにもかかわらず、思考がどれほど限られているのかを本当には分かっていません。しかしそれが何を行ってきていようと、それは依然として非常に限られています、何故なら、我々が昨日指摘したように、いつも“もっと”ということがあるからです、技術的な世界だけではなく内面的にも“もっと”や“より良く”ということがあるからです。“もっと”や“より良く”ということは計ることです、そして計っている限りは限界があります。このことは宗教的な人たちが抱えている問題の一つになっています。我々はこのことを検討してきました、つまり、ギリシャ人は、古代のギリシャ人は計ることに関心を寄せていました、そうでなかったなら我々は西欧世界のこのような途方もない技術を持っていないでしょう、何故なら西欧世界のルーツは古代ギリシャにあるからです。そしてインドで、古代の人々は言いました、どのような形であれ、計ることは幻想であると。あなたは恐らく計り知れないものを計ることができません。従って二つの矛盾する言い方があります、技術的に人は計ることを行わなければなりません、そして心理的にも我々は“もっと”や“より良く”や“何かになること”として計ることを受け入れてきました。一方、古代のヒンズー教ではあらゆる計る形には限界があると言いました。そして彼らはそのように言ってそのことについての全てを忘れました。しかし恐らく彼らは決して―話し手は本を読まないので彼らの言っていることの全容は分かりません―計ることは思考を意味します。思考は知識や経験や記憶に基づいています、そして知識は今も未来もいつも限られています。そのように思考はいつも限られています。それは計り知れないものを想像できます、それは地上のあらゆる神やあらゆる儀式などそれら全ての類を発明できます、しかしそれは途方もなく非現実的です。
 従って思考は決して自由ではいられません、或いは思考は余すことなく自由でいる感じを決してもたらすことができません。違いますか? あなたはこのことが分かるのでしょうか。思考それ自身が限られているので、それが何を行おうと、それは依然として限られているでしょう。そして思考は欲望によって促されますね? 違いますか? 従って我々は欲望の性質と構造を検討する必要があります。“欲望”という言葉は、語句の上で、何かを切望することを意味します、そしてそれは何かをもっと欲しがることです。その言葉の意味はそのようなことです、何かを切望すること、手にしていなくて欲しがることを意味します。違いますか? そこで我々は欲望とは何かを一緒に理解しようと思います。
 あなたが自分自身だけではなくあなたの周りの全ての人々を観察してきたのかどうか私は知りません、聖職者たちや聖職者たちの序列組織、歴史上のローマ法王たち、そして世界の全ての僧たち、そして世界中の全ての人間、現実の自分に不満足でもっと何かを欲しがり、もっと何かを切望している人たちです。あなた方はみなもっと何かを切望していませんか? 我々はみな欲望に促されていませんか―成功すること、お金を手に入れること、地位を手に入れること、有名になること、あなたはそれら全ての類を知っています。我々は欲望に満ちています。そうすると欲望と思考との関係はどうなりますか? 宜しいですか? どうかこのことを問うて下さい、話し合っている二人の友人として、話し手は友人に話しています、それを見て下さいと、彼は問うています、その二つ、欲望と思考との間にはどのような関係があるのかと。なぜ宗教的な領域の中の思考は欲望を抑圧することを主張するのですか? お分かりでしょうか? 世界中の僧が言ってきました、人は欲望を持ってはならない、それを抑圧せよと。或いはそのような欲望を人が神と呼ぶものと、あなたの救世主と、宜しいですか、シンボルと一体化しなさいと。違いますか? そのように欲望は我々の生の中で途方もない重要性を手にしています。そして我々はそれをいま抑圧しようとしていません、或いはそれを乗り越えようとしていません、或いはそのような欲望を何かより高尚なもの、シンボリックなもの、意義深いものなどそれら全ての類と一体化しようとしているのでもありません、我々はそれら全てをいま一掃できます。
 そこで我々は欲望の性質を今理解しようとしています。あなたは話し手がそれを以前説明するのを聞いてきたかもしれませんが、彼のこれまでに言ってきたことを忘れて下さい。我々は再び新しくこのことを今検討しています。そして検討するためには人が個人崇拝から自由であるだけではなく、欲望しないでいる恐怖からも自由でなければなりません。お分かりでしょうか? 歪みや動機が全くなくて、欲望の活動の全てを非常に間近に観察する気づく感じがなければなりません。我々はそのように進めることができますか?
