アラン W アンダーソン(A) クリシュナムルティさん、我々の前の会話で我々が知識と自己の変質という点である区別をしたことを嬉しく思いました、一つは私の世界との関係で、世界は私であり、私は世界であるという意味で、そしてもう一つは、表現は表現されているその当のものであると人が誤って考えるこの条件づけです。そうすると個人の中に何らかの変化をもたらすために何かがなされなければならないように思えます、そしてここに観察者の問題が入ってくると我々は言えます。もし個人が表現を表現されたものと取り違えないとすると、人はその混乱の中で行ってきている仕方とは異なる仕方で観察者として観察されているものに関係しなければなりません。私はもし我々がそのことをこの会話で推し進めるなら、それは我々が先に言っていたことに直接結び付くだろうと思いました。
クリシュナムルティ(K) 我々が言ったことは既知からの自由の何らかの質がなければならないということでした、そうでなければ既知は単に過去の繰り返しです、伝統の、イメージなどの繰り返しです。過去が、紛れもなく、観察者です。過去は“私”や“あなた”として、“彼ら”や“我々”として収集蓄積された知識です。観察者は思考によって過去として作り上げられます。思考は過去であり、思考は決して自由ではありません、思考は決して新しくありません、なぜなら思考は知識として、経験として、記憶として過去の反応だからです。
A はい、それは分かります。
K そして観察者は、それが観察するとき、様々な記憶や経験、知識、負った傷、絶望、希望などで観察しています、それらの背景を携えて観察者は観察されているものを見ます。そうして観察者は観察されているものと分離します。観察者は観察されているものと異なりますか? そうすると我々が既知からの自由を語っているとき、我々は観察者からの自由について語っているのです。
A 観察者からの自由、はい。
K そして観察者は伝統であり、過去であって、物事を見る、それ自身を見る、世界を見る、私などを見る条件づけられた精神です。そのように観察者はいつも分断しています。観察者は過去であり、従って全体として観察できません。
A もし人が第一人称の“私”を表現が表現されている当のものであると取り違えていて使うなら、これがその人の“私”と言うときに口に出す観察者です。
K “私”は過去です。
A 分かります。
K “私”はこれまでのことの、思い出の、記憶の、負った傷の、様々な要求の全構造であって、それら全ては“私”という言葉の中に畳み込まれています、その“私”が観察者であり、従って分断が生まれます、つまり、観察者と観察されるものです。自分はキリスト教徒と考える観察者が非キリスト教徒や共産主義者を観察します、そうするとこのような分断が生じます、条件づけられた反応や様々な記憶などを伴って観察する精神のこのような態度が生じます、それが既知です。
A 分かります。
K 私は論理的にそうであると思うのです。
A あなたは正にそのように言ってきました。
K そこで我々は問うています、精神は、その全構造は、既知から自由でいられるのかと。そうでないと、繰り返される行為、繰り返される態度、繰り返される思想が修正されたり変えられたりして続くでしょう、しかしそれは同じ方向を向いていることになります。そうすると、既知からの自由とは何ですか? 私はこれを理解することが非常に重要であると思います、なぜなら、どのような創造的な行為も...私は創造的という言葉をその元々の意味で使っています、創造的な著作、創造的なパン屋、創造的なエッセイ、創造的な絵画などの意味ではありません、そのような意味で私は話しているのではありません。創造はその言葉のより深い意味では何か全く新しいことの誕生を意味します。それ以外は創造的ではありません、それは単なる繰り返しであり、修正されたり変えられたりしている繰り返しにすぎません、つまりそれは過去です。従って既知から自由でないなら創造的な行為は全く生まれません。自由は既知の否定を意味するのではなく既知の理解であり、その理解が正に自由の本質である叡智をもたらします。
A 私はあなたのこの創造的という言葉の使い方を私が理解したかどうか確かめたいと思います。それは私にとって非常に重要であるように思われます。創造的なこれやあれや何かという、あなたが描写した意味の創造的という言葉を使う人々は...
