村田蔵六(大村益二郎) 

少しづつ暖かくなってきました。季節の変わり目に思い出す人と言えば、もちろん村田蔵六先生(後の大村益二郎)です。

 夏の暑い日に会って、「暑いですね」と挨拶すると「夏は暑いのが当たり前です」と答える。冬は冬で「冬は寒いのが…」となる。一般的な社交辞令はこの人物には通用しなかったそうです。僕もあまり気候の挨拶などは苦手で「暑いですね。」と言われても何と返したらいいのかわからなくなることがよくあります。もっと困るのは、溜め息混じりで「何かいいことないかなぁ。」と言われること。「キレイと感じるココロが一番キレイなのさ」と歌ったのは早川義夫ですが、まさにその通りで、幸せだと感じるココロがなければ幸せにはなれんもんです。普通に食べる物にも困らず暮らして行ける。それだけで幸せなんだと僕は思うんですが…。
 さて、理屈に適わないことは無駄なことだから一切やらない、幕末に突如現れたこの超合理主義者は現実を見据えた天才的な作戦能力で、第二次長州征伐、鳥羽伏見の戦い等で大活躍しました。敵の数や武器、地形などの情報から、必要な人員や武器などを割り出し戦闘に要する時間まで正確に言い当てたそうです。西洋の兵学書などの翻訳を早くから行い、ただ訳すだけでなく当時の日本に見合った独自の兵学論を持っていました。それは武士中心だった当時の兵法ではなく、銃や大砲などを勉強したものなら誰でも採用し、身分に関係なく能力に見合った部署で仕事をさせる。武士社会ではこの発想自体が奇跡的で、彼の軍事論はそういう意味でも革命論でした。
 高杉晋作による奇兵隊も彼の影響によるもので、足軽や農民を教育し成功を治めました。
 自藩では身分が低くその能力を存分に発揮出来ずにいた人物は幕末に限らずたくさんいたと思いますが、幕末という時代は身分に関係なく能力のある人物を求めていました。蔵六の生涯はまさにその象徴だったのです。
人付き合いの悪さや寡黙さ、現実的過ぎるがゆえの冷淡な態度などから、門人や知人以外にはあまり理解されず、維新後の明治2年に暗殺団の凶刃に傷付き、その傷がもとで亡くなります。享年46歳。