中日新聞 夕刊 2016年1月16日
文化芸能欄
なぜ美術教育が必要なのか
「生きる意味を問うために」

 先日、高校時代の恩師と話す機会があった。新任だった美術の先生で、半世紀にわたり、お付き合いしていただいている。

 当時母校(岐阜県恵那高)には、天衣無縫の画家として知られた「中川とも」(1890〜1982年)が美術教師をしていたが、その後任として赴任されたばかりであった。
 先生は高校入学とともに「中川とも」の授業を受け、その強烈な人間性に惹かれて美術教師の道を進まれたのだ。図画工作から一歩進んだ所にある美術から芸術を予感し、「中川とも」を通して人生の不条理を肌で感じたと話された。それは、若き日の先生にとって生きることの意味や、生きている自分の正体を知ることでもあったのだろうか。

 「中川とも」の授業は、人間の本質を見ることであり、自分の心の中を覗くことであったとのこと。生徒が「今日は天気がいいから写生にしよう」と言う。「そうやなあ、天気がいい日は写生がええなあ」と写生に出かける。「今日は気分が乗らんで描けんかった」と言えば「そうやなあ、そんな日もあるわなあ」。そんな会話の裏でたばこを吸って遊んでいた者もいた。今も「若い男性教師は、写生の時間は隠れて生徒を監視していた」とのエピソードが語られる。

 当時としては珍しい女性の高校教師が、和服で教壇に立ち、恵那文楽を語り、浄瑠璃をうなる。人を疑うことを知らず、ありのままの言葉をそのまま受け入れる天衣無縫の存在は、社会で生きるための人並みの価値観、すなわち常識というものを一瞬忘れさせて、生徒に自由な精神を目覚めさせた。「とも先生にはうそはつけん」「とも先生をだましたらあかん」と。

 私の先生は「とも先生」の授業を懐かしく思い出しながら「今の普通科高校の美術の授業が、デッサンと平面色彩構成という美大受験を意識しているのはどうなんだろうねえ」と自問するようにため息をつかれた。
 私も、最も感受性の強い時期に、受験のための対策が先行するのはもったいないと思う。しかし現実はある。「芸術は救いでなくてはならない」との「中川とも」の言葉には少し「違和感がある」と、私は本音を打ち明けた。受験の現実も理解しながら、それでも、「芸術は救いを超えて、自分の理想も織り込みたい」と作家としての思いもあるからだ。

 小学校や中学校の美術教育は図画工作だ。図画工作は一生懸命に取り組むことで、美しい色や形に気づく。丁寧につくることで美しくなる。人は綺麗なものに感動する。一方で、人は醜いものにも心動かされる。ザワザワする絵画にも、悲しい物語にも、理不尽な運命にも、人は 感動する。また、内なる自己を確認することで、生きている実感を持つこともある。芸術は人間が人間として生きる上でなくてはならない切実なものである。図画工作はその入り口となる。そしてさらに高校の美術の授業が、美しいものに触れて心を豊かにしていく図画工作から芸術の世界に導き、いつか感動するものに美を見いだす感性を養う。
 生きることにおいて大切な精神活動は、一貫した美術教育を通して養われていく。それは、自分の心の所在を自覚することであり、自分の生きる柱になる倫理観を自分で確認するため、生きる意味を自らに問うことでもある。

 人は不条理を抱えて生きている。理屈では解決できない「命の哀しみ」を抱えて生きている。だからこそ芸術がある。小学校や中学校の図画工作はその入り口となる大切な授業となる。そこを始まりとして、いずれ「ザワザワと魂を揺さぶる」芸術の世界に触れ自分の人生を豊かに生きてほしいと思うのです。