 我々は樹の下に、幾つかの樹木の下に座り、葉の間から青空と遠くの山々や丘々が見え、我々みんなの上にまだらな影が差しています、そしてこれら全てをはっきり見ること、それら全ての美を見ること、そうすると美の欲望との関係はどのようなものですか? 私の質問がお分かりですか? 従って我々は美とは何かも検討しなければなりません。宜しいですか?
 美とは何ですか? 我々は問うています、美とは何かと。美しい詩、美しい絵、人里離れた草原にたたずむ一本の美しい樹木、波の美しさ、青い海の穏やかな美しさ、高山の美、それらの際限のなさ、それらの威厳、それらの不動性、そして青空を背にするそれらの雪に覆われた稜線。そして世界中の美術館に古代の彫刻や近代絵画や古典的な彫像があり、ほとんどの我々はそれらを見ています、そして我々はそれらを見て言います、何て途方もなく美しいのかと。もしあなたがギリシャのパルテノン神殿を初めて見ると、あなたはその建築物の美にほとんど跪きます。そしてあなたが美しい男子や女子や、取り分け美しい子供を見ると、あなたはこの世の全き美に一瞬息をのみます。そうすると美は知覚する者の中にあるのですか? 私の質問がお分かりですか? 美は教えること或いは教えられることですか、世界中の絵画について教えられることですか、誰がそれを描いたのかを、現代のピカソから古代の[名前が不明瞭]などまで詳しく教えられることですか、それについて話したり、宜しいですか、それと戯れたりすることですか、それら全てが美ですか?
 それでは美とは何ですか? どのようなときにあなたは美に気づきますか? 人の顔の中に、山の中に、樹木の中に、或いは新月が初めて現れるときの鋭い銀色の微かな円弧に、そして静かな夕刻の穏やかさに、どのようなときあなたはこれら全てに気づきますか? そして美という言葉は、我々にとってただ「何て美しいのか」とだけ言えば十分なように思われます、そして我々は他のことに引き続き取り掛かります。人は素晴らしいレオナルドダビンチやミケランジェロなどの絵画を見て、立ち去り、お茶にします。違いますか? これが一般的に我々の行うことです。我々は美とは何かの問いを本当は決して検討しません。そうすると我々はいつこの際限のなさの感じと美の真理に気づくのですか? あなたが壮大な山を見ると、深い谷と青空を背にしたその雪を見ると、あなたは一瞬、その山の威厳と荘厳さとで一瞬あなたはあなたの全ての問題を忘れてしまいます、あなたの全ての悲惨さや混乱や悲しみなどその他の全てを忘れてしまいます、そして雪を頂いた峰のそのような圧倒的な広大さがあなたを吹き飛ばします、あなたの自我を吹き飛ばします。違いますか? あなたはこれら全てに気づきませんでしたか?
