クリシュナムルティ 今宵、私は死の問題を検討したいと思います。私はそれを年齢や成熟、時間や否定―それは愛です―として話したいと思います。しかし、それを検討する前に、私は思います、我々は非常に明確に、そして、深く理解しておくべきことがあると、つまり、恐れが、それがいかなる形であろうとも、理解を歪めて幻想を生み出すということ、そして、その悲しみが精神を鈍くするということです。鈍くなった精神は、何らかの幻想に囚われた精神は、恐らく、死の途方もない問題を理解できません。我々は幻想の中に、空想の中に、神話の中に、様々な形の物語の中に逃げ込みます。そのような無能な精神は、恐らく、我々が死と呼ぶこのことを理解できません、我々が以前に話していたように、悲しみによって鈍くなった精神も同様です。
恐れと悲しみの問題は、あなたが哲学的に取り組む問題でもないし、何かに逃げることによって、あなたからそれを取り除くことでもありません。それは影のようにあなたに付きまといます、人はそれと、直に、待ったなしに取り組む必要があります。我々はそれを毎日毎日引きずることはできません、我々がいかに深く悲しみと恐れを考察しようと、それが意識的であろうと無意識的であろうと、それは瞬時に理解される必要があります。理解するとは、瞬時のことです。理解は時間の中で生ずるのではありません、それは継続する探究や追究や問いかけや要求の結果ではありません。あなたがそれを余すことなく完全に瞬時に見て取るのか、それとも、あなたはそれを全く理解しないかのいずれかです。私は、この前の二つのトークで、我々が恐れと悲しみを考察したとき、そのことに十分取り組みました。
今宵、私は、我々にはお馴染みのこの死と称するものを検討したいと思います。我々はそれを観察してきました、我々はそれを見てきました、しかし、我々はそれを決して経験してきていません、死の門をくぐるのは決して我々の運命ではありませんでした。それは途方もない状態に違いありません。私はそれを検討したいと思います、感傷的にではなく、ロマンティックにではなく、既存の一連の信仰とは関係なく、実際に事実として、今マンゴーの木の中で鳴いているカラスの声を聞くように、実際の事実として、それを理解したいと思います。しかし、何かを事実として理解するためには、あなたはその木の中で鳴く鳥の声を聞くように、文字通り気を付けて耳を傾けなければなりません、気を引き締めるのではなく、耳を傾けるのです、あなたは言いません、“カラスだ、私は話を聞きたいと思っているのに、うるさい奴だ”と、しかし、あなたはその鳥に文字通り気を付けて耳を傾けていると共に、言われていることにも文字通り気を付けて耳を傾けています。しかし、あなたが話し手の話だけ聞きたいと思って、その鳥やその鳴き声を拒絶するとき、あなたはその鳥の鳴き声も話し手の話も聞いていません。そして、私は思います、あなたが複雑で深遠な問題に耳を傾けるとき、それがあなた方のほとんどが行っていることではないのかと。
ほとんどの我々が我々の精神を余すことなく完全に働かせてきていません。あなたは思考をその最後まで決して見届けていません。あなたは何らかの観念と決して取っ組み合っていません、観念の意味することを余すことなく見てきていません、そして、それを超えることをしてきていません。そのように、それは非常に難しくなります、もしあなたが文字通り気を付けることをしないなら、つまり、もしあなたが楽に、楽しんで、進んで、面白がって耳を傾けないなら、そこには何の緊張も努力も要りません。それはほとんどの我々にとって行うのが非常に難しいことです―耳を傾けることです。なぜなら、我々はいつも言われていることを解釈しているからです、我々は言われていることに決して耳を傾けていません。
私はこの死の問題を検討したいと思います、あなたの死ではありません、私の死でも誰かの死でもありません―あなたの好きな人あるいは好きではない人の死ではありません―死という問題です。我々はイメージやシンボルにがんじがらめになっています、我々にとってシンボルが途方もなく重要です、シンボルがリアリティーを押しのけて事実を装います。私が死について話すと、あなたはすぐにあなたが失った人のことを考えます、そして、それが事実を見ることを妨げるようになります。私はそれをいろいろな方法、異なった方法で取り組もうと思います、死とは何かだけではなく、来世とは何かではなく―それらは全く未熟な質問です。あなたが死の意味する途方もないことを理解するとき、あなたはそのようなことを問いません、来世とは何かと。我々は成熟とは何かを考えてみる必要があります。成熟した精神は決してこのように問いません、来世とは何か、死後に生はあるのか、何らかの継続性はあるのかと。そのように、我々は成熟した思考とは何かを理解する必要があります、成熟とは何か、年齢とは何かです。