K それはその言葉の実にひどい使い方です。
A ...なぜなら彼らの活動の眼目は単に目新しい何かだからです。
K 目新しさ、その通りです。
A 根本的に新しいのではなく、目新しいのです。
K それは創造的な書き方の類で、創造的な書き方を教えるようなものです。それはとても馬鹿げています。
A その通りです。はい、私はあなたの言った区別が分かります、そして私は全く同感だと言わなければなりません。
K あなたが新しく感じなければあなたは新しい何ものも作り出せません。
A その通りです。そして人が我々の指摘したこの他の意味で創造的であると想像するその人の活動は、実のところ我々の述べた過去につながれている観察者のそれです。
K はい、その通りです。
A そうして、たとえもし何かが本当に途方もなく目新しいと思われても、単に目新しいだけではなく途方もなく目新しいと思われても、それらは自分自身を欺いています。
K 目新しさが創造的なのではありません。
A そしてとりわけ今日では、我々は我々の文化の中でこのことについてヒステリーになっていると私には思われます、なぜなら創造的であるために人は人の注意を引こうと奇抜な何かを作り出すために単に頭を絞っているに違いないからです。
K その通りです、注意を引くこと、成功です。
A はい、それは私がそれに頭を殴られたように感じるほど目新しくなければなりません。
K 常軌を逸するなどその他の全てです。
A その通りです。しかしもしそのような緊張が増大するなら、引き続きどの世代でも人は過去を繰り返さないという途轍もないプレッシャーの下に置かれます、しかし人は繰り返すことを避けられません。
K 繰り返すことを、なるほど。それが私の自由と知識は別であると言う理由です。我々はその二つを話す必要があります、そして精神は知識から自由になりうるのかを見てみる必要があります。我々は今その点には立ち入りません、それは私にとって本当の瞑想です。お分かりでしょうか。
A はい、分かります。
K 頭脳には記憶する一方で記憶しないでいる自由がありうるのかどうか、記憶するという点で必要なときにその記憶や知識を記憶して働き、そして観察者を脱落させて観察する自由というものがありうるのかどうかを見てみることです。
A はい。そのような区別が絶対に必要であると私には思われます、そうではないとそれは明瞭ではないでしょう。
K そのように知識はここから私の住んでいる所へ帰るという意味で何らかの行動を起こすためには必要です、私はこのことのためには何らかの知識を持っていなければなりません、私は英語を話すためにはそのような知識が必要です、私は手紙を書くなどするためには何らかの知識が必要です。機能としての知識、機械的な機能としてのそれは必要です。そこでもし私がそのような知識をあなたとの関係の中で使うなら、他の人との関係の中で使うなら、私は何らかの壁を築いています、あなたと私との間に分断をもたらしています、つまり、それが観察者です。私の言っていることは明瞭でしょうか? つまり、関係性の中の知識は、人間関係の中の知識は破壊的です。つまり、知識は、伝統である、記憶である、イメージである知識は、精神があなたについて築いてきた知識は、そのような知識は分離的であり、従って我々の関係性の中に争いを生じさせます。先に我々が言ったように、分断があるところには争いが起こるはずです。この分断的な活動は、政治的であれ、宗教的であれ、経済的であれ、社会的であれ、あらゆる方面で否応なく争いをもたらすに違いありません、従って暴力を生み出すに違いありません。それは明らかです。
A その通りです。
K 宜しいですか、関係する人間同士の間に知識が割って入ると争いが起こるに違いありません、夫と妻の間、男子と女子の間です。過去である、知識である観察者が働くところにはどこでも分断が生じます、従って関係性の中に争いが生じます。
A そこで次に立ち上がる問題はこの繰り返しの堂々めぐりに支配されることから自由になるということです。
K はい、その通りです。それではそれは可能ですか? それは計り知れない問い掛けです、と言うのは人間が関係性の中で生きているからです。関係性なしに生はありえません。生は関係することを意味します。
A その通りです。
K 僧院に隠棲する人たちも関係しています、彼らがどれほど自分は一人であると思いたくても、彼らは実際に関係しています、過去に関係しています。
A はい、それは間違いありません。
K 彼らの聖者に、彼らのキリストに、彼らのブッダに、お分かりですか、それら全てに、彼らは過去に関係しています。
A そして彼らの決まり事に。
K そして彼らの決まり事に、あらゆるものに。彼らは過去の中を生きています、従って彼らは最も破壊的な人たちです、なぜなら彼らはその言葉のより深い意味で創造的ではないからです。
A はい、そして彼らがあなたの話してきたこの混乱の中にいる限り、彼らは何ら目新しいものを生み出してさえいません。