 そのように美は自我がないときにありえるだけです。お分かりでしょうか? 精神が、頭脳がお喋りをしていないとき、言葉の網に囚われていないとき、それが本当に全く穏やかなとき、“自分”や自我やエゴやペルソナが全くなくなるとき、人は世界や樹木や空の美の途方もない感じが本当に分かります。そうするとそのような途方もない美の感じと欲望とはどのような関係でしょうか? 我々はそのような美を捉えたいと思います、我々はそれを保持したいと思います、それと共に生きたいと思います、このような全く…の感じを手にしたいと思います、世界のあらゆる騒動や雑音や俗悪さから全く自由でいたいと思います。
 そこで我々は欲望とは何かを合理的にはっきりと健全に検討しなければなりません。欲望によって我々は生の中の非常に多くのものを築き上げてきました―偉大な建築物、そして戦争を起こし破壊などもしてきました。そこで我々は人間が持っていて、その奴隷であるこの途轍もない衝動を本当に理解しなければなりません。あなたがそれらの樹木の下に座って、その光の美を見るとき、あいにく少し暑いけれども、あなたは大いなる感覚的な感じを抱きます、違いますか―あなたが気を抜かずに気をつけているのなら、あなたの感覚は目覚めます、あなたの感覚はこれら全てに反応します。そのようにそれら樹木や光や丘々や辺りの穏やかさの感覚が感覚を呼び覚まします。あなたが車で高速道路を走りながら太平洋を見るとき、あなたはあなたの全身の感覚でそれらの海を見ますか? あなたはそのようにあなたの全身の感覚を余すことなく働かせて気を抜かずに気をつけて見たことがこれまでありますか? そうしてあなたの全身の感覚でそのように余すことなく感じるとき、部分的にではなく、一つの感覚が別の感覚よりも働くのではなく、全有機体で、全神経で、人間の全存在でそのように余すことなく感じるとき、あなたがあなたの感覚でそのように途轍もなく気をつけているとき、あなたは自己というものが全くないことに、“私”が全くいないことに気づきましたか? 我々は間もなくそこへ至ります。
 そのように我々は感覚で生きています。それは極めて明らかなことです。それらの感覚は思考に取って代わられ何らかの形やイメージを与えられます。違いますか? ごく簡単に言うと、あなたはお店で何か美しいものを見ます、あなたは中へ入り、それに触ります、それに触れてみます、その絹の質を感じて、或いはその肌触りを感じて感覚が生じます。違いますか? そうすると思考がやってきて言います、「私がそれを持てたら何て素晴らしいのでしょう、私がそれを身につけたら何て素敵なのでしょう」と。違いますか? 思考がその感覚からイメージを作り出すと欲望が生まれます。違いますか、分かりましたか? 思考がそのような感覚から何らかのイメージ―そのような美しいシャツを身につけることやそのようなローブを羽織ること、そのような車に乗ること、そのような家に住むこと、冷蔵庫を持つことなどあなたが欲しいと思うものは何でも―を築き上げると、或いは作り出すと、その瞬間に欲望が生まれます。このことは、もし人がその活動の全てに一瞬一瞬気づけば、それには大いに気をつけていて一つも見逃さないことが要求されますが、とてもはっきりしていて明らかなことです。
 そうすると問題は、思考によってそのような感覚に形が与えられることです、何らかのイメージとして、何らかの絵として、何らかの快楽として形が与えられることです、そしてその瞬間に欲望が生まれます。それでは問題は、感覚とそのような感覚からイメージを作り出す思考との間に大きな間隙が生じうるのかということです。お分かりですか? 何らかの間隙がありえますか? それには途轍もなく気をつけていることを要します、そして気をつけているときには、気を抜かずに気をつけている規律正しさが生まれます。お分かりですか? さあ、どうでしょうか、どなたかお分かりですか? あなた方はみな眠っているのですか、どうなんですか? このことは重要です、何故なら我々が絶え間なく争いの中を生きているからです、争いを理解することはその事実やその事実の結論を見ることです。