ほとんどの我々は年齢が何であるか知っています、なぜなら、我々は年を取るからです、それを好もうと好むまいと。年齢は成熟ではありません。年齢は知識とは何の関係もありません。年齢は知識を獲得しますが、それは成熟ではありません。しかし、年齢は大いなる知識やそれが獲得してきた伝統と共に継続します。年齢は、年を重ねて絶えず使われている有機組織の機械的なプロセスです。争いや労苦や悲しみや恐れの中で絶えず消費されている身体―何かに駆り立てられている有機組織―はすぐに老います、機械のように。しかし、年を重ねた有機組織は成熟した精神ではありません。そのように、我々は年齢と成熟の違いを理解しなければなりません。
ほとんどの我々は瑞々しく生まれます、しかし、年を重ねた世代がすぐに若い人たちを老けさせます。前の世代の、知識を重ね、老いぼれて、醜く、悲しい、恐れる世代が若い世代に影響を与えます。彼らはすでに年老いて死んで行きます。これがその前の社会構造に縛られた各世代の運命です。そして、社会は新しい人間を求めません、新しい存在を求めません、それは社会が期待する人間を求めています、それが人間を作ります、それが人間を形作ります、そのようにして、それは若さの新鮮さや無垢を破壊します。これが世界中の至る所で我々が全ての子供たちに行っていることです。そして、そのような子供は、その子が大人になるとすでに老けています、彼は決して成熟していません。
成熟は社会の破壊です、社会の心理的構造の破壊です。もしあなたが自分自身に余すことなく容赦しないなら、もしあなたが社会から完全に解放されていないなら、あなたは決して成熟しないでしょう。社会構造―貪欲や嫉妬、権力、地位、服従の心理的社会構造―もしあなたがそれらから心理的に解放されないなら、あなたは決して成熟しないでしょう。そして、あなたには成熟した精神が必要です。独立して成熟している精神、無能にされていない精神、傷を負わされていない精神、義務を負っていない精神、そのような精神のみが成熟した精神です。
そして、あなたはこのことを理解しなければなりません、成熟は時間の問題ではないということです。もしあなたがあなたの生まれ育って受けてきた教育の心理的な社会構造を何ら歪めることなく非常に明瞭に見て取るなら、それを見て取った瞬間、あなたはそれから抜け出ています。従って、瞬時に成熟します、そこでは時間は関与しません。あなたは徐々に成熟できません、成熟は樹木の果実とは違います。樹木の果実には時間が必要です、闇や新鮮な空気や日光や雨が必要です、そして、そのプロセスの中、それは成熟して結実します。しかし、成熟に結実は無用です、成熟は瞬時であり、あなたは成熟するのか成熟しないのかのいずれかです。非常に重要なことは、あなたの精神があなたの育てられている社会構造にいかに心理的に囚われているのかを見て取ることです―社会があなたを社会の期待する人間に仕立て上げてきたことです、社会があなたを社会に順応する人間に仕立て上げてきたことです、社会があなたを社会の活動のパターンに染め上げてきたことです。
私は思います、人は余すことなく瞬時に社会の毒性を見て取ることができると、人が毒と表示された瓶を見るように。あなたが、それをそのように見ると、あなたはそれに触りません、あなたはそれが危険であると分かるからです。しかし、あなたは知りません、社会が危険であることを、それは人間の成熟にとって最も恐ろしいものであることを。なぜなら、成熟は独立した精神の状態です、一方、この心理的な社会構造は決してあなたを一人にしておきません、それはいつもあなたを形作ります、意識的にも無意識的にも。成熟した精神は完全に独立した精神です、なぜなら、それは、それが自由であることを理解しているからです。そして、この自由は瞬時のものです。あなたはそのために何かをすることはできません、あなたはそれを追い求めることはできません、あなたはそれを手にするために自己に規律を課すことはできません―そして、それが自由の美です。自由は思考の結果ではありません、思考は決して自由ではありません、決して自由ではありえません。