K その目新しいことというのはお喋りな人がお喋りをしない僧院へ入ることです。
A はい。
K それがその人にとっての目新しさであり、その人は言うのです、これは奇跡だと。
A はい。
K そこで我々の問題は、知識が人間の関係性の中でどのような位置を占めるのかということです。
A はい、それが問題です。
K それが一つの問題です。なぜなら人間同士の関係性が明らかに最も重要だからです。そのような関係性から我々は我々の住む社会を築き上げます、そのような関係性から我々の全存在が生じます。
A このことは初めの方の発言に我々を再び引き戻します、私は世界であり、世界は私であると。それは関係性についての発言です。それは他の多くのことについての発言でもありますが、それは関係性についての発言です。表現は表現されようとしているその当のものではないという発言は...という点でこの関係性の決裂の表明です。
K その通りです。
A ...日常の活動という点で。
K 宜しいでしょうか、日常の活動が私の生です、我々の生です。
A あらゆることです。はい、全くその通りです。
K 私がオフィスへ行こうと、工場へ行こうと、あるいはバスを運転しようと何であれ、それは生であり、生きていることです。そのように知識と自由、それらは共に共存しなければなりません、知識から分離した自由ではありません。それはその二つの調和であり、その二つが関係性の中でいつも働いていることです。
A 知識と自由の調和です。
K 調和です。それはその二つが決して別れられないかのようです。もし私があなたと大いに調和して生きたいと思うなら、それは愛であり、我々は後で議論しますが、あなたから自由であるというこの絶対的な感覚がなくてはなりません、依存することなどではなくです、この自由の絶対的な感覚と同時に知識の領域でも立ち働くのです。
A その通りです。そのように、ともかくもこの知識が、もしここで神学的な言葉を使わせえもらえば、もしこの自由に正しく関連しているなら、この知識が繰り返し救済されます、それはともかくももはや破壊的に働いていなくて私が生きるかもしれない―なぜなら我々はそのような自由にまだ至っていなくて、我々はそれをただ肯定的に仮定しているだけですから―その自由と歩調を合わせます。
K はい、我々はその自由の問題に踏み込んでいません、その意味することに。
A はい、しかし我々はこの会話であなたの言っていることを人々に誤解させないようにするという点でとても重要な何かを捉えたと私は思います。
K はい。
A 人々はあなたの言うことに十分に気をつけていないので、彼らは単にあなたの多くの発言を...として手から取り逃がします。
K 不可能であるとして。
A 不可能であるとしてか、それとももし彼らがその美学を好んでいるだけなら、それはまだ彼らに適用されていません。“そこに素敵なものがある、もし何とかしてこれを行えるなら、それは素晴らしいことではないだろうか”と。しかしあなたはそのようには言っていませんね。あなたはあなたがそう言ったと彼らが考えるようには言っていません。あなたは病理学的な点から知識について何かを言い、そしてもはや破壊的ではない知識について別の何かを言いました。従って、我々はそういう知識が悪いやつで、その他の知識が良いやつであると言っているのではありません。
K はい。
A 私はそれが見て取られることがとても重要であると思います、そして私はそれが繰り返し繰り返し何度も見て取られることを厭いません、なぜなら私はそれが容易に誤解されると強く感じるからです。
K それは非常に重要な点です、なぜなら“宗教”は人の気をつけている全エネルギーを総動員することを意味するからです。我々は我々がそこへ至るときにそのことを議論します。そのように、自由は徹底した厳格な感覚と観察者を余すことなく否定する感覚を意味します。
A その通りです、しかし厳格性それ自身はそれを生み出しません。
K 自由こそがこの厳格性を内面的にもたらします。なぜなら、知識の領域の中の自由の働きと人間関係の領域の中の自由の働きがあり、人間関係が最も重要だからです。
A はい、とりわけもし私が世界であり、世界が私であるなら。
K それは明らかなことです。そうすると知識は人間の関係性の中でどのような位置を占めるのでしょうか? 過去の経験、伝統、イメージという意味の知識です。それらは観察者です、そして観察者は人間の関係性の中でどのような位置を占めるのでしょうか?
A 知識がどのような位置を、そして観察者がどのような位置を占めるのか?
K 観察者が知識です。
A 知識です。しかし知識を単に否定的に見るだけではなく、本当の創造的な関係性の中で調和して見ることもできます。
K 私はそのように言いました。
A はい。その通りです。
K 非常に簡単に言うと、私はあなたと何らかの関係があります、あなたは私の兄弟です、夫です、妻です、それは何でもよいのです、そうすると知識は観察者として、それは過去ですが、我々の関係性の中でどのような位置を占めるのですか?