お分かりですか? その事実とそのような事実から我々が作り出すものです。我々がそのような事実から作り出すものは観念や理想と呼ばれる何らかの抽象です、そしてその事実と理想との間にはいつも争いが生じます。違いますか? 宜しいですか? そしてもし我々が、感覚が生じて―それは自然です、それは健全であり、明らかなことです、人が完全に麻痺していないのなら―思考がそのような感覚に形を与えるところを見るなら、それが表現するイメージを見るなら、そしてもしそれら二つがしばらくの間別々にされることができるのなら、それらを別々にしておくには大いに気をつけていることを要します。違いますか? 従って欲望を全く抑圧しないで欲望を注意深く見守ることになります。あなたはこのことが分かるのでしょうか。何故ならもしあなたがそれを抑圧するなら、それは何らかの葛藤になります。もしあなたが「私は欲望を乗り越えます」と言うなら、それもまた葛藤のきっかけになります。一方、もし思考がどのように感覚を形作るのかに気をつけていたり、それを注意深く見守っていたりするなら、そのように気をつけていたり注意深く見守っていたりすると叡智が働きます、そして必要なときにあなたがお店へ行き買い物をしても、あなたはそれと折り合っていて、そのことで葛藤は生じません。お分かりですか? もしあなたがこのことの幾分かを少なくとも理解するのなら、何故ならこれは正にそれを―人間がこの美しい地球上で争いとは無縁に生きることができるのかどうかを―理解するために本当に重要なことだからです。我々は我々の生を毎日々々争って生きています、太古の昔から今に至るまで、それは我々に引き継がれています、争いと共に生きることです、戦争など外面的な争いだけではなく、ずっと内面深くでも互いに争っています、我々の互いの関係の中で、我々の親密な関係の中などでも争っています、そのような争いが果たして終わって頭脳が余すことなく自由でいるのかどうかということです。そしてそれが欲望の性質を理解することの重要な理由であり、そしてそれが生の、この地球の計り知れない美の感じの性質を理解することの重要な理由です。
 そこで我々は愛とは何かの問題も検討しなければなりません。それについて感傷的にならないようにしましょう、或いはロマンチックにならないようにしましょう、しかし我々が「あなたを愛しています」と言うとき、それはどういう意味でしょうか? 男性が、或いは女性が男性に、或いは男性が女性に、或いは友達同士が「私はあなたを愛しています」と言うとき、それはどういう意味でしょうか? 書物への愛があり、詩を愛すること、スポーツを愛すること、セックスを愛することなどがあり、有名なことが大好きという意味で使われる愛するという言い方もあります。我々はこの言葉をとても安易に使います。そして我々は、明らかに、その言葉の十分な意味を、愛するとはどういうことかを全く検討してきていません。愛は、明らかに、争いの別のきっかけになってきました、人は妻を愛します、そして争いや、喧嘩、嫉妬、敵意、離婚など、そのような関係のあらゆる痛みが生じます、そしてまたその快楽も生じます。そこで我々はこの問題を非常に注意深く検討しなければなりません、何故ならそれが我々の問題の解決かもしれないからです、我々がそれは頭脳の中にあるのかどうか、それともそれは頭脳の外側にあるのかどうか、愛は思考や不安、痛み、憂鬱、恐れ、孤独など―我々の意識の全内容―のように頭脳の中に含まれているのかどうかを理解するとき、それは一つの解決策かもしれないからです。愛はそのような意識の一部ですか? お分かりですか? さあ、皆さん、どうでしょうか。
質問者 はい。
クリシュナムルティ それともそれは外側ですか、全く意識の外側ですか、頭脳の外側ですか? 恐らく我々はそれらの質問を問うことさえ全く行ってきていません。あなたがそれらの質問を嫌がらないで問うことを期待します。
