クリシュナムルティ 今宵、私は幾つかのこと話したいと思います、しかし、中心となるのは瞑想です。しかし、それを十分に理解して、その言葉の意味だけではなく、瞑想的な精神の働きの意味を検討するためには、ある程度の鋭い思考と明瞭な気づきを要します。それは非常に複雑な問題であり、私が言おうとしていることは、私が検討しようとしていることは、全く伝統的ではありません。そのように、もしあなたが私と共に瞑想とは何か、瞑想的精神とは何かの問題に踏み込んでいくなら、あなたは文字通り気を付けていなければなりません、それは途轍もない努力をして何かに精神を集中させるのでもなく、幾つかの言い回しを学ぶのでもなく、幾つかの観念を獲得するのでもありません、それはその言葉の広く大きな意味で、そこに座っているあなたについてだけではなく―それらの樹木や樹木に射す日の光や鳥たちの鳴き声や風の音と共に―あなた自身の精神の働きにも、それがどのように働くのかにも文字通り気を付けていなければならないことを意味します。そうするためには、明瞭に文字通り気を付けている必要があります、それは精神集中ではありませんし、それは努力とは無縁です。
しかし、鋭く熱気をもって真剣に瞑想とは何かを検討しようとする、探究しようとする、追究しようとする、検討しようとする精神にとっては、耳を傾ける霊妙な働きも欠くことはできません。私は思います、それはいかなる形の否定も受容もしないで、耳を傾けることを意味すると、そして、それは何かを明らかにするためには、何ものとも比較しないで耳を傾けることを意味すると。もしあなたが比較していると、もしあなたが単に一連の言葉や観念を聞いているだけなら、あなたは耳を傾けていません。耳を傾けていることは全く途方もない事実です。そして、我々は、自由な精神で、何かに魅せられて、笑顔で何かを明らかにしようと耳を傾けることが滅多にありません。
今宵、我々は、非常に深く探究できる精神を要する何かについて話そうとしています。我々は非常に近くから始めなければなりません、なぜなら、もし我々がどのように非常に近くから始めるのかを知らなければ、もし我々がどのように最初の一歩を踏み出すのかを知らなければ、我々は非常に遠くへはいけません。瞑想が開花するのは善いことです、そして、心の寛大なことは瞑想の始まりです。我々は多くのことを話してきました、生について、権威、野心、恐れ、貪欲、嫉妬、死、時間について話してきました。もしあなたが観察するなら、もしあなたがそれを検討したなら、もしあなたが正しく耳を傾けていたなら、それらはすべて瞑想が可能な精神にとっての基礎です。あなたは瞑想できません、もしあなたに野心があるなら―あなたは瞑想という観念を弄ぶかもしれません。もしあなたの精神が権威にまみれているなら、伝統に縛られているなら、何かを受容したり、何かに従属したりしているなら、あなたはこの途方もない美を、瞑想することの意味を、決して理解しないでしょう。そして、我々はそれらすべてを検討してきたので、私は善きことと寛大なことの問題を今宵は検討したいと思います。
どのような形のプライドも精神と心の寛大さを妨げます、なぜなら、プライドは自己中心的な行動だからです、何かを成し遂げたプライド、知識を所持しているプライド、何らかの目的を抱いているプライド、人種のプライドなどです。我々はみな非常にプライドが高いのです、意識的にも無意識的にも。プライドの高い精神は決して寛大ではありません、偉大な心の持ち主ではありえません、謙遜する心の持ち主ではありえません―我々は先日そのことを話しました―それが最初に学ぶことです、それが知恵です。寛大さは不毛の土壌からは開花しません。精神は決して寛大ではありえません、寛大さは心による行為の中にのみ生まれます。精神は寛大さの質を想像して、それを試みようとしますが、寛大さを育むことは寛大さではありません。
精神がその何らかの成就を時間の中で追い求めると、寛大さがなくなります。そして、あなたには寛大な精神が必要です―広い精神だけではなく、空間に満ちた精神だけではなく、心もまた、思考や動機とは無縁に、空間に満ちている精神です、そして、それは何の見返りも求めない精神です。しかし、人の持っているものを、その多寡にかかわらず、何の躊躇も抑制もせずに、自然に与えるそのような精神の質が必要です。寛大さのない、善きことを秘めていない瞑想はありえません―それはプライドから解放されています、それは社会的な成功を決して目指しません、それは決して名を成そうとはしません、それは成し遂げたことを何もかも一瞬一瞬死んでやり過ごします。そのような肥沃な土壌にこそ、善きことが育ちます、開花します。そして、瞑想は善きことの開花です。