A もし我々の関係性が創造的なら...
K 創造的ではありません、もし我々が実際にあるとおりにスタートするなら。私はあなたと何らかの関係性があります、私はあなたと結婚しています、私はあなたの妻であり夫です、それではそのような関係性の中で実際に何が起こりますか? 実際に起こるのは私があなたと分離していることです。
A 実際には我々は分断していないに違いありません。
K しかし我々は分断しています。私はあなたを私の夫、私の妻と呼びます、しかし私は私の成功に関心があります、私は私のお金に関心があります、私は私の野心に、私の嫉妬に関心があります、私はそういう“私”以外の何ものでもありません。
A はい、それは分かります、しかし私は我々が何らかの混乱にここでは至っていないことを確認したいのです。
K いいえ、我々は混乱しています。
A 私が実際には我々は分離していないというとき、私は知覚レベルで何らかの機能不全が起こっていないと言っているのではありません。私はそのことに十分気づいています。しかしもし我々が世界は私であり、私は世界であると言うなら...
K 我々はそれを理論的に言っていて、我々はそれを感じていません。
A その通りです。しかしもしそれが事実なら、世界は私であり、私は世界であるというのが事実なら、このことは実際に...
K このことは私自身の中に分断がないときにだけ実際に起こることです。
A その通りです。
K しかし私の中には何らかの分断があります。
A もし私の中に何らかの分断があるなら、人と他の人との間には何の関係性もありません。
K 従って私はその観念を受け入れます、世界は私であり、私は世界であると。しかしそれは単なる観念です。
A しかし仮にそれが起こるとき...
K 待ってください、私の精神に何が起こるのかただ見てください。私はその種のことを言います、世界は私であり、私は世界であると。そうすると精神はそれを何らかの観念に、何らかの概念に設えて、そのような概念に従って生きようとします。
A その通りです。
K それは現実のものを抽象化してしまいます。
A 破壊的な感覚で。
K 私はそれを破壊的もしくは肯定的とは呼びません、これが起こっていることです。そうすると私のあなたとの関係の中で知識は、過去は、観察者であるイメージはどのような位置を占めるのですか、我々の関係の中で観察者はどのような位置を占めるのですか? 実際に観察者が分断の要因です。
A はい。
K 従って、あなたと私の間に争いが起こります。これが世界中で毎日起こっていることです。
A そうすると、この会話を一つひとつたどってきて、人は次のように言わなければならないように私には思えます、この観察者の位置が、あなたの説明してきたように理解すると、関係の不具合をもたらす要点であると。
K それが実際に何の関係性も全く生まれない要点です! 私は私の妻と寝るかもしれないし、その他のことがあるかもしれませんが、実際に何の関係性も生じません、なぜなら私は私自身の目標、私自身の野望や性癖があり、彼女には彼女のそれらがあって、我々はいつも分離していて、従っていつも互いに争っているからです。それが意味するのは過去としての観察者が分断の要因だということです。観察者が存在する限り、関係性の中に争いが生じるはずです。
A はい、それは分かります。
K 待ってください、待ってください、起こることを見てください。私がその種のことを言うと、誰かがそれを何らかの観念に、概念にして言います、どのように私はその概念を生きるのですかと。事実はその人が自分自身を観察者として観察していないことです。
A その通りです、その通りです。その人はそこに自分自身と...とを区別して見ている観察者です。
K ...その発言とを。
A はい、区別しています。
K 観察者は関係性の中に何らかの位置を占めますか? 私は言うのです、観察者が関係性の中に現れるや否や、何の関係性も生まれないと。
A 我々は何か、事実存在しさえしない何かについて話しています。
K それは存在しません。従って、我々は人間が他の人間との関係の中でなぜそのように暴力的なのかの問題を検討しなければなりません、なぜなら暴力が世界中に蔓延しているからです。ある母親がインドで私のところに先日会いに来ました、彼女はバラモン然とした非常に教養のある人でした、彼女によると、彼女の六歳になる息子が、彼女が彼に何かをするように言うと、棒を手にとって彼女を叩き出しました。それは全く訳が分からないことでした! お分かりでしょうか?