そうすると、もし我々が成熟の性質を理解するなら、我々は時間と継続性を見ていくことができます。ほとんどの我々にとって、時間は実際に存在する現実です。時計的な時間は実際にある現実です―我々はこの集まりを七時あるいは七時十五分に終えなければなりません―あなたの家に帰るには時間がかかります、知識を獲得するには時間がかかります、何らかの技術を習得するには時間がかかります。しかし、それらの時間を除いて、何らかの他の時間があるでしょうか? 心理的な時間がありますか? 我々は心理的な時間を作り上げてきました、距離や空間によってはかられる時間、私とそうありたい私、私とそうでなければならない私、過去である私から私である現在を経由して私である未来へと広げてきました。そのように、思考は心理的な時間を作り上げます。しかし、そのような時間が存在するでしょうか? そうすると、自分自身で明らかにするために、あなたは継続性を考察しなければなりません。
我々にとって継続性という言葉は何を意味するのでしょうか? 我々がよく口にするその言葉の背後にある意義とは何でしょうか? 宜しいでしょうか、もしあなたが何か―例えば、あなたが経験した何か楽しいこと―を考えると、絶えず、来る日も来る日も、絶え間なく考えると、そのことが過去の楽しいことに継続性を与えます。もしあなたが苦痛に思うことについて考えると、それが過去のことであれ未来のことであれ、それがそのことに継続性を与えます。それは非常にシンプルです。私は何かが好きで、それについて考えます、そうすると、それについて考えることが、その経験とそれについての考えと私がそれを再び経験したいと思う事実との間に何らかの関係性ができます。宜しいでしょうか、これは非常にシンプルなことです、もしあなたがそれをよく見てみれば、それは複雑なことではありません。もしあなたが継続性の何かを理解しないなら、あなたは私が死について言おうとしていることを理解しないでしょう。あなたは私の言っていることを理論や信念としてではなく、あなたが自分自身で見て取る実際の事実として理解しなければなりません。
もしあなたが、あなたの妻やあなたの家やあなたの子供たち、あるいは、あなたの仕事のことを絶えず考えていると、あなたは何らかの継続性をこしらえています、違いますか? もしあなたが何らかの恨みや恐れや罪の意識を抱えていると、そして、もしあなたがそれを折にふれて思い出したり、記憶していたり、過去から取り出したりすると、あなたは何らかの継続性をこしらえています。そして、我々の精神はそのような継続性の中で機能します、我々の全ての思考がそのような継続性です。心理的にあなたは暴力的です、そして、あなたは非暴力について考えます、それは理想です、そのように、非暴力を考えることによって、あなたは暴力的である継続性を築き上げています。宜しいでしょうか、このことを理解することは重要です、このことは非常にシンプルです、一度あなたがこのことが分かると、そのような思考、何かについて考えることが継続性をもたらします、それが楽しいことであろうと不快なことであろうと、それがあなたに喜びをもたらそうと苦痛をもたらそうと、それが過去のことであろうと明日あるいは来週起ころうとしていることであろうと。
そのように思考こそが継続性をもたらします、毎日毎日、毎月毎月、三十年間あなたの精神が死んだ精神になるまで会社へ通うように。そして、あなたは、同様に、あなたの家族との継続性を築いています。あるいは言います、これは私の家族ですと、あなたはそのことを考えます、あなたはそれを守ろうとします、あなたは何らかの構造物を、心理的な防御物を、それをあなたの周りに築こうとします。そのように、家族が途方もなく重要になり、あなたは破壊されます。家族は破壊します、それは恐ろしいものです、なぜなら、それは個人を抱え込む社会的構造の一部だからです。そのように、何らかの継続性を築き上げると、心理的にも物理的にも、時間が非常に重要になります、時計的時間ではなく、何かに到達する手段としての時間です、心理的に何かを成就する、何かを獲得する、何かを成功させる手段としての時間です。あなたは成功しません、獲得できません、もしあなたがそれについて考えないなら、あなたがそのことに精神を集中させるまで。そのように、心理的に内面的に継続する願望は時間の仕業です。そして時間は恐怖を生みます、そして時間としての思考は死を恐れます。