どうか、このことに耳を傾けて下さい、善きことを成し遂げるためではなく―あなたはそれを成し遂げることはできません。あなたは善きことを実践できません、善きことは一夜にして開花します、それはあなたの願いとは無縁に、あなたの追究とは無縁に開花します、それはあなたが育むことではありません。それはあなたが耳を傾けるときにのみ開花します。それは一気に満開になります。善きことは、これまでのことの繰り返しでは決してありません、あなたは善き何かではありえません、もしあなたが過去を思い出すなら、それが心地よいことであろうと苦痛であろうと、それが侮辱であろうとへつらいであろうと。そのような土壌には、それは決して育たないでしょう。それは時間の土地には育たないでしょう、しかし、それはあなたの知らないうちに育ちます。このような善きことはプライドを持っているときにはありえません、そして、この善きことは決して収集蓄積される何かではありません、従って、それは許す何かでも決してありません―それは何かを許すこととは無縁です、あなたが何かを収集蓄積しているときのみ何かを許すことになります。しかし、絶えず活動している、働いている精神は決して一か所に留まりません、決してその記憶を呼び戻したりしません、その知識に立ち返りはしません、それが経験してきたあらゆるものを蒸し返したりしません―そのような精神の中にのみ善きことが開花して寛大さが生まれます。
あなたは瞑想とは何かを明らかにする必要があります。瞑想とは何かを知ることは、この上なく途方もないことです―瞑想の方法ではありません、そのシステムではありません、その実践方法ではありません、瞑想の内容のことです。瞑想の中にいることやそのような瞑想を検討するためには、非常に寛大な精神を必要とします、そのような精神には境界線がありません、その精神は時間的プロセスに囚われていません。それはどのようなものにも献身的になることはない精神です―どのような活動にも、どのような思考にも、どのような教条にも、どのような家族にも、どのような名前にも―そのような精神のみが寛大でありえます、そして、そのような精神のみが、瞑想の深さや美やその途方もない愛らしさを理解し始めます。
今宵、私はこのことを検討したいと思います、言葉でだけではなく―それはあなたと私のコミュニケーションの手段にしかすぎません―言葉を超えても検討したいと思います。そして瞑想の非言語的追究を理解するためには、精神が言葉から解放されていなければなりません。言葉はシンボルです、そして、言葉は決して真理ではありません。そのように言葉に縛られている人は言葉を超えている、シンボルを超えている、何らかのビジョンを超えている瞑想のそのような形を決して追究できません。しかし、そのことを検討するために、我々は非常に近くから始めて一歩一歩進めていきます。瞑想は生の一部です、あなたの会社へ行くことがそうであるように、あなたの食事がそうであるように、あなたの話すことや行うことがあなたの生の一部であるように。瞑想は生の一部であるので、歯を磨くことやお風呂に入ることや会社へ行くことと同じように怠ることはできません。しかし、ほとんどの我々はこの側面を怠ります、なぜなら、それは、それらよりずっと骨が折れて、より多くのエネルギーを要するからです、そして、それは、それらよりもずっと何らかの執拗さを要するからです。
瞑想は自己知の始まりです。自己を知ることが瞑想であり、その他には何もありません。あなたの考えていることを知ることです、あなたが感じていること、あなたの動機が何であるのかを知ることです、それらに、いかなる選択もせずに、気づくことです、何らかの意見や判断を差し挟まずに、それらの事実に向き合うことです―それが瞑想の正に始まりです。もしあなたがそれらのことをあなたの生の中で行っていないで伝統的な瞑想を追い求めてきているなら、静かな場所に座って何かに気を集中させようとしてきているなら、あなたは一万年もそのように何らかの言葉やマントラを繰り返し唱えることになります、そして、そのようにあなたは自己に催眠術にかけて精神を鎮めることになります。しかし、そのように精神を鎮めても、それはそれが朽ち果てて死んでいくだけです。