A はい。
K 母親を叩くということは伝統的に信じられないことだと考えられます、そしてその少年はそうしました。そして私は言いました、事実を見てくださいと、そして我々はそれを見ていき、彼女は理解しました。そのように暴力を理解するためには人は“分断”を理解しなければなりません。
A 何らかの分断がすでにそこにありました。
K はい。
A そうでなければ少年は棒を手に取ることはなかったでしょう。
K 国家間の分断です、お分かりでしょうか。戦争兵器の開発競争は暴力の一つの要因です。私は自分をアメリカ人と言い、彼は自分をロシア人あるいはインド人や何々人と言います、この分断が本当の暴力や憎悪の要因です。人の精神がそれを見て取ると、それは自分自身の中のあらゆる分断を切り捨てます。その人はもはやインド人でもなければアメリカ人でもロシア人でもありません。その人は、インドやアメリカやロシアという観点からではなく、その人の抱える問題を解決しようとしている人間です。そこで我々はこの地点にきました、精神は関係性の中で自由でいられるのかということです、そしてそれはその関係性が秩序正しいことを、無秩序に混乱しているのではなく秩序正しいことを意味します。
A そうでなければなりません、そうでなければ人は関係性という言葉を使えません。
K はい。そうすると精神はそれから自由でいられますか、観察者から自由でいられますか?
A もし自由でいられなければ、希望はありません。
K それが核心です。
A もし自由でいられなければ、我々はそれと共にいます。
K はい。あらゆる逃亡には、他の宗教に走ることやあらゆる種類のトリックを試みることには何の意味もありません。宜しいですか、このことにはあなたの生の事実、どのように人が人の生を生きているかの大いなる気づき、閃きを要します。結局のところ、“哲学”は真理の愛、叡智の愛を意味していて、何らかの抽象化を愛することではないのです。
A はい、叡智はこの上なく実践的です。
K 実践的です。従って、こう言うことです、人間は自由の中の関係性を生きて、それでも知識の領域の中で活動できるのかということです。
A それでも知識の領域の中で活動できるのか、はい。
K そして絶対的に秩序正しくいられるのか。そうではないとそれは自由ではありません。なぜなら秩序は徳行を意味するからです。
A はい。
K それは現代では存在しません。何ごとの中にも徳行という感覚は存在しません。徳行は創造的なものであり、生きているものであり、活動しているものです。
A もし私が正しく理解しているなら、あなたの本当に言っていることは、厳密な意味で行動する能力は創造的でなければならないと、そうでなければそれは行動ではなく単なる反射的反応であると。
K 繰り返しです。
A 繰り返しです。行動する能力、あるいはあなたの言うように、徳行は秩序という意味合いを必ず帯びます。そうであるはずです。繰り返しには出口がないように私には思われます。
K はい。それでは私は戻ってもよいですか? 現に存在する人間関係の中には、争い、性的暴力等々、あらゆる種類の暴力があります。それでは、人は余すことなく平和に生きることができますか? そうでなければ人は創造的ではありません、人間関係の中で、なぜなら、それがあらゆる生の基礎だからです。
A 私はあなたのこのことを追究してきた仕方に非常に驚きます。あなたがこの問いを発したとき、つまり、それは可能ですか、と問うたとき、私が気づくのは、それの言及するのがいつも余すことのない何かであるということです、そしてここで言及しているのは何らかの断片あるいは断片化あるいは何らかの分断です。あなたはかつて一度も一方から他方へ通じる活動が存在するとは言っていません。
K はい、それは存在しえません。
A 私は思うのですが、クリシュナムルティさん、あなたの行ってきた発言ほど把握するのに難しいものはありません。我々は子供の時からそのような可能性を真剣に受け止めることとして教えられたことは全くありません。人はどのように誰もが教育されてきたのかについて包括的な発言をしたくありません、しかし私は自分自身のことを考えています、子供の時から大学院を通じてずっと、私はあなたの話してきたこの知識を沢山収集蓄積しています。私は誰も思い出せません、私にそのような文献があると言った人を、そのような文献があると指摘した人を、つまりその文献の中で、一方と他方をよく区別して、それぞれの立場から、お互いが通じ合うことはないとする文献です。
K はい、そうです。
A そうすると、私があなたをこのように理解することは正しいですか?
