多喜二の時代には地獄の労働現場があり、糞壷の労働者の生活がありました。今、秋葉事件のK青年の“仲間たち”は、地獄や糞壷にある種の憧れをさえ抱いていると思います。労働現場でのむき出しの暴力は陰湿なパワハラに、糞壷の集団生活はネットカフェや寮の個室に置き換わり、人間的交わりの喪失は底なしに進みました。ネットカフェの個室から見た糞壷の“不衛生と人いきれ”でさえ、カフェの住人たちにとってはある種の人間的ぬくもりを呼び起こすものであり、自らの孤独の深さを絶望的に感じさせるものであろうことは、容易に想像できます。 私たちは現在、多喜二の描いた世界をノスタルジックに追憶しなければならないほど、それほど非人間的で過酷な労働の中におかれているのではないでしょうか。K君の絶望と自暴自棄は「蟹工船」労働者の自然発生的闘いの紆余曲折の果てに生み出されたものだと言わなければなりません。だから、今日の反貧困の闘いは、ワーキングプアの救済運動でもなければ、「蟹工船」の“みずみずしい闘い”の単なる復活でもありません。そうではなくて、「蟹工船」労働者の闘いのその後の紆余曲折を、はっきりのりこえていく闘いでなければならないのだと思います。
なんと恥知らずなことでしょうか。すでに実質上死んでいる機関が戦後日本の平和主義の原則に死の宣告をするとは。しかし、これはけっしてブラック・ジョークではありません。なぜなら、民主党内の前原らタカ派グループは自民党以上にこの「懇談会報告」と気持ちを一つにしているからです。総選挙の結果いかんにかかわらず、日本自衛隊が米軍とともに軍事的国際貢献に踏み出していく危険性はいっそう高まっています。“国連の枠組み下で…”という言葉に惑わされること無く、こうした動きに私たちはきっぱり反対していかなければならないと思います。
もちろん核兵器は直ちに廃絶されるべきです。しかしオバマ大統領の核廃絶はMD配備・アフガン戦争の強化と表裏一体のものではないではないでしょうか。そして、6年にわたって原爆症患者の訴えをはねつけ原告の実に2割の人を死に追いやりながら、選挙目当てにしぶしぶ「原告の全員救済」に踏みきったことを自分の成果として押し出す麻生首相の姿は、憐れであり、なんと卑しく哀しいものでしょうか。
2009年8月8日
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