どうかこのことに耳を傾けて下さい。我々は何かを非難しているのではありません、ですから、あなたは何も抵抗する必要はありません。しかし、あなたはそのことを観察しなければなりません。瞑想の始まりは自己を探究することです、自己に批判的に気づくことです―現にあるあなたをただ知るだけです―そのような非常にシンプルなことから、計り知れないことが起こります、それは言葉を超えた、時間を超えた、思考を超えた何かです。しかし、あなたはそのような非常にシンプルなことから第一歩を踏み出さなければなりません。
ほとんどの我々は、現にある我々を知りたくありません。我々は高位の自己を、至高の自己を、アートマンを発明します、あらゆる数え切れない観念を現にある我々のリアリティーから逃れるために発明します、現にある我々の実際の毎日毎分のリアリティーから逃れるためにそうします。そして、我々は毎日の現にある我々を知りません、そして、我々はその代りに思考がアートマンとして育んできた何かをそれに課します、それは伝統が高位の自己として受け継いできたものです。それら全てを我々は自己に課して、神が発明したそれらに到達しようと試みます、ところが、たとえあなたがそれらに到達するとしても、それらは空であり、それらは灰にすぎなくて、それらには全く意味がありません。
そのように、瞑想するためには、あなたはあらゆるものを余すことなく完全に破壊しなければなりません、精神に課されているあらゆるものを否定しなければなりません。あなたはナショナリティを否定しなければなりません、あなたはバガバッドギータやバイブルやコーランを否定しなければなりません―あらゆるものです。そして、それは行うのが非常に難しいことです、なぜなら、我々はそれらを安全性の手段として頼りにしているからです、問題が生じたとき、苦痛や悲しみが生じたとき頼りにしているからです。それらは単なる逃亡にしかすぎません―あなたのクリシュナ、あなたの救世主などそれらの人たちです。重要なのは、この上なく意義のあることはあなたの日常です、あなたの毎日の存在です―あなたの考えること、あなたの感じることです。そして、あなたはあなたの考えることや感じることを理解できません、もしあなたが過去の知識や書物の内容によって邪魔されて押しつぶされているなら。
そのように、瞑想の始めは自己を知ることです―こうあるべきであるとあなたが考えるあなたではありません、シャンカラが考えるあるべきあなたではありません―現にある通りのあなたです、鏡に映ったあなたを見るように。そのように、もしあなたが自己知を追究するなら、あなたは現にあるあなたを探究し始めます、あなたの日常の活動です、あなたの従者に対するあなたの話し方であり、あなたの妻や夫に対するあなたの態度であり、あなたの偉い人たちに対するあなたの取り入る様子であり、絶えず何かになろうとするあなたの願望です。あなたの意識的そして無意識的全領域を知ることなしに、あなたが何を行おうと、あなたは決して瞑想が何であるのか分からないでしょう。
そのように、瞑想の始まりは、あらゆる形の権威の否定です、なぜなら、あなたが自分自身の光でなければならないからです。そして、自分が自分自身の光である人は、いかなる場合でも、終始権威を抱きません。しかし、自分自身が光であることは、多くのことを意味します。あなたは初めから終わりまで自分自身の光でなければなりません。自分自身の光であることは、何ものも恐れないことを意味します―我々はそのことを検討してきました。自分自身の光であることは、いかなる執着とも無縁であることを意味します、あなたの妻や夫に対しても、あなたの知識に対しても、あなたの経験に対しても、なぜなら、それらが影を落とすと、あなたは自分自身の光であることが叶わなくなるからです。しかし、それ以上に自分自身の光であるために、あなたは経験を探究しなければなりません。