K 全くその通りです、断片は全体になりえません。
A 断片は全体になりえない。
K しかし断片はいつも全体になろうとしています。
A その通りです。そうするともちろん、あなたが大いなる熱気で極めて明瞭に取り組んだこの非常に真剣で献身的な思索と探究の年月の中で、私は思うのですが、あなたに思い当たったに違いないことは、この最初の光景が―人が観察者の条件づけの中にいるとき―非常に驚くべきことであるに違いないということです、つまり、出口がない思考の光景です。
K しかし、宜しいですか、私はそのようには決してそれを見ませんでした。
A どのようにそれを見たのかどうぞ話してください。
K 子供の時から私は自分がヒンズー教徒であると決して思いませんでした。
A はい。
K 私は決して、私がイギリスで教育を受けたとき、私がヨーロッパ人であるとは考えませんでした。私はそのような罠には決して陥りませんでした。私はそれがどのようにして起こるのか知りません、私は決してそのような罠には嵌りません。
A それでは、あなたがとても幼いとき、あなたの遊び友達があなたにあなたはヒンズー教徒だとと言ったとき、あなたは何と言ったのですか?
K 私は恐らくヒンズー主義やブラフマンの伝統のあらゆる罠を身に纏っていたけれども、それは決して深く浸透しませんでした。
A 我々が母国語で話すように、それはあなたに決してしみ込まなかった。
K それは決して私にしみ込まなかった、その通りです。
A なるほど。それは非常に特筆すべきことです、それは途方もないことです。世界中の大多数の人たちにはこの点で“しみ込んで”きました。
K それが私の、宜しいですか、プロパガンダが変化の手段になってきたと考える理由です、しかしプロパガンダは真理ではありません、繰り返しは真理ではありません。
A それも暴力の形です。
K 正にその通りです。そうすると、単純に観察する精神はそれが観察するものをその条件づけに従って反応しません。それはどのようなときにも観察者がいないということを意味します、従って分断がありません。それが私に起こりました、どのようにそれが起こったか私は知りません、しかしそれは起こりました。そしてこれらを観察する中で私はあらゆる種類の人間関係の中にこの分断があり、従って暴力が生じるのを見て取りました。そして私にとって関係性の欠如の正に本質は“私”と“あなた”という要素です。
このことが我々を次の点に導きます、宜しいでしょうか、人は問います、分離と断片化の中で進化してきた人間の精神は...
A それが進化ということです、はい。
K そのような精神は変質できるのかどうか、影響やプロパガンダや脅しや罰によって生み出されるのではない再生を遂げられるのかどうか、なぜなら、もしそれが見返りを得ようとするので変わるなら...
A それは変わっていません。
K ...それは変わっていません。そのように、それは人が問わなければならない根本的なことの一つです、そしてそれを行動で応えるのです、言葉でではありません。人間の精神は矛盾の中を、二重性の中を、“私”と“私でないもの”、この伝統的な分裂、分断、断片化の中で進化してきました。それでは、そのような精神はこの事実を観察者なしに観察できますか、というのは、そのときのみ何らかの再生があるだけだからです。それを観察している観察者がいる限り、争いが生じます。私は明瞭に話しているかどうか分かりません。
A はい、あなたは明瞭に話しています。
K 宜しいでしょうか、困難なことは、ほとんどの人たちが耳を傾けようとさえしないことです。
A それは分かります。
K 彼らが耳を傾けても、彼らは彼らの結論に照らして聞くのです。もし私が共産主義者なら、私はあるところまではあなたに耳を傾けます。それを過ぎると私はあなたに耳を傾けません、そしてもし私が少し狂っているなら、私はあなたに耳を傾けて、私の聞くことを私の狂った何かに従って解釈します。
A その通りです。
K そのように、人は途方もなく真剣に耳を傾けなければなりません。真剣にというのは私の特異な偏見や性向を脇へ追いやって、あなたの言っていることに耳を傾けるという意味です、なぜなら耳を傾けることは奇跡だからです。あなたの言ったことで私は何をしましょうか、ということではないのです。
A ...するために私は何を聞くのか、ではなく。
K ...耳を傾ける行為です。あなたはよく耳を傾けます、なぜならあなたは明らかにしたいからです。しかし大多数の人たちは言います、何をあなたは話しているのですか、私は楽しんでいたいのです、だから他の誰かの所へ行って話しなさいと。そこでそのような雰囲気を作るために、そのような場を作るために、生は恐ろしいほど真剣なものであるという感じを出すために、人は言います、友よ、耳を傾けてください、それはあなたの生です、それを無駄に使わないでください、耳を傾けてくださいと。人に耳を傾けるようにすることはこの上もなく重要なことです、なぜなら我々は聴こうとしないからです。それはとても不安なことです。
