新年あけましておめでとうございます。今年からまた、新しいことを書かせていただきたいと思います。テーマは「ハンセン病の歴史」です。以前の記事では、原子力発電の持つ危険性を書いていきました。私達の生命や未来を脅かす原発の姿は、執政者とそれに連なる大企業など、いわゆる権力者側の都合の元で作り出されたものであったといえるでしょう。
 今回から取り上げるハンセン病の歴史も同じような構造の中で起きていることと私は思います。96年のらい予防法撤廃以降、皆さんもハンセン病元患者の人々が送ってこられた差別・隔離の歴史は様々なメディアを通して知った人も多くおられると思います。また、ハンセン病の事実調査検証委員会も立ち上げられ、昨年で十年に及ぶ調査検証の最終報告を提出し、ひとまずの区切りはついたかと思います。しかし、すでに十年が経ち96年の時のような注目されるほどの報道もなく終わってしまいました。しかし、一世紀にも及ぶハンセン病の歴史を再び詳しく知ることは、そうした構造の連鎖を断ち切り、同じ過ちを繰り返さないことに繋がると思い皆さんにお伝えしていきたいと思います。

「ハンセン病について」
 まず、皆さんに知っていただきたいのは、ハンセン病はいかなる病気かということです。

この病気の特徴は
1.ウイルスによる感染症である。
2.感染力は弱く、菌保有者と密に接しないと感染しない。
3.感染した場合も栄養状況、衛生状態がよければ発病しない。また感染した場合もプロミン、プロミゾールていう特効薬があり、菌を死滅させることができる。
4.症状として、悪化していくと菌が末梢神経を破壊し、指先や皮膚などの壊死、失明を引き起こし後遺症を残してしまう。

ざっとですが、ハンセン病の主な特徴です。これを見ていただければすぐに、ハンセン病は現在の社会状況の中で恐れるような病気ではないことが分かります。80年代以降、日本人の栄養状態の向上により新しい患者は出ていません。また、発見されてもすぐに薬の投与によって菌を死滅させることができるので、後遺症に至るまで病状を悪化させることはまずありません。また薬の投与は通院治療で十分可能です。現在、国立ハンセン病療養所に入所している方々も薬の投与によって完治した「元患者」となったのです。
 これが現在におけるハンセン病の認識はこれが常識といえるでしょう。また、どういう経路で移っていたのでしょうか。ハンセン病研究者の解説を読むと、まだ菌に対して抵抗力の弱く、他者との接触の多い乳幼児期に感染することが多いと書かれています。このような内容が、現在におけるハンセン病の認識として常識といえるでしょう。
 しかし、こうした事実が理解される以前のハンセン病を取り巻く環境は非常に劣悪なものでした。遺伝病であるとか、前世の業による業病だということがまことしやかに言われており、患者の人達は家族を周囲の人達からの迫害から避けるため首をつって死ぬか、浮浪者として家族から完全に縁を切って生きるしかないという状況でした。まだハンセン病の実体は全く理解されておらず、患者や家族は差別を受けていたのです。社会から切り離される、むしろ自ら社会から離れていかなければ家族を巻き込んでしまうという状況で、日本の各地にそうした人々が集まって生活をするような集落が見られたと言いま        す。
      

「らい菌の発見と隔離のはじまり」         

 先に書いたような状況が起きている中、1897年(明治30)ベルリンで第一回国際らい学会が開かれ、ここで研究者ハンセン氏の研究の結果、ハンセン病は菌性の感染症、悪化した患者は隔離が必要であるが感染力は弱いという報告が提出されました。
 特効薬の開発は戦後までかかるのですが、明治30年の時点で現在の認識と同じことが多く分かっていたということです。当時は菌を死滅させる薬がないので、菌の保有率の高い悪化した患者は隔離するという方法を提示してはいるものの、完全隔離は必要ではないことはこの時点でも分かっていた事だと思われます。
こうした報告を受けて、日本政府では1907年(明治40)法律第十一号「ライ予防ニ関スル件」を制定し、本格的なハンセン病対策へと乗り出していくのです。
 では、今回の記事はここで終わらしていただいて、次回は法律第十一号「ライ予防に関スル件」の制定における、背景や政府の思惑を書いていきたいと思います。おつきあいよろしくお願いいたします。