経験は時間の本質です、経験は時間を知識として築き上げます、経験は精神を条件づけます。もしあなたがヒンズー教徒あるいはキリスト教徒あるいは仏教徒であるなら、あなたはある特定の文化の中で育てられています、宗教的なそれの中で、教育的なそれの中で、家族的なそれの中で、そのような特定の文化の中であなたは育てられています、あなたの精神はそのような文化によって、そのような伝統に従って鋳型を作られ形作られます。あなたはクリシュナあるいはキリストあるいは他の何やらを信じます、それがあなたの条件づけです、そして、そのような条件づけに従って、あなたは経験します。そのような条件づけによって経験する精神は、恐らく、瞑想の計り知れない意義を知りえないでしょう。
我々は瞑想を探究しています。私はあなたが耳を傾けていることを願います―単に言葉の意味に従うのではなく、説明されていることを実際に生きることです―そうするとあなたがここを去るとき、あなたは瞑想の計り知れなさ、その美、その歓喜を知るでしょう、それは何らかの状態やビジョンを成就しようと骨を折ったり苦闘したりすることではありません。なぜなら、あなたが欲する、渇望する、願うビジョンは、あなたの条件づけの結果だからです。あなたがクリシュナあるいはラーマあるいは他の誰かを思い描くとき、それはそこにそのように描出されたあなたの条件づけです。あなたの依って立つ背景が何世紀もの時間を経て築き上げられています―恐れや苦悶や悲しみを通じて―そのようにして生まれたいかなるビジョンも全く空虚であり、それには何の意味もありません、そして、それに囚われた精神は決して瞑想の自由を知りえません。
そのように、あなたは“経験”という言葉の意味を理解する必要があります。我々はみなもっと経験したいと思います、さらにさらにそうしたいと思います―もっと富が欲しい、もっと財産が欲しい、もっと愛が欲しい、もっと成功したい、もっと名をあげたい、もっと美しくなりたい―そして我々は知識としてもっと経験したいとも思います。どうかこのことを理解して下さい。経験している精神は経験に依存しています、経験は、結局、何らかの課題に対する反応です。私はあなたがこのことを理解することを願います―これは何ら複雑なことではありません。もっと何かを渇望する精神は、もっと経験したがる精神は、もっと知識やスリルや歓喜を手にしたがる精神は、依存的な精神です。そして、依存的な精神、何かに寄り掛かる精神―それはそれが眠っていることを示しているだけです。従って、そのような精神が相対するあらゆる課題は、一時的に目覚めて再び眠ってしまう経験です。そのようなあらゆる課題とその反応は、眠っている精神を指し示しています。
我々の生には数知れない課題が持ち上がります、そして、それらがいつも何らかの影響を我々の精神と心に及ぼします、我々がそれらを意識しようと意識しまいと。カラスの鳴き声がすでにあなたの無意識の中に入り込んでいます、それはそこで鳴いています、そのサリーの色彩が、あなたがそれを見ようと見まいと、すでに何らかの印象を作り出しています、夕日や夕空の中の雲も同様です。そのように意識的あるいは無意識的精神は、それらの印象で満ちています、そして、それらの印象から、あらゆる経験が生じます。それらは心理的事実です、あなたは議論する必要はありません、同意するもしないもありません。そして、経験に依存する精神は、進歩の手段として、成長の手段として、成熟の手段として、発展の手段として経験に依存する精神は、そのように時間に依存する精神は、経験に依存する精神は、明らかに時間や経験を超えた何かに決して入っていけません。従って、あなたは経験の意義を非常に深く理解する必要があるでしょう。
経験は精神を鈍くします。それは精神を明晰にしません、なぜなら、そのような経験は何らかの課題に対する精神の反応の結果だからです、そして、そのような精神の反応は、あなたがすでに知っているものを背景にしているからです。そのように、あらゆる経験は、あなたが知っていることをただ強めるだけです、従って、あなたが知っていることからあなたは自由になれません。