もしあなたが内面的に全く時間とは無縁なら、死は瞬時の出来事です、それは恐れる対象ではありません。つまり、もし一瞬一瞬思考が快楽や苦痛に継続性を与えないなら、何らかの成就やその不首尾に、何らかの侮辱や賞賛に、思考が注意を傾けるあらゆるものに継続性を与えないなら、死は一瞬一瞬起こります。人は一瞬一瞬死ななければなりません―理論的にではありません。それがこの思考の働きを理解することの重要な理由です。思考は単なる反射的反応であり、過去の反射的反応です、それには何の正当性もありません、それにはあなたが実際に目にする樹木のそれはありません。
そうすると、死の途方もない意義を理解するためには―死には何らかの意義があります、私はそれをこれから検討します―あなたはこの継続性の問題を理解しなければなりません、その真理を見て取らなければなりません、継続性をもたらす思考の働きを見て取らなければなりません。私はあなたの顔が好きです、私はそのことを考えます、そのようにして私はあなたとの継続する関係性を築き上げています。私はあなたが好きではありません、私はそのことを考えます、そのように私はそれを築き上げます。宜しいでしょうか、もしあなたがあなたに快楽や苦痛をもたらすことを考えないなら、明日のことを考えないなら、あなたが手に入れようとしていることを考えないなら―あなたが何かを成功させようとしていることであれ、あなたが名を遂げたい、有名になりたいと思っていることであれ何であれ―もしあなたがあなたの徳やあなたの世間体、人があなたのことをどう言うのか言わないのかを全く考えないなら、もしあなたが余すことなく完全に無関係なら、継続性は生じません。
私は知りません、あなたが何にも全く無関心かどうか―私は物事に馴れることを言っているのでありません。あなたはボンベイの醜さに慣れています、道路の汚れやあなたの生き方に慣れています。あなたはそれらに慣れています、しかし、それはあなたが無関心であることを意味しません。何かに習慣として馴れると、精神を鈍くします、精神を無神経にします、しかし、無関心は全く違う何かです。無関心は、あなたが習慣を否定するとき、否認するとき生まれます。あなたが醜いものを見て、それに気づくとき、あなたが夕空の美しさを見て、それに気づくとき―それを願うのでも否定するのでもなく、それを受け入れるのでも退けるのでもなく、何ものにも決して戸を閉ざさず―そのように、完全に内面的に、あなたの周りのあらゆるものに対して感受性豊かでいると、そこから途方もなく力強い無関心が生まれます。そのような力強さは脆くて繊細です、なぜなら、それは抵抗とは無縁だからです。しかし、抵抗するだけの精神は、習慣に囚われています、従って、それは鈍く愚鈍で無神経な精神です。
無関心な精神は、我々の文明のみすぼらしさに気づいています、我々の思考のみすぼらしさに気づいています、我々の醜い関係性に気づいています、そして、それは街頭の様子に気づいています、樹木の美に気づいています、あるいは、愛らしい顔や笑い顔の美に気づいています、そして、それはそれを否定もしなければ、それを受け入れもしません、それはただ観察するだけです―知的にではなく、冷たくではなく、その温かい愛情のこもった無関心で観察するだけです。そのような観察は超然としたそれではありません、なぜなら、そこには何の執着もないからです。精神が何かに執着しているときだけ―あなたの家や家族や仕事に―あなたは超然とする精神を語ります。しかし、宜しいでしょうか、あなたが無関心のとき、そこには優しさがあります、そこには香りが漂います、そこには途轍もない生命力があります、それはその言葉の辞書的な意味とは違うかもしれません。人は無関心でいる必要があります―健康にも、孤独にも、人々の言うことや言わないことにも―あなたが成功するのかしないのかに、権威に無関心でいる必要があります。
宜しいでしょうか、もしあなたが観察すると、あなたは誰かが発砲しているのを耳にします、あなたは銃声を聞くと、いとも簡単にそれに馴れます―恐らく、あなたはすでにそのことに慣れています―そして、あなたはそれに耳を塞ぎます。それは無関心ではありません。無関心でいるのは、あなたがそのノイズに何の抵抗もしないで、それに触れながら、それに果てしなく乗っかって耳を傾けているときです。そうすると、そのノイズはあなたに影響しません、あなたを歪めません、あなたを無関心にさせません。そうして、あなたは世界中のあらゆるノイズに耳を傾けます―あなたの子供たちのノイズ、あなたの妻のそれ、政治家たちのお喋りのそれ―あなたはそれに無関心に完全に耳を傾けます、従って、あなたはそのノイズが何であるのかを理解して耳を傾けます。