 そうすると我々が知っているような愛とは何ですか? 愛は我々の生に多くの争いや多くの快楽や多くの不安、恐れ、嫉妬、妬みをもたらします。あなたはこれら全てを知りませんか? そうすると欲望は愛ですか? 快楽は愛ですか? 愛は思考の領域の中にあるのですか? そして明らかにほとんどの我々にとってそれはそのような領域―争い、痛み、不安、そして思考―の中にあります。そして愛が何であるのかを理解すれば―理解するのではありません、お分かりですか、その深さ、その偉大さ、その炎、その美を手にすれば―どうして嫉妬が起こりえますか、どうして野望や攻撃性や暴力などが起こりえますか? そして人はそれら全てから完全に自由でいられますか? どうかこのことを問うてみて下さい。愛があると、あなたが何を行っても、それは正しい活動でしょう、そしてそれが人の生の中に争いをもたらすことは決してないでしょう。
 そのように嫉妬や敵意や争いや関係性の中の全ての痛みは、愛の中には、愛があるところには、居場所がないということを見るのは重要なことです。そして人はそれら全てから、明日ではなく、今自由でいられますか? 私の質問がお分かりですか? 何故なら我々が昨日指摘したように、過去であり現在や未来である時間が、全ての時間が今の中に含まれているからです。我々はそのことを昨日非常に注意深く検討しました。そしてもし我々が「私は愛を育てます」或いは「私は私の嫉妬を取り除くように努めます」などと言うなら、あなたが自由でいようとしているとき、努めてそのようにしているとき、あなたは決して自由ではないでしょう。違いますか? あなたはこのことを理解するのでしょうか。あなたが「私は最善を尽くします」と言うとき、それはとても馬鹿げています。それは人が真理に気づいていないことを、全ての時間が、過去や現在や未来が、今の中にあること、正に今の中にあること、実際に現在の中にあるという真理にあなたが十分に本当に気づいていないことを意味します。何故ならもしあなたが今何かを行わなければ、それは明日に持ち越されるからです、未来は今の中にあります。このことがお分かりですか? おーっ、しっかりして下さい!
 そうすると人は争いの全ての原因を完全に脇へ除けることができます、それは自我であり“私”です、そうするとこの炎の感じ、美や愛の偉大さが姿を現します。
 そしてまた我々は議論しなければなりません、もし時間が許すのなら、我々は宗教について話し合わなければなりません。世界の全ての組織宗教は、それらの儀式を伴う、それらの飾りのついた衣装などを纏う、それらのシンボルを抱く、あらゆるものに十字を切る、それら全ては宗教ですか? その言葉の語源ははっきりしませんが、宗教は人間と神の間を結び付けること、つなげることなどであると言われてきました。そこであなたが検討するとき、そして検討するためには懐疑する心がなければなりません、人の信心や信仰を問うことです、そうでなければあなたは恐らく検討できません、宗教についての真理を明らかにできません。ほとんどの我々は宗教について幻想の中を生きています。我々は全ての儀式や彼らの衣装や彼らの神々や彼らの式典や彼らの香などについて思考に責任があること、それら全てが思考によって作り上げられていることを決して見ません。
 そうすると宗教とは何ですか? そして実際の物事を明らかにすることが重要です、何故なら人は有史以来いつもこのことを尋ねてきたからです、つまり単なる物質的な世界以上の何かがあるのかと、その全ての混乱や複雑さや必死の努力や痛みなどを伴った物質的な世界以上の何かがあるのかと、これら全てを超えた何かがありますか? あなたはそのような問いを発しています。そして誰かが来て言います「私はそれについて知っています、私がそれについて全てをあなたに語りましょう」と―そのようなことが古代のシュメール人や古代のエジプト人そして古代のヒンズー人から始まりました、彼らは言いました「我々があなたに語ろう」と。彼らが聖職者になりました、彼らが書いたり読んだりなどした最初の人たちです。彼らはそれを人間に通訳しました、そしてそれが良い職業になりました、他の何らかの職業のように。そしてそれが有史以来続いてきています。