瞑想は既知から自由になる正に始まりです。あなたは瞑想しなければなりません、誰かがそのように言うからではありません、誰かが瞑想について語ってあなたを魅了するからではありません、あなたは瞑想しなければなりません、なぜなら、そうすることがこの上なく自然なことだからです。瞑想は驚くべき感受性をあなたにもたらします、それは非常に力強くていて脆い感受性です、それは矛盾した言い方かもしれませんが、そうではありません。時間や経験、知識、争い、あるいは、何らかの主張や攻撃性、野心などで作り上げられた精神―そのような精神は力強い精神ではありません、それは抵抗するだけの能力しかありません。私は全く異なる種類の力強さのことを話しています、それは脆い力強さであり、抵抗とは無縁です、従って、それは経験を超えた精神です。
あなた方は、あなた方みなが願う経験の意味や深さや質を理解しなければなりません。ラーマやクリシュナやキリストやあれやこれを思い描くこと―それをあなたは瞑想と称します。それは瞑想ではありません、それは過去の何かから思い描いたものにすぎません、それはあなたがそれによって育てられてきたその当のものの表出です。キリスト教徒はキリストを思い描いて、その中に栄光を見ます。しかし、キリストを救世主か何かとして崇拝するようには全く育てられていない人は、クリシュナを信じるように育てられてきた人と同様に、決してキリストを思い描かないでしょう。あなたは決して他の神々を思い描かないでしょう、あなたはあなた自身の神々を思い描くでしょう、そして、あなたがあなた自身の神々に囚われているとき、あなたはあなた自身の幻想に囚われています。何らかの経験に囚われている精神は、それが何を行おうと、その深さには、瞑想の一部である空間の空虚の完全な静寂には決して入っていけません。
そのように、経験の全プロセスを理解することによって、あなたは既知を完全に否定することができるでしょう。あなたの精神を非常に敏感にする様々なドラッグがあります。ヨーロッパやアメリカの人々が今それらを手にしています、恐らく、それらはこの国にも蔓延するでしょう。それらによって、あなたは色彩や形や光をより強く鮮明に受け止めることになります、そして、あなたはそれらによって途方もない経験をすることになります。しかし、あなたがそれらによって見るもの―何らかのビジョンや経験、何らかの感覚、明瞭さ、樹木の幹の美しさ、あるいは机の脚のそれ―それらは依然として既知の領域の中です。それらのドラッグは精神を既知から決して解放しないでしょう、従って、不可知の何かが出現することは全くありえません。
そうすると、あなたは自分自身で見て取るようになります、もしあなたが耳を傾けているなら、あらゆる形の反復する思考や何らかの実践、何らかの規律、あらゆる形の経験などは更なる経験を要求し促すだけであると、そして、あなたは決して一つの経験だけでは満足しないで、あなたはもっと、更にもっと欲しがると。そのように、あなたはメソッドというものはないことが分かり始めます。メソッドは何かを何度も何度も繰り返し行う実践であり、そのような伝統的な何かであり、それは何らかの思考や行為に従うことです―それは精神を鈍くするだけです。従って、いかなるメソッドも方法もありません。
どうかこのことを理解して下さい。叡智を手に入れる方法はありません。あなたは、あらゆる形の経験が、それを理解することによって、否定されることを見て取り始めます、なぜなら、あなたは、あらゆる経験が精神を鈍くするのを理解するからです、あらゆる経験が既知の解釈であり、過去の解釈であることを理解するからです。時間に囚われた精神は決して時間を超えることはできません。そのように、あなたが権威を否定するとき、あなたが既知としての規律を、何らかのメソッドとして実践される規律を否定するとき、あなたは経験を理解すると共に、それを完全に脇へ追いやります。
ほとんどの我々は、精神集中するように育てられています。子供のときから、あなたは言われています、本に集中しなさいと、あなたが窓の外を見たいと思うとき、梢の上の小鳥や樹木の葉を見たいと思うとき、通り過ぎる牛車を見たいと思うとき、あなたの先生は言います、集中しなさい、勉強に集中しなさいと。あなたは、それがあなたにとって何を意味するか分かりますか? そのことによって、あなたの中に新しい葛藤や矛盾が起こります。おもちゃに夢中な少年はそれに集中しています。あなたは気づいたことがあるに違いありません、あなたの子供たちがおもちゃを手にしているとき、子供たちは完全にそのおもちゃに夢中になっていて、そのおもちゃが子供たちを取り込んでいると、そして、あなたはそれを集中していると称します。あなたが何らかの観念に精神集中しようとすると、あなたの精神はあちこちに気が散ります、そうすると、あなたは一つのことに気を集中させようとします、そうすると、再びあなたの精神は他の何かに気を散らします、あなたはそれを引き戻しますが、それは再び他の何かに気を取られます、そのように、あなたは葛藤します。あなたはそれを瞑想と称します―それはあまりにも未熟であり、あまりにも幼稚です。