時間と継続性を理解する精神は、時間に無関心であるに違いありません、そして、それは、あなたが時間と称するそのような空間を娯楽や何かの崇拝やノイズや読書や映画などあなたが今行っているあらゆる手段で埋めようとしないはずです。そして、それを思考や何らかの行動、何らかの娯楽や感興、飲酒、女性や男性、神やあなたの知識などで埋めることによって、あなたはそれに継続性を与えます―そうすると、あなたは死ぬということが何であるのかが決して分からないでしょう。
宜しいでしょうか、死は破壊です、それは最終的なものであって、あなたはそれと議論できません、あなたは言えません、“いや、ちょっと待って下さい”と。あなたは議論できません、あなたは頼めません、それは最終的です、それは絶対的です。我々は決して最終的で絶対的なものに向き合いません、我々はいつもそれを避けます、そして、それが我々の死を恐れる理由です。我々は何らかの観念や希望や恐れを発明します、そして、何らかの信仰を抱きます、“我々は救済される、我々は再生する”と―それらはすべて精神の狡賢さであり、何らかの継続性を願っています、それは時間を出自としていて事実ではありません、それは単なる思考的産物にすぎません。宜しいでしょうか、私が死について話すとき、私はあなたの死や私の死について話しているのではありません―私は正に死について話しています、その途方もない現象について話しています。
あなたにとって、川はあなたの良く知っている川を意味します、ガンジス河であり、あなたの村の周りの川です。あなたが川という言葉を聞くと、すぐに特定の川のイメージが頭に浮かびます。しかし、あなたは決してあらゆる川の本当の性質を知りません、本当の川がどういうものか知りません、もしあなたが特定の川のシンボルを思い浮かべているなら。輝く川の水の流れ、愛らしい堤、堤の上の樹木―特定の川ではなく、あらゆる川の川たる所以です、あらゆる川の美であり、あらゆる川の曲線であり、あらゆる川の水のほとばしりです。特定の川だけを見る人は、取るに足らない浅薄な精神の持ち主です、しかし、その川を水の活動として―特定の国や特定の時や特定の村のそれではなく、その美として―見る精神は、特定のものから抜け出した精神です。
もしあなたが山のことを考えると、あなたは恐らく思い浮かべるでしょう、いわゆる宗教書やその他の類によって育てられたインド人として、山はあなたにとってヒマラヤ山脈であると。そのように、あなたはすぐにそれをイメージしますが、山はヒマラヤ山脈ではありません。山は青空の中に聳えるその高さであり、どこの国のものでもなく、白い雲に覆われ、風や地震によって形作られたそれです。
精神が広大な山々やどこの国のものでもない川のことを考えると、そのような精神は取るに足らない精神ではありません、それは小さなことに囚われていません。もしあなたが家族のことを考えると、あなたはすぐにあなたの家族のことを考えます、そのように、家族は恐ろしいものになります。そして、あなたは決して人間の家族全般のことを議論しません、なぜなら、あなたはいつも思考の継続性から、あなたが属する特定の家族に言及するからです。
そのように、我々が死について話すとき、我々はあなたの死や私の死について話すのではありません。あなたが死のうと私が死のうと、それは本当に重要ではありません、我々は死にます、幸福に、あるいは惨めに死にます、幸福に、完全に、あらゆる感覚を、我々の全存在を十分に生きて、全く健康のまま死にます、あるいは、惨めにも年齢と共に体を壊して、不満を抱き、悲しみに暮れ、幸福で豊かな日々を全く知らずに、我々が見てきた至高の瞬間を決して垣間見ることなく死にます。そのように、私は死について話しています、特定の人の死のことではありません。