 そこで宗教的な精神が何かを、宗教の真理とは何かを明らかにするためには、人はあらゆる権威から、あらゆる信仰や信心から自由でなければなりません。それは何ものにも属さないことです。違いますか? 余すことなく自由でいる感じがなければなりません。
 そうすると人は真理とは何かを検討することができます、或いは観察することができます、或いは気づくことができます―真実或いは現実ではありません。その二つを区別しましょう―何と、説明すべき沢山のことがあります、ありませんか? なぜ人がこれら全てを説明しなければならないのか私は分かりません。あなたは余りにも博学であるように私には思われます、あなたは知識を持ち過ぎると思います、あなたは多くの本を読み過ぎ、教授などその他の全ての人たちの話を聞いてきました。現実とは何ですか? 現実はあなたがそこに座っていることであり、話し手がこの上にいることです。現実はそれらの樹木であり、現実は自然であり、鳥たちや海やクジラや深海の中のそれら途轍もない生物の美です。現実は外面的にも内面的にも現にあることです。自然は一つの現実です、そして現実はあなたが作り出してきた内面的な幻想でもあります、そしてあなたはそれにしがみつきます、シンボルや絵や理想化された絵画などです、どれほど幻想的であろうとあなたはそれにしがみつきます、それも一つの現実です。違いますか? そのように現実と真理は二つの異なるものです。真理は推測されるものでも、考察されるものでも、理想化されるものでもありません。それは思考の発明ではありません。そしてそのような真理を見つけるためには―見つけるためではありません―そのような真理が存在するためには、全ての計りごとや全ての思考や全ての言葉を超えているそのような永遠なものを見つけるためにあなたは瞑想しなければならないと言われてきました、あなたは瞑想しなければならないのです。そして彼らはこうも言いました、瞑想するためにはあなたは何らかのシステムやメソッドに従わなければなりませんと、そして我々があなたにそのシステムやメソッドがどういうものなのかを教えてあげましょうと。違いますか? グルたちはこのようなテーマに果てしなくつけ込んで、お金を稼いできました。違いますか?
   そこで我々は瞑想の仕方ではなく、それはとても馬鹿げているように思われます、瞑想とは何かを検討します。なぜ瞑想する必要があるのでしょうか? 瞑想、その言葉の意味は熟考すること、じっくりと考えることです。しかしそれにはもっと深い意味もあります、計ることです、瞑想することは計ることも意味します。宜しいですか、瞑想は計ることから完全に自由でいることです―計ることは比較することです、私はこれですが、私はあれになるでしょう―比較することです。比較する影を微塵も落とすことなく日常生活を生きることです。あなたはこれまでそのようにしてきましたか? そのように生きるのなら、決して手本を持たないことです、決して目標を持たないことです、決して目的を持たないことです、決して未来を思い描かないことです、それらは比較することです―私はこれですが、私はあれになるでしょう―何かになろうとしないで生きることです、何かになることは比較することです。あなたが博物館へ行くとあなたは比較します、あなたは二つの材質を比較します、一方の布は他方の布より良いと比較します、或いは一方の車を他方の車と比較します。それは自然であり、それは必要です。しかしこのように比較する感じを内面的にいつも持つとするなら、そのことから完全に自由でいることです。それは瞑想の一部です。そうすると頭脳は比較するあらゆる感じから自由です、物理的に必要なときを除いて、車やシャツや着物などのことです。それは可能ですか? 人はそのように生きられますか、決して比較しないで生きられますか? もしあなたが比較しないなら何が起こるのかを見て下さい。それは争いが消滅することでもあります。違いますか?