しかし、あなたはあらゆる思考に文字通り気を付けている必要があります、あらゆる思考が生じるたびに、それを理解する必要があります、そして、あなたはこう言わないことです、集中していない思考が気を散らしていると。もしあなたがそう言わないで、あらゆる思考を検討して、その行き着く先まで見届けるなら、気が散ることは生じません。なぜなら、そうすると、それは精神集中ではなくて、あなたはあらゆる思考の働きを、あらゆる精神の働きを理解しているからです。あなたがあらゆる精神の働きに文字通り気を付けているとき、そのようなときに気の散ることは起こりません。あなたがあのカラスに耳を傾けているとき、気の散ることは生じません。あなたが車の騒音に耳を傾けているとき、気の散ることは生じません。しかし、気の散ることが生じるのは、あなたがこう言うときです、私は一つのことに精神集中したい、そして他のことは否定したいと、そうすると、他のことがみな気を散らす要因になります。
そのように、精神集中することを覚えてきた精神は狭くて鈍い精神になっています。私は精神集中を否定しているのではありません、私はそれを検討しようと思います。しかし、あなたが精神集中のあらゆる意義を理解すると―それは何らかの抵抗であり、切り捨てであり、あなたの精神を一つのことに集中することです―あなたは分かります、そのような精神の集中は精神を狭くし鈍らせると。そのような精神集中は何らかの抵抗であり、従って、それは何らかの葛藤を生みます、そして、葛藤する精神は瞑想の中にある深さや喜悦を決して追究できません。
あなたが精神集中のあらゆる意義を理解すると、あなたは文字通り気を付けていて気づくようになります。文字通り気を付けていることは、何かに精神を集中することではなく、それは包括的な働きです―あなたは鳥の声に耳を傾けます、あなたはあの車の騒音に耳を傾けます、あなたは話し手に耳を傾けます、あなたは風に揺らぐ木の葉を見ます、あなたは夕日を見ます、あなたは建物の中の明かりを見ます。そのような気づきには境界がありません、それは包括的です、それはあらゆるものを含みます。そして、そのように文字通り気を付けている精神、完全にあらゆるものを取り込んでいる精神は、精神集中することができます、そして、そのような精神集中は、何らかの抵抗ではありません、そのような精神集中には葛藤がありません。実際に今何が起こっているか見て下さい、もしあなたが正に観察しているなら。話し手は話しています、何かを表現しています、そして、同時に鳥の鳴き声に耳を傾けています、車の騒音に耳を傾けています、その明かりに耳を傾けています、木の葉の静けさを見ています、星を見ています、あらゆるものを取り込んでいます、従って、何も否定していません。
そのように精神集中や経験を検討してきて、それらを理解している精神は、気づいています、それは何らかのメソッドやシステムや実践とは無縁であることを。そのような精神が文字通り気を付けている精神です。そうして、そのような精神は、静寂が何であるのかを理解します。頭脳は、実際の頭脳は絶えず活動しています。頭脳は時間の結果です、頭脳は動物的な本能、動物的な欲求、動物的な衝動の結果です。頭脳の全プロセスを理解することは正に自己の理解です、なぜなら、野心や貪欲や嫉妬の衝動は正に頭脳によるものだからです。頭脳には何かを連想する働きがあります、それは電子頭脳と同じ原理です。