死は消滅です。そして、我々が怖がるのは、我々が恐れるのは消滅です―あなたの仕事の消滅、止めること、なくなること、あなたの家族の消滅です、あなたが愛すると思う人の消滅です、あなたが何年も考えてきた継続する何かの消滅です。我々が恐れるのは消滅です。私は知りません、あなたが意図的に、意識的に、故意に何かを消滅させることを考えたことがあるのかどうかを―あなたの喫煙や飲酒、寺院へ参拝すること、あなたの権力欲など―それを完全に一瞬のうちに消滅させることを、外科医のナイフが癌を切り取るように。あなたはこれまで、あなたにとってこの上なく快楽的な何かをそのように切り取ったことがありますか? 苦痛をもたらすものを切り取るのは簡単です、しかし、快楽をもたらすものを、外科的な正確さと紛れもない慈しみで意図的に切り取るのは簡単ではありません、それを切った後で、明日あるいは次の瞬間に何が起こるのか知ることなく、そうするのは簡単ではありません。もし何が起こるのか知っていてあなたが切り取るなら、あなたはそのように手術していません。もしあなたがそのように行うと、あなたは死の意味することが分かるでしょう。
もしあなたがあなたの身の回りのあらゆるものを、あらゆる心理的ルーツ―希望や絶望、罪、不安、成功、執着など―を切り取るなら、この手術によって、この社会的構造の否定から、あなたが手術を完全に行っているとき、あなたは何が起こるのか知ることなく、この余すことのない否定から、あなたが死と称するものに向き合うエネルギーが生まれます。あなたの知っているあらゆるものを、正に死んでやり過ごすことが、あなたが知っているあらゆるものを、意図して切り捨てるのが死ぬことです。あなたはいつかそれを試みます―それを明らかにしようとする意識的で意図的な慢心をもってそうするのではなく―それをただ試みます、そうすることを面白がります、というのは、意図的で意識的な努力よりも、それを面白がる方が、あなたにはより学ぶものがあるからです。あなたがそのように否定すると、あなたは破壊しています、そして、あなたは破壊しなければなりません、というのは、確かに、破壊から純粋な何かが生まれるからです、汚れていない精神が誕生するからです。
過去の世代が築き上げてきたいかなるものも、心理的に継続するに値しません。社会を見て下さい、過去の世代がもたらした世界を見て下さい。もし人が世界をさらに混乱させようとしても、さらに惨めにしようとしても、人はそうできません。あなたはそれら全てを瞬時に拭い去らなければなりません、それを掃きだめに捨てなければなりません。そして、それを切り捨てるためには、それを掃いて捨てるためには、それを破壊するためには、あなたは理解する必要があります、そして、理解するよりも、さらに何かが必要です。そのような理解の一部がこの慈しみです。
宜しいでしょうか、我々は愛していません。愛が生まれるのは、何もないときだけです、あなたが全世界を否定したときです―“世界”と称される途轍もないものではなく、正にあなたの世界です、あなたが生きている小さな世界です、家族であり、何らかの執着であり、喧嘩であり、何らかの支配であり、あなたの成功であり、あなたの希望であり、あなたの罪であり、あなたの従順さであり、あなたの神であり、そして、あなたの神話です。あなたがそれら全ての世界を否定すると、何も完全に残っていないと―神も希望も絶望もなく、何も追い求めないとき―そのような大いなる空虚から愛が生まれます、それには途方もないリアリティーがあり、それは途方もない事実です、そして、それは家族との継続性を抱える精神によっては呼び起こされません、セックスや欲望によっては呼び起こされません。
そして、もしあなたの中に愛がないなら―それは本当に不可知な何かです―あなたが何を行おうと、世界は混沌としているでしょう。あなたが既知なるものを余すことなく否定すると―あなたの知っていること、あなたの経験、あなたの知識、技術的知識ではなく、あなたの野心の知識、あなたの経験の知識、あなたの家族の知識―あなたが既知なるものを完全に否定すると、あなたがそれを拭い去ると、あなたがそれら全てを死んでやり過ごすと、あなたは分かります、精神の中に途方もない空虚が存在することを、途方もない空間が存在することを。そして、そのような空間のみが、愛の何であるのかを知ります。そして、そのような空間の中にのみ、創造と称される何かがあります―子供を作ることではありません、カンバスに絵を描くことではありません、その創造は余すことのないエネルギーであり、不可知の何かです。しかし、そこに至るには、あなたはあなたの知っているあらゆるものを死んでやり過ごさなければなりません。そして、その死んでやり過ごす中に、大いなる美があります、無尽蔵の生命力があります。