 そのように瞑想は何らかの実践でもなければ、何らかのシステムでもないし、マントラ―その言葉を知っていますか―を繰り返し声に出すことでもありません。あなたはその言葉の意味を知っていますか? 知らない。しかしあなたはそれを繰り返し言います。ここは非常に素晴らしい国です! その言葉の意味は、マントラの意味は何かにならないことをじっくりと考えることです。そしてそれは自己中心的な活動の全てを終わらせることをも意味します。そのサンスクリット語の語源はじっくりと考えること、何かにならないことを、何かになることの問題の全てを熟考することです。そしてそれは自己中心的な活動の全てを余すことなく脇へ除けることをも意味します。そしてもしあなたが何らかの言葉を与えられると、あなたはそれを繰り返し声に出します、あなたはただある種のゲームと戯れているだけです。それにはその価値はありません。話し手はあなたにそれを行うなと言っているのではありません。もしあなたがそうしたいのなら、あなたはそうするでしょう、もしそれが楽しいのなら、しかしそれには何の意味もありません、あなたがそれを繰り返し唱えても、アベマリアを何度も唱えても、或いはあなたの特別なマントラを唱えても、それには何の意味もありません。
 そのように瞑想は恐れからの自由を意味します、我々が話してきた争いのあらゆる感じからの自由を意味します、そしてもっとずっと真剣なことである思考の消滅をも意味します。思考は、時間である思考は止むのでしょうか。お分かりですか? そのように何故ならもし余すことなく自由でいる感じがないなら、頭脳は限りがあるものになるからであり、そしてその全ての活動は限られたものになり、そして限りのないもの、時間とは無縁なものは決して存在しえなくなるからです。
 そのように我々は問うています、思考は、時間に由来する思考は、時間そのものである思考は、それは止むことがあるのでしょうかと。恐らくあなたはこのような問いかけをしたことが全くありません。あなたの意志によってそれを止めるのではありません、それは馬鹿げています、あなたは意志によって思考を止めることはできません。意志は欲望の本質です、そして欲望を我々は以前説明しました。そうすると自ずから止む思考がありますか? 思考はドライブをするとき、ここから家に行くとき、料理をするとき、食器を洗うなどのとき使われなければなりません、それは自然なことであり、思考はそこで働かなければなりません。心理的な世界の中の思考の必要性とは何ですか? もし思考が本当に理解されるなら、その全ての活動やその始まりやその源です。その源は頭脳に蓄えられた経験や知識や記憶です、そしてそのような記憶に対する反射的な反応が思考です。これら全てのプロセスは限られています、何故なら未来や今の知識が限られているからです。あなたが思考の限界を見て取るとき、それに実際に気づくとき、その想像ではなく、それが消え去るという観念ではなく、実際に自分自身で思考は、それが何を行おうと、技術的な世界においても心理的な世界においても、いつも限られていることを見て取るとき。あなたがそのような絶対的な事実を見て取るとき、そしてある領域における思考の必要性を見て取るとき、あなたがそのことに余すことなく気をつけているとき、あなたは自分自身で思考が消滅するのを発見します。もしあなたが「それでどうなる」と言うなら、あなたは何かを見失います。そこでもしあなたが「もし思考が止むとすると何がありますか、それ以上の何かがありますか」と言うなら、あなたは我々の頭脳の働きに従います。つまり、もしあなたが私に見返りとして何かをくれるのなら、私は思考が止むかどうか見てみましょうということです。違いますか? もし思考が止むと、あなたは発見するでしょう、全く異なる何かがあることを。そしてこれが瞑想です。コントロールするのではありません、思考をコントロールするのではありません、何故ならコントロールするものは思考の一部だからです。違いますか? そのようにコントロールするものはゲームをしています。そのように思考をコントロールしようとしているコントロールするものがいつもいます。しかし思考でもあるコントロールするものがコントロールされている当のものです。コントロールするものとコントロールされるものとの間に分断は一生を通じてありません、もし人がこのことを根本的に理解できるのなら、あなたは争いを余すことなく取り除くでしょう。それゆえに、条件づけられてきて、狭められてきた頭脳は、その途轍もない活力を失いました、その大いなる計り知れない能力を失いました。もし人がこのように活動的であるなら、あなたが年齢を重ねるごとに人はもっとずっと活動的になります、あなたはもうろくしません。あなたはこれら全てが分かりますか?
 そのように瞑想はあらゆる束縛から、計ることの全てから、全ての争いから余すことなく自由でいることです。そうすると頭脳は穏やかになり、全く静まります。そしてそのような沈黙や静けさには、それ自身の美や、それ自身の真理や、その計り知れないものの絶対的な感じがあります。そのように瞑想は何らかの見返りではありません、それは実践して悟るような何かではありません、それは余りにも子供じみています。そのように真理は計られない何かであり、それに至る道はありません。そしてそれが美であり、それが愛です。
                                          1984年5月27日 オーハイ
                                                 中野 多一郎 訳