そのように、人は頭脳の全プロセスを理解する必要があります、それは社会によって築き上げられます、それは社会の結果です。様々な本能や追求、恐れ、野心、貪欲、嫉妬―それら全てが頭脳の中で生じます。頭脳は完全に途方もなく鎮まります、力づくでもなく、強制されるのでもなく、規律によってでもなく、野心や貪欲、嫉妬、成功願望、恐れ―世論を恐れることや社会の高慢な不道徳を含みます―などを理解して、それらから解放されることによって、それら全てを完全に脇へ除けることによって鎮まります。そして、あなたはそのような静寂の中にいなければなりません、そうでないとあなたは歩を進めることができません。平和を追い求める精神は、ほとんどの人々がそうであるように、闇を追い求めているだけです。しかし、あなたが社会の心理的構造―それが頭脳に社会的全記憶、社会的連想、社会的結果を吹き込みます―の全プロセスを理解し始めると、あなたがそれを理解し始めると、そこから頭脳の中に静寂が生じます。もしあなたがそれを理解していないと、もし頭脳が完全に鎮まっていないと―ドラッグや催眠によってではなく―精神の中に空間が生まれません。
精神の中に空間がなければなりません。空間は完全な静寂なしにありえません。空間は想像されるものではありません、ロマンティックなものではありません、何かを成就するという馬鹿げた観念によって生まれるのではありません、それは頭脳が理解して完全に鎮まったとき生まれます、そうすると精神の中に空間が生まれます。
精神の中に空間がなければなりません、そして、そのような空間こそが無垢な空間です。いかなる社会も思考も感情も経験も不可知であるその空間に入っていけません。そのような空間はロケットが我々の頭上の空間に発見するような空間ではありません。そのような空間は発見できません、あなたはそれを追い求めることはできません、そこへ至るいかなる方法もありません、しかし、あなたがあなたの心理的全構造を、意識的であれ無意識的であれ、理解したとき、そのような空間が生まれるでしょう。あなたはそれを瞬時に即座に、分析や探究のとりとめのない長話をせずに、理解できます、あなたは即座にそれに向き合います、そのようにあなたが向き合うと、そこにそのような空間があります。そのような空間は完全に空虚な空間であり、いかなる思考も感情もそこへ入れません。思考や感情は既知の反応であり、頭脳は“私”としての社会的な影響を通して連想します、従って、既知から解放されることによって頭脳が鎮まります。
宜しいでしょうか、私がそのような空間について話していることはあなたにとって何の価値もないのです、それはあなたにとって何らかの理論になります。それが繰り返すことのできる何かでない限り、それはあなたにとって何の価値もないのです、ところが、あなたの繰り返す何かには何の意味もないでしょう。しかし、私はあなたがそのようなことが起こることを見て取れるように、そのことについて話しています―気楽に耳を傾けて見て取って下さい。あなたがそれを手に入れて保持するのではありません、あなたはそれを保持できません、手の中に風を保持できないように。しかし、あなたは美の微妙な何かを知らなければなりません。そのような空間を見て取るためには、途方もない感受性を必要とします。宜しいでしょうか、そのような空間の中には何もありません、空虚な精神がそうであるように、そのような精神の中にはいかなる思考も感情も存在しません。そして、そのような空間は空虚であるので何らかのエネルギーが存在します―何らかの抵抗によって生み出されるエネルギーではありません。それが空虚であるので、それが何らかの空間であるので、そこには創造的なエネルギーが存在します。
そのような創造は破壊でもあります。作り出されるあらゆるものが既知の何かです。そして、そのような創造は無垢なので、それは既知のあらゆるものを破壊します、既知はそこへ入れません。そして、それは創造でもあり破壊でもあるので愛が生まれます―記憶から生まれる愛ではありません、あなたの夫や妻に対する愛ではありません、あなたの子供たちに対する愛ではありません、それらはすべて様々な願望や追求あるいは何らかの野心や成就の単なる反応にしかすぎません。この愛の中には分断がありません、それが愛です。そして、そのような精神が愛するのは“多と一”であり、その中には分断がありません。
そのように、瞑想は善きことの開花の始まりです。そのような善きことが深く開花すると、自己や自己憐憫や記憶としての精神の中に根を下ろさずに開花すると、その蕾から時間とは無縁の計り知れない何かが開花します、それには始まりも終わりもありません。そして、それが不朽の何かであり、計り知れない何かです。