献身までのあかし
小池良雄
教会で初めて神の存在を知り、私のような者をも愛し、十字架にかかって下さったイエス・キリストを知り、私の渇いた心は喜びで満たされました。半年ほど求道した後に、立教大学で英語を教える傍ら伝道活動をしておられたカナダ人の伝道者ヴェルノン・ストービー先生の手によって受洗しました。
受洗後もそれまでと同じ会社で社会人生活を送っていました。しかし、その会社では聖日礼拝をほとんど守ることができなかったため、その会社を辞め、クリスチャンAVセンターやクリスチャン新聞で短期間ではありましたが、アルバイトをさせて頂きました。主が与えられる次のステップを待っている間、教会では礼拝の司会や日曜学校で奉仕させていただいていました。
私が当時、教会生活を守っていた石神井クリスチャン・フェローシップには牧師がいませんでした。私は教会の兄弟姉妹たちとともに牧師が与えられるように長い間祈っていました。しかし、単立ということや、10数人の教会員しかいなくて、牧師を経済的に支えて行くことができないとこともあって、なかなか牧師として来て下さる方がいませんでした。兄弟姉妹たちは、教会の中から献身者が起こされるように祈っていました。その時、私は人を通してですが、次のような主のことばを何回か聞きました。「誰をこの教会の働き人として遣わそうか。誰が私のために行くだろうか」という声でした。
私は「クリスチャンとしての信仰歴も浅いし、私の全生涯を主のため献げるのはまだ早い」と思っていました。しかし、神学校に行き、聖書をもっと深く学びたいという思いと、ストービー先生の片腕として教会の奉仕をしたいという思いが強くありました。その頃、ヨハネの福音書15章5節のみことばが私に強く迫ってきました。「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ということばでした。
そして、神学校に行きたいという思いをストビー先生やストビー先生の友人の石川弘司先生(当時、日本同盟基督教団 赤羽キリスト教会)に話しました。お二人とも「まだ信仰歴が浅いので、もう少し待ってからにしてはどうか」というアドバイスをして下さいました。しかし、ストービー先生が大阪のメノナイト・ブレザレン宣教団の宣教師と相談したところ、「ぜひ、うちの神学校に来て学んでほしい」との返事があり、主は道を開いて下さいました。
教会生活1年あまりで献身したものですから、私は神学校では他の学生の2倍勉強しなければついて行くことはできませんでした。奉仕神学生として教会で奉仕してゆく中で、自分の弱さや足りなさについてもいやというほど気付かされました。しかし、私にとっては良い訓練の時でした。卒業後は、母教会のストービー先生を助けて、教会で奉仕したいという思いで東京に帰って来ました。
このようにして私の伝道者としての歩みが始まりました。