A 分かります。私は時々教室で正にこのことを試みてきました。時々私は我々が動物を見るように提案します、とりわけ野生の動物です、なぜなら、もしそれが耳を傾けていないなら、それはたぶん死んでいるだろうからです。
K 死んでいる、はい、その通りです。
A 野生の動物はそのように途方もなく気をつけています、そしてその生命の各瞬間が何らかの危機です。
K その通りです。アメリカで今起こっていることは、私が観察すると、私は間違っているかもしれませんが、人々は真剣ではありません。彼らは新しいことを、何か面白いことを弄んでいて、一つのことから他のことへ飛び移ります。そして彼らはそれが何かの追求であり、何かの探索であると考えますが、彼らは一つひとつに囚われて、結局死んでいる灰以外は手にしません。そのように人間が真剣でいて、耳を傾け、現実の自分自身を見ることが―自分がどうあるべきかではなく―益々難しくなっています。この会話であなたは耳を傾けています、なぜなら、あなたは興味を持っていて、あなたは明らかにしたいと思うからです。しかし大多数の人たちは言います、後生だから、放っておいてくださいと、私には私のささやかな家庭があります、私の妻がいます、私の車があります、私のヨットなどそのようなものがあります、だから私の生きている限り、後生だから何も変えないでくださいと。
A 宜しいですか、私が知っていることについて振り返ってみると、私は会議に参加していて時々自分自身に言い聞かせてきました、会議で論文が読み上げられていても誰も聞いていないと、つまりそれは一つの長い独白であり、人はしばらくしてそれは本当に何とも時間の無駄であると気づくのです。そして授業の合間に椅子に座ってコーヒーを飲みながらの議論のときでさえも通常のお喋りの域を出ません、我々はただ我々の本当には興味を抱いていないことをその場を満たすために話しているにすぎません。このことは、それでも、単に起こっていることを記述することよりも遥かに真剣な事柄です。
K それは、私は感じますが、生と死の問題です。
A その通りです。
K もし家が燃えているなら、私は何かをしなければなりません。私は誰が家に火をつけたかを議論しようとは思いません、その人の髪の毛が何色だったか、それが黒色だったか白色だったか紫色だったかを、私はその火を消したいのです。
A あるいは、もし何々が起こらなければ、家は燃えていないだろうと。
K そして私はそれがとても急を要することだと感じます、なぜなら私はそれをインドやヨーロッパやアメリカで目にするからです。私の行くあらゆるところで私はこの気のゆるみや絶望感そして希望を失った活動が起こっているのを目にします。
それでは、我々が言っていることに戻ると、関係性がこの上もなく重要です。そのような関係性の中に争いが生じると、我々はその争いを更に推し進める社会を、教育を通じて、国家の主権を通じて、その他の全てを通じて生み出します。従って、真剣な人間は、本当に関心を抱く、献身的な人という意味での真剣な人間は、この関係性、自由そして知識の問題に余すことなく気をつけていなければなりません。
A もし私があなたの言うことを正しく聞いたのなら、そして私は我々の間に交わされた言葉をそれで意味するのではありませんが、もし私があなたの言うことを正確に聞いたのなら、私は何か非常にぞっとすることを聞きましたが、私の思うに、我々が部分的に言い表したこの秩序の乱れの中には何らかの織り込み済みの必要性があるのではないかと。それが存続する限り、それは決して変わりえないと。
K それは明らかなことです。
A それをどのように修正しても...
K ...更なる秩序の乱れ。
A ...同じことが更に。
K 同じことが更に増す。
A 私は感じます、私があなたを正しく理解したことを望みますが、この必要性の堅固さと段階的な進歩はありえないという事実との間に何らかの関係があると。しかしそれでも、この秩序の乱れの中に起こる進歩というよりも同じものの増殖である何らかの悪魔的な進歩があります。必然的にそうなります。それがあなたの言ってきたことですか?
K はい。私は先日言われました、“進歩”という言葉は完全武装して敵国へ入って行くことを意味すると。
A 本当ですか! 完全武装して敵国へ入って行くこと!
K 宜しいでしょうか、これが起こっていることです。
A 知っています。次回は正にこの点から再び続けたいと私は切に思います、すなわち、この必要性とそのような発言を生んだ必要性です。
1974年2月18日
中野 